122 志賀直哉旧居の保存運動

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奈良学園による旧志賀直哉邸買収を報道する新聞記事

 奈良市高畑町に所在する志賀直哉旧居は、所有する奈良学園セミナーハウスとして利用されるとともに一般公開され、志賀直哉とここに集った文化人の足跡をつたえる。また奈良公園に隣あった高畑の文化風土を形成する「近代遺産」として、古都奈良の重要な観光資源でもある。しかし旧居はかつて取り壊しの危機に直面したことがある。それを救ったのは、地元の人たちを中心にした保存運動だった。

    「旧志賀邸保存を考える会」を結成

 志賀直哉はみずから設計した数寄屋風の近代的な住居に、昭和4年(1929)から13年まで住んだ。この後、奈良の資産家の所有となり、戦後は米軍に接収され将官が住まいした。昭和28年に国有となり厚生年金保養施設「飛火野荘」として使用されたが、昭和50年(1975)頃から建物の老巧化などのため改築計画が立てられた。

 旧居の東隣に住む画家の中村一雄氏がそれを知ったのは、昭和50年6月のことで友人が飛火野荘に宿泊し管理人から改築計画を聞いて中村氏に話したことによる。中村氏の父、義夫氏も画家で「高畑サロン」の常連として直哉と濃厚な交際があった。昭和10年生まれの一雄氏は、東京に移住した直哉がのちのちも義夫氏とつきあいがあり、会えば「大きくなったね」とかわいがられた記憶がある。「隣に住んでいた志賀さんの邸は、何が何でも保存しなければと思った。最初起ち上がったときは、私独りでもこれをやろうと決心した。」中村氏は著書『奈良高畑の志賀直哉旧居―保存のための草の根運動』のなかで、保存運動を決意したときの強い気持ちをこう表現されている。

 知り合いの新聞記者に話し、毎日新聞に第一報が出たのは9月だった。旧志賀邸が保養施設として改築の予定があり、それに対して保存を願う声もあるという内容だった。旧志賀邸の説明と意義を説く識者の話も載る。

 中村氏をはじめ地元の人たちが中心になって「旧志賀邸保存を考える会」が12月に結成された。年が改まり1月、飛火野荘を管理する奈良県民生部保健課を尋ね話し合う。保健課課長の話は「建物が老巧化しているので改築したい。こちらで保存する考えはない。もし代替地があれば譲ってもいい。7千万円ほどの価格になる」ということだった。旧志賀邸の東隣の住人から住居として購入したいと申し出があった。個人の所有になれば保存が保証されないから「考える会」は、この申し出をことわった。「文学資料館」や「文化センター」のようなものとして生かされないかと構想した。

    県や市は「保存」する価値を認めず

 3月にふたたび保健課と話し合った。「旧志賀邸は直哉の生誕地ではない。昭和の建物で保存する価値はない。現在地は狭いので代替地を探している。登記簿の簿価から1億2、3千万円で売りたい」と聞かされた。5月には鍵田忠三郎奈良市長と面会した。「奈良市は財政が悪化している。直哉の生誕地ではないし、遺品や遺稿があるわけでもない」と、市長は市として保存に乗り出す考えはなかった。

 9月に初めての市民集会を高円公民館で開催した。参加者60人。「高畑サロン」に出入りしかつて高畑に住んだ作曲家の菅原明郎氏と志賀邸を建てた大工の一人、鹿野能市氏の講演があった。ここで会の名称は「旧志賀邸を保存する会」に変更された。中村邸の門前に置いた署名簿には500名の署名が集まっていた。さらに署名とカンパを呼びかけて街頭に立った。この頃には奈良大学の日本文学が専門の浅田隆講師(当時)も活動に加わり、学生たちとともに「志賀直哉と奈良」のテーマでパネル展を興福寺境内で行った。校区の飛鳥小学校の父兄を対象に旧志賀邸見学会を実施し150人の参加があった。このような活動は全国紙で報道され、各地から共感の便りやカンパが届けられた。

 10月に奥田良三奈良県知事に保存を陳情している。しかし知事は「旧居の北側の茶室と書斎は残すが、南側の食堂やサロンはその必要はない。すぐに腐ってしまうから県費は出せない」と県議会で答弁、全面保存を願っていた会の面々を失望させた。県議会の「文化財保存対策特別委員会」にも保存を請願したが、結論は出ず継続審議になった。

    自分たちで買い取りを

 このような経過から「保存する会」は、財団法人を成立して自分たちで旧邸を買い取るという考えを持つにいたった。昭和52年に入り、それを実行すべく会長に唐招提寺の森本孝順長老の就任の内諾を得て、直哉ゆかりの作家や出版社への働きかけなどの準備を進めた。この間(1月)上京して社会保険庁に1万8千人の署名を提出し保存を陳情しているが、担当者や長官の態度は素っ気なかった。

 3月になり事態は急に動き出した。東京の吉井画廊吉井長三氏から購入の申し出があった。白樺派作家ゆかりの美術館にしたいという構想だった。また日本画家の東山魁夷氏の邸宅にするという案も持っていたらしい。このあと奈良学園理事長の伊瀬敏郎氏からも購入したいという申し出が来た。「全面保存して奈良文化女子短大のセミナーハウスにしたい。志賀文学の資料を集め一般にも公開したい」という案だった。財団をつくる難しさをわかっていた「保存する会」は、自分たちの考えに近くさらに地元奈良の大学ということもあり伊瀬氏の申し出を受けいれた。

    奈良学園による買収とセミナーハウスへ

 伊瀬氏は奈良県に購入を申し出て民生部と交渉する。価格や代替地をめぐってやりとりがあったようで、合意ができるまで半年かかった。10月に県の民生部長と伊瀬理事長と「保存する会」代表の中村氏がならんで記者会見した。価格は約1億円ほど、代替地は200mほど西の旧法務局跡になったことなどが発表された。新聞紙上に中村氏の談話として「2年半にわたる保存運動が実をむすんでうれしい。‥‥今後は宝の持ち腐れとならないよう有意義な保存に向けて努力と協力を惜しまない」と載る。

 価格交渉はこの後も続いていて最終的には5千8百万円となった。簿価より大幅に安くなったのは、教育・福祉・公共団体は減額措置を受けられる国有財産特別措置法第三条の適用があったからである。超党派の県選出国会議員や県会議員の協力を得たことが、『奈良学園二十年のあゆみ』に記載されている。

 昭和53年(1978)11月に半年間の旧邸補修・修復工事をへて一般公開されることになった。このとき人数を制限して庭から見学するという条件が課せられたため、「保存する会」は「○内部の見学○茶室での茶の湯○志賀さんが恒例にしていた二階客間からの若草山々焼きの鑑賞会○セミナーハウスを市民にも開放」してほしいという要望を出した。内部の一部公開は実現したが、4年後、見学者が多くて建物が傷むという理由で、入室できるのは庭からサンルームだけということになった。中村氏が『奈良高畑の志賀直哉旧居―保存のための草の根運動』を刊行したのはその翌年の昭和58年(1983)である。旧邸が保存されながらも十分活用されていないことへの不満が、この記録を残す一つの動機となったようだ。

 同書には保存運動に終始尽力した同志として、志賀さんお気に入りのタクシー運転手を務めた帝産タクシー社長の高田恵次氏、主婦で4千人の署名を集められた木村宥子さん、飛鳥小学校の父兄に説明会を開催し会計を担当された主婦の林節子さん、奈良大学の浅田隆氏の名前があげられている。

    旧居の復元と完全公開の実現

 奈良学園は平成21年(2009)に、旧志賀邸の全面的な補強工事を実施、あわせて直哉が住んでいた当時の状態に邸宅の内外を復元した。直哉は記念碑や記念館をつくることは遺言で禁じたため当初意図されたような資料館にはならなかったが、遺族から奈良時代の写真120枚のコピーが寄贈された。これが復元に役立った。現在は旧居の隅々を見学できて昭和初年の志賀家の日常を偲ぶことができる。さらに市民を対象にした講座も邸内で開催されている。復元を記念した冊子に中村氏は「夢がかなった」と喜びのメッセージを寄せられている。

参考
中村一雄『奈良高畑の志賀直哉旧居―保存のための草の根運動』谿声出版
学校法人奈良学園奈良学園二十年のあゆみ』
学校法人奈良学園志賀直哉旧居の復元』

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