119 歴史のなかで揺らぐ天皇陵

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初代神武天皇畝傍山東北陵(奈良県橿原市大久保町)
 

 高木博志・山田邦和編『歴史のなかの天皇陵』(思文閣出版 2010年)は古代から現代までの天皇陵の実態や制度について複数の研究者による報告と討議をおさめる。本書を読むと、時代によって変遷してきた天皇陵の様々を教えられる。

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 天皇陵というと巨大古墳を思い浮かべる。満々と水をたたえたお堀に常緑樹でおおわれた墳墓が影をおとす。瑞垣で囲まれ玉砂利を敷いた拝所は、松や生け垣を刈りそろえ鳥居が立つ。侵しがたい静寂と威厳があたりをつつんでいる。こんな風景が浮かぶが、天皇陵のこのようなおごそかなイメージは近代になって作られたものだという。

 天皇陵が制度化された時期は、2回ある。ひとつは明治期、もうひとつは7世紀末から8世紀にかけてである。天皇という呼称が使われる年代については複数の説があり確定できないが、律令国家として本格的なスタートを切った7世紀末には使用されていたことは間違いない。それより古い大王(おおきみ)の葬られた巨大前方後円墳は、7世紀には築造されなくなっていた。これらの古墳では代替わりの時の「首長霊祭祀」が行われても、以後まつられた形跡はないという。律令国家は天皇を頂点とする体制の国土統治を正統化するために「記紀神話」を創作し、天照大神を始祖とする皇統譜を編む。伊勢神宮祭祀、『日本書紀』の編纂と並んで、歴代天皇陵の指定と管理は、政治的な目的があった。

 持統天皇5年(691)には、天皇陵を管理する陵戸を置く命令が出ている。この頃から天皇陵の治定が始まり、30年~40年かけて治定を完了させたのではないかという。何百年もさかのぼる古墳は祭祀も絶え明確な記録もないなかで、治定は容易ではなかったと想像できる。天皇陵と皇族陵の管理にあたったのは諸陵寮である。毎年十二月に、諸国の貢ぎ物である調の初物を諸陵へ奉る「荷前使(のさきのつかい)」が派遣された。921年に編纂し終えた『延喜式』の天皇陵のリストは、ここで原型が作られたのである。

 7世紀半ばには「薄葬令」も出て巨大古墳は作られなくなっていた。持統天皇天皇として初めて火葬され、天武天皇陵に合葬される。火葬は文武天皇元明天皇元正天皇とつづく。元明天皇は「火葬した場所を墓として土を盛ることなく植樹し刻字の碑を立てよ」と遺言して、墳丘を否定した。薄葬は唐の影響で天子の徳を表したらしい。

 薄葬は平安時代の初期に究極な形に行きつく。嵯峨天皇は山中に埋葬して隠密にし供養はするなと遺言する。驚いたことに淳和天皇は山中に散骨された。このため『延喜式』には二人の陵は存在しない。

 仏教が平安時代以後、陵墓のあり方に強い影響を及ぼしていく。仁明天皇陵には嘉祥寺が建ち、寺が陵の管理や供養を行う形態が生まれる。さらに堂塔を建立し床下に天皇の骨壺をおさめる「堂塔式陵墓」が出現、後一条天皇白河天皇鳥羽天皇近衛天皇らのケースである。宮中においても神仏習合は深く浸透したのである。明治に治定された古代の天皇陵で本人であることが確かなのはわずかしかないが、平安時代から室町時代天皇陵もそれは変わらず、治定に信憑性があるのは、寺院で管理されてきたものだという。

 江戸時代になると、泉涌寺(せんにゅうじ)の一画が天皇家の墓地となり、天皇毎に石塔が立ち葬られる。宮中には「御黒戸(おくろど)」と呼ばれる位牌所があり、天智天皇を初代として光仁桓武とつづく歴代天皇の位牌がまつられる。古墳の管理は朝廷や幕府を離れ、村の入会地になったり灌漑に利用されたりする。祠が作られ、安産や豊作の神様として信仰を集めたりする。

 元禄期や享保期に天皇陵の調査が行われているが、幕末の文久年間(1862~65)の調査は修陵を伴うものであった。これは当時の政情を受けて幕府が公武一体や諸大名の結集をねらって行った。注目されるのは、このとき仏式を廃して神道式が採用されたことである。所在不明であった神武天皇陵が治定され、田んぼの中の二つの塚が柵で囲まれ鳥居が立つ。これ以後、整備を重ねて現在見るような広大な陵に変貌していく。

 文久の治定・修陵は明治に引き継がれる。藩閥政府は「万世一系天皇」というイデオロギーを国民統合のための思想的な要とする。このため様々な施策や制度を設けたが、切れ目ない天皇陵の存在は「万世一系」を視覚化する上で大きな役割を期待された。また、欧米に対して日本の古い歴史をアピールする意図もあったらしい。

 神仏分離は宮中においても徹底され位牌は排除、先皇への祭祀は皇霊殿で行われるようになる。天皇陵は聖なる場所とされ、それにふさわしく整備されて一般の立ち入りは厳しく制限される。神社に参拝するように、鳥居越しに礼拝するという形で天皇陵に接する習わしが形成されたといえる。

 慶応2年(1867)に崩御した孝明天皇は、それまでの石塔ではなく円墳を築造し土葬された。明治天皇大正天皇昭和天皇は下方上円墳に土葬されている。古代にあった墳丘が復活したのである。

 敗戦後、神聖天皇制は象徴天皇制に変わった。しかし、天皇陵の扱いは戦前と基本的に変わらぬままで来ているだろう。時代によって天皇陵のあり方は大きく変わり、それらの捉え方も揺らいでいる。天皇陵という問題は、歴史のなかの天皇を考える上で豊富な材料を提供してくれそうだ。

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文久修陵前の神武天皇畝傍山東北陵荒蕪図(『御陵画帖』)、神武陵
の所在地については現在も論争がある

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現在の神武天皇畝傍山東北陵

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第76代近衞天皇安楽寿院南陵 (京都市伏見区竹田浄菩提院町)、塔の
下に天皇の骨壺をおさめた「堂塔式陵墓」

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月輪陵(京都市東山区 泉涌寺内)、第108代後水尾天皇から第118代
桃園天皇の11代の天皇の石造九重塔がある

参考
高木博志・山田邦和編『歴史のなかの天皇陵』(思文閣出版 2010年)