118 安康天皇陵は何時から行方不明になったのか

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宝来山古墳

     安康天皇陵は中世の山城跡

 第二十代安康天皇陵は菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ=奈良県奈良市宝来4丁目)と称され、現在地に治定(じじょう)されたのは明治になってからである。第二阪奈道路の宝来ICの脇に位置するが、ここは中世の山城である宝来山城のあった場所であり、古墳につながるような遺物は出土していない。

 菅原伏見西陵から南東へ約1km離れて第十一代垂仁天皇の菅原伏見東陵(すがはらのふしみのひがしのみささぎ=奈良県奈良市尼辻西町)がある。墳長227m、前方部幅118m、後円部直径123mの広い周濠を持つ大型前方後円墳で通称は宝来山古墳、古墳時代初期中葉(4世紀中頃)の築造と見られている。宝来山は中国の伝説である東海に浮かぶ理想郷、蓬莱のことであり、水を湛えた周濠に濃い緑の影を落とす古墳は、美しい蓬莱をイメージさせる。

 宝来山古墳はいくつもの陪冢を持ち、そのひとつである直径約40m、高さ約8mの円墳である兵庫山古墳は、元禄期に安康天皇陵とされたことがある。しかし、『宋書』にも登場する「倭の五王」の大王である安康天皇の陵としてふさわしいとは思えない。

 菅原には天皇陵にふさわしい大型の前方後円墳は、宝来山古墳しかない。現状では、安康天皇陵の存在そのものが宙に浮いた状態である。

 二人の天皇陵が治定された根拠は、『延喜式』諸陵寮の記述による。

 「菅原伏見東陵 纏向珠城宮御宇垂仁天皇 在大和国添下郡 兆域東西二町・南北二町、陵戸二烟、守戸三烟」
 「菅原伏見西陵 石上穴穂宮御宇安康天皇 在大和国添下郡 兆域東西二町・南北三町、守戸三烟」

 二つの陵は近接していて、ほぼ同規模であったようだ。陵戸は陵の管理に専任してあたる者であり、守戸は他に生業を持ちながら陵を管理しその代わり税金を免除される。東陵に陵戸二烟が付くのは、それだけ大切に管理されていたということだろう。『延喜式』が完成したのは927年、少なくともこの頃は、二つの陵は実態として存在していた。宝来山古墳が菅原伏見東陵に治定されたのは、江戸時代から垂仁天皇陵とされていた経過にもとづく。そして安康天皇陵は江戸時代にはすでにその存在が不明であった。

     市庭古墳は垂仁天皇陵と見られていた

 二人の天皇陵は『古事記』にも登場する。そこには垂仁天皇陵は「菅原之御立野中(すがはらのみたちのなか)」、安康天皇陵は「菅原之伏見岡(すがはらのふしみのおか)」に在ったと記される。ふたつの天皇陵が菅原という地域にありながら、それぞれの立地条件が「野」と「丘」と異なっていたことになる。ここに着目して、今尾文昭氏は、垂仁天皇陵が平城宮造営に伴って消失した市庭古墳であったことを論証されている。

 市庭古墳は推定墳長253m、前方部幅164m、後円部直系147mの古墳時代中期中葉(5世紀前半)の大型前方後円墳であった。平城宮にかかるため前方部が削平され、後円部も周濠を池にした庭園に改造された。のちに古墳として復活したが、外観が円墳となり、幕末に平安時代初期の平城天皇陵「楊梅(やまもも)陵」に指定された。

京の造営で「墳墓が見つかったら埋め戻し、酒を注いで魂を慰めよ」という勅が『続日本紀』に見える。市庭古墳でもこのような「墓じまい」が行われたことだろう。

 『続日本紀』には「菅原の地の民90余家を移し、布と穀を支給した」という記録もある。これは、宮の地域内にあった民家を移転させたものだと考えられ、菅原という地名が平城宮の範囲にも及んでいたことになる。宮ができる前の宮内の下ツ道西側溝跡から「大野里(おおののさと)」と読める木簡が出現している。「菅原大野里」が平城宮となる前の地名であったのだろう。「大野」も「御立野中」も北側から広がる佐紀丘陵の先端の地形上の特徴にちなむ名付けであった。以上に述べたことから市庭古墳が菅原之御立野中にあった垂仁天皇陵に見なされていたというのが今尾氏の推論である。

 ここからさらに「律令国家は当初、市庭古墳を垂仁天皇陵に比定していたが、奈良時代になって秋篠川西方の同規模の前方後円墳、宝来山古墳に比定を替えた」(『天皇陵古墳を歩く』128頁)という推測が導かれる。

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     安康天皇陵と見られていた宝来山古墳

 『古事記』では、安康天皇陵は「菅原伏見丘」にあったとされる。「菅原伏見」という地名、「丘」という地形的特徴は、宝来山古墳にふさわしい。西ノ京丘陵の東端に位置するからだ。今尾氏の説では、平城遷都間もなく安康天皇陵であった宝来山古墳を垂仁天皇陵に治定替えしたということになる。しかし、『古事記』以後に編纂された『続日本紀』や『日本書紀』の記述を見ると、異なる推測も成り立つように思う。

 『続日本紀』の霊亀元年(715)4月に、「櫛見山陵(くしみのみささぎ=垂仁天皇陵)に守陵三戸を充つ。伏見山陵(=安康天皇陵)に四戸」という記録がある。守陵は守戸のことである。『古事記』が完成したのは和銅5年(712)であり、平城遷都以前の情報が記載されたと見られる。その3年後の記録として、垂仁天皇陵は「櫛見山陵」と新しい名称になり、安康天皇陵は『古事記』の「伏見」を引き継いでいる。注釈によれば、「櫛見」は「伏見」のことである。さらに5年後に完成した『日本書紀』には、垂仁天皇陵も安康天皇陵も「菅原伏見陵」と同じ名称である。

 律令国家は垂仁天皇陵である市庭古墳を破壊したから、早急に償う必要があった。遷都間もない715年に垂仁天皇陵の櫛見山陵に3守戸をあてがったという記事は、市庭古墳に代わる新たな陵を菅原伏見の地に築造したということではないだろうか。この時、安康天皇陵の宝来山古墳はそのままにして、これには4守戸を設けた。築造といっても一から築くのではなく、丘陵の地形を利用した相当規模の範囲を陵に指定して、守戸に管理させたのである。一面では偽造であり、一面では改葬である。その地は、秋篠川に近い宝来山古墳の西側にあたるだろう。

 おそらく奈良時代は二つの伏見陵はそのままに維持されていただろう。平安時代に入っていつの間にか二つの伏見陵の被葬者が入れ替わるということが起きた。すなわち『延喜式』の「伏見東陵」は垂仁天皇陵となり、「伏見西陵」は安康天皇陵となった。宝来山古墳である「伏見東陵」の堂々として美しい姿に対して、本物の古墳ではない「伏見西陵」は見劣りしただろう。『古事記』と『日本書紀』に描かれた二人の天皇の存在感には歴然たる差がある。垂仁天皇陵には宝来山古墳=伏見東陵がふさわしいという意識が生まれ定着していった。中世になれば、天皇陵の管理も行き届かず放置される。菅原伏見西陵は丘陵の自然に帰り消えていく。憶測を重ねたが、これがもう一つの説である。

 安康天皇陵は何時から行方不明になったのか。平安時代の初期にその端緒があり、近世に至るまでの長い時間をかけて「蒸発」したのである。

 もちろん本当の安康天皇陵は地上のどこかに実在している可能性はある。ただ宝来山古墳の年代観と安康天皇が存在した時代とは1世紀以上離れているので、リアルな次元ではそもそも二つは結びつかない。そういう意味では、市庭古墳と垂仁天皇も結びつかない。宝来山古墳と垂仁天皇は両者とも古墳時代初期に位置づけられるが、今のところ一致する確証はないし、垂仁天皇がはたして実在したのかさえ本当のところわかっていないのである。 

■二陵の名前の比較
 ○文献         ○垂仁天皇陵      ○ 安康天皇
古事記(712年)    菅原御立野中    菅原之伏見丘
続日本紀(715年)   櫛見山陵      伏見山陵
日本書紀(720年)   菅原伏見陵     菅原伏見陵
延喜式(927年)    菅原伏見東陵    菅原伏見西陵

参考
今尾文昭『天皇陵古墳を歩く』朝日新聞
高木博志他編『歴史のなかの天皇陵』思文閣出版
青木和夫他校注『日本思想体系 古事記岩波書店
青木和夫他校注『新日本文学大系 続日本紀一』岩波書店
坂本太郎他校注『日本書紀二・三』岩波文庫
『新訂増補國史体系 延喜式中篇』吉川弘文館