120 八一の唐招提寺の歌と子規の法隆寺の句

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唐招提寺金堂(写真は、「山/蝶/寺社めぐり」から転載)

 会津八一の唐招提寺金堂を読んだ歌は、『南京新唱』の中でもよく知られて人気がある。

    唐招提寺にて
 おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ

 吉野秀雄は『鹿鳴集歌解』でこの歌を「道人(会津八一)の奈良歌中でも最も名高き一つで、景も情も具足しつくしている。私は歌を評する場合、いつも一首の重みということを考えるが、この歌の重みは今人の作としては稀有に属するのではなかろうか。いかにも醇熟し、あたりを払っている感がある。」と絶賛する。金堂の横にはこの歌碑が立つ。

 八一の『渾齋(こんさい)随筆』を読んでいると、この作品が誕生した経緯が書かれていて興味深かった。八一と知人はその日、法隆寺を拝観していて夕暮れとなり月がさしのぼった。西院伽藍の回廊の円い柱が土間に斜めに影を落とした。それを見て「おほてらの‥‥まろき‥‥はしら‥‥まろきはしら」と八一がつぶやくのを同行者は聞いていたという。そのあとバスで奈良へ帰る途中で下車して唐招提寺へ向かった。宵も更けて月は高く空にあった。寺僧も出てきて、金堂の前で話したり歩いたりしたあと、またバスで奈良の宿に帰り着いた。そしてあの歌ができたという。「同じ一と晩のうちに、同じ月の下で、法隆寺で萌した感興」が、「唐招提寺に至って、始めてそれが高調し、渾熟して、一首の歌として纏め上げられた」と自ら解説する。

 ところで、「円い柱」への関心は、若き頃の八一の古代ギリシャへの熱狂的な傾倒から生まれたという。ギリシャ神殿の円柱が頭にしみこんでいて、奈良の古寺の柱に注目したのだろうと自己分析している。

 もちろん唐招提寺金堂の月影の歌はこれだけで完璧であり、作歌事情によって鑑賞に影響を与えるわけではない。一つの作品として完成した姿が読者には提示されるのだが、作者がそこに至るまでは複雑なプロセスがある。それを知りたくなるのも作品の魅力に比例して強まるだろう。

     ○

 この話を読んで浮かんだのは、正岡子規の有名な句「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」である。あの句の着想を得たのは、御所柿を食べながら奈良の宿で東大寺の鐘を聞いたことにあるという説である。すでにいろんなところで書かれているからご存じの方も多いだろう。

 明治28年(1895)、日清戦争の従軍記者として赴いた子規は持病の結核が悪化し、郷里の松山で静養する。小康状態を得て上京する途次、奈良に立ち寄り、10月26日から3泊して古寺をめぐった。宿泊したのは、奈良市今小路押上町にあった對山摟(たいざんろう)である。明治期の奈良の名物旅館で来県する要人の定宿となっていた。28日の夜、子規は好物の御所柿を所望すると、下女は大鉢に山盛りした柿を持ってきた。「梅の精」のような少女に皮をむいてもらい食べていると、鐘の音が一つ聞こえた。東大寺の大鐘が初夜を告げたという。

 この挿話は、子規の随筆「くだもの」に出てくる。「くだもの」には、この時の奈良が柿の盛りで、これまで柿の詩や歌がないことに気づき、奈良と柿を配合することを思いついたと書かれる。実際、この旅では柿の句が多数つくられた。そのひとつが「柿食えば」の句である。随筆には法隆寺の話は出てこない。その体験談からは、「柿食えば鐘が鳴るなり東大寺」となるところを「法隆寺」に差し替えたことになる。フイックションということになるが、それは句を貶めることではなく、むしろ子規の才能を示している。「東大寺」なら、今のようにこの句は人口に膾炙(かいしゃ)しなかっただろう。

 對山摟の跡地には、日本料理の天平倶楽部ができている。ここには子規が宿泊したことを記念して「子規の庭」がつくられた。明治の頃からあったという柿の木のもとに子規の句碑が立ち、「秋暮るる奈良の旅籠や柿の味」の句が刻まれる。

 内輪話となるが、つれ合いが婦人会の会食で天平倶楽部を利用したことがある。食事の前に女将が店の謂われを解説した。對山摟からの歴史を説き起こし、子規の法隆寺の句が実は‥‥という流れになり、熱弁が続いたらしく、食事の時間に食い込んだ。帰りのバスの時刻が決まっていて、最後のコーヒーが飲めなかったと話してくれた。

     ○

 『鹿鳴集』に収載されなかった歌二首が『渾齋随筆』で紹介されている。

 しかなきてかかるさびしきゆうべともしらでひともすならのまちびと

 しかなきてならはさびしとしるひともわがもふごとくしるといはめやも

 八一はこの歌について解説する。「大正十年十一月、奈良客中のある日の夕暮れを、若草山のわきから、宿(日吉館=筆者注)に帰る途中に詠んだもので‥‥(略)。鹿の声はもとより淋しい。それに私の定宿のある登大路のあたりの夜はことに淋しい。しかしそれよりも、私の気持ちの方に、もっと淋しいものがあったのであろう」。この歌を歌集に入れなかったのは「不注意のいたりであった」とまで釈明する。

 歌に表れた情緒は旅人特有の感慨とも受けとれるが、奈良の住人である私も夕暮れの公園近くの町を歩いていて、このような気持ちになることがある。帰るべき家があっても、夕暮れは人をして漂泊の思いを誘う。鹿の鳴き声がことにその思いを引きだすのも、人がそれぞれに抱えた淋しさのツボに触れるからだろう。二首目は、「鹿のなく奈良の夕暮れの淋しさを知る人も、自分が感じているようなこの淋しさを知るだろうか」の意味になる。この孤独感の表白には共感できる。二首セットになって、奈良の淋しさと孤独感の相乗する境地に導かれる歌だと思う。

参考
会津八一『渾齋随筆』中公文庫
会津八一『自註鹿鳴集』新潮文庫
吉野秀雄『鹿鳴集歌解』中公文庫
直木孝次郎「子規と法隆寺(一)・(二)」(『わたしの法隆寺塙新書