114 ⑤写真家・入江泰吉の生涯

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     画家を志望した少年時代

 入江泰吉が生まれたのは明治38年(1905)、生家は奈良市片原町にあった。片原町の町名は現在存在しないが、高畑町の大乗院庭園文化館が建つあたりである。自伝の中で、「前に川があった」「裏の大乗院の池で鯉を獲った」ことが書かれている。「前の川」とは飛鳥川のことで、今は暗渠になっている。父芳治郎は古美術鑑定と修理を営んだ。母サトとの間に七男一女がいて、泰吉は六男であった。近くの飛鳥小学校に入学している。教科の中では図工が好きであった。兄の影響を受けて水彩や油絵をよく描いた。奈良女子高等師範附属小学校高等科へ進み、講堂の舞台で全校生徒を前に即興で虎を描いたりした。16歳の時には「画家になりたい」というはっきりした希望があり、日本画家の土田麦僊の「大原女」に惹かれ弟子入りしようとしている。

 長兄は「太平洋画会」に所属し、次兄は東京美術学校鋳金工芸を学んだというように、進路先に美術を選んだ兄弟が多い。父親の資質を受け継いだのだろう。弟子入りの話は実現寸前までいったのだが、次兄からプロの画家としてやっていくことの難しさを説かれて、断念したという。有名な日本画家の弟子になろうというのだから、その才能は周囲から認められるほどのレベルにあったと思われる。将来、写真家として大成する素地はこんなところにもあった。

 写真との出会いは、これも長兄の影響である。購入したベストコダックで撮影し現像する兄を見て、写真に興味をもった。大正14年(1924)、大阪の写真機材の卸商、上田写真機店に就職した。20歳であった。技術部に配属され、アマチュア写真サークルの月例会の裏方を務める。そのときの講評会が勉強になり、自分が撮影した写真も出品するようになった。風景写真を撮りたいという気持ちが芽生えていた。

     26歳で写真家として独立、映画製作にのめり込む

 昭和6年(1930)、26歳の入江は独立、心斎橋鰻谷仲之町に「光芸社」を構える。「自分には写真の師はいない。独学です」と後に入江は書いているが、助手の経験もなくいきなり独立したのは、それだけの自信と自負があったのだろう。南海電鉄沿線の名所・旧跡写真、関西汽船のPR写真などを引き受けた。また大阪営林局管内の各地の国有林の記録写真を撮った。北アルプス連峰も踏破している。元来蒲柳の体質であったが、この時の登山経験で体力がつき足腰が鍛えられたという。

 思いがけない仕事も入ってきた。黒部第四ダムが計画され、現地を視察して映画を作ることになった。その撮影を指名されたのである。前人未踏の谷を登攀し、ロープを身に巻いて絶壁から激流を撮影する。こんなことを繰り返して完成させた映画は、営林局の巡回映画として好評を博した。続いて営林局の山火事防止のPR映画『山の惨禍』のプロデューサーを務め、これも好評を得た。これらがきっかけとなり、映画製作にのめりこんだ。一般向けの時局便乗の劇映画『洋上の爆撃機』をプロデューサーとして手がけた。出資者もいたが、予算がはるかにオーバーしてしまい、映画は期待したほど買い手がつかなかった。写真機材すべて売り、親族に借金して急場をしのいだ。漫画映画なら受けるかも知れないと思い、カッパを主人公にした『突貫第一歩』を製作した。30分の映画に1万枚近くのセルの原画を手書きし、8ヶ月かけて完成さした。しかし収支とんとんで苦労のわりには見返りがなかった。映画製作の厳しさを知り、それから写真に専念することになったという。映画は当時の最先端をゆくメディアであり芸術であった。入江は若く野心もあったのだろう。

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光藝社の前で、左から二人目が光枝夫人

     光枝との結婚、文楽との出会い

 映画に夢中になっていたころ、入江は来山光枝と見合い結婚している(昭和9年)。光枝は広島県福山市呉服商の娘であった。入江より5歳年下である。この頃は経済的に苦しい時期であって、彼女の着物がお金にかわることもあった。入江が教えることはなかったが、店に出入りする客から学んで現像、焼き付けの技術をマスターし、店の仕事をこなした。後のことになるが、専門の助手を採用するまで奈良の寺社や野外の撮影では助手を務め、ライトを持ったりしている。料理や裁縫が得意で書道も趣味でたしなんだようだ。内助の功に徹して夫婦仲は非常に良かった。プリントした写真を入江が最初に見せるのは光枝夫人であったという。

 入江が文楽と関わるようになったのは偶然であった。知人が文楽に関する本を出すことになって、挿入写真として人形の撮影を頼まれたのである。首(かしら)を見るのは初めてであった。それぞれの人形が人間くさい強烈な個性を持っていることに驚いた。それから店の近くにあった四ツ橋文楽座へ通うようになった。昭和14年(1939)から足かけ5年に及んだ。当時の文楽は名人が輩出した黄金期であり、とくに人形遣いの吉田文五郎と吉田栄男は楽屋まで出かけて数多くの写真を撮った。昭和15年全日本写真連盟が主催した「新東亜紹介・世界移動写真展」のコンテストに「春の文楽」を応募、一等賞を射止めた。副賞は大阪商船の豪華客船による世界一周であったが、日中戦争拡大のため中止になった。翌年には毎日新聞社主催の「日本写真美術展」に「文楽」を出品し、文部大臣賞を受賞した。これらの受賞は、入江にプロとしての自信を与え、世間に写真家、入江泰吉を認知させた。大阪高島屋で初の個展「文楽人形写真展」も開いている。

 入江は昭和13年(1938)から内閣情報部がつくった写真協会関西支局のメンバーに加わっている。内閣情報部が編集する国策遂行のための宣伝グラフ誌『写真週報』のため写真を撮ることが仕事だった。

     戦災、奈良へ疎開、古社寺めぐり

 第二次大戦末期になると、若い男性は戦地にとられ、40歳に近かった入江が町内の防空班長に任じられた。昭和20年(1945)3月13日、大阪市街はB29の空襲で一夜にして焦土と化した。入江はなすすべもなく店舗兼自宅が焼け落ちるのを見守るしかなかった。「わが家は焼けない」という根拠のない思いがあったため、フィルムを疎開させるということもしていなかった。ただ光枝夫人が避難するとき文楽のフィルムだけを携行したため、幸いにして貴重な写真を今も見ることができる。翌14日、入江夫妻は一日かけて近鉄大阪線回りで奈良の実家へ疎開した。

 奈良では下宿を借りて住んだ。たまたま立ち寄った古本屋で亀井勝一郎著『大和古寺風物誌』の題名に惹かれて買い求めた。読み始めるとたちまち引きこまれた。「歴史を通しての大和への思慕を痛々しいまでに熱く綴った、大和讃仰の書であった」と入江は書く。『大和古寺風物誌』は大和の仏像や風物に精神的な救済を得る「求道の書」である。その姿勢は入江が置かれた状況の中で切実な共感を誘ったのだろう。戦争はまだ終わっていなかったが、これをきっかけに大和の古寺回りを始めた。

 「季節が秋を迎える頃、斑鳩の里を訪ねようとした時のことである。近鉄の筒井駅で下車し、駅前の家並みを抜けると、黄金色に輝く稲田がひらけ、ところどころに大和特有の切妻造りの白壁と藁屋根の農家が見えてきた。庭には赤く熟れた柿が鈴なりに実って、陽光に照り映えている。そのひなびた平和な風景を見ているうちに、戦争を、被災を、すっかり忘れてしまい、心を奪われ夢心地に誘い込まれていった。
 やがてはるか彼方の集落の上に、法起寺の塔がうっすらと見えはじめ、大和ならではの風趣に溢れた景観を目にすると、思わず「国破れて山河あり」という言葉が口をつき、この言葉がしみじみと実感されるのであった。そして青松の茂る法隆寺参道を通り抜け、南大門に立って堂塔伽藍を仰ぎみた時は、「よくぞ遺った』という思いに、涙が自然にこぼれ落ちた。」(『入江泰吉自伝』より)

 昭和20年の10月頃であろうか。入江は元来風景写真を志していた。風景に対する人一倍の感受性を備えていたはずだ。このとき写真家としてではなく素手で対面した風景に「夢心地」となり、「涙がこぼれ落ちた」。異常な状況であったが、またそういう状況であったからこそ、このときの風景との出会いが魂を揺さぶるほどの決定的な刻印をしるした。いうなれば、入江は自らの拠り所を見いだしたのである。これから40年間、入江は大和路を撮り続けるが、なぜ大和のあのような風景を撮り続けたのかと思うとき、このときの体験が出発点になったと考えると納得できる。

    三月堂四天王の帰還

 この年の11月17日、入江は三月堂の近くにいた。疎開させた四天王が白布にくるまれ担架で担がれ帰ってくるのに出くわした。このとき、堂守たちの噂話を聞いた。「アメリカが戦利品として京都や奈良の仏像を持ち去るらしい」という。入江は驚き動転し、今のうちに写真に記録しておこうと決心した。闇市で大型カメラと機材をそろえて仏像撮影の行脚が始まった。戦利品云々はデマであることがわかるが、こうして入江の郷里での本格的な撮影がスタートした。このエピソードは入江自身いろんな所で書いている。時代を感じさせるしドラマチックなので、入江の大和路撮影の原点のように受けとめられている。たしかにきっかけになっただろうが、動機としては外発的であり、しかもデマであった。もちろんこれがきっかけとなり、撮影しているうちに大和や仏像への入江の視点が成熟し深化していったのだろう。しかし決定的な出会いとなり、真に内発的な動機が形成されたのは、『大和古寺風物誌』を読み、古寺を尋ね大和を徘徊した半年間にあったと思う。

     上司海雲との再会、芸術家、文化人との交際

 発表の当てのない仏像や大和の風物を撮影しながら、近鉄南海鉄道のPR写真の仕事をこなして生活できるようになっていた。46年の早々、三月堂の仏像を撮っていたとき、幼なじみの上司海雲と20数年ぶりに再会した。上司は東大寺塔頭観音院の住職となっていた。上司海雲は「非常に器の大きい、大らかな人柄であり、人を楽しませることを楽しむ」人であったから、観音院は多くの芸術家、文化人が出入りするサロンになっていた。ここで入江も多くの知己を得て大きな影響を受けた。

 入江と上司は住居が近かったから頻繁な行き来があった。上司は「壺法師」という渾名があるぐらい骨董好きであり、入江も骨董の趣味があったから、骨董の話題になると二人は時間を忘れて語り明かしたという。上司から紹介されて交際があったのは、志賀直哉広津和郎会津八一、画家の杉本健吉、須田剋多の名前を挙げることができる。志賀直哉とは家族ぐるみのつきあいがあり、鎌倉の志賀邸へも招かれている。志賀は入江の最初の写真集『大和路』に序文を寄せている。「言葉を通してだけではなく、直接に先生の存在そのもの、姿そのものから受けたものは強烈であり」と入江は回想する。

 とくに親しくしたのは画家で同年齢の杉本健吉だった。杉本は観音院の一画にアトリエを借りて奈良の風景を描くことに没頭していた。お互いのとっておきの眺望ポイントを教えあったという。奈良市写真美術館であった「入江、杉本、須田三人展」の出展カタログを見ると、入江と杉本はアングルが共通する作品がいくつもある。 

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入江宅の客間で、中央が志賀直哉、左に入江夫妻、右は上司夫妻

     水門町に移転

 昭和24年(1949)には、水門町にあった家屋を購入して引っ越した。水門町は、片原町から移って少年時代を過ごした土地だった。家屋は茶室付きの離れで興福寺塔頭にあったらしく、大正時代に移築されたという。四間しかなかったが、入江夫妻は改修して部屋数を増やしていった。庭には椿などを移植し現像小屋も建てた。西の境界には吉城川が流れて、そこから林が広がる。旧東大寺境内で戒壇院に近く、東大寺を撮影した入江の数々の傑作もこの地の利に大いに助けられただろう。旧居は現在補修されて公開される。

 同年には大阪の百貨店で「大和古寺風物写真展」を開いた。2年後には同じ内容の写真展を東京の百貨店で開く。撮りためていた写真を世に問うたのである。来場者の反応は良く手応えがあり、大和の風景写真をライフワークにする決意が固まった。この展覧会で亀井勝一郎との出会いがあった。

    『大和路』の出版

 出版物や観光ポスターの仏像写真、『大和古寺風物誌』や『大和路・信濃路』の写真撮影、西村貞著『民家の庭』の庭の撮影など仕事が増えていった。昭和30年(1955)には専属の助手を採用している。32年に文芸批評家の小林秀雄白洲正子東京創元社小林茂社長を伴って入江宅を訪問、写真を見て即座に写真集の出版を勧めた。翌年、入江の初めての個人写真集『大和路』が上梓された。B4判、125枚のモノクロ写真を収める。定価8000円。志賀直哉が序文を寄せる豪華なものであった。当時は個人の写真集はまだ珍しかったなかで、5刷を重ねたという。ちなみに当時の8000円は.消費者物価指数で比較すれば今の48000円ほどになる。

 文芸批評の大家、小林が入江の写真をどのように見ていたのか興味がある。『仏像大和路』(保育社1977年)の「感想」と題した序文を寄せている。その一部を掲載する。

 「大和路といふ、広い意味での「なげき」が、先ずよく信じられていなければ、何事も始まりはしない。敢えて言ふなら、「大和路作品集』の魅力の本質的なところは、写真に映りはしない。よく信じられた心眼の運動は、肉眼を経て、シャッターを切る指の末端で終わる、といふ言い方をしてみてもいいなら、それは、ピアニストの熟慮された楽想が、鍵盤上のタッチで、機械の発する現実の音と折り合ひがつく、それと同じ趣を言ふ事になろうか」

 「モーツアルト」の作者らしく演奏家の演奏に喩えて写真芸術が語られる。写真家の表現したいこととそれへの抵抗としてのカメラのメカニズムが折り合ったところに生まれる写真芸術。入江が表現意欲をかき立てられる「大和路」を、芸術が成立する根拠である「広い意味での『なげき』」と捉えたところに小林らしい批評を見る。

 『大和路』の好評を受けて35年に『大和路第二集』を出している。この年には、浪速短期大学写真部の教授に就任した。「教えることを通して自分も学べるのではないか」という期待があったという。10年間教壇に立った。教え子や弟子たちが集まり「水門会」をつくり、研究会や展覧会を定期的に開き、これは現在も続いている。

     カラーの時代へ

 入江がカラー写真を撮るようになったのは遅かった。「絵のようにきれいなだけで情感のない退屈な写真」に失望して、自分のスタイルを模索したのである。(参考「歴史漫歩112入江泰吉の永遠の『大和路』カラー篇」)。新たな境地が開き、その成果は『古色大和路』(昭和45年)、『萬葉大和路』(同49年)、『花大和路』(同51年)の出版に結実した。この三部作で菊池寛賞を受賞し、入江の評価は定まったのである。このとき71歳であった。年表を見ると、この前後から毎年、何冊も写真集や共著が出ている。『花大和路』にすでに花への傾倒が現れているが、1980年代に入る頃から花だけを対象にする写真が増える。しかし晩年まで大和路と仏像は撮り続けた。

     器用、こだわり、集中力

 薬師寺の管長だった高田好胤は入江を「ジキルとハイド」と評したという。普段の温和で優しい入江は、撮影となると一変して厳しく近寄りがたくなる。これは助手が語る入江像に一致する。撮影時の集中力がすごくて、妥協せず、完璧をめざした。これと思った被写体には毎年訪れて粘り強く決定的な一瞬を待ち続けた。そのため前年の三脚の穴が残っていて、同じ位置にまた三脚を据えるということもあったという。

 器用な人であった。自ら木工大工でレンズケースを作ったり、撮影現場のゴミを取り除くための釣り竿のようなものを手づくりした。ガラスに文楽の首を描いたガラス絵、檜の端材をノミで刻んだ木端仏(こっぱぶつ)の制作が趣味であり、百貨店で開いた展覧会では人気を呼んですぐに売れ切れた。

 光枝夫人によれば、おしゃれであり、自分の服はもちろん夫人の服も見立てたという。夫人の手料理をなにより好み、盛り付けしたお皿が多ければ機嫌が良かった。

 入江が亡くなったのは、平成4年(1992)1月16日であった。夫妻には子どもがなく、全作品は著作権ごと奈良市に寄贈され、これをもとに入江泰吉記念奈良市写真美術館がこの年の春に開館する予定だった。その開館展の目録に手を入れながら、眠るように目を閉じたという。享年86。最後まで現役の写真家を通した人生であった。

参考
入江泰吉著『大和路遍歴』(法蔵館1981年)
入江泰吉著『入江泰吉自伝 「大和路」に魅せられて』(佼成出版社1992年)
入江光枝「回想 入江泰吉と歩んで」(『回想の大和路』集英社1994年)
奈良歴史漫歩78「入江泰吉旧居見学記」

113 ④入江泰吉の永遠の「大和路」カラー鑑賞篇

 入江泰吉は、風景写真を志す若者へのアドバイスとして次のようなことを書いた。「風景写真は、単にそこにある風景を写せばよいというものではない。映像の中に、情感や、いうにいえない気配が写っていなくては、人の心に感動を呼ぶものにはならないと思う。しかし、情感や、いうにいえない気配というものは、実際は写りはしないのである。……しかし、映像を通して見る側に、そういうイメージへいざなうような手掛かりとなる何かを設けておかなければならない……」「ことさらに作為のあとが見えすぎることも好ましくない。ともすれば作為が加わりすぎることによって、目的とする主題の訴求力が薄れる結果になりかねないからである。あくまでも、選んだ主題を観る側にいかに通じさせるかということを前提とした、つまり主題を生かすための作為であってほしい」

 これは入江自身による自作の解説でもあった。そして「若い作家に作品の批評を求められたりすると、画面構成上の優劣よりもまず何を狙っているか、という作者自身の視点についての見解を述べる」と書く。作者自身の視点がはっきりしていないと、漠然とした単なる風景写真に堕してしまうからだ。

 助手を務めた矢野建彦氏は、入江流の美学について「一言でいえば『シンプルさ』であり、『引き算のフレーミング』」と語る。入江が風景写真に求める狙い、すなわち主題が明確であるから、画面の構成も徹底的に切り詰めて明確である。余計なものが入ることはない。それが「シンプルさ」の意味だろう。理性的な分析を働かせながらも、元になるのは風景に感応する作者の感性・感情であり、そこに生まれるイメージは入江独自のものであった。

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 東大寺南大門を焦点にしながら降る雪が写しこまれる。雪は細かい粒子のようであり、大きな点となり、レンズに付いた滲みもある。雪のいろいろな形、無数のかすむ白い模様が視界の激しい動きを現す。その中に南大門は不動の存在感を持って立つ。中央の一部だけが写ることで巨大さを印象づける。柱や貫、桁の風化し褪せた色彩が雪と重なって一層まだら模様となり、経てきた歳月を感じさせる。降る雪は過去を現在へ引き寄せる。あるいは現在を過去へ引き戻す。平家の焼き討ちに遭い一山焼失した東大寺は、重源らの勧進により復興する。そんな歴史の興亡が、雪の激しく舞う南大門の画面の奥に見え隠れする。「降る雪や亡びし者の鬨の声」

 

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 勝間田池(大池)越しに薬師寺東塔を望む。入江は独自のアングルを見いだしては、それが大和路の定番となったものが多い。このアングルの写真も大和路を代表するものになった。入江は池越しの東塔の風景を好み、モノクロ時代から四季を通じて撮影に通った。

 真夏の強い日差しと草いきれが匂うような場面である。植物の緑と水と空の青、入道雲の白が画面を区画する。目のくらむような真夏の雰囲気は十分伝わるが、抑制した落ち着きのある色で、この色調は入江作品に共通した独特の深みをもたらす。画面の中央やや左寄りに東塔が樹木に隠れて立つ。相輪と三層目の屋根、塔身しか見えないというのが、偶然だろうが絶妙である。画面の半分を占める空のまた大半が入道雲で、雲の頂上から視線を下ろすと真下に相輪がある。塔の真下に目を移すと、真菰(まこも)または葦(?)が画面の左隅から一番手前で茂っている。ここに中軸ができて、画面の左側に重心があり、右側にやや空白を作る。非対称的な画面構成が心地良い。池の水面も影が写りさざ波がたって、複雑なグラデーションの模様ができる。

 自然が圧倒的に横溢する中で人工物は塔だけであり、黒ずんだ塔は自然に同化しているようだ。古代の都として栄えた奈良も長い歳月のうちに滅ぶものは滅び、残るものは自然へ帰り行く。大きな風景の中で「滅びの美」を捉えた傑作だ。復興された金堂や西塔も入った入江の作品もあるが、私にはグロテスクに見える。千年後には落ち着くかも知れない。

 

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 ススキが風に激しくなびいて、遠くに法隆寺五重塔が見える。左にたわんでなびく穂の白い輝きと枯れた茎、葉の陰影の対照が鮮やかである。この写真を見ると胸騒ぎする。椿事の予感が告げられているようで。643年12月20日蘇我入鹿山背大兄王を討ち取るべく兵を派遣する。生駒山に逃げた大兄王は戦いを避けて、上宮一族もろとも自害して果てる。この大事件が脳裏にあるからだろう。法隆寺斑鳩には古代史の光と影がつきまとう。それはいろいろなきっかけを得ては物語を生む。ススキの群落が強風になびいて左右に分かれ、そこに出現した古代の塔、さながら舞台の幕が上がったばかりのようだ。

 助手だった矢野建彦氏がこの写真を撮ったときのことを語っている。「あの撮影の日は大変寒かった。あの時もずいぶんと風を待ちましたね。あまりの寒さに手がかじかんで、先生がシャッターを押せなくなってしまった。それで、二人でススキの下にもぐり込んで風の当たらない所で、身体の中に手を入れて暖をとって手のかじかみがなくなってから撮った写真があの作品です」

 

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 飛鳥大原の早春。入江は飛鳥の農村の鄙びた風景を好んで撮ったが、今はもうこんな写真は飛鳥であっても撮るのは無理だろう。私は1952年生まれで、今も住む奈良市西郊は幼年期にはこのような田園が広がり、そこが遊び場だった。だから、これは私の「ふるさと」の原風景である。今も田は残るが、これほどの幅の道は農道として舗装され、水路はU字溝となった。藁塚もなくなった。春めくと、幼い私たちは川の土手や田んぼの畦に出て土筆を探した。なずな、ふぐり、たんぽぽ、れんげ、クローバー、スイバなどが次から次へ咲き地面を埋め尽くす。地道には轍が刻まれて、そこだけはいつも土の色を残す。小川には水草が揺らめき、メダカやフナの影が走ると必死になって網ですくった。

 この風景には幼い私ばかりではなく、千年の何十もの世代の人の気配がある。土地を耕し収穫し暮らしてきた人々の営みが、この風景を作ったのだ。すべてを人力に頼り、役牛の助けも借りながら繰り返されてきた営みが、ほぼ千年の間この風景を変えずに保たせ続けてきたのである。

 

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 長谷寺本堂の外廊下に吊り下げられた提灯。暖かな赤みがかった色に点る。廊下の角にて巨木の枝が背後に伸びる。山が迫ってもうもうと茂る樹木の濃い緑が視界を遮る。廊下の床板、欄干、擬宝珠、本堂の柱、長押、板壁は歳月を経て黒ずみ磨り減り、無骨ながら堂々とした風格がある。圧倒的な自然の力に対抗する自然の樹木からできた人工物、緑と黒を基調とする視界の中で、提灯の明かりの色が柔らかな雰囲気をもたらす。そこに人の気配を感じる。少し前に明かりをともした人であり、何百年とこのお堂を守り続けてきた人々の優しい気配である。

*文中の引用は、入江泰吉入江泰吉自伝』(佼正出版社)より。

112 ③入江泰吉の永遠の「大和路」カラー篇

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東大寺塔頭跡『古色大和路』より

 入江泰吉が「大和路」の写真家として評価を確立した三部作『古色大和路』、『萬葉大和路』、『花大和路』は、1970年から76年にかけて上梓された。高名な作家、評論家、俳人歌人、随筆家、学者がエッセイを寄せ、詳細な解説も付く超豪華な大型の写真集である。入江は生涯で数え切れないほどの受賞、表彰歴を持つが、「古都奈良の社寺と自然を見事な写真芸術に仕上げた色彩美」を理由に三部作に与えられた菊池寛賞は、戦前の作品「文楽」に対する「新東亜紹介・世界移動写真展一等賞」と「文部大臣賞」とともに写真家人生に大きく影響した栄誉だった。

 特に『古色大和路』と『萬葉大和路』に収められた写真は入江の代表作となり、以後、あらゆるメディアで繰り返し紹介されて、「大和路」の決定的なイメージを作ることになった。

 これらの写真の特長を挙げると、まず人物が消えている。現代を感じさせる人工物が写らない。人物、自動車や舗装道路、ビル、現代風の民家、コンクリートの電柱……、現代の風俗が徹底的に排除されている。被写体の主役となるのは自然である。自然そのものではなく歴史と一体になった自然だ。風雪に耐えた古代の寺社仏閣はもちろん、朽ちかけた遺物が好んで取り上げられる。石垣のみ残った東大寺境内の塔頭、松林の中に礎石が整列する東大寺講堂跡、高畑の今にも崩れそうな土塀、落ち葉に埋まった頭塔の石仏、平城宮跡大極殿基壇の一本松。

 入江の写真を指して「滅びの美」とはよく言われる言葉である。人が作り上げたあらゆるものは長い歳月の中で滅び消えていく。そして自然に帰っていく。自然に帰ったもの、帰ろうとするもの、帰る予感にあるものは、自然の美で荘厳される。モノクロ写真でも「滅びの姿」は捉えられていたが、それは「自然との調和」に収まるものだった。現代が捨象され自然が色彩を持って表現されることで「滅びの美」が見いだされたのである。滅んでいくものはなぜ美しいのか。それは本来の姿に帰るからだ。現代の風俗はなぜ美しくないのか。それは突き詰めればもともと自然には存在しなかった素材で出来上がっているからだ。滅んでも自然に帰るには途方もない紆余曲折がある。自然を美しいと感じる感性は、生命の歴史に根ざしている。現代を享受しながら感性的な居心地の悪さから逃れられない我々に、入江の大和路の写真はオアシスのような存在となる。

 入江が本格的にカラーで撮影するようになったのは、1963年からであった。最初「絵のようにきれいなだけで情感がない」カラーに違和感を持った。自分が表現したいカラーを求めて、「色を殺し」渋くて深みのある「古色」に行き着いた。『大和路第二集』の巻頭に載る大和三山を遠望したカラー写真と『古色大和路』の写真を比較すれば相違は明らかである。筆者は写真の技術的なことにはまったく無知だから、この違いがどこから来るのかわからない。フィルムやカメラ、出版印刷技術の進歩はもちろんあるだろう。しかし写真は基本的に機械の反応なので、写真家の思い通りの色を出すことは難しい。写真家が風景写真で選べるのは構図とともにシャッターチャンスである。刻々と移り変わる気象条件や季節や時間の変化による光の状態を計算・判断して決定的な瞬間を捉える。風景は静止しているから何時でも撮影できるように思うが、そうではない。何日も通い同一場所に三脚を立てその度に何時間も待ちつつけ、風が吹いた瞬間や雲間から日が射した瞬間を狙う。この時、写真家の脳裏には意図したイメージがある。構図とともに色の効果も計算されているのだろう。

 現代の風俗を画面に混入させないため、入江はいろいろ工夫した。初期には、遠くから奈良盆地の広い風景を撮って現代の人工物が定かに写らないようにした。遠くから超望遠レンズで捉えて目標物の周辺を視野から外す方法もある。よく使われるのが、霧や霞で遠くの風景が隠れることである。これは余計なものが写らなくするとともに、画面に余情をもたらした。昼間の晴れた風景はあまりなく、朝か夕暮れか、煙霧がかかっているシーンが多用され、小雨や雪のシーンが加わる。「入江調」「入江節」とも呼ばれる湿度感の高い情緒ある風景だ。

 60年代はすさまじい勢いで景観の破壊が進行していたが、このような工夫をして、まだ辛うじて残っていた斑鳩、西ノ京、飛鳥の昔ながらの農村風景を撮影できたのは幸いだった。70年代に入ると、いよいよアングルは限られてくる。狭い限定されたアングルであっても色彩に中心をおいて意図した表現は可能だった。奈良の現実の風景が壊れていく中でも撮影が続行できたのは、色彩をもって滅びの美を表現するテーマのおかげだったといえる。しかし時とともに被写体は固定化していくのは否めなかった。

 入江の写真は平易で美しく、大和路の理想化されたイメージとして受け取られ易い。確かに出版物に載る写真からは表面の美しさの奥にある余情を十分味わうのは難しいかも知れない。私も写真が秘める複雑な情感を味得したのは、奈良市写真美術館でパネルにプリントされた大型の画面からだった。出版物の印刷では絶対表せない色彩の美しさに触れて、そこに湛えられた情感に浸った。一つ一つの作品に癒やされるようだった。

 現実の奈良大和は「滅びの美」も滅ぶ時代となって、ただただ荒廃があるのみだ。その中で、入江の大和路は一つの夢のようにも思える。いつ撮影されたかはどうでもよくなって、「滅びの美」を湛えたイメージが自立してそこにある。「歴史が自然に回収される」ことが「真理」であり、また「信仰」だとすると、そのイメージが永遠性を帯びるのも当然だろう。

 入江は万葉集に歌われた花への関心から花そのものを被写体として、晩年には精力的に撮影した。撮影できる景観の減少や体力の衰えも理由だろうが、美の原点に自然があった彼には必然的な成り行きだった。「ピントグラスのなかに花を生ける思いで撮る」と述懐している。カメラをとおした自然への帰依と言えば言い過ぎだろうか。

参考
『古色大和路』(保育社1970年)
『萬葉大和路』(保育社1974年)
『花大和路』(保育社1976年)
『古色大和路』(光村推古書院2012年)
『回顧入江泰吉の仕事』(光村推古書院2015年)
『大和路遍歴』(法蔵館1981年)
入江泰吉自伝 「大和路」に魅せられて』(佼成出版社1992年)

111 ②入江泰吉の郷愁の「大和路」モノクロ鑑賞篇

 司馬遼太郎は、『街道をゆく』の中の「竹内街道」で次のように書き記している。「言霊ということばはわれわれにとってなるほどいまも妖しく、『大和は国のまほろば』などと仮にでもつぶやけば、私の脳裏にこの盆地の霞がかった色調景色が三景ばかり浮かびあがり、それらのネガはいずれも少年のころに焼きあがったらしく、いまの現実の奈良県の景色とはずいぶんちがっている。いまの現実の、この日本でももっとも汚らしい県の一つになってしまった風景は、ここ十年来大阪あたりから出てきたおでこのピカピカ光った連中がつくりあげたものである。……」。「おでこのピカピカ光った連中」とは、宅地開発のデベロッパーを指す。書かれたのは、『街道を行く』の連載が始まったばかりの70年代の初めであった。あれから半世紀。司馬が脳裏に浮かべた盆地の「まほろば」の景色は、入江のモノクロの写真に偲ぶことができる。現在、その景色はどのように激変しただろうか。googleストリートビューで尋ねてみることにした。二つの景色の間に横たわるのは、60~70年の歳月。この間の盆地が体験した有史以来の変貌が見て取れるだろう。

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 喜光寺奈良市菅原町)の前から東方向を望む。左奥の大きな屋根は西蓮寺、現在も同位置にある。彼方に若草山が見える。昭和20年代後半の撮影。画面の中心を占めるのは、地道である。左手前から右斜め方向に伸びて左に曲がる。地道の白さと緩やかなカーブが強い印象を与える。道に沿って咲く花のかたまりは菜の花だろうか。早春の田園風景、二人が遠去かっていく。見るだけで、こんな道を歩く心地良さが伝わってくる。

 (下)Googleストリートビューでほぼ同じ視点から画面を切り取った。ただし比較のためにグレースケールに置き換えた。喜光寺の南門が復元され、西蓮寺は隠れてしまった。画面の右は国道385号線が通り、その高架バイパスが視界を遮る。中央の道がかつての地道であったと思える。喜光寺はかつて荒れ寺で、会津八一は「ひとりきてかなしむてらのしらかべにきしやのひびきはゆきかえりつつ」と詠んだ。現在立派に復興したが、歌の情緒はもはやない。まことに味気ない現代的な光景である。

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 秋篠川極楽橋から薬師寺東塔を望む。季節は夏のようで、両岸は深い草で覆われている。人や荷車がやっと通れるほどの木橋が懐かしい。空が画面の三分の二を占めて、地上の緑の濃さと雲の白さが対照をなす。その中で東塔の直立した相輪が力強く、塔の存在を印象づける。入江は東塔を遠くに配した風景をいろいろな地点から撮影している。西ノ京は斑鳩と並ぶもっとも大和らしい景観の宝庫であった。しかし70年代に入ると、両地域ともにほとんど撮影されなくなる。

 (下)秋篠川は護岸工事が行われ、コンクリートの堤防と舗装した遊歩道で固められてしまった。その人工的で直線のラインが寒々しい。2019年の撮影で、東塔はまだ覆いの中に隠れる。

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 法隆寺東大門を出てすぐのところに北へ向かう細い道がある。高い土塀が続いて法輪寺法起寺への斑鳩散策ルートにあたる。突き当たりに天満池があり、堤防に沿う道を東へ進む。その堤防から南東方向を見た昭和20年代の風景。見渡す限り田んぼが広がる。その中を白い地道が半円の弧を描き、田の間を縫って伸びていく。農夫が二人向きあっているのも想像を誘う。一人ではなく二人、しかもこの位置であることは画面構成上動かない。演出でなければ、人がここに来ることを待ち続けたのだろうか。入江はこの半円状にカーブする道を気に入ったらしく、ここを歩く人をいろいろな角度から撮影している。

 昭和初期までの法隆寺参拝を綴った文章によく出てくるのは、最寄りの駅から寺へ向かう道のりの素晴らしさである。砂利道の日光の反射に眼を細めながら松並木の間を歩いて行く、あるいは黄金の稲穂が垂れて四方を埋め尽くす中に塔が見えてだんだん近づいてくる。そのときの胸の高鳴りは、その経験がない私にもよくわかる。今の斑鳩にそんな風情はない。寺だけが街の美術館となった。

 (下)堤防に沿った道と半円状の道の分岐点から撮った景色である。堤防の上から見下ろしていないので、わかりにくいが、かつての地道は車がすれ違えるぐらいに拡幅され、倉庫や民家、事務所が建つ。田んぼも残るが、建物が非常に増えた。

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 大和棟の屋根や漆喰の白壁が美しい集落に鯉のぼりが泳ぐ。背後の森は耳成山の裾であり、遠景に二上山がかすんでいる。手前の田の作物は麦である。昭和34年の撮影。奈良盆地は隅々まで耕作され、海の中に小島が散らばるように小さな集落が点在していた。そして大和棟と白壁の家が独特の集落景観を作った。小津安二郎監督の映画『麦秋』(1951年)のラストシーンにこの風景が登場する。小津映画には珍しい移動撮影が用いられて、スクリーンいっぱいに波打つ麦の穂越しに耳成山が映し出される。

 (下)デベロッパーによる新興住宅が耳成山を包囲して裾野まで押し寄せる。住宅街の中に取り残されたように山が見える。

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 明日香村川原寺付近の風景。昭和30年代前半。左後方に見えるのが川原寺、収穫した田にはワラススキと呼ばれる藁塚が立ち、道も地道。背丈が似た庚申塚と女子生徒が並んで立つのも微笑ましい。明日香に観光ブームが押し寄せる前の鄙びた感じがいい。

 (下)寺の南側の田に発掘調査が入り、一塔二金堂の伽藍様式であることがわかった。その基壇跡や柱跡が復元されている。庚申塚は残されて、その前は広い道幅の県道となった。道の角には自販機が並ぶ。入江は、明日香で進む「保存」という名の自然破壊に異を唱えた。「飛鳥古京の現状は、千三百余年の時の流れのままに、遺るものは遺り、滅びるものは滅びて今日に至ったものであり、いわば成り行きにまかせられてきたのだが、五年前ごろからは、そうではなくなってしまった。(この文章の執筆は昭和50年=筆者注)……何気ないひなびた農山村の辺りに立って、その今日的な風物のうちに宿るかつての飛鳥の歴史、あるいは万葉人の歌心などを、フィルターを通して眺めるとき、さまざまなイメージが際限なくひろまってゆく。私は飛鳥の、そういう心象的な滅びの美を捉えたい。コンクリートや人造石などでは、どうにもイメージは湧いてこないのである。」(『大和路遍歴』より)

 川原寺の伽藍跡をコンクリートや人造石を使用して復元されたことに強い失望感を表明する。入江の作品にはいわゆる考古学的復元物が入ることはなかった。

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 *入江のモノクロ写真は『昭和の奈良大和路』(光村推古書院)から

参考
司馬遼太郎街道をゆく1』(朝日文庫
会津八一『自注鹿鳴集』(新潮文庫
入江泰吉『大和路遍歴』(法蔵館

110 ①入江泰吉の郷愁の「大和路」モノクロ篇

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勝間田池の堤防から薬師寺東塔を望む 昭和30年代前半『昭和の奈良大和路』から

 入江泰吉(1905~1992年)の最初の写真集『大和路』(東京創元社)が出版されたのは、1958年(昭和33年)であった。その前年、文芸批評家の小林秀雄が、東京創元社の社長、小林茂を伴って水門町の入江宅を訪れ、写真を見てその場で即座に出版を勧めたということだ。

 入江は1945年(昭和20年)の3月、空襲で営んでいた大阪の写真店が焼かれ、着の身着のままで生まれ故郷の奈良に疎開した。40歳であった。その年の末から、機材を闇市でそろえ、奈良の仏像や風景を撮影するようになっていた。その成果は、大阪や東京の百貨店で個展「大和古寺風物写真展」を開いたり、亀井勝一郎の『大和古寺風物詩』や堀辰雄の『大和路・信濃路』の挿入写真に採用されたから、入江の写真は世間に知られるようになってきたといえる。

 文芸批評のすでに高名な大家であった小林秀雄がわざわざ足を運んで、写真集出版を慫慂したことに驚く。小林はどこかで入江の写真を見て、一流の芸術を感得したのだろう。B4判、125枚のモノクロ写真を収める。定価8000円。小説の神様志賀直哉が序文を寄せる豪華なものであった。当時は個人の写真集はまだ珍しかったなかで、5刷を重ねたという。

 入江の大和路の写真はカラーのものが知られていて、今はモノクロの写真はあまり知られることはないが、大和路の写真家として出発し評価を得たのはモノクロ時代においてであった。

 『大和路』の好評を受けて、1960年(昭和35年)に『大和路 第二集』が上梓された。この頃にはすでにプロの世界ではカラー時代に入っていた。入江はモノクロ表現へのこだわりがあり、新たなカラーの扱い方をめぐって長い試行錯誤があったようだ。カラーで本格的に撮影するようになったのは63年頃からで、それは70年の『古色大和路』、74年の『萬葉大和路』、76年の『花大和路』の三部作に結実する。菊池寛賞を受賞した三部作により入江は評価を確立し、以後多くの写真集やポスターなどで入江調と呼ばれる「大和路」は流布し浸透していくのである。

 モノクロの写真が「発掘」されたのは、1992年(平成4年)1月から翌年の6月まで朝日新聞奈良県版に連載された「うつろいの大和」がきっかけであったように思う。入江が主に50年代に撮影した大和の各地の風景を同じ地点から撮った今の風景と比較するという企画だった。実は私もこの連載を毎回、興味を持って読み、カラー写真しか知らなかった入江の過去の仕事に関心を抱くようになった。入江は92年1月に亡くなっているが、この企画には非常に乗り気になってネガフィルムを提供したという。

 1994年に集英社から『回想の大和路 入江泰吉写真集』が出た。A4判、182枚のモノクロ写真は主に大和の風景写真である。これには衝撃といっていい感動を覚えた。入江のモノクロ写真を鑑賞するに今のところ最良の写真集である。

 奈良市写真美術館は入江の全作品が著作権ごと寄贈されて92年4月に開館した。常時、入江の作品展が開かれているが、モノクロ写真のテーマ展示もときおりある。2005年(平成17年)の「古都の暮らし・人 昭和20年から昭和30年代」は、奈良市内の風俗写真とでもいうべき人物が多数写った作品が集まり、入江の意外な一面が知られる。そのカタログが発行されている。

 写真美術館が編集した『入江泰吉の原風景 昭和の大和路 昭和20~30年代』(光村推古書院 2011年)は小型版であるが、220枚ほどの多彩なモノクロ写真が収められ見飽きない。現在、入手できる写真集としては、写真美術館編集の『回顧 入江泰吉の仕事』(光村推古書院 2015年)があり、時系列で紹介される作品の中にモノクロも含まれる。

 カラーとモノクロ写真、どちらも一貫した入江の「眼」を感じるが、同時に色の有無を超えた相違とカラーにはない魅力がモノクロの写真にはある。モノクロの風景や風俗の写真を見て感じるのは。まず懐かしさである。そして美しいことである。農村や町の広角の風景がそのままに捉えられ、そこには余計な物が一切なく、白と黒の階調が完璧な調和を果たしているように見える。入江はモノクロ写真を撮るときは「色のある現実世界を一旦自分の目の中でモノクロに置き換えたうえで、いわば心的作用に基づいてトーンを整え、画面構成を図る」と語っている。シャッターを押す前に、写真家の頭の中にはプリントされて出来上がったイメージが見えている。田んぼ、道、川、池、民家、人物、樹木、草花、寺社、山、空、雲、……。それぞれが黒と白のグラデーションの中で強調されるばかりでなく、これらの存在そのものがコスモス(秩序)をなして、見る者に安らぎを与える。入江は「飛鳥路早春」(「毎日新聞」1954年3月15日 『回顧 大和路』に採録)の中で次のように書き記す。

 「…(雷丘へ)登っていくと、西側の岡の真下の民家の庭いっぱいに梅の花が咲いていて、その花ごしに豊浦の里がつづき、はるか西には、すんなりとした稜線の畝傍山が見られた。…のどかというよりすべてのものが眠っているような静けさであった。人の気配すら感じられなかった。しばらく見入っていたが、ふと旅愁のような不思議な気持ちに襲われて、じっと落ち着いていられなくなり、もとの豊浦に出て、そこからすぐの神南備山(甘樫丘)へ登った。ここから西北に見下ろせる大和国原のながめは、おそらく一番よく飛鳥路にふさわしい面影を残しているのではないだろうか。画面の中央に飛鳥川が深く弧を描いて、その左に畝傍、右に耳成、香具の三山が配置よく浮かんでいるし目のとどくかぎり開けたたんぼの黄土と麦の緑との美しいしま模様やそのところどころに白壁の村落や森が点在しているのも美しかった。なに一つとして不調和なものも色もなく実に美しく自然と生活がとけあっていた。

 甘樫丘から展望する大和三山を入れた「なに一つとして不調和なものも色もなく実に美しく自然と生活がとけあっていた」パノラマは、先に挙げた写真集で見ることができる。このような大和の風景が、戦争ですべてを失い明日の行方分からぬ戦後の混迷のただ中にあった入江の心を救ったのであった。国破れて大和の山河があったのだ。

 大正から昭和にかけて知識人の間で一種の大和ブームとでも称すべき現象があった。和辻哲郎『古寺巡礼』、亀井勝一郎『大和古寺風物詩』、堀辰雄『大和路・信濃路』、会津八一『南京新唱』などが発行され、志賀直哉が高畑に移り住み、彼を慕う作家や美術家が集まった。彼らの関心は主に仏像、古美術にあったが、奈良の風物、風景も賛美する。志賀は奈良の印象を「名画の残欠」と表現した。入江のモノクロの風景写真を見ると、作家たちが大和に惹きつけられたことが納得できる。

 写真を見ていると、いろいろなことに気づく。画面の中でもっとも白く輝いているのは、漆喰の白壁である。民家や寺院の白壁は目をひき、アクセントになる。人物のシャツや割烹着、手ぬぐいの白も引き立つ。雲や石は白ぽい灰色、道は地道でこれも白ぽい。道は画面構成の上で大きな意味を持つ。画面の手前から入り奥へと伸びて、奥行きをもたらす。時に道はカーブして快いリズムを生む。道を行くのは人、荷車、リヤカー、牛、自転車であり、車はわずかにボンネットバスを見かけるぐらいだ。人工物といえども素材は自然のもので、プラスチックなどまだ出回る前の時代である。

 横軸、縦軸、斜めの軸が巧みに組み合わされハーモニーを生む。田んぼや畑の畦や畝、屋根の棟や瓦の葺き筋、橋の欄干や川の井堰、樹木の幹や電柱、盆地を囲む青垣山の稜線などあらゆる被写体がラインと黒白濃度の面を意識して構成される。ここにはモノクロ写真の特性が極限まで発揮されている。おそらく実際の風景よりも美しいイメージが表現されているのだろう。大和の風景はモノクロ写真で捉えるのに適していたが、もちろん入江の才能があってそれが実現したのである。

 入江はスナップ写真も撮っていて躍動感ある人物が写る。子供が写った写真は秀逸である。仏像写真は文楽写真や肖像写真と共通したものがあって、これにも入江は才能を発揮したが、これは他の機会で述べたい。

 風景写真の中の人物は風景に溶け込んでいて、風景にライブ感が生じるようだ。後のカラーの風景写真とは対照的にモノクロの風景には時間が流れている。それはまさしく撮影された時点の風景なのだ。郷愁を覚えるのもそのリアリティから来ている。それゆえこれらの風景も失われていく宿命にあった。『大和路 第二集』の序文で入江はこのように書き記した。

 「近ごろ、大和路を歩きながら淋しく感じることがある。それは、いわゆる大和路の名の、なつかしいひびきを伝える古寺や、遺跡の周辺の、ひなびた情緒が、徐々に失われつつあることである。……社寺建築や佛象彫刻、あるいは史跡、天然記念物などは、一応、国で護られているから、心配しなくてもいいだろうが、それらを中心に、大和路を形づくっている自然の美しさの壊れてゆくのは、いかにもさびしい。すこし飛躍しすぎる考え方かもしれないが、何十年かさきには、大和路のよさは亡びて、古社寺はさながら街の美術館的存在とならないともかぎらない。

 1960年に洩らした懸念は、まさにその通りになってしまった。「大和路のよさは亡びて、古社寺はさながら街の美術館的存在」となってしまったのである。大和の景観は、千年、二千年にわたる人の営みの上に成り立っていた。自然に依存し働きかけ折り合いながら暮らしてきた証の一つ一つが、その景観に刻まれていたのである。大和の自然と調和した風景の美しさの拠ってきたる所以であり、昭和の初期までこの伝統は存続し、作家たちはここに「大和路の美」を発見した。だが高度経済成長は自然との調和を終焉させ、奈良のみならず全国の景観は一変することになった。

 「大和路の美」を追究してきた入江は、日々破壊されていく風景を前にして難しい立場に立たされた。そしてもう一つ、時代がカラー写真を要請する中で入江もそれに応じざるをえず、カラーでもって大和路をどう表現するかという課題に直面したのである。

 参考
『大和路』(東京創元社1958年)
『大和路 第二集』(東京創元社1960年)
『うつろいの大和』(かもがわ出版1994年)
『回想の大和路 入江泰吉写真集』(集英社1994年)
『古都の暮らし・人 昭和20年から昭和30年代』(奈良市写真美術館2005年)
入江泰吉の原風景 昭和の大和路 昭和20~30年代』(光村推古書院2011年)
『回顧 入江泰吉の仕事』(光村推古書院2015年)
『大和路遍歴』(法蔵館1981年)
入江泰吉自伝 「大和路」に魅せられて』(佼成出版社1992年)

号外 検察庁法改正案に反対する松尾邦弘・元検事総長ら検察OBの意見書

https://digital.asahi.com/articles/ASN5H4RTHN5HUTIL027.html?iref=comtop_8_01

 検察庁法改正に反対する松尾邦弘・元検事総長(77)ら検察OBが15日、法務省に意見書を提出した。ここには、改正法案の問題点が詳細に述べられている。そして司法の三権分立の大原則が壊されることへの強い危機感があふれる。

 「正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない。黒川検事長の定年延長閣議決定、今回の検察庁法改正案提出と続く一連の動きは、検察の組織を弱体化して時の政権の意のままに動く組織に改変させようとする動きであり、ロッキード世代として看過し得ないものである。関係者がこの検察庁法改正の問題を賢察され、内閣が潔くこの改正法案中、検察幹部の定年延長を認める規定は撤回することを期待し、あくまで維持するというのであれば、与党野党の境界を超えて多くの国会議員と法曹人、そして心ある国民すべてがこの検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出ることを期待してやまない。」

 最後にこのように結ばれて、国民へのメッセージが発せられている。デジタル.asahi.comから全文を引用する。

 東京高検検事長の定年延長についての元検察官有志による意見書

 1 東京高検検事長黒川弘務氏は、本年2月8日に定年の63歳に達し退官の予定であったが、直前の1月31日、その定年を8月7日まで半年間延長する閣議決定が行われ、同氏は定年を過ぎて今なお現職に止(とど)まっている。

 検察庁法によれば、定年は検事総長が65歳、その他の検察官は63歳とされており(同法22条)、定年延長を可能とする規定はない。従って検察官の定年を延長するためには検察庁法を改正するしかない。しかるに内閣は同法改正の手続きを経ずに閣議決定のみで黒川氏の定年延長を決定した。これは内閣が現検事総長稲田伸夫氏の後任として黒川氏を予定しており、そのために稲田氏を遅くとも総長の通例の在職期間である2年が終了する8月初旬までに勇退させてその後任に黒川氏を充てるための措置だというのがもっぱらの観測である。一説によると、本年4月20日に京都で開催される予定であった国連犯罪防止刑事司法会議で開催国を代表して稲田氏が開会の演説を行うことを花道として稲田氏が勇退し黒川氏が引き継ぐという筋書きであったが、新型コロナウイルスの流行を理由に会議が中止されたためにこの筋書きは消えたとも言われている。

 いずれにせよ、この閣議決定による黒川氏の定年延長は検察庁法に基づかないものであり、黒川氏の留任には法的根拠はない。この点については、日弁連会長以下全国35を超える弁護士会の会長が反対声明を出したが、内閣はこの閣議決定を撤回せず、黒川氏の定年を超えての留任という異常な状態が現在も続いている。

 2 一般の国家公務員については、一定の要件の下に定年延長が認められており(国家公務員法81条の3)、内閣はこれを根拠に黒川氏の定年延長を閣議決定したものであるが、検察庁法は国家公務員に対する通則である国家公務員法に対して特別法の関係にある。従って「特別法は一般法に優先する」との法理に従い、検察庁法に規定がないものについては通則としての国家公務員法が適用されるが、検察庁法に規定があるものについては同法が優先適用される。定年に関しては検察庁法に規定があるので、国家公務員法の定年関係規定は検察官には適用されない。これは従来の政府の見解でもあった。例えば昭和56年(1981年)4月28日、衆議院内閣委員会において所管の人事院事務総局斧任用局長は、「検察官には国家公務員法の定年延長規定は適用されない」旨明言しており、これに反する運用はこれまで1回も行われて来なかった。すなわちこの解釈と運用が定着している。

 検察官は起訴不起訴の決定権すなわち公訴権を独占し、併せて捜査権も有する。捜査権の範囲は広く、政財界の不正事犯も当然捜査の対象となる。捜査権をもつ公訴官としてその責任は広く重い。時の政権の圧力によって起訴に値する事件が不起訴とされたり、起訴に値しないような事件が起訴されるような事態が発生するようなことがあれば日本の刑事司法は適正公平という基本理念を失って崩壊することになりかねない。検察官の責務は極めて重大であり、検察官は自ら捜査によって収集した証拠等の資料に基づいて起訴すべき事件か否かを判定する役割を担っている。その意味で検察官は準司法官とも言われ、司法の前衛たる役割を担っていると言える。

 こうした検察官の責任の特殊性、重大性から一般の国家公務員を対象とした国家公務員法とは別に検察庁法という特別法を制定し、例えば検察官は検察官適格審査会によらなければその意に反して罷免(ひめん)されない(検察庁法23条)などの身分保障規定を設けている。検察官も一般の国家公務員であるから国家公務員法が適用されるというような皮相的な解釈は成り立たないのである。

 3 本年2月13日衆議院本会議で、安倍総理大臣は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる「朕(ちん)は国家である」との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)とさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。

 時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「統治二論」(加藤節訳、岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。

 ところで仮に安倍総理の解釈のように国家公務員法による定年延長規定が検察官にも適用されると解釈しても、同法81条の3に規定する「その職員の職務の特殊性またはその職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずると認められる十分の理由があるとき」という定年延長の要件に該当しないことは明らかである。

 加えて人事院規則11―8第7条には「勤務延長は、職員が定年退職をすべきこととなる場合において、次の各号の1に該当するときに行うことができる」として、①職務が高度の専門的な知識、熟練した技能または豊富な経験を必要とするものであるため後任を容易に得ることができないとき、②勤務環境その他の勤務条件に特殊性があるため、その職員の退職により生ずる欠員を容易に補充することができず、業務の遂行に重大な障害が生ずるとき、③業務の性質上、その職員の退職による担当者の交替が当該業務の継続的遂行に重大な障害を生ずるとき、という場合を定年延長の要件に挙げている。

 これは要するに、余人をもって代えがたいということであって、現在であれば新型コロナウイルスの流行を収束させるために必死に調査研究を続けている専門家チームのリーダーで後継者がすぐには見付からないというような場合が想定される。

 現在、検察には黒川氏でなければ対応できないというほどの事案が係属しているのかどうか。引き合いに出されるゴーン被告逃亡事件についても黒川氏でなければ、言い換えれば後任の検事長では解決できないという特別な理由があるのであろうか。法律によって厳然と決められている役職定年を延長してまで検事長に留任させるべき法律上の要件に合致する理由は認め難い。

 4 4月16日、国家公務員の定年を60歳から65歳に段階的に引き上げる国家公務員法改正案と抱き合わせる形で検察官の定年も63歳から65歳に引き上げる検察庁法改正案が衆議院本会議で審議入りした。野党側が前記閣議決定の撤回を求めたのに対し菅義偉官房長官は必要なしと突っぱねて既に閣議決定した黒川氏の定年延長を維持する方針を示した。こうして同氏の定年延長問題の決着が着かないまま検察庁法改正案の審議が開始されたのである。

 この改正案中重要な問題点は、検事長を含む上級検察官の役職定年延長に関する改正についてである。すなわち同改正案には「内閣は(中略)年齢が63年に達した次長検事または検事長について、当該次長検事または検事長の職務の遂行上の特別の事情を勘案して、当該次長検事または検事長を検事に任命することにより公務の運営に著しい支障が生ずると認められる事由として内閣が定める事由があると認められるときは、当該次長検事または検事長が年齢63年に達した日の翌日から起算して1年を超えない範囲内で期限を定め、引き続き当該次長検事または検事長が年齢63年に達した日において占めていた官及び職を占めたまま勤務をさせることができる(後略)」と記載されている。

 難解な条文であるが、要するに次長検事および検事長は63歳の職務定年に達しても内閣が必要と認める一定の理由があれば1年以内の範囲で定年延長ができるということである。

 注意すべきは、この規定は内閣の裁量で次長検事および検事長の定年延長が可能とする内容であり、前記の閣僚会議によって黒川検事長の定年延長を決定した違法な決議を後追いで容認しようとするものである。これまで政界と検察との両者間には検察官の人事に政治は介入しないという確立した慣例があり、その慣例がきちんと守られてきた。これは「検察を政治の影響から切りはなすための知恵」とされている(元検事総長伊藤栄樹著「だまされる検事」)。検察庁法は、組織の長に事故があるときまたは欠けたときに備えて臨時職務代行の制度(同法13条)を設けており、定年延長によって対応することは毫(ごう)も想定していなかったし、これからも同様であろうと思われる。

 今回の法改正は、検察の人事に政治権力が介入することを正当化し、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め、検察の力を殺(そ)ぐことを意図していると考えられる。

 5 かつてロッキード世代と呼ばれる世代があったように思われる。ロッキード事件の捜査、公判に関与した検察官や検察事務官ばかりでなく、捜査、公判の推移に一喜一憂しつつ見守っていた多くの関係者、広くは国民大多数であった。

 振り返ると、昭和51年(1976年)2月5日、某紙夕刊1面トップに「ロッキード社がワイロ商法 エアバスにからみ48億円 児玉誉士夫氏に21億円 日本政府にも流れる」との記事が掲載され、翌日から新聞もテレビもロッキード関連の報道一色に塗りつぶされて日本列島は興奮の渦に巻き込まれた。

 当時特捜部にいた若手検事の間では、この降って湧いたような事件に対して、特捜部として必ず捜査に着手するという積極派や、着手すると言っても贈賄の被疑者は国外在住のロッキード社の幹部が中心だし、証拠もほとんど海外にある、いくら特捜部でも手が届かないのではないかという懐疑派、苦労して捜査しても造船疑獄事件のように指揮権発動でおしまいだという悲観派が入り乱れていた。

 事件の第一報が掲載されてから13日後の2月18日検察首脳会議が開かれ、席上、東京高検検事長の神谷尚男氏が「いまこの事件の疑惑解明に着手しなければ検察は今後20年間国民の信頼を失う」と発言したことが報道されるやロッキード世代は歓喜した。後日談だが事件終了後しばらくして若手検事何名かで神谷氏のご自宅にお邪魔したときにこの発言をされた時の神谷氏の心境を聞いた。「(八方塞がりの中で)進むも地獄、退くも地獄なら、進むしかないではないか」という答えであった。

 この神谷検事長の国民信頼発言でロッキード事件の方針が決定し、あとは田中角栄氏ら政財界の大物逮捕に至るご存じの展開となった。時の検事総長は布施健氏、法務大臣は稲葉修氏、法務事務次官塩野宜慶(やすよし)(後に最高裁判事)、内閣総理大臣三木武夫氏であった。

 特捜部が造船疑獄事件の時のように指揮権発動に怯(おび)えることなくのびのびと事件の解明に全力を傾注できたのは検察上層部の不退転の姿勢、それに国民の熱い支持と、捜査への政治的介入に抑制な政治家たちの存在であった。

 国会で捜査の進展状況や疑惑を持たれている政治家の名前を明らかにせよと迫る国会議員に対して捜査の秘密を楯(たて)に断固拒否し続けた安原美穂刑事局長の姿が思い出される。

 しかし検察の歴史には、捜査幹部が押収資料を改ざんするという天を仰ぎたくなるような恥ずべき事件もあった。後輩たちがこの事件がトラウマとなって弱体化し、きちんと育っていないのではないかという思いもある。それが今回のように政治権力につけ込まれる隙を与えてしまったのではないかとの懸念もある。検察は強い権力を持つ組織としてあくまで謙虚でなくてはならない。

 しかしながら、検察が萎縮して人事権まで政権側に握られ、起訴・不起訴の決定など公訴権の行使にまで掣肘(せいちゅう)を受けるようになったら検察は国民の信託に応えられない。

 正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない。

 黒川検事長の定年延長閣議決定、今回の検察庁法改正案提出と続く一連の動きは、検察の組織を弱体化して時の政権の意のままに動く組織に改変させようとする動きであり、ロッキード世代として看過し得ないものである。関係者がこの検察庁法改正の問題を賢察され、内閣が潔くこの改正法案中、検察幹部の定年延長を認める規定は撤回することを期待し、あくまで維持するというのであれば、与党野党の境界を超えて多くの国会議員と法曹人、そして心ある国民すべてがこの検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出ることを期待してやまない。

 【追記】この意見書は、本来は広く心ある元検察官多数に呼びかけて協議を重ねてまとめ上げるべきところ、既に問題の検察庁法一部改正法案が国会に提出され審議が開始されるという差し迫った状況下にあり、意見のとりまとめに当たる私(清水勇男)は既に85歳の高齢に加えて疾病により身体の自由を大きく失っている事情にあることから思うに任せず、やむなくごく少数の親しい先輩知友のみに呼びかけて起案したものであり、更に広く呼びかければ賛同者も多く参集し連名者も多岐に上るものと確実に予想されるので、残念の極みであるが、上記のような事情を了とせられ、意のあるところをなにとぞお酌み取り頂きたい。

 令和2年5月15日

 元仙台高検検事長・平田胤明(たねあき)

 元法務省官房長・堀田力

 元東京高検検事長・村山弘義

 元大阪高検検事長・杉原弘泰

 元最高検検事・土屋守

 同・清水勇男

 同・久保裕

 同・五十嵐紀男

 元検事総長松尾邦弘

 元最高検公判部長・本江威憙(ほんごうたけよし)

 元最高検検事・町田幸雄

 同・池田茂穂

 同・加藤康栄

 同・吉田博視

 (本意見書とりまとめ担当・文責)清水勇男

 法務大臣 森まさこ殿

号外 三権分立を破壊する検察庁法改正案の「特例規定」

 「奈良歴史漫歩」は過去の歴史のロマンを語ることをモットーとしているので、少し違和感があると思いますが、現在の時事問題についても取り上げていきたいと思います。「歴史とは現在と過去の対話である」とは、英国の歴史家、E.H.カーの名言です。歴史への関心とは、畢竟、現在をどう生きるかという問題意識を離れてはありえないでしょう。

 新型コロナウイルスの蔓延で全国が緊急事態下の「自粛」状態にある中、政府は検察庁法改正案を国会に上程し、成立を急いでいます。この法案をめぐっては、与党と維新を除く野党が賛否、真正面から対立し、SNSには「#検察庁法改正に抗議します」のツイートが600万を超えるなどして、国民からも高い関心が寄せられています。

 検察官の職務は、犯罪を捜査し、公訴を提起・維持し、裁判の執行を監督することです。裁判にかけるかどうか、いわゆる起訴の適否を判断し実行するという重大な役割を担っています。そのため法律を唯一の基準として職務が遂行できるように身分は保障されています。検察庁に属する行政官でありながら、国家公務員法ではなく検察庁法で身分や定年が定められてきたのも、その職務の特殊性によるものです。現行の法によれば、検察官の定年は役職の有無にかかわらず一律に63歳です。ただ検察官トップである検事総長のみ定年は65歳となります。

 今国会に上程された改正案では、現行のシンプルな定年ルールが非常に複雑になります。検察官の定年は65歳まで延びます。これは国家公務員法の改正で公務員の定年が65歳まで延長されることに準じています。しかし役職付きの検事は原則として63歳で役職を離れ、平の検察官となります。このとき特例措置として内閣の判断で役職に就いたまま最大3年まで勤務延長できるようになります。つまり役職のある検事は63歳になると、内閣の一存により平の検察官になる人と役職のままの検事の二通りにわかれます。

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時事通信社の記事より)

 検察官キャリアの最後において、出世コースを進めるか断たれるかの判断は内閣が決めることになります。野党が問題にしているのは、まさにこの点です。検察は、法律を犯せば総理大臣も起訴できる力が与えられています。だから政治から独立して中立・公平でなくてはならない。それを担保するための制度が、検察庁法のもとで運用されてきました。確かに現在も検察官の人事は内閣が任命しています。しかし人事の実際は検察庁の内部で行われて、内閣は形式的に関与するだけです。検察官の政治からの厳格な独立性は、立法、行政、司法の三権分立を定めた日本国憲法の根本精神に基づきます。いうまでもなく三権分立は独裁者を生まないために人類が編み出した最高の知恵です。今回の改正案は検察官の人事へ内閣の介入を開くものであり、民主主義の根本原則である三権分立の一角を突き崩す可能性が大いにあります。

 一体なぜこのようなおかしな改正案になったのか。それについては納得のいく説明はまったくありません。役職定年の延長の基準すなわち「内閣が決める特定の事由」の具体的内容は法律が成立してから(実施は22年4月)検討するというから、法案としての体もなしていません。ちなみに5月13日の衆院内閣委員会の審議を報道するマスコミの記事を載せておきます。

「束ね法案」で迷答弁連発 検察定年延長、所管外に苦戦 武田担当相

 検察官の定年を引き上げる検察庁法改正案をめぐり、13日の衆院内閣委員会では武田良太国家公務員制度担当相が答弁に立った。
 同改正案が、国家公務員法改正案などとの「束ね法案」として、国会に提出されたためだ。ただ、野党が問題視する検察部分は本来、武田氏の「所管外」で、不安定な答弁が目立った。
 内閣委の質疑で、野党は検察官の定年問題に的を絞った。共同会派の階猛氏は、検察庁法改正案には昨年10月段階で、検察幹部の定年を政府の判断で最大3年間、延長できる規定がなかったと指摘。1月末に黒川弘務東京高検検事長の定年延長を閣議決定したことを正当化するために「おかしな案に変えたのではないか」と追及した。
 これに対し、武田氏は「時間があったことが一番の理由だ」と説明。階氏は「『時間ができた』は理由にならない」とかみついたが、武田氏は同様の答弁を繰り返し、出席者からは失笑が漏れた。
 
武田氏は「本来なら法務省が答弁すべきことだ」と繰り返すなど、苦しい答弁に終始。手元の資料を読み上げる場面も多く、野党は森雅子法相の出席を求めた。
 
結局、定年延長を適用する基準について、武田氏が「今はありません」と答えたため、審議は紛糾。武田氏は「施行日までに明らかにしたい」と理解を求めたが、納得できない野党は途中退席した。(5/13(水) 18:58配信 時事通信社 

 検察官が法律と良心に従って職務を遂行し、地位や出世への思惑に左右されることはないと信じたいと思います。しかし絶対の権限が付与された最高ポストへの去就を前にして、その任命権者の意向を考えないと言うことは普通あり得ないでしょう。だから人事は透明性、公平性があって誰からも納得されなければなりません。任命権者の高潔さに頼るばかりではなく、これまでは制度的にもそれを可能にするように工夫されてきました。改正案は、それをわざわざ不透明にして不公平な人事を招く素地をつくるものです。

 別の委員会の審議で安倍首相は、野党議員の「内閣にとって好都合な検事が恣意的に役職延長されるのではないか」という質問に「それはまったくありません」と答弁しました。しかし、事実は恣意的な検事の定年延長が行われました。新聞記事から引用します。

 事の発端は1月31日。安倍内閣は「検察庁の業務遂行上の必要性」を理由に、東京高検検事長の黒川弘務氏(63)の定年を半年延長する閣議決定をした。検察官の定年延長は初めてで、「政権に近い黒川氏を検事総長に据えるためではないか」との疑念を招いた。
 なぜか。検察トップの検事総長の定年は検事長や検事正など他の検察官と異なり65歳。稲田伸夫・検事総長(63)は来年8月14日で65歳を迎えるが、約2年で総長が交代する慣例に沿えば、定年退職を待たずに7月が交代時期となる。
 黒川氏は今年2月8日に63歳で定年退職を迎えるため、総長就任は難しい状況だった。このため、黒川氏と同期の林真琴・名古屋高検検事長(62)が総長候補として有力視されてきた。黒川氏と同様に総長の「登竜門」とされる法務省の要職をこなしていたのに加え、誕生日は7月30日。稲田氏が慣例通りに7月まで続投しても後任に就くことができるからだ。だが、黒川氏の定年が8月7日まで延長されたことで、「黒川検事総長」の道が開けた。 黒川氏の定年延長をめぐる政府答弁は迷走した。当初、定年延長の法的根拠は国家公務員法の延長規定だと説明した。定年を63歳に定める検察庁法に延長規定がないためだ。
 
しかし、立憲民主党山尾志桜里衆院議員(その後離党)が2月、「国家公務員法の定年延長は検察官に適用しない」とする1981年政府答弁の存在を示し、矛盾を指摘。人事院の松尾恵美子給与局長も、81年の政府見解は「現在まで続けている」と答弁し、安倍内閣による国家公務員法の延長規定を使った黒川氏の定年延長は法的根拠がなく、違法である疑いが浮上した。
 批判が高まるや、安倍晋三首相は法解釈そのものを変えたと説明。松尾氏も「つい言い間違えた」と自身の答弁を撤回し、首相に追従した。その一方で政府は、解釈変更を裏付ける明確な資料を示せなかった。定年延長の違法性の疑惑が残るなか、検察庁法改正案を3月に国会へ提出した。(5/12朝日新聞 

 検察庁法の改正が法務省で検討されていた昨年10月には、3年役職延長の「特例規定」は「必要なし」とされていたことがわかっています。規定が盛り込まれたのは、1月末の黒川検事長の定年延長の前後です。なぜ突然、規定が盛り込まれたのかという質問に、先ほど引用した国会審議の答弁で、竹田国家公務員制度担当相は「時間があったことが一番の理由だ」とまったく要領の得ない説明を繰り返すだけでした。ただ改正案の「特例規定」に従えば、黒川検事長の定年延長は「合法」となるため、後付で正当化するという理由しか考えられません。そして黒川検事長の定年延長が政権に都合の良い人物を検事総長にするためという疑惑を生んだように、3年役職延長の特例規定は最初から検察の独立性、中立性を揺るがし、ひいては司法の信頼性を損なうことにつながります。

 このような法案をこの非常事態下に持ち出し、十分な審議もされず、強行に成立させようという行いには怒りしかありません。検察庁法改正案に反対します。

日本弁護士連合会「改めて検察庁法の一部改正に反対する会長声明」

「#検察庁法改正案に抗議します」をめぐって知っておいてほしいこと|山尾志桜里|

検察庁法改正案の中身がやっと理解できたよ(5月13日再更新)神保哲生

 

 

109 天平の天然痘大流行

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「呪符」木簡(『平城京と木簡の世紀』より)

 新型コロナウイルスによるパンデミックは大方の日本人にとって未知の体験です。しかしこれまでの内外の歴史を見ると、人類は感染症とともに生きてきました。感染症の原因が究明され、有効な治療・予防法が生み出されてきたのは、人類の歴史から見ればつい最近のことです。そして医学の長足の進歩は、少なくとも先進国の人々が感染症の恐怖から遠ざかることを可能にしました。今回のパンデミックは、こんな我々の安穏な日常を覆し、人類の感染症との苦い「闘い」の記憶を呼びさましてくれることになりました。細菌やウイルスの存在など知るよしもなく、医学も未発達な時代、人々は如何に感染症に立ち向かい翻弄され乗り越えてきたのでしょうか。

 時代は1300年前の奈良時代にさかのぼります。

 天平元年(729)2月、時の太政官トップの左大臣正三位長屋王が国家転覆を謀ったという冤罪を着せられ、正室の吉備内親王と四人の皇子、膳夫(かしはで)王、桑田王、葛木(かずらき)王、鈎取(かぎとり)王とともに自殺させられる大事件が起きました。藤原氏による謀略でした。これ以降、権力基盤を盤石にした藤原氏を中心に律令体制の整備が図られていきますが、長くは続きませんでした。

 天平7年(735)8月12日、聖武天皇の詔(みことのり)が出ます。以下、『続日本紀』の記述を見ていきます。「この頃、大宰府管内に疫病で亡くなる者が多い。病を鎮め民を救うため、大宰府管内の天神地祇に奉幣し祈らせよ、管内の寺は金剛般若経を読め。使者を遣わせ病者に賑給(しんごう=給付)し湯薬を与えよ。長門より東の国の長官と次官は斎戒し、道饗祭(みちあえのまつり)を祀れ」。23日条には、大宰府からの嘆願があり、「管内では疫瘡が大いに流行り、百姓ことごとく臥す.今年の貢調〈特産物の貢進〉を停止させて欲しい」と申し入れて認められました。疫瘡とあり、天然痘であることがわかります。

 すでにこの年の5月の詔に「この頃、災異しきりに起こり咎めの徴が現れる。」とあり、夏には天然痘が広がっていたようです。大赦が下され、高齢者、高年で妻・夫のいない者、孤児、病人等に賑恤(しんじゅつ=給付)が行われ、税金の一部が免除されます。そして宮中、大安寺、薬師寺元興寺興福寺大般若経の転読が命じられました。

 9月には一品新田部親王、11月には知太政官事一品舎人親王が相次いで薨去しました。天然痘のせいとは記されていませんが、その可能性があります。二人は天武天皇皇親として政界の重鎮であり、長屋王の事件のさい現場に参じ王の糾問にあたりました。

 11月にも詔が出され、疫病を鎮めるために大赦と賑恤が実施されました。

 『続日本紀』はこの年を回想して、「この歳、すこぶる穀物は実らず。夏より冬に至るまで天下に豌豆瘡(わんとうそう)はやる。若くして死ぬ者が多い」と特別に記しています。

 大宰府管内から天然痘は流行を見たようなので、大陸や朝鮮半島からもたらされた可能性が高いでしょう。この年の2月には、新羅使節平城京を訪ねているので、感染源に彼らを疑う説があります。また前年の11月には遣唐使が帰国しているので、こちらも疑えるかもしれません。

 翌天平8年(736)は『続日本紀』に天然痘のことは出てこないので、一応治まったか小康状態になったのでしょうか。6月に吉野離宮への行幸が11年ぶりに実行されました。このとき随従した山辺赤人長歌反歌が残っています(巻6-1005・1006)。8万5千点の出土を見た二条大路木簡の中にこの行幸に関する木簡があり、そこに次のような文字がありました。

「南山之下有不流水其中有 一大蛇九頭一尾不食余物但 食唐鬼朝食 三千 暮食 八百 急々如律令

 渡辺晃宏氏(奈良文化財研究所)は、これを「南山の麓に流れない水があって、そこに九つの頭と一つの尻尾をもつ大蛇が棲んでいる。ほかに何を喰らうでもなく、ただ唐の鬼だけを喰らう。朝に三千匹、夕に八百匹。願いが即刻かないますように」と解釈されます。南山は吉野山であり唐鬼は天然痘を意味して、水の神である九頭龍神に疾病の調伏を祈る呪符木簡ということになります。そこで、吉野行幸の目的が天然痘の退散を祈願するものであり、この年も病の勢いは衰えていなかったというのが、渡辺氏の推測です。

 3月には、国ごとに釈迦如来仏と脇士像を作り、大般若経を写経することが指示されています。これは天平13年(741)の国分寺建立の詔の中でも言及されていて、国分寺創建の原点には天然痘平癒の願いがあったのです。

 天平9年(737)、年が改まり前年に新羅に派遣した使節が京に戻りました。しかし、大使の安倍継麻呂は対馬で卒去し、副使の大伴三中は病んで入京できませんでした。天然痘に罹患したのでしょう。なお、この時の遣新羅使一行の詠んだ歌145首が『万葉集』巻十五に収められています。

 『続日本紀』の4月17日、参議で内臣の正三位藤原房前薨去の記事が見え、これを皮切りに天然痘関連の記述が続きます。19日の詔は、大宰府管内の神社に奉幣し、全国の貧疫の家に賑恤し湯薬を与えよと命じています。

 5月19日にも詔が発せられます。「四月よりこの方、疫病と旱のため農作困難となり、山川に祈祷し天神地祇を祀ったが効果がなかった。今に至るも苦しむ。朕の不徳がこの災いをもたらした。寛大な仁の心で民の患いを救いたい。冤罪者を救済し放置された屍を埋葬し、禁酒して牛馬の殺生をやめなさい。高齢者、高年で妻・夫を亡くした者、孤児、京内の病人に賑給せよ。役人に特別の給付を与える。大赦せよ」

 6月1日の百官が集合する恒例の朝は中止になりました。病に倒れる役人が多かったためです。12日には、大宰府の次官従四位下小野老が卒去します。「あおによし奈良の都は咲く花の匂うがごとくいま盛りなり」の作者です。23日は、中納言正三位多治比県守薨去します。長屋王事件の時、兄の池守とともに藤原氏に加担して動いた人です。

 7月に入り、大倭・伊豆・若狭・伊賀・駿河長門の飢え病める百姓に賑給しています。13日には、参議兵部卿従三位藤原麻呂薨去。25日には、右大臣藤原武智麻呂薨去し、正一位左大臣追号が贈られました。

 8月になると、畿内と七道の僧侶と尼僧に清浄沐浴すること、最勝王経を読むこと、六斎日は殺生を禁ずることを命じました。5日に参議式部卿兼太宰帥の藤原宇合薨去しました。13日に詔が出ました。「朕が君主として国を治めるようになって多くの年を経た。しかしまだ善政は行き渡らず民は安息できない。毎日、眠りにつけず憂い苦悩している。春よりこの方、疾病が猛威を振るい、百姓で死ぬ者がまことに多く、百官にも倒れる者が少なくない。朕の不徳が原因でこの災いをもたらした。天を仰ぎて恥じ恐れかしこむ。百姓を回復し救済したい。全国の今年の田租と賦役、公私の出挙稲未納分を免除する。霊験のある諸神に奉幣し、神主に賜爵せよ」。また天下太平国土安寧のため宮中に僧侶7百人を招き、大般若経・最勝王経を転読させました。新たに僧侶を度すること四百人、機内・七道は五百七十八人に上りました。

 9月には、私出挙〈民間の高利貸〉禁止令、防人の停止などの民政融和策が実施されました。藤原四兄弟多治比県守が欠けた太政官の建て直しが図られ、長屋王の弟の鈴鹿王が知太政官事、従三位宿禰諸兄が大納言、正四位上多治比真人広成が中納言に昇進しました。

 注目すべきは、10月に長屋王の子弟である安宿(あすかべ)王が従四位下に昇叙、黄文(きぶみ)王が従五位下に初叙、円方(まるかた)女王・紀女王・忍海部(おしぬみべ)女王が従四位下に昇叙されたことです。長屋王事件で長屋王の責任を追及した者たち、藤原四兄弟新田部親王舎人親王多治比県守がこぞって病に倒れたことと関連していると見るべきでしょう。翌年には長屋王を密告した者がかつての長屋王の従者に斬殺される事件を『続日本紀』はわざわざ取り上げ、あれは「誣告」であると述べます。冤罪であることは藤原四兄弟存命中にすでに公然の秘密であり、彼らが亡くなって公然化されたのでしょうか。子弟の一斉の昇叙は長屋王の名誉回復の一環でしょうが、そこに聖武天皇光明皇后の贖罪意識を感じます。

 怨霊信仰が確立するのは10世紀初頭の菅原道真大宰府左遷後に頻発した災難以降ですが、すでに桓武天皇も怨霊に悩まされていました。天平天然痘大流行は、後世の怨霊観念からすれば長屋王の怨霊に原因が求められても不思議ではありません。奈良時代はまじないや呪いをかけたりすることが普通に行われていましたから、長屋王の呪いを意識することは当然あったと思います。平安初期に成立した日本最古の仏教説話集 『日本霊異記』には、長屋王のエピソードが出てきます。聖武天皇長屋王の屍を焼き捨て川に流した.骨は土佐国に流れて、その国の百姓は死ぬ者が多い。そこで百姓が官に訴えたところ、都から離れた紀伊国の島へ葬った。長屋王の祟る風評が庶民の間で広まっていたことがわかります。

 疫病の流行に当時の政府が採用した対策は、まずは神仏への祈願でした。貧窮者や病者への賑給、賑恤と呼ばれる給付、税金の免除、大赦などが幾たびも実施されました。病への対処法を示したり湯薬を与えたりもしていますが、実質的な効果はほとんどなかったでしょう。天然痘の致死率は20~50%であり、当時の人口の七分の一が亡くなったという推測があります。

 聖武天皇の詔には繰り返し「自らの不徳が災いをもたらした」という文言が出てきます。律令制を導入したばかりの時期で、「天子の徳が高ければ、天はそれを愛でて国はよく治まり富と平安が民にもたらされる」という中国の天子思想も輸入され、聖武は帝王教育でそれに感化されていたでしょう。政府が打ち出す施策は、天皇の徳を表すものとして行われました。天平9年の12月に「大倭国」が「大養徳国」と改名されたのも、このような事情からです。

 この時代の天皇は後世のようなシンボル的な存在に限定されず、実権が伴っていました。不徳を自責する裏には全能感がみなぎっています。しかし現実は、疾病が蔓延し旱や風水害・地震が多発し、民はあらゆる苦しみをなめました。これに対し天皇は無力でした。天子の資格が常に問われる状況にあったのです。全能感と無力感、さらに長屋王を罪なく抹殺した罪悪感がうずまき、日夜、安寧な心境からはほど遠かったはずです。

 いわゆるアイデンティティの危機に天皇は直面しました。この時の救いとなったのが仏教です。仏教に深く帰依することで傷ついた徳を取り戻し補強しようとしたのです。聖武天皇光明皇后はもともと仏教への篤い信仰がありましたが、天然痘の流行以後はますます傾倒するようになります。

 天平12年(740)10月、聖武天皇は東国行幸を敢行し、恭仁京を新都に定めます。聖武の胸中には大仏建立と仏教による国家経営のプラン(ロマン?)があり、それを実行すべく一歩を踏み出したのです。しかし現実の政治はこれを機に混迷を深めていきます。天平15年(743)10月、大仏建立の詔が出ました。それは聖武の自信に満ちたものでした。天皇の徳は大仏のスケールに比例して巨大となり、そこからあふれ出て国と民をうるおすはずだったからです。それは聖武の脳に宿った夢、あるいは誇大妄想であったのですが、国を挙げて大仏の建立に奉仕しました。そして1300年間、ふたつとないシンボルであり続け、奈良の歴史そのものになったのです。現代の我々も聖武の妄想に取り込まれているのではないかとふと思うことがあります。その妄想、あるいは夢を生むきっかけとなったのが天平天然痘大流行だったのです。

*文中の詔は筆者による意訳であり、省略したり概要のみにしたところがあります。

参考文献
新日本古典文学大系 続日本紀2』岩波書店
渡辺晃宏著『日本の歴史4平城京と木簡の世紀』講談社
渡辺晃宏著『平城京1300年「全検証」奈良の都を木簡から読み解く』柏書房
板橋倫行校注『日本霊異記』角川文庫

108 棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか(後編)

~明治・大正期の平城宮跡保存運動の深層~

第3章 「奈良大極殿址保存会」 1911年(明治44)~1922年(大正12)

 奠都祭の翌年に棚田は上京して司法大臣、岡部長職子爵と面会します。「宮跡の保存策が示されなければ奈良へ帰らない」と強く迫ります。岡部子爵は元岸和田藩当主です。彼は華族の中では1番、棚田を支援した人です。岡部子爵が徳川頼倫侯爵を紹介します。徳川侯爵は元紀州徳川藩の当主で貴族院議員でした。ヨーロッパに留学して史跡保存に関心を持ったということです。この頃、自ら「史蹟名勝天然紀念物保存会」という組織をつくって会長を務めていました。平城宮跡保存事業を担うにうってつけの人物でした。徳川侯爵から前向きな返事をもらいます。

 これで保存に一応の目途が立ったからでしょうか。明治45年に棚田は三条通りの交差点に石造の道標を立てます。今はJR奈良駅の広場に移されていますが、交差点の北東の角にあったのですね。正面に「平城宮大極殿跡 西乾是より二十丁」、左側面に「明治四十五年三月建之棚田嘉十郎」と刻んであります。若林県知事が揮毫しています。今では棚田の名前の方に史料的な価値があるわけですが、自分の名前を刻んだことに彼の強い自負心、あるいは名誉欲、自己顕示欲を感じます。

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三条通りに建つ「平城宮大極殿跡」道標 昭和30年代

 約束通り大正2年に「奈良大極殿址保存会」が正式に発足します。会長は徳川侯爵、副会長に元大蔵大臣の坂谷芳郎男爵、評議員に岡部子爵、奈良県知事、他に著名な実業家の岩崎久彌、渋沢栄一大倉喜八郎らが就きます。大正天皇即位の記念事業であることをかかげて、計画は大極殿址に記念碑を立て基壇の周囲に石標を打ち込む、それに必要な土地を購入するというものです。1万7千円の募金を募ります。

 大正3年に棚田は脳出血のため失明状態になります。過労が原因でしょうか。

 大正4年に、「保存会」は田んぼ約2町5反を1万3千円で購入します。芝地であった大極殿址や朝堂址約4反7畝は地元から寄付されます。奈良県知事の名義に変更されます。

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朝堂院址匿名篤志者保存工事施工予定図(『奈良大極殿址保存会事業経過概要』)

 保存会は約3町の土地を手に入れたのですが、朝堂院と朝集殿院の区画は民有地のままでした。この図では斜線部分です。保存会はこの区画の保存も考えていました。そのとき現れたのが「福田海」という仏教系の宗教団体です。岡山に本部がありました。幹部に中西平兵衛という繊維関係の仕事で財をこしらえた資産家がいました。彼の資産を使った匿名慈善事業を盛んに行っていて、平城宮跡の保存に必要な資金全額を匿名で負担するという申し出がありました。棚田が取り次いで保存会に持ち込まれ了承されました。「渡りに舟」だったのでしょう。

 大正7年に溝辺が亡くなっています。

 大正7年に福田海は斜線部分の土地6町3畝23歩を約4万5千円で買収します。このとき土地の名義が中西と団体の代表者の名前に変更されました。棚田はこれを知って抗議し「県知事の名前」に変えるようにと要求します。匿名という約束が破られたと思ったようです。中西は「自分たちの名前にしたのは、知事に頼まれ納税のためにこうなった」と釈明します。知事に問うと「そんなことをいった覚えはない」という返事でした。

 史料にはこれしか出てきません。真相は推測するしかないのですが、中西の言ったことは事実だと思います。こういう重要なことが福田海の一存でできたとは思えません。このあと福田海に丸投げする形で工事が行われます。工事が完了して保存会が引き取る段取りになっていたのでしょう。何年もかかるから福田海の名義にしておいた方が都合良く、また固定資産税もとれるでしょう。知事の発言は真意を公にすることをはばかってしらばくれたのでしょう。今もよく使われる「記憶にありません」ですね。

 またこのとき「匿名」について中西と棚田の間でやりとりがありました。中西は、匿名とは石碑に名前を刻んだり寄付名簿に署名しないことだと説明したのに対し、棚田は匿名とは一切名前を出さないことだと反論します。

 大正8年に「史蹟名勝天然紀念物保存法」が徳川侯爵らによって提案されて議会で成立します。これは文化財保護法の前身です。史蹟を文化財としてとらえ保護するという画期的な思想と方法が確立した法律です。

 大正8年から9年にかけて宮跡の工事が実施されました。これは保存会が立てたプランに沿って奈良県が監督し福田海が業者を使って行ったものです。

 この工事に対しても棚田はクレームをつけました。地鎮祭神道式ではなく仏式であったこと、地鎮祭のあとも人糞などを流して耕作していることについてです。平城神宮の設計図を引いた塚本慶尚は内務省に戻って、「保存会」の事務局も担当していました。仏式という批判に彼は「聖武天皇も喜ばれているだろう」と応じます。耕作についての批判は県の役人が「耕作は国益に適っている」と答えています。

 しかし、棚田はまったく納得しません。「匿名の約束が破られ、宮跡の神聖さを汚す工事になって、保存会の面々に顔が立たない」と嘆きます。さらに「不敬である」と言って、福田海と保存会の担当者を批判します。

  大正10年4月に福田海は土地の寄付と工事の辞退を保存会に申し出ています。しかし、保存会は慰留します。工事を継続することを促しています。

 この頃、新聞に福田海を攻撃する記事が盛んに出るようになります。棚田の主張をなぞるような形で「福田海は平城宮跡の乗っ取りをたくらんでいる」「福田海は淫祠邪教だ」とかセンセーショナルに書き立てます。福田海が辞退を申し出たのも、これが一因でしょう。

 この年の8月17日、棚田は大豆山町の自宅で自刃します。妻子が墓参りしている間に、切腹の作法にもとづいて短刀で喉を突き刺します。遺書には「ふはいの絶頂、諸君、義の一字守り給え」と書きつけてありました。

 自刃のあと事態は急展開します。工事は中止となり、福田海の名義になっていた土地は保存会に寄付されます。翌年には、大正8年に成立した史蹟名勝天然記念物保存法により、宮域の東半分が史跡指定を受けます。

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平城宮跡航空写真 昭和30年代

 これは昭和30年代の航空写真です。赤線で囲んだ範囲が、この時の史蹟指定範囲です。その中で白ぽい長方形の部分が国有地となり保存工事が行われました。黄色の線で囲む範囲が宮跡の全体であり、現在住宅地を除く全域が国有地となり特別史跡に指定されています。

 大正12年5月に 「奈良大極殿址保存会」は解散します。所有する土地はすべて内務省に寄付します。このとき「平城宮址保存紀念碑」が朝集殿院の正面に立てられます。碑の裏面には保存の経緯が漢文で刻まれています。このあと保存工事が再開されます。史跡公園化を意図したプランは破棄され、現状維持を旨とした工事になります。保存区域も南北に少し拡張しました。初めての発掘調査も実施されました。

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空海寺(奈良市)門前の棚田嘉十郎墓)

 写真は東大寺転害門の近くにある空海寺です。空海寺には棚田家のお墓があります。これとは別に門前に保存会の手で大正12年に嘉十郎のお墓が建てられました。「平城宮跡保存主唱者 棚田嘉十郎墓」の銘は、岡部長職子爵の揮毫です。

 

終章 棚田嘉十郎の評価

 運動の流れをたどってきました。紆余曲折してわかりにくかったかもしれません。要点をまとめておきます。

  • 明治・大正期平城宮跡保存運動を主導した動機は、皇室への崇敬観念であった。
  • 平安神宮の創建に刺激され、平城神宮の建設が目指されたが、実現に必要な関心や支持は得られなかった。
  • 地元の住民、有力者、政治家、役人らの構成する運動組織が三度結成されたが、実質的な活動には至らなかった。
  • 嘉十郎の個人的な活動の大きな推進力となったのは、小松宮の拝謁であった。皇族直々の激励は、彼に不退転の決意を固めさせるとともに、賛同署名を得る上で大きな武器となった。特に社会的地位の高い相手に効果を発揮した。
  • 嘉十郎の皇室崇敬を動機とした自己犠牲的な行動は、当時の国家が推進した国民教化に応じるモデルとなった。国家の中枢にあった華族が、平民の「真心」に報いるという形で宮跡保存が進行した。
  • 嘉十郎への主な協力者、支援者。溝辺文四郎(地元住民との交渉・説得、資金面の援助)、石崎勝蔵(私生活面の援助)、土方直行(中央華族の紹介)、塚本慶尚(保存事業の実務)、岡部長職華族大臣として最大の支援)
  • 史蹟名勝天然記念物保存法が適用されることで、平城宮跡は皇室の聖地への顕彰という面に加え、歴史的文化財として保存され現在に引き継がれた。

 序章で三つの論点を挙げておきました。これまでたどってきた運動の叙述と要点でその答を示しましたが、さらに補っておきます。

 明治・大正期の平城宮跡保存の大きな動機は、皇室崇敬をもとにした宮跡の顕彰にあることは述べてきました。これは、明治の近代国家の形成が庶民には目に見える天皇を中心とする拡大された家父長制のイメージを植え付けることで行われたことと関係しています。天皇への崇敬が愛国心とイコールで結びつくように庶民の教化が図られたのです。それが実を結んだのは、日清戦争から日露戦争にかけてと言われます。

 平城宮跡保存が俎上に上ったのもこの時期です。棚田はこの国民教化のイデオロギーにもっとも染まった人物です。当時の国民の道徳規範となった教育勅語は、君主に仕える臣民のあり方を説いています。そこには、「いったん有事の際は進んで奉公し、永遠不滅の皇運をたすけ護るべし」とあり、皇室に対する絶対な忠節を要求しています。棚田の行動はこの「期待される臣民像」を体現しました。あるドイツ人から宮跡のガイドを頼まれた時、「草がぼうぼうの宮跡を外国人に見せるのは日本の恥」と思い、仮病を使ってことわっています。また奈良に陸軍歩兵第38連隊の駐屯地が設けられたときには、多大な寄付をしています。愛国心天皇崇敬は結びつき、彼は私生活を犠牲にしてまで宮跡保存に奔走しました。その運動のスタイルは、上流階級の華族や政治家に保存を訴えて回るというものでした。一介の庶民の「赤心」からの「奉公」が、皇族や華族を動かして報われたというのが、彼の行為を説明するのにもっともふさわしいでしょう。棚田には社会的に公認された絶対の正義を生きているという陶酔感があったと思われます。棚田は最後は暴走してしまいますが、保存会はこれを封印します。「模範的な臣民」として死後も棚田を顕彰します。

 棚田の自刃は「匿名篤志家が約束を破ったことの責任を取った行為」というのが通説ですが、事実は異なります。嘉十郎が問題にした福田海の土地買収後の名義替えや仏式の地鎮祭、耕作の続行は、保存会も了承していました。福田海や保存会の立場からは、嘉十郎の批判は誤解であり、その主張は偏狭に過ぎました。保存会は、福田海が「匿名寄付」を布教手段として利用することをある程度許容しながら実を取りました。保存会の現実的な対応と、嘉十郎の主観的な「正義」、すなわち、この場合「完全な匿名性」「神道式の地鎮祭」「地鎮祭以後の耕作はしない」、はすれ違い対立しました。嘉十郎の自刃は、自らの主張に殉じる形で、自分の立場を正当化しようとしたといえます。

 なぜ棚田はそこまでして自分の主張を押し通そうとしたのでしょう。これには色々な理由が考えられます。匿名性にこだわったことについては、宗教団体が保存事業を自らの宣伝に利用することを阻止しようとしたと言えるかも知れません。それなら三条通りの道標に名前を刻んだ棚田の行為はどうかということになります。彼は自分が平城宮跡保存の1番の功労者であると自負していました。福田海が匿名でなくなることは、その名誉を横取りされるのではないかという嫉妬心があったのではないかと思います。

 棚田の自刃の影響について考えます。

 棚田は自刃によって結果的に自分の主張を押し通しました。福田海はこれ以降身を引き、文字通り匿名的存在に化しました。民間からの寄付金約10万円のうち8万円は福田海が負担しています。その功績を保存会は評価しましたが、一般に語られることはありません。

 当初の観光客も呼べるような公園化のプランは破棄されて、史跡の破壊が押しとどめられました。現状凍結を旨とする保存整備が図られ、後世に引き継がれました。これは棚田が意図しなかったことですが、文字通りの宮跡保存に寄与しました。

 棚田嘉十郎の偶像化に作用しました。自刃の真相は封印され、後に平城宮跡保存の大義にすべてを捧げたというドラマが生まれました。平城宮保存史の中で棚田は銅像にもなるぐらいに大きな評価をあたえられています。悲劇の主人公で「判官贔屓」の琴線に触れるものがあります。彼は戦前には「模範的な皇室崇敬者」として顕彰され、戦後は戦後の価値観で読み替えられて「文化財保存の民間の先覚者」として評価されました。

 ところであの大正期の宮跡の保存が果たして適切であったかということについて、あえて異なる視点から考えてみたいと思います。

 棚田嘉十郎の運動で平城宮跡の保存が早まりましたが、文化財保存の立場からは、時期尚早とも言えます。調査なしの史跡公園化がはかられ、溝渠掘削で史跡が破壊されました。皇居に当たる場所が農地になって牛の糞や人糞まみれになっているのはまずいということで買上られたのですが、それからの30年は草原となりほとんど忘れられた存在になります。文化財という視点からは、田んぼのままであった方が保存に叶っていたということになります。

 機が熟さない中でかなり無理をした保存が、福田海の介入と棚田の自死を招いたともいえます。

 昭和に入り考古学的な調査技術が進み、文化財の概念も成熟していきます。宮跡の破壊が現実の問題となるのは、戦後になってからです。平城宮跡の重要性はすでに早くから共通認識だけはできていたので、機運が熟し保存体制が整って着手するという選択肢もあったのではないでしょうか。

 ただすでに宮跡の中枢部が国有地として保存されていたことで、戦後の全域保存の比較的スムーズな実行が可能になったことは確かでしょう。

107 棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか。(前編)

~明治・大正期平城宮跡保存運動の深層~

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平城宮跡朱雀門前の棚田嘉十郎像

序章 「文化財保存」の先覚者

 平城宮跡は、1300年前の奈良時代の宮の姿が地下に眠っています。国の特別史跡になり世界遺産にもなっています。宮の正門である朱雀門の前には棚田嘉十郎のブロンズ像がそびえています。宮跡保存に大きな功績があったということで立ちました。この像が建立されたのは1990年です。伸ばした右手は北北東を指さし、その先には第二次大極殿の基壇跡があります。左手は出土した瓦を提げます。

 像の横にプレートがあり、嘉十郎の略歴が刻まれています。

 万延元年(1860)、現在の奈良市須川町に生まれる。明治の中頃、奈良公園で植樹の仕事に携わっているとき、観光客から平城宮跡の位置を問われ、荒れ放題の宮跡に保存の意を強める。明治35年(1902)、地元での平城宮跡保存の運動が高まると嘉十郎も参加、平城神宮の建設をめざしたが、資金面で行き詰まる。

 以来、嘉十郎は、自費で平城宮跡の保存を訴え、上京を繰り返し、多くの著名人から、賛同の署名を集める。そのようななかで、地元の有志・溝辺文四郎らは、嘉十郎の運動に協力し多くの援助をおこなった。

 明治43年(1910)、平城奠都1200年祭が企画されると、嘉十郎は当時の知事に協力を得て、御下賜金300円をたまわるなどして成功に導く。その後、大正2年(1913)徳川頼倫を会長に念願の「奈良大極殿址保存会」が組織され、大極殿に標石28基を配置するとともに記念碑を建てて往時の遺構を永久に保存することを決め、嘉十郎の労が日の目を見ることとなった。

 しかし、用地買収が軌道にのりだして間もなく、嘉十郎が推薦した篤志家が約束を破ったことの責任を痛感し、大正10年(1921)8月16日自刃、嘉十郎は61歳の生涯を閉じた。

 棚田への評価をひと言で言うと、「文化財保存の民間の先覚者」ということだと思います。学者でもなく社会的な名士でもない一介の庶民が、「文化財の大切さ」にいちはやく気づいて生涯を捧げた。平城宮跡保存の立役者としてばかりではなく、文化財保存の先覚者として意味づけされるようになりました。

 宮跡の国による全域保存買上げが決まったのは1960年代初期です。それまでは宮跡の約50haは史跡指定地だったのですが、指定地外に私鉄の操車場の建設が計画されました。それに反対する声が盛り上がり、国を動かして、宮跡の全域約130haが史跡に指定され保存されることになりました。平城宮跡の保存はマスコミに報道されるところとなり、これに関連して明治の保存運動も取り上げられ、その中で棚田の存在が知られるようになりました。60年代から「開発か保存か」という問題が全国的な課題として浮かび上がり、棚田が文化財保存の先覚者としてヒーローのような存在になっていきました。

 明治・大正の保存運動について、その詳しいことはほとんど明らかになっていません。嘉十郎も有名なわりには、実際に彼が行ったことについて詳細に解説した文献はなきに等しい状態です。今回、嘉十郎の足跡をたどるために参考にした主な史料は、5つあります。いずれも奈良県立図書情報館で閲覧できます。

『追親王跡去昇天我父之経歴』(嘉十郎聞書き 大正時代 私家版)
「溝辺文四郎日記」(『明治時代平城宮跡保存運動史料集』(2011年 奈文研)
『奈良大極殿址保存会事業経過概要』(1923年 保存会)
『史蹟精査報告第二 平城宮址調査報告』(1926年 内務省
「棚田嘉十郎・平城宮関係新聞切り抜き」(明治~昭和 私家版)

 これらを調べてようやく保存運動の経過と棚田の活動について具体的な事柄が見えてきました。もちろん十分とは言えませんが、これらの資料をひもとき浮かび上がってきたのは、従来の保存運動と棚田嘉十郎のイメージと異なるものです。それは三つの論点にまとめられます。

 第一に〈当時の保存運動を推進した動機・思想は何か〉
 平城宮跡の価値というのは現在では言うまでもなく文化財ということです。しかし歴史的な文化財という考え方は、明治時代にはまだ一般の人にまで普及した概念ではありませんでした。当時の人が宮跡の保存をめざした動機は、現在の私たちが持つ価値観と必ずしもイコールではありません。

 第二に〈棚田の運動が宮跡の保存に結びついたのは何故か〉
 保存運動にかかわった人は他にもいて組織も作られたのですが、それらは成功せず、結局棚田が突出するような形で行動し保存が実現しました。それは略歴にもあった通りです。何が彼を功績者に導いたかということです。

 第三に〈棚田の自刃の真相と、それがおよぼした影響〉
 棚田の自刃はショッキングな出来事です。だが、その真相に触れるような解説はどこにもありません。先ほど紹介した略歴には、「嘉十郎が推薦した篤志家が約束を破ったことの責任を痛感し自刃した」とありましたが、それ以上の説明はどこにもありません。何か触れてはいけないようなタブーとして扱われている感じがします。自刃の真相とそれが及ぼした影響について考えてみたいと思います。

 

第一章 平城神宮の夢 ~1904年(明治37)

  棚田嘉十郎は万延元年(1860)に添上郡東里村大字須川(現在の奈良市須川町)で生まれます。須川町は大柳生の北側に隣接する山地です。

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棚田嘉十郎

 木挽職に従事していたのですが、明治20年(1987)に奈良市東笹鉾町10番地に移り住み、植木商を営みます。東笹鉾町は奈良県庁の北側にある町です。いわゆるキタ(北)町として現在も奈良の町家を多く残す地区です。この頃から整備の始まった奈良公園や御陵に植樹しました。公園で仕事をしている最中に観光客から「奈良の宮の跡はどこにありますか」と聞かれることがあり、「法華寺のあたり」と答えていました。「法華寺御所」という言葉を聞くことがあったからです。

 明治29年(1896)に、知人から都跡村に「大黒の芝」と呼ばれる土壇が田んぼのなかにあり、地元ではそこが宮址と言われていることを教えられます。実際に尋ねると、土壇は草ぼうぼうであり、牛の糞が堆積していました。それを見て「なんと畏れ多いことか」と胸が痛み涙を流します。

 明治32年(1899)に棚田は京都府笠置村の後醍醐天皇の行在所跡を見学し、地元の人たちによって保存・顕彰されているのを知ります。これに感動し、平城宮跡の保存を決意しました。

 平城宮跡は長い間忘れられていました。幕末、藤堂藩藩士の北浦定政が現地調査や古文書から平城京の条坊を復元したのが、平城京研究の先駆けとなりました。明治23年(1890)に奈良県に古社寺保存の専門家として赴任した関野貞が、定政が残した復元図を参考に宮跡について詳細な調査と研究を行います。明治33年(1900)に彼は地元の新聞に「平城宮大極殿遺址考」を発表します。これにより初めて一般の人にも平城宮跡の所在が知られるようになります。

 これが地元の保存運動のきっかけとなったのでしょうか。翌年、都跡村の有志が「平城宮址顕彰会」を結成し「大黒の芝」に標木を建てます。棚田も加わって楓などを寄付して植樹しています。水木要太郎が起草したこのときの趣意書には平城神宮建設をめざすことが早くも表明されています。しかし「平城宮址顕彰会」はこれ以上の活動もせず解散します。

 棚田は北浦定政が描いた宮跡の地図を印刷して配布したり、宮跡から出土した瓦を買い上げ、これと思った人に献上していました。明治34年(1901)5月に奈良で赤十字総会があり、総裁の小松宮親王が来県されました。棚田は知人をとおして瓦や礎石などを献上しました。小松宮から呼び出しがあって拝謁を受けました。県知事や軍の高官が居並ぶなか旅館の菊水楼の庭に進み出た棚田は、小松宮じきじきに「保存事業は汚れのないように行え」とのお言葉を賜りました。

 皇室崇敬の念が強い棚田には皇族じきじきの拝謁と激励は、最高の栄誉だったでしょう。これにより彼の運動に賭ける信念は強固になりました。また拝謁は彼が「錦の御旗」を得たことであり、このあと貴顕紳士、身分の高い人にあって賛同署名をもらうときの有力な援軍になったと思います。

 棚田は運動の協力者を求めて、佐紀村出身の神戸で雑貨商を営んでいた溝辺文四郎に会い盟約を結びます。溝辺は棚田より8つ年上で歴史好きな人でした。溝辺は地元の人との交渉や説得を担当し、資金援助を行いました。

 棚田は県会議員の青木新次郎に働きかけます。棚田の訴えに共鳴した青木議員は、都跡村の有力者を集めて会の結成を呼びかけます。生駒郡郡長を会長、都跡村村長を副会長とする「平城神宮建設会」を結成します。何回も会議は持たれるのですが、しかし実際の運動までにはいたりません。会長たちが平安神宮のことを調べるために出張するのですが、それで用意した運動資金の大半を浪費するようなことがあって人心が離れ、この会もたいしたこともできず自然消滅しました。

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「平城神宮未来図」

 この絵図は、この時期に描かれたものです。佐紀池の北側に神宮の敷地をとり、一条通りから参道を引いています。男性天皇女性天皇を別にした二つの本殿があります。大極殿と朝堂の基壇はそのまま保存するという案のようです。結局ヴィジョンだけで終わりました。

 明治36年(1903)、棚田は来県していた大久保利貞陸軍少将に賛同署名簿につける趣意書の清書をしてもらいます。それを持って、来県する華族や大臣らの社会的名士に宮跡保存の賛同署名を頼んで回ります。署名を次々と得ていきます。普通なら一介の植木商がこんなことをやっても会ってももらえないでしょう。やはり小松宮の拝謁がモノをいったのでしょう。

 その年のうちに何回も上京して署名活動を行いました。このときは四條畷神社宮司、土方直行に紹介状を書いてもらったようです。

 当時奈良には日刊の新聞が4紙あって競い合っていました。棚田の運動は絶好のネタになりました。彼もそれに積極的に応じました。昨日は誰それの署名を得たというようなことがこと細かに報じられたのです。だから棚田の活動はよく知られるところとなりました。しかし、こういう運動スタイル、身分をわきまえない売名的とも思える活動には当然反発・反感も生じます。「詐欺師」「山師」「狂人」という悪評も立ちました。それを気にするような人ではありませんでした。

 こういうわけで棚田の署名活動は反響を呼ぶわけですが、明治37年(1904)に日露戦争が勃発し運動は中断します。

 家業を顧みず、身銭を切っての運動なので、たちまち家計は窮迫します。子供に着せる着物もなくて浴衣で冬も登校したからいじめられたとか、税務署が差し押さえに来たが差し押さえ状を貼り付ける米粒もなくて呆れられたとかのエピソードが聞き書きの中にたくさん出てきます。

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平城宮旧址紀年翼賛簿」

 これが、棚田が集めて回った署名簿です。「平城宮旧址紀年翼賛簿」と表紙にあります。発起人の棚田と溝辺の署名が最初にあります。署名した子爵岡部長挙、奈良県知事川路利恭、伯爵正親町(おおぎまち)の名が見えます。棚田がやったことは、高位高官に直接面会して宮跡の保存を訴えそれへの賛同の署名をもらうということに尽きます。その際、運動資金として寄付の申し出があったりしたのですが、それを断り手弁当でやったことで棚田の気持ちは純粋だという評価が上がりました。

 

第2章 平城奠都1200年祭 1905年(明治38)~1910年(明治43)

 翌年、日露戦争終結し、棚田と溝辺は運動を再開します。県庁の社寺担当の技師であった塚本慶尚が、平城神宮の設計図を引き見積もりをします。総額約21万7千円の見積もりとなりました。県議会も建設建議を可決します。

 明治39年(1906)1月、棚田らは上京して平城神宮建設の請願を議会に提出します。溝辺が300円提供してロビー活動にあてました。大和新聞の記者、今武次郎がロビー活動を行っています。しかし、請願は本会議を通過せず内務省預かりとなりました。

 平城神宮建設のもくろみが失敗したことについて考えたいと思います。明治34年に都跡村の有志が自主的に結成した「平城宮址顕彰会」の目的が神宮の建設でした。宮跡の保存は顕彰と一体であり、顕彰の究極の方法は神宮を創建することだったのです。これは明治28年に京都の奠都1100年祭を記念して創建された平安神宮の成功が刺激になっていると思います。平安神宮は寄付金10万円を募ったところたちまち全国から30万円集まり、その資金で創建されました。平城神宮は地元の都跡村では歓迎されましたが、奈良県全体からすると本当にどれほどの関心と支持があったのか疑問です。当時の内務省社寺局長が棚田にアドバイスしたところでは、「組織を作って自己資金4万円を集めなさい」と言ったそうです。現状はそれからはほど遠かった。

 もっとも当時の国家神道にとって必要な存在だと国が判断すれば、国が主導して神宮創建されたでしょう。たとえば橿原神宮吉野神宮がそうですね。平城神宮はそういうものでもなかったということです。

 国会の請願は通らなかったのですが、宮跡の保存の必要性は認識していた県当局が動き出します。実務トップの内務部長が中心になって「平城宮址保存会」が結成されます。会員は県と市の役人、議員、地元の有力者らで棚田や溝辺も加わります。しかし、運動の目標が神宮建設から建碑に変更するに及んで、地元の人は「それでは土地が取られるばかりで村の利益にならない」ということで離れていきます。役人も転勤などで一定せず、この会も霧散解消してしまいます。この頃が保存運動にとっては冬の時代でほとんど動きがありません。

 再び動き出すのは、明治43年(1910)に平城奠都1200年祭の行事が計画されてです。行事の一環として建碑を目的にした募金活動が行われます。これは新しい組織はつくらず、県がバックアップして棚田と溝辺が募金活動をしたのですが、社会的地位もない個人が募金活動をするというのは無理がありました。

 しかし、棚田の人脈が生きて御下賜金300円が下りるという幸運がありました。御下賜金とは、皇室から直々に下される資金ということです。これがあって県当局も前面に出てきて郡市町村に発破をかけて募金活動が進められます。

 奠都1200年祭は主会場を平城宮跡にして11月の3日間にわたって挙行されました。主催者には県知事、奈良市長、都跡村長に並んで棚田、溝辺も加わりました。

 当時はのんびりしていて、挙行が本決まりになったのは1カ月前です。それまでは準備が整わないから来年にしようという案が有力だったそうです。しかし、知事が1200年というのは今年だからということで決まったといいます。これは溝辺日記に出てきます。 

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平城宮址建碑計画趣意書」

 これは、明治43年に棚田と溝辺が建碑のための募金活動をしたとき配布した趣意書です。実は明治34年の「平城宮址顕彰会」の趣意書、明治36年に棚田が賛同署名簿につけた趣意書、この三つは同一文で字句を少し変えたものです。陸軍中将大久保利貞記とありますが、実際に起草したのは奈良の生き字引と呼ばれ奈良女子高等師範学校教授だった水木要太郎です。だから、ここに明治の保存運動の思想がこめられていると考えても間違いはないと思います。

 内容は平城宮保存の意義を説いて、「之を荒蕪に委して空しく古を懐ふ、固より忠愛なる臣民の至情には非ず、必ずや之を顕彰し之を保存して永く以皇徳瞻仰景慕の誠意を尽くす」と訴えます。言葉は難しいですが、「平城宮跡を荒れたままにしておくことは、皇室に忠愛なる臣民の真心にはそぐわない。保存顕彰することは、皇室の徳を仰ぎ見て慕うという臣民の誠意を尽くすことである」との意味です。この趣意書にあるように、当時の保存運動の第一の動機は、皇室への崇敬の念であったわけです。崇敬の念を形に表すことが、宮跡の顕彰・保存であったわけです。

 明治にあっては、史跡は文化財であるという観念はめばえていたでしょうが、まだ普及はしていなかったのです。

 もっともこれも建前と本音というのがあって、佐紀の住民は神宮なら歓迎するが、記念碑にはそっぽを向きました。つまり村の発展につながるかどうかというのが本音であったわけです。生活を第一に考えれば、佐紀の住民の反応にも一理あると思います。

 その点で、棚田は建前と本音の一致を生活を犠牲にすることで純粋につきつめていったと言えます。(108 棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか(後編)に続く)

106 有馬皇子自傷歌の作者は誰か

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  有馬皇子自傷歌は自作か他人の作か?

 万葉集の挽歌の部立で最初に来る歌は、有馬皇子の自傷歌である。謀反を企てた罪で、紀伊牟婁(むろ)の湯(白浜温泉)に滞在していた斉明天皇中大兄皇子のもとに護送される。その途中の岩代で詠まれた歌だ。

 有馬皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首

岩代(いはしろ)の浜松が枝を引き結び真幸(まさき)くあらばまた還り見む 巻2-141
(ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく。もし万一願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。)

家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあらば椎(しい)の葉に盛る 巻2-142
(家にいるときはいつも立派な器物に盛ってお供えする飯なのに、その飯を、今旅の身である私は椎の葉に盛る。)

 教科書にも載る有名な歌であるが、この事件の経緯と背景について簡単に見ていこう。

 有馬皇子は、第三十六代孝徳天皇を父とし、母は左大臣安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の娘、小足姫(おたらしひめ)である。乙巳の変のあと皇位に就いた孝徳天皇は、難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)に宮を移し政治を行ったが、中大兄皇子と対立し、皇子が皇極上皇や間人皇后(はしひとのおおきさき)、公卿大夫、百官を引き連れて明日香に帰るという事態となる。一人取り残された天皇は孤独の中、憤死したという。この時、有馬皇子は十五歳、暗い影を背負うことになった。

 皇極上皇重祚して斉明天皇となり、中大兄皇子は皇太子のままであった。有馬皇子は母が皇族ではなく、天皇候補としての立場は弱かったが、父の孝徳を憤死に至らしめた中大兄皇子にとっては何時復讐されるかわからない警戒すべき存在であっただろう。有馬皇子も自らの立場をよく知っていて、狂人を装い牟婁の湯に湯治した。その効果があったことを斉明天皇に告げたところ、天皇と皇太子の牟婁の湯行幸となった。658年の冬である。

 事件は天皇と皇太子が不在の明日香で起きた。留守官の蘇我赤兄(そがのあかえ)が有馬皇子に近づき天皇の失政を語った。皇子は赤兄を信頼し兵を挙げることを言った。1日おき赤兄の家で謀議している最中に皇子の脇息が折れた。不吉だとして謀議を中止し、秘密にすることを二人は誓った。その夜、赤兄が遣わした軍勢が皇子の宮を包囲し、皇子を捕らえる。そして行幸先の牟婁の湯へ護送されたのである。岩代は日高郡みなべ町、白浜に近い。街道が海辺を通り、旅人は道中の安全を祈る聖地であり、皇子の歌はここで詠まれた。

 皇子は、中大兄皇子の尋問を受けたとき「天と赤兄と知る。吾れ全(もは)ら解(し)らず」とのみ答えて黙ったという。送り返される途次の藤白坂(海南市藤白)で絞殺される。享年十九歳であった。

 有馬皇子が謀反心を抱いていたことは確かである。蘇我赤兄は策謀して皇子を陥れた。処刑に至る手際の良さから、赤兄と中大兄皇子とが示し合わせた陰謀と見るのが自然だろう。歌はこれだけでは羈旅の歌と読める。背景を知って、その平常心の歌いぶりにかえつて胸が衝かれる。歌は、犠牲者として悲劇の皇子への同情を引き出すだろう。

 ここで一抹の疑問が生じる。はたして有馬皇子の自作なのかということだ。歌の出来映えが見事であるだけに、満十八歳の青年が死を目前にしてこれだけ平静でいられるのか、後世、皇子の立場に立って作られたのではないかという思いが消えないのだ。皇子は中大兄皇子の尋問に「天と赤兄と知る。吾れ全(もは)ら解(し)らず」とのみ答えて沈黙したというから相当な人物であったと思う。「天」とは中大兄皇子を指す。だから自作歌という説も十分成り立つが、他作歌説も保留しておきたい。

    有馬皇子追悼歌に込められた政治的意図

 自傷歌に続いて、有馬皇子を追悼する後世の歌が四首載る

長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおをまろ)、結び松を見て哀咽(かな)しぶ歌二首

岩代の岸の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも 巻2-143 
(岩代の崖のほとり松の枝、この枝を結んだというそのお方は、立ち帰って再びこの松をご覧になったことであろうか)

岩代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ 巻2-144
(岩代の野中に立っている結び松よ、お前の結び目のように、私の心はふさぎ結ぼおれて、昔のことがしきりに思われる。)

  山上臣憶良が追和の歌一首

天翔りあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ 巻2-145
(皇子の御魂は天空を飛び通いながら常にご覧になっておりましょうが、人にはそれがわからない、しかし、松はちゃんと知っているのでしょう。)

  大宝元年辛丑に、紀伊の国に幸す時、結び松を見る歌一首 柿本朝臣人麻呂が歌集の中に出ず

後見むと君が結べる岩代の小松がうれをまたも見むかも 巻2-146
(のちに見ようと、皇子が痛ましくも結んでおかれたこの松の梢よ、この梢を、私は再び見ることがあろうか)

 これらの歌が詠まれたのは、大宝元年(701)9月から10月にかけての文武天皇と持統太上天皇紀伊行幸の時であったとされる。長忌寸意吉麻呂と山上憶良の歌は、持統4年(690)の持統天皇紀伊行幸で詠まれたという異説がある。どちらにしても、この四首は行幸時に詠まれており、天皇も臨席した宴席で朗唱されたのだろう。作者の個人的な思いを吐露したというよりも、時の宮廷が思いを共有した「公式」の歌である。

 どの歌も「結び松」に掛けて、「真幸くあればまた還り見む」という哀切な祈りがリフレインし、皇子の運命に満腔の涙をそそぐ。持統天皇の宮廷人が、何故かくも有馬皇子に同情したのか。一種の判官贔屓なのか。勝者の持統天皇が、敗者の有馬皇子を贔屓する理由は何なのか。それは、大海人皇子が有馬皇子と同じ運命をたどりかねない立場をくぐり抜けてきたことにある。

 天智10年(671)に天智天皇が重病の床についた時、東宮であった大海人皇子皇位を継ぐことを辞退し出家を申し出て許された。天智天皇が政敵には謀略を駆使して抹殺してきたことは周知の事実であり、危険を察知した大海人皇子は辛うじてその難から逃れたのであった。その後の壬申の乱は、客観的に見るならば、近江朝に正統に引き継がれた皇位大海人皇子が武力によって簒奪したことになる。しかし天武・持統朝は自らの正統性を主張するために舒明天皇斉明天皇の直系であることを強調するとともに天智天皇に問題があったことを記録に留める。

 蘇我赤兄は近江朝の左大臣であり、壬申の乱後は追放された。有馬皇子は、赤兄と中大兄皇子が仕組んだ謀略の犠牲となった。謀略にはまりかねなかった大海人皇子の側は有馬皇子を顕彰することで、自らの正当防衛を印象づけられる。持統朝・文武朝の紀伊行幸で公に有馬皇子を追悼する政治的な理由はここにあった。もし有馬皇子自傷歌が後世の作だとするなら、天武・持統朝においてであろう。万葉集挽歌の部冒頭に置かれたのも、万葉集原撰部が持統天皇の主導で編纂されたその影響にあったからだ。

    天武朝で改葬された有馬皇子の墓?

 和歌山県御坊市岩内にある岩内1号墳は、和歌山県唯一の終末期古墳である。1辺約19mの方墳で、墳丘は版築で叩きしめられている。両袖式の横穴石室を持ち、玄室の長さは2.48m、幅2m、羨道の長さは3.42m、幅1.45mである。7世紀前半末期に築造され、さらに7世紀後半中期に改築されたという。改築された石室床面から銀線蛭巻太刀や木棺に使用した六華葉飾金具が出土している。

 森浩一氏は、岩内1号墳は有馬皇子を埋葬した墓であると推定した。その理由は、①大化の薄葬令に対応する県内唯一の古墳で、大和、河内に引けを取らない1級の墓である。②方墳で最新の版築の技術を用いている。③出土品の銀線蛭巻太刀は、被葬者が非常に身分の高いことを示す。④漆塗りの木棺は畿内でもごくわずかしか出てこない。⑤有馬皇子側近で同時に処刑された塩屋連鯛魚は、日高郡の大豪族塩屋の出身であり、その関係で皇子はここに葬られた。⑥皇子はまず仮埋葬され、天武朝になって本格手に埋葬された。

 注目したいのは、7世紀後半中期に改築され、その時の立派な副葬品が出土するということだ。森浩一氏が指摘したように有馬皇子の墓であるなら、天武・持統朝において皇子の復権・顕彰は墓にまで及んでいたことになる。追悼歌はそれに伴うものであったのだろうか。

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岩内1号墳(御坊市ホームページ

*歌の訓み下し、現代語訳は、伊藤博校注『萬葉集釋注一』に拠る。

参考
伊藤博萬葉集釋注一』集英社文庫
坂本太郎他校注『日本書紀五』岩波文庫
青木和夫他校注『新日本古典文学大系 続日本紀一』岩波書店
小賀直樹「有馬皇子の墓はどこか」(『有馬皇子を考える』帝塚山大学考古学研究所・博物館)

105 東の野に立つのは、“けぶり”か?“かぎろひ”か?

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かぎろひの丘万葉公園(奈良県宇陀市

   東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ 巻1-48

 柿本人麻呂が、軽皇子の遊猟に従駕して詠んだ歌の一つとして有名な歌である。夜明けの太陽が現れる直前、光が射し、振り返れば、月は西空に傾いている。雄大で鮮やかなイメージが浮かんできて一読忘れられない歌となる。

 題詞には「阿騎野」という地名が記される。奈良県宇陀市大宇陀町に古代の狩場があったらしく、阿紀神社のある周辺が「かぎろひの丘万葉公園」として整備されている。ここでは毎年12月頃(旧暦11月17日)に「かぎろひを見る会」が催されて、今年で48回目となる。早朝、たき火を囲みながら日の出を待つ。かぎろひが見えるかどうかは、その日のお天気次第だという。筆者は参加したことはないが、現地でこの歌の風景を見たいという気持ちはよくわかる。万葉集にはロマンをかき立てる歌は多いが、これは最たるものだろう。

 ところがである。このロマンが揺らいでいる。2013年、岩波文庫で出た『万葉集(一)』の中で、48番歌の訓み下しが次のようになった。

   東の野らにけぶりの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

 なんと、「かぎろひ」が「けぶり(煙)」に訓み替えられた。一体どういうことなのだろう。岩波文庫には詳細な解説があるので、それを見ていこう。

 まず原文はこうである。

   東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡

 問題の箇所は「炎」である。これを「かぎろひ」と訓んだのは、賀茂真淵であった。それまでは、「けぶり」と訓まれていた。

   あずま野のけぶりの立てる所見てかえり見すれば月かたぶきぬ

 「けぶり」と訓むのは、巻3-366の「海未通女 塩焼炎」を「海人娘子 塩焼く煙(あまおとめ しおやくけぶり)」とする例がある。「かぎろひ」と訓むのも、巻6-1047の「炎乃 春尓之有者」を「かぎろひの春にしなれば」という例がある。

 「かぎろひ」は万葉集の他の用例からも判断して「陽炎(かげろう)」の意味である。真淵は、これを「ほのかな光」という意味に解釈した。というのも。この歌が詠まれたのは、長歌に「み雪降る」とあって冬であり、しかも夜明け前なので、陽炎が出現するとは思えないからである。しかし、この意味の変更は根拠に欠けるという。

 「かぎろひ」に続く動詞は、他はどれも「燃ゆる」である。したがって、「かぎろひ」と訓んで「立つ」と続けることは疑問がある。

 このような理由から、岩波文庫の校注者たちは、「炎」を真淵以前の訓み方「けぶり」に戻した。そして、この「けぶり」は、これから狩りをするため野に放った火の煙であるとする。

   安騎の野に宿る旅人うち靡き寐も寝らめやもいにしへ思ふに 巻1-46
   ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し 巻1-47
   東の野らにけぶりの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ 巻1-48
   日並の皇子の命の馬並めてみ狩り立たしし時は来向ふ 巻1-49

  四首並べて鑑賞すると、四首がそれぞれ起承転結の役割をおびて、三首目がこれから狩りに立とうとするきっかけを与えるにふさわしい内容、すなわち転換の歌であると思える。これが「かぎろひ」ではやや間延びする。しかし、一首として鑑賞するなら、その差は歴然としている。真淵の訓みと解釈は、この歌が万葉集を代表する歌へと押し出したのである。

  参考文献
 佐竹昭広他校注『万葉集(一)』岩波文庫
 小川靖彦著『万葉集と日本人』角川書店

104 万葉挽歌の大和――堀辰雄著『大和路・信濃路』

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 堀辰雄が月刊誌『婦人公論』に「大和路・信濃路」を連載したのは1943(昭和18)年であった。戦後、新潮文庫と角川文庫に『大和路・信濃路』のタイトルで他の文章も加えて刊行された。両者は編集が異なり収載された文章や配置に異同がある。大和路を直接題材にした文章は「十月」、「古墳」、「浄瑠璃寺の春」、「『死者の書』」であり、両文庫に収められた。文庫には入っていないが、「黒髪山」も大和を題材にしているため、都合これらの5編をもって堀辰雄の『大和路』として取り上げ感想を述べたい。なお現在『大和路・信濃路』は新潮文庫で入手できる。

    6回の大和旅行

 堀辰雄は1904(明治37)年に東京に生まれた。東京帝大文学部国文科卒。旧制第一高等学校の在学中から室生犀星芥川龍之介の知遇を得て文学を志す。『聖家族』、『美しい村』、『風立ちぬ』、『菜穂子』等、フランス文学の影響が濃い作品がある一方、日本の王朝文学に題材をとった『かげろふの日記』、『曠(あら)野』等がある。病身を養うため軽井沢に住まいし信濃の風土が作品ににじみでる。1953(昭和28)年死去、享年49歳。堀辰雄全集10巻(角川書店)がある。

 堀がはじめて奈良を訪ねたのは1937(昭和12)年で、このときは京都旅行も兼ねていた。2度目は、2年後に友人の作家、神西清と一緒に旅行している。このときの体験が「黒髪山」を生んだ。次は1941(昭和41)年10月、月刊誌『改造』の求めに応じ、古代小説を書く目的で一人奈良を見て回り、半月ばかり奈良ホテルに宿泊した。この間、多恵子夫人宛てにつづった手紙をもとに「十月」が著された。同年、12月には3日ばかり滞在し、山辺の道、巻向、山城恭仁京、橿原、明日香をめぐっている。J兄こと神西清に書簡を認める形で2年前の旅行を思いだしながら今回の体験を記したのが「古墳」である。1943(昭和18)年の春に多恵子夫人とともに浄瑠璃寺を訪ねた記録が「浄瑠璃寺の春」になる。同年初夏の桜井聖林寺を単独で訪ねたのが最後の大和行となった。「『死者の書』」は折口信夫の同名の書を会話体で論じたもので、一連の大和路シリーズの最後に書かれた。

    阿修羅像の眼ざし

 『大和路』は、『古寺巡礼』と『大和古寺風物詩』の二書と比べ内容と文章においてかなり異なる。まず仏像や寺院があまり取り上げられないし、登場しても他書と視点が異なる。著者は奈良の各地を訪ねてまわるが、寺と同じように沿道や村落の風景を愛おしみつつ心を遊ばせる。万葉集の挽歌の舞台である山や飛鳥にも足を伸ばしたり、古墳の石室をのぞいたりして、古代人の心を追体験する。行く先々の馬酔木の花を見比べる。奈良の風土そのものを身体で味わっているような紀行である。文章は、他の二書が思弁的な性格を持つのにたいし、本書は直接の経験から離れず具体的な描写を重ねていく小説家らしい文章である。

 著者が取り上げた仏像は、興福寺阿修羅像、秋篠寺の伎芸天女像、三月堂月光菩薩像、戒壇広目天像、法隆寺百済観音像などであり、いずれも仏像に人間性を見いだして親しみを覚えるというもので、他の二書が仏像に超越的な神性を見るのとは方向性が逆である。たとえば阿修羅像については次のように語られる。

 「ちょうど若い樹木が枝を拡げるような自然さで、六本の腕を一ぱいに拡げながら、何処か遥かなところを、何かをこらえているような表情で、一心になって見入っている阿修羅王の前に立ち止まっていた。なんというういういしい、しかも切ない目ざしだろう。こういう目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示しているのだろう。
 それが何かわれわれ人間の奥ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させていると、自分のうちにおのずから故しれぬ郷愁のようなものが生れてくる、――何かそういったノスタルジックなものさえ身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない気もちになって、やっとのことで、その彫像をうしろにした。」(新潮文庫『大和路・信濃路』101頁)

 堀が仏像について一番熱心に語ったのはこの部分である。おそらくこの感想はおおかたの同意を得ると思う。阿修羅像を人間性のレベルから共感する先駆けではないだろうか。

    三者三様の唐招提寺

 唐招提寺金堂は、『古寺巡礼』『大和古寺風物詩』『大和路』の三者三様、詳細に述べられてそれぞれの特徴が出る。和辻は金堂の屋根や柱、軒の組物などのバランスを詳しく論じてその美しさの理由を明かそうとする。ギリシャ、ローマ、ゴシック建築との比較、周囲の松林との調和まで挙げる。亀井は、金堂、講堂、舎利殿、鼓楼の伽藍配置の美しさに言及する。さらに金堂の柱について想像をめぐらす。旅人がもたれて休息し、男女が隠れて逢い引きし、子供たちがかくれんぼするにふさわしい円柱に人間くさい親しみを覚える。堀もまた彼らしい方法で金堂にかかわる。

 夕暮れの迫る金堂に来た堀は、吹き放しの円柱のかげを歩きまわる。扉にあるかなきかの仄かさで浮かび出る花紋に気づく。そして、「円柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の真んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味わおうとした。僕はそのときふとその手を休めて、じっと一つところにそれを押しつけた。僕は異様に心が躍った。そうやってみていると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部に滲み込こんだ日の光の温かみがまだ消えやらずに残っているらしい。
 僕はそれから顔をその柱にすれすれにして、それを嗅かいでみた。日なたの匂いまでもそこには幽かすかに残っていた。……」(同110頁)

 堀は、金堂の扉に発見したかすかな古代の花文と夕暮れの柱に残った日の温み・匂いをもって唐招提寺について書き表した。なんとも印象深い場面である。

    万葉挽歌への関心

 堀はそもそもなぜ奈良・大和に関心を抱いたのだろう。彼は折口信夫の講義を聴講しており、折口の『古代研究』の愛読者である。『死者の書』に感激して二上山を訪ねている。彼の関心は古代人の他界観にあった。万葉集の挽歌に強く惹かれることを述べる。それは、「一切のよき文学の底にはレクエイム的な要素がある」と信じた彼の文学観からきている。万葉挽歌への関心が堀を大和へと導いたのである。

 昭和14年に奈良を旅行したとき、はじめは古寺をめぐったが、万葉集とは結びつかなかった。そこで古寺めぐりをやめ、「ただぼんやりとそこいらの村を歩いて暮らすことにした」。

 「私は卷向山や二上山などの草深い麓をひとりでぶらぶらしながら、信州の山々を見馴れてゐる自分のやうな者にも、それ等の山そのものとしては何らの變哲もなく見える小さな山々に對して一種異樣な愛情の湧いてくるのを感じ出してゐた。いまから千年以上も前、それらの山々に愛する者を葬つた萬葉の人々が、そのとき以來それまで只ぼんやりと見過ごしてゐたその山々を急に毎日のやうに見ては歎き悲しみ、その悲歎の裡からいかにその山が他の山と異り、限りないそれ自身の美しさをもつてゐることを見出して行つたであらう事などを考へてゐると、現在の自分までが何かさういふ彼等の死者を守つてゐる悲しみを分かちながらいつかそれらの山々を眺め出してゐるのだつた。さういふこちらの氣のせゐか、大和の山々は、どんなに小さい山々にも、その奧深いところに何か哀歌的なものを潛めてゐる。」(「黒髪山」)

 「人麻呂歌集」に黒髪山という地名があることから、著者は奈良坂から黒髪山を抜けて歌姫へ出ることを試みる。しかし山へ入ると小道が多くて迷ってしまう。5月の若葉が茂る明るい山中をさ迷いながら、自分が山に葬られた万葉の死者のように感じられてくる。それは心細さと同時になにか楽しい体験であった。

 大和の地に万葉人の心情を追体験するのは、「古墳」のなかでもみられる。人麻呂が挽歌をおくった妻は「軽の村」に住まっていた。著者は飛鳥に近い軽を訪ねて、現地の風景に人麻呂とその妻が往来していた情景を浮かべる。

 「今もまだその軽の村らしいものが残っております。その名を留めている現在の村は、藪の多い、見るかげもなく小さな古びた部落になり果てていますが、それだけに一種のいい味があって、そこへいま往ってみても決して裏切られるようなことはありません。
 低い山がいくつも村の背後にあります。そういう低い山が急に村の近くで途切れてから、それがもう一ぺんあちこちで小丘になったり、森になったり、藪になったりしているような工合の村です。そういう村の地形を考えに入れながら、もう一ぺんさっきの歌を味わってみると、一層そのニュアンスが分かって来るような気がします。」(『大和路・信濃路』141頁)

    書かれなかった古代小説

 「十月」のなかで、著者は斑鳩の里を歩きながら古代小説を構想する。「日本に仏教が渡来してきて、その新しい宗教に次第に追いやられながら、遠い田舎のほうへと流浪の旅をつづけ出す、古代の小さな神々の佗しいうしろ姿を一つの物語にして描いてみたい。それらの流謫の神々にいたく同情し、彼等をなつかしみながらも、新しい信仰に目ざめてゆく若い貴族をひとり見つけてきて、それをその小説の主人公にするのだ。」(同128頁)。「古代の小さな神々」「流謫の神々」とは、万葉集に現れた信仰であろう。堀は大和の山野を彷徨しつつその雰囲気に染まりながら、小説のインスピレーションをつかもうとした。しかその小説は書かれなかった。1944年から堀は病床に伏すことが多くなった。戦後はほとんど執筆活動ができなかった。

 信濃は堀のふるさとであった。そして大和が第二のふるさとになることを望んだ。「いつの日にか大和を大和ともおもわずに、ただ何んとなくいい小さな古国にだとおもう位の云い知れぬなつかしさで一ぱいになりながら、歩けるようになりたい」(同163頁)と願ったのであるが、それも叶わなかった。

 本書の旅行が行われ執筆されたのは、ほぼ太平洋戦争の最中である。しかし戦争の影はみじんもなく、そのことに驚く。著者の強靱な精神を見るような気がする。

 主要参考文献
堀辰雄『大和路・信濃路』新潮文庫
堀辰雄『大和路・信濃路』角川文庫
堀辰雄黒髪山青空文庫

103 大和を舞台にした求道の書――亀井勝一郎著『大和古寺風物誌』

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 私がはじめて新潮文庫版『大和古寺風物誌』を読んだのはかれこれ半世紀ほど前である。著者は1966年に亡くなっていたが、有名であったし、この本が人気のあることはなんとなく知っていた。タイトルが牧歌的であるのにもひかれた。しかし甘美な詩情あふれる大和の歳時記風エッセイという予想に反して、内容は高校生の私の理解力を超えていた。だが、それにもかかわらずこの本への関心は消えず、私の中で『大和古寺風物誌』=大和路のイメージがいつのまにか生まれていた。何が私をひきつけたのか。いま考えると、本書の強い文学性であったのだと思う。美術史家の町田甲一は、『古寺巡礼』と『大和古寺風物誌』の仏像鑑賞が「主観的文学的哲学的」であり、仏像の客観的な理解ではないと批判したが、それは『大和古寺風物誌』についてより言えることであろう。でもそこが逆に私を惹きつけていた所以なのである。

    古典の地で図られた再生

 亀井勝一郎は1907年、北海道函館に生れた。東大美学科在学中「新人会」に加わり大学を中退。1928(昭和3)年、治安維持法違反の疑いで検挙される。保釈後日本プロレタリア作家同盟に所属するが転向して、1935年同人誌「日本浪曼派」を創刊。文芸評論家の道に進む。戦後は宗教的立場から文明批評を試みる。『日本人の精神史研究』で菊池寛賞受賞。1966年死去。『亀井勝一郎全集』全21巻補巻3がある。

 亀井と大和との出会いは1937年(昭和12)、30歳の時であった。20代初期のマルクス主義革命運動への参画と挫折・転向を体験し、文芸評論の道にスタートを切ったばかりである。思想的な模索と人生への探求が彼の中で渦巻いていた時期であった。大和の古寺巡りを始めた動機を彼は次のように書く。 

 「はじめて古寺を巡ろうとしていた頃の自分には、かなり明らかな目的があった。すなわち日本的教養を身につけたいという願いがあった。長いあいだ芸術上の日本を蔑ろにしていたことへの懺悔に似た気持もあって、改めて美術史をよみ、希臘(ギリシャ)・羅馬(ローマ)からルネッサンスへかけての西洋美術とどう違うかということや、仏像の様式の変化とか、そういうことに心を労していたのである。仏像は何よりもまず美術品であった。そして必ず希臘彫刻と対比され、対比することによって己の教養の量的増加をもくろんでいたのである。私においては、日本への回帰――転身のプログラムの一つに「教養」の蓄積ということが加えられていた。己の再生は、未知の、そして今まで顧みることのなかった古典の地で行われねばならなかった。古美術に関する教養は自分を救ってくれるであろうと。」(新潮文庫『大和古寺風物誌』71頁) 

 昭和12年は日中戦争が始まった年であり、国内での「愛国心」の高まりがあり、国粋主義的な思想で社会が染められていく時代だった。亀井の「日本回帰」もその風潮に棹さす一面のあったことは否定できない。だが時代の影響のみに限定することはできない。亀井は北海道に生まれ高校は山形で過ごした。日本の古典文化から離れた北国、東国の風土で育ち、当時の知的青年らしく西欧の思潮を吸収して精神を形成した。思想において人生において紆余曲折した彼の前に新たな世界として日本の古典が現れた。そういう意味では内的な必然性に促されての「古典の地」大和への旅であり、ここでの「己の再生」が希求されたのである。

 大和へ旅するまでは彼にとって仏像は親近感を覚えるものではなかった。西欧の教養で自己形成していた彼は、当然ながら西欧の古典美術に心ひかれていた。大和に向かった当時の知的青年たちのバイブルは『古寺巡礼』であったが、彼らは多かれ少なかれ西欧の学問を仕込んだ和辻と知的環境を共有し、亀井もまた変わりなかった。『大和古寺風物誌』に登場する寺院や仏像は、『古寺巡礼』と共通するところが多い。ギリシャ古典を起点とする美意識がともに深く内面化されているからである。

    仏像は仏である

 美術鑑賞の対象であったはずの仏像は、だが、亀井の前に異なる姿を現す。法隆寺百済観音の前に彼は立った。 

 「仄暗い堂内に、その白味がかった体躯が焔のように真直ぐ立っているのをみた刹那、観察よりもまず合掌したい気持になる。大地から燃えあがった永遠の焔のようであった。人間像というよりも人間塔――いのちの火の生動している塔であった。胸にも胴体にも四肢にも写実的なふくらみというものはない。筋肉もむろんない。しかしそれらのすべてを通った彼岸の、イデアリスティクな体躯、人間の最も美しい夢と云っていいか。殊に胴体から胸・顔面にかけて剥脱した白色が、光背の尖端に残った朱のくすんだ色と融けあっている状態は無比であった。全体としてやはり焔とよぶのが一番ふさわしいようだ。」(同58頁) 

 それは、「仏像は、私にとってもはや美術品でなく、礼拝の対象となった」瞬間であった。このとき亀井に宗教的な回心が起きたのである。我々としては「何故」と問いたいところであるが、おそらく「宿命」としか言いようがないだろう。起きるべくして起きたのである。かくして「仏像は拝みに行くものだ」という信念が本書を貫くテーマとなり、この書の独自性となる。『古寺巡礼』などに導かれて仏像の美術的鑑賞が当然となった時代に、この宣言は顔をはたかれたような訴求力を持つ。「仏像は信仰の対象であった」ことを改めて気づかせてくれる。読者のなかには共感を覚える方もいるだろう。しかし現代人は昔の善男善女のように仏の前に素朴にひざまずけるだろうか。ここに、ひときわ鋭い感性と高い教養をそなえた現代人がいかに宗教に目覚めて思索を深めていくかという求道の物語が生まれる。

    美を入り口にした信仰

 著者がとくに心を揺さぶられた仏像は、法隆寺百済観音、中宮寺半跏思惟観音、法輪寺虚空蔵菩薩薬師寺薬師三尊、東大寺三月堂不空羂索観音である。それぞれは「大地から燃えあがった永遠の焔(百済観音)」、「生存を歓喜しつつ大地をかけ廻った古代の娘(思惟観音)」、「光の循環のメロディがそのまま仏体の曲線でありまた仏心の動きをも示している(薬師三尊)」、「一切を黙ってひきつれてなおゆるぎなく合掌する威容は、天平のあらゆる苦悩と錯乱の地獄から立ちあらわれた姿(不空羂索観音)」などと形容される。情熱的で想像力を喚起する巧みなレトリックは、これらの仏像を強く印象づける。著者の仏に没入する様子には並々ならぬものがあり、信仰の告白のようにも思える。

 だが一方で本書は、美を入り口にした「仏像鑑賞」の書という性格ももつ。和辻哲郎は感覚と信仰を対立的にとらえたが、亀井はふたつを両立させる。「美を無視して信心のみから仏を仰ぐことは出来かねるのだ。美しくなければ私はその信仰を疑う」(170頁)。だから本書の奔放で想像力に富んだ「美術的鑑賞」は、『古寺巡礼』と好一対をなして読者に受けいれられてきた。

    歴史への関心

 著者は、仏像の様式や大陸からの伝来、異文化との交雑に触れることはほとんどない。関心が寄せられるのは、造仏された歴史的背景である。飛鳥時代から白鳳期、奈良時代にかけて『日本書紀』や『続日本紀』に記録された古代史に注目する。支配層の同族相食む凄惨な戦いはやまず、疫病、災害、飢饉に民は苦しむ。このような状況に心を痛め仏の祈りに救いを求めたのが、聖徳太子天武天皇持統天皇聖武天皇光明皇后だとする。飛鳥、白鳳、天平の仏像には、この貴人たちの祈りと願いが結実しているという。とくに聖徳太子と上宮王家の自己犠牲に菩薩行の実践を見て、太子に帰依せんとする心情がつづられる。古代史の叙述にはかなりの分量があてられた。これは大和の仏像鑑賞として歴史の知識が重要であることを教える啓蒙的な役割を果たしたことだろう。

    大和の風景への愛着

 亀井は昭和12年の秋にはじめて奈良を訪れ、それから毎年のように春秋の旅行を繰り返し、この間につづった紀行を単行本にまとめ17年に出版した。さらに敗戦後すぐに書いた文章を加えて昭和28年に新潮文庫の『大和古寺風物誌』を刊行した。数年にわたって何度も奈良を訪問したことで奈良の風土になじみ、いろいろ考えることも多かった。

 この頃の奈良の寺は多くがまだ廃仏毀釈の打撃から立ち直れず、千年の有為転変の痕を刻むかのような荒廃の雰囲気を漂わせていた。亀井はしかし荒廃と衰亡に心ひかれた。そこに歴史の生命を感じた。これに対し法隆寺が名声の故に「もったいぶって」復興する姿に嫌悪感を示し、その観光寺院化を懸念した。

 亀井は奈良の風景にやすらぎ癒やされた。とくに斑鳩の里と西ノ京への賛美を惜しまない。 

 「中宮寺界隈かいわいの小さな村落を過ぎて北へ二丁ほど歩いて行くと、広々とした田野がひらけはじめる。法隆寺の北裏に連なる丘陵を背にして、遥に三笠山の麓にいたる、古の平城京をもふくめた大和平原の一端が展望される。大和国原という言葉のもつ豊かな感じは、この辺りまで来てはじめて実感されるように思う。往時の状景はうかがうべくもないが、田野に働く農夫の姿は、古の奈良の時代とさして変ってもいないだろう。春は処々に菜の花が咲き乱れて、それが霞んだ三笠連山の麓までつづいているのが望見される。畔道に咲く紫色の菫、淡紅色の蓮華草なども美しい。おそらく飛鳥や天平の人たちも、この道を逍遥したことであろう。陽炎のたち昇る春の日に、雲雀の囀りをききつつ、私のいつも思い出すのは、「春の野に菫摘まむと来し吾ぞ野をなつかしみ一夜宿にける」という万葉の歌である。この歌の気分がここで一番しっくりあうように思う。
 しかし大和国原の豊かさを偲ぶという点では秋の方が更にふさわしい。今年はとくに豊作の故でもあったろうが、眼のとどくかぎり一面に実った稲の波である。透明な秋空の下に、寸分の隙もなく充実していて、黄金の脂肪のような濃厚な光りを放っていた。稲穂が畔道に深々と垂れさがって、それが私の足もとにふれる爽やかな音をききながら幾たびもこの辺りを徘徊した。豊作というものがこんなに見事なものとは知らなかったのである。心からの悦びが湧きあがってくる。」(同118頁) 

 「奈良近郊でも私のとくに好ましく感じたところは薬師寺附近の春であった。西の京から薬師寺唐招提寺へ行く途中の春景色にはじめて接したとき、これがほんとうの由緒正しい春というものなのかと思った。このような松の大樹や、木々の若葉や麦畑はどこにでもみられるかもしれない。しかしその一木一草には、古の奈良の都の余香がしみわたっている。人間が長きにわたって思いをこめた風景には香があるのだろう。塔と伽藍からたち昇る千二百年の幽気が、この辺りのすべてに漂っているように思えた。‥‥
 土塀といえば、私は大和をめぐってはじめてその美しさを知った。‥‥大和古寺の土塀や奈良近郊の民家の築地は、そう鮮かなものではなく、赤土のまじった、古びた地味な感じのするのが多い。よくみると繊細な技巧の跡がうかがわれる。そして崩れたままにしてあるところに、古都の余香が、或は古都のたしなみとも云うべきものが感ぜられる。」(同136頁)

 昭和初期の斑鳩と西ノ京の風景である。もはや二度と見られない風景が言葉により鮮やかに描かれ残されたことに感謝したくなる。写真家の入江泰吉は『大和古寺風物誌』を携帯して大和を巡り歩いたそうだ。この風景描写は確かに入江の写真に通じている。入江の作品の原点はここにあるかもしれない。

   主要参考文献
亀井勝一郎『大和古寺風物誌』新潮文庫
亀井勝一郎『我が精神の遍歴』日本図書センター
武田友寿『遍歴の求道者亀井勝一郎講談社
町田甲一『大和古寺巡歴』講談社学術文庫
碧海寿広『仏像と日本人』中公新書

102 仏像鑑賞の近代的幕開け――和辻哲郎著『古寺巡礼』

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 和辻哲郎の『古寺巡礼』が刊行されたのは、1919(大正8)年であった。刊行100年を迎える書物は仏像鑑賞の古典として今も書店に並ぶ。

 著者の和辻哲郎(1889~1960)は兵庫県生まれ、倫理学者、夏目漱石門下で東洋大・京大・東大教授を務めた。人間存在を間柄存在としてとらえる道徳論の展開に特色がある。風土論をはじめ文化史にも業績が多い。著作には『日本精神史研究』、『人間の学としての倫理学』、『風土―人間学的考察』、『倫理学』、『鎖国 日本の悲劇』などがあり、『和辻哲郎全集』増補版(全25巻 別巻2)が出る。文化勲章を受章している。

 『古寺巡礼』は著者30歳の著作である。1918年5月に和辻は奈良旅行を行った。その紀行文を雑誌に数回にわたって連載、それを中心に、他の雑誌にも発表した文章を加えて翌年に出版された。

 和辻は東京帝大文学部哲学科で学び、ニーチェキルケゴールの研究書を20歳代で世に出している。奈良の仏像との出会いは前年、東京帝大美術史教室の見学旅行に同伴したのが最初であり、そのとき強い感動があった。ふたたび友人等とともに訪れ、奈良ホテルを拠点に新薬師寺、奈良帝室博物館、浄瑠璃寺興福寺東大寺法華寺唐招提寺薬師寺當麻寺法隆寺中宮寺を5日間でめぐっている。人力車も利用する忙しい旅行であり、博物館や各寺院の見学では特別な待遇を受けたとはいえ、それぞれの寺院の滞在や仏像との対面は短時間の一度きりである。そんな条件で古典となるような本が書かれたことに驚く。

 本書は仏像を美術品として鑑賞するすべを定着させたと評価されている。それに間違いはないが、美術品としての仏像という見方は著者の独創ではない。時代背景として仏像や寺院が明治維新以後どのような扱いを受けてきたか見ておきたい。

    廃仏毀釈から古社寺保存法へ

 1868年の神仏分離令廃仏毀釈の動きに発展し、仏像・仏具の破壊や売却による散逸が進行した。このような現状に危機感をだいた政府は1888(明治20)年から全国の社寺を対象とする宝物調査を実施した。約10年をかけて21万点の宝物が調査された。この調査で主導的な役割を果たしたのが、フェノロサ岡倉天心である。法隆寺東院夢殿の秘仏・救世観音が彼らによって数百年のヴェールを解かれたことは有名である。

 調査の成果をもとに「古社寺保存会」が設置され、1897(明治29)年に現在の文化財保存法につながる「古社寺保存法」が公布された。そして「歴史」的にまたは「美術」的に貴重な遺物は「国宝」に指定され、文化財として保護・保存の途が図られた。

 「歴史」も「美術」も明治になって生まれた言葉であり、西欧由来の概念はしだいに社会に普及していく。岡倉天心は1890年に『日本美術史』を著し、古美術を時代別に位置づけ特徴を考察した。これ以降、学問としての古美術研究がスタートを切る。東京、京都、奈良に創設された博物館は宮内庁管轄の帝室博物館となり、多くの仏像を展示し見学者の便を図った。こうして明治の後半には仏像を美術品として鑑賞する習慣はすでに生まれていた。

    古美術鑑賞の国際的視点

 和辻はもちろん西欧から輸入された学問としての美学や美術史に通じていた。そして彼自身、ギリシャ古典を正統とする美意識になじんでいた。本書は仏像ばかりではなく仏画や建築、伎楽面、さらに風呂まで取り上げられるが、その感覚的な印象とともに東西異文化の交流・影響の視点からの考察がつねにともなう。ギリシャ、中東、インド、西域(中央アジア)、中国、朝鮮という文化の伝播ルートのなかにおいて古美術に照明が与えられる。なかでも強調されるのは、ギリシャ古典文化→ガンダーラ美術→中国→日本という流れである。このような論点は、古美術を入り口に当時の読者の視野を世界的なスケールに広げる非常に斬新なものだったと想像できる。本書は戦時中一時絶版になっている。出征する兵士からもう一度本を手にして大和をめぐりたいという要望が多くきたものの再刊できなかったのは、本書のコスモポリタン的な叙述が、当時の国粋主義に染まったムードの中で「危険思想」視されたからであろう。

    聖林寺十一面観音立像

 ギリシャ彫刻の写実性を取り入れてガンダーラで仏像が誕生した。中国に入り仏像として洗練され、日本の風土の中で独自な展開を遂げたというのが、和辻の基本的な見立てである。彼が絶賛した仏像の一つである聖林寺十一面観音立像は次のように語られる。

 かくてわが十一面観音は、幾多の経典や幾多の仏像によって培われて来た、永い、深い、そうしてまた自由な、構想力の活動の結晶なのである。そこにはインドの限りなくほしいままな神話の痕跡も認められる。……またそこには抽象的な空想のなかへ写実の美を注ぎ込んだガンダーラ人の心も認められる。……また沙海のほとりに住んで雪山の彼方に地上の楽園を望んだ中央アジアの民の、烈しい憧憬の心も認められる。……さらにまた、極東における文化の絶頂、諸文化融合の鎔炉、あらゆるものを豊満のうちに生かし切ろうとした大唐の気分は、全身を濃い雰囲気のごとくに包んでいる。……人の心を奥底から掘り返し、人の体を中核にまで突き入り、そこにつかまれた人間の存在の神秘を、一挙にして一つの形像に結晶せしめようとしたのである。  このような偉大な芸術の作家が日本人であったかどうかは記録されてはいない。しかし唐の融合文化のうちに生まれた人も、養われた人も、黄海を越えてわが風光明媚な内海にはいって来た時に、何らか心情の変移するのを感じないであろうか。……われわれは聖林寺十一面観音の前に立つとき、この像がわれわれの国土にあって幻視せられたものであることを直接に感ずる。……  きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、――すべてわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また超人を現わす特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現わされている。薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人の心と運命とを見とおす観自在の眼である。豊かに結ばれた唇には、刀刃の堅きを段々に壊(やぶ)り、風濤洪水の暴力を和やかに鎮むる無限の力強さがある。円く肉づいた頬は、肉感性の幸福を暗示するどころか、人間の淫欲を抑滅し尽くそうとするほどに気高い。これらの相好が黒漆の地に浮かんだほのかな金色に輝いているところを見ると、われわれは否応なしに感じさせられる、確かにこれは観音の顔であって、人の顔ではない。(岩波文庫『古寺巡礼』61頁)

 こういう描写が5頁にわたって続く。本書の魅力は感覚的な印象を表現する流麗な文章にあることは確かだろう。該博な知識と自在な想像力が注ぎこまれる。美術作品を見たり音楽を聴いたりしてそれを美しいと感じたり快くなる体験は珍しくないが、それがどう美しいのか、どう快いのか言葉で表現することは難しい。だからその感覚や感情が言葉で巧みに表現されたとき、われわれは自分の思いがピタリと言い当てられたような気がして、感動をさらに深める。本書が多くの熱心なファンを得たのもそのためである。

 取り上げられる仏像は数多く、現代のわれわれにもなじみのあるものばかりである。ガイドや解説書で見たり読んだりする定番の仏像なのであるが(もちろん現在有名な仏像で本書に上がっていないものも多い。たとえば阿修羅像、伎芸天など)、100年前、大和古美術の啓蒙書の嚆矢となりバイブルとなった本書に紹介されることで、はじめて一般に知られるようになったのだろう。もちろん『古寺巡礼』がなくてもこれらの仏像は高い評価を与えられていたことに間違いはないが、紹介されたことで認知度が格段に上がったのである。なじみがあると感じるのも当然なのである。

    古美術鑑賞と人格主義

 和辻がもっとも惹かれた仏像は聖林寺十一面観音をはじめ薬師寺東院堂聖観音立像、薬師寺金堂薬師如来座像、法隆寺金堂壁画中尊阿弥陀像・脇侍像、中宮寺半跏菩薩像である。徹底した写実、端正な形態、健康で理想的な美はギリシャ古典の美意識になじんだ彼の好みであるが、同時代の読者に素直に受けいれられた。

 「人体を神的な清浄と美とに高める」十一面観音像、「彼岸の願望を反映する超絶的なある者が人の姿を借りて現れた」聖観音像、「人間そのものを写して神を示現した」薬師如来像、「永遠なる命を暗示する意味深い形」の法隆寺金堂壁画、「一つの生きた貴い力強い慈愛そのものの姿」である半跏菩薩像、と言葉を尽くした最大級の賞賛は美術品の鑑賞というよりも美的感動を通して法悦に浸っている印象がある。和辻は本書で次のようにあらかじめことわっている。

  われわれが巡礼しようとするのは「美術」に対してであって、衆生救済の御仏(みほとけ)に対してではないのである。たといわれわれがある仏像の前で、心から頭を下げたい心持ちになったり、慈悲の光に打たれてしみじみと涙ぐんだりしたとしても、それは恐らく仏教の精神を生かした美術の力にまいったのであって、宗教的に仏に帰依したというものではなかろう。宗教的になり切れるほどわれわれは感覚をのり超えてはいない。(同37頁)

 和辻は自らの思想的立場を人格主義に置いていた。教養や芸術的な感動を積んでいくことで自らの人格を陶冶し高めていくという考えである。偉大な作品に感動することはそこに自分の理想を見ることである。信仰に飛びこむことはできなくても、宗教に触れることは人格の陶冶に欠かせない。彼が仏像の美術鑑賞をどうどうと宣言できたのも人格主義が根底にあったからだろう。大正教養主義あるいは大正人文主義とも呼ばれる思潮と人格主義は一体になって、当時の旧制高等学校生や大学生に浸透した。本書の読者も主にこの層であった。伝統的な信仰から切り離された近代人にとって、人格主義的な思想は仏像再発見、宗教再発見を動機づけるものとなって今も生きている。

    建築も鑑賞

 建築や伽藍境内も美的鑑賞の対象になったことは、「古寺巡礼」としての本書の価値を高めただろう。新薬師寺本堂、薬師寺東塔、唐招提寺金堂、東大寺三月堂、法隆寺西院伽藍の建物の印象が詳述される。法隆寺五重塔はいろいろな場所から眺められ、また仰ぎながら近づいたり遠ざかったりその周囲をめぐったりして塔の各部の変化自在の動きが観察される。本を手にして同じ事を試みたいと思わせる。

 法隆寺西院伽藍中門の柱の中央部が膨らむ胴張りとアテネパルテノン神殿の柱のエンタシスが似通っていることから、ギリシャ美術東漸の証拠として本書では推測された。和辻の「ギリシャ贔屓」を示す有名な箇所である。しかし二つを結びつける物的な証拠がないため専門家には不評であり、これを否定する説が今は有力である。だが否定の証拠がないことも事実であり、結局は「よくわからない」というのが、この件に関しては真相のようだ。

    大和の風景

 大和の風景にも言及される。京都を経由して奈良に到着するのだが、京都とは異なる「パアとして大っぴら」な気分が迫ってくる。「古今集」と「万葉集」の相違が、景色からも感じられたという。新薬師寺へ行く高畑では、「道がだんだん郊外の淋しい所へはいって行くと、石の多いでこぼこ道の左右に、破れかかった築泥(ついじ)が続いている。その上から盛んな若葉がのぞいているのなどを見ると、一層廃都らしいこころもちがする」。(同38頁)高畑の崩れた土塀の魅力は大和紀行の定番となったが、『古寺巡礼』ですでに登場している。「太古以来の太い杉や檜が直立しているのが目立つ。藤の花が真盛りで高い木の梢にまで紫の色が見られた」(同42頁)奈良公園を歩く。

 法華寺境内では、「若葉の茂った果樹の間から、三笠山一帯の山々や高台の上に点々と散在している寺塔の屋根が、いかにものどかに、半ば色づいた麦畑の海に浮かんで見える。その麦のなかを小さい汽車がノロノロと馳かけてゆくのも、わたくしには淡い哀愁を起こさせる」。(同112頁)平城宮跡内も通る。「遠く南の方には三輪山、多武峯、吉野連山から金剛山へと続き、薄い霞のなかに畝傍山・香久山も浮いて見える。東には三笠山の連山と春日の森、西には小高い丘陵が重なった上に生駒山。それがみな優しい姿なりに堂々として聳えている。堂々としてはいても甘い哀愁をさそうようにしおらしい。ここになら住んでみようという気も起こるはずである」。(同135頁)

 興味深い記述がある。「薬師寺の裏門から六条村へ出て、それからまっすぐに東へ、佐保川の流域である泥田の原のなかの道を、俥にゆられながら帰る。暮靄(ぼあい)につつまれた大和の山々は、さすがに古京の夕らしい哀愁をそそるが、目を落として一面の泥田をながめやると、これがかつて都のただ中であったのかと驚く。佐保川の河床が高まって、昔の高燥な地を今の湿地に変えたのかも知れない。」(同174~175頁)とある。そして、平城京のあった時代もこんな湿地であったから疫病が流行し、久邇京遷都が行われたのかもしれないと想像する。著者が奈良を訪ねたのは5月末であるから、田植えをまぢかに控えて田んぼには水が張られていたはずだ。大安寺と薬師寺をはるか東西に据えた六条村は古地図に明らかなように集落がところどころに点在する他は田んぼだった。この時期になれば盆地全体が湿地になったように、泥田が見渡す限り広がっていたのだろう。

 當麻寺へも足を運んでいる。二上山の印象は次のように書かれた。「山に人格を認めるのは、素朴な幼稚な心に限ることであろうが、そういうお伽噺めいた心持ちをさえ刺戟するほどにあの山は表情が多い。あたりの山々の、いかにも大和の山らしく朗らかで優しい姿に比べると、この黒く茂った険しい山ばかりは、何かしら特別の生気を帯びて、なにか秘密を蔵しているように見えた。当麻の寺が役行者と結びつき、中将姫奇蹟の伝説を育てて行ったのは、恐らくこの種の印象の結果であろう。

 麦の黄ばみかけている野中の一本道の突き当たりに当麻寺が見える。その景致はいかにも牧歌的で、人を千年の昔の情趣に引き入れて行かずにはいない。茂った樹の間に立っている天平の塔をながめながら、ぼんやりと心を放しておくと、濃い靄のような伝奇的な気分が、いつのまにかそれを包んでしまう。」(同206~207頁)

 法隆寺へは国鉄(現JR)の駅から歩いて行く。「法隆寺の停車場から村の方へ行く半里ばかりの野道などは、はるかに見えているあの五重塔がだんだん近くなるにつれて、何となく胸の踊り出すような、刻々と幸福の高まって行くような、愉快な心持ちであった。

 南大門の前に立つともう古寺の気分が全心を浸してしまう。門を入って白い砂をふみながら古い中門を望んだ時には、また法隆寺独特の気分が力強く心を捕える。そろそろ陶酔がはじまって、体が浮動しているような気持ちになる。」(同225頁)

 斑鳩の里の風景も描写される。「中宮寺を出てから法輪寺へまわった。途中ののどかな農村の様子や、蓴菜じゅんさい)の花の咲いた池や、小山の多いやさしい景色など、非常によかった。法輪寺の古塔、眼の大きい仏像なども美しかった。荒廃した境内の風情もおもしろかった。鐘楼には納屋がわりに藁が積んであり、本堂のうしろの木陰にはむしろを敷いて機(はた)が出してあった。」(同268~269頁)

 和辻が一番感動した場所は、浄瑠璃寺のある当尾の里である。寺へ向かう山道は砂地の里山で赤松が生えツツジが咲き乱れていた。故郷の山で遊んだ幼い思い出がよみがえる。寺は山村の一隅に「平和ないい心持ち」に納まっていた。「浅い山ではあるが、とにかく山の上に、下界と切り離されたようになって、一つの長閑な村がある。そこに自然と抱き合って、優しい小さな塔とお堂とがある。心を潤すような愛らしさが、すべての物の上に一面に漂っている。それは近代人の心にはあまりに淡きに過ぎ平凡に過ぎる光景ではあるが、しかしわれわれの心が和らぎと休息とを求めている時には、秘めやかな魅力をもってわれわれの心の底のある者を動かすのである」(同46頁)。桃源の夢想がここには表現され、それに共鳴するのは子供時代の記憶なのだと語られる。

 風土への言及は仏像や建築に比べると分量は少ないが、個人的には大いに関心があるので、詳しく引用した。100年前の奈良の今は失われた景観を知る貴重な記録だからである。素晴らしい仏像や堂塔が存在する場所への注目は、古寺のある時空間としての大和路全体を照らし出す。個々の仏像や建物の魅力とともに大和路のイメージがかくして生まれていったのである。

    『古寺巡礼』への批判

 美術史家の町田甲一は『大和古寺巡歴』のなかで『古寺巡礼』および亀井勝一郎の『大和古寺風物詩』は文学作品ではあっても仏像鑑賞の手引きにはふさわしくないと批判する。すなわち両者の鑑賞方法は「きわめて主観的文学的哲学的観照であって、正しい美的観照、古美術を正しく理解しようとする観照態度ではない。……作者の作因、美的意図を無視したり、それらを越えて、観照者のきわめて主観的に誇張された感情をもって極端な受け取り方をしている」と手厳しい。また和辻が天平一の傑作とした聖林寺十一面観音を東大寺三月堂不空羂索観音と比べ写実性において如何に劣るかも論じている。町田は十代から『古寺巡礼』を懐に仏像を見て回り美術史家になった人である。『大和古寺巡歴』は『古寺巡礼』とともにぜひ読んでおきたい著作である。

 文芸評論家の保田與重郎は、『古寺巡礼』の姿勢を「異国人の遺品を味わうように、奈良の仏像を見て回る」と評した。保田によれば、これは遠い昔から仏像の美に代々感嘆してきた「民族のくらし」から遊離した、「無国籍」な「骨董的市場的関心」にすぎないという。だから長谷寺のような民衆の深い信仰を集めてきた寺の美術は、和辻の方法では迫れない。

 これらの批判は説得力があるが、『古寺巡礼』の魅力と表裏の関係にある。「主観的文学的哲学的」な雄弁な語り口が読者の想像力に火をつけて関心を喚起した。伝統的な信仰とは無縁な旅行者がいきなり仏像と対面して鑑賞することを可能ならしめたのである。 

 『古寺巡礼』は戦後に再刊されるとき旧版に手を加え改訂版となった。著者はそのとき全面的な修正も考えたが、この本の取り柄が「若さと情熱」にあることを思いいたってそのままにしたという。生の感情が露骨に現れたり主観的すぎる箇所は削除され穏当な表現に整えられたが、「若さと情熱」は生かされ、そしてもうひとつ、この書の特徴は「明るさ」である。ギリシャ古典と天平美術に至上の価値をおく著者の向日性の性格から来るものであろう。

主要参考文献
和辻哲郎『古寺巡礼』岩波文庫ワイド版
和辻哲郎『初版古寺巡礼』ちくま学芸文庫
町田甲一『大和古寺巡歴』講談社学術文庫
保田與重郎長谷寺」『保田與重郎全集第33巻』講談社
苅部直『光の領国 和辻哲郎岩波現代文庫
碧海寿広『仏像と日本人』中公新書
井上章一法隆寺への精神史』弘文堂