137 奈良県の誕生


奈良県庁舎 明治28年(1895)~昭和40年(1965)

 明治維新を迎えた大和は、旧幕府の天領、約50ほどの旧旗本領、寺社の朱印地、10の藩の領地、国外の5つの藩の領地と多くの領主が入り乱れた状態だった。明治2年(1969)の版籍奉還明治4年(1971)の廃藩置県を経て大和には15の県が生まれた。この年にこれらはまとまり大和一国を管轄する奈良県が誕生した。戸数95,800戸、人口418,300人。初代県令は公家出身の四条隆平で、強引ともいえるほどの開化政策を実行したことで知られる。だが、5年後の明治9年(1976)に奈良県は堺県に合併され、さらに明治14年(1981)、堺県は大阪府に吸収合併された。奈良県がふたたび姿を現すのは明治20年(1987)を待たねばならなかった。日本が近代国家に生まれ変わろうとする最初期、地方行政は試行錯誤をともなうドラスチックな変化を体験したが、大和=奈良もその激浪にもまれたのである。そのなかに奈良県再設置を求めて必死に運動した人たちがいた。その苦難の軌跡をたどってみたい。

     堺県に併合された奈良県

 廃藩置県で置かれた県は全国で3府302県にのぼった。政府はこれを整理し、北海道開拓使と3府(東京、京都、大阪)72県にまとめたが、このとき大和一国が奈良県になった。県の財政力を強化するためにさらに大幅な統廃合が進められ、北海道開拓使と3府はそのままに、72県が35県にまで半減されたとき、奈良県は堺県に併合され消滅した。堺県は河内と和泉と大和の三国を統括し、この時の堺県令はもと元薩摩藩士の税所篤である。

 県庁は堺の地にあったが、県の西に偏り過ぎていたため、河内国古市郡誉田村(現羽曳野市)へ移転する計画が立てられた。しかし政府が認めなかったという。堺県の出張所が奈良に置かれたが、新しい願いや届け・民事訴訟などは堺の県庁まで出向かねばならなかった。

 奈良の町は寂れて廃業する宿屋が続出したという。このため奈良町の住人から県庁の再設置を望む声が上がったが、運動までにはいたらなかった。堺県時代はまだ地域間の利害対立が表面化することはなかった。

     大阪府の管轄となった大和

 明治14年(1981)2月に堺県は廃され大阪府と合併した。合併前の大阪府は狭小で東西約12キロ、南北約40キロ、人口約55万人、戸数約16万戸、地租約58万円であったが、合併により一挙に東西約107キロ、南北約138キロ、人口約149万人、戸数約36万戸、地租約208万円の大大阪府が誕生した。府費収入総額も約1.65倍に増加している。この合併は、財政難におちいった大阪府を救済するために管轄地域を広げて租税額を増やすことがねらいであった。

 明治11年(1878)に政府は「地方三新法」と呼ばれる郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則を定めた。郡区町村編成法は、これまでの地方の行政単位の大区・小区制を廃止して昔からの町村機能を復活したうえで府県と町村の間に郡を置き、その郡に行政をおこなわせるようにした法律である。市街地など特定の地域には別に区が置かれた。

府県会規則は、満20歳以上の男子で地租を5円以上納入している者に選挙権をあたえ、府会あるいは県会を開くことを認めたものである。ただし、府県会では議員による議案の提出は認められず、議決事項にも府知事や県令の許可が必要とされるなど、制限が加えられた。大阪府府会では、新大阪府が生まれたばかりの明治14年の予算審議をめぐって、大和選出の議員たちと他の地域の議員たちとの間で対立が生じ、数で劣る大和側の意見が抑えこまれた。これが奈良県再設置運動の引き金となる。

 地方税規則により、これまで国費負担となっていた警察費・河港道路堤防橋梁建築修繕費・郡区庁舎建築修繕費などが地方負担となり、地方税増税がはかられた。予算の執行をめぐって府会を舞台とする地域間対立がより激しく先鋭化していく契機となった。

     地方税の使途をむぐる大和と他地域との対立

 堺県の廃止、大阪府への合併は、もともとが大阪府の発展を重視した施策であったから、大和がその犠牲になることは予想された。明治14年の府会では、十津川にあった堺師範学校分校の平谷学校への地方税の支出が否決された。府会の議事堂新築の延期を主張した大和の議員たちの意見は「大和の独立を考えている」と批判されて退けられた。大阪府の行政は、摂津・河内・和泉の河川や港湾の改修に重点が置かれ、大和が期待した道路の新設・改修や産業の興隆、医療や学校の改善などはなおざりにされる傾向にあった。府会の議員構成を見ると、摂津30人、河内16人、和泉9人、大和17人であった。数において大和の不利は明らかで、奈良県再設置の必要性を一番に認識できたは、議員たちであった。

 この頃、国会開設を求める自由民権運動が全国で盛り上がりをみせた。それは自治意識、民権意識の高まりをともなった。強制的な府県の合併に不満を抱く地域は全国に多く、各地で分県を求める運動が起きていた。明治13年(1880)には徳島県明治14年福井県鳥取県の分県が認められている。後のことになるが明治16年(1883)に佐賀県、宮崎県、富山県明治21年(1888)に香川県が誕生した。この間に堺県が明治14年に消滅し、奈良県明治20年(1887)に分県する。沖縄県明治12年(1879)に誕生する。43県が最終的に定まったのは、明治21年ということになる。

     内務省への第一回再置県請願

 奈良県再設置運動が明確な形でスタートしたのは、明治14年12月25日、有志協議会が田原本の土橋亭で開かれたときからである。この集会では、大和国15郡を5つのブロックにわけ、それぞれから2人、合計10人の請願手続調査委員を選んだ。このうち9人が大和選出の大阪府会議員であった。調査委員が中心になり、賛同者・協力者を得るために大和各地への遊説活動が精力的に行われた。郡の区長は政府が任命した役人であるために、民間の運動を妨害することもあったが、これを跳ね返して盛り上がった。運動の側で問題になったのは、県庁の位置をめぐる思惑だった。中和の今井、八木、桜井と従来の奈良の主張が対立し、分裂の危機をはらんでいたという。

 明治15年(1882)11月3日、田原本の土橋亭に大和各地の代表者41人が集まり、「分置県請願ノ件」を相談した。請願委員3人と会計2人を選挙で選ぶこと。上京費用を見積もり、各群の主唱者が負担することなどが決められた。11月10日に総代会が土橋亭で開かれ、請願委員に恒岡直史・今村勤三・服部蓊、会計に堀内清三郎・奥野四郎平を選んだ。いずれも府会議員である。11月17日にも総代会が開かれ、請願書に押印し、各総代から請願委員に送る委任状を調整することが決まった。総代になった人は、当時の町村長である戸長が多かった。庄屋や村役人の系譜をひく有力地主層である。

 請願書を携えた委員が大和を出発したのは11月20日であった。恒岡直史は府会議長であり長期間留守にできないため、議員の中村雅真が交代した。まだ東海道線が開通していない時代である。神戸港を出港して横浜港に上陸した。29日に内務省に出頭し、山田顕義内務卿あてに「大和国置県請願書」を提出した。これには、各郡を代表する人民総代33人の連署があり、合計981町村、大和の全町村の62パーセントに及ぶ。「大和国置県請願理由書」「大和国一覧表」が別冊としてつけられた。

 請願書は次のような内容である。

 維新以来大和国では各方面にわたって整備をすすめようと意気ごんできたのに、不幸にも奈良県は廃された。その後は、堺県庁あるいは大阪府庁から遠く離れているので、いろいろな指導や利益を受けることが少なくなり、そのため産業や教育・医療などはふるわなくなっている。ことに大阪府管内に入ったことは、大和にとってもっとも不利なことだ。………大和と摂・河・泉では風土・人情が相違するので、まるで―氷炭器ヲ一ニスルノ状勢ヲ免レズ―といったありさまである。経済のうえでは、大和の山間部では道路の整備が必要だし、盆地部では水不足に悩み、そのための水路を開くことが重要なのに、このことに関心を持たない大阪府にどうして籍を置かなければならないのか。ことにさきの府県統廃合の策はもっぱら経費節減が主眼で、地方の事情を考慮していない。………」

 請願委員は何度も内務省の高官たちに面会し訴えたが、色よい返事はもらえなかった。回答は大阪府に出された。「分置県之儀ニ付、当省ヘ願出候処、右者難詮議ニ及候条、其旨申諭、書面却下可致、此旨相達候事  内務卿 山田顕義」というものだった。しかし、「時期が来れば検討する」という趣旨の感触を得ていた委員たちは、希望をつないだ。

     太政官への第二回再置県請願

 内務省への請願は却下されたが、太政官への請願の途が残されていた。明治16年(1883)が明け新たな請願に向けて賛同者の署名運動が開始された。この年の5月9日に富山・佐賀・宮崎の3県の再設置が認められたことで、運動に拍車がかかった。賛同の署名を得られたのは868町村の21,718名、戸数比で22パーセントの人が応じたことになる。

 7月下旬に今村勤三と片山太次郎が上京し、8月15日に太政官に出頭、三条実美太政大院あてに「大和一国ヲ大阪府の管下らヨリ分テ別ニ一県ヲ立ルヲ請ふ願書」を提出した。その足で山形有朋参議邸を訪ねたが、不在だった。これからほぼ毎日、参義や政府高官への陳情が1カ月つづく。彼らへ助言した税所篤はこのとき元老院義官であったが、「薩摩出身の参議は奈良県の分県はだいたい賛成している。長州の山形有朋と山田顕義に賛成してもらうことが、目的を果たす早道である」とアドバイスしていた。そのこともあって、山形と山田への訪問は頻繁に繰り返され、朝夕一日に2回尋ねることもあったが、不在や病気などの理由で面会を断られた。

 片山太次郎は中途で急に帰国した。奈良県再設置運動は、法隆寺村出身で大審院判事であった北畠治房の支援が終始あった。前年の請願書を完成させるにあたっても彼は力をかしている。今回の上京でも彼が宿を手配し、何かと助言した。片山はこのことを危惧したようだ。北畠は、このとき明治14年の政変によって追放された大隈重信に従って判事を辞職、在野の立場にあり、大隈が結成した立憲改進党の有力メンバーであった。大隈追放を画策したのは、政府の一番の実力者・伊藤博文であり、大隈につながる北畠の支援を受けた運動は、長州閥の参議の好印象を得られない、片山はこう考えたようだ。彼はこのことを訴えるために帰国し集会を開いている。今村勤三は、この危惧に反論し「甲乙異なる主義者の中間に立ちて、我が国の大事(奈良県の再設置)をなさんとすれば、両者の云うところをすべて受け入れるのではなく、斟酌折衷して宜しきをとるにあり」と書簡にしたためている。今村は、税所等をはじめ大和出身の政府高官に積極的に面会し助言を得るとともに、北畠の助力も必要であった。

 山形有朋には7回目にしてようやく面会を許された。このとき「大和国の請願は何党とか何派とかの扇動によるものではなく、大和の人民の心からの請願でございます」と力説している。やはり今村も、この請願が立憲改進党の扇動と疑われているという思いがあって、このような発言になったのだろう。山田顕義には10回尋ねているが、面会はかなわなかった。9月10日、太政官から口頭で通達があり請願は却下された。しかし建白としてなら元老院に差し出すことができると示された。

     元老院への再置県建白

 請願は「行政上の処分」を求めて各レベルの官庁に訴えることで、最終的には太政官が取り扱う。建白は「国のため意見を」述べるもので、内容は「立法に関する」ことに限り、元老院が処理する。

 今村は国元に知らせて、建白書を出すかどうか問い合わせた。新たに各郡町村の有志67人が連署した建白書が用意され、佐野常民元老院議長あてに提出されたのは、10月16日であった。今村は3か月間の東京滞在をへて10月末に帰県した。

 年が明け、明治17年(1884)となったが、元老院から音沙汰はなかった。有志は集会を持ち、再度、建白書を元老院に提出することを決めた。5月13日、再建白書は50人の連署をつけて元老院に郵送で提出された。しかし、これも実ることはなかった。

 数年にわたる運動は多額の費用を要し、有志が負担したので、それに耐えられず離れていく者が続出した。またこの頃、松方正義大蔵卿が進めた緊縮財政は、「松方デフレ」と呼ばれる不況を引き起こし、大和の農村でも没落する農家が多く出て沈滞ムードがただよい、運動は低迷した。

 明治18年(1885)7月1日、近畿地方は台風による風水害に見舞われた。このときの復旧費が摂・河・泉に集中して大和は置き去りにされたため、下火になっていた運動が再燃した。だが、盛り上がりに欠いて、同志の集まりは悪かった。翌年6月に請願書(建白書?)が提出されたが、政府の反応はなかった。

     松方正義大蔵大臣の「おみやげ」

 明治20年(1887)、全国的に地価修正がなされ、大阪府下でも摂・河・泉は100円につき5円の割合で減額されたが、大和は除かれた。運動を担ってきた地主層にとって、これは切実な問題であった。奈良県再設置運動にからませて地租軽減を政府に要求することになった。9月末に恒岡直史・中山平八郎・堀内忠司・片山太治郎・磯田清平の5人の府会議員が上京したが、これまでの請願・建白よりも多人数であることに、意気込みがうかがえる。

 帝国議会開設を目前にして、政府は集会や陳情を厳しく規制していた。伝手を頼って10月15日、松方正義大蔵大臣に面会し、地価修正を訴えた。大臣の発言の誤りを指摘したところ、「余はいやしくも、大蔵大臣であるぞ」と激怒して煙草入れを投げつけたという。平山平八郎が謝罪して、「もし地価修正・地租軽減が認められないならば、生きて大和には帰れません」とひたすら懇願した。大臣は「地価修正・地租軽減を大和にも適用することはいまさらできない。ただこのままでは君たちが大和にかえりにくいだろう。かわりになにかみやげを用意しよう」と答えた。翌日、一行は伊藤博文総理大臣のもとに出頭した。そこには山形有朋内務大臣も同席していて、一同は両大臣から奈良県再設置の内諾を得た。元老院会議の採決を経て、11月4日、勅令第五十九号を公布、奈良県の設置が正式に決まった。内務省は、奈良県再設置の議案の中でその必要性を次のように説明している。

○大和の地勢や人情は、摂津・河内・和泉と違い、当然経済面でも異なる。
○摂・河・泉の議員は治水のことに、大和の議員は道路のことに執着する。
○大和の税金は地元に還元されにくい。
大阪府会における大和の議員は少ないから、議場ではいつも不利である。
○近ごろ大阪府の地租は減額となったが、大和には適用されず、それは地方税にはね返ってくる。
○もともと、大阪府は広すぎるので、大和を独立させてもおかしくはない。
○大和は災害も少ないから、将来あまり費用がかからないだろう。

     奈良県再誕の初代知事・税所篤

 6年間の苦難にみちた運動の末にやっと果たされた宿願。県民の喜びは大きかっただろう。だが、地元では不満もあった。地価修正・地価減額が認められなかったからである。「全く委員が越権の沙汰とや云はん、我々は他に属する望の達しなば奈良県新置になると否は敢て問う所にあらず」。当時の新聞に載った一県民の声である。

 12月1日、初代知事・税所篤を迎えて奈良県開庁式が奈良公園内の旧寧楽書院で挙行された。税所は堺県時代の県令で大和へ配慮し、再設置運動も支援したから、大和の人々が希望して知事に就いた。

     県会初代議長・今村勤三

 12月に初の県会選挙が実施され、35人が当選した。翌年1月に東大寺大仏殿西回廊を臨時会議場として県会が開かれた。議長に今村勤三が選ばれている。実はこの時期、今村は四国に住居があった。運動のための借金が重なり、明治18年(1885)の末に「都落ち」し、愛媛県庁に出仕したのである。北畠治房の手引きがあったようだ。ここで彼は道路新設や鉄道事業に関わり、明治22年(1889)に帰県している。明治23年の第一回衆議院選挙では、立憲改進党から立候補し当選、しかし25年(1892)の第二回選挙では官憲の干渉を受け落選した。そのあと実業界に転じ、四国での経験を活かし、奈良鉄道、初瀬鉄道の社長として鉄道を開通させる。郡山紡績の社長、奈良貯蓄銀行の取締役も務めた。生家は東安堵町の庄屋であったが、現在安堵町歴史民俗資料館として保存・活用されている。

     1度は検討されていた奈良再置県

 山県参議と山田参議に面会を求めては袖にされていた今村は、大和出身の有力者がいないことを書簡で嘆いた。政府高官には大和出身の者もいて、今村は彼らの助力を得ていたが、政府の決定に影響を及ぼせるような実力者はいなかった。江戸時代の大和は多くの領地に分割され、薩長に早くから組する藩もなかった。新政府にとって大和の存在感は薄かった。「廰堂の人は畿内に大和の如き未開の国あるを知られず」とは税所の言葉である。大阪府知事の建野郷三は、大阪府の財政難を解決するため府県の再編成を建議して、「大和を二分し南一半を和歌山県に北一半を京都府に附せられ」と構想している。京都府はこれまでの都、大阪府は重要な物流の拠点であり商業都市、和歌山は御三家の紀州藩と重要視されていたことは間違いない。それが一層、大和が軽く見られる原因となったのだろう。

 実は明治16年内務省では明治9年の行き過ぎた県の統廃合を反省して、分県・再置県が検討され、その中には奈良の再置県もあった。最終的に富山・宮崎・佐賀に絞り込まれ、その年に実現した。今村が山田内務卿のもとに日参しても会えなかったのは、奈良の再置県が省内ですでに退けられていたからと思える。明治20年、松方大蔵大臣が地価修正に応じなかったのは、それが全国に波及することを恐れてだろう。しかし、大和の議員たちの必死の懇願に心動かされるものがあったのか。一度は否定された再置県を認めることで、なだめようとした。伊藤も山県もそれを受け入れたのは、松方の当時の政府内での影響力の大きさを語っている。もっともそれを可能にしたのは、6年間の奈良県再置運動の蓄積であった。

〇参考
『青山四方にめぐれる国―奈良県誕生物語』奈良県1987
『明治国家と地域社会』大島美津子 岩波書店1994
「明治政府の府県管地政策と人民の対応―大阪府管下大和国における分置県請願運動を中心に―」山上豊(『近代史研究』18)1977
奈良県再設置運動研究序説」谷山正道(『民衆運動からみる幕末維新』清文堂2017)
「明治前期大和国分県運動の展開とその特質」津熊友輔(『ヒストリア』267号)2018
『知の系譜―今村三代 文吾・勤三・荒男―』安堵町教育委員会2019
奈良県再設置運動関連文書」(『会報「いこま」』17)2022