138 「大和路」という幻影

 奈良盆地を車で走ると憂鬱になる。車窓に過ぎる風景が醜悪すぎるのである。

 1960年代の高度経済成長の入り口にあったとき、無秩序な開発が進行することを懸念して、京都や奈良の歴史的風土の保存が問題になった。それは「古都保存法」や「明日香法」の成立となり一定の成果はあったが、抜け道が多く、適用範囲も点にすぎなかった。

 司馬遼太郎は71年に発表した「街道を行く 竹内街道」で、「この日本でももっとも汚らしい県のひとつになってしまった風景」と奈良を評した。司馬は母の実家が今の葛城市にあり、幼少のころはそこで過ごすことが多かった。そこで記憶に焼き付いた風景との変わりように衝撃を受けたのだろう。同行していた須田剋太もかつて奈良に寄留したことがあったが、「大和ももうだめですね」と吐露している。司馬が目前にしていたのは、丘陵を崩していたるところで進む大規模な住宅開発であった。

 入江泰吉は敗戦後すぐに奈良・大和を撮り始めて、モノクロの画面に高度経済成長以前の風景を記録した。カラー写真になったのは60年代に入ってであり、失われゆく歴史的風土を唯一無二のイメージに昇華して、大和路の最大の証言者となった。しかし、60年に発行した『大和路 第二集』の序文ではすでに「大和路を形づくっている自然の美しさの壊れてゆくのは、いかにもさびしい。すこし飛躍しすぎる考え方かもしれないが、何十年かさきには、大和路のよさは亡びて、古社寺はさながら街の美術館的存在とならないともかぎらない。」と危惧した。まさにこの予言通りになったのである。

 「大和路」という言葉で思い浮かべるのは、大正から昭和にかけて世に出た一連の書物である。和辻哲郎『古寺巡礼』、亀井勝一郎『大和古寺風物誌』、堀辰雄『大和路・信濃路』、会津八一『鹿鳴集』。これらの中には、自然と歴史が調和した風景の描写があり、その美しさに感嘆する著者がいる。同じころ奈良に住んだ志賀直哉は、奈良の印象を「名画の残欠」という言葉に残した。それがどのようなものであるかは、入江泰吉のモノクロの風景写真でうかがうことができる。もはや二度と戻らない風景の、失われたものとしての「大和路」。だからこそ、それは私の中で余計に美しいのだろう。

 奈良の寺社、史跡は「街の美術館」あるいは「歴史的テーマパーク」として世界から観光客を集めている。「滅びの美」などと言われたことも嘘のように、磨かれて華やかな姿によみがえったことはとりあえず目出たいことだろう。ポスターやガイドの写真は、その美術館やテーマパークにアングルを絞って、古代の都、日本国の発祥地のイメージを増幅する。そこから注意深く排除されているのは、現在の奈良の日常の風景だ。

 もうかなり前のことになるが、小さなある写真展で奇妙に感動したことがある。万葉集の歌とそれに関連した場所の写真を並べたものだった。飛鳥川の歌には川の堰に溜まったビニールごみ、能登川の歌には両川岸に建つアパート、佐保川の歌には堤防の白いガードレール、三輪山の歌には山を遮るマンションなどが写る風景写真が配される。かなり露悪的であるが、われわれの虚偽性を暴露する、作者の狙いに共感したのだった。

 すべては移り変わっていく、だから千年変わらぬ奈良の寺社、史跡は貴重なのだと言われそうであるが、それもまた変わる。「大和路」という幻影も消えていくしかないのだろうか。。

137 奈良県の誕生


奈良県庁舎 明治28年(1895)~昭和40年(1965)

 明治維新を迎えた大和は、旧幕府の天領、約50ほどの旧旗本領、寺社の朱印地、10の藩の領地、国外の5つの藩の領地と多くの領主が入り乱れた状態だった。明治2年(1969)の版籍奉還明治4年(1971)の廃藩置県を経て大和には15の県が生まれた。この年にこれらはまとまり大和一国を管轄する奈良県が誕生した。戸数95,800戸、人口418,300人。初代県令は公家出身の四条隆平で、強引ともいえるほどの開化政策を実行したことで知られる。だが、5年後の明治9年(1976)に奈良県は堺県に合併され、さらに明治14年(1981)、堺県は大阪府に吸収合併された。奈良県がふたたび姿を現すのは明治20年(1987)を待たねばならなかった。日本が近代国家に生まれ変わろうとする最初期、地方行政は試行錯誤をともなうドラスチックな変化を体験したが、大和=奈良もその激浪にもまれたのである。そのなかに奈良県再設置を求めて必死に運動した人たちがいた。その苦難の軌跡をたどってみたい。

     堺県に併合された奈良県

 廃藩置県で置かれた県は全国で3府302県にのぼった。政府はこれを整理し、北海道開拓使と3府(東京、京都、大阪)72県にまとめたが、このとき大和一国が奈良県になった。県の財政力を強化するためにさらに大幅な統廃合が進められ、北海道開拓使と3府はそのままに、72県が35県にまで半減されたとき、奈良県は堺県に併合され消滅した。堺県は河内と和泉と大和の三国を統括し、この時の堺県令はもと元薩摩藩士の税所篤である。

 県庁は堺の地にあったが、県の西に偏り過ぎていたため、河内国古市郡誉田村(現羽曳野市)へ移転する計画が立てられた。しかし政府が認めなかったという。堺県の出張所が奈良に置かれたが、新しい願いや届け・民事訴訟などは堺の県庁まで出向かねばならなかった。

 奈良の町は寂れて廃業する宿屋が続出したという。このため奈良町の住人から県庁の再設置を望む声が上がったが、運動までにはいたらなかった。堺県時代はまだ地域間の利害対立が表面化することはなかった。

     大阪府の管轄となった大和

 明治14年(1981)2月に堺県は廃され大阪府と合併した。合併前の大阪府は狭小で東西約12キロ、南北約40キロ、人口約55万人、戸数約16万戸、地租約58万円であったが、合併により一挙に東西約107キロ、南北約138キロ、人口約149万人、戸数約36万戸、地租約208万円の大大阪府が誕生した。府費収入総額も約1.65倍に増加している。この合併は、財政難におちいった大阪府を救済するために管轄地域を広げて租税額を増やすことがねらいであった。

 明治11年(1878)に政府は「地方三新法」と呼ばれる郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則を定めた。郡区町村編成法は、これまでの地方の行政単位の大区・小区制を廃止して昔からの町村機能を復活したうえで府県と町村の間に郡を置き、その郡に行政をおこなわせるようにした法律である。市街地など特定の地域には別に区が置かれた。

府県会規則は、満20歳以上の男子で地租を5円以上納入している者に選挙権をあたえ、府会あるいは県会を開くことを認めたものである。ただし、府県会では議員による議案の提出は認められず、議決事項にも府知事や県令の許可が必要とされるなど、制限が加えられた。大阪府府会では、新大阪府が生まれたばかりの明治14年の予算審議をめぐって、大和選出の議員たちと他の地域の議員たちとの間で対立が生じ、数で劣る大和側の意見が抑えこまれた。これが奈良県再設置運動の引き金となる。

 地方税規則により、これまで国費負担となっていた警察費・河港道路堤防橋梁建築修繕費・郡区庁舎建築修繕費などが地方負担となり、地方税増税がはかられた。予算の執行をめぐって府会を舞台とする地域間対立がより激しく先鋭化していく契機となった。

     地方税の使途をむぐる大和と他地域との対立

 堺県の廃止、大阪府への合併は、もともとが大阪府の発展を重視した施策であったから、大和がその犠牲になることは予想された。明治14年の府会では、十津川にあった堺師範学校分校の平谷学校への地方税の支出が否決された。府会の議事堂新築の延期を主張した大和の議員たちの意見は「大和の独立を考えている」と批判されて退けられた。大阪府の行政は、摂津・河内・和泉の河川や港湾の改修に重点が置かれ、大和が期待した道路の新設・改修や産業の興隆、医療や学校の改善などはなおざりにされる傾向にあった。府会の議員構成を見ると、摂津30人、河内16人、和泉9人、大和17人であった。数において大和の不利は明らかで、奈良県再設置の必要性を一番に認識できたは、議員たちであった。

 この頃、国会開設を求める自由民権運動が全国で盛り上がりをみせた。それは自治意識、民権意識の高まりをともなった。強制的な府県の合併に不満を抱く地域は全国に多く、各地で分県を求める運動が起きていた。明治13年(1880)には徳島県明治14年福井県鳥取県の分県が認められている。後のことになるが明治16年(1883)に佐賀県、宮崎県、富山県明治21年(1888)に香川県が誕生した。この間に堺県が明治14年に消滅し、奈良県明治20年(1887)に分県する。沖縄県明治12年(1879)に誕生する。43県が最終的に定まったのは、明治21年ということになる。

     内務省への第一回再置県請願

 奈良県再設置運動が明確な形でスタートしたのは、明治14年12月25日、有志協議会が田原本の土橋亭で開かれたときからである。この集会では、大和国15郡を5つのブロックにわけ、それぞれから2人、合計10人の請願手続調査委員を選んだ。このうち9人が大和選出の大阪府会議員であった。調査委員が中心になり、賛同者・協力者を得るために大和各地への遊説活動が精力的に行われた。郡の区長は政府が任命した役人であるために、民間の運動を妨害することもあったが、これを跳ね返して盛り上がった。運動の側で問題になったのは、県庁の位置をめぐる思惑だった。中和の今井、八木、桜井と従来の奈良の主張が対立し、分裂の危機をはらんでいたという。

 明治15年(1882)11月3日、田原本の土橋亭に大和各地の代表者41人が集まり、「分置県請願ノ件」を相談した。請願委員3人と会計2人を選挙で選ぶこと。上京費用を見積もり、各群の主唱者が負担することなどが決められた。11月10日に総代会が土橋亭で開かれ、請願委員に恒岡直史・今村勤三・服部蓊、会計に堀内清三郎・奥野四郎平を選んだ。いずれも府会議員である。11月17日にも総代会が開かれ、請願書に押印し、各総代から請願委員に送る委任状を調整することが決まった。総代になった人は、当時の町村長である戸長が多かった。庄屋や村役人の系譜をひく有力地主層である。

 請願書を携えた委員が大和を出発したのは11月20日であった。恒岡直史は府会議長であり長期間留守にできないため、議員の中村雅真が交代した。まだ東海道線が開通していない時代である。神戸港を出港して横浜港に上陸した。29日に内務省に出頭し、山田顕義内務卿あてに「大和国置県請願書」を提出した。これには、各郡を代表する人民総代33人の連署があり、合計981町村、大和の全町村の62パーセントに及ぶ。「大和国置県請願理由書」「大和国一覧表」が別冊としてつけられた。

 請願書は次のような内容である。

 維新以来大和国では各方面にわたって整備をすすめようと意気ごんできたのに、不幸にも奈良県は廃された。その後は、堺県庁あるいは大阪府庁から遠く離れているので、いろいろな指導や利益を受けることが少なくなり、そのため産業や教育・医療などはふるわなくなっている。ことに大阪府管内に入ったことは、大和にとってもっとも不利なことだ。………大和と摂・河・泉では風土・人情が相違するので、まるで―氷炭器ヲ一ニスルノ状勢ヲ免レズ―といったありさまである。経済のうえでは、大和の山間部では道路の整備が必要だし、盆地部では水不足に悩み、そのための水路を開くことが重要なのに、このことに関心を持たない大阪府にどうして籍を置かなければならないのか。ことにさきの府県統廃合の策はもっぱら経費節減が主眼で、地方の事情を考慮していない。………」

 請願委員は何度も内務省の高官たちに面会し訴えたが、色よい返事はもらえなかった。回答は大阪府に出された。「分置県之儀ニ付、当省ヘ願出候処、右者難詮議ニ及候条、其旨申諭、書面却下可致、此旨相達候事  内務卿 山田顕義」というものだった。しかし、「時期が来れば検討する」という趣旨の感触を得ていた委員たちは、希望をつないだ。

     太政官への第二回再置県請願

 内務省への請願は却下されたが、太政官への請願の途が残されていた。明治16年(1883)が明け新たな請願に向けて賛同者の署名運動が開始された。この年の5月9日に富山・佐賀・宮崎の3県の再設置が認められたことで、運動に拍車がかかった。賛同の署名を得られたのは868町村の21,718名、戸数比で22パーセントの人が応じたことになる。

 7月下旬に今村勤三と片山太次郎が上京し、8月15日に太政官に出頭、三条実美太政大院あてに「大和一国ヲ大阪府の管下らヨリ分テ別ニ一県ヲ立ルヲ請ふ願書」を提出した。その足で山形有朋参議邸を訪ねたが、不在だった。これからほぼ毎日、参義や政府高官への陳情が1カ月つづく。彼らへ助言した税所篤はこのとき元老院義官であったが、「薩摩出身の参議は奈良県の分県はだいたい賛成している。長州の山形有朋と山田顕義に賛成してもらうことが、目的を果たす早道である」とアドバイスしていた。そのこともあって、山形と山田への訪問は頻繁に繰り返され、朝夕一日に2回尋ねることもあったが、不在や病気などの理由で面会を断られた。

 片山太次郎は中途で急に帰国した。奈良県再設置運動は、法隆寺村出身で大審院判事であった北畠治房の支援が終始あった。前年の請願書を完成させるにあたっても彼は力をかしている。今回の上京でも彼が宿を手配し、何かと助言した。片山はこのことを危惧したようだ。北畠は、このとき明治14年の政変によって追放された大隈重信に従って判事を辞職、在野の立場にあり、大隈が結成した立憲改進党の有力メンバーであった。大隈追放を画策したのは、政府の一番の実力者・伊藤博文であり、大隈につながる北畠の支援を受けた運動は、長州閥の参議の好印象を得られない、片山はこう考えたようだ。彼はこのことを訴えるために帰国し集会を開いている。今村勤三は、この危惧に反論し「甲乙異なる主義者の中間に立ちて、我が国の大事(奈良県の再設置)をなさんとすれば、両者の云うところをすべて受け入れるのではなく、斟酌折衷して宜しきをとるにあり」と書簡にしたためている。今村は、税所等をはじめ大和出身の政府高官に積極的に面会し助言を得るとともに、北畠の助力も必要であった。

 山形有朋には7回目にしてようやく面会を許された。このとき「大和国の請願は何党とか何派とかの扇動によるものではなく、大和の人民の心からの請願でございます」と力説している。やはり今村も、この請願が立憲改進党の扇動と疑われているという思いがあって、このような発言になったのだろう。山田顕義には10回尋ねているが、面会はかなわなかった。9月10日、太政官から口頭で通達があり請願は却下された。しかし建白としてなら元老院に差し出すことができると示された。

     元老院への再置県建白

 請願は「行政上の処分」を求めて各レベルの官庁に訴えることで、最終的には太政官が取り扱う。建白は「国のため意見を」述べるもので、内容は「立法に関する」ことに限り、元老院が処理する。

 今村は国元に知らせて、建白書を出すかどうか問い合わせた。新たに各郡町村の有志67人が連署した建白書が用意され、佐野常民元老院議長あてに提出されたのは、10月16日であった。今村は3か月間の東京滞在をへて10月末に帰県した。

 年が明け、明治17年(1884)となったが、元老院から音沙汰はなかった。有志は集会を持ち、再度、建白書を元老院に提出することを決めた。5月13日、再建白書は50人の連署をつけて元老院に郵送で提出された。しかし、これも実ることはなかった。

 数年にわたる運動は多額の費用を要し、有志が負担したので、それに耐えられず離れていく者が続出した。またこの頃、松方正義大蔵卿が進めた緊縮財政は、「松方デフレ」と呼ばれる不況を引き起こし、大和の農村でも没落する農家が多く出て沈滞ムードがただよい、運動は低迷した。

 明治18年(1885)7月1日、近畿地方は台風による風水害に見舞われた。このときの復旧費が摂・河・泉に集中して大和は置き去りにされたため、下火になっていた運動が再燃した。だが、盛り上がりに欠いて、同志の集まりは悪かった。翌年6月に請願書(建白書?)が提出されたが、政府の反応はなかった。

     松方正義大蔵大臣の「おみやげ」

 明治20年(1887)、全国的に地価修正がなされ、大阪府下でも摂・河・泉は100円につき5円の割合で減額されたが、大和は除かれた。運動を担ってきた地主層にとって、これは切実な問題であった。奈良県再設置運動にからませて地租軽減を政府に要求することになった。9月末に恒岡直史・中山平八郎・堀内忠司・片山太治郎・磯田清平の5人の府会議員が上京したが、これまでの請願・建白よりも多人数であることに、意気込みがうかがえる。

 帝国議会開設を目前にして、政府は集会や陳情を厳しく規制していた。伝手を頼って10月15日、松方正義大蔵大臣に面会し、地価修正を訴えた。大臣の発言の誤りを指摘したところ、「余はいやしくも、大蔵大臣であるぞ」と激怒して煙草入れを投げつけたという。平山平八郎が謝罪して、「もし地価修正・地租軽減が認められないならば、生きて大和には帰れません」とひたすら懇願した。大臣は「地価修正・地租軽減を大和にも適用することはいまさらできない。ただこのままでは君たちが大和にかえりにくいだろう。かわりになにかみやげを用意しよう」と答えた。翌日、一行は伊藤博文総理大臣のもとに出頭した。そこには山形有朋内務大臣も同席していて、一同は両大臣から奈良県再設置の内諾を得た。元老院会議の採決を経て、11月4日、勅令第五十九号を公布、奈良県の設置が正式に決まった。内務省は、奈良県再設置の議案の中でその必要性を次のように説明している。

○大和の地勢や人情は、摂津・河内・和泉と違い、当然経済面でも異なる。
○摂・河・泉の議員は治水のことに、大和の議員は道路のことに執着する。
○大和の税金は地元に還元されにくい。
大阪府会における大和の議員は少ないから、議場ではいつも不利である。
○近ごろ大阪府の地租は減額となったが、大和には適用されず、それは地方税にはね返ってくる。
○もともと、大阪府は広すぎるので、大和を独立させてもおかしくはない。
○大和は災害も少ないから、将来あまり費用がかからないだろう。

     奈良県再誕の初代知事・税所篤

 6年間の苦難にみちた運動の末にやっと果たされた宿願。県民の喜びは大きかっただろう。だが、地元では不満もあった。地価修正・地価減額が認められなかったからである。「全く委員が越権の沙汰とや云はん、我々は他に属する望の達しなば奈良県新置になると否は敢て問う所にあらず」。当時の新聞に載った一県民の声である。

 12月1日、初代知事・税所篤を迎えて奈良県開庁式が奈良公園内の旧寧楽書院で挙行された。税所は堺県時代の県令で大和へ配慮し、再設置運動も支援したから、大和の人々が希望して知事に就いた。

     県会初代議長・今村勤三

 12月に初の県会選挙が実施され、35人が当選した。翌年1月に東大寺大仏殿西回廊を臨時会議場として県会が開かれた。議長に今村勤三が選ばれている。実はこの時期、今村は四国に住居があった。運動のための借金が重なり、明治18年(1885)の末に「都落ち」し、愛媛県庁に出仕したのである。北畠治房の手引きがあったようだ。ここで彼は道路新設や鉄道事業に関わり、明治22年(1889)に帰県している。明治23年の第一回衆議院選挙では、立憲改進党から立候補し当選、しかし25年(1892)の第二回選挙では官憲の干渉を受け落選した。そのあと実業界に転じ、四国での経験を活かし、奈良鉄道、初瀬鉄道の社長として鉄道を開通させる。郡山紡績の社長、奈良貯蓄銀行の取締役も務めた。生家は東安堵町の庄屋であったが、現在安堵町歴史民俗資料館として保存・活用されている。

     1度は検討されていた奈良再置県

 山県参議と山田参議に面会を求めては袖にされていた今村は、大和出身の有力者がいないことを書簡で嘆いた。政府高官には大和出身の者もいて、今村は彼らの助力を得ていたが、政府の決定に影響を及ぼせるような実力者はいなかった。江戸時代の大和は多くの領地に分割され、薩長に早くから組する藩もなかった。新政府にとって大和の存在感は薄かった。「廰堂の人は畿内に大和の如き未開の国あるを知られず」とは税所の言葉である。大阪府知事の建野郷三は、大阪府の財政難を解決するため府県の再編成を建議して、「大和を二分し南一半を和歌山県に北一半を京都府に附せられ」と構想している。京都府はこれまでの都、大阪府は重要な物流の拠点であり商業都市、和歌山は御三家の紀州藩と重要視されていたことは間違いない。それが一層、大和が軽く見られる原因となったのだろう。

 実は明治16年内務省では明治9年の行き過ぎた県の統廃合を反省して、分県・再置県が検討され、その中には奈良の再置県もあった。最終的に富山・宮崎・佐賀に絞り込まれ、その年に実現した。今村が山田内務卿のもとに日参しても会えなかったのは、奈良の再置県が省内ですでに退けられていたからと思える。明治20年、松方大蔵大臣が地価修正に応じなかったのは、それが全国に波及することを恐れてだろう。しかし、大和の議員たちの必死の懇願に心動かされるものがあったのか。一度は否定された再置県を認めることで、なだめようとした。伊藤も山県もそれを受け入れたのは、松方の当時の政府内での影響力の大きさを語っている。もっともそれを可能にしたのは、6年間の奈良県再置運動の蓄積であった。

〇参考
『青山四方にめぐれる国―奈良県誕生物語』奈良県1987
『明治国家と地域社会』大島美津子 岩波書店1994
「明治政府の府県管地政策と人民の対応―大阪府管下大和国における分置県請願運動を中心に―」山上豊(『近代史研究』18)1977
奈良県再設置運動研究序説」谷山正道(『民衆運動からみる幕末維新』清文堂2017)
「明治前期大和国分県運動の展開とその特質」津熊友輔(『ヒストリア』267号)2018
『知の系譜―今村三代 文吾・勤三・荒男―』安堵町教育委員会2019
奈良県再設置運動関連文書」(『会報「いこま」』17)2022

136 内山永久寺の消滅

 


内山永久寺の境内中心部 『大和名所図会』寛政3年(1791)


     「西の日光」と呼ばれた巨大寺院

 天理市布留町に鎮座する石上神宮の境内を抜けて、東海自然歩道(山の辺の道)を500mほど南へ向かうと国道25号線のバイパスにつきあたる。バイパスに交差するトンネルをくぐる。あたりは元棚田を利用した柿畑である。朽ちたビニールハウスや温室が放置されている。緩やかな坂を少し上ると、池がある。ため池のように見えるが、もとは浄土庭園の池であった。150年前に忽然と消えた巨大寺院、内山永久寺がここ(杣之内町)に存在したことを伝える数少ない遺構である。

 北、東、南の三方から山が迫り西に開けた谷あいの地に、寺が創建されたのは永久年間(1113~1117)、鳥羽天皇の勅願であるという。実は興福寺大乗院の第二世院主頼実(らいじつ)の隠居所として発足し、第三世の尋範によって拡充されたらしく、大乗院の末寺であった。近世に真言宗に属するようになった。

 伽藍は東西南北に門があり、上街道から通じる西門が正門となる。それぞれの門から伽藍中心部に向かう道の両側に子院が軒を接して建ち並び、江戸時代には50以上を数えた。寛政3年(1791)の『大和名所図会』に伽藍中心部が東を上にして描かれる。前面に回遊式の池があり、大亀池の名前の謂われとなった亀に擬す中島には弁天、宝蔵と記された建物が建つ。現在、中島は地続きであり、「内山永久寺記念碑」と刻む石碑が立つのみである。

 池から東に一段高い平坦面があり、ここに寺院中枢の堂塔が集まる。阿弥陀如来を本尊とする本堂、観音堂、鎮守三社、八角多宝塔、鐘楼、大日如来を奉る真言堂、御影堂などが配された。境内には松が数多く繁っていたようだ。「西の日光」と呼ばれた壮麗な寺観は、絵図からしのばれる。

 後醍醐天皇が吉野へ落ちのびる際にここに立ち寄ったことがあり、この故事から「萱の御所」と呼ばれて、その碑が立っている。また、芭蕉が宗房と称した若きころに詠んだ「うち山やとざましらずの花盛り」は当地のこととされ、句碑が池のほとりに立つ。

 江戸時代には971石の朱印地が与えられていたが、これは大和では興福寺東大寺法隆寺につぐ待遇であった。


大亀池の辺りが寺の中心部、東西南北の門から中心部に向かって子院が建ち並んだ

     永久寺上乗院院主・亮珍の野望

 中世には興福寺、近世には徳川幕府という時の最高権力によって庇護され、特権的な身分を長きにわたって享受した内山永久寺であるが、明治維新神仏分離令によって突然終わりを迎えることになる。永久寺が一山全員の復飾願いを提出したのは、慶応4年(1867)8月であった。永久寺は布留社(石上神宮)の別当神宮寺であり、桃山竜福寺、中筋寺の神宮寺と交代で社僧を務めていたが、これらの寺の僧は還俗して布留社に神勤することにした。これを主導したのは、永久寺上乗院院主の亮珍であった。上乗院は朱印領の229石を占め、代々の院主は公家の血筋を引き抜群の経済力と権威をもって一山を支配した。

  吉井敏幸氏(天理大学教授・近世史)は、亮珍が勤王思想の持主であったと推測して復飾の理由の一つにする。時代の大勢として勤王思想を受け入れていたかもしれないが、彼らは基本的に事大主義者であった。興福寺とも共通するが、永久寺の権威と経済の源泉は、時の権力の保証がよりどころである。旧来の主が倒れたので、新たな主に乗り換える。新たな主は神道を重視しているようなので、ためらいなく復飾する。厳しく言えば、彼らにとって宗教とは世を渡る手段であった。

 『明治維新神仏分離史料』には、布留社社務・内山藤原亮珍が神祇官・御役所に宛てた慶応4年9月から明治3年8月までの口上書が収載される。復飾間もない9月の口上書には次のような文がある。

「……今より山内は社地に相改め、永久寺伽藍諸堂等は、境外に伽藍附きの山林に相応の地がありますので、残らず此処に転遷いたします。猶また持僧の儀は同流の内より人選して上乗院院代を指名し仏祭勤修をつとめさせます。この儀に取り計らい苦しからず御座候や……」

 永久寺境内は社地にして、諸仏堂は山林に移し寺内の者から選んでまつらせたいという願いである。永久寺の境内を神社にするとはどういうことなのだろう。明治2年5月の口上書から亮珍の考えが推察できる。

上乗院には、生産(正産)守護之神が鎮座しています。神功皇后三韓征伐のみぎり御産気づかれましたが、事が成就するまで御降誕が先に延びるように住吉三神に御祈願されたときの霊璽です。住吉大神の物実を皇居にて奉斎していましたが、鳥羽皇帝の詔があって創建されたばかりの永久寺が預かりました。養和年間に新たに神庫を造り霊璽を奉納しました。御降誕あれば霊璽に祈願致しました。その度に朝廷より金銀・縮緬・御辛櫃・御簾・御絵付御紋・御提灯などを神輿につけて寄付神納されました。しかし近年神庫が大破し修理したいと思っていたところ、大政御一新にて亮珍も復職したので、神庫を改めて社殿に造営し、御安産・天下泰平・五穀豊穣の御祈願を丹精こめて行います。王政復古の御時節にあれば特別の御沙汰をもって社殿造立の御寄附をお願い奉ります。

 同様の趣旨で、明治2年9月、11月にも口上書が提出されている。永久寺には、鎮守三社と呼ばれる牛頭天王・春日明神・布留明神、白山権現社、丹生高野社、玉垣弁財天社があった。亮珍はこれらではなく、生産守護之神の社殿を新たに建立して、これをもって永久寺の境内を神社に変えることを考えたのだろう。生産守護之神が皇室と深い縁があることを強調していることから、王政復古の時流に乗ろうとしたようだ。しかしこの野望は叶えられなかった。

     亮珍の位階授与の懇願

 亮珍ら永久寺の僧侶は復職して布留社に神勤したはずだが、なぜ別のもうひとつの神社の公認をもくろんだのか。生産神社の新造寄付を願い出た口上書と同時に提出された口上書がある。

私どもは元内山永久寺山務上乗院住職をつとめてまいりました。御勅許を蒙り法眼から大僧正にまで至ったところ、昨年御沙汰あり復飾して布留社に勤めるようになりました。唯一神道の祭祀並びに作法を預かり伝えております。なにとぞ同神社社務に相当する官階への叙任を嘆願申し上げます。格別の憐憫をもって御許容いただければ冥加至極ありがたき仕合せに存じます。  
         布留社社務 鷹司故入道准后猶男 内山藤原亮珍
         同家嗣 花山院前右大臣前右大臣家厚雄 内山藤原亮愼

 亮珍は大僧正であったこと摂関家の出自であること、家嗣の亮愼は清華家の出自であることを誇示して、布留社社務にふさわしい官位を求めている。数日後に提出した口上書には「内山永久寺の住職であった時は堂上方(従五位以上)であった。復職して布留社に神勤するようになっても堂上方同格に取り立ててほしい」と訴えている。この願書は奈良県に回されて検討されたようで、「御掛紙」が付いて「願いの趣聞き届け難き事、但し位階願いは別段の事」と記してあった。

 興福寺の僧は復飾して春日神社の新神司となり堂上格の待遇となり、さらに華族となった。亮珍も同じような「出世コース」を切望したのである。これ以後1年余りの口上書のほぼすべてが、亮珍と家嗣の亮愼、配下の僧侶たちの布留社における身分の保証を神祇官当局に訴えるものと言っていい。


大亀池(現木堂池)、山の辺の道が池に沿う。東側(左)に本堂や多宝塔があった

     布留社の社家と復飾者との対立

 その背景には、復職して布留社に神勤する元僧侶と従来の社人との対立があった。口上書から両者の間の紛争が見えてくる。布留社の祭日につき亮珍が提出した書付と従来の社人が提出した書付との間に齟齬があり、役所からその点を突かれた。亮珍はいろいろと弁解しながらも社人たちが話し合いに応じないので、役所が彼らを呼び出して書付をまとめるように説得してほしいと訴えている。

 また、復飾した元僧侶と従来の社人と職掌や規則を取り決めようとしたが、社人が勝手なことを言って決められない。いったん決めたことも破る。このままでは神祀りも行き届かず、神慮の程も恐れる次第で、一同合一して神勤を大切にするように仰せつけてほしい。職役・役名・座席を定めて下知してほしい。このような内容で両者の内紛に役所が介入して解決してもらうことを期待している。もちろん、亮珍ら復職した元僧侶たちに都合の良い解決を願ったのである。

 亮珍は、「布留社神職交名之事」として、自らを社務に配下の復飾元僧侶20人と従来の社家3人の名前を挙げて「宣しく御沙汰之程願上奉り候」と記す。またこれまで神宮寺である永久寺寺務をつとめ総括してきた自分に布留社の長者総括の任務を仰せつけてほしと懇願する。長く培われた伝統ある神社に元僧侶が突然押しかけて運営の要を奪おうとするのだから、社家や氏子たちが反発するのは当然と言える。亮珍は役所から布留社別当であることの証拠を示す物の有無を問われて、往古より別当職を務めてきたが、ご覧いただける証拠のようなものはない、ご賢察いただきたいと返答している。

 内山永久寺が桃山竜福寺、中筋寺とともに布留社の別当寺であったことは事実であるが、支配―従属関係にあったわけではない。布留社はヤマト王権の神話にさかのぼる由緒を持つ古社であり、地域に強固な地盤を有していた。内山永久寺は勅願寺であるが、創建は平安の末であり、余剰貴族の就職口のような存在であった。布留社とは地理的に隣接していたから別当寺になれたのだろう。興福寺と春日社のような濃い関係は、この両者には見られない。永久寺の復飾元僧侶が布留社の神職になることは無理があった。亮珍はそれを感じていたから、生産神社の「公認」を得てスケールを拡大させ、永久寺境内を社地化、自分たちはその神職になることを企てたのか。

 明治3年3月の口上書からは、両者の対立が抜き差しならないものに至ったことが分かる。

……配下内山神職の者ども、昨年来逆心仕り種々奸計を取り企て候につき、彼是惑乱あいなり、奈良県において数多御苦労を掛け奉り候ところ、元配下一同より申し立て方はなはだ不都合の儀に御座候にて、すなわち去る三日また八日、県に一統お召し出しの上、配下の者ども厳重にお叱りご理解を蒙り、諸事是までの如く、当家支配の者相請け一和致すべき様仰せられつけ、当家にも一同平定致すべき様尽力取り計らい仕るべき様御沙汰蒙り深く畏み奉り候事にて、なにとぞ早々平定取り計らい仕りたき候えども、配下一統弁えぬ者ども、当今は諸事ほしいまま振る舞い仕りおり候につき、社中平定の儀においては、掟規御座なき候はば取り計らい仕りかね心痛仕り候、なにとぞ伺いの條目、不都合の儀御座候はば恐れながら仰せ聞かせられ、別段御差支えの儀あらねば、御許容御沙汰成し下されたく恐れながらこの段願い上げ奉り候

 神職の者どもが昨年より良からぬことを企て奈良県庁の役人に苦労を掛け、さらにとんでもないことを申し立てたので県から一同召し出されてお叱りを受けた。諸事これまでのごとく行い和して、当家も一統を治めるようにお達しがあった。そうしたいのだが、弁えのない者たちがほしいままに振る舞うのに、一社を取りまとめる掟規がなく心が痛い。伺い立てた掟規に不都合がなければ許可してほしい。こういう内容である。「心痛」という言葉に亮珍の追い詰められた心境がうかがえる。

 亮珍の関心は布留社における地位と官位の叙任であった。明治3年7月の口上書では、「元興福寺喜多院の空晁が従五位の勅許を蒙った。自分も彼と同等の資格がある。憐憫をもって早々に位階の勅許を蒙りたい」と嘆願している。これには「此書面ハ御下ケ置ニ相成候」の朱書きがあった。

     亮珍の死と永久寺の廃寺

 明治4年(1871)5月、布留社は官幣大社となり、石上神宮と称せられるようになる。神宮の職制は神祇官によって定められ、亮珍は免官された。彼が亡くなったのは翌年である。

 永久寺の西門から延びる道の両側は子院で埋まったが、三重塔もあった。塔が廃絶した後、上乗院の墓地になり、現在その墓標が残る。そこに亮珍の墓もあり、銘が刻まれる。

  明治5年10月3日死/常盤木藤原亮珍墓/(享年67歳3ケ月)か?

 無縫塔が並ぶ中で、彼の墓は質素で銘も素っ気ない。墓地は常盤木家が所有・管理している。常盤木家は亮珍の後継者であった上乗院家嗣の内山藤原亮愼が名乗って、和泉大願寺(浄土宗/阪南市下出)住職を務める。復職した亮愼はふたたび出家し仏門に入ったことになる。大願寺と永久寺は何の関係もないという。(サイト「内山永久寺多宝塔」)

 明治7年3月永久寺は廃寺、堂塔伽藍・諸具は入札で売却、取り払われたという。約7町歩の境内地のうち、宅地(2町2反余)は旧僧侶の居住地として半額払下げ、畑(1町9反余)の内の私費開墾地は無償払下げ、鎮守の社地及び池は官有地、藪 (1反余)・山林(2反)・荒地(1町5反余)は入札で処分される。旧僧侶達は明治20年までには何れも立ち去り、旧境内地一円は田畑に帰した。(『天理市史 上』)

「堂取払願上書案」(鈴木家文書)が残っている。

 「当山内衆僧明治元辰年復飾後諸堂取払仰せ付けられ、大塔并地蔵堂等取毀候へども、其余諸堂今以て存在之處、無用之廃物勿論自立堂宇に付き、此度取払御趣意に基き、分配仕度見込に御座候 
 真言堂(桁梁行7間宛、屋根檜皮葺、代価見積金20円) 本堂(桁梁行6間宛、屋根檜皮葺、代価見積金15円) 観音堂(桁梁行5間宛、屋根檜皮葺、代価見積金30円) 不動堂(桁梁行3間宛、屋根檜皮葺、代価見積金5円) 大師堂(桁梁行3間宛、屋根檜皮葺、代価見積金3円)
 合計金73円 内20円道橋営繕手当、53円戸数に配当仕まつり、利足を以て学費用に宛て申し置き見込みに御座候
 右の通見込みに御座候間、及大破有之諸堂取り払い御許容成し下されたくこの段願い上げ奉り候
         内山惣代前田民夫 戸長岡田六郎
   奈良県令      」(『改定天理市史・史料編第一巻』)

 境内中枢の堂を総額73円で売却し、その利益でもって橋の営繕や村民の学費に宛てるというから、地元に還元されたのだろうか。内山総代として名前のある前田民夫は永久寺世尊院の住職であった。参考のため当時の物価を上げると(『値段史年表』朝日新聞社)、白米10㎏33銭(明治5年)、大工日当40銭(明治7年)である。見積もりは解体廃物利用としての値段であろう。まさに「二束三文」であったと言える。

     永久寺「廃仏毀釈」の風説

 石上神宮には、明治6年(1872)5月に元興福寺学侶の復飾者、今園国映が小宮司として赴任する。5月に元水戸藩藩士の菅政友が大宮司に就任する。彼は神社禁足地を発掘して数々の神宝を取り出したことで有名である。旧来の社家は禰宜に就いている。復飾者が取り立てられたかは不明だが、大半の者は離れざるを得なかっただろう。

 永久寺の極端な廃仏毀釈を伝える伝聞としてよく引用されるのが、東京美術学校第五代校長を務めた正木直彦の『十三松堂閑話録』(昭和12年刊)の中にある挿話である。

「布留石上明神の神宮寺内山の永久寺を廃止しよういうことになって役人が検分に行くと、寺の住僧が私は今日から仏門を去って神道になりまするその証拠はこの通りと言いながら、薪割りを以って本尊の文殊菩薩を頭から割ってしまった。さすがに廃仏毀釈の人々もこの坊主の無慚な所業を悪みて坊主を放逐した。そのあとは村人が寺に闖入して、衣類調度から畳建具まで取り外し米塩醤鼓まで奪い去ったが、仏像と仏画は誰も持って行き手がない。役所は町の庄屋中山平八郎を呼び出して是を預かれと厳命、(略)何時の間にやら預った仏像や仏画が中山所有の姿になった。今藤田家で所有する藤原期の仏像仏画の多くは中山の蔵から運んだものである」

 正木は帝国奈良国立博物館学芸員だったこともあり、おそらく奈良赴任中に話を聞いたのだろう。この話の前に興福寺五重塔を綱で引き倒せなかったので、焼き払おうとしたというエピソードも語られる。一種の風説のようで、この種のものに付きまとう誇張や偏見があるかもしれない。栄華を誇りながら無残に「自滅」した者たちに、人々は同情ではなく悪評をもって追い打ちをかけたようだ。

     永久寺の遺構と遺品

 永久寺の堂塔が撤去された後も神社は残っていたが、明治末までには退転した。残っていた鎮守社の拝殿は大正3年(1913)に移築されて、石上神宮の摂社出雲建雄神社の拝殿になった。鎌倉時代に建造された割社殿は国宝に指定される。

 永久寺の仏像・仏画・仏具の破壊を免れて流失したものがどれだけあるかはわからない。辛うじて特定されている主なものをあげておこう。持国天立像・多聞天立像(平安・興円他作・東大寺蔵・重文)、不動明王座像(鎌倉・快慶作・京都市正寿院・重文)、正観音菩薩立像(鎌倉・快慶作・東大寺蔵・重文)、四天王眷属立像(鎌倉・興円作・東京国立博物館静嘉堂文庫美術館/MOA美術館蔵・重文)不動明王及び八大童子像(鎌倉・興円作・世田谷山観音寺蔵・重文)、小野小町像(桃山―江戸・藤田美術館蔵)、密教両部大経感得図(平安・藤田美術館蔵・国宝)、鰐口(鎌倉・秋篠寺蔵)。

 ボストン美術館は、国宝級といわれる四天王画像(鎌倉)を所蔵する。特定されたほんの一部だけでもこれだけの逸品がそろう。在りし日の永久寺の荘厳絢爛な姿が想像できるだろう。

追記(2023/9/14)

 永久寺の僧侶は一山復飾して布留社の神職になる道を選んだ。これは、興福寺の僧侶が全員復飾して春日社の神職になったことと対応している。しかし、興福寺の元一乗院門跡・水谷川忠起が春日大社宮司になり、公家出身学侶が華族の身分を得たのに対し、永久寺の元僧侶たちはそのような優遇は得られなかった。この差はどこに原因があるのだろう。興福寺戊辰戦争のときから新政府に忠義を尽くして多大な貢献をし、復飾の決定も非常に早かった。それに対する恩賞が、貢献もできず決定も遅れた永久寺との差になって現われたともいえる。だが、根本的な原因は「奈良歴史漫歩135・廃仏毀釈を選んだ興福寺」の追記で述べたように、興福寺にあった岩倉具視の工作が、永久寺にはなかったということではないだろうか。岩倉からすれば、興福寺は「モデルケース」となる寺院であったが、永久寺はそのような寺ではなかった。檀家・信者を持たず別当を勤める神社にも強い影響力がない永久寺は、頼みの綱の領地を失っては消滅するしかなかったと言える。


石上神宮の摂社出雲建雄神社の拝殿(国宝)、永久寺鎮守社の拝殿を移築した

  • 史料の現代語訳・書き下しは筆者の責任で行いました。

参考
明治維新神仏分離史料 第八巻近畿編(㈡)』名著出版 1929年発行 1983年復刻
東京国立博物館編『内山永久寺の歴史と美術』東京美術1994年
『改定天理市史・上巻』天理市1977年
『改定天理市史・史料編第一巻』天理市1977年
正木直彦『十三松堂閑話録』相模書房1937年
由水常雄「新資料発掘『廃仏毀釈』で消えた国宝を追う」(『新潮45』2000年7月号
「大和内山永久寺多宝塔」http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_eikyuji.htm

135 廃仏毀釈を選んだ興福寺 


猿沢池から見た興福寺五重塔、明治5年、横山松三郎撮影 文化庁文化遺産オンライン

 明治維新神仏分離廃仏毀釈の事例としてつねに取り上げられるのが、興福寺に起きた出来事である。藤原氏の氏寺として創建され氏の繁栄と軌を一つにして千年以上にわたり隆盛をきわめた寺院、江戸時代には勢力が衰えたとはいえ、2万1千石の寺領を所有し数十の子院、末寺をかかえた巨刹が一夜にして廃寺となったのである。

 慶応4年(1868)3月に布達された神仏分離令は、神社に奉仕する別当社僧は復飾(還俗)することと神社にある仏像や仏具は取り除くことを命じて、神仏混淆した神社から仏教的要素を一掃することであった。興福寺は寺院であるのに、なぜ僧全員が復飾したのか。僧侶たちは自らすすんで信仰を捨て寺を滅ぼしたが、そこに躊躇いがなかったのか。その後、彼らはどうなったのか。このような疑問に答えるべくこの大事件の顛末をたどってみたい。

     尊王思想に共鳴した興福寺

 慶応3年(1867)12月、王政復古の大号令が発せられて間もなく、興福寺は朝廷方に米千石の献納を申し出ている。願書に曰く、

「今般、王政復古仰せ出でしこと拝承、古今の御美事、一山の輩も恐れながら踊躍恐悦存じ候。これにより万分の一と雖も天恩に報いむために玄米千石を献納奉り候。もし御用の一助になれば冥加至極ありがたき仕合せに存じ候。なお微力ながら何か御用あらせれば仰せつけられるよう願いあげ奉り候。この段よろしくお聴きずみのほど伏して願いあげ奉り候。 興福寺一山学徒中」(『明治維新神仏分離史料 第八巻近畿編(㈡)』8頁)

 鳥羽伏見の戦いは、翌年の1月2日に勃発した。ここでの幕府軍の敗北と徳川慶喜の逃走により雌雄が決した。12月はまだ幕府が押し返す可能性があったときに、興福寺のこの一方的な加担は興味深い。興福寺の公家出身の僧侶は国学を学び尊王思想に染まった者が多く、彼らは維新政府を全面的に支持したというのが、吉井敏幸氏(天理大学教授・近世史)の説である。鳥羽伏見の戦いの後、幕府軍の伊賀越襲来が予想されるので情報を逐一報告するようにと興福寺は命じられている。奈良奉行所の行政権を一時預かることもあった。大和国鎮撫総督久我通久が奈良に入部したときは供応し米1千5百石を献納する。3月の大阪行幸には供奉を依頼され180人の人数を派遣した。

     僧侶であるよりも社僧

 3月17日、神祇官は復飾命令を布告し、社僧と呼ばれる神社に詰める僧侶は還俗するか、僧侶のままなら神社を去るように命じた。興福寺は一山協議して4月13日に復飾願を提出した。そこに次のような文句がある。     

「春日社の義はもとより社家・禰宜の輩これあり候へども、ただ神前に仕る所役にてこれあり。興福寺一派においては総じて春日社に関係いたし年中の神供米をはじめ社頭造営の向き、山木・灯籠・神鹿等の義にいたるまで興福寺の差配、なかんずく若宮祭祀の大営、薪能の義はことごとく皆興福寺一派において差配。大乗院・一条院の両門跡あいかわり別当職を勅許こうむり、一山僧侶をはじめそれぞれ手取役々の輩総括指揮いたし、往古より一同明神へ奉仕いたし来、すなわち一同社僧に御座候。向後奉仕差配の義が断絶せば朝廷の御祈りを社頭で出来難く悲嘆の際なくやまず。臣(大乗院)隆芳(一条院)應照をはじめ院家・学侶・三綱・衆徒・堂司・専当・承仕等別紙公名の通り一同復飾の上在来通りの所務いたし候の様仰せ出で願い奉り候。微力ながら一同勤王の道第一に尽力いたしたく相応の御用向きあらせ候へば仰せられたく候」(同18頁)

 興福寺の僧侶は古来より春日明神に奉仕してきた社僧であり、興福寺の僧侶にしかできない役があるのでもし絶えてしまえば朝廷の祭祀も行えなくなる。一山全員の復飾を認めてほしい。勤王の道第一に尽くすので御用があれば仰せつけてください。こういう内容である。僧侶として興福寺を守るか、それとも春日社の神官になるか、二つの選択肢をつきつけられた彼らは、躊躇なく後者を選んだ。1200年の歴史を持つ興福寺のこと、そして信仰のこと、彼らはどう考えていたのだろう。それについて伺える史料がある。一乗院、大乗院につぐ四院家のひとつ喜多院空晃の意見書である。

「当院も春日神社へ奉仕とは申しながら世外の身なげかわしく、復飾の上随身の御用向きあい勤めたく、これまた千歳の流幣とは申しながら遊民同様の僧侶、過分の高禄世襲の候事、恐縮されるにつきこの度すみやかに返上、旧幕より渡置かれし領券残らずあい添え尋ね出され候と申す趣意に候」(同22頁)

 「遊民同様の僧侶、過分の高禄を世襲してきた」と自らのことを語る。この正直さには驚かされるが、江戸時代の興福寺の様子が伝わってくる。幕府の宗教政策は民衆慰撫のため仏教を利用するとともにいろいろな特権を与えたが、それは一部では僧侶の堕落を招いた。廃仏毀釈は僧侶より低い位置に置かれた神官たちの私怨にもとづく暴発という一面があるが、仏教の側にもそれを誘発する要因のあったことは否定できない。

 興福寺を構成するのは、頂点の両門跡そして院家・学侶・三綱・衆徒・堂司・専当・承仕等の階層秩序である。復職を主導したのは門跡・院家・学侶の寺の上層部である。下層にある者たちは従うしかなかった。復飾願いが当局に聞き届けられ寺に伝えられたとき、唐院のある承仕(下級役僧)の書付には次のようにある。

「之により興福寺の称号は廃亡に相成り候。千万嘆息無限」(『大和における神仏分離史料の収集と研究』25頁)

 「千万嘆息無限」という文字からその心情が伝わる。このような思いを抱いた僧侶も多かったのに違いない。しかしまだこの時点では寺の将来は見通せていなかった。廃寺の現実に直面するのはこの後しばらくしてからである。歴史に「もし」があれば、復飾するものと寺に残るものに二分して興福寺を存属させる方法もあっただろう。それを選ばなかったのは、全山復飾が維新政府の意に一番かなうことであるという忖度があったのか。復飾派と僧侶派にわけることで寺内が混乱することを恐れたのか。後の興福寺復興の口上書で分離令が廃仏ではなかったいう文句が見えるので、誤解があったのか。ひとつ確かに言えるのは、「遊民同様」の門跡や学侶ら身分の高い僧は復飾するにあたって信仰はまったく問題になっていないということだ。彼らを突き動かしていたのは政治的な動機と得失利害であったと思える。

     復飾への抵抗

 復飾した興福寺の元僧侶は新神司となり、春日神社に参勤することになった。神社にもともと謹仕していた社家と禰宜は、突然押しかけた新神司に反発した。別当号がなくなったという理由で新神司の召し出しに応じることを拒絶する。困惑した両門跡はこの事態を神祇局に訴え、従来通りにせよとの命令を引き出して旧神官の抵抗はやんだ。興福寺僧侶の素早い復飾が、春日神社神官による独立のチャンスを潰したともいえる。春日大社権宮司の岡本彰夫氏の雑談で「明治時代に新宮司が来たとき旧来の神官たちは新宮司の作法がなっていないと言って陰で笑った」と言われたのを聞いたことがある。こんなことでうっぷんを晴らしたのだろうか。

 興福寺には末寺(18寺)とその子院(83院)と坊(6坊)あったとされるが、復飾によって本末関係は絶たれた。末寺にも復飾したり廃寺になるところが続出していく。

 維新政府の神仏分離令から日にちが経過し、それが廃仏毀釈を意図したものではないとわかってくると、興福寺の復興を望む僧侶が現れる。明治2年(1869)1月に子院の妙音院から提出された口上書には次のようにある。

「御一新につき寺社隔別の御趣意候へども破仏の御沙汰にては御座なき候。復飾あい願候段まったく心得違い御座候、なにとぞ復僧願いの通りお聞き済み相成り候様、ご採用下されたくひとえに願い奉り候。左様相成り候はば、第一に歴朝聖主の叡願並びに藤氏累代御先霊の御願に相応し、第二に神明仏陀の妙威にあい叶い候、第三に満寺各院先亡諸徳にいたるまで歓喜踊躍つかまるべき候、第四におよそ一千百五十余年相続仕り来し皇国無比の法相大乗教も滅亡仕らず候、第五に霊仏等僧侶一統の滅罪をも祈念したく愚願をご賢察なし下され……」(『明治維新神仏分離史料 第八巻近畿編(㈡)』50頁)

 五つの理由を挙げて興福寺を元に戻すことを訴える、きわめて理にかなった願いである。また東金堂衆と西金堂衆からも口上書が提出された。

興福寺は千有余年聖帝御中絶なく、勅願寺の儀につき御一新の折柄とは申しながら、廃寺と相成り候ては嘆かわしき次第に御座候、伽藍廃絶仕らず様、かつは他山他宗にて支配相成らず様とりはからいつかまつりたく存じ奉り候」(同50頁)

 興福寺の復興を願う元僧侶たちの必死の訴えであるが、両門跡は、復僧は「私利私欲を謀るもの」という理由で退ける。しかし復飾したからには仏教行事はもちろんのこと堂塔の管理もできない。中世以来の伝統の薪能も中止となった。東大寺から両寺の由緒を引いて堂塔の管理の申し出があったが、これは無視されたようだ。子院の西大寺僧が入院する唐院と唐招提寺僧が入院する小坊の僧侶は興福寺の出納を担当していたが、彼らは復飾していないので、当分の間両院に管理を任すことになった。

     寺宝の散逸、堂塔の撤去

 復飾した僧侶は全員改号する。一乗院は光谷川忠起、大乗院は松園嘉尚と名乗るようになる。明治2年3月には、新政府から新たな位階が与えられる。元門跡・元院家・元住侶で藤原氏出身者は堂上格(従五位)、藤原氏以外の元住侶は一代限りの堂上格、元住侶で地下の者は新社司となった。彼らはのちに華族制度が整うとともに男爵を叙爵する。奈良華族と称せられ26家あった。明治2年8月には「春日神社新規則」が神祇官によって策定された。新旧の神官を統一する新たな神職制である。明治4年5月には、春日神社は官幣大社に列せられ、神職の人事や祭祀の内容は神祇官の指導を受けるようになる。明治5年6月、大宮司に元一乗院門跡の水谷川忠起が補任された。神職は整理され、新旧の神官の大多数が罷免され神社を去る。高畑や野田にあった社家が退転するのもこの時からである。

 このような混乱が続く中で、寺院にある経巻、仏器、重宝、絵画、書籍などは流出する。私腹を肥やすためであり、それに手を貸す役人もいたという。天平の写経は金銀を取るために燃やされたり、反故紙となって奈良塗の漆器の包み紙あるいは茶箱の張り紙にされた。奈良時代以来、権威・権力を恣にした国家級寺院である。どれほどの宝物が散逸し破壊されたことだろう。ところで各地に残る伝興福寺とされる仏像もこのとき流失したと思われていたが、最近の研究で興福寺復興以後、資金に窮した寺が売却したことが明らかになっている。

 復飾以後、興福寺にとって決定的な打撃となったのは、明治4年(1871)1月の上知(あげち)令である。境内以外の寺社領が没収され、興福寺は経済的な基盤を失う。この影響は翌年、子院の建物や築地塀の全面的な撤去となって現われた。寺は「旧殿建物残らず取り払いたき由」と県に申し入れる。県は教部省に建物の処置について伺書を出す。一部引用する。

「門塀堂宇の儀は大半破壊に及び修繕の目的もこれなく、方今の御自体にては畢竟無用の長物に属し、中外諸人の通行の妨げにも相成り、加えて諸門内外の儀は不毛の土地にてすなわち今人民撫育専務の時に際しこの良土を旧臭に拘泥しいたずらに荒蕪に差置候儀は惜しむべきことにこれあり……」(同98頁)

 こうして「無用の長物」と化したほとんどの堂宇と塀や門は解体撤去され、現在見るような姿になったのである。なお一乗院宸殿は県庁・裁判所、仮金堂は郡出張所・警察署・県出張所に転用された。このとき初代奈良県令にあったのが四条隆平であり、彼は積極的に「旧習打破・開化政策」を進めた。神鹿が迷信であることを証明するため飛火野で鹿狩りを行ったり、農作物被害を防ぐために鹿園を設けて鹿を閉じこめたりして、鹿は激減したという。

 五重塔が危うく燃やされそうになったという有名なエピソードもこのとき起きたのだろうか。『明治維新神仏分離史料』に水木要太郎(奈良女子高等師範学校教授)の談として載る。 

五重塔を彌三郎とか云う者に売却せんとし、その価格は二百五十円であったそうです。とても足場をかけて打ち壊す費用はないから、火を放って路盤九輪等の金目の物を焼落して拾取ろうとしたが、何分にもあの高い建物に火を放てば近辺が危険であると云うことで見合されたそうです」(同177頁)

 『史料』の他の個所では「二十五円」となっている。水木要太郎は「奈良の生き字引」と称されて信頼されていた人物であるから事実として流布したのだろう。水木の生年は慶応元年(1865)で奈良に移り住んだのは後年であるから伝聞である。『奈良市史 通史四』には、唐招提寺末寺竹林寺の住職吉川元暢の話として、「十五歳のとき師の霊随上人が五両で売りに出されていた五重塔を買い取ったが、奉行所(ママ)から早く取り払えと催促された。取り壊す費用がなかったところ、奉行所が塔は金物があるからといって十五両で買い取られてしまった」とある。この話は直接見聞であるが、これを証拠づける物的証拠はない。こういう事情からか、五重塔のエピソードは「伝承」であるというのが興福寺の公式見解である。しかし、このようなシンボリックな物語が生まれ人口に膾炙したことに、興福寺の徹底的な廃仏毀釈の衝撃性が語られているといえる。

     興福寺の再興

 明治8年(1875)5月に西大寺住職佐伯泓澄が興福寺の管理を任された。同十年代になると興福寺の復興を唱える声が出てくるようになる。13年(1880)5月、「興福寺復称宗名再興願」が堺県を経由して内務省に提出される。元藤原氏華族からも再興願いが出された。14年(1881)2月に復号が許され、9月に清水寺住職薗部忍慶が兼務住職に任じられる。翌15年(1882)、佐伯泓澄から管理権を引き継ぎ、興福寺が再興された。18年(1885)に「興福会」が発足し、メンバーには会長の九条通孝、久爾親王三条実美近衛忠熙らの皇室関係者、水谷川忠起・松園尚喜の元両院家、法隆寺管長千早定朝、西大寺住職佐伯泓澄、元学侶の朝倉景隆・中御門胤隆等が名を連ねた。

追記(2023/9/13)

 安丸良夫著『神々の明治維新神仏分離廃仏毀釈―』の中に次の一節がある。「新政府の首脳からすれば、神仏分離は朝廷に関係のふかい大社寺から漸進的にすすめればよいものであり、この年四月、岩倉の工作によって「一山不残還俗」した興福寺は、そのモデルケースだった」(54頁)。「岩倉の工作によって」というところに注目したい。この本は新書なので、厳格な学術論文ではなく、典拠は示されていない。安丸良夫氏は「日本近世思想史」の碩学と定評のある学者だから、ただの推測でこんなことを書いたとは思えない。これを事実として考えると、興福寺の今まで述べてきた一連の出来事は、復飾だけではなくすべてが門跡と岩倉との根回しというか裏取引があって進んだと考えるのが妥当と思える。

 興福寺復飾者の新政府側への忠義立てと新政府から興福寺復飾者への優遇ぶりは際立っている。岩倉は、寺社勢力が新政府に協力してくれることが必要であり、それには大寺社が率先して政府の方針を実行して範を示してくれることが有効だと考えたことだろう。安丸氏は、それをモデルケースと書いた。公家出身者がトップを占める大寺社は、公家同士ということでコネクションもあっただろう。大寺社は、支配者が変わるときに自らの保身を図るために、岩倉の工作に率先して乗ったのである。これだけの大転換があった背後に、裏工作・裏取引を想定するのはきわめて理にかなっていると思う。


菩提院前の三条通か。築地塀があるが、この撮影の直後解体された。明治5年、横山松三郎撮影。文化庁文化遺産オンライン

134 国家による国民意識の直接的な統合の企て

ーー安丸良夫『神々の明治維新神仏分離廃仏毀釈』(岩波新書)を読む

 本書は、明治初期に起きた神仏分離廃仏毀釈を時代の全体的な流れのなかに位置づけてその意味を問う。著者は、日本近世の民衆思想史を専門とする歴史家だ。
 江戸時代後期、すでに廃仏毀釈の動きは一部の藩で起きていた。水戸藩の寺院整理、長州藩の淫祀破却などである。これらの背景には水戸学や国学思想の勃興があった。内外迫る危機感のなかで天皇を中心とする国体論が唱えられ、外来思想としての仏教が排除される。水戸学や国学尊王攘夷運動に結びつき、討幕派のイデオロギー的支柱となる。
 幕府を倒し権力を手中にした薩長勢力は、その正当性を天皇という権威に求めた。王政復古を唱えて古代の神祇官太政官を復活させる。慶応4年(1868)3月14日、布告された五箇条の御誓文は新時代を告げる宣言となった。その3日後に神祇官は復飾命令を布告し、社僧と呼ばれる神社に詰める僧侶の還俗を命じた。3月28日には、神社にある仏像や仏具などの一掃を命じている。神仏分離政策は維新政府の発足と同時に実行されたのである。神祇官に就任したのは、復古神道派の国学者神道家であり、彼らは岩倉具視大久保利通木戸孝允につながることで主導権を得た。
 同年4月1日、神仏分離の布告がまだ伝達される前に比叡山日吉社で衝撃的な事件が起きた。日吉社の神官に率いられた一団が社殿に押し入り、仏像、仏具、経典を持ち出しては破壊、焼却したのである。これ以後吹き荒れる廃仏毀釈の発端である。領内の仏教寺院の破却・統合合併、神葬祭への変更などが新政府の命令だとして強行されたが、これは地方により濃淡がある。僻遠地で復古派の国学者神道家が存在し、これに土地の有力階層が加担したケースでは激しさを増した。しかし地域に深刻な亀裂を引き起こすことを懸念した政府は、明治3年12月に「地方官庁で廃寺・廃仏を一方的に決定してはならない」と布達し、廃仏毀釈の鎮静化に努めている。仏教各宗派は大なり小なり打撃を受けたが、そのなかで浄土真宗はもっとも抵抗し信仰を守ったという。
 新政府は幕府のキリスト教禁止政策を引き継ぎ(明治6年2月キリシタン禁制を停止)、九州浦上のいわゆる隠れキリシタンを弾圧したが、彼らの頑強な抵抗は政府首脳部に民衆の意識統合の強化策の必要性を痛感させた。それは神道の国教化への道を踏み出させるとともに既成仏教の意義を認識させることになった。明治4年9月、浄土真宗僧侶の島地黙雷教部省設立の建言書を提出する。キリスト教に対抗するため神仏合同の民衆強化体制を整えよというものだった。翌年に教部省が成立され、民衆教化にあたる教導職が神仏双方から任じられた。彼らは「敬神愛国」「天理人道」「皇上奉戴・朝旨尊守」の三条を教則とする教化活動に従事したが、10万人に上った教導職は、人数的にも能力的にも仏教側が神社側を圧倒した。教導職は間もなく廃止される。これ以後は、三条の教則に示されたような国家のイデオロギー的要請にたいして、各宗派がみずからの有効性を証明して見せるという自由競争がはじまる。
 神仏分離は、信仰対象が分離できないほど習合色の濃い宗派や尊格には壊滅的な作用をもたらした。そのひとつが修験道である。蔵王権現は神号にあらため、吉野の山下蔵王堂(金峯山寺)は金峯神社の口宮となり、蔵王権現像の前には幕を張り鏡をかけ幣束を立てた。(明治19年、寺院は復興した。)京都の祇園社牛頭天王を祀ったが、八坂神社と名前を変え祭神は素戔嗚尊となる。
 神仏分離政策は、神道の側にも大きな変容をもたらした。皇室で続いていた仏教的な行事はすべて廃止、歴代天皇の位牌は撤去される。宮中三殿での皇室祭祀が新たに創始された。伊勢神宮の内宮が皇室の祖先神として至高化され、記紀神話上の人物や国家・皇統に貢献した人物を祭神とする神社が創建される。全国の神社を整理統合し、官幣社・国弊社・府県社・郷社・村社と社格にもとづく秩序が編成される。土俗的な信仰が排除され、神社の祭神の多くが記紀神話に登場する神名に入れ替わる。多様な祭祀のなかから産土神祭祀が浮上して、皇祖神を頂点とする国家的な祭祀体系に組み込まれていく。それは前代の迷信や猥雑を否定する啓蒙的な近代化の一面も持った。
 神祇官が当初意図したような祭政一致とは異なったが、神道は国教となった。建前として神道は宗教でなく儀礼・習俗とされたが、実質的に宗教として機能し、それをイデオロギー的に補ったのが教育勅語であった。宗教の自由は認められたが、「国家は、各宗派の上に超然とたち、共通に仕えなければならない至高の原理と存在だけを指示し、それに仕える上でいかに有効・有益かは各宗派の自由競争に任された(209頁)」「国家による国民意識の直接的な統合の企てとしてはじまった政策と運動は、人々の『自由』を媒介とした統合へとバトンタッチされた(211頁)」のである。

133 古建築の印象の理由を建築学的に読み解く――海野聡『奈良で学ぶ寺院建築入門』(集英社新書2022年)

 奈良県には国宝の建造物が64件あり、全国228件の28%を占めてトップである。古代を中心に中世、近世の寺院建築の宝庫であり、この分野に関心のある者にとっては非常に恵まれた土地である。古寺めぐりの楽しみは仏像鑑賞とともに古趣あふれる木造建築にまみえることが大きいだろう。ガイドには貴重な建物の説明は必ずあるし、古代建築をテーマにした入門書も多い。私も何冊か目を通している。入門書はだいたい似たり寄ったりで、建物の構造的な説明がメインである。挿絵とともに専門用語が出てきてその意味や機能が解説され、一応わかった気になるのだが、表面をなでただけのような隔靴掻痒の思いが残る。やはり建築というのは、実物を前にして外からは見えない内部も観察しながらひとつひとつ理解しなければ、わかるというところまではいかないのだろう。素人には難しいことである。

 本書も他の古代建築入門書のように建物全体の構造や細部の機能の説明が中心である。その説明は類書よりもこなれ核心をつくようで、個人的にもう一つ不明であったことがいくつも氷解した。さらに構造と機能の説明がそれだけで終わるのではなく、建築史の流れを踏まえ、伽藍全体との関係や他の寺院との差別化という視点からの「デザインコードや仕掛け」の解説が加わる。

 これは、私たちが建築と接したときの印象、たとえば薬師寺東塔の美しいリズム感、東大寺南大門の伸びやかな雄渾さ、唐招提寺金堂の重厚感などのよってきたる理由を建築学的な特長から読み解くことに通じる。

 薬師寺東塔の美にある安定感と軽快感は次の理由から説明される。①裳階に覆い隠されて本体の太い柱は見えず、細い裳階の柱で組み上がっているように見える。②裳階柱を塔本体の柱より外に出すことで、あえて「構造的な不安定さ」を見せる。これが軽やかさを生む。③東塔の腰組は壁から二手分も外に出ている。これが浮いた感じを与える。④塔本体の屋根は軒の出が約4.1m、裳階は約1.6mであり、この長短がリズミカルな印象を与える。⑤東塔の逓減率(1階に対する3階の平面積の比率)が4割と大きく、これが安定感を与える。東塔の美の建築学的なここまで詳細な説明を読むのは初めてである。専門書には書かれているかも知れないが、入門書としてまことに贅沢だと思う。他の建築もこのように印象に紐づけて解説される。

  著者は「研究者による奈良の寺院を見たときの感じ方と古建築の形をひも解いた書は本書の他にはない。」とまで自負される。また次のようなメッセージもある。「建築の力を感じ、感じ取った理由を知り、建築のデザインコードや仕掛けを理解することで、古建築の大きな声だけではなく、ささやきにも耳を傾けられるようになる。」「ささやき」とは、古代から連綿とつづく工匠の思いである。建築に関わった人たちが今に残る建物を通して浮かび近づいてくる。本書にはそんな魅力がある。

132 興福寺東金堂院の北面回廊


興福寺東金堂院の北面回廊発掘調査地、右奥の塔は五重塔。(現説資料より)

 興福寺は『興福寺境内整備構想』(1998年)に基づき、寺観の復元・整備を進める。これにともない、奈良文化財研究所は、中金堂院や南大門跡などの発掘調査を継続して行っており、ここ2年は東金堂院の発掘調査に取り組んでいる。「奈良歴史漫歩」でも興福寺発掘調査の現地説明会は随時レポートしてきた。2001年7月に「歴史漫歩」がスタートしたその回が「7度再建された興福寺中金堂」であった。2018年10月には9代目の中金堂が再建された。境内整備は世代を超えて続くだろう。20数年は寺の長い歴史からすれば、ほんの短期間であるが、この間、横目で再建事業と調査を眺めてきた私には一種の感慨を覚える歳月である。

 10月15日、「興福寺東金堂院北面回廊の発掘調査」の現地説明会が開かれた。そこで明らかになった事実は、東金堂院の構造に新たな知見を加え、その性格の再考を促すものだった。これらに関して報告したい。

 興福寺の東金堂と五重塔は、寺の残存する数少ない歴史的建造物の中でももっとも偉観を誇る堂塔である。東金堂は726年(神亀3)、聖武天皇が伯母にあたる元正太上天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する堂として創建された。五重塔の創建は天平2年(730年)で、光明皇后の発願によるものである。現在の建物は、東金堂が1415年(応永22)、五重塔が1426年(応永33)に再建された。創建以来、5度の焼失を繰り返し、いずれも6代目の建物である。五重塔は令和4年度から始まる120年ぶりの解体修理を目前にして塔初層の内部公開が行われている。

 東金堂と五重塔は、かつて回廊で囲まれていた。2年前(2000年)の調査では、五重塔の西側正面に塔と中軸を揃えた切妻造の八脚門跡が検出された。桁行3間(中央間11尺、両脇間9尺、全長約8.6m)、梁行2間(等間8尺、全長約4.7m)の門で、基壇は南北約10.6m、東西約7.7mと推定される。門に取りつく回廊とみられる基壇と雨落溝も出土した。埋め土に炭を含んでいたので、焼失と再建が推測された。

 昨年は東金堂の西側正面が調査され、堂と中軸の揃う門と西側回廊が明らかになった。門は切妻造八脚門とみられ、五重塔の正面にあった門と基壇の規模とほぼ一致する。門の桁行3間(等間)、全長30尺(約8.8m)、桁行2間(等間)、全長16尺(約4.7m)。基壇は南北36.5尺(約10.8m)、東西27尺(約8m)。回廊は梁行1間(12尺、約3.5m)の単廊であり、基壇は東西21尺(約6.2m)を測った。下層遺構と上層遺構が出土し、上層遺構は平安時代末から鎌倉時代初頭以降の再建に伴うものと考えられる。

 西側に開く二つの門と西面回廊は調査によって明らかにされた。東金堂の北側にも過去の調査から単廊のあったことが判明している。今回の調査は北面回廊の構造と東側への延長を明らかにするために実施された。調査区は、東金堂の北東約43mの位置に南北15m、東西28mのうち樹木等を避けて設定された。

 予想された通り桁行7間分の北面回廊が検出された。12か所で礎石やその据え付け穴・抜け取り穴が見つかった。梁行は12尺(約3.5m)、桁行が11.5尺(約3.4m)となる。礎石は直径ないし一辺が0.5~0.8mの大きさで、厚みは0.3~0.5mあり、安山岩花崗岩が使用されていた。柱座はなかったが、被熱痕跡から直径約0.36mの円柱であったことが推測された。創建時の位置を保ちながら再建時に据え付けなおされた可能性がある。

 基壇の規模は、幅が21尺(約6.3m)である。基壇外装として長辺0.3mほどの石を3段積む乱石基壇が出土する。雨落溝には焼け土が堆積していた。東金堂院内庭部の雨水を排出する暗渠が基壇を横断する。

 東金堂院の規模は南北約110mあり、東西は今回の調査で100m以上になることが判明した。南と東には築地塀があったとされる。回廊は創建時からあったことは確かであるが、いつ廃絶したのだろう。平安時代末から鎌倉時代初頭に再建された回廊は室町時代の応永18年(1411年)に東金堂や五重塔とともに焼失し、それ以後は再建されなかったと考えられる。近世の興福寺の絵図には回廊は描かれない。回廊を削平した参道が出土したが、これは近世の絵図にある春日大社参道から食堂・細殿に伸びる回廊に該当するとみられる。

 調査地区は小高い大きな築山状の裾である。築山には大木が茂るが、これは回廊廃絶後に築かれたのだろうか。ここで遊ぶような人を描いた江戸時代の絵図もあるという。回廊基壇の高さが北辺が0.5m、南辺が0.1mであり、元の地形が北から南へ高くなって傾斜していたといえるが、基壇のある面は現在の地表からかなり掘り下げているので(何センチになるかは確認していない)廃絶以後築かれた築山と思える。なぜ築かれたのか?土はどこから運んだのか?気になるところだ。

 『興福寺流記』は天平期、延暦期、弘仁期の記録をまとめているが、東金堂と五重塔と並んで檜皮葺雙(ならび)堂、副殿、檜皮葺掃守(かもり)殿のあったことがわかる。これらの堂には、丈六の阿弥陀仏地蔵菩薩、薬師檀像、不空検索檀像など多数の仏像が安置されていたようだ。回廊のあったこと、西側に門がふたつ、北側にひとつあることも記される。

 興福寺は多くの子院を抱え、僧侶や下働きする者が合わせて一説には3千人いたという。これら大衆は子院や堂の所在地域ごとにまとまって六方衆と呼ばれたが、さらに東金堂衆と西金堂衆が加わり八方衆となった。彼らはことあるごとに僧兵となって寺の要求を押し通し、また内紛を繰り返した。

 平重衡の南都焼き打ちのあと再建された東金堂の本尊とするために、興福寺僧兵は飛鳥・山田寺を襲って火をつけ、薬師如来坐像を強奪した。文治3年(1187年)のできごとで、その仏像が国宝館に安置された仏頭である。東金堂衆の乱暴狼藉が目に浮かぶ。

 東金堂衆は東金堂院に住んでいたのか。発掘現場で説明にあたっていた奈文研の担当者によれば、それはよくわからないということだ。東金堂院の南を画する寺の築地塀沿いに建物があったらしく、そこに住んだかもしれないという話をされた。江戸時代になると東金堂衆は修験者になったので、寺に住まなくなったともいう。

 なお興福寺の中金堂院も回廊が四周しているが、通路が二つある複廊である。東大寺東塔院は、発掘調査により南に複廊があり、東西と北に単廊のあることがわかっている。


北面回廊発掘平面図。(現説資料より)

参考
奈文研現地説明会資料
奈文研プレスリリース 2022年度「興福寺東金堂院北面回廊の発掘調査(平城第 649 次調査)」 2021年度「興福寺東金堂院の門と回廊の発掘調査(平城第640次調査) 2020年度「興福寺鐘楼・東金堂院の発掘調査(平城第625次調査)
興福寺流記」(『奈良六大寺大観 興福寺』岩波伊書店)

号外 奈良をもっと楽しむ講座 8月12日(金)

演題:風雅と酔い泣きの歌人大伴旅人
    ~「長屋王の変から読み解く旅人の歌~
 
 元号「令和」の出典である詩の作者、大伴旅人古代名門貴族の長として大納言まで昇進した彼は、『万葉集屈指の歌人でした。亡き妻への挽歌、望郷歌、讃酒歌、梅花の歌などユニークな作品の底には深い憂愁と苦悩が秘められています。その背景には、時代を画する大事件がありました。
 
 講師:「奈良歴史漫歩」の筆者
 日時:8月12日(金)午前10時~12時
 場所:奈良市中部公民館4階 第3・4講座室(奈良市三条町23-4)
 参加費:300円(資料代含む)
 主催:NPO法人 奈良まほろばソムリエの会
 申込:予約制です。予約はこちらから
 参考 奈良歴史漫歩No101 「風雅と酔い泣きの歌人・大伴旅人」

131 春日若宮の誕生

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 春日若宮おん祭の祭神である若宮が現在地に鎮座されたのは保延元年(1135)とされ、おん祭はその翌年に始まっている。おん祭の創始の経緯は前回の「奈良歴史漫歩130」で書いた。新任の国司を無力化する戦いに勝利した興福寺が、勝利を祈願した若宮に感謝して始めた。平安後期から室町の中世の大和は、興福寺が政治の要となった時代である。若宮とおん祭は祭政一致の様相を見せる時代で終始重要な役割を果たした。若宮誕生前後の興福寺と春日社をめぐる歴史を探ってみたい。

     興福寺の春日社と大和の支配

 藤原氏の氏寺である興福寺と氏社の春日社が平安遷都以後、その地位を高めていくうえで重要な契機となった出来事がある。弘仁4年(813)、藤原北家の冬嗣が興福寺に南円堂を創建し、氏と寺の結びつきが強まる。嘉承年間(848~850)には春日祭が始まり勅使の奉幣を受けるようになったことは、春日社を官社待遇の社格に押し上げた。貞観年間(859~876)に春日社には直会殿、竃殿、弊殿、酒殿、内侍坊、車舎などが建ち、境内の社観を整える。これは春日祭の創始と関わっているだろう。

 延喜16年(916)、右大臣藤原忠平が春日社を参拝し、氏長者の春日詣が始まった。氏長者一世一代の盛儀である。永祚元年(989)に一条天皇が参拝し、これ以後春日行幸が恒例化する。春日詣や春日行幸があるたびに、社司の加階や興福寺別当の官位昇叙、神宝類の奉納、社領荘園の寄進がともなった。摂関家と皇室から寄せられる信仰と保護は春日社の権威を増大させる。大和は春日大明神の神国であるという思想が生まれる素地となった。

 興福寺もこれらの行事に関わったが、春日社の祭祀権者は藤原氏でありオブザーバー的な立場からである。興福寺が春日社の祭祀へ内的な関わりを持つようになったのは、天暦元年(949)に社頭で法華八講の法会が開始されてからである。寛仁2年(1018)には春秋二季制となる。僧侶が参列し読誦する直会殿は八講屋と呼ばれるようになる。この背景には本地垂迹思想がある。八百万の神々はいろいろな仏の化身としてこの世に現れたという考え方であり、武甕槌命不空羂索観音(もしくは釈迦如来)、経津主命薬師如来天児屋根命地蔵菩薩比売神は十一面観音が本地仏とされる。

 興福寺摂関家や皇室に働きかけて社頭法会を増やしていく。春日第四神の比売神天照大神であると説かれたことは皇室の助力を得るうえで役立った。康和2年(1100)に白河上皇一切経を施入、毎日不退一切経の法会が行われるようになる。法会のための料所が寄進されるが、これを管理することを通して興福寺は春日社への支配を強めていく。春日社外院には安居屋、談義屋、但馬屋、船戸屋、経蔵などの仏殿が建ちならぶ。さらに春日東西御塔の建立がある。永久4年(1116)に関白忠実、保延6年(1140)には鳥羽上皇がそれぞれ五重塔を奉建する。

 摂関家最盛期は、興福寺の寺領拡大の要求は抑えられていた。しかし11世紀後半に院政が始まり摂関家の勢いに陰りが見えるようになると、興福寺とのつながりを強化して大和を摂関家領国にすることを図る。承保元年(1074)、関白師実は子息覚信を一乗院に入寺させる。覚信はやがて一乗院門跡となり興福寺別当職を襲う。貴種入寺の始まりであり、これ以後、一乗院と少し遅れ大乗院は門跡寺院として興福寺の中核となる。摂関家と人的に結びつくことで興福寺は強大な権力を掌握し国衙領を侵食していく。大和の国司は任命されても機能しなくなる。

 寛治7年(1093)には興福寺大衆が春日社御神木を捧げて強訴した。これを始めとして御神木動座の強訴は繰り返されるが、興福寺による春日社との究極の一体化である。強訴には東大寺や大和の有力寺院の大衆も動員されて、興福寺の大和支配が進んだ。「大和は春日明神の神国であり興福寺が扶持する」という論理が行き渡る。12世紀は興福寺の勢いが頂点に達した時期であった。若宮御殿が創建され、おん祭が始まったのは、このような時代である。

     大和の国つ神=若宮

 若宮が出現したのは長保5年(1003)3月3日、春日第四殿の板敷に心太のようなものが落ちたという。しばらくあってその中から五寸ほどの蛇が現れ、北西の柱をのぼって四殿に入り、心太のようなものは消えた。40年後に託宣があり、第二殿と第三殿の間の獅子の間に奉安された。そして保延元年(1135)2月27日、若宮は現在地に遷宮鎮座される。

 およそすべての神仏の出現は超常現象にして神秘的な伝承を持つ。若宮もその例に漏れないが、その伝承にこもる若宮のイメージに注目したい。第四殿に奉祀されているのは比売神であり、天児屋根命の妻とされる。そこに出現したことで比売神を母とする御子神のイメージが生まれる。「心太のようなもの」は卵を包む泡を連想させ、蛇は水神の暗喩である。天から下ってきたのではなく大地から湧いてきた神であり、天つ神ではなく国つ神の誕生を思わせる。

 若宮は天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)とされるが、この祭神名が現れるのは江戸時代以後であり、吉田神道の影響がある。天児屋根命御子神であるというが、『記紀』には存在しない。室町時代までは五所王子(ごしょのみこ)と呼ばれていた。春日四神の次の五番目の神ということであり、四神と同格の祭神であった。四神の大宮同様に若宮は本社と扱われたが、明治以後に摂社となる。

 春日四神の祭祀権者は藤原氏であり、興福寺が春日社の支配をいくら強めてもこれは変わらない。「土地の神を祀る者がその土地を治める」という祭政一致の原則を満たすには、興福寺が祭祀に関われる春日社の神を必要とした。明示されなくても実質的な祭祀権者として興福寺は若宮に影響を及ぼした。それを端的に表したのがおん祭である。

 若宮社には多くの特徴がある。本殿は春日造りで四殿と同規模であるが、南面ではなく西を向く。寺社や宮殿が南面するのは中国の「天子南面」の思想からであるが、日本はそれまでは地形の形状に応じて建物の向きは決められたようだ。たとえば纏向遺跡の宮殿らしき建物群は東西を軸にする。大神神社の拝殿は御神体三輪山を拝する形に西を向く。建物ではないが春日大社が今ある古代の神地は御笠山を背にして西向きに表記される。春日大社の子社で西を向くのは采女神社や鳴雷神社がある。これを大東延和氏は水神を祀る神社であることが共通していると指摘する。水源が東の方向にあるからだろうか。水神でもある若宮の土地の記憶にもとづく縄張りだろうか。

 若宮には常駐の巫女がおかれ、一般の私的な祈願にこたえて神楽も奉納された。雨乞いやお田植え祭も巫女によって行われ、現在3月15日に実施されるお田植え祭に引きつがれる。若宮の神楽は宣教師のルイス・フロイスにも言及されるほど有名で、江戸時代には奈良町に「太々神楽講」が組織されたという。おん祭のお旅所祭には多くの神事芸能が奉納されるように芸能の神でもある。日本唯一の夫婦の大国様を祀ったという夫婦大国社を含む「若宮十五社めぐり」は現世利益を目的として庶民の信仰を集める。藤原氏氏神である権威に加えて若宮の存在は、春日明神と大和の民衆との距離をより近づけただろう。

 参考
奈良市史 通史二』奈良市
永島福太郎『奈良』吉川弘文館
大東延和『春日の神々への祈りの歴史』私家版
春日大社のすべて』奈良国立博物館
朝倉弘『奈良県史十一 大和武士名著出版

号外 奈良の語り部講座 2月20日(日)

演題「棚田嘉十郎は、なぜ宮跡保存の功労者になれたのか」
~史料から読み解く明治・大正の平城宮跡保存運動の深層~
講師:「奈良歴史漫歩」の筆者
社会的地位や財産もない植木職人の棚田嘉十郎が、なぜ平城宮跡保存のキーマンになれたのでしょうか。それは時代背景と密接に関わっています。彼の行動を史料から詳しくたどり、時代的な視点から解き明かします。また、自決へ至る謎にも迫ります。 

【日時】2月20日(日)13:30~15:00
【参加費】500円(受講料・資料代)
【定員】13名/要申込・先着順
【会場】奈良市観光センター1F(奈良市三条町23-4)NARANICLE奥 多目的スペース ※会場は公民館ではありません。
【主催】奈良市観光協会 ℡0742ー30-0230
12~3月の「奈良の語り部講座」 | 奈良市観光協会サイト (narashikanko.or.jp)

参考
107 棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか。(前編) - 奈良歴史漫歩 (hatenablog.com)
108 棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか(後編) - 奈良歴史漫歩 (hatenablog.com)

130 春日若宮おん祭の歴史

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 大和最大の祭と言われるおん祭は、保延2年(1136)に始まり、900年近い伝統をもつ。その通史について本格的に語られることはこれまでなかったが、2016年に『祭礼で読み解く歴史と社会~春日若宮おん祭の九〇〇年~』が刊行され、始めておん祭の歴史が一般読者に明かされることになった。著者は幡鎌一弘氏(天理大学おやさと研究所教授)と安田次郎氏(お茶の水女子大学名誉教授)、おん祭の歴史を知ることは、タイトルにあるように、中世から現代までの大和の歴史と社会を読み解くことである。本書の内容に沿っておん祭の歴史をたどりたい。

     おん祭の創始と日使

 春日大社のHPは、おん祭創始の経緯を次のように説明する。「長年にわたる大雨洪水により飢饉が相次ぎ、天下に疫病が蔓延したので、時の関白藤原忠通(ただみち)公が万民救済の為若宮の御霊威にすがり、‥‥丁重なる祭礼を奉仕したのが、おん祭の始まりです。‥‥御霊験はあらたかで長雨洪水も治まり晴天が続いたので、以後五穀豊穣、万民安楽を祈り大和一国を挙げて盛大に執り行われました」。いわゆる関白藤原忠通創始説であり、これが通説である。

 本書はこの通説を疑うことから始まる。当時の史料では、忠通は「9月17日を祭の式日を定めた」と出てくる。祭を始めたのではなく、その日を決めたということである。忠通が祭催行のために財政的な援助をした形跡はなく、この時の若宮への奉幣の順番も6番目である。一番の奉弊者は興福寺別当であった。

 若宮神主がおん祭を記録した「若宮祭礼記」には、「為大衆沙汰 若宮御祭始給事」(大衆、沙汰をなし、若宮御祭を始め給うこと)とあり、興福寺の大衆が定めておん祭を始めたことが判明する。一番に奉幣したのが興福寺別当であったことが、これを裏づける。

 では、なぜこの年におん祭が始まったのか。

 平安時代院政期に入ると、摂関家藤原氏上皇に対抗するために宗教的権威にすがり、興福寺の欲求を許容するようになる。朝廷が大和にもつ公領を興福寺は荘園化し、11世紀から12世紀始めにかけて大和は国司の支配が及ばないようになっていた。保延元年(1135)に国守に任命された源重時大和国内の神社の参拝を行おうとするが、興福寺が妨害する。参拝は大和の支配に通じるからである。寺は国司支配に反対する強訴を行い、それが達成されるように若宮に願をかけ叶えられて始めたのがおん祭であった。

 若宮の創立とおん祭の創始は興福寺が主導して、興福寺衆徒と春日社国民により行われた。政治的かつ経済的な強い動機に支えられ、一国の団結のため宗教的なシンボルを創出したのである。祭の前に春日神人が伊賀、紀伊、河内、山城との国境に派遣されて斎戒を行ったことは、大和一国の祭であったことをよく表している。若宮の祭神・五所御子(天押雲根命)は水の神とされる。藤原氏氏神である春日四神に対して、農業生産に直結する水神は大和の地に根ざした神にふさわしい。祭日の9月17日は収穫祭の意味を持つ。

 お渡り式の第一番は日使(ひのつかい)である。関白忠通が祭に向かう途中にわかに病となり、お供の楽人にその日の使いをさせたことが始まりだとされる。しかし摂関家からは下級役人が別に派遣されており、実際は興福寺別当の使い(代参人)であったと見られる。祭を権威づけるためにこのような物語が作られた。

     流鏑馬と大和士

 流鏑馬と田楽はおん祭を代表する出し物で祭の最初から組み込まれていた。流鏑馬は武士の花形の武芸であり、これを主催し参加したのは、大和士(やまとさむらい)と言われる大和一遍の地侍である。衆徒や国民の身分となり、荘園の荘官でもあった。大和国内外の春日社領地侍が勤めたが、しだいに大和の地域ごとに組織されるようになり南北朝時代には六つの党(武士集団)が形成され、交代で願主人(流鏑馬の主催者)を勤仕した。次のような輪番があったという。

  一年目 平田党 戌亥脇(いぬいわき)党 散在党
  二年目 長川党 長谷川党 散在党
  三年目 平田党 葛上(かつらぎかみ)党 散在党
  四年目 長川党 長谷川党 散在党

 平田党は平田荘という荘園の武士たちによって結成された。摂関家の所領であったが、一部が春日社へ寄進された。大和最大の荘園であり、2300町(2600ヘクタール)の面積があったという。現在の大和高田市広陵町香芝市、葛城市に広がっていた。

 長川党は長川荘の武士によって結成され、ここも一部が春日社に寄付された摂関家の所領であった。現在の広陵町にあり、箸尾氏が棟梁となる。平田党と長川党はおん祭の最初から願主人を務めたが、流鏑馬の順番争いが絶えず、別のグループに分けられたという。

 長谷川党は大和川流域にできた武士団であった。今の田原本町にあった法貴寺と天満宮が拠点であり、ここで集会がもたれた記録がある。

 戌亥脇党は戌亥すなわち北西の方角をさし、大和の北西に位置する添下郡平群郡を拠点にする武士が集合した。この中から筒井氏が頭角をあらわす。

 葛上党は現在の御所市あたりの武士がまとまり、最有力者は楢原氏であった。

 散在党は上の五つの党に属さぬ武士たちの集合であり、越智氏が棟梁である。

 流鏑馬は武士の名誉をかけて順番を争ったので、射手を稚児にすることで争いを回避するようになり、13世紀の後半には完全に稚児流鏑馬に移行した。

 願主人に指名されると射手の手配だけではなく、多くの仕事があった。射手や多数の従者たちをそろえて、華やかな装束は貸衣裳で調達し、その費用は換算すると200万円から400万円を要したという。在地ではプレおん祭とでもいうべき行事が繰り広げられ、一族と地域の団結がはかられた。そして祭を口実に領民への夫役や流鏑馬米、有徳銭をかけて領内支配を強めた。

 願主人は党ごとに奈良の宿所があり、ここで祭の参加者を饗応し贈り物も用意した。若宮社には巨額の御神楽銭と種々の進上品を奉納し、興福寺にも山海の珍味が届けられた。

 室町時代になると興福寺は内紛などで弱体化していく。代わって大和士の力が伸びて祭を主導するようになる。

     田楽頭役

 田楽はおん祭を代表する芸能である。田植えの時に田の神をまつるために歌い踊ったことに起源があるといわれる。腰鼓、笛、編木(びんささら)などの楽器を用いた群舞や高足などの曲芸を行った。御霊会などで奉納され、災いをもたらす悪霊を退散させる力があると信じられた。豪華な装束をまとうのも除災の威力を増すためのようだ。

 田楽を主催し準備するのが田楽頭であり、興福寺の学侶があたった。学侶は学問のある僧侶の意味で、衆徒よりも上位だった。田楽は本座と新座の二座あり、それぞれに頭が指名されたが、指名権は衆徒にあった。逆に願主人の指名権は学侶にあったという。

 田楽頭は田楽法師に豪華な装束をあてがう。これにともなう行事があり参加者を饗応し若宮社へも献納しなければならないので、莫大な経費を要した。学侶は自らの子院の荘園に反銭、末寺に御用銭、商人の座には典役、郷には間口銭などを課してまかなった。願主人もそうであったが、田楽頭役の経費も結局は民衆が負担としたのである。

 有力な子院の学侶は負担できても、そうでない学侶も多い。14世紀中頃から田楽頭になった学侶に寺門が助成するようになった。

     中世から近世のおん祭

 おん祭の主要行事は旧暦の9月17日に実施されてきたが、度々延引した。寺院内外の争いや諒闇などが原因である。時に中止になり、その分を翌年の春に実施することもあった。15世紀始めに式日は11月27日に変えられた。16世紀になると他国の武士の侵入のため、祭が中止になることがしばしば起きた。中止は大和の国人同士の争いが原因のこともあり、興福寺の大和支配は崩れつつあった。永禄10年(1567)、松永と三好の戦いで大仏殿が炎上したあとの9年間、中止となった。

 おん祭の歴史に大きな転機が来たのは、天正13年(1585)の豊臣秀長の郡山入部である。興福寺に代わって大和の支配者になった秀長は、おん祭の主催者となる。筒井氏は伊賀へ国替えとなり大和士も大和を離れていた。秀長は長谷川党の法貴寺氏人を呼び戻し願主人を勤めさせた。田楽頭にも300石を与えて助成する。

 徳川の天下に変わり奈良は天領になると、奈良奉行がおん祭の主催者になる。奈良奉行は、国内の大名や旗本の石高に応じておん祭にかかる費用を割り当て分担させた。領主はそれを領民に課税して調達した。お渡りの槍や随兵、人足の供出は軍役として藩が奉仕した。松の下には奈良奉行が陣取り、その脇に郡山藩、高取藩、小泉藩などの家中が検知をかねて見物した。

 現在の大宿所は、秀長時代に奈良代官の井上源五が餅飯殿町に遍照院を建て大宿所にした。奈良奉行は運営費に200石をあてた。大宿所に奉納される掛け物は、元和5年(1619)の記録では雉1200・狸210・兎230にのぼったが、これにあたった領主は請負に任せて大和国内外から集めたという。

 大名行列が新たに加わった。願主人役は特定の家が引きついだ。農民であったが、名字帯刀が許されて特別な待遇をうけた。お旅所の御殿木は各郡が持ち回りで供出し、他の用材や人足は近郊の町村が提供した。

 中世から戦国時代まで祭は延引されたり、中止になることも珍しくはなかったが、江戸時代には厳格に実施された。唯一の例外が、第六代将軍徳川家宣が死去した正徳2年(1712)に1ヶ月延期されたことである。

 おん祭の創始が興福寺大衆によるものであったことはすでに見たとおりであるが、藤原忠通創始説が生まれ喧伝されるようになったのは江戸時代からである。17世紀後半に刊行された名所記で広まっていき、寛保2年(1742)の『春日大宮若宮御祭礼図』の記述で決定づけられる。その背後には春日社の策動があった。17世紀の中頃から全国的な神道思想の台頭があり、春日社も興福寺からの自立を図るようになる。

 春日社はこの頃みずから記す文書に「興福寺大衆の沙汰」という祭の由来を書き換えて「飢饉が続き疫病が流行ったので藤原忠通が創始した」という文言を入れる。驚いたことに興福寺もこの説を追認する。この理由について、著者は次のように推測する。

 興福寺の大和支配は遠い過去のことになり、実質的に奈良奉行の祭になっていた。寺は政治的な権力も宗教的な権威も失って、祭の意義や役割を問い直す時期に来ていた。その頃、発生したのが金堂や西金堂、講堂を焼き尽くす火災である。伽藍の復興が喫緊の課題となり、「朝廷の支援を受け、幕府に働きかけて資金を集めるためには、おん祭の創始と関白との結びつけを強調して朝廷を動かし、さらに天下太平・五穀豊穣・人民快楽・を祈るものとしておん祭を位置づけ直して、多くの人々に現世利益を説くことのほうが、はるかに意味があっただろう。」

     近代のおん祭

 明治維新はおん祭存続の最大の危機だった。奈良奉行興福寺も突然に消滅したのである。春日社の神官になった元学侶や神職が執り行ったが、縮小、改変、廃止される行事が続出した。祭のために旧神領や信者でいくつもの講社が結成され奉仕するとともに、一般からの寄付を募った。明治11年(1878)には新暦に合わせて祭日は12月17日に変更された。明治20年(1887)の収支は支出420円、収入384円であった。明治25年は支出390円、収入285円と苦しい状態が続いた。大阪鉄道湊町・奈良間が全通して、大阪からの観光客を呼び込むため、11月7日を祭日にすることも試みられたが、農作業がまだ終わらない時期で不評のためすぐに12月17日に戻された。

 明治31年(1898)に奈良市が誕生した。祭は奈良市の発展のために必要と考えられ、市祭と位置づけられる。神社と市が祭務委員会(後に春日奉賛会になる)を設けて祭を運営するようになる。明治41年(1908)の収入は1433円で、そのうち500円は奈良市弊饌料、788円が市内町村からの寄付である。これで祭は経済的な基盤を得た。

 京都の時代祭を参考にしておん祭のお渡りに新たな行列を加えることも図られた。増えてきた外国人観光客の目を意識した試みでもあった。明治の終わり近くには、露店や見世物小屋が数多く出て賑わい、植木市も恒例となる。正月用品を商う歳の市も兼ねるようになる。

 昭和6年(1931)には、行列が再整備された。明治以後に生まれた新しいものは番外として先頭に置き、江戸時代以来のものは12番にまとめる現在の行列の形はこの時にできた。春日神古楽保存会が発足し、雅楽、田楽、細男の伝承・保存が図られた。行列のコースは興福寺の旧築地の周囲を巡っていたが、昭和8年には、現在の県庁前を出発し近鉄奈良駅前、油阪、JR奈良駅前、三条通りを回遊するコースの基本が定まった。戦時下では、町内会長が「武運長久旗」を掲げて行列したが、行事の縮小・簡略化は避けられなかった。

     現代のおん祭

 敗戦後、宗教行事のおん祭に自治体が関わることは、GHQの方針でタブーとなった。この窮地を救ったのが、観光業を営んでいた谷井友三郎である。昭和21年(1946)から23年まで谷井は私費を投じて祭を支えた。自治体の関与の制限も徐々に緩んで、昭和26(1951)年に奈良県はおん祭の行事を無形文化財に指定した。この年から縮小されていた行事は戦前の形に戻された。昭和27年には、舞楽・田楽が国の「助成の措置を講ずべき無形文化財」に選定される。さらに昭和54年(1979)に「春日若宮おん祭の神事芸能」は国の重要無形民俗文化財の指定を受けた。これを機に春日若宮おん祭保存会が結成され、名誉会長に奈良市長が就任し、春日大社奈良県奈良市奈良市観光協会、奈良の実業界、奈良市自治連合会が参画した。

 昭和54年に結成された大名行列保存会は、市民の参加を募って郡山藩・子供大名行列南都奉行の三隊を整え、奴振りのパフォーマンスが人気を博している。

 絶えたり改変された行事は徐々に復興されてきた。特に昭和60年(1985)はおん祭850周年になり、この年は装束賜(しょうぞくたばり)の名が復活し、大宿所での御湯立、南大門交名(きょうみょう)の儀、競馬、流鏑馬の行事、お渡りの郷神子(ごうのみこ)と八島神子(やしまのみこ)が復興される。平成15年(2003)の若宮御出現1000年では、頭屋児(とうやのちご)、素合御供(すごのごく)、宵之御供(よいのごく)、辰市神子(たついちのみこ)が復興された。お旅所芝舞台に雨天用幄舎が新たに設置されるようになる。

 おん祭は大和一国の大和による大和のための祭として始まり、時代が変わっても大和を治めるものが主催者となり国内の各層、幅広い民衆の参加をもって続いてきた。いくたびも存亡の危機に直面して行事の改変を重ねてきたが、祭礼としての本質的な形は維持されてきたように思える。祭礼を核としながらも娯楽、観光、商業といった多面的な要素を持ち、時代に応じて様々な相貌を見せる。現在は文化財という面に注目され、古儀復興もその路線に沿っているようだ。900年の歴史という価値は今後さらに増していくだろう。

参考
幡鎌一弘・安田次郎『祭礼で読み解く歴史と社会~春日若宮おん祭の九〇〇年』山川出版社
朝倉弘『奈良県史11 大和武士名著出版
大和芸能懇話会編『春日若宮おん祭』春日若宮おん祭保存会

番外 2.26事件、陸軍上層部も加担していたクーデター

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     Ⅰ

 NHKBS1スペシャル「全貌2.26事件~最高機密文書で迫る~」(再放送2021年3月12日)を見て、興奮するほど驚いた。2.26事件の経過を海軍軍令部が逐一記録していたという。そして長らく秘匿されたその分厚い文書の綴り6冊が「発見」されたのである。当時、軍令部に在籍し、戦艦ミズーリ号での日本の降伏文書調印式にも出席した富田定俊海軍少将が保管していたらしい。どういういきさつで日の目を見たかの説明はなかったが、番組は、この機密文書をもとに事件をたどっていく。

 決起部隊が大臣や重臣を襲撃する場面が銃の発射回数も入れて具体的に描写される。青年将校陸軍大臣との会話、天皇の発言、真崎甚三郎陸軍大将と石原莞爾陸軍大佐の密談‥‥。事件を左右する重要な事実が始めて明らかにされる。どれも現場の目撃者による報告でそれを記録したとしか思えない。

 2.26事件の史料は、事件後の軍法会議の公判記録や検察調書、関係者の手記や回顧録、日記などが中心である。陸軍参謀本部や第一師団の当時の記録もあるようだが、比重は小さい。陸軍省や戒厳司令部、憲兵隊なども記録をつけていたはずであるが、事件のドキュメントを読んでいても、それらを出典とする叙述はほとんどない。

 軍法会議は、非公開、弁護人なし、一審のみという異例の暗黒裁判となり、「北一輝西田税ら民間人にそそのかされて、血気にはやる青年将校が暴走した」という図式で極刑が下された。これは陸軍上層部の責任を回避するために仕組まれたシナリオであるという。このシナリオに不都合な証拠が出るのを防ぐために、陸軍は公文書を秘かに処分した可能性がある。

 公判記録や検察調書、関係者の手記や回顧録、日記は、個人の記憶をもとにしているから記憶違いがあるし、自己正当化や保身のために偏向・歪曲がつきまとう。この点、出来事を同時進行的に記録する海軍軍令部の文書は、より事実に近い内容を含む。海軍は都内各所に私服の偵察員を配置し、陸軍中枢内に連絡員を派遣して情報の収集に努めた。これが可能になったのは、海軍が事前に事件の発生を正確に知っていたからである。

 事件1週間前の2月19日、東京憲兵隊隊長が海軍省次官に機密情報をもたらした。「陸軍皇道派将校は重臣の暗殺を決行し、この機に乗じて国家改造を断行せんと計画せり」と記され、襲撃目標の岡田啓介首相、齋藤実内大臣高橋是清大蔵大臣、鈴木貫太郎侍従長の名前がつづく。首謀者の香田清貞大尉、栗原安秀中尉、安藤輝三大尉も明かされていた。この具体的かつ正確な情報で海軍はいわば万全の体制で事件に臨むことができた。

 海軍が詳細な記録を残したのは、ことの重大さはもちろんとして、組織防衛の動機があったからだろう。記録文書には「海軍関係者はいない」という記述が頻出して、事件が海軍とは無関係であることの証拠を残す意図がうかがえる。したがって文書は秘匿されて、直接の関係者が絶えた80年後にヴェールを脱いだ。

 私が一番驚いたのは、このことだった。青年将校のクーデター計画の詳細は軍中枢によって事前に把握されていた。海軍が知っていたのだから、陸軍は当然それ以上にわかっていたはずだ。しかし計画はなんらの妨害を受けた気配はなく実行された。首相や蔵相、内大臣、元老、侍従長の殺害計画が黙認されたのである。今回番組に触発されて、事件に関する文献をいくつか読んだ。それから見えてきたのは、陸軍上層部も加担したクーデターであったのではないかということだ。

     Ⅱ

 事件の首謀者の一人であり銃殺刑になった磯部浅一元一等主計は『獄中手記』を書き、自らの行動記録と主張を残した。磯部は事件直前に陸軍中央の幕僚や皇道派将軍などに面会して一種の根回しめいたことを行っている。1月23日に川島義之陸軍大臣に会うと「5.15事件ぐらいの小さなことではなく、大仕掛けのことが起きたとき軍部は如何をなすべきや」と問いかけた。大臣は「仕方ないなあという旨をもらした」という。これから「なにごとか突発しても弾圧はしないという感じを受けた」と書く。1月28日には皇道派のリーダー、真崎甚三郎陸軍大将に面会している。「真崎はなにごとか察知したようで『何事か起きるなら何も言ってくれるな』と言い、5百円工面してくれる」。磯部は「これならかならず真崎大将はやってくれると信じた」。

 軍人の政治活動は本来禁じられていたが、昭和維新を目指す青年将校たちの活動は黙認された。それどころか資金援助を受けたり、人事上の配慮を受けたりしていた。これを軍の統制を乱すものとして快く思わなかったのが統制派で、磯部や同じく事件の首謀者となった村中孝次元大尉はクーデター未遂の科(二人は冤罪を主張)で前年に免官されていた。青年将校運動を規制した統制派のリーダー、軍務局長の永田鉄山少将はその直後に、皇道派の相沢三郎中佐によって斬殺される。2.26事件は、皇道派が勢力を巻き返そうとした流れの中で起きた。

 『獄中手記』で、磯部は身辺つねに憲兵から見張られていることを記している。あるとき「尾行をやめてくれ」と言ったところ「同伴しているのです」と憲兵が言い返したという。事件の謀議は将校の自宅や連隊の週番将校詰め所で行われたが、筒抜けであっただろう。内容まで漏れていたのだから密告者もいたのか。海軍に情報がもたらされた2月19日は、前日に青年将校たちが会合して決行の具体的な手順を決めたばかりであった。2月26日の未明、連隊屯所を出ていく決起部隊を憲兵は見送って「雪中訓練かと思った」という証言があるが、もちろん偽証だろう。

 将校、下士官、兵およそ1500人の正規軍が武器をもって政府の要人を殺害し首都中枢を占拠する。これだけの大がかりなことが可能になったのは、陽に陰に上官の支援と黙認があったと考えるのが合理的である。実際その通りなのであるが、その全貌は明らかではない。

     Ⅲ

 青年将校たちはなぜこのようなクーデターを起こしたのか。磯部は「皇権を重臣元老の手より奪取奉還して、大義を明らかにすれば、国体の光は自然に明瞭になり、国体が明瞭になることは直ちに国の政・経・文教すべてが改まるのである。これが(昭和)維新である」と書く。彼らが日の丸に大書した標語「尊皇討奸」とは、天皇を取り巻く「君側(くんそく)の奸」を取り除きさえすれば「国体」は自ずと顕現し日本はすべて良くなるということであろう。

 歴史家の筒井清忠氏は、青年将校を思想的側面から二つのタイプにわけ、天皇主義と改造主義と名づけている。天皇主義は「尊皇討奸」に表される考え方であるが、すべての青年将校の基底にはこの思想があったと言える。さらに事件を主導した将校たちには天皇親政によって断行されるべき日本の改造プランがあった。彼らは北一輝の『日本改造法案大綱』に強い影響を受けていた。『改造法案』は、天皇大権によって憲法を3年間停止、両院を解散し戒厳令を布告して日本を改造するというものだが、その内容は華族制の廃止、財閥の解体、私有財産の制限など社会主義的な側面があった。しかし、実際に青年将校たちがクーデターの目前の目標としたのは、「君側の奸」を除いたあとに真崎甚三郎陸軍大将を首班とする「維新内閣」を樹立することだった。

     Ⅳ

 26日の早朝、陸軍大臣官邸にて将校たちは川島義之陸相に強談判し「維新の断行を約束する」との言質を引き出している。その日、川島陸軍大臣、軍事参議官荒木貞夫大将、同真崎陸軍大将、同阿部信行大将、陸軍省軍事調査部長山下奉文少将らが協議して声明を出す。「陸軍大臣告示」と題されて「一、決起の趣旨に就いては、天聴に達せられあり 二、諸子の行動は国体顕現の至情に基づくものと認む 三、国体の真姿顕現(弊風をも含む)に就いては恐懼に堪えず 四、各軍事参議官も一致して右の趣旨に依り邁進することを申し合わせたり 五、之れ以外は一に 大御心に待つ」とある。決起部隊の行動を認める内容である。

 同時に宮中への必死の説得工作が行われた。川島陸相、侍従武官長本庄繁陸軍大将、軍令部総長伏見宮博恭王元帥海軍大将、元首相清浦奎吾らの4つのルートを通して、青年将校の「真意」を伝え次期内閣の大詔渙発を請うた。しかし「股肱の臣」を殺めた青年将校天皇は許さず、即座の鎮圧を命ずる。だが、陸軍はこれにすぐには応じず、戒厳令をしきながら決起部隊を反乱軍扱いにはせず戒厳部隊に組み込んでいる。天皇の度重なる督促に折れて、軍が鎮圧行動に踏み切るのは29日であった。

     Ⅴ

 真崎甚三郎大将は事件後、反乱幇助で起訴された。しかし無罪になっている。荒木貞夫大将や近衞文麿首相の働きかけがあったという。軍法会議では、直接の行動者の他にも協力者とみられる将校が禁固刑を受けているが、2人の例外を除いて佐官、将軍クラスの協力者は罪に問われていない。ただ、皇道派はこれ以後、陸軍の中枢を占めることはなかった。

 軍上層部が青年将校のクーデターに加担したのは、軍が切望した総力戦体制の構築に好都合な軍事政権をつくるチャンスと考えたからだろう。クーデターは失敗したが、事件後の軍の発言力は増す。翌年は日中戦争が始まる。もはや軍の意向を抑えられる者はいなくなっていくのである。

参考
NHKBS1スペシャル「全貌2.26事件~最高機密文書で迫る~」
北博昭『二.二六事件 全検証』朝日新聞社
筒井清忠『二.二六事件と青年将校吉川弘文館
『二.二六事件とは何だったのか』藤原書店
磯部浅一『獄中手記』中央公論新社
北一輝日本改造法案大綱中央公論新社

129 薬師寺薬師如来坐像は白鳳仏か天平仏か

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 奈良市西ノ京の薬師寺本尊薬師如来坐像はブロンズ像として世界の最高峰という位置づけが定着している。写実に基づく美の完成された姿として評価する言葉は枚挙にいとまがない。和辻哲郎は『古寺巡礼』のなかで「あの豊麗な体躯は、蒼空のごとく清らかに深い胸といい、力強い肩から胸と腕を伝って下腹部へ流れる微妙に柔らかな衣といい、この上体を静寂な調和のうちに安置する大らかな結跏の形といい、すべての面と線から滾々(こんこん)としてつきない美の泉を湧き出させているように思われる。」(岩波文庫版158頁)と最大級の賛辞を送る。和辻の仏像の捉え方が文学的すぎると批判した美術史家の町田甲一氏も「その(薬師如来坐像)写実的な表現は、上半身に纏った法衣についてもみられ、中に包まれた肉体の形姿に応じて的確な線を描き、薄衣の柔らかい質感をよくあらわしているばかりでなく、豊かな生気ある肉体をも薄衣を通じてリアルに表現している。ことに左胸の部分や、左上膊部から左肩先へかけて衣文のきえてゆくあたりには、生きた人間の体温や触感まで実感させるような、迫真的な表現が認められる。」(『奈良六大寺大観 薬師寺』44頁)と言葉を尽くしてその特徴を微細に表現している。シャープで繊細な感受性の持ち主たちの解説には教えられることが多い。

 薬師如来像は脇侍の日光・月光菩薩像とともにぬめるような輝きを放っていて、ときにその光の反射は鑑賞を妨げられるように感じることがあるほどだ。一説によれば、あの独特の輝きは火災をくぐり抜けた金属の化学反応だという(『大和古寺巡歴』149頁)。それが一層仏像の「神々しさ」を増幅しているのかもしれない。

    本尊移座を記す『薬師寺縁起』

 これほどの仏像だから製作年代への関心は高い。しかし今なお白鳳説と天平説が対立したままで決着をみていない。いわゆる本尊移座論争――藤原京の本薬師寺薬師如来像が平城薬師寺へ移座されたかどうか――と直結する問題であるから、その帰趨は容易ではないだろう。しかし論争の中身を知ることで、仏像と寺の歴史への理解が深まることは確かである。

 長和4年(1015)に成った『薬師寺縁起』は、薬師三尊像が持統天皇の造像であり本薬師寺から7日かけて運ばれたと記す。薬師寺はこの記述を公式見解とし、薬師如来像が白鳳仏であるという説の最大の根拠もこの『縁起』にある。ちなみに美術史上の白鳳文化乙巳の変(645年)から平城遷都(210年)の時期を指し、天平文化は平城遷都以後の奈良時代を指す。

 本薬師寺の造営のプロセスは、『日本書紀』と『続日本紀』の記述からいくつかの節目がある。本尊との関わりから注目されるのは、持統2年(688)に薬師寺で無遮大会が行われたことである。686年に崩御した天武天皇の葬送儀礼の一つとして重要な儀式が行えるほどに寺の造営は進捗し、金堂と本尊はこの時は完成していたと見なすのである。

 持統11年(697)6月に「公卿百寮、天皇の病気平癒のために仏像を発願」という記事が『書紀』にある。その1ヶ月後に「公卿百寮、薬師寺にて開眼供養をおこない」、2日後に持統天皇文武天皇に譲位している。この記事を以て本尊薬師如来像の完成という見方もある。しかし丈六ブロンズ像を製作するのに1ヶ月は短すぎる。また天武天皇が発願した寺院であるのに本尊が公卿百寮の発願となるのはおかしいという批判がある。天平仏派は本尊の持統2年完成とする者が多く、白鳳仏派は持統11年完成と見る者が多いようだ。

 『薬師寺縁起』は平城薬師寺が造営された約300年後に著された。奈良時代に作られた『薬師寺流記資財張』を直接引用する形式で書き進められるが、薬師三尊像を含む金堂条は間接引用であり、天皇の名も他が和風諡号であるのにここでは持統天皇という漢風諡号が用いられる。そのためこの部分の記述は『縁起』の作者の作文として「本尊移座」を疑う意見がある。一方、間接引用も和風諡号も問題ないという反論もある。

 長和4年時点で、本尊は本薬師寺から移座されたと思われていたことは確かである。他に手掛かりにできる有力な文字資料はないので、『縁起』だけから考えると、本尊移座=白鳳仏説の優位性は動かないようである。

     様式から見た薬師如来坐像 

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薬師如来坐像頭部

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山田寺仏頭

 昭和12年(1937)に興福寺東金堂から青銅丈六像の頭部が発見された。『上宮聖徳法王帝説』裏書から、天武天皇14年(685)に開眼供養が行われた旧山田寺講堂本尊薬師如来像の頭部とみられる。現在国宝館に安置された「仏頭」である。製作年代のわかる白鳳仏の出現は、仏像の様式研究を一気に進展させた。町田甲一氏は、仏頭と薬師寺薬師如来像の様式的な相違を次のように述べる。長文になるが引用する。

 「飛鳥仏に比べると、白鳳の仏像は、顔も肉体も丸く、柔らかな肉付けになっている。衣の襞も飛鳥のものに比べて、はるかに柔らかくリアルになっており、衣と肉体の関係も、かなり有機的にリアルになっている。(略)

 しかし、その点も.天平時代のものに比べればまだ十分でない感じがある。天平時代の仏像の衣は、全く本物のように、塑形されており、肉体の表現も完璧である。さらに細かい点についていえば、白鳳の仏では、眼は上瞼の線が弧を描き、下瞼の線はほぼ直線をなしているが、天平の仏像では、むしろ上瞼の方が直線に近く、下瞼の線がゆるく大きく波打っている。また白鳳仏では、鼻の外側がかたい面をなし、これが頬の面と接するところに、強い線をあらわしており。鼻筋の線も強い直線をなして眉の線につながっているが、天平時代のものでは、すべてが柔らかく.丸味をもってあらわされている。

 鼻も白鳳仏では、小鼻が幅せまく、上下に長く、鼻の孔のある面が多くの場合かたい平面をなしている。その点でも天平仏は柔らかく豊かな鼻であり、また白鳳仏は、顔の感じも童顔で、身体比例も小児的であったり、あるいはそうでなくとも身体つきの感じが小児の身体を思わせるようなものを示しているが、天平仏は、顔も身体も全く完成された成人の相好を示している。」(『大和古寺巡歴』153頁)

 これだけの様式の相違がある二仏がわずか3年の時間差で製作されるとは思えず、相当の期間を経て、すなわち薬師如来坐像は移転後の平城京において製作された天平仏であるということになる。

 様式の相違は白鳳仏派も認める。この時代の日本の仏像が唐の仏像の影響を受けて製作されたことは美術史の共通理解となっているが、唐から移入された新旧の様式が同時に並行して、一方は山田寺講堂の薬師如来像、もう一方は薬師寺薬師如来像になったというのが、本尊移座説の白鳳仏派の基本的な考え方である。様式の新旧が製作年代の差異に必ずしも現れないというのである。美術史家の杉山二郎氏は、「唐長安在住の一流の仏師、鋳造工」の手により「唐朝中期・盛期に結実したグローバルな造形表現、様式そのものがこれらの彫像に具現した」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』145・148頁)という。これなら新様式を理解吸収する時間も省けるだろう。

 しかし様式と製作年代とを切り離す説は、他の仏像を含む全体に当てはめることは困難に思える。飛鳥、白鳳、天平の仏像の様式は工法とともに年代と相関して変化していったと捉える方が整合的である。この点で薬師如来像=天平仏は説得力がある。

     長和4年の伝承

 本薬師寺は平城薬師寺ができたあとも存在し続けた。廃絶したのがいつ頃になるかは正確には不明だ。万寿2年(1025)に源経頼は本薬師寺に宿泊したことを『左経記』に記しているから、寺として存在していたことは確かである。しかしその70年後の嘉保2年(1095)には、本薬師寺の塔跡から舎利が発見され平城薬師寺へ移された(『中右記』『七大寺日記』)ことから、この頃までは完全に廃絶していたようだ。

 長和4年(1015)の『縁起』が書かれたころは、堂塔がどこまで残っていたかはわからない。『縁起』の金堂条が間接引用であり漢風諡号が使用されることを問題視する議論を先に紹介した。「已上持統天皇奉造請坐者 已上流記文今略抄之」と小文字で記されたあと、「古老傳云 件佛像従本寺七日奉迎云々」と続く。「以上(薬師三尊像)は持統天皇がお造りになり安置せられた 以上流記から抄略して記す 古老の伝えるところでは、件の仏像は本薬師寺から七日かけて迎えられた」という大意であろうか。この部分は『縁起』の作者が書き加えたもので、『流記」にあったものではない。そのため内容の真偽性に疑問の余地が生じるわけだ。確実に言えるのは、長和4年の時点で本尊は移座されたという伝承があったことのみである。

 このような伝承が生じたのは、本薬師寺の金堂が本尊仏像とともに廃絶して久しかったからではないだろうか。もし本尊移座が事実だとすれば、金堂は空となり新たに本尊を造るか空のままかのどちらかになる。古代史家の東野治之氏は、平城薬師寺が本薬師寺の宗教機能を吸収したため本尊不在であったとしても問題はないと述べておられるが、寺の中枢が不在のまま300年間維持されたというのは理解を超える。本尊を新たに造るというのも不自然であり手間を要する。やはり新旧の寺にはそれぞれに本尊が安置されていたが、本薬師寺の金堂と本尊が失われ幾世代を経る間に伝説が生まれたのではないか。その背景には見事な仏像を本願の天武・持統天皇へ結びつける思いがあったように思う。

参考
和辻哲郎著『古寺巡礼』岩波書店
『奈良六大寺大観三 薬師寺岩波書店
町田甲一著『大和古寺巡歴』講談社
東野治之「文献史料からみた薬師寺」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』冨山房インターナショナル)
杉山二郎「薬師寺金堂薬師如来三尊考」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』冨山房インターナショナル)
久野健著『白鳳の美術』六興出版
林南壽「金堂薬師三尊像」(『薬師寺千三百年の精華~美術史研究のあゆみ』里文出版)
大橋一章著『日本の古寺美術4 薬師寺保育社

128 薬師寺西塔心礎移動・本薬師寺西塔白鳳時代建立説

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復興された薬師寺西塔

 天武天皇が鸕野讃良(うののさらら)皇后の病平癒を祈願し創建した薬師寺は、天武亡きあと持統天皇文武天皇に引きつがれ、藤原京の地に698年にほぼ完成をみた。平城京遷都とともに薬師寺もその右京六条二坊に移され、南都七大寺の一つとして権勢と寺観を誇った。

 藤原京に残った本薬師寺平城京薬師寺との関係について、建物を移建したのかどうか、本尊を移座したのかどうかという論争が明治以来続いて今もなお決着がついていない。

 建物の移建については、本薬師寺が奈良・平安時代も存続し、また中門や回廊の構造が二つの寺で異なっていることから、伽藍がそっくり移るようなことは否定されている。しかし、本薬師寺で使用された瓦が平城薬師寺からも出土する事実から、一部の建物、たとえば僧坊などが移建された可能性も消えていない。

     薬師寺西塔新移建説の登場

 現在注目されるのが、西塔をめぐる問題である。平城薬師寺西塔の心礎には舎利孔があるが、本薬師寺西塔の心礎は舎利孔はなく出枘(でほぞ)がある。舎利孔のある心礎は白鳳時代より前のものであり、出枘の心礎は奈良時代以降に製作されたという年代観から、石田茂作氏は本薬師寺の西塔は平城京に移したあと再建されたという説を唱えた(1948年)。90年代に本薬師寺の発掘調査が進んで西塔跡から奈良時代の瓦が大量に出土した。この事実を受けて西塔の建立は奈良時代へ下るという説が有力となった。これを踏まえて鈴木嘉吉氏は、新たな「西塔移建説」を提唱されている(2006年)。以下、この新説を検討する。筆者はかねて「西塔心礎移動説」を提起しているが(奈良歴史漫歩68、奈良歴史漫歩79)、最後に西塔移建説に対置する新たな傍証を示して再説したい。

     本薬師寺塔の裳階は吹き抜けか

 本薬師寺と平城薬師寺の東西四塔を比較する。

 

基壇長

心礎

側柱礎石

裳階柱礎石

地覆石

薬師寺東塔

約14.2m

舎利孔あり

各等間

約240cm

地覆座あり

不明

凝灰岩?

〃西塔

約13.5m

出枘あり

柱間240cm

不明

花崗岩

平城薬師寺東塔

約13.3m

根継石を据えた窪みあり

各等間

約240cm

地覆座なし

地覆座あり

凝灰岩ほか

〃西塔

約13.65m

舎利孔あり

各等間

約240cm

地覆座なし

地覆座あり

花崗岩

 四塔は基壇規模や初層平面規模がほぼ一致する。本薬師寺東西塔の裳階柱礎石は見つかっていないが、裳階の屋根に葺かれたと推定できる小型の瓦が出土している上、さらに基壇規模からも判断して裳階のあったことは確実視される。ただ本薬師寺東塔の側柱の礎石には、柱間の壁を受ける地覆座があることから、裳階は吹き抜けであった可能性が高い。平城薬師寺の壁や連子窓のある裳階は、地覆座が側柱礎石ではなく裳階柱礎石につくことと一体であるから、二つの寺の塔の外観はかなり異なっていただろう。吹き抜けの裳階が二層と三層にあったかも疑問である。

 平城薬師寺の高さは34mあり、三重の塔としては他の塔の平均からして10mほどは高い。各層に裳階がついての高さである。初層の平面規模は裳階を入れて11m四方になり、この高さがあってバランスがとれることになる。裳階がなければ、ずいぶん間延びした印象になるし、他の三重塔並の高さならバランスを欠く。五重の塔であるなら、バランスの点からは合理的だろう。しかし堂塔の平面サイズや伽藍配置を踏襲することにこだわった寺院が、塔の外観を大きく変えるというのも解せない。

     本薬師寺西塔の奈良時代建立説

 本薬師寺西塔は基壇の四分の一の東南部が調査された。基壇には心礎しか残っていないが、四天柱と側柱の礎石据え付け穴4個が検出された。同時に出土した瓦の製作時期は、大きく二つに区分される。一つは本薬師寺創建期の白鳳時代、もう一つは奈良時代である。報告書からそれぞれの時期の出土数を見る。

 

本体軒丸瓦

本体軒平瓦

裳階軒丸瓦

裳階軒平瓦

白鳳時代

55

58

58

25

奈良時代

27

38

34

 出土瓦を分析した花谷浩氏は、この結果から本薬師寺西塔は「残っていた創建の瓦に新相の瓦を混ぜて、奈良時代の屋根を葺き上げた」という「西塔非移建・奈良時代建立説」を打ち出した。建築足場が一時期しかなかったことも傍証となる。

 鈴木嘉吉氏は、この花谷氏の本薬師寺西塔奈良時代建立説に同意する。その一方、平城薬師寺において他の堂の基壇がすべて凝灰岩でできているのに対し、西塔の基壇の一番底にある地覆石が花崗岩であることに着目する。これは飛鳥寺金堂・塔、山田寺金堂・塔、川原寺金堂・塔、本薬師寺金堂にも共通して、飛鳥・白鳳期の大寺の正統的手法だという。ここから次のような推測が導かれる。

 「藤原薬師寺で西塔の造営に着手するころ寺の移転が決まり、準備した材料をそのまま運んで平城で組み立てた。そして平城薬師寺がほぼ完成したころ、改めて旧寺に西塔を建立して伽藍の姿を整えた。」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』26頁)

 準備した材料には、舎利孔を刻んだ心礎がもちろん含まれる。「西塔材料移建・奈良時代建立説」とでも名づけられよう。これは本薬師寺と平城薬師寺の塔が規模はもちろん形もほぼ同じであるという推測が前提になっている。

     薬師寺西塔基壇の攪乱抗と版築の乱れ

 本薬師寺西塔基壇の調査報告では、心礎周辺の土の攪乱が記録されている。「心礎周辺と下面は大きく攪乱され、攪乱抗には瓦片が投棄されている。この攪乱は西塔心礎の上面が現状で水平ではなく、若干傾いていることとも関連するようである」(『奈文研年報1977-Ⅱ』27頁)。西塔基壇南北断面図を見ると、心礎の南側が大きく掘り返されたような跡がある。心礎据え付け穴とは明らかに異なる。さらに基壇版築について「基壇築成土は、底面から約1.5mの高さまで残る。築成土は上半部と下半部とでは状況が異なり、下半部(約1m)では、一層の厚さが約3~8cmと比較的細かく版築するのに対して、上半部(約0.5m)は、一層の厚さが約10~15cmと分厚い」(同27頁)。

 この事実から導かれる仮説は、心礎の移動があり攪乱抗や上半部の版築の粗雑さはその痕跡であるということだ。本薬師寺東塔と平城薬師寺西塔の心礎の舎利孔はうり二つと言っていいほど似ている。しかし後者には、前者にはない柱座底面周縁の溝があり湿気抜きの細穴が穿たれている。これは二つの心礎は同時期に製作されながら、後者があとで改良されたと推測できる。

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薬師寺西塔基壇調査遺構図(一部)

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薬師寺西塔基壇南北断面図

 すなわち次のようなストーリーが描ける。本薬師寺東西塔は藤原京においてすでに竣工されていたが、平城薬師寺を建立するにあって西塔の舎利を心礎ごと移すことになった。そのため心礎の周囲が大きく掘り返され、基壇の一部も削られ運び出された。そのあとに出枘のある心礎が運び込まれ、土が埋め戻された。そのときの工事が雑であったため、心礎がのちに傾くことになった。平城薬師寺へ運ばれた心礎は、湿気対策のための溝と細穴が刻まれて西塔に据え付けられた。

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薬師寺薬師寺の心礎舎利孔

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薬師寺西塔心礎

 心礎を移すために塔を解体する必要はない。心柱は本体の建物とは独立して立っているからである。ただ心礎から心柱を切り離すために、心柱を建物に固定するという作業が加わる。平城薬師寺東塔では、心柱に短い貫を通して両脇から支えるという細工が施されていたが、これは心柱の修理にともなって行われたのだろう。

 奈良時代の瓦が出土したのは、心礎を入れ替える工事の際に振動や衝突があって瓦が落下破損し、補充したからではないだろうか。本体建物の瓦数を比較すると、奈良時代白鳳時代の半数ぐらいであることが、それを物語る。裳階の軒丸瓦は報告書では時期の区別がつかないが、その総数において本体瓦と匹敵しているのは注目される。裳階が各層にあったという有力な証拠になる。

 従来の「西塔心礎移動説」には修正を加えたが、「薬師寺西塔心礎移動・本薬師寺西塔白鳳時代建立説」を再度提起したい。本薬師寺の構作がほぼ終わると記されたのが698年、平城京薬師寺が移ったのが718年、この間20年あるが、本薬師寺の西塔がまだ完成していなかったというのは考えにくい。天武と持統の思いのこもった寺院の造営は当時の政権にとって最優先すべき課題だったはずだ。西塔の完成が遅れた例として大官大寺がよく引用されるが、工事途中で焼失した超巨大な寺院に西塔の痕跡がなかったことが良い比較材料なるとは思えない。

参考
鈴木嘉吉「薬師寺新移建論―西塔は移建だった」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』冨山房インターナショナル)
「本薬師寺の調査―1995-1・2・3次、1996-1次 本薬師寺出土の瓦」(『奈文研年報1977-Ⅱ』)
花谷浩「本薬師寺の発掘調査」(『仏教芸術』235号 毎日新聞社
石田茂作「出土古瓦より見た薬師寺伽藍の造営」(『伽藍論攷』養徳社)

127 薬師寺東塔の解体修理

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 2009年7月から本格的な解体修理を行ってきた薬師寺東塔は修理を終え、今年の3月からその一新した華麗な姿をふたたび参観者の前に現した。コロナ禍のため正式な落慶法要は延期されているが、初層内部を基壇から拝観でき、また地上に降ろされた創建期の水煙なども間近に見学できる。

 「一新した」と書いたが、一見したところ、東塔は修理前の姿となんら変わっていないように見える。しかし注意深く観察すれば、変化に気づく。土に埋まって70cmの高さだった基壇がかさ上げされて130cmとなった。壇正積みだった基壇外装は創建期の切石積みにもどされ、これらの改修により他の堂塔と揃うことになった。前は西階段しかなかったが、西塔と同じように東西南北に階段が設けられた。

 復興した白鳳伽藍のなかで東塔は異質感が際立っていたが、今はなんとなく前よりも伽藍全体が落ちついた印象を与えるのは、このような改修のせいだろうか。かさ上げのせいで、東西両塔の高低のアンバランスが緩和され、東塔が威厳を取り戻したようにも感じる。

 天平2年(730)に建立されたという東塔は、1300年の風雪に奇跡的に耐えぬき現在に及ぶが、この間数々の災害に遭い修理を繰り返してきた。しかし満身創痍とも言える状態にあり、抜本的な修理が急務とされた。解体修理は塔を構成する部材のすべてを解体して、修復不能な部材は新調しふたたび組み立てる。東塔が建って以来の大修理であり、修理と平行してあらゆる方面からの調査も実施された。修理と調査の両面からこの平成の大事業をレポートしたい。

     元の基壇を保存して新基壇で覆う

 解体の最終段階である基壇の発掘調査から見ていく。心柱を取り除いた基壇は一辺が14.6~14.7m、明治の修理で壇正積みの外装にされていた。それを除くと内側に近世の基壇外装の跡が現れた。西側は切石積み、東側と南側は乱石積みである。さらにその内側に創建期の凝灰岩の地覆石が東西南北の四辺に残り、北西角には羽目石だけがあったことから一辺13.3~13.4m、高さ1.3mの切石積みの外装と判明した。その周囲に犬走りと雨落溝がめぐっていた。修理のたびに基壇は外側に拡張されたため、変遷の跡が残された。

 心礎や四天柱と側柱の礎石は創建期に据え付けられたままの位置を保ち、裳階柱の礎石は明治の修理で据え付け直されていた。西塔の心礎には舎利孔が穿たれていたが、東塔の心礎に舎利孔は存在しないと予想されていた。予想どおり舎利孔はなかった。

 基壇は版築で一層あたり2.5~6cmの厚さに突き固められて約30層あった。その下に掘り込み地業が行われていた。基壇より広い一辺15.7mの方形の範囲を40~70cm掘り下げて、粘土と灰白色の砂を入れ地質を改良した。

 版築の基壇と掘り込み地業で足もとを固めたものの、不均等に沈む不同沈下は避けられなかった。西側が東側よりも13~20cm低くなったのである。創建期の建物工事が始まる前から沈下したらしく、柱を切り詰めて水平になるような加工がされていた。

 東塔の周辺は地下水が流れて地盤が軟弱らしい。かつては大雨があれば周辺は水浸しになり、調査中も湧き水が絶えなかった。

 心礎近くの掘り込み地業の底から和同開珎4個が出土した。他のふたつの礎石の据え付け穴からもそれぞれ和同開珎が1個ずつ見つかっている。地鎮供養と見られる。

 塔を修理組み立てるにあたって元の基壇遺構はそのまま保存され、その上に新たな基壇と模造礎石が築かれることになった。新基壇は鉄筋の空箱を伏せたような形で元の基壇を覆い、24本の鋼管の杭(直径40~60cm、長さ12~13m)によって支えられる。これにより95cmかさ上げされた。柱は模造礎石の上に据えられたが、心柱は新基壇を抜けて元の心礎に据え付けられた。

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東塔基壇、東から

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創建期の基壇外装,北西角。羽目石の一部、地覆石、犬走りが見える

     心柱の空洞を埋木する

 檜材の心柱(最大直径約90cm)は根元から初重天井に達する大きな空洞ができていた。空洞はずいぶん前からできていたようで、正保2年(1645)の修理では根元を長さ1.06m切断し、代わりに根継ぎ石を補い心礎に据えていた。東塔の初重には釈迦の一生を表した釈迦八相の前半の四場面が、法隆寺の塔本塑像のように安置されていたが、この時の修理のために塑像は撤去され、その後に根継ぎ石を隠すために須弥壇が築かれた。

 空洞を埋めるため新しい檜を高さ50cmごとに段をつけ、上から下へ直径が大きくなる円筒を重ねるような5段にして埋木した。さらに基壇のかさ上げの高さを継ぎ足した。

 心柱は3重目で上方に杉材(最大直径53cm)を継いであった。康安元年(1361)に大地震があり塔が傾いたという記録があり、この後の修理で継がれたらしい。放射性炭素年代測定法では、杉材は1339~66年の測定値が出ていて、この推測を裏づける。下方の檜材は年輪年代法で719年の下限が示され、730年の創建と矛盾しない。二つの材は仕口ではなく添え木をあて明治の修理のボルトとナットで留めてあった。新たなボルトとナットと和釘を使用して継ぎ目を補強した。

 心柱の頂部を切り欠いて舎利容器が安置されていた。元来東塔には舎利が納められていなかったが、享禄元年(1528)に舎利を安置した西塔が兵火にあい焼失したため、明治の修理の際に玄奘ゆかりという舎利を江戸時代の舎利容器に納めて心柱に埋めたと見られる。今回の修理では舎利容器が新調された。

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正保の修理で心柱の根元を切り取り据えられた根継ぎ石

     相輪の宝珠、龍車、水煙などを新調

 相輪は高さ約10mあり、各部材は創建期に製作したものである。数多く修理された跡はあるが、1300年間、風雨にさらされて残ったのは驚きである。しかし劣化は進んでいたため多くの部材が新調された。上から順番に挙げると、宝珠、龍車、水煙、これらが据えられていた擦管、一番上の九輪、一番下の擦名が刻まれた擦管である。また二つの擦管が修理された。

 相輪の材質は最新の機械と方法で調べられて、復元には当時と同じ材料を用意した。型はレーザーによる3D計測をもとに作られた。製作にあたったのは、富山県の伝統工芸高岡銅器振興協同組合である。古色仕上げのため、前と変わらぬ相輪の姿である。歌にも詠まれた名高い水煙の飛天は、西僧坊に展示され間近に見学できる。

 薬師寺の塔の特徴である二重と三重の裳階は、柱下の腰組でその重量を支えている。腰組への負担を軽減するために裳階の四隅に金属板をあてがい、それらを金属棒で柱につなぐという補強がされた。

 初重内部の天井と初重裳階の垂木の裏板には彩色があり宝相華文が描かれる。その剥落止めが行われるとともに、復元された極彩色の文様の天井板が、当初材の失われた箇所にはめこまれた。

 木材の部材の総数は1万3千点、新材に取り替えられたのは1千5百点、まったく補修の必要がなかったのは9千点であった。

 丸瓦は約8千枚のうち約5千枚、平瓦は約1万7千のうち約1万枚が新品に替えられた。

 西塔の裳階は鮮やかな緑と朱の連子窓になっている。東塔は漆喰である。今回の調査では、初重の中央は扉、両脇は窓、端は壁であり、二重と三重は中央扉、両脇は窓のあったことが判明した。しかし窓の形式や寸法は不明だという。

 このレポートは、『よみがえる白鳳の美-国宝薬師寺東塔解体大修理全記録』(朝日新聞出版2021年)を参考にした。

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笛を吹く水煙の飛天

参考
『よみがえる白鳳の美-国宝薬師寺東塔解体大修理全記録』(朝日新聞出版)
薬師寺第127号』(薬師寺
大橋一章著『薬師寺 日本の古寺美術4』(保育社