130 春日若宮おん祭の歴史

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 大和最大の祭と言われるおん祭は、保延2年(1136)に始まり、900年近い伝統をもつ。その通史について本格的に語られることはこれまでなかったが、2016年に『祭礼で読み解く歴史と社会~春日若宮おん祭の九〇〇年~』が刊行され、始めておん祭の歴史が一般読者に明かされることになった。著者は幡鎌一弘氏(天理大学おやさと研究所教授)と安田次郎氏(お茶の水女子大学名誉教授)、おん祭の歴史を知ることは、タイトルにあるように、中世から現代までの大和の歴史と社会を読み解くことである。本書の内容に沿っておん祭の歴史をたどりたい。

     おん祭の創始と日使

 春日大社のHPは、おん祭創始の経緯を次のように説明する。「長年にわたる大雨洪水により飢饉が相次ぎ、天下に疫病が蔓延したので、時の関白藤原忠通(ただみち)公が万民救済の為若宮の御霊威にすがり、‥‥丁重なる祭礼を奉仕したのが、おん祭の始まりです。‥‥御霊験はあらたかで長雨洪水も治まり晴天が続いたので、以後五穀豊穣、万民安楽を祈り大和一国を挙げて盛大に執り行われました」。いわゆる関白藤原忠通創始説であり、これが通説である。

 本書はこの通説を疑うことから始まる。当時の史料では、忠通は「9月17日を祭の式日を定めた」と出てくる。祭を始めたのではなく、その日を決めたということである。忠通が祭催行のために財政的な援助をした形跡はなく、この時の若宮への奉幣の順番も6番目である。一番の奉弊者は興福寺別当であった。

 若宮神主がおん祭を記録した「若宮祭礼記」には、「為大衆沙汰 若宮御祭始給事」(大衆、沙汰をなし、若宮御祭を始め給うこと)とあり、興福寺の大衆が定めておん祭を始めたことが判明する。一番に奉幣したのが興福寺別当であったことが、これを裏づける。

 では、なぜこの年におん祭が始まったのか。

 平安時代院政期に入ると、摂関家藤原氏上皇に対抗するために宗教的権威にすがり、興福寺の欲求を許容するようになる。朝廷が大和にもつ公領を興福寺は荘園化し、11世紀から12世紀始めにかけて大和は国司の支配が及ばないようになっていた。保延元年(1135)に国守に任命された源重時大和国内の神社の参拝を行おうとするが、興福寺が妨害する。参拝は大和の支配に通じるからである。寺は国司支配に反対する強訴を行い、それが達成されるように若宮に願をかけ叶えられて始めたのがおん祭であった。

 若宮の創立とおん祭の創始は興福寺が主導して、興福寺衆徒と春日社国民により行われた。政治的かつ経済的な強い動機に支えられ、一国の団結のため宗教的なシンボルを創出したのである。祭の前に春日神人が伊賀、紀伊、河内、山城との国境に派遣されて斎戒を行ったことは、大和一国の祭であったことをよく表している。若宮の祭神・五所御子(天押雲根命)は水の神とされる。藤原氏氏神である春日四神に対して、農業生産に直結する水神は大和の地に根ざした神にふさわしい。祭日の9月17日は収穫祭の意味を持つ。

 お渡り式の第一番は日使(ひのつかい)である。関白忠通が祭に向かう途中にわかに病となり、お供の楽人にその日の使いをさせたことが始まりだとされる。しかし摂関家からは下級役人が別に派遣されており、実際は興福寺別当の使い(代参人)であったと見られる。祭を権威づけるためにこのような物語が作られた。

     流鏑馬と大和士

 流鏑馬と田楽はおん祭を代表する出し物で祭の最初から組み込まれていた。流鏑馬は武士の花形の武芸であり、これを主催し参加したのは、大和士(やまとさむらい)と言われる大和一遍の地侍である。衆徒や国民の身分となり、荘園の荘官でもあった。大和国内外の春日社領地侍が勤めたが、しだいに大和の地域ごとに組織されるようになり南北朝時代には六つの党(武士集団)が形成され、交代で願主人(流鏑馬の主催者)を勤仕した。次のような輪番があったという。

  一年目 平田党 戌亥脇(いぬいわき)党 散在党
  二年目 長川党 長谷川党 散在党
  三年目 平田党 葛上(かつらぎかみ)党 散在党
  四年目 長川党 長谷川党 散在党

 平田党は平田荘という荘園の武士たちによって結成された。摂関家の所領であったが、一部が春日社へ寄進された。大和最大の荘園であり、2300町(2600ヘクタール)の面積があったという。現在の大和高田市広陵町香芝市、葛城市に広がっていた。

 長川党は長川荘の武士によって結成され、ここも一部が春日社に寄付された摂関家の所領であった。現在の広陵町にあり、箸尾氏が棟梁となる。平田党と長川党はおん祭の最初から願主人を務めたが、流鏑馬の順番争いが絶えず、別のグループに分けられたという。

 長谷川党は大和川流域にできた武士団であった。今の田原本町にあった法貴寺と天満宮が拠点であり、ここで集会がもたれた記録がある。

 戌亥脇党は戌亥すなわち北西の方角をさし、大和の北西に位置する添下郡平群郡を拠点にする武士が集合した。この中から筒井氏が頭角をあらわす。

 葛上党は現在の御所市あたりの武士がまとまり、最有力者は楢原氏であった。

 散在党は上の五つの党に属さぬ武士たちの集合であり、越智氏が棟梁である。

 流鏑馬は武士の名誉をかけて順番を争ったので、射手を稚児にすることで争いを回避するようになり、13世紀の後半には完全に稚児流鏑馬に移行した。

 願主人に指名されると射手の手配だけではなく、多くの仕事があった。射手や多数の従者たちをそろえて、華やかな装束は貸衣裳で調達し、その費用は換算すると200万円から400万円を要したという。在地ではプレおん祭とでもいうべき行事が繰り広げられ、一族と地域の団結がはかられた。そして祭を口実に領民への夫役や流鏑馬米、有徳銭をかけて領内支配を強めた。

 願主人は党ごとに奈良の宿所があり、ここで祭の参加者を饗応し贈り物も用意した。若宮社には巨額の御神楽銭と種々の進上品を奉納し、興福寺にも山海の珍味が届けられた。

 室町時代になると興福寺は内紛などで弱体化していく。代わって大和士の力が伸びて祭を主導するようになる。

     田楽頭役

 田楽はおん祭を代表する芸能である。田植えの時に田の神をまつるために歌い踊ったことに起源があるといわれる。腰鼓、笛、編木(びんささら)などの楽器を用いた群舞や高足などの曲芸を行った。御霊会などで奉納され、災いをもたらす悪霊を退散させる力があると信じられた。豪華な装束をまとうのも除災の威力を増すためのようだ。

 田楽を主催し準備するのが田楽頭であり、興福寺の学侶があたった。学侶は学問のある僧侶の意味で、衆徒よりも上位だった。田楽は本座と新座の二座あり、それぞれに頭が指名されたが、指名権は衆徒にあった。逆に願主人の指名権は学侶にあったという。

 田楽頭は田楽法師に豪華な装束をあてがう。これにともなう行事があり参加者を饗応し若宮社へも献納しなければならないので、莫大な経費を要した。学侶は自らの子院の荘園に反銭、末寺に御用銭、商人の座には典役、郷には間口銭などを課してまかなった。願主人もそうであったが、田楽頭役の経費も結局は民衆が負担としたのである。

 有力な子院の学侶は負担できても、そうでない学侶も多い。14世紀中頃から田楽頭になった学侶に寺門が助成するようになった。

     中世から近世のおん祭

 おん祭の主要行事は旧暦の9月17日に実施されてきたが、度々延引した。寺院内外の争いや諒闇などが原因である。時に中止になり、その分を翌年の春に実施することもあった。15世紀始めに式日は11月27日に変えられた。16世紀になると他国の武士の侵入のため、祭が中止になることがしばしば起きた。中止は大和の国人同士の争いが原因のこともあり、興福寺の大和支配は崩れつつあった。永禄10年(1567)、松永と三好の戦いで大仏殿が炎上したあとの9年間、中止となった。

 おん祭の歴史に大きな転機が来たのは、天正13年(1585)の豊臣秀長の郡山入部である。興福寺に代わって大和の支配者になった秀長は、おん祭の主催者となる。筒井氏は伊賀へ国替えとなり大和士も大和を離れていた。秀長は長谷川党の法貴寺氏人を呼び戻し願主人を勤めさせた。田楽頭にも300石を与えて助成する。

 徳川の天下に変わり奈良は天領になると、奈良奉行がおん祭の主催者になる。奈良奉行は、国内の大名や旗本の石高に応じておん祭にかかる費用を割り当て分担させた。領主はそれを領民に課税して調達した。お渡りの槍や随兵、人足の供出は軍役として藩が奉仕した。松の下には奈良奉行が陣取り、その脇に郡山藩、高取藩、小泉藩などの家中が検知をかねて見物した。

 現在の大宿所は、秀長時代に奈良代官の井上源五が餅飯殿町に遍照院を建て大宿所にした。奈良奉行は運営費に200石をあてた。大宿所に奉納される掛け物は、元和5年(1619)の記録では雉1200・狸210・兎230にのぼったが、これにあたった領主は請負に任せて大和国内外から集めたという。

 大名行列が新たに加わった。願主人役は特定の家が引きついだ。農民であったが、名字帯刀が許されて特別な待遇をうけた。お旅所の御殿木は各郡が持ち回りで供出し、他の用材や人足は近郊の町村が提供した。

 中世から戦国時代まで祭は延引されたり、中止になることも珍しくはなかったが、江戸時代には厳格に実施された。唯一の例外が、第六代将軍徳川家宣が死去した正徳2年(1712)に1ヶ月延期されたことである。

 おん祭の創始が興福寺大衆によるものであったことはすでに見たとおりであるが、藤原忠通創始説が生まれ喧伝されるようになったのは江戸時代からである。17世紀後半に刊行された名所記で広まっていき、寛保2年(1742)の『春日大宮若宮御祭礼図』の記述で決定づけられる。その背後には春日社の策動があった。17世紀の中頃から全国的な神道思想の台頭があり、春日社も興福寺からの自立を図るようになる。

 春日社はこの頃みずから記す文書に「興福寺大衆の沙汰」という祭の由来を書き換えて「飢饉が続き疫病が流行ったので藤原忠通が創始した」という文言を入れる。驚いたことに興福寺もこの説を追認する。この理由について、著者は次のように推測する。

 興福寺の大和支配は遠い過去のことになり、実質的に奈良奉行の祭になっていた。寺は政治的な権力も宗教的な権威も失って、祭の意義や役割を問い直す時期に来ていた。その頃、発生したのが金堂や西金堂、講堂を焼き尽くす火災である。伽藍の復興が喫緊の課題となり、「朝廷の支援を受け、幕府に働きかけて資金を集めるためには、おん祭の創始と関白との結びつけを強調して朝廷を動かし、さらに天下太平・五穀豊穣・人民快楽・を祈るものとしておん祭を位置づけ直して、多くの人々に現世利益を説くことのほうが、はるかに意味があっただろう。」

     近代のおん祭

 明治維新はおん祭存続の最大の危機だった。奈良奉行興福寺も突然に消滅したのである。春日社の神官になった元学侶や神職が執り行ったが、縮小、改変、廃止される行事が続出した。祭のために旧神領や信者でいくつもの講社が結成され奉仕するとともに、一般からの寄付を募った。明治11年(1878)には新暦に合わせて祭日は12月17日に変更された。明治20年(1887)の収支は支出420円、収入384円であった。明治25年は支出390円、収入285円と苦しい状態が続いた。大阪鉄道湊町・奈良間が全通して、大阪からの観光客を呼び込むため、11月7日を祭日にすることも試みられたが、農作業がまだ終わらない時期で不評のためすぐに12月17日に戻された。

 明治31年(1898)に奈良市が誕生した。祭は奈良市の発展のために必要と考えられ、市祭と位置づけられる。神社と市が祭務委員会(後に春日奉賛会になる)を設けて祭を運営するようになる。明治41年(1908)の収入は1433円で、そのうち500円は奈良市弊饌料、788円が市内町村からの寄付である。これで祭は経済的な基盤を得た。

 京都の時代祭を参考にしておん祭のお渡りに新たな行列を加えることも図られた。増えてきた外国人観光客の目を意識した試みでもあった。明治の終わり近くには、露店や見世物小屋が数多く出て賑わい、植木市も恒例となる。正月用品を商う歳の市も兼ねるようになる。

 昭和6年(1931)には、行列が再整備された。明治以後に生まれた新しいものは番外として先頭に置き、江戸時代以来のものは12番にまとめる現在の行列の形はこの時にできた。春日神古楽保存会が発足し、雅楽、田楽、細男の伝承・保存が図られた。行列のコースは興福寺の旧築地の周囲を巡っていたが、昭和8年には、現在の県庁前を出発し近鉄奈良駅前、油阪、JR奈良駅前、三条通りを回遊するコースの基本が定まった。戦時下では、町内会長が「武運長久旗」を掲げて行列したが、行事の縮小・簡略化は避けられなかった。

     現代のおん祭

 敗戦後、宗教行事のおん祭に自治体が関わることは、GHQの方針でタブーとなった。この窮地を救ったのが、観光業を営んでいた谷井友三郎である。昭和21年(1946)から23年まで谷井は私費を投じて祭を支えた。自治体の関与の制限も徐々に緩んで、昭和26(1951)年に奈良県はおん祭の行事を無形文化財に指定した。この年から縮小されていた行事は戦前の形に戻された。昭和27年には、舞楽・田楽が国の「助成の措置を講ずべき無形文化財」に選定される。さらに昭和54年(1979)に「春日若宮おん祭の神事芸能」は国の重要無形民俗文化財の指定を受けた。これを機に春日若宮おん祭保存会が結成され、名誉会長に奈良市長が就任し、春日大社奈良県奈良市奈良市観光協会、奈良の実業界、奈良市自治連合会が参画した。

 昭和54年に結成された大名行列保存会は、市民の参加を募って郡山藩・子供大名行列南都奉行の三隊を整え、奴振りのパフォーマンスが人気を博している。

 絶えたり改変された行事は徐々に復興されてきた。特に昭和60年(1985)はおん祭850周年になり、この年は装束賜(しょうぞくたばり)の名が復活し、大宿所での御湯立、南大門交名(きょうみょう)の儀、競馬、流鏑馬の行事、お渡りの郷神子(ごうのみこ)と八島神子(やしまのみこ)が復興される。平成15年(2003)の若宮御出現1000年では、頭屋児(とうやのちご)、素合御供(すごのごく)、宵之御供(よいのごく)、辰市神子(たついちのみこ)が復興された。お旅所芝舞台に雨天用幄舎が新たに設置されるようになる。

 おん祭は大和一国の大和による大和のための祭として始まり、時代が変わっても大和を治めるものが主催者となり国内の各層、幅広い民衆の参加をもって続いてきた。いくたびも存亡の危機に直面して行事の改変を重ねてきたが、祭礼としての本質的な形は維持されてきたように思える。祭礼を核としながらも娯楽、観光、商業といった多面的な要素を持ち、時代に応じて様々な相貌を見せる。現在は文化財という面に注目され、古儀復興もその路線に沿っているようだ。900年の歴史という価値は今後さらに増していくだろう。

参考
幡鎌一弘・安田次郎『祭礼で読み解く歴史と社会~春日若宮おん祭の九〇〇年』山川出版社
朝倉弘『奈良県史11 大和武士名著出版
大和芸能懇話会編『春日若宮おん祭』春日若宮おん祭保存会