番外 2.26事件、陸軍上層部も加担していたクーデター

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     Ⅰ

 NHKBS1スペシャル「全貌2.26事件~最高機密文書で迫る~」(再放送2021年3月12日)を見て、興奮するほど驚いた。2.26事件の経過を海軍軍令部が逐一記録していたという。そして長らく秘匿されたその分厚い文書の綴り6冊が「発見」されたのである。当時、軍令部に在籍し、戦艦ミズーリ号での日本の降伏文書調印式にも出席した富田定俊海軍少将が保管していたらしい。どういういきさつで日の目を見たかの説明はなかったが、番組は、この機密文書をもとに事件をたどっていく。

 決起部隊が大臣や重臣を襲撃する場面が銃の発射回数も入れて具体的に描写される。青年将校陸軍大臣との会話、天皇の発言、真崎甚三郎陸軍大将と石原莞爾陸軍大佐の密談‥‥。事件を左右する重要な事実が始めて明らかにされる。どれも現場の目撃者による報告でそれを記録したとしか思えない。

 2.26事件の史料は、事件後の軍法会議の公判記録や検察調書、関係者の手記や回顧録、日記などが中心である。陸軍参謀本部や第一師団の当時の記録もあるようだが、比重は小さい。陸軍省や戒厳司令部、憲兵隊なども記録をつけていたはずであるが、事件のドキュメントを読んでいても、それらを出典とする叙述はほとんどない。

 軍法会議は、非公開、弁護人なし、一審のみという異例の暗黒裁判となり、「北一輝西田税ら民間人にそそのかされて、血気にはやる青年将校が暴走した」という図式で極刑が下された。これは陸軍上層部の責任を回避するために仕組まれたシナリオであるという。このシナリオに不都合な証拠が出るのを防ぐために、陸軍は公文書を秘かに処分した可能性がある。

 公判記録や検察調書、関係者の手記や回顧録、日記は、個人の記憶をもとにしているから記憶違いがあるし、自己正当化や保身のために偏向・歪曲がつきまとう。この点、出来事を同時進行的に記録する海軍軍令部の文書は、より事実に近い内容を含む。海軍は都内各所に私服の偵察員を配置し、陸軍中枢内に連絡員を派遣して情報の収集に努めた。これが可能になったのは、海軍が事前に事件の発生を正確に知っていたからである。

 事件1週間前の2月19日、東京憲兵隊隊長が海軍省次官に機密情報をもたらした。「陸軍皇道派将校は重臣の暗殺を決行し、この機に乗じて国家改造を断行せんと計画せり」と記され、襲撃目標の岡田啓介首相、齋藤実内大臣高橋是清大蔵大臣、鈴木貫太郎侍従長の名前がつづく。首謀者の香田清貞大尉、栗原安秀中尉、安藤輝三大尉も明かされていた。この具体的かつ正確な情報で海軍はいわば万全の体制で事件に臨むことができた。

 海軍が詳細な記録を残したのは、ことの重大さはもちろんとして、組織防衛の動機があったからだろう。記録文書には「海軍関係者はいない」という記述が頻出して、事件が海軍とは無関係であることの証拠を残す意図がうかがえる。したがって文書は秘匿されて、直接の関係者が絶えた80年後にヴェールを脱いだ。

 私が一番驚いたのは、このことだった。青年将校のクーデター計画の詳細は軍中枢によって事前に把握されていた。海軍が知っていたのだから、陸軍は当然それ以上にわかっていたはずだ。しかし計画はなんらの妨害を受けた気配はなく実行された。首相や蔵相、内大臣、元老、侍従長の殺害計画が黙認されたのである。今回番組に触発されて、事件に関する文献をいくつか読んだ。それから見えてきたのは、陸軍上層部も加担したクーデターであったのではないかということだ。

     Ⅱ

 事件の首謀者の一人であり銃殺刑になった磯部浅一元一等主計は『獄中手記』を書き、自らの行動記録と主張を残した。磯部は事件直前に陸軍中央の幕僚や皇道派将軍などに面会して一種の根回しめいたことを行っている。1月23日に川島義之陸軍大臣に会うと「5.15事件ぐらいの小さなことではなく、大仕掛けのことが起きたとき軍部は如何をなすべきや」と問いかけた。大臣は「仕方ないなあという旨をもらした」という。これから「なにごとか突発しても弾圧はしないという感じを受けた」と書く。1月28日には皇道派のリーダー、真崎甚三郎陸軍大将に面会している。「真崎はなにごとか察知したようで『何事か起きるなら何も言ってくれるな』と言い、5百円工面してくれる」。磯部は「これならかならず真崎大将はやってくれると信じた」。

 軍人の政治活動は本来禁じられていたが、昭和維新を目指す青年将校たちの活動は黙認された。それどころか資金援助を受けたり、人事上の配慮を受けたりしていた。これを軍の統制を乱すものとして快く思わなかったのが統制派で、磯部や同じく事件の首謀者となった村中孝次元大尉はクーデター未遂の科(二人は冤罪を主張)で前年に免官されていた。青年将校運動を規制した統制派のリーダー、軍務局長の永田鉄山少将はその直後に、皇道派の相沢三郎中佐によって斬殺される。2.26事件は、皇道派が勢力を巻き返そうとした流れの中で起きた。

 『獄中手記』で、磯部は身辺つねに憲兵から見張られていることを記している。あるとき「尾行をやめてくれ」と言ったところ「同伴しているのです」と憲兵が言い返したという。事件の謀議は将校の自宅や連隊の週番将校詰め所で行われたが、筒抜けであっただろう。内容まで漏れていたのだから密告者もいたのか。海軍に情報がもたらされた2月19日は、前日に青年将校たちが会合して決行の具体的な手順を決めたばかりであった。2月26日の未明、連隊屯所を出ていく決起部隊を憲兵は見送って「雪中訓練かと思った」という証言があるが、もちろん偽証だろう。

 将校、下士官、兵およそ1500人の正規軍が武器をもって政府の要人を殺害し首都中枢を占拠する。これだけの大がかりなことが可能になったのは、陽に陰に上官の支援と黙認があったと考えるのが合理的である。実際その通りなのであるが、その全貌は明確ではない。

     Ⅲ

 青年将校たちはなぜこのようなクーデターを起こしたのか。磯部は「皇権を重臣元老の手より奪取奉還して、大義を明らかにすれば、国体の光は自然に明瞭になり、国体が明瞭になることは直ちに国の政・経・文教すべてが改まるのである。これが(昭和)維新である」と書く。彼らが日の丸に大書した標語「尊皇討奸」とは、天皇を取り巻く「君側(くんそく)の奸」を取り除きさえすれば「国体」は自ずと顕現し日本はすべて良くなるということであろう。

 歴史家の筒井清忠氏は、青年将校を思想的側面から二つのタイプにわけ、天皇主義と改造主義と名づけている。天皇主義は「尊皇討奸」に表される考え方であるが、すべての青年将校の基底にはこの思想があったと言える。さらに事件を主導した将校たちには天皇親政によって断行されるべき日本の改造プランがあった。彼らは北一輝の『日本改造法案大綱』に強い影響を受けていた。『改造法案』は、天皇大権によって憲法を3年間停止、両院を解散し戒厳令を布告して日本を改造するというものだが、その内容は華族制の廃止、財閥の解体、私有財産の制限など社会主義的な側面があった。しかし、実際に青年将校たちがクーデターの目前の目標としたのは、「君側の奸」を除いたあとに真崎甚三郎陸軍大将を首班とする「維新内閣」を樹立することだった。

     Ⅳ

 26日の早朝、陸軍大臣官邸にて将校たちは川島義之陸相に強談判し「維新の断行を約束する」との言質を引き出している。その日、川島陸軍大臣、軍事参議官荒木貞夫大将、同真崎陸軍大将、同阿部信行大将、陸軍省軍事調査部長山下奉文少将らが協議して声明を出す。「陸軍大臣告示」と題されて「一、決起の趣旨に就いては、天聴に達せられあり 二、諸子の行動は国体顕現の至情に基づくものと認む 三、国体の真姿顕現(弊風をも含む)に就いては恐懼に堪えず 四、各軍事参議官も一致して右の趣旨に依り邁進することを申し合わせたり 五、之れ以外は一に 大御心に待つ」とある。決起部隊の行動を認める内容である。

 同時に宮中への必死の説得工作が行われた。川島陸相、侍従武官長本庄繁陸軍大将、軍令部総長伏見宮博恭王元帥海軍大将、元首相清浦奎吾らの4つのルートを通して、青年将校の「真意」を伝え次期内閣の大詔渙発を請うた。しかし「股肱の臣」を殺めた青年将校天皇は許さず、即座の鎮圧を命ずる。だが、陸軍はこれにすぐには応じず、戒厳令をしきながら決起部隊を反乱軍扱いにはせず戒厳部隊に組み込んでいる。天皇の度重なる督促に折れて、軍が鎮圧行動に踏み切るのは29日であった。

     Ⅴ

 真崎甚三郎大将は事件後、反乱幇助で起訴された。しかし無罪になっている。荒木貞夫大将や近衞文麿首相の働きかけがあったという。軍法会議では、直接の行動者の他にも協力者とみられる将校が禁固刑を受けているが、2人の例外を除いて佐官、将軍クラスの協力者は罪に問われていない。ただ、皇道派はこれ以後、陸軍の中枢を占めることはなかった。

 軍上層部が青年将校のクーデターに加担したのは、軍が切望した総力戦体制の構築に好都合な軍事政権をつくるチャンスと考えたからだろう。クーデターは失敗したが、事件後の軍の発言力は増す。翌年は日中戦争が始まる。もはや軍の意向を抑えられる者はいなくなっていくのである。

参考
NHKBS1スペシャル「全貌2.26事件~最高機密文書で迫る~」
北博昭『二.二六事件 全検証』朝日新聞社
筒井清忠『二.二六事件と青年将校吉川弘文館
『二.二六事件とは何だったのか』藤原書店
磯部浅一『獄中手記』中央公論新社
北一輝日本改造法案大綱中央公論新社