131 春日若宮の誕生

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 春日若宮おん祭の祭神である若宮が現在地に鎮座されたのは保延元年(1135)とされ、おん祭はその翌年に始まっている。おん祭の創始の経緯は前回の「奈良歴史漫歩130」で書いた。新任の国司を無力化する戦いに勝利した興福寺が、勝利を祈願した若宮に感謝して始めた。平安後期から室町の中世の大和は、興福寺が政治の要となった時代である。若宮とおん祭は祭政一致の様相を見せる時代で終始重要な役割を果たした。若宮誕生前後の興福寺と春日社をめぐる歴史を探ってみたい。

     興福寺の春日社と大和の支配

 藤原氏の氏寺である興福寺と氏社の春日社が平安遷都以後、その地位を高めていくうえで重要な契機となった出来事がある。弘仁4年(813)、藤原北家の冬嗣が興福寺に南円堂を創建し、氏と寺の結びつきが強まる。嘉承年間(848~850)には春日祭が始まり勅使の奉幣を受けるようになったことは、春日社を官社待遇の社格に押し上げた。貞観年間(859~876)に春日社には直会殿、竃殿、弊殿、酒殿、内侍坊、車舎などが建ち、境内の社観を整える。これは春日祭の創始と関わっているだろう。

 延喜16年(916)、右大臣藤原忠平が春日社を参拝し、氏長者の春日詣が始まった。氏長者一世一代の盛儀である。永祚元年(989)に一条天皇が参拝し、これ以後春日行幸が恒例化する。春日詣や春日行幸があるたびに、社司の加階や興福寺別当の官位昇叙、神宝類の奉納、社領荘園の寄進がともなった。摂関家と皇室から寄せられる信仰と保護は春日社の権威を増大させる。大和は春日大明神の神国であるという思想が生まれる素地となった。

 興福寺もこれらの行事に関わったが、春日社の祭祀権者は藤原氏でありオブザーバー的な立場からである。興福寺が春日社の祭祀へ内的な関わりを持つようになったのは、天暦元年(949)に社頭で法華八講の法会が開始されてからである。寛仁2年(1018)には春秋二季制となる。僧侶が参列し読誦する直会殿は八講屋と呼ばれるようになる。この背景には本地垂迹思想がある。八百万の神々はいろいろな仏の化身としてこの世に現れたという考え方であり、武甕槌命不空羂索観音(もしくは釈迦如来)、経津主命薬師如来天児屋根命地蔵菩薩比売神は十一面観音が本地仏とされる。

 興福寺摂関家や皇室に働きかけて社頭法会を増やしていく。春日第四神の比売神天照大神であると説かれたことは皇室の助力を得るうえで役立った。康和2年(1100)に白河上皇一切経を施入、毎日不退一切経の法会が行われるようになる。法会のための料所が寄進されるが、これを管理することを通して興福寺は春日社への支配を強めていく。春日社外院には安居屋、談義屋、但馬屋、船戸屋、経蔵などの仏殿が建ちならぶ。さらに春日東西御塔の建立がある。永久4年(1116)に関白忠実、保延6年(1140)には鳥羽上皇がそれぞれ五重塔を奉建する。

 摂関家最盛期は、興福寺の寺領拡大の要求は抑えられていた。しかし11世紀後半に院政が始まり摂関家の勢いに陰りが見えるようになると、興福寺とのつながりを強化して大和を摂関家領国にすることを図る。承保元年(1074)、関白師実は子息覚信を一乗院に入寺させる。覚信はやがて一乗院門跡となり興福寺別当職を襲う。貴種入寺の始まりであり、これ以後、一乗院と少し遅れ大乗院は門跡寺院として興福寺の中核となる。摂関家と人的に結びつくことで興福寺は強大な権力を掌握し国衙領を侵食していく。大和の国司は任命されても機能しなくなる。

 寛治7年(1093)には興福寺大衆が春日社御神木を捧げて強訴した。これを始めとして御神木動座の強訴は繰り返されるが、興福寺による春日社との究極の一体化である。強訴には東大寺や大和の有力寺院の大衆も動員されて、興福寺の大和支配が進んだ。「大和は春日明神の神国であり興福寺が扶持する」という論理が行き渡る。12世紀は興福寺の勢いが頂点に達した時期であった。若宮御殿が創建され、おん祭が始まったのは、このような時代である。

     大和の国つ神=若宮

 若宮が出現したのは長保5年(1003)3月3日、春日第四殿の板敷に心太のようなものが落ちたという。しばらくあってその中から五寸ほどの蛇が現れ、北西の柱をのぼって四殿に入り、心太のようなものは消えた。40年後に託宣があり、第二殿と第三殿の間の獅子の間に奉安された。そして保延元年(1135)2月27日、若宮は現在地に遷宮鎮座される。

 およそすべての神仏の出現は超常現象にして神秘的な伝承を持つ。若宮もその例に漏れないが、その伝承にこもる若宮のイメージに注目したい。第四殿に奉祀されているのは比売神であり、天児屋根命の妻とされる。そこに出現したことで比売神を母とする御子神のイメージが生まれる。「心太のようなもの」は卵を包む泡を連想させ、蛇は水神の暗喩である。天から下ってきたのではなく大地から湧いてきた神であり、天つ神ではなく国つ神の誕生を思わせる。

 若宮は天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)とされるが、この祭神名が現れるのは江戸時代以後であり、吉田神道の影響がある。天児屋根命御子神であるというが、『記紀』には存在しない。室町時代までは五所王子(ごしょのみこ)と呼ばれていた。春日四神の次の五番目の神ということであり、四神と同格の祭神であった。四神の大宮同様に若宮は本社と扱われたが、明治以後に摂社となる。

 春日四神の祭祀権者は藤原氏であり、興福寺が春日社の支配をいくら強めてもこれは変わらない。「土地の神を祀る者がその土地を治める」という祭政一致の原則を満たすには、興福寺が祭祀に関われる春日社の神を必要とした。明示されなくても実質的な祭祀権者として興福寺は若宮に影響を及ぼした。それを端的に表したのがおん祭である。

 若宮社には多くの特徴がある。本殿は春日造りで四殿と同規模であるが、南面ではなく西を向く。寺社や宮殿が南面するのは中国の「天子南面」の思想からであるが、日本はそれまでは地形の形状に応じて建物の向きは決められたようだ。たとえば纏向遺跡の宮殿らしき建物群は東西を軸にする。大神神社の拝殿は御神体三輪山を拝する形に西を向く。建物ではないが春日大社が今ある古代の神地は御笠山を背にして西向きに表記される。春日大社の子社で西を向くのは采女神社や鳴雷神社がある。これを大東延和氏は水神を祀る神社であることが共通していると指摘する。水源が東の方向にあるからだろうか。水神でもある若宮の土地の記憶にもとづく縄張りだろうか。

 若宮には常駐の巫女がおかれ、一般の私的な祈願にこたえて神楽も奉納された。雨乞いやお田植え祭も巫女によって行われ、現在3月15日に実施されるお田植え祭に引きつがれる。若宮の神楽は宣教師のルイス・フロイスにも言及されるほど有名で、江戸時代には奈良町に「太々神楽講」が組織されたという。おん祭のお旅所祭には多くの神事芸能が奉納されるように芸能の神でもある。日本唯一の夫婦の大国様を祀ったという夫婦大国社を含む「若宮十五社めぐり」は現世利益を目的として庶民の信仰を集める。藤原氏氏神である権威に加えて若宮の存在は、春日明神と大和の民衆との距離をより近づけただろう。

 参考
奈良市史 通史二』奈良市
永島福太郎『奈良』吉川弘文館
大東延和『春日の神々への祈りの歴史』私家版
春日大社のすべて』奈良国立博物館
朝倉弘『奈良県史十一 大和武士名著出版