136 内山永久寺の消滅

 


内山永久寺の境内中心部 『大和名所図会』寛政3年(1791)


     「西の日光」と呼ばれた巨大寺院

 天理市布留町に鎮座する石上神宮の境内を抜けて、東海自然歩道(山の辺の道)を500mほど南へ向かうと国道25号線のバイパスにつきあたる。バイパスに交差するトンネルをくぐる。あたりは元棚田を利用した柿畑である。朽ちたビニールハウスや温室が放置されている。緩やかな坂を少し上ると、池がある。ため池のように見えるが、もとは浄土庭園の池であった。150年前に忽然と消えた巨大寺院、内山永久寺がここ(杣之内町)に存在したことを伝える数少ない遺構である。

 北、東、南の三方から山が迫り西に開けた谷あいの地に、寺が創建されたのは永久年間(1113~1117)、鳥羽天皇の勅願であるという。実は興福寺大乗院の第二世院主頼実(らいじつ)の隠居所として発足し、第三世の尋範によって拡充されたらしく、大乗院の末寺であった。近世に真言宗に属するようになった。

 伽藍は東西南北に門があり、上街道から通じる西門が正門となる。それぞれの門から伽藍中心部に向かう道の両側に子院が軒を接して建ち並び、江戸時代には50以上を数えた。寛政3年(1791)の『大和名所図会』に伽藍中心部が東を上にして描かれる。前面に回遊式の池があり、大亀池の名前の謂われとなった亀に擬す中島には弁天、宝蔵と記された建物が建つ。現在、中島は地続きであり、「内山永久寺記念碑」と刻む石碑が立つのみである。

 池から東に一段高い平坦面があり、ここに寺院中枢の堂塔が集まる。阿弥陀如来を本尊とする本堂、観音堂、鎮守三社、八角多宝塔、鐘楼、大日如来を奉る真言堂、御影堂などが配された。境内には松が数多く繁っていたようだ。「西の日光」と呼ばれた壮麗な寺観は、絵図からしのばれる。

 後醍醐天皇が吉野へ落ちのびる際にここに立ち寄ったことがあり、この故事から「萱の御所」と呼ばれて、その碑が立っている。また、芭蕉が宗房と称した若きころに詠んだ「うち山やとざましらずの花盛り」は当地のこととされ、句碑が池のほとりに立つ。

 江戸時代には971石の朱印地が与えられていたが、これは大和では興福寺東大寺法隆寺につぐ待遇であった。


大亀池の辺りが寺の中心部、東西南北の門から中心部に向かって子院が建ち並んだ

     永久寺上乗院院主・亮珍の野望

 中世には興福寺、近世には徳川幕府という時の最高権力によって庇護され、特権的な身分を長きにわたって享受した内山永久寺であるが、明治維新神仏分離令によって突然終わりを迎えることになる。永久寺が一山全員の復飾願いを提出したのは、慶応4年(1867)8月であった。永久寺は布留社(石上神宮)の別当神宮寺であり、桃山竜福寺、中筋寺の神宮寺と交代で社僧を務めていたが、これらの寺の僧は還俗して布留社に神勤することにした。これを主導したのは、永久寺上乗院院主の亮珍であった。上乗院は朱印領の229石を占め、代々の院主は公家の血筋を引き抜群の経済力と権威をもって一山を支配した。

  吉井敏幸氏(天理大学教授・近世史)は、亮珍が勤王思想の持主であったと推測して復飾の理由の一つにする。時代の大勢として勤王思想を受け入れていたかもしれないが、彼らは基本的に事大主義者であった。興福寺とも共通するが、永久寺の権威と経済の源泉は、時の権力の保証がよりどころである。旧来の主が倒れたので、新たな主に乗り換える。新たな主は神道を重視しているようなので、ためらいなく復飾する。厳しく言えば、彼らにとって宗教とは世を渡る手段であった。

 『明治維新神仏分離史料』には、布留社社務・内山藤原亮珍が神祇官・御役所に宛てた慶応4年9月から明治3年8月までの口上書が収載される。復飾間もない9月の口上書には次のような文がある。

「……今より山内は社地に相改め、永久寺伽藍諸堂等は、境外に伽藍附きの山林に相応の地がありますので、残らず此処に転遷いたします。猶また持僧の儀は同流の内より人選して上乗院院代を指名し仏祭勤修をつとめさせます。この儀に取り計らい苦しからず御座候や……」

 永久寺境内は社地にして、諸仏堂は山林に移し寺内の者から選んでまつらせたいという願いである。永久寺の境内を神社にするとはどういうことなのだろう。明治2年5月の口上書から亮珍の考えが推察できる。

上乗院には、生産(正産)守護之神が鎮座しています。神功皇后三韓征伐のみぎり御産気づかれましたが、事が成就するまで御降誕が先に延びるように住吉三神に御祈願されたときの霊璽です。住吉大神の物実を皇居にて奉斎していましたが、鳥羽皇帝の詔があって創建されたばかりの永久寺が預かりました。養和年間に新たに神庫を造り霊璽を奉納しました。御降誕あれば霊璽に祈願致しました。その度に朝廷より金銀・縮緬・御辛櫃・御簾・御絵付御紋・御提灯などを神輿につけて寄付神納されました。しかし近年神庫が大破し修理したいと思っていたところ、大政御一新にて亮珍も復職したので、神庫を改めて社殿に造営し、御安産・天下泰平・五穀豊穣の御祈願を丹精こめて行います。王政復古の御時節にあれば特別の御沙汰をもって社殿造立の御寄附をお願い奉ります。

 同様の趣旨で、明治2年9月、11月にも口上書が提出されている。永久寺には、鎮守三社と呼ばれる牛頭天王・春日明神・布留明神、白山権現社、丹生高野社、玉垣弁財天社があった。亮珍はこれらではなく、生産守護之神の社殿を新たに建立して、これをもって永久寺の境内を神社に変えることを考えたのだろう。生産守護之神が皇室と深い縁があることを強調していることから、王政復古の時流に乗ろうとしたようだ。しかしこの野望は叶えられなかった。

     亮珍の位階授与の懇願

 亮珍ら永久寺の僧侶は復職して布留社に神勤したはずだが、なぜ別のもうひとつの神社の公認をもくろんだのか。生産神社の新造寄付を願い出た口上書と同時に提出された口上書がある。

私どもは元内山永久寺山務上乗院住職をつとめてまいりました。御勅許を蒙り法眼から大僧正にまで至ったところ、昨年御沙汰あり復飾して布留社に勤めるようになりました。唯一神道の祭祀並びに作法を預かり伝えております。なにとぞ同神社社務に相当する官階への叙任を嘆願申し上げます。格別の憐憫をもって御許容いただければ冥加至極ありがたき仕合せに存じます。  
         布留社社務 鷹司故入道准后猶男 内山藤原亮珍
         同家嗣 花山院前右大臣前右大臣家厚雄 内山藤原亮愼

 亮珍は大僧正であったこと摂関家の出自であること、家嗣の亮愼は清華家の出自であることを誇示して、布留社社務にふさわしい官位を求めている。数日後に提出した口上書には「内山永久寺の住職であった時は堂上方(従五位以上)であった。復職して布留社に神勤するようになっても堂上方同格に取り立ててほしい」と訴えている。この願書は奈良県に回されて検討されたようで、「御掛紙」が付いて「願いの趣聞き届け難き事、但し位階願いは別段の事」と記してあった。

 興福寺の僧は復飾して春日神社の新神司となり堂上格の待遇となり、さらに華族となった。亮珍も同じような「出世コース」を切望したのである。これ以後1年余りの口上書のほぼすべてが、亮珍と家嗣の亮愼、配下の僧侶たちの布留社における身分の保証を神祇官当局に訴えるものと言っていい。


大亀池(現木堂池)、山の辺の道が池に沿う。東側(左)に本堂や多宝塔があった

     布留社の社家と復飾者との対立

 その背景には、復職して布留社に神勤する元僧侶と従来の社人との対立があった。口上書から両者の間の紛争が見えてくる。布留社の祭日につき亮珍が提出した書付と従来の社人が提出した書付との間に齟齬があり、役所からその点を突かれた。亮珍はいろいろと弁解しながらも社人たちが話し合いに応じないので、役所が彼らを呼び出して書付をまとめるように説得してほしいと訴えている。

 また、復飾した元僧侶と従来の社人と職掌や規則を取り決めようとしたが、社人が勝手なことを言って決められない。いったん決めたことも破る。このままでは神祀りも行き届かず、神慮の程も恐れる次第で、一同合一して神勤を大切にするように仰せつけてほしい。職役・役名・座席を定めて下知してほしい。このような内容で両者の内紛に役所が介入して解決してもらうことを期待している。もちろん、亮珍ら復職した元僧侶たちに都合の良い解決を願ったのである。

 亮珍は、「布留社神職交名之事」として、自らを社務に配下の復飾元僧侶20人と従来の社家3人の名前を挙げて「宣しく御沙汰之程願上奉り候」と記す。またこれまで神宮寺である永久寺寺務をつとめ総括してきた自分に布留社の長者総括の任務を仰せつけてほしと懇願する。長く培われた伝統ある神社に元僧侶が突然押しかけて運営の要を奪おうとするのだから、社家や氏子たちが反発するのは当然と言える。亮珍は役所から布留社別当であることの証拠を示す物の有無を問われて、往古より別当職を務めてきたが、ご覧いただける証拠のようなものはない、ご賢察いただきたいと返答している。

 内山永久寺が桃山竜福寺、中筋寺とともに布留社の別当寺であったことは事実であるが、支配―従属関係にあったわけではない。布留社はヤマト王権の神話にさかのぼる由緒を持つ古社であり、地域に強固な地盤を有していた。内山永久寺は勅願寺であるが、創建は平安の末であり、余剰貴族の就職口のような存在であった。布留社とは地理的に隣接していたから別当寺になれたのだろう。興福寺と春日社のような濃い関係は、この両者には見られない。永久寺の復飾元僧侶が布留社の神職になることは無理があった。亮珍はそれを感じていたから、生産神社の「公認」を得てスケールを拡大させ、永久寺境内を社地化、自分たちはその神職になることを企てたのか。

 明治3年3月の口上書からは、両者の対立が抜き差しならないものに至ったことが分かる。

……配下内山神職の者ども、昨年来逆心仕り種々奸計を取り企て候につき、彼是惑乱あいなり、奈良県において数多御苦労を掛け奉り候ところ、元配下一同より申し立て方はなはだ不都合の儀に御座候にて、すなわち去る三日また八日、県に一統お召し出しの上、配下の者ども厳重にお叱りご理解を蒙り、諸事是までの如く、当家支配の者相請け一和致すべき様仰せられつけ、当家にも一同平定致すべき様尽力取り計らい仕るべき様御沙汰蒙り深く畏み奉り候事にて、なにとぞ早々平定取り計らい仕りたき候えども、配下一統弁えぬ者ども、当今は諸事ほしいまま振る舞い仕りおり候につき、社中平定の儀においては、掟規御座なき候はば取り計らい仕りかね心痛仕り候、なにとぞ伺いの條目、不都合の儀御座候はば恐れながら仰せ聞かせられ、別段御差支えの儀あらねば、御許容御沙汰成し下されたく恐れながらこの段願い上げ奉り候

 神職の者どもが昨年より良からぬことを企て奈良県庁の役人に苦労を掛け、さらにとんでもないことを申し立てたので県から一同召し出されてお叱りを受けた。諸事これまでのごとく行い和して、当家も一統を治めるようにお達しがあった。そうしたいのだが、弁えのない者たちがほしいままに振る舞うのに、一社を取りまとめる掟規がなく心が痛い。伺い立てた掟規に不都合がなければ許可してほしい。こういう内容である。「心痛」という言葉に亮珍の追い詰められた心境がうかがえる。

 亮珍の関心は布留社における地位と官位の叙任であった。明治3年7月の口上書では、「元興福寺喜多院の空晁が従五位の勅許を蒙った。自分も彼と同等の資格がある。憐憫をもって早々に位階の勅許を蒙りたい」と嘆願している。これには「此書面ハ御下ケ置ニ相成候」の朱書きがあった。

     亮珍の死と永久寺の廃寺

 明治4年(1871)5月、布留社は官幣大社となり、石上神宮と称せられるようになる。神宮の職制は神祇官によって定められ、亮珍は免官された。彼が亡くなったのは翌年である。

 永久寺の西門から延びる道の両側は子院で埋まったが、三重塔もあった。塔が廃絶した後、上乗院の墓地になり、現在その墓標が残る。そこに亮珍の墓もあり、銘が刻まれる。

  明治5年10月3日死/常盤木藤原亮珍墓/(享年67歳3ケ月)か?

 無縫塔が並ぶ中で、彼の墓は質素で銘も素っ気ない。墓地は常盤木家が所有・管理している。常盤木家は亮珍の後継者であった上乗院家嗣の内山藤原亮愼が名乗って、和泉大願寺(浄土宗/阪南市下出)住職を務める。復職した亮愼はふたたび出家し仏門に入ったことになる。大願寺と永久寺は何の関係もないという。(サイト「内山永久寺多宝塔」)

 明治7年3月永久寺は廃寺、堂塔伽藍・諸具は入札で売却、取り払われたという。約7町歩の境内地のうち、宅地(2町2反余)は旧僧侶の居住地として半額払下げ、畑(1町9反余)の内の私費開墾地は無償払下げ、鎮守の社地及び池は官有地、藪 (1反余)・山林(2反)・荒地(1町5反余)は入札で処分される。旧僧侶達は明治20年までには何れも立ち去り、旧境内地一円は田畑に帰した。(『天理市史 上』)

「堂取払願上書案」(鈴木家文書)が残っている。

 「当山内衆僧明治元辰年復飾後諸堂取払仰せ付けられ、大塔并地蔵堂等取毀候へども、其余諸堂今以て存在之處、無用之廃物勿論自立堂宇に付き、此度取払御趣意に基き、分配仕度見込に御座候 
 真言堂(桁梁行7間宛、屋根檜皮葺、代価見積金20円) 本堂(桁梁行6間宛、屋根檜皮葺、代価見積金15円) 観音堂(桁梁行5間宛、屋根檜皮葺、代価見積金30円) 不動堂(桁梁行3間宛、屋根檜皮葺、代価見積金5円) 大師堂(桁梁行3間宛、屋根檜皮葺、代価見積金3円)
 合計金73円 内20円道橋営繕手当、53円戸数に配当仕まつり、利足を以て学費用に宛て申し置き見込みに御座候
 右の通見込みに御座候間、及大破有之諸堂取り払い御許容成し下されたくこの段願い上げ奉り候
         内山惣代前田民夫 戸長岡田六郎
   奈良県令      」(『改定天理市史・史料編第一巻』)

 境内中枢の堂を総額73円で売却し、その利益でもって橋の営繕や村民の学費に宛てるというから、地元に還元されたのだろうか。内山総代として名前のある前田民夫は永久寺世尊院の住職であった。参考のため当時の物価を上げると(『値段史年表』朝日新聞社)、白米10㎏33銭(明治5年)、大工日当40銭(明治7年)である。見積もりは解体廃物利用としての値段であろう。まさに「二束三文」であったと言える。

     永久寺「廃仏毀釈」の風説

 石上神宮には、明治6年(1872)5月に元興福寺学侶の復飾者、今園国映が小宮司として赴任する。5月に元水戸藩藩士の菅政友が大宮司に就任する。彼は神社禁足地を発掘して数々の神宝を取り出したことで有名である。旧来の社家は禰宜に就いている。復飾者が取り立てられたかは不明だが、大半の者は離れざるを得なかっただろう。

 永久寺の極端な廃仏毀釈を伝える伝聞としてよく引用されるのが、東京美術学校第五代校長を務めた正木直彦の『十三松堂閑話録』(昭和12年刊)の中にある挿話である。

「布留石上明神の神宮寺内山の永久寺を廃止しよういうことになって役人が検分に行くと、寺の住僧が私は今日から仏門を去って神道になりまするその証拠はこの通りと言いながら、薪割りを以って本尊の文殊菩薩を頭から割ってしまった。さすがに廃仏毀釈の人々もこの坊主の無慚な所業を悪みて坊主を放逐した。そのあとは村人が寺に闖入して、衣類調度から畳建具まで取り外し米塩醤鼓まで奪い去ったが、仏像と仏画は誰も持って行き手がない。役所は町の庄屋中山平八郎を呼び出して是を預かれと厳命、(略)何時の間にやら預った仏像や仏画が中山所有の姿になった。今藤田家で所有する藤原期の仏像仏画の多くは中山の蔵から運んだものである」

 正木は帝国奈良国立博物館学芸員だったこともあり、おそらく奈良赴任中に話を聞いたのだろう。この話の前に興福寺五重塔を綱で引き倒せなかったので、焼き払おうとしたというエピソードも語られる。一種の風説のようで、この種のものに付きまとう誇張や偏見があるかもしれない。栄華を誇りながら無残に「自滅」した者たちに、人々は同情ではなく悪評をもって追い打ちをかけたようだ。

     永久寺の遺構と遺品

 永久寺の堂塔が撤去された後も神社は残っていたが、明治末までには退転した。残っていた鎮守社の拝殿は大正3年(1913)に移築されて、石上神宮の摂社出雲建雄神社の拝殿になった。鎌倉時代に建造された割社殿は国宝に指定される。

 永久寺の仏像・仏画・仏具の破壊を免れて流失したものがどれだけあるかはわからない。辛うじて特定されている主なものをあげておこう。持国天立像・多聞天立像(平安・興円他作・東大寺蔵・重文)、不動明王座像(鎌倉・快慶作・京都市正寿院・重文)、正観音菩薩立像(鎌倉・快慶作・東大寺蔵・重文)、四天王眷属立像(鎌倉・興円作・東京国立博物館静嘉堂文庫美術館/MOA美術館蔵・重文)不動明王及び八大童子像(鎌倉・興円作・世田谷山観音寺蔵・重文)、小野小町像(桃山―江戸・藤田美術館蔵)、密教両部大経感得図(平安・藤田美術館蔵・国宝)、鰐口(鎌倉・秋篠寺蔵)。

 ボストン美術館は、国宝級といわれる四天王画像(鎌倉)を所蔵する。特定されたほんの一部だけでもこれだけの逸品がそろう。在りし日の永久寺の荘厳絢爛な姿が想像できるだろう。

追記(2023/9/14)

 永久寺の僧侶は一山復飾して布留社の神職になる道を選んだ。これは、興福寺の僧侶が全員復飾して春日社の神職になったことと対応している。しかし、興福寺の元一乗院門跡・水谷川忠起が春日大社宮司になり、公家出身学侶が華族の身分を得たのに対し、永久寺の元僧侶たちはそのような優遇は得られなかった。この差はどこに原因があるのだろう。興福寺戊辰戦争のときから新政府に忠義を尽くして多大な貢献をし、復飾の決定も非常に早かった。それに対する恩賞が、貢献もできず決定も遅れた永久寺との差になって現われたともいえる。だが、根本的な原因は「奈良歴史漫歩135・廃仏毀釈を選んだ興福寺」の追記で述べたように、興福寺にあった岩倉具視の工作が、永久寺にはなかったということではないだろうか。岩倉からすれば、興福寺は「モデルケース」となる寺院であったが、永久寺はそのような寺ではなかった。檀家・信者を持たず別当を勤める神社にも強い影響力がない永久寺は、頼みの綱の領地を失っては消滅するしかなかったと言える。


石上神宮の摂社出雲建雄神社の拝殿(国宝)、永久寺鎮守社の拝殿を移築した

  • 史料の現代語訳・書き下しは筆者の責任で行いました。

参考
明治維新神仏分離史料 第八巻近畿編(㈡)』名著出版 1929年発行 1983年復刻
東京国立博物館編『内山永久寺の歴史と美術』東京美術1994年
『改定天理市史・上巻』天理市1977年
『改定天理市史・史料編第一巻』天理市1977年
正木直彦『十三松堂閑話録』相模書房1937年
由水常雄「新資料発掘『廃仏毀釈』で消えた国宝を追う」(『新潮45』2000年7月号
「大和内山永久寺多宝塔」http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_eikyuji.htm