121 女王卑弥呼は大和郡山にいたか

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 大和郡山市は毎年、「女王卑弥呼」を公募・選出し、観光PR活動に一役買ってもらっている。市の観光協会のホームページには次のようなコメントが載る。

大阪教育大学名誉教授だった故鳥越憲三郎氏が著書『大いなる邪馬台国』の中で、邪馬台国大和郡山市北西部の矢田地区にあったとの学説をもとに、大和郡山市が町おこしの一環として1982年より女王卑弥呼を選出するようになりました。卑弥呼に選ばれた方は、1年間にわたり、観光協会が関連する市の事業やキャンペーン、伝統行事のPRを行っています。」

 鳥越憲三郎氏の学説については、残念ながらこれ以上の紹介はない。そこで、氏の著書をひもとき大和郡山市矢田地区=邪馬台国説の詳細を探ってみたい。『大いなる邪馬台国』は昭和50年(1975)に刊行された。平成14年(2002)に、それを修正補強した『女王卑弥呼の国』が上梓されたので、これをもとに見ていくことにする。

     神武東征譚での物部氏長髄彦軍との戦い

 始まりは、『日本書紀神武天皇即位前紀にある記述である。神武天皇が日向の国を出発して大和の征服をめざす東征の宣言である。

「『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐船に乗ってとび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるのによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」

 大和はすでに「天降り」した饒速日命によって治められていたが、そこを征服して国の都にしようということだ。瀬戸内海を東に進み浪速に上陸。生駒山を越えて大和に入ろうとしたが、土地の豪族、長髄彦(ながすねひこ)の抵抗に遭い敗退する。「日の神の子孫であるのに太陽に向かって敵を討とうとしたのは間違っていた。太陽を背に負い敵を襲おう」と、方針を変更して熊野へ迂回し上陸、大和各地に蝟集していた敵を打ち破り、長髄彦との最終決戦に臨む。戦況が膠着したとき、金色の鵄(とび)が飛来して天皇の弓の先に止まった。このため長髄彦の軍勢は戦意を喪失する。長髄彦は使者を送って言上する。

「昔、天神の御子が、天磐船に乗って天降れました。櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)といいます。この人が我が妹の三炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って子ができました。名を可美真手命(うましまでのみこと)といいます。それで、手前は、饒速日命を君として仕えています。一体天神の子は二人おられるのですか。どうしてまた天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。手前が思うのにそれは偽物でしょう」

 天皇は、長髄彦の仕える君が天神の子である証拠を示すように命ずる。長髄彦饒速日命の天の羽羽矢と歩靫(かちゆき)を示した。天皇もまた自らの天の羽羽矢と歩靫(かちゆき)を示す。しかし長髄彦は抵抗を止めなかったため、饒速日命長髄彦を殺害し、天皇に恭順した。長髄彦が忠誠を誓い戦った当の饒速日命に殺される。なんとも納得できないストーリーであるが、神武は饒速日命の手柄と忠誠心をほめたたえた。饒速日命物部氏の先祖であると『日本書紀』は記す。

 東征譚の一つのクライマックスシーンである。長髄というのは地名であり、金の鵄の故事から「鵄の邑(むら)」と変わり、なまって「鳥見」になったと『書紀』は説明する。奈良市の「富雄」がその地名を引き継ぐという伝承から、昭和15年(1940)の紀元2600年祭に「神武天皇聖蹟鵄邑顕彰之地」の聖蹟碑がこの近くに建立された。現在、住宅開発にともなって「登美ヶ丘」や「鳥見町」という新地名が生まれたのもこの謂われによる

 物部氏の伝承をまとめた『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』は、饒速日命の天降りを次のように記載する。

饒速日尊は、天神の御祖神のご命令で、天の磐船にのり、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降られた。さらに、大倭国の鳥見の白庭山にお遷りになった。天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られた。すなわち、“虚空(そら)見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである」

 「河内国の河上の哮峯」はもちろん場所は不明であるが、強いて連想すれば生駒山になる。饒速日命はそこから「大倭国の鳥見の白庭山」へ遷った。鳥見は長髄彦の本拠であり、彼の妹の三炊屋姫を妻にして物部氏の始祖である可美真手命(宇摩志麻遅命)が生まれた。生駒市に白谷という大字があり白庭山の伝承を持つ。周辺の新興住宅地が白庭台と名づけられたのは、この伝承による。鳥見は、大和川支流の富雄川の上流と中流に沿った地域にあたる。物部氏にとって何かと縁の深い土地のようだ。

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     葛城王朝vs物部王朝

 第二代綏靖天皇から第九代開化天皇欠史八代と呼ばれて架空の存在であることが、日本古代史の定説となっている。事績に乏しいこと、和風諡号(しごう)が後世に生まれた言葉で呼ばれていることなどから大和朝廷の歴史を長く見せるための創作とされる。しかし鳥越憲三郎氏は真っ向からこれに異議を唱え、初代神武天皇から開化天皇までを葛城王朝の王であったと主張する。主張の根拠は多岐にわたるが、これらの天皇の宮と陵墓が奈良盆地の西南部に多いことも挙げられる。氏によれば、1世紀頃に九州から葛城王朝の前身にあたる氏族が奈良盆地へ紀ノ川沿いに侵入して西南部に割拠した。金剛山葛城山の麓に根拠地を置き、幾代にもわたった奈良盆地の平定事業が、神武天皇の事績としてまとめられたという。

 この頃、奈良盆地を支配していたのは物部氏であった。物部氏も北九州を拠点にしていたが、弥生時代の初期に全国へ進出、稲作文化を各地で普及させた。天の磐船に乗った饒速日命が、「虚空見つ日本の国」と叫んで天降りした伝承は、大和の最初の王が物部氏であったことを示す。饒速日命を祭神とする神社は大和には二社あり、大和郡山市の名神大社の矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社とその近くにある奈良市式内社の登彌(とみ)神社だ。鳥越氏は、物部王朝と名づけて矢田坐久志玉比古神社が所在する地を王朝の本拠地だとする。ここも富雄川中流域にあたる。そしてこの王朝が邪馬台国であったと論じる。

 氏の邪馬台国論には独自の見解が多く含まれる。卑弥呼倭国の王として共立される前の「大乱」とは、九州で覇権を握っていた奴国を各地の物部一族が連合して滅ぼしたことだとする。「共立」とは、祭事権者と政治・軍事権者を分けて二人の王を立てることだという。

 邪馬台国は南にあった狗奴国と仲が悪くて戦争状態にあったことが『魏志倭人伝』に載る。狗奴国は葛城王朝のことであり、最終的に邪馬台国=物部王朝は滅ぼされる。前述の『日本書紀』の鳥見での戦いであり、これは第八代孝元天皇のときに起きた。古代では敗者は勝者に娘を差し出すという慣わしがあり、物部氏の娘が孝元天皇の后・妃として三人献上されているからである。第九代開化天皇が都を奈良盆地北部の奈良市春日の率川宮に置いたのは、葛城王朝が大和全体を支配下に置いたことを意味する。しかし葛城王朝はここまでで、磯城の地を拠点とする大和朝廷が新たに覇権を握ることになった。

 鳥越氏の説は系譜を詳細に検討し、考古学的な発見も援用したユニークでスケールの大きなものであるが、史料を恣意的にパッチワークした印象は拭えない。欠史八代の陵墓とされるものは年代観がずれたり墓として疑わしいものがある。大和古墳群の存在も無視している。物部王朝と邪馬台国との結びつきも伝承に偏重しすぎている。纏向遺跡が脚光をあびる現在、説としての説得力は乏しいが、『日本書紀』東征譚における物部氏の謎に迫った気になる試みではある。

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*テキスト中の『日本書紀』の引用は、宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀』からによる。

参考
鳥越憲三郎『女王卑弥呼の国』中央公論社
鳥越憲三郎『神と天皇の間』朝日文庫
宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀講談社学術文庫
「天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)」http://mononobe.webcrow.jp/index.html
奈良歴史漫歩 No.039 「長髄彦の故地」http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm042.html