117 新薬師寺・香薬師像の三度の盗難と戻ってきた右手

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盗難前の香薬師像。明治21年小川一真撮影
 

     白鳳仏の傑作

 奈良市高畑町に所在する新薬師寺は、光明皇后聖武天皇の病平癒を願って創建した古刹である。七体の薬師如来像を安置した金堂を中心に七堂伽藍整う巨大な寺院であったが、相次ぐ被災を経て創建時の建物は、かつて修法を行ったと言われる現在の本堂を残すのみである。本堂には平安初期の薬師如来座像が鎮座し、その周りを奈良時代十二神将が取り囲む。いずれも名高い国宝である。寺にはもう一体、有名な仏像が存在した。白鳳時代(7世紀後半から8世紀初頭)の傑作だとされる香薬師像である。本堂の西に建つ新しい香薬師堂にまつられた像はそのレプリカである。

 香薬師像は、昭和18年(1943)3月、盗難に遭ってその行方は今もようと知れない。写真で見る像高約74センチの金銅仏は、童子のような無垢で柔和な印象を与える。この時代の仏像特有の雰囲気を一身に体現しているようで、多くの仏像ファンを魅了する。歌人・美術史家の会津八一(1881~1956)は、奈良を訪ねるたびに香薬師を拝したという。歌集『南京新唱』には、香薬師を歌った三首が収められる。その一首が境内の石碑に刻まれた。八一の最初に立った歌碑だという。

 ちかずきてあふぎみれどもみほとけのみそなはすともあらぬさびしさ
 (大意 近寄って仰ぎ見ても、み仏が自分を認めてご覧下さることもないこのうらさびしさよ)

 次に他の二首も挙げる。(大意は、吉野秀雄『鹿鳴集歌解』から引用した。)

 かうやくしわがをろがむとのきひくきひるのちまたをなずさひゆくも
 (大意 香薬師を拝もうと、軒の低い小家続きの真昼の町に心親しみつつ、新薬師寺への道をたどっていく)

 みほとけのうつらまなこにいにしへのやまとくにばらかすみてあるらし
 (大意 香薬師のうつらうつらした仏眼に、遠きいにしえの大和国原はいまも霞んでいるらしい)

 亀井勝一郎(1907~1966)は『大和古寺風物誌』の中で香薬師を絶賛した。

 「香薬師如来の古樸で麗しいみ姿には、拝する人いずれも非常な親しみを感ずるに相違ない。高さわずかに二尺四寸金堂立像の胎内仏である。ゆったりと弧をひいた眉、細長く水平に切れた半眼の目差、微笑していないが微笑しているように見える豊頬、その優しい典雅な尊貌は無比である。両肩から足もとまでゆるやかに垂れた衣の襞の単純な曲線も限りなく美しい。‥‥どこかに飛鳥の楚々たる面影を湛えて、小仏ながら崇高な威厳を保っている。」

     三度の盗難

 ところで香薬師像は昭和18年の盗難の前にも明治に二度も盗難にあっている。いずれも発見されて仏像は寺に戻ってきている。これもよく知られた事実で、いやが上にも好奇心をかき立てる。これらの事件を詳しく知りたいと前から思っていたが、最近、貴田正子氏の著書『香薬師像の右手~失われたみほとけの行方~』(講談社2016年刊)を読んで、その機会を得た。この本を元に事件をたどり、後日談にも触れてみたい。(ネタバレがあります。)Amazonにある本の要旨を紹介しておく。

 「奈良・新薬師寺の香薬師像は、旧国宝に指定され、白鳳の最高傑作といわれた美仏。しかし、昭和18年に盗難に遭い、未だに行方が分かっていない。この香薬師像を見つけ出そうと、元産経新聞の記者である著者が取材を開始。新薬師寺住職の全面的な協力を得た調査の結果、衝撃の新事実が発覚。ついに、像の一部である「右手」を発見する……。美術史的にも非常に意義のある大発見までの経緯をまとめた、渾身のノンフィクション。」

 著者が香薬師像に初めて出会ったのは、新聞記者として最初に勤務した茨城の笠間市においてだった。戦後すぐ笠間町は「国宝コピー仏像」を展示する町営の美術館を創設し、そのひとつが石膏製の香薬師像だった。美術館はすでになく倉庫に眠っていた香薬師像の愛らしさに著者は一目惚れする。それから元の仏像について、コピーが製作された経緯について取材が始まる。

 盗難事件は新薬師寺にもほとんど記録が残っていなかった。当時の新聞記事や公文書を博捜して明治の事件が明らかにされる。1回目の盗難は明治23年(1890)1月に発生した。この時は、寺の西800メートルほどの喩伽山にある天満天神社の境内に放置された状態で仏像は発見された。折られた右手がそばにあった。黄金仏とも称されていたことから純金を狙った盗みと推測された。手を切断して純金製でないことを確かめ捨てられたようだ。

 2回目の盗難は明治44年(1911)6月に起きた。仏像は本堂内の厨子に収められ鍵は掛かっていなかった。深夜、留守居の者が本堂の方で物音がするのを聞いているが見回ることはせず、翌朝も本堂入り口の鍵に異常はなかったので不審を抱かなかった。気づいたのはその翌日、厨子を開けた時だった。捜査は難航し、寺は事件解決につながる通報者に100円の懸賞金をかけた。盗難から約10日後、大阪府東成郡墨江村(大阪市住吉区)の草むらに地元の人が捨てられた仏像と右手を見つけ警察に通報し、香薬師像だとわかった。両足は足首から切られて見つからなかった。像は寺に戻り、通報者には100円が払われた。今回も純金目当ての盗難だと推測できる。

 二度の盗難に懲りて、篤志家たちの寄付で仏像を安置する香薬師堂が大正6年(1917)に建てられた。右手は銅板で継がれ、失った両足は木製で補われた。死角(四角)がないようにと五角形の厨子に収められた。

 だが、二度あることは三度あった。昭和18年3月26日の朝、お堂の錠がバールのようなもので壊され、仏像が消えていた。6年前に東大寺法華堂の本尊、国宝の不空羂索観音像の宝冠が盗まれるという事件が起き未解決だったので、奈良県警は戦時下であったが大捜査態勢を組んだようだ。その捜査にかかって時効寸前だった宝冠は見つかり犯人も逮捕されたのは幸運だったが、香薬師の行方はわからず迷宮入りとなった。

     現場に残った像の右手とレプリカ

 著者は資料を調べていたとき、奈良古美術の写真館「飛鳥園」の創設者、小川晴暘(せいよう・1894~1960)の文章に目がとまる。3回目の盗難の直後、奈良県警の捜査室で像の右手と木で補作された両足を目撃したことが記されていた。現場に残されていたものだという。新薬師寺の住職、中田定観氏はこれを知って驚愕し容易に信じられなかったという。定観氏は昭和19年(1944)に寺で生まれ育った方である。先々代の福岡隆聖(りゅうせい)師と先代の中田聖観師(1917~2010)とずっと同じ屋根の下にいて、そのことを聞いておられなかったようで無理もない。だが、犯人はなぜ現場に右手と両足を残していったのか?盗まれた像はどんな姿だったのか?新たな謎が生まれた。

 著者が香薬師に関心を持ったのは、前述したように茨城県笠間市の像のレプリカに出会ってからである。レプリカはどのように製作されたのか。実は盗難の直前、昭和17年(1942)に二人の彫刻家がそれぞれに像の石膏雌型をかたどっている。笠間の石膏レプリカはその雌型を使用したものだ。他にも銅像製や樹脂製のレプリカが出回っているが、このふたつの雌型が元になっている。

 銅製レプリカが香薬師堂に収まった経緯も明らかになった。文藝春秋社の元社長・佐佐木茂索(1894~1966)は、昭和24年(1949)に妻を亡くす。ひどく悲しんだ佐々木は、交流のあった東大寺観音院住職の上司海雲師(1906~1975)に相談して、観音院に仮寓していた水島弘一(1907~1982)が香薬師の雛形をかたどり所持していたことを知る。佐々木は全額出資して雛形から複製銅像を作り供養することを考える。文化勲章を受章した鋳金工芸家の香取秀真(かとりほつま・1874~1954)に依頼して三体製作した。一体は新薬師寺に寄贈し、一体は謝礼として上司の観音院に置かれ、一体は佐々木が所蔵した。観音院の像は、文化サークル「七人会」のメンバーの鈴木光(元三共製薬会長・鈴木万平の妻)に譲渡されたあと奈良国立博物館に寄贈された。佐々木が所蔵した像は、佐々木の死後、遺族によって鎌倉の檀家寺・東慶寺に寄贈されている。

 もうひとつの雛形は、奈良一刀彫りの第一人者の竹林薫風(1903~1984)がかたどった。これからも銅像が製作され新薬師寺に収められたが、現在この型の像は寺には存在しない。

 水島弘一の子息、水島石根(いわね・1939~)氏も彫刻家であり、雛形について新たな情報が提供された。弘一が雛形を取るとき、右手と両足、蓮華座を新たに作りつなぎあわせたという。雛形を取る前に右手だけが盗まれるという事件があり、右手を新調したついでに両足、蓮台も作ったらしい。本物の右手はその後、寺の庭で発見されたという。この証言により、盗難現場に本物の右手と補作した足が残されていた理由が判明した。盗まれた像には新調した右手と足がついていたのである。国宝のこの修理について公式な記録はない。

 小川晴暘が警察署で目撃した本物の右手は寺に返却されただろう。しかし寺にはなく、その行方の手掛かりはまったく掴めなかった。立ちはだかった厚い壁に穴があいたのは偶然のようであり、また然るべき必然性があった。平成26年(2014)11月、仏像美術史家の水野敬三郎氏(1932~)が四天王の調査で新薬師寺を訪ねたとき、定観師が「香薬師のことで何かご存じありませんか」と尋ねたら「昔、香薬師の手を見たことがある」との答が返ってきた。

 昭和37年(1962)の冬、水野氏は恩師の仏像研究家・久野健(くのたけし・1920~ 2007)とともに佐佐木茂索が所有する法隆寺の塑像の調査で佐々木宅を訪れた。佐々木は不在であったが、そのとき夫人から香薬師の右手を見せられた。二人は驚き観察した。その記録と写真を水野氏は大切に保存していた。しかし発表されることはなかった。

 著者は佐々木の遺族と連絡を取る。しかし夫人は高齢で取材に応じられず、家には右手はないという返事が返ってきた。著者の夫の貴田晞照(きしょう)師は修験道者にして「気」の世界の治療家であり、中田定観師とは信頼しあった仲である。貴田師の「右手は東慶寺にある」という意見を受けて、中田師は東慶寺に問い合わせの手紙を送る。けれども応答はない。直接に東慶寺を訪ねようとした前日、寺から連絡が入り「前向きな話をさせていただきたい」と告げられた。

 東慶寺の住職は、2年前先代が死去され後を継いだ若い井上陽司師である。手紙が他の書類に紛れ返答し損なったことを詫び、木箱が差し出された。蓋を開け取り出されたものは、台座に載った驚くほど小さくかわいい右手であった。箱書きは現代語訳すると、「新薬師寺の香薬師の御手である。わけあって昭和二十五年初夏、この箱を作り、謹んで安置する。佐佐木茂索謹んで誌す」とあった。もうひとつあり、「平成十二年十二月一日佐々木茂策氏命日に夫人泰子東慶寺奉納 禅定謹誌」とあった。禅定というのは、先々代の住職の井上禅定師のことである。

 佐佐木茂索は昭和25年に香薬師の複製銅像を新薬師寺に寄贈している。その年の初夏に像の本物の右手が寺から佐々木に渡った。当時の国宝であるから然るべき手続きが必要だと思うが、それはなかったようだ。著者はあえて明言することを控えているが、それが関係者の口を閉ざさせ、右手の行方を不明にさせたのだろう。なにしろ住職の中田定観師もまったく知らなかったことなのである。佐々木が所蔵した複製銅像が泰子夫人から東慶寺に寄贈されたのは、模索の死後26年後、右手が寄贈されたのはその8年後であった。

 平成27年(2015)10月12日、香薬師の右手は65年ぶりに新薬師寺に戻ってきた。貴田晞照師が中を取り次ぎ、東慶寺から受け取った右手を定観氏に手渡し、本尊の薬師如来座像に香薬師如来像の右手が返還されたことを報告する法要が執り行われた。水野敬三郎氏は鑑定し本物であると太鼓判をおした。右手の返還は一連の経過を含めて文化庁に報告された。

     香薬師像の行方          

 香薬師像は寺の伝承では、光明皇后の念持仏であったという。皇后が創建した香山(こうせん)寺の本尊となり、新薬師寺が創建されると丈六薬師如来の胎内仏となった。火災にあって胎内から取り出され、寺で守護されてきた。像には火を被った跡が残るが、この由緒に史料的な裏付けはないようだ。

 「白鳳三仏」と呼ばれる仏像がある。東京・深大寺の釈迦如来倚像、法隆寺の夢違観音菩薩像、香薬師如来像である。三仏には共通点が多くて、同一作者または同一工房で製作されたという説がある。香薬師像の与願印を示す左手の掌には薬壺がのる。薬壺が現れるのは平安時代になってからと言われ、後世の補作でなければ最古のケースとなる。香薬師像が戻ってくれば、これらの学術的研究も進むだろう。

 著者が香薬師に関心を抱いたのは、新聞記者として取材した平成6年(1994)であった。取材を再開したのは、平成25年(2013)に貴田夫妻の元に香薬師のレプリカ銅像が現れ購入したことがきっかけだった。それは竹村がかたどった雌型の系譜につらなり、人間国宝鋳金作家の齋藤明(1920~2013)が鋳造したものだった。著者はすでにフリーの立場であったが、香薬師との不思議な縁を感じた。単なる取材者を超えた当事者的な情熱を持って取材に邁進した。取材の経過を追っての記述はミステリー小説を読むような面白さがある。ただ夫の神秘的な能力を賛美したり、生業の治療院の宣伝とも受け取れるような部分には引いてしまったが。香薬師の右手が発見され新薬師寺に無事に戻ったのは本当に良かったと思う。それに与った著者の功績は大きい。明治の盗難は純金狙いであったが、昭和の盗難は像の骨董的価値が動機になっているだろうから、人の目を避ける何処かに秘匿されている可能性が高い。著者は「これからも私は香薬師像の行方を追う取材を続ける。香薬師の高貴でやさしい、そして霊験あらたかな“うつらまなこ”が、再び世を照らす日が来るのを強く信じて――」と本の最後に記す。

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香薬師像の右手

参考
貴田正子『香薬師像の右手~失われたみほとけの行方~』講談社
会津八一『自注鹿鳴集』新潮文庫
吉野秀雄『鹿鳴集歌解』中公文庫
亀井勝一郎『大和古寺風物誌』新潮文庫
奈良国立博物館『白鳳~花開く仏教美術~』展覧会カタログ