138 「大和路」という幻影

 奈良盆地を車で走ると憂鬱になる。車窓に過ぎる風景が醜悪すぎるのである。

 1960年代の高度経済成長の入り口にあったとき、無秩序な開発が進行することを懸念して、京都や奈良の歴史的風土の保存が問題になった。それは「古都保存法」や「明日香法」の成立となり一定の成果はあったが、抜け道が多く、適用範囲も点にすぎなかった。

 司馬遼太郎は71年に発表した「街道を行く 竹内街道」で、「この日本でももっとも汚らしい県のひとつになってしまった風景」と奈良を評した。司馬は母の実家が今の葛城市にあり、幼少のころはそこで過ごすことが多かった。そこで記憶に焼き付いた風景との変わりように衝撃を受けたのだろう。同行していた須田剋太もかつて奈良に寄留したことがあったが、「大和ももうだめですね」と吐露している。司馬が目前にしていたのは、丘陵を崩していたるところで進む大規模な住宅開発であった。

 入江泰吉は敗戦後すぐに奈良・大和を撮り始めて、モノクロの画面に高度経済成長以前の風景を記録した。カラー写真になったのは60年代に入ってであり、失われゆく歴史的風土を唯一無二のイメージに昇華して、大和路の最大の証言者となった。しかし、60年に発行した『大和路 第二集』の序文ではすでに「大和路を形づくっている自然の美しさの壊れてゆくのは、いかにもさびしい。すこし飛躍しすぎる考え方かもしれないが、何十年かさきには、大和路のよさは亡びて、古社寺はさながら街の美術館的存在とならないともかぎらない。」と危惧した。まさにこの予言通りになったのである。

 「大和路」という言葉で思い浮かべるのは、大正から昭和にかけて世に出た一連の書物である。和辻哲郎『古寺巡礼』、亀井勝一郎『大和古寺風物誌』、堀辰雄『大和路・信濃路』、会津八一『鹿鳴集』。これらの中には、自然と歴史が調和した風景の描写があり、その美しさに感嘆する著者がいる。同じころ奈良に住んだ志賀直哉は、奈良の印象を「名画の残欠」という言葉に残した。それがどのようなものであるかは、入江泰吉のモノクロの風景写真でうかがうことができる。もはや二度と戻らない風景の、失われたものとしての「大和路」。だからこそ、それは私の中で余計に美しいのだろう。

 奈良の寺社、史跡は「街の美術館」あるいは「歴史的テーマパーク」として世界から観光客を集めている。「滅びの美」などと言われたことも嘘のように、磨かれて華やかな姿によみがえったことはとりあえず目出たいことだろう。ポスターやガイドの写真は、その美術館やテーマパークにアングルを絞って、古代の都、日本国の発祥地のイメージを増幅する。そこから注意深く排除されているのは、現在の奈良の日常の風景だ。

 もうかなり前のことになるが、小さなある写真展で奇妙に感動したことがある。万葉集の歌とそれに関連した場所の写真を並べたものだった。飛鳥川の歌には川の堰に溜まったビニールごみ、能登川の歌には両川岸に建つアパート、佐保川の歌には堤防の白いガードレール、三輪山の歌には山を遮るマンションなどが写る風景写真が配される。かなり露悪的であるが、われわれの虚偽性を暴露する、作者の狙いに共感したのだった。

 すべては移り変わっていく、だから千年変わらぬ奈良の寺社、史跡は貴重なのだと言われそうであるが、それもまた変わる。「大和路」という幻影も消えていくしかないのだろうか。。