140 昭和の「暗さ」を反照する司馬文学

――福間良明司馬遼太郎の時代』(中公新書2022)を読む――

 司馬遼太郎が没してはや30年近く経つ。国民作家と呼ばれて今なお人気は衰えない。司馬文学がどのようにして生まれ、なぜ国民作家と言われるほどになったのか。その誕生と受容のあり方、そして行く末と教訓まで、時代との関わりで徹底的に追究する。私もまた司馬の歴史小説やエッセイ、特に『街道を行く』を愛読した。その魅力がどこから来ているのか。本書によって教えられ納得することが多くあった。

 司馬遼太郎福田定一・1923―1996年)は、大阪市浪速区に誕生した。実家は薬局を営んだ。大阪の下町で自営業を営んだ生育環境は、「既成組織に依拠せずとも何とか食っていける」という独立心と商人的な合理性を重視する精神を植え付けたのではないかと著者は推測する。数学が不得意で旧制高校を受験するものの不合格になり、大阪外国語学校に進学した。戦後、彼は業界紙を経て産経新聞の文化部記者となる。これはエリートコースから見れば、「二流」「傍系」の進路であり、ここに司馬文学の内容につながるキーポイントがあると著者は見る。司馬は自らの小説を「書きもの」と呼んだが、「余談」まじりの歴史小説は、「小説」でも「史伝」でもない両者の中間領域にあり、文学の「傍系」を選びとったことにもそれは表れている。

 著者が本書で論じるテーマは多岐にわたり読者論やメデア論、大衆文化、イデオロギー的影響などをカバーするが、眼目は司馬文学を貫く主題を明確に取り出したことである。

 戦中の学徒動員により司馬は戦車兵となったが、ここでの体験が後年の司馬の価値観を決定づけることになった。「終戦の放送をきいたあと、なんとおろかな国にうまれたことかとおもった。………22歳の自分への手紙を書き送るようにして書いた」(『この国のかたち』第一巻)敗戦の昭和20年は司馬22歳であり、そのとき日本に抱いた痛恨の思いが後年、司馬に筆を執らせたのであった。戦車という「素朴リアリズムのかたまり」を通して、旧陸軍の軍事的合理性の欠如、組織の病理、エリートの無責任、「思想」の倒錯をまざまざ見たのである。軍隊が国や国民を守るものではなく、軍隊を守ること自体が自己目的化する様相を知ったのである。

 司馬はこの体験や思いをエッセイや雑談で語ったが、小説にはしなかった。小説にするには関係者が多すぎた。彼の数多い戦国期や幕末、明治の小説のなかにその価値観を溶かしこんだ。その戦国像や幕末・明治像にある明るさや希望は、昭和の暗さと病理を照らし返す対照項であったと著者は書く。

 司馬の主要作品の多くは、高度成長の中・後期に集中している。生活水準の上昇を実感し、今後の経済的な進展を期待できる向日的な時代状況と合った。経済的・技術的合理性、進取の気性、交易の活性を重視する作風は、時代の価値観となじんだ。

 司馬の小説はいくつもNHK大河ドラマの原作となり知名度を高めた。70年代以降には文庫本となり、廉価で携帯しやすい本はロングセラーとなるのを助けた。読者には中堅の企業人が多かったが、「自らの願望を司馬作品のマイペースを貫く人物に重ねることで、現実の企業社会と折り合いをつけ、カタルシスを得た。いわばガス抜きとして結果的に企業社会を下支えした」。

 大衆教養主義は1950年代半ばに最高潮となり衰退したが、これを経験した青年たちが中年となり、彼らに支えられた大衆歴史ブームが70年代から80年代にかけて到来、司馬の作品はこれに応えた。教養との結びつきは、司馬の歴史小説の特徴である「余談」に表れ、知的な楽しみが味わえた。

 昭和50年代は高度成長の次を見据えなければならない時代となり、司馬作品はその指針となる教養として受け止められるようになった。司馬が強調したのは「変化の創造」だったが、「変化に順応することへの切迫感」を読者は読み取った。また司馬を称揚する読者は、司馬の「明るさ」のみに目を奪われがちだった。司馬がほんとうに問いたかった昭和の組織病理やエリート主義への批判を汲みとる者は少なかった。

 「司馬史観」という言葉が登場するようになったのは90年代頃からである。アカデミックな歴史学を「自虐史観」と批判する一部の保守派知識人が「自由主義史観」を標榜し、『坂の上の雲』は「日本人の誇り」を喚起するとして称讃したのだった。しかし、これは誤読であった。『坂の上の雲』で繰り返し語られたのは、日露戦争での失敗や歪みを捉え返さなかったことが、昭和陸軍の組織病理を生み、太平洋戦争における加害と被害を招いたという認識だった。

 アカデミックな近代史家は、『坂の上の雲』における植民地主義や加害性への視点が欠落していることを批判した。この論争の中から「司馬史観」という言葉が人口に膾炙し、司馬の作品は学問的にも論じられる対象となった。

 司馬文学は今後どのように受け入れられていくか。終身雇用や年功序列にもとづく労働環境が成立しがたくなった現在、ビジネスマンたちが組織人としての生き方を投影しながら司馬作品を手にすることは少なくなるだろうというのが、著者の予想である。司馬文学は大衆教養主義として歴史的教養と大衆をゆるやかに架橋した。歴史に限らない「人文知と大衆」のありようの可能性がそこから見いだせるというのが著者の結論である。