135 廃仏毀釈を選んだ興福寺 


猿沢池から見た興福寺五重塔、明治5年、横山松三郎撮影 文化庁文化遺産オンライン

 明治維新神仏分離廃仏毀釈の事例としてつねに取り上げられるのが、興福寺に起きた出来事である。藤原氏の氏寺として創建され氏の繁栄と軌を一つにして千年以上にわたり隆盛をきわめた寺院、江戸時代には勢力が衰えたとはいえ、2万1千石の寺領を所有し数十の子院、末寺をかかえた巨刹が一夜にして廃寺となったのである。

 慶応4年(1868)3月に布達された神仏分離令は、神社に奉仕する別当社僧は復飾(還俗)することと神社にある仏像や仏具は取り除くことを命じて、神仏混淆した神社から仏教的要素を一掃することであった。興福寺は寺院であるのに、なぜ僧全員が復飾したのか。僧侶たちは自らすすんで信仰を捨て寺を滅ぼしたが、そこに躊躇いがなかったのか。その後、彼らはどうなったのか。このような疑問に答えるべくこの大事件の顛末をたどってみたい。

     尊王思想に共鳴した興福寺

 慶応3年(1867)12月、王政復古の大号令が発せられて間もなく、興福寺は朝廷方に米千石の献納を申し出ている。願書に曰く、

「今般、王政復古仰せ出でしこと拝承、古今の御美事、一山の輩も恐れながら踊躍恐悦存じ候。これにより万分の一と雖も天恩に報いむために玄米千石を献納奉り候。もし御用の一助になれば冥加至極ありがたき仕合せに存じ候。なお微力ながら何か御用あらせれば仰せつけられるよう願いあげ奉り候。この段よろしくお聴きずみのほど伏して願いあげ奉り候。 興福寺一山学徒中」(『明治維新神仏分離史料 第八巻近畿編(㈡)』8頁)

 鳥羽伏見の戦いは、翌年の1月2日に勃発した。ここでの幕府軍の敗北と徳川慶喜の逃走により雌雄が決した。12月はまだ幕府が押し返す可能性があったときに、興福寺のこの一方的な加担は興味深い。興福寺の公家出身の僧侶は国学を学び尊王思想に染まった者が多く、彼らは維新政府を全面的に支持したというのが、吉井敏幸氏(天理大学教授・近世史)の説である。鳥羽伏見の戦いの後、幕府軍の伊賀越襲来が予想されるので情報を逐一報告するようにと興福寺は命じられている。奈良奉行所の行政権を一時預かることもあった。大和国鎮撫総督久我通久が奈良に入部したときは供応し米1千5百石を献納する。3月の大阪行幸には供奉を依頼され180人の人数を派遣した。

     僧侶であるよりも社僧

 3月17日、神祇官は復飾命令を布告し、社僧と呼ばれる神社に詰める僧侶は還俗するか、僧侶のままなら神社を去るように命じた。興福寺は一山協議して4月13日に復飾願を提出した。そこに次のような文句がある。     

「春日社の義はもとより社家・禰宜の輩これあり候へども、ただ神前に仕る所役にてこれあり。興福寺一派においては総じて春日社に関係いたし年中の神供米をはじめ社頭造営の向き、山木・灯籠・神鹿等の義にいたるまで興福寺の差配、なかんずく若宮祭祀の大営、薪能の義はことごとく皆興福寺一派において差配。大乗院・一条院の両門跡あいかわり別当職を勅許こうむり、一山僧侶をはじめそれぞれ手取役々の輩総括指揮いたし、往古より一同明神へ奉仕いたし来、すなわち一同社僧に御座候。向後奉仕差配の義が断絶せば朝廷の御祈りを社頭で出来難く悲嘆の際なくやまず。臣(大乗院)隆芳(一条院)應照をはじめ院家・学侶・三綱・衆徒・堂司・専当・承仕等別紙公名の通り一同復飾の上在来通りの所務いたし候の様仰せ出で願い奉り候。微力ながら一同勤王の道第一に尽力いたしたく相応の御用向きあらせ候へば仰せられたく候」(同18頁)

 興福寺の僧侶は古来より春日明神に奉仕してきた社僧であり、興福寺の僧侶にしかできない役があるのでもし絶えてしまえば朝廷の祭祀も行えなくなる。一山全員の復飾を認めてほしい。勤王の道第一に尽くすので御用があれば仰せつけてください。こういう内容である。僧侶として興福寺を守るか、それとも春日社の神官になるか、二つの選択肢をつきつけられた彼らは、躊躇なく後者を選んだ。1200年の歴史を持つ興福寺のこと、そして信仰のこと、彼らはどう考えていたのだろう。それについて伺える史料がある。一乗院、大乗院につぐ四院家のひとつ喜多院空晃の意見書である。

「当院も春日神社へ奉仕とは申しながら世外の身なげかわしく、復飾の上随身の御用向きあい勤めたく、これまた千歳の流幣とは申しながら遊民同様の僧侶、過分の高禄世襲の候事、恐縮されるにつきこの度すみやかに返上、旧幕より渡置かれし領券残らずあい添え尋ね出され候と申す趣意に候」(同22頁)

 「遊民同様の僧侶、過分の高禄を世襲してきた」と自らのことを語る。この正直さには驚かされるが、江戸時代の興福寺の様子が伝わってくる。幕府の宗教政策は民衆慰撫のため仏教を利用するとともにいろいろな特権を与えたが、それは一部では僧侶の堕落を招いた。廃仏毀釈は僧侶より低い位置に置かれた神官たちの私怨にもとづく暴発という一面があるが、仏教の側にもそれを誘発する要因のあったことは否定できない。

 興福寺を構成するのは、頂点の両門跡そして院家・学侶・三綱・衆徒・堂司・専当・承仕等の階層秩序である。復職を主導したのは門跡・院家・学侶の寺の上層部である。下層にある者たちは従うしかなかった。復飾願いが当局に聞き届けられ寺に伝えられたとき、唐院のある承仕(下級役僧)の書付には次のようにある。

「之により興福寺の称号は廃亡に相成り候。千万嘆息無限」(『大和における神仏分離史料の収集と研究』25頁)

 「千万嘆息無限」という文字からその心情が伝わる。このような思いを抱いた僧侶も多かったのに違いない。しかしまだこの時点では寺の将来は見通せていなかった。廃寺の現実に直面するのはこの後しばらくしてからである。歴史に「もし」があれば、復飾するものと寺に残るものに二分して興福寺を存属させる方法もあっただろう。それを選ばなかったのは、全山復飾が維新政府の意に一番かなうことであるという忖度があったのか。復飾派と僧侶派にわけることで寺内が混乱することを恐れたのか。後の興福寺復興の口上書で分離令が廃仏ではなかったいう文句が見えるので、誤解があったのか。ひとつ確かに言えるのは、「遊民同様」の門跡や学侶ら身分の高い僧は復飾するにあたって信仰はまったく問題になっていないということだ。彼らを突き動かしていたのは政治的な動機と得失利害であったと思える。

     復飾への抵抗

 復飾した興福寺の元僧侶は新神司となり、春日神社に参勤することになった。神社にもともと謹仕していた社家と禰宜は、突然押しかけた新神司に反発した。別当号がなくなったという理由で新神司の召し出しに応じることを拒絶する。困惑した両門跡はこの事態を神祇局に訴え、従来通りにせよとの命令を引き出して旧神官の抵抗はやんだ。興福寺僧侶の素早い復飾が、春日神社神官による独立のチャンスを潰したともいえる。春日大社権宮司の岡本彰夫氏の雑談で「明治時代に新宮司が来たとき旧来の神官たちは新宮司の作法がなっていないと言って陰で笑った」と言われたのを聞いたことがある。こんなことでうっぷんを晴らしたのだろうか。

 興福寺には末寺(18寺)とその子院(83院)と坊(6坊)あったとされるが、復飾によって本末関係は絶たれた。末寺にも復飾したり廃寺になるところが続出していく。

 維新政府の神仏分離令から日にちが経過し、それが廃仏毀釈を意図したものではないとわかってくると、興福寺の復興を望む僧侶が現れる。明治2年(1869)1月に子院の妙音院から提出された口上書には次のようにある。

「御一新につき寺社隔別の御趣意候へども破仏の御沙汰にては御座なき候。復飾あい願候段まったく心得違い御座候、なにとぞ復僧願いの通りお聞き済み相成り候様、ご採用下されたくひとえに願い奉り候。左様相成り候はば、第一に歴朝聖主の叡願並びに藤氏累代御先霊の御願に相応し、第二に神明仏陀の妙威にあい叶い候、第三に満寺各院先亡諸徳にいたるまで歓喜踊躍つかまるべき候、第四におよそ一千百五十余年相続仕り来し皇国無比の法相大乗教も滅亡仕らず候、第五に霊仏等僧侶一統の滅罪をも祈念したく愚願をご賢察なし下され……」(『明治維新神仏分離史料 第八巻近畿編(㈡)』50頁)

 五つの理由を挙げて興福寺を元に戻すことを訴える、きわめて理にかなった願いである。また東金堂衆と西金堂衆からも口上書が提出された。

興福寺は千有余年聖帝御中絶なく、勅願寺の儀につき御一新の折柄とは申しながら、廃寺と相成り候ては嘆かわしき次第に御座候、伽藍廃絶仕らず様、かつは他山他宗にて支配相成らず様とりはからいつかまつりたく存じ奉り候」(同50頁)

 興福寺の復興を願う元僧侶たちの必死の訴えであるが、両門跡は、復僧は「私利私欲を謀るもの」という理由で退ける。しかし復飾したからには仏教行事はもちろんのこと堂塔の管理もできない。中世以来の伝統の薪能も中止となった。東大寺から両寺の由緒を引いて堂塔の管理の申し出があったが、これは無視されたようだ。子院の西大寺僧が入院する唐院と唐招提寺僧が入院する小坊の僧侶は興福寺の出納を担当していたが、彼らは復飾していないので、当分の間両院に管理を任すことになった。

     寺宝の散逸、堂塔の撤去

 復飾した僧侶は全員改号する。一乗院は光谷川忠起、大乗院は松園嘉尚と名乗るようになる。明治2年3月には、新政府から新たな位階が与えられる。元門跡・元院家・元住侶で藤原氏出身者は堂上格(従五位)、藤原氏以外の元住侶は一代限りの堂上格、元住侶で地下の者は新社司となった。彼らはのちに華族制度が整うとともに男爵を叙爵する。奈良華族と称せられ26家あった。明治2年8月には「春日神社新規則」が神祇官によって策定された。新旧の神官を統一する新たな神職制である。明治4年5月には、春日神社は官幣大社に列せられ、神職の人事や祭祀の内容は神祇官の指導を受けるようになる。明治5年6月、大宮司に元一乗院門跡の水谷川忠起が補任された。神職は整理され、新旧の神官の大多数が罷免され神社を去る。高畑や野田にあった社家が退転するのもこの時からである。

 このような混乱が続く中で、寺院にある経巻、仏器、重宝、絵画、書籍などは流出する。私腹を肥やすためであり、それに手を貸す役人もいたという。天平の写経は金銀を取るために燃やされたり、反故紙となって奈良塗の漆器の包み紙あるいは茶箱の張り紙にされた。奈良時代以来、権威・権力を恣にした国家級寺院である。どれほどの宝物が散逸し破壊されたことだろう。ところで各地に残る伝興福寺とされる仏像もこのとき流失したと思われていたが、最近の研究で興福寺復興以後、資金に窮した寺が売却したことが明らかになっている。

 復飾以後、興福寺にとって決定的な打撃となったのは、明治4年(1871)1月の上知(あげち)令である。境内以外の寺社領が没収され、興福寺は経済的な基盤を失う。この影響は翌年、子院の建物や築地塀の全面的な撤去となって現われた。寺は「旧殿建物残らず取り払いたき由」と県に申し入れる。県は教部省に建物の処置について伺書を出す。一部引用する。

「門塀堂宇の儀は大半破壊に及び修繕の目的もこれなく、方今の御自体にては畢竟無用の長物に属し、中外諸人の通行の妨げにも相成り、加えて諸門内外の儀は不毛の土地にてすなわち今人民撫育専務の時に際しこの良土を旧臭に拘泥しいたずらに荒蕪に差置候儀は惜しむべきことにこれあり……」(同98頁)

 こうして「無用の長物」と化したほとんどの堂宇と塀や門は解体撤去され、現在見るような姿になったのである。なお一乗院宸殿は県庁・裁判所、仮金堂は郡出張所・警察署・県出張所に転用された。このとき初代奈良県令にあったのが四条隆平であり、彼は積極的に「旧習打破・開化政策」を進めた。神鹿が迷信であることを証明するため飛火野で鹿狩りを行ったり、農作物被害を防ぐために鹿園を設けて鹿を閉じこめたりして、鹿は激減したという。

 五重塔が危うく燃やされそうになったという有名なエピソードもこのとき起きたのだろうか。『明治維新神仏分離史料』に水木要太郎(奈良女子高等師範学校教授)の談として載る。 

五重塔を彌三郎とか云う者に売却せんとし、その価格は二百五十円であったそうです。とても足場をかけて打ち壊す費用はないから、火を放って路盤九輪等の金目の物を焼落して拾取ろうとしたが、何分にもあの高い建物に火を放てば近辺が危険であると云うことで見合されたそうです」(同177頁)

 『史料』の他の個所では「二十五円」となっている。水木要太郎は「奈良の生き字引」と称されて信頼されていた人物であるから事実として流布したのだろう。水木の生年は慶応元年(1865)で奈良に移り住んだのは後年であるから伝聞である。『奈良市史 通史四』には、唐招提寺末寺竹林寺の住職吉川元暢の話として、「十五歳のとき師の霊随上人が五両で売りに出されていた五重塔を買い取ったが、奉行所(ママ)から早く取り払えと催促された。取り壊す費用がなかったところ、奉行所が塔は金物があるからといって十五両で買い取られてしまった」とある。この話は直接見聞であるが、これを証拠づける物的証拠はない。こういう事情からか、五重塔のエピソードは「伝承」であるというのが興福寺の公式見解である。しかし、このようなシンボリックな物語が生まれ人口に膾炙したことに、興福寺の徹底的な廃仏毀釈の衝撃性が語られているといえる。

     興福寺の再興

 明治8年(1875)5月に西大寺住職佐伯泓澄が興福寺の管理を任された。同十年代になると興福寺の復興を唱える声が出てくるようになる。13年(1880)5月、「興福寺復称宗名再興願」が堺県を経由して内務省に提出される。元藤原氏華族からも再興願いが出された。14年(1881)2月に復号が許され、9月に清水寺住職薗部忍慶が兼務住職に任じられる。翌15年(1882)、佐伯泓澄から管理権を引き継ぎ、興福寺が再興された。18年(1885)に「興福会」が発足し、メンバーには会長の九条通孝、久爾親王三条実美近衛忠熙らの皇室関係者、水谷川忠起・松園尚喜の元両院家、法隆寺管長千早定朝、西大寺住職佐伯泓澄、元学侶の朝倉景隆・中御門胤隆等が名を連ねた。

追記(2023/9/13)

 安丸良夫著『神々の明治維新神仏分離廃仏毀釈―』の中に次の一節がある。「新政府の首脳からすれば、神仏分離は朝廷に関係のふかい大社寺から漸進的にすすめればよいものであり、この年四月、岩倉の工作によって「一山不残還俗」した興福寺は、そのモデルケースだった」(54頁)。「岩倉の工作によって」というところに注目したい。この本は新書なので、厳格な学術論文ではなく、典拠は示されていない。安丸良夫氏は「日本近世思想史」の碩学と定評のある学者だから、ただの推測でこんなことを書いたとは思えない。これを事実として考えると、興福寺の今まで述べてきた一連の出来事は、復飾だけではなくすべてが門跡と岩倉との根回しというか裏取引があって進んだと考えるのが妥当と思える。

 興福寺復飾者の新政府側への忠義立てと新政府から興福寺復飾者への優遇ぶりは際立っている。岩倉は、寺社勢力が新政府に協力してくれることが必要であり、それには大寺社が率先して政府の方針を実行して範を示してくれることが有効だと考えたことだろう。安丸氏は、それをモデルケースと書いた。公家出身者がトップを占める大寺社は、公家同士ということでコネクションもあっただろう。大寺社は、支配者が変わるときに自らの保身を図るために、岩倉の工作に率先して乗ったのである。これだけの大転換があった背後に、裏工作・裏取引を想定するのはきわめて理にかなっていると思う。


菩提院前の三条通か。築地塀があるが、この撮影の直後解体された。明治5年、横山松三郎撮影。文化庁文化遺産オンライン