131 春日若宮の誕生

春日若宮おん祭の祭神である若宮が現在地に鎮座されたのは保延元年(1135)とされ、おん祭はその翌年に始まっている。おん祭の創始の経緯は前回の「奈良歴史漫歩130」で書いた。新任の国司を無力化する戦いに勝利した興福寺が、勝利を祈願した若宮に感謝して…

号外 奈良の語り部講座 2月20日(日)

演題「棚田嘉十郎は、なぜ宮跡保存の功労者になれたのか」~史料から読み解く明治・大正の平城宮跡保存運動の深層~講師:「奈良歴史漫歩」の筆者社会的地位や財産もない植木職人の棚田嘉十郎が、なぜ平城宮跡保存のキーマンになれたのでしょうか。それは時…

130 春日若宮おん祭の歴史

大和最大の祭と言われるおん祭は、保延2年(1136)に始まり、900年近い伝統をもつ。その通史について本格的に語られることはこれまでなかったが、2016年に『祭礼で読み解く歴史と社会~春日若宮おん祭の九〇〇年~』が刊行され、始めておん祭の…

番外 2.26事件、陸軍上層部も加担していたクーデター

Ⅰ NHKBS1スペシャル「全貌2.26事件~最高機密文書で迫る~」(再放送2021年3月12日)を見て、興奮するほど驚いた。2.26事件の経過を海軍軍令部が逐一記録していたという。そして長らく秘匿されたその分厚い文書の綴り6冊が「発見」されたのである…

129 薬師寺薬師如来坐像は白鳳仏か天平仏か

奈良市西ノ京の薬師寺本尊薬師如来坐像はブロンズ像として世界の最高峰という位置づけが定着している。写実に基づく美の完成された姿として評価する言葉は枚挙にいとまがない。和辻哲郎は『古寺巡礼』のなかで「あの豊麗な体躯は、蒼空のごとく清らかに深い…

128 薬師寺西塔心礎移動・本薬師寺西塔白鳳時代建立説

復興された薬師寺西塔 天武天皇が鸕野讃良(うののさらら)皇后の病平癒を祈願し創建した薬師寺は、天武亡きあと持統天皇と文武天皇に引きつがれ、藤原京の地に698年にほぼ完成をみた。平城京遷都とともに薬師寺もその右京六条二坊に移され、南都七大寺の…

127 薬師寺東塔の解体修理

2009年7月から本格的な解体修理を行ってきた薬師寺東塔は修理を終え、今年の3月からその一新した華麗な姿をふたたび参観者の前に現した。コロナ禍のため正式な落慶法要は延期されているが、初層内部を基壇から拝観でき、また地上に降ろされた創建期の…

126 郡山城天守台の石垣

修理された天守台。左が北面、右が西面 近世城郭で何より目立つのは石垣である。膨大な数の石を積み上げて構築した石垣は二つとして同じものはなく、視覚的な圧倒感と審美感に訴えかける。そして石という自然の素材は、土や木と同じような人への親和感がある…

125 郡山城天守閣の変転

郡山城天守台、画面左端は柳沢神社 奈良県大和郡山市の郡山城の天守台が整備され、その上に展望施設が設けられたのは、2017年の春からであった。天守台石垣が崩落のおそれがありその修理とともに周辺が整備されて、市民に開放されたのである。この事業の…

124 志賀直哉旧居の見学②

~食堂・サンルーム・子ども部屋など~ 志賀直哉旧居平面図(『志賀直哉旧居の復元」から転載) 志賀直哉旧居の南棟プライベート空間を見ていく。 玄関から廊下を南へ向かうと右手にまず四畳半の書庫がある。現在ここには、直哉の初版本や関係パネルが展示し…

123 志賀直哉旧居の見学①

~書斎・茶室・客間など~ 志賀直哉が奈良市幸町の借家から高畑町の住居に移ったのは、昭和4年(1929)4月のことである。生涯で23回転居を繰り返した直哉は、46歳から55歳までの比較的長期の9年間をここで過ごした。幼い6人の子どもを育て、社交、…

122 志賀直哉旧居の保存運動

奈良学園による旧志賀直哉邸買収を報道する新聞記事 奈良市高畑町に所在する志賀直哉旧居は、所有する奈良学園のセミナーハウスとして利用されるとともに一般公開され、志賀直哉とここに集った文化人の足跡をつたえる。また奈良公園に隣あった高畑の文化風土…

121 女王卑弥呼は大和郡山にいたか

大和郡山市は毎年、「女王卑弥呼」を公募・選出し、観光PR活動に一役買ってもらっている。市の観光協会のホームページには次のようなコメントが載る。 「大阪教育大学名誉教授だった故鳥越憲三郎氏が著書『大いなる邪馬台国』の中で、邪馬台国は大和郡山市…

120 八一の唐招提寺の歌と子規の法隆寺の句

唐招提寺金堂(写真は、「山/蝶/寺社めぐり」から転載) 会津八一の唐招提寺金堂を読んだ歌は、『南京新唱』の中でもよく知られて人気がある。 唐招提寺にて おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ 吉野秀雄は『鹿鳴集歌解』…

119 歴史のなかで揺らぐ天皇陵

初代神武天皇畝傍山東北陵(奈良県橿原市大久保町) 高木博志・山田邦和編『歴史のなかの天皇陵』(思文閣出版 2010年)は古代から現代までの天皇陵の実態や制度について複数の研究者による報告と討議をおさめる。本書を読むと、時代によって変遷してきた天…

118 安康天皇陵は何時から行方不明になったのか

宝来山古墳 安康天皇陵は中世の山城跡 第二十代安康天皇陵は菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ=奈良県奈良市宝来4丁目)と称され、現在地に治定(じじょう)されたのは明治になってからである。第二阪奈道路の宝来ICの脇に位置するが、ここは…

号外 「奈良をもっと楽しむ講座」11月13日(金)開催

テーマ「 棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか 」 ~当時の資料から読み解く明治・大正の平城宮跡保存運動~ 社会的地位や財産もない植木職人の棚田嘉十郎が、なぜ平城宮跡保存のキーマンになれたので しょうか。それは時代背景と密接に関わってい…

番外 朱雀大路延長500mの完全復元を!

更地になった積水化学工場跡。三条通りから朱雀門まで見通せる。右側の民家は朱雀大路跡の東部分を占める。 奈良市三条大路にあった積水化学工場は、三条通りか大宮通りを利用して車で奈良市街に出ることの多い私には、もの心ついて以来目に焼き付いた風景だ…

117 新薬師寺・香薬師像の三度の盗難と戻ってきた右手

盗難前の香薬師像。明治21年、小川一真撮影 白鳳仏の傑作 奈良市高畑町に所在する新薬師寺は、光明皇后が聖武天皇の病平癒を願って創建した古刹である。七体の薬師如来像を安置した金堂を中心に七堂伽藍整う巨大な寺院であったが、相次ぐ被災を経て創建時の…

116 「たまきはる命は知らず」――安積親王の死

安積親王陵墓(京都府相楽郡和束町) 遷都さなかに急死した親王 天平16年(744)閏正月1日、恭仁宮の朝堂に百官を集め異例の諮問があった。「恭仁京と難波京のどちらを都にすべきか」と意見を募ったのである。恭仁京と答えたのは、五位以上の者24人…

115 「いやしけ吉事」――それからの大伴家持

陸奥国多賀城跡 家持終焉の地 『万葉集』は、大伴家持の次の歌をもって最後を締めくくる。 新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事 ⑳4516 (大意)新しい年が始まる初春のおめでたい今日、さらにめでたくも雪が降っている。たくさんの良きことがあ…

114 ⑤写真家・入江泰吉の生涯

画家を志望した少年時代 入江泰吉が生まれたのは明治38年(1905)、生家は奈良市片原町にあった。片原町の町名は現在存在しないが、高畑町の大乗院庭園文化館が建つあたりである。自伝の中で、「前に川があった」「裏の大乗院の池で鯉を獲った」ことが…

113 ④入江泰吉の永遠の「大和路」カラー鑑賞篇

入江泰吉は、風景写真を志す若者へのアドバイスとして次のようなことを書いた。「風景写真は、単にそこにある風景を写せばよいというものではない。映像の中に、情感や、いうにいえない気配が写っていなくては、人の心に感動を呼ぶものにはならないと思う。し…

112 ③入江泰吉の永遠の「大和路」カラー篇

東大寺塔頭跡『古色大和路』より 入江泰吉が「大和路」の写真家として評価を確立した三部作『古色大和路』、『萬葉大和路』、『花大和路』は、1970年から76年にかけて上梓された。高名な作家、評論家、俳人、歌人、随筆家、学者がエッセイを寄せ、詳細な解説…

111 ②入江泰吉の郷愁の「大和路」モノクロ鑑賞篇

司馬遼太郎は、『街道をゆく』の中の「竹内街道」で次のように書き記している。「言霊ということばはわれわれにとってなるほどいまも妖しく、『大和は国のまほろば』などと仮にでもつぶやけば、私の脳裏にこの盆地の霞がかった色調景色が三景ばかり浮かびあ…

110 ①入江泰吉の郷愁の「大和路」モノクロ篇

勝間田池の堤防から薬師寺東塔を望む 昭和30年代前半『昭和の奈良大和路』から 入江泰吉(1905~1992年)の最初の写真集『大和路』(東京創元社)が出版されたのは、1958年(昭和33年)であった。その前年、文芸批評家の小林秀雄が、東京創元社の社長、小林…

号外 検察庁法改正案に反対する松尾邦弘・元検事総長ら検察OBの意見書

https://digital.asahi.com/articles/ASN5H4RTHN5HUTIL027.html?iref=comtop_8_01 検察庁法改正に反対する松尾邦弘・元検事総長(77)ら検察OBが15日、法務省に意見書を提出した。ここには、改正法案の問題点が詳細に述べられている。そして司法の三権分立の…

号外 三権分立を破壊する検察庁法改正案の「特例規定」

「奈良歴史漫歩」は過去の歴史のロマンを語ることをモットーとしているので、少し違和感があると思いますが、現在の時事問題についても取り上げていきたいと思います。「歴史とは現在と過去の対話である」とは、英国の歴史家、E.H.カーの名言です。歴史への…

109 天平の天然痘大流行

「呪符」木簡(『平城京と木簡の世紀』より) 新型コロナウイルスによるパンデミックは大方の日本人にとって未知の体験です。しかしこれまでの内外の歴史を見ると、人類は感染症とともに生きてきました。感染症の原因が究明され、有効な治療・予防法が生み出…

108 棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか(後編)

~明治・大正期の平城宮跡保存運動の深層~ 第3章 「奈良大極殿址保存会」 1911年(明治44)~1922年(大正12) 奠都祭の翌年に棚田は上京して司法大臣、岡部長職子爵と面会します。「宮跡の保存策が示されなければ奈良へ帰らない」と強く迫ります。岡部子…