132 興福寺東金堂院の北面回廊


興福寺東金堂院の北面回廊発掘調査地、右奥の塔は五重塔。(現説資料より)

 興福寺は『興福寺境内整備構想』(1998年)に基づき、寺観の復元・整備を進める。これにともない、奈良文化財研究所は、中金堂院や南大門跡などの発掘調査を継続して行っており、ここ2年は東金堂院の発掘調査に取り組んでいる。「奈良歴史漫歩」でも興福寺発掘調査の現地説明会は随時レポートしてきた。2001年7月に「歴史漫歩」がスタートしたその回が「7度再建された興福寺中金堂」であった。2018年10月には9代目の中金堂が再建された。境内整備は世代を超えて続くだろう。20数年は寺の長い歴史からすれば、ほんの短期間であるが、この間、横目で再建事業と調査を眺めてきた私には一種の感慨を覚える歳月である。

 10月15日、「興福寺東金堂院北面回廊の発掘調査」の現地説明会が開かれた。そこで明らかになった事実は、東金堂院の構造に新たな知見を加え、その性格の再考を促すものだった。これらに関して報告したい。

 興福寺の東金堂と五重塔は、寺の残存する数少ない歴史的建造物の中でももっとも偉観を誇る堂塔である。東金堂は726年(神亀3)、聖武天皇が伯母にあたる元正太上天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する堂として創建された。五重塔の創建は天平2年(730年)で、光明皇后の発願によるものである。現在の建物は、東金堂が1415年(応永22)、五重塔が1426年(応永33)に再建された。創建以来、5度の焼失を繰り返し、いずれも6代目の建物である。五重塔は令和4年度から始まる120年ぶりの解体修理を目前にして塔初層の内部公開が行われている。

 東金堂と五重塔は、かつて回廊で囲まれていた。2年前(2000年)の調査では、五重塔の西側正面に塔と中軸を揃えた切妻造の八脚門跡が検出された。桁行3間(中央間11尺、両脇間9尺、全長約8.6m)、梁行2間(等間8尺、全長約4.7m)の門で、基壇は南北約10.6m、東西約7.7mと推定される。門に取りつく回廊とみられる基壇と雨落溝も出土した。埋め土に炭を含んでいたので、焼失と再建が推測された。

 昨年は東金堂の西側正面が調査され、堂と中軸の揃う門と西側回廊が明らかになった。門は切妻造八脚門とみられ、五重塔の正面にあった門と基壇の規模とほぼ一致する。門の桁行3間(等間)、全長30尺(約8.8m)、桁行2間(等間)、全長16尺(約4.7m)。基壇は南北36.5尺(約10.8m)、東西27尺(約8m)。回廊は梁行1間(12尺、約3.5m)の単廊であり、基壇は東西21尺(約6.2m)を測った。下層遺構と上層遺構が出土し、上層遺構は平安時代末から鎌倉時代初頭以降の再建に伴うものと考えられる。

 西側に開く二つの門と西面回廊は調査によって明らかにされた。東金堂の北側にも過去の調査から単廊のあったことが判明している。今回の調査は北面回廊の構造と東側への延長を明らかにするために実施された。調査区は、東金堂の北東約43mの位置に南北15m、東西28mのうち樹木等を避けて設定された。

 予想された通り桁行7間分の北面回廊が検出された。12か所で礎石やその据え付け穴・抜け取り穴が見つかった。梁行は12尺(約3.5m)、桁行が11.5尺(約3.4m)となる。礎石は直径ないし一辺が0.5~0.8mの大きさで、厚みは0.3~0.5mあり、安山岩花崗岩が使用されていた。柱座はなかったが、被熱痕跡から直径約0.36mの円柱であったことが推測された。創建時の位置を保ちながら再建時に据え付けなおされた可能性がある。

 基壇の規模は、幅が21尺(約6.3m)である。基壇外装として長辺0.3mほどの石を3段積む乱石基壇が出土する。雨落溝には焼け土が堆積していた。東金堂院内庭部の雨水を排出する暗渠が基壇を横断する。

 東金堂院の規模は南北約110mあり、東西は今回の調査で100m以上になることが判明した。南と東には築地塀があったとされる。回廊は創建時からあったことは確かであるが、いつ廃絶したのだろう。平安時代末から鎌倉時代初頭に再建された回廊は室町時代の応永18年(1411年)に東金堂や五重塔とともに焼失し、それ以後は再建されなかったと考えられる。近世の興福寺の絵図には回廊は描かれない。回廊を削平した参道が出土したが、これは近世の絵図にある春日大社参道から食堂・細殿に伸びる回廊に該当するとみられる。

 調査地区は小高い大きな築山状の裾である。築山には大木が茂るが、これは回廊廃絶後に築かれたのだろうか。ここで遊ぶような人を描いた江戸時代の絵図もあるという。回廊基壇の高さが北辺が0.5m、南辺が0.1mであり、元の地形が北から南へ高くなって傾斜していたといえるが、基壇のある面は現在の地表からかなり掘り下げているので(何センチになるかは確認していない)廃絶以後築かれた築山と思える。なぜ築かれたのか?土はどこから運んだのか?気になるところだ。

 『興福寺流記』は天平期、延暦期、弘仁期の記録をまとめているが、東金堂と五重塔と並んで檜皮葺雙(ならび)堂、副殿、檜皮葺掃守(かもり)殿のあったことがわかる。これらの堂には、丈六の阿弥陀仏地蔵菩薩、薬師檀像、不空検索檀像など多数の仏像が安置されていたようだ。回廊のあったこと、西側に門がふたつ、北側にひとつあることも記される。

 興福寺は多くの子院を抱え、僧侶や下働きする者が合わせて一説には3千人いたという。これら大衆は子院や堂の所在地域ごとにまとまって六方衆と呼ばれたが、さらに東金堂衆と西金堂衆が加わり八方衆となった。彼らはことあるごとに僧兵となって寺の要求を押し通し、また内紛を繰り返した。

 平重衡の南都焼き打ちのあと再建された東金堂の本尊とするために、興福寺僧兵は飛鳥・山田寺を襲って火をつけ、薬師如来坐像を強奪した。文治3年(1187年)のできごとで、その仏像が国宝館に安置された仏頭である。東金堂衆の乱暴狼藉が目に浮かぶ。

 東金堂衆は東金堂院に住んでいたのか。発掘現場で説明にあたっていた奈文研の担当者によれば、それはよくわからないということだ。東金堂院の南を画する寺の築地塀沿いに建物があったらしく、そこに住んだかもしれないという話をされた。江戸時代になると東金堂衆は修験者になったので、寺に住まなくなったともいう。

 なお興福寺の中金堂院も回廊が四周しているが、通路が二つある複廊である。東大寺東塔院は、発掘調査により南に複廊があり、東西と北に単廊のあることがわかっている。


北面回廊発掘平面図。(現説資料より)

参考
奈文研現地説明会資料
奈文研プレスリリース 2022年度「興福寺東金堂院北面回廊の発掘調査(平城第 649 次調査)」 2021年度「興福寺東金堂院の門と回廊の発掘調査(平城第640次調査) 2020年度「興福寺鐘楼・東金堂院の発掘調査(平城第625次調査)
興福寺流記」(『奈良六大寺大観 興福寺』岩波伊書店)