129 薬師寺薬師如来坐像は白鳳仏か天平仏か

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 奈良市西ノ京の薬師寺本尊薬師如来坐像はブロンズ像として世界の最高峰という位置づけが定着している。写実に基づく美の完成された姿として評価する言葉は枚挙にいとまがない。和辻哲郎は『古寺巡礼』のなかで「あの豊麗な体躯は、蒼空のごとく清らかに深い胸といい、力強い肩から胸と腕を伝って下腹部へ流れる微妙に柔らかな衣といい、この上体を静寂な調和のうちに安置する大らかな結跏の形といい、すべての面と線から滾々(こんこん)としてつきない美の泉を湧き出させているように思われる。」(岩波文庫版158頁)と最大級の賛辞を送る。和辻の仏像の捉え方が文学的すぎると批判した美術史家の町田甲一氏も「その(薬師如来坐像)写実的な表現は、上半身に纏った法衣についてもみられ、中に包まれた肉体の形姿に応じて的確な線を描き、薄衣の柔らかい質感をよくあらわしているばかりでなく、豊かな生気ある肉体をも薄衣を通じてリアルに表現している。ことに左胸の部分や、左上膊部から左肩先へかけて衣文のきえてゆくあたりには、生きた人間の体温や触感まで実感させるような、迫真的な表現が認められる。」(『奈良六大寺大観 薬師寺』44頁)と言葉を尽くしてその特徴を微細に表現している。シャープで繊細な感受性の持ち主たちの解説には教えられることが多い。

 薬師如来像は脇侍の日光・月光菩薩像とともにぬめるような輝きを放っていて、ときにその光の反射は鑑賞を妨げられるように感じることがあるほどだ。一説によれば、あの独特の輝きは火災をくぐり抜けた金属の化学反応だという(『大和古寺巡歴』149頁)。それが一層仏像の「神々しさ」を増幅しているのかもしれない。

    本尊移座を記す『薬師寺縁起』

 これほどの仏像だから製作年代への関心は高い。しかし今なお白鳳説と天平説が対立したままで決着をみていない。いわゆる本尊移座論争――藤原京の本薬師寺薬師如来像が平城薬師寺へ移座されたかどうか――と直結する問題であるから、その帰趨は容易ではないだろう。しかし論争の中身を知ることで、仏像と寺の歴史への理解が深まることは確かである。

 長和4年(1015)に成った『薬師寺縁起』は、薬師三尊像が持統天皇の造像であり本薬師寺から7日かけて運ばれたと記す。薬師寺はこの記述を公式見解とし、薬師如来像が白鳳仏であるという説の最大の根拠もこの『縁起』にある。ちなみに美術史上の白鳳文化乙巳の変(645年)から平城遷都(210年)の時期を指し、天平文化は平城遷都以後の奈良時代を指す。

 本薬師寺の造営のプロセスは、『日本書紀』と『続日本紀』の記述からいくつかの節目がある。本尊との関わりから注目されるのは、持統2年(688)に薬師寺で無遮大会が行われたことである。686年に崩御した天武天皇の葬送儀礼の一つとして重要な儀式が行えるほどに寺の造営は進捗し、金堂と本尊はこの時は完成していたと見なすのである。

 持統11年(697)6月に「公卿百寮、天皇の病気平癒のために仏像を発願」という記事が『書紀』にある。その1ヶ月後に「公卿百寮、薬師寺にて開眼供養をおこない」、2日後に持統天皇文武天皇に譲位している。この記事を以て本尊薬師如来像の完成という見方もある。しかし丈六ブロンズ像を製作するのに1ヶ月は短すぎる。また天武天皇が発願した寺院であるのに本尊が公卿百寮の発願となるのはおかしいという批判がある。天平仏派は本尊の持統2年完成とする者が多く、白鳳仏派は持統11年完成と見る者が多いようだ。

 『薬師寺縁起』は平城薬師寺が造営された約300年後に著された。奈良時代に作られた『薬師寺流記資財張』を直接引用する形式で書き進められるが、薬師三尊像を含む金堂条は間接引用であり、天皇の名も他が和風諡号であるのにここでは持統天皇という漢風諡号が用いられる。そのためこの部分の記述は『縁起』の作者の作文として「本尊移座」を疑う意見がある。一方、間接引用も和風諡号も問題ないという反論もある。

 長和4年時点で、本尊は本薬師寺から移座されたと思われていたことは確かである。他に手掛かりにできる有力な文字資料はないので、『縁起』だけから考えると、本尊移座=白鳳仏説の優位性は動かないようである。

     様式から見た薬師如来坐像 

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薬師如来坐像頭部

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山田寺仏頭

 昭和12年(1937)に興福寺東金堂から青銅丈六像の頭部が発見された。『上宮聖徳法王帝説』裏書から、天武天皇14年(685)に開眼供養が行われた旧山田寺講堂本尊薬師如来像の頭部とみられる。現在国宝館に安置された「仏頭」である。製作年代のわかる白鳳仏の出現は、仏像の様式研究を一気に進展させた。町田甲一氏は、仏頭と薬師寺薬師如来像の様式的な相違を次のように述べる。長文になるが引用する。

 「飛鳥仏に比べると、白鳳の仏像は、顔も肉体も丸く、柔らかな肉付けになっている。衣の襞も飛鳥のものに比べて、はるかに柔らかくリアルになっており、衣と肉体の関係も、かなり有機的にリアルになっている。(略)

 しかし、その点も.天平時代のものに比べればまだ十分でない感じがある。天平時代の仏像の衣は、全く本物のように、塑形されており、肉体の表現も完璧である。さらに細かい点についていえば、白鳳の仏では、眼は上瞼の線が弧を描き、下瞼の線はほぼ直線をなしているが、天平の仏像では、むしろ上瞼の方が直線に近く、下瞼の線がゆるく大きく波打っている。また白鳳仏では、鼻の外側がかたい面をなし、これが頬の面と接するところに、強い線をあらわしており。鼻筋の線も強い直線をなして眉の線につながっているが、天平時代のものでは、すべてが柔らかく.丸味をもってあらわされている。

 鼻も白鳳仏では、小鼻が幅せまく、上下に長く、鼻の孔のある面が多くの場合かたい平面をなしている。その点でも天平仏は柔らかく豊かな鼻であり、また白鳳仏は、顔の感じも童顔で、身体比例も小児的であったり、あるいはそうでなくとも身体つきの感じが小児の身体を思わせるようなものを示しているが、天平仏は、顔も身体も全く完成された成人の相好を示している。」(『大和古寺巡歴』153頁)

 これだけの様式の相違がある二仏がわずか3年の時間差で製作されるとは思えず、相当の期間を経て、すなわち薬師如来坐像は移転後の平城京において製作された天平仏であるということになる。

 様式の相違は白鳳仏派も認める。この時代の日本の仏像が唐の仏像の影響を受けて製作されたことは美術史の共通理解となっているが、唐から移入された新旧の様式が同時に並行して、一方は山田寺講堂の薬師如来像、もう一方は薬師寺薬師如来像になったというのが、本尊移座説の白鳳仏派の基本的な考え方である。様式の新旧が製作年代の差異に必ずしも現れないというのである。美術史家の杉山二郎氏は、「唐長安在住の一流の仏師、鋳造工」の手により「唐朝中期・盛期に結実したグローバルな造形表現、様式そのものがこれらの彫像に具現した」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』145・148頁)という。これなら新様式を理解吸収する時間も省けるだろう。

 しかし様式と製作年代とを切り離す説は、他の仏像を含む全体に当てはめることは困難に思える。飛鳥、白鳳、天平の仏像の様式は工法とともに年代と相関して変化していったと捉える方が整合的である。この点で薬師如来像=天平仏は説得力がある。

     長和4年の伝承

 本薬師寺は平城薬師寺ができたあとも存在し続けた。廃絶したのがいつ頃になるかは正確には不明だ。万寿2年(1025)に源経頼は本薬師寺に宿泊したことを『左経記』に記しているから、寺として存在していたことは確かである。しかしその70年後の嘉保2年(1095)には、本薬師寺の塔跡から舎利が発見され平城薬師寺へ移された(『中右記』『七大寺日記』)ことから、この頃までは完全に廃絶していたようだ。

 長和4年(1015)の『縁起』が書かれたころは、堂塔がどこまで残っていたかはわからない。『縁起』の金堂条が間接引用であり漢風諡号が使用されることを問題視する議論を先に紹介した。「已上持統天皇奉造請坐者 已上流記文今略抄之」と小文字で記されたあと、「古老傳云 件佛像従本寺七日奉迎云々」と続く。「以上(薬師三尊像)は持統天皇がお造りになり安置せられた 以上流記から抄略して記す 古老の伝えるところでは、件の仏像は本薬師寺から七日かけて迎えられた」という大意であろうか。この部分は『縁起』の作者が書き加えたもので、『流記」にあったものではない。そのため内容の真偽性に疑問の余地が生じるわけだ。確実に言えるのは、長和4年の時点で本尊は移座されたという伝承があったことのみである。

 このような伝承が生じたのは、本薬師寺の金堂が本尊仏像とともに廃絶して久しかったからではないだろうか。もし本尊移座が事実だとすれば、金堂は空となり新たに本尊を造るか空のままかのどちらかになる。古代史家の東野治之氏は、平城薬師寺が本薬師寺の宗教機能を吸収したため本尊不在であったとしても問題はないと述べておられるが、寺の中枢が不在のまま300年間維持されたというのは理解を超える。本尊を新たに造るというのも不自然であり手間を要する。やはり新旧の寺にはそれぞれに本尊が安置されていたが、本薬師寺の金堂と本尊が失われ幾世代を経る間に伝説が生まれたのではないか。その背景には見事な仏像を本願の天武・持統天皇へ結びつける思いがあったように思う。

参考
和辻哲郎著『古寺巡礼』岩波書店
『奈良六大寺大観三 薬師寺岩波書店
町田甲一著『大和古寺巡歴』講談社
東野治之「文献史料からみた薬師寺」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』冨山房インターナショナル)
杉山二郎「薬師寺金堂薬師如来三尊考」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』冨山房インターナショナル)
久野健著『白鳳の美術』六興出版
林南壽「金堂薬師三尊像」(『薬師寺千三百年の精華~美術史研究のあゆみ』里文出版)
大橋一章著『日本の古寺美術4 薬師寺保育社