125 郡山城天守閣の変転

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郡山城天守台、画面左端は柳沢神社

 奈良県大和郡山市郡山城天守台が整備され、その上に展望施設が設けられたのは、2017年の春からであった。天守台石垣が崩落のおそれがありその修理とともに周辺が整備されて、市民に開放されたのである。この事業の一環として発掘調査が行われ数々の知見がもたらされた。なかでも大きな発見は、天守閣の存在が明らかになったことである。江戸時代の郡山城を描いたどの絵図にも天守閣はなく、その存在を疑問視する説もあった論争に決着がついたのである。しかしすべてが解明されたのではなく、不明な部分も多く残る。

     郡山城の歴史

 郡山城の起源は天正8年(1580)の筒井順慶の築城にさかのぼる。しかしその規模や場所はよくわかっていない。筒井氏が伊賀に転封されたあと、天正13年(1885)、豊臣秀吉の弟、豊臣秀長が大和、和泉、紀伊百万石の領主として郡山へ入部する。西ノ京丘陵南端の地形を生かし、百万石の城主にふさわしい大規模な平山城の建設が始まった。秀長亡きあとは子の秀保が、秀保亡きあとは豊臣政権五奉行の一人、増田(ましだ)長盛が城主となって建設を引き継ぎ、現在にいたる基本的な城郭が完成したと見られている。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦のあと城主は不在となるが、大坂の陣豊臣氏が滅んだ元和元年(1615)に徳川方譜代の水野勝成が入城する。それ以後、松平氏、本多氏らが入れ替わり、享保9年(1724)に柳沢吉里が郡山十五万石の領主となる。柳沢氏は六代、約150年にわたって郡山藩を治め明治維新を迎える。

 江戸時代に入ると歴代の藩主は、現在、奈良県立郡山高校がある二の丸に住まいし、藩の政治も主にここで行われた。平和が続き、幕府の厳しい築城規制があった時代であるから、天守閣はないままにおかれたのだろう。

     豊臣氏が建造した天守

 天守台の上はほぼ全面が調査された。明治初年に廃城になったとき、運び込んで敷いた瓦のおびただしい破片が一番上にあった。その下に小さな礫石が層をなしていた。礫石の用途は不明ということだが、江戸時代の空地となった天守台をこれで整地したのではないだろうか。礫層を除去すると、東西に並ぶ三列の礎石が出てきた。礎石の形は不揃いで抜かれている所もあった。南北に並ぶ礎石は出てこなかったが、礎石を支えた根石の集積が二列残っていた。これから木材を東西に3本、南北に2本、井桁に組んで土台を作り、その上に建物を建てたと推測された。土台は南北が高くなって交差する。

 平面規模は身舎(もや)が東西3間(約6.4m)、南北4間(約8.5m)で、その周囲を2間の廊下のような武者走りが囲んでいた。全体で東西7間(約16m)、南北8間(約18m)となり、これは天守台上面の面積である。

 礎石の上に堆積した土の中から瓦が出土した。巴紋の軒丸瓦は秀吉が築城した大坂城の瓦と同じ型を使用した同范瓦であり、鯱(しゃちほこ)は聚楽第の鯱と同范であった。この層には江戸時代の瓦はなかったことから、天守閣は豊臣系三代の15年間に建設されたことは明らかである。

 天守台の石垣の高さは約8mある。天守台の南に付け櫓台があり、ゆるやかな階段が付櫓台をへて天守台に通じている。このルートができたのは明治になってからであり、元のルートの解明も調査の課題だった。絵図には天守台の南端と付櫓台の南端に入り口らしいものが描かれている。該当部を発掘すると、天守台からは転用石を置いた幅3.2mの入り口跡が見つかった。付櫓台では表面から2.2mの深さに基底石が東西3.2mの幅をおいて見つかり、地階の存在が推定された。本丸から付櫓台の地階にまず入り、そこから天守台に上るルートが確認された。

 付櫓台は天守台に匹敵する広さである。ここにも建物があったと推測されるが、これ以上の調査がされていないのでまったく不明である。なぜ調査されなかったのかわからないが、非常に残念なことである。

 付櫓台の地階からは貴重な発見があった。金箔瓦が見つかったのである。大棟の飾瓦である菊丸瓦にわずかな金箔と接着に用いた漆が残っていた。金箔瓦は主だった豊臣系の大名の城に広く使用された。天守閣が豊臣政権下で建築されたことのダメ押しの証明だ。

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発掘調査中の天守台と付櫓台

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天守閣の礎石、東西に3列、南北には根石が2列並ぶ

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天守台模式図、現地説明会資料より

     二条城さらに淀城へ移築された天守

 この時期に築造された城には共通の特長がある。望楼型天守と呼ばれて、入母屋屋根の櫓の上に物見台のような小さな望楼部がのる。壁面は黒漆の下見板張りがめぐらされる。郡山城が何重であったかはわからないが、人質を3重目にかくまったと記録する古文書(『渡辺水庵覚書』)から少なくとも3重以上であると言える。また付櫓台があることから、天守閣と付櫓が一体化した複合式天守であった。金箔瓦と鯱が輝いていたであろう。

 天守閣はその後二条城へ移築されたことを『愚子見記』と『中井家文書』は伝える。二条城天守閣は慶長11年(1606)に完成した。『洛中洛外図屏風』舟木本には、望楼型天守を持つ二条城が描かれる。さらに寛永元年(1624)に淀城へ移された。淀城は宝暦6年(1756)の落雷により天守や建物の大半が焼失したという。

 郡山城天守台からは火災の跡は見つかっていない。考古学的な知見と古文書、絵図などの記録と矛盾することはなく、天守の移築の信憑性は高い。郡山城天守閣があった期間は10年か長くても15年を越えることはないようだ。その後、改築されただろうが、約150年、他の城の天守として役目を果たしたのである。

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松江城天守閣。複合式望楼型の天守付櫓から登楼する。下見板張り。
郡山城と共通する

     石垣の膨大な転用石

 郡山城の石垣は転用石が多いことで知られる。天守台には「逆さ地蔵」や羅城門礎石と伝わる築石が見学者の目をひく。表面を観察して700個ほどの転用石が確認されていたが、今回の石垣の解体修理で驚くべき数になることが判明した。天守台石垣の約1割が解体修理されたが、転用石は約600個に上ったのである。築石と盛り土の間に詰める裏込め石から多量に発見された。単純に計算すれば、天守台全体ではこの10倍、城全体ではどれだけの量になるだろう。何万、何十万という転用石が使われているのだろうか。

 転用石は五輪塔、石仏、礎石、地覆石、石臼など手当たり次第の感がある。『多門院日記』には、「当山(興福寺)内の大小の石がことごとく車で郡山へ運ばれた」「秀長が奈良中の家々に五郎太石(小石)を20個ずつ提出するように求めたところ騒動となり、あちこちで石の取り合いとなった」という記述がある。秀長は巨大な城を建設するために奈良の住民を総動員し資材も集めさせた。奈良は良い石材が少なく、身近に使われている石が多量に転用されたのである。礼拝の対象である五輪塔や石仏を石垣の石にするのは、従来の価値観の真っ向からの否定であり、当時の人々にどれほどの衝撃を与えただろうか。中世的な権威が失墜し世の中が変わったことを身をもって知らされただろう。文字通りの人海戦術で作られた郡山城の堀や石垣、戦国の世の人々の声が一つ一つの石から聞こえてくるような気がする。

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解体した石垣の転用石

参考
『きらめく瓦かがやく城 : 金箔瓦と豊臣郡山城 シンポジウム報告書』帝塚山大学考古学研究所・附属博物館
『よみがえる郡山城天守台 : 郡山城天守台展望施設整備事業竣工記念こおりやま歴史フォーラム資料』大和郡山市, 大和郡山市教育委員会
『ならら : 大和路, 2017.3月号, よみがえる天守台 : 郡山城の謎に迫る』地域情報ネットワーク
『柳沢文庫歴史シリーズ1 郡山城郡山城史跡・柳沢文庫保存会
郡山城天守台展望施設整備事業 紹介動画

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