128 薬師寺西塔心礎移動・本薬師寺西塔白鳳時代建立説

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復興された薬師寺西塔

 天武天皇が鸕野讃良(うののさらら)皇后の病平癒を祈願し創建した薬師寺は、天武亡きあと持統天皇文武天皇に引きつがれ、藤原京の地に698年にほぼ完成をみた。平城京遷都とともに薬師寺もその右京六条二坊に移され、南都七大寺の一つとして権勢と寺観を誇った。

 藤原京に残った本薬師寺平城京薬師寺との関係について、建物を移建したのかどうか、本尊を移座したのかどうかという論争が明治以来続いて今もなお決着がついていない。

 建物の移建については、本薬師寺が奈良・平安時代も存続し、また中門や回廊の構造が二つの寺で異なっていることから、伽藍がそっくり移るようなことは否定されている。しかし、本薬師寺で使用された瓦が平城薬師寺からも出土する事実から、一部の建物、たとえば僧坊などが移建された可能性も消えていない。

     薬師寺西塔新移建説の登場

 現在注目されるのが、西塔をめぐる問題である。平城薬師寺西塔の心礎には舎利孔があるが、本薬師寺西塔の心礎は舎利孔はなく出枘(でほぞ)がある。舎利孔のある心礎は白鳳時代より前のものであり、出枘の心礎は奈良時代以降に製作されたという年代観から、石田茂作氏は本薬師寺の西塔は平城京に移したあと再建されたという説を唱えた(1948年)。90年代に本薬師寺の発掘調査が進んで西塔跡から奈良時代の瓦が大量に出土した。この事実を受けて西塔の建立は奈良時代へ下るという説が有力となった。これを踏まえて鈴木嘉吉氏は、新たな「西塔移建説」を提唱されている(2006年)。以下、この新説を検討する。筆者はかねて「西塔心礎移動説」を提起しているが(奈良歴史漫歩68、奈良歴史漫歩79)、最後に西塔移建説に対置する新たな傍証を示して再説したい。

     本薬師寺塔の裳階は吹き抜けか

 本薬師寺と平城薬師寺の東西四塔を比較する。

 

基壇長

心礎

側柱礎石

裳階柱礎石

地覆石

薬師寺東塔

約14.2m

舎利孔あり

各等間

約240cm

地覆座あり

不明

凝灰岩?

〃西塔

約13.5m

出枘あり

柱間240cm

不明

花崗岩

平城薬師寺東塔

約13.3m

根継石を据えた窪みあり

各等間

約240cm

地覆座なし

地覆座あり

凝灰岩ほか

〃西塔

約13.65m

舎利孔あり

各等間

約240cm

地覆座なし

地覆座あり

花崗岩

 四塔は基壇規模や初層平面規模がほぼ一致する。本薬師寺東西塔の裳階柱礎石は見つかっていないが、裳階の屋根に葺かれたと推定できる小型の瓦が出土している上、さらに基壇規模からも判断して裳階のあったことは確実視される。ただ本薬師寺東塔の側柱の礎石には、柱間の壁を受ける地覆座があることから、裳階は吹き抜けであった可能性が高い。平城薬師寺の壁や連子窓のある裳階は、地覆座が側柱礎石ではなく裳階柱礎石につくことと一体であるから、二つの寺の塔の外観はかなり異なっていただろう。吹き抜けの裳階が二層と三層にあったかも疑問である。

 平城薬師寺の高さは34mあり、三重の塔としては他の塔の平均からして10mほどは高い。各層に裳階がついての高さである。初層の平面規模は裳階を入れて11m四方になり、この高さがあってバランスがとれることになる。裳階がなければ、ずいぶん間延びした印象になるし、他の三重塔並の高さならバランスを欠く。五重の塔であるなら、バランスの点からは合理的だろう。しかし堂塔の平面サイズや伽藍配置を踏襲することにこだわった寺院が、塔の外観を大きく変えるというのも解せない。

     本薬師寺西塔の奈良時代建立説

 本薬師寺西塔は基壇の四分の一の東南部が調査された。基壇には心礎しか残っていないが、四天柱と側柱の礎石据え付け穴4個が検出された。同時に出土した瓦の製作時期は、大きく二つに区分される。一つは本薬師寺創建期の白鳳時代、もう一つは奈良時代である。報告書からそれぞれの時期の出土数を見る。

 

本体軒丸瓦

本体軒平瓦

裳階軒丸瓦

裳階軒平瓦

白鳳時代

55

58

58

25

奈良時代

27

38

34

 出土瓦を分析した花谷浩氏は、この結果から本薬師寺西塔は「残っていた創建の瓦に新相の瓦を混ぜて、奈良時代の屋根を葺き上げた」という「西塔非移建・奈良時代建立説」を打ち出した。建築足場が一時期しかなかったことも傍証となる。

 鈴木嘉吉氏は、この花谷氏の本薬師寺西塔奈良時代建立説に同意する。その一方、平城薬師寺において他の堂の基壇がすべて凝灰岩でできているのに対し、西塔の基壇の一番底にある地覆石が花崗岩であることに着目する。これは飛鳥寺金堂・塔、山田寺金堂・塔、川原寺金堂・塔、本薬師寺金堂にも共通して、飛鳥・白鳳期の大寺の正統的手法だという。ここから次のような推測が導かれる。

 「藤原薬師寺で西塔の造営に着手するころ寺の移転が決まり、準備した材料をそのまま運んで平城で組み立てた。そして平城薬師寺がほぼ完成したころ、改めて旧寺に西塔を建立して伽藍の姿を整えた。」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』26頁)

 準備した材料には、舎利孔を刻んだ心礎がもちろん含まれる。「西塔材料移建・奈良時代建立説」とでも名づけられよう。これは本薬師寺と平城薬師寺の塔が規模はもちろん形もほぼ同じであるという推測が前提になっている。

     薬師寺西塔基壇の攪乱抗と版築の乱れ

 本薬師寺西塔基壇の調査報告では、心礎周辺の土の攪乱が記録されている。「心礎周辺と下面は大きく攪乱され、攪乱抗には瓦片が投棄されている。この攪乱は西塔心礎の上面が現状で水平ではなく、若干傾いていることとも関連するようである」(『奈文研年報1977-Ⅱ』27頁)。西塔基壇南北断面図を見ると、心礎の南側が大きく掘り返されたような跡がある。心礎据え付け穴とは明らかに異なる。さらに基壇版築について「基壇築成土は、底面から約1.5mの高さまで残る。築成土は上半部と下半部とでは状況が異なり、下半部(約1m)では、一層の厚さが約3~8cmと比較的細かく版築するのに対して、上半部(約0.5m)は、一層の厚さが約10~15cmと分厚い」(同27頁)。

 この事実から導かれる仮説は、心礎の移動があり攪乱抗や上半部の版築の粗雑さはその痕跡であるということだ。本薬師寺東塔と平城薬師寺西塔の心礎の舎利孔はうり二つと言っていいほど似ている。しかし後者には、前者にはない柱座底面周縁の溝があり湿気抜きの細穴が穿たれている。これは二つの心礎は同時期に製作されながら、後者があとで改良されたと推測できる。

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薬師寺西塔基壇調査遺構図(一部)

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薬師寺西塔基壇南北断面図

 すなわち次のようなストーリーが描ける。本薬師寺東西塔は藤原京においてすでに竣工されていたが、平城薬師寺を建立するにあって西塔の舎利を心礎ごと移すことになった。そのため心礎の周囲が大きく掘り返され、基壇の一部も削られ運び出された。そのあとに出枘のある心礎が運び込まれ、土が埋め戻された。そのときの工事が雑であったため、心礎がのちに傾くことになった。平城薬師寺へ運ばれた心礎は、湿気対策のための溝と細穴が刻まれて西塔に据え付けられた。

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薬師寺薬師寺の心礎舎利孔

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薬師寺西塔心礎

 心礎を移すために塔を解体する必要はない。心柱は本体の建物とは独立して立っているからである。ただ心礎から心柱を切り離すために、心柱を建物に固定するという作業が加わる。平城薬師寺東塔では、心柱に短い貫を通して両脇から支えるという細工が施されていたが、これは心柱の修理にともなって行われたのだろう。

 奈良時代の瓦が出土したのは、心礎を入れ替える工事の際に振動や衝突があって瓦が落下破損し、補充したからではないだろうか。本体建物の瓦数を比較すると、奈良時代白鳳時代の半数ぐらいであることが、それを物語る。裳階の軒丸瓦は報告書では時期の区別がつかないが、その総数において本体瓦と匹敵しているのは注目される。裳階が各層にあったという有力な証拠になる。

 従来の「西塔心礎移動説」には修正を加えたが、「薬師寺西塔心礎移動・本薬師寺西塔白鳳時代建立説」を再度提起したい。本薬師寺の構作がほぼ終わると記されたのが698年、平城京薬師寺が移ったのが718年、この間20年あるが、本薬師寺の西塔がまだ完成していなかったというのは考えにくい。天武と持統の思いのこもった寺院の造営は当時の政権にとって最優先すべき課題だったはずだ。西塔の完成が遅れた例として大官大寺がよく引用されるが、工事途中で焼失した超巨大な寺院に西塔の痕跡がなかったことが良い比較材料なるとは思えない。

参考
鈴木嘉吉「薬師寺新移建論―西塔は移建だった」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』冨山房インターナショナル)
「本薬師寺の調査―1995-1・2・3次、1996-1次 本薬師寺出土の瓦」(『奈文研年報1977-Ⅱ』)
花谷浩「本薬師寺の発掘調査」(『仏教芸術』235号 毎日新聞社
石田茂作「出土古瓦より見た薬師寺伽藍の造営」(『伽藍論攷』養徳社)