127 薬師寺東塔の解体修理

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 2009年7月から本格的な解体修理を行ってきた薬師寺東塔は修理を終え、今年の3月からその一新した華麗な姿をふたたび参観者の前に現した。コロナ禍のため正式な落慶法要は延期されているが、初層内部を基壇から拝観でき、また地上に降ろされた創建期の水煙なども間近に見学できる。

 「一新した」と書いたが、一見したところ、東塔は修理前の姿となんら変わっていないように見える。しかし注意深く観察すれば、変化に気づく。土に埋まって70cmの高さだった基壇がかさ上げされて130cmとなった。壇正積みだった基壇外装は創建期の切石積みにもどされ、これらの改修により他の堂塔と揃うことになった。前は西階段しかなかったが、西塔と同じように東西南北に階段が設けられた。

 復興した白鳳伽藍のなかで東塔は異質感が際立っていたが、今はなんとなく前よりも伽藍全体が落ちついた印象を与えるのは、このような改修のせいだろうか。かさ上げのせいで、東西両塔の高低のアンバランスが緩和され、東塔が威厳を取り戻したようにも感じる。

 天平2年(730)に建立されたという東塔は、1300年の風雪に奇跡的に耐えぬき現在に及ぶが、この間数々の災害に遭い修理を繰り返してきた。しかし満身創痍とも言える状態にあり、抜本的な修理が急務とされた。解体修理は塔を構成する部材のすべてを解体して、修復不能な部材は新調しふたたび組み立てる。東塔が建って以来の大修理であり、修理と平行してあらゆる方面からの調査も実施された。修理と調査の両面からこの平成の大事業をレポートしたい。

     元の基壇を保存して新基壇で覆う

 解体の最終段階である基壇の発掘調査から見ていく。心柱を取り除いた基壇は一辺が14.6~14.7m、明治の修理で壇正積みの外装にされていた。それを除くと内側に近世の基壇外装の跡が現れた。西側は切石積み、東側と南側は乱石積みである。さらにその内側に創建期の凝灰岩の地覆石が東西南北の四辺に残り、北西角には羽目石だけがあったことから一辺13.3~13.4m、高さ1.3mの切石積みの外装と判明した。その周囲に犬走りと雨落溝がめぐっていた。修理のたびに基壇は外側に拡張されたため、変遷の跡が残された。

 心礎や四天柱と側柱の礎石は創建期に据え付けられたままの位置を保ち、裳階柱の礎石は明治の修理で据え付け直されていた。西塔の心礎には舎利孔が穿たれていたが、東塔の心礎に舎利孔は存在しないと予想されていた。予想どおり舎利孔はなかった。

 基壇は版築で一層あたり2.5~6cmの厚さに突き固められて約30層あった。その下に掘り込み地業が行われていた。基壇より広い一辺15.7mの方形の範囲を40~70cm掘り下げて、粘土と灰白色の砂を入れ地質を改良した。

 版築の基壇と掘り込み地業で足もとを固めたものの、不均等に沈む不同沈下は避けられなかった。西側が東側よりも13~20cm低くなったのである。創建期の建物工事が始まる前から沈下したらしく、柱を切り詰めて水平になるような加工がされていた。

 東塔の周辺は地下水が流れて地盤が軟弱らしい。かつては大雨があれば周辺は水浸しになり、調査中も湧き水が絶えなかった。

 心礎近くの掘り込み地業の底から和同開珎4個が出土した。他のふたつの礎石の据え付け穴からもそれぞれ和同開珎が1個ずつ見つかっている。地鎮供養と見られる。

 塔を修理組み立てるにあたって元の基壇遺構はそのまま保存され、その上に新たな基壇と模造礎石が築かれることになった。新基壇は鉄筋の空箱を伏せたような形で元の基壇を覆い、24本の鋼管の杭(直径40~60cm、長さ12~13m)によって支えられる。これにより95cmかさ上げされた。柱は模造礎石の上に据えられたが、心柱は新基壇を抜けて元の心礎に据え付けられた。

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東塔基壇、東から

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創建期の基壇外装,北西角。羽目石の一部、地覆石、犬走りが見える

     心柱の空洞を埋木する

 檜材の心柱(最大直径約90cm)は根元から初重天井に達する大きな空洞ができていた。空洞はずいぶん前からできていたようで、正保2年(1645)の修理では根元を長さ1.06m切断し、代わりに根継ぎ石を補い心礎に据えていた。東塔の初重には釈迦の一生を表した釈迦八相の前半の四場面が、法隆寺の塔本塑像のように安置されていたが、この時の修理のために塑像は撤去され、その後に根継ぎ石を隠すために須弥壇が築かれた。

 空洞を埋めるため新しい檜を高さ50cmごとに段をつけ、上から下へ直径が大きくなる円筒を重ねるような5段にして埋木した。さらに基壇のかさ上げの高さを継ぎ足した。

 心柱は3重目で上方に杉材(最大直径53cm)を継いであった。康安元年(1361)に大地震があり塔が傾いたという記録があり、この後の修理で継がれたらしい。放射性炭素年代測定法では、杉材は1339~66年の測定値が出ていて、この推測を裏づける。下方の檜材は年輪年代法で719年の下限が示され、730年の創建と矛盾しない。二つの材は仕口ではなく添え木をあて明治の修理のボルトとナットで留めてあった。新たなボルトとナットと和釘を使用して継ぎ目を補強した。

 心柱の頂部を切り欠いて舎利容器が安置されていた。元来東塔には舎利が納められていなかったが、享禄元年(1528)に舎利を安置した西塔が兵火にあい焼失したため、明治の修理の際に玄奘ゆかりという舎利を江戸時代の舎利容器に納めて心柱に埋めたと見られる。今回の修理では舎利容器が新調された。

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正保の修理で心柱の根元を切り取り据えられた根継ぎ石

     相輪の宝珠、龍車、水煙などを新調

 相輪は高さ約10mあり、各部材は創建期に製作したものである。数多く修理された跡はあるが、1300年間、風雨にさらされて残ったのは驚きである。しかし劣化は進んでいたため多くの部材が新調された。上から順番に挙げると、宝珠、龍車、水煙、これらが据えられていた擦管、一番上の九輪、一番下の擦名が刻まれた擦管である。また二つの擦管が修理された。

 相輪の材質は最新の機械と方法で調べられて、復元には当時と同じ材料を用意した。型はレーザーによる3D計測をもとに作られた。製作にあたったのは、富山県の伝統工芸高岡銅器振興協同組合である。古色仕上げのため、前と変わらぬ相輪の姿である。歌にも詠まれた名高い水煙の飛天は、西僧坊に展示され間近に見学できる。

 薬師寺の塔の特徴である二重と三重の裳階は、柱下の腰組でその重量を支えている。腰組への負担を軽減するために裳階の四隅に金属板をあてがい、それらを金属棒で柱につなぐという補強がされた。

 初重内部の天井と初重裳階の垂木の裏板には彩色があり宝相華文が描かれる。その剥落止めが行われるとともに、復元された極彩色の文様の天井板が、当初材の失われた箇所にはめこまれた。

 木材の部材の総数は1万3千点、新材に取り替えられたのは1千5百点、まったく補修の必要がなかったのは9千点であった。

 丸瓦は約8千枚のうち約5千枚、平瓦は約1万7千のうち約1万枚が新品に替えられた。

 西塔の裳階は鮮やかな緑と朱の連子窓になっている。東塔は漆喰である。今回の調査では、初重の中央は扉、両脇は窓、端は壁であり、二重と三重は中央扉、両脇は窓のあったことが判明した。しかし窓の形式や寸法は不明だという。

 このレポートは、『よみがえる白鳳の美-国宝薬師寺東塔解体大修理全記録』(朝日新聞出版2021年)を参考にした。

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笛を吹く水煙の飛天

参考
『よみがえる白鳳の美-国宝薬師寺東塔解体大修理全記録』(朝日新聞出版)
薬師寺第127号』(薬師寺
大橋一章著『薬師寺 日本の古寺美術4』(保育社