123 志賀直哉旧居の見学①

  ~書斎・茶室・客間など~

 

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 志賀直哉奈良市幸町の借家から高畑町の住居に移ったのは、昭和4年(1929)4月のことである。生涯で23回転居を繰り返した直哉は、46歳から55歳までの比較的長期の9年間をここで過ごした。幼い6人の子どもを育て、社交、文筆の仕事と充実した日々であった。自ら設計した邸宅には彼の生活理念や美意識がこめられている。奈良を離れたあと、建物は他人の手に渡り改造されてきたが、平成21年(2009)に補修とともに直哉が居住した当時の姿に戻す復元工事が行われた。現在、旧居の内外をつぶさに見学できる。

     直哉の「設計」をもとに数寄屋大工が建築

 旧居が建つ場所は上高畑の裏大道という道に接している。奈良公園の飛火野が目前であり、いわゆる「ささやきの道」の起点にもあたる。高畑は春日社の社家が建ちならんでいた地であったが、明治以後、売りに出されることが多くなった。直哉が取得した土地も前住者は神官であり、1.437平方メートル(435坪)の面積がある。借家があった幸町と高畑町は隣りあっていて、交際のあった画家や作家が多く住んでいた。すでに3年奈良住まいしていた直哉には見知った場所であり、描いていた理想の立地条件にかなっていたのだろう。実際ここを尋ねると、すばらしい場所であることが納得できる。

 大工は京都の数寄屋造りの下島松之助であった。下高畑に住んでいた画家、浜田葆光の茶室を建てた大工であり、この縁で依頼したようだ。直哉は平面図を描いて、あとは大工に任せたという。全体のプランや部屋の配置が直哉の意向であり、数寄屋の意匠は下島大工が腕を奮ったということは理解できる。この住居を特徴づける多くの工夫のどこまでが直哉の発想であるかは非常に興味のあるところだが、家の細部を見ていくと、直哉のこだわりというものがたしかに見えてくる。

     洋間書斎と広い茶室    

 表門は敷地の北西に開く。敷地を囲む土塀と一体になり、寄棟造りの屋根がのる。風格があって軽やかである。塀の復元工事では漆喰を落として土塀にもどされた。西側の塀のところどころに濃い茶色の土が見えるのは、もとの土である。勝手口が西側に設けられ、台所の土間と直結する。「高畑サロン」の常連は勝手口から出入りし、中門をぬけて裏庭へ回りサンルームに入った。

 門を入り植え込みが左右につづく石畳を歩むと玄関である。左手にある表庭は土塀で隔てられ、中門がつく。ガラスの引き戸の玄関をあがると踏み込みを経て廊下と階段が三方にわかれる。東方向の廊下の先には書斎と茶室、北方向の階段をあがると客間、南方向への廊下の行き先は食堂や家族の居室がある。巧みな動線であり、書斎と客間のある棟とプライベートな生活空間の棟とをわけ廊下でつないでいる。

 書斎は床張りで地袋がつき、天井は葦張りである。手斧で削ったような梁は半割の松材であるが、梁にみせかけた意匠であり凝ったしつらえだ。北と東に窓が開いて表庭の池と樹木が視界を占める。「若い頃は書斎は北向きが好きだった。明る過ぎると、気が散るので、机の上だけ明るく、ほかは薄暗いやうな窓の小さい部屋が好きで」と書くように、落ち着いた雰囲気である。しかし冬場は寒くて二階の南向きの和室に移ったという。デスクと椅子は当時のものではなく、写真や証言から近似品をそろえた。書斎の西隣には納戸があり、現在は事務所に使用されている。

 茶室は六畳の広さがある。袖壁がつく大きめの貴人口が中庭に開く。天井は低く一画を筵張りにし、床、付け書院、下地窓、炉、水屋をそなえる。数寄屋大工、下島松之助が腕を奮った部屋であろう。白樺をところどころ使うのも隠れた工夫だ。しかし直哉はあまりここを使わず、子どもと夫人が茶や生け花のお稽古に使用したようだ。

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北向きの書斎、表庭に面している

     南向きの和室書斎と眺望のきく客間

 階段を上ると板の間のような広い廊下がある。中央が高くなった船底天井で、窓には平安時代の建物にあるような上げ下げする蔀(しとみ)戸がつく。表門を入って見上げると目立つ。外観を意識し、また客を迎えて楽しませる仕掛けだろう。廊下とならぶ南側の六畳の部屋には客を泊めたようだが、冬は直哉の書斎となった。昭和12年3月、中断していた「暗夜行路」をここで書き上げた。小さな二月堂机が置いてある。

 廊下の突き当たりが八畳客間である。北と東に窓があり、春日山若草山が指呼の距離に望める。この眺望を意識した部屋の配置だ。若草山山焼きには知人を呼んで見学会を開いたという。プロレタリア文学小林多喜二が昭和6年11月に尋ねてきて一泊しているが、おそらくこの部屋に泊まったのだろう。床の間に弘仁仏の観音像が安置されていた。実は谷崎潤一郎から譲り受けたもので、直哉は補修してあった両手を取り除いて据え置いたという。観音像は現在、早稲田大学会津八一記念館に収まっている。

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表庭から見上げた客間、階下は書斎。二階廊下には蔀戸がつく

参考
呉谷充利監修 山本規子編集・図面作成『志賀直哉旧居復元工事記録』奈良学園
呉谷充利編著『志賀直哉旧居の復元』奈良学園
「奈良学園セミナーハウス 志賀直哉旧居」ホームページ

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