116 「たまきはる命は知らず」――安積親王の死

安積親王陵墓(京都府相楽郡和束町) 遷都さなかに急死した親王 天平16年(744)閏正月1日、恭仁宮の朝堂に百官を集め異例の諮問があった。「恭仁京と難波京のどちらを都にすべきか」と意見を募ったのである。恭仁京と答えたのは、五位以上の者24人…

115 「いやしけ吉事」――それからの大伴家持

陸奥国多賀城跡 家持終焉の地 『万葉集』は、大伴家持の次の歌をもって最後を締めくくる。 新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事 ⑳4516 (大意)新しい年が始まる初春のおめでたい今日、さらにめでたくも雪が降っている。たくさんの良きことがあ…

114 ⑤写真家・入江泰吉の生涯

画家を志望した少年時代 入江泰吉が生まれたのは明治38年(1905)、生家は奈良市片原町にあった。片原町の町名は現在存在しないが、高畑町の大乗院庭園文化館が建つあたりである。自伝の中で、「前に川があった」「裏の大乗院の池で鯉を獲った」ことが…

113 ④入江泰吉の永遠の「大和路」カラー鑑賞篇

入江泰吉は、風景写真を志す若者へのアドバイスとして次のようなことを書いた。「風景写真は、単にそこにある風景を写せばよいというものではない。映像の中に、情感や、いうにいえない気配が写っていなくては、人の心に感動を呼ぶものにはならないと思う。し…

112 ③入江泰吉の永遠の「大和路」カラー篇

東大寺塔頭跡『古色大和路』より 入江泰吉が「大和路」の写真家として評価を確立した三部作『古色大和路』、『萬葉大和路』、『花大和路』は、1970年から76年にかけて上梓された。高名な作家、評論家、俳人、歌人、随筆家、学者がエッセイを寄せ、詳細な解説…

111 ②入江泰吉の郷愁の「大和路」モノクロ鑑賞篇

司馬遼太郎は、『街道をゆく』の中の「竹内街道」で次のように書き記している。「言霊ということばはわれわれにとってなるほどいまも妖しく、『大和は国のまほろば』などと仮にでもつぶやけば、私の脳裏にこの盆地の霞がかった色調景色が三景ばかり浮かびあ…

110 ①入江泰吉の郷愁の「大和路」モノクロ篇

勝間田池の堤防から薬師寺東塔を望む 昭和30年代前半『昭和の奈良大和路』から 入江泰吉(1905~1992年)の最初の写真集『大和路』(東京創元社)が出版されたのは、1958年(昭和33年)であった。その前年、文芸批評家の小林秀雄が、東京創元社の社長、小林…

号外 検察庁法改正案に反対する松尾邦弘・元検事総長ら検察OBの意見書

https://digital.asahi.com/articles/ASN5H4RTHN5HUTIL027.html?iref=comtop_8_01 検察庁法改正に反対する松尾邦弘・元検事総長(77)ら検察OBが15日、法務省に意見書を提出した。ここには、改正法案の問題点が詳細に述べられている。そして司法の三権分立の…

号外 三権分立を破壊する検察庁法改正案の「特例規定」

「奈良歴史漫歩」は過去の歴史のロマンを語ることをモットーとしているので、少し違和感があると思いますが、現在の時事問題についても取り上げていきたいと思います。「歴史とは現在と過去の対話である」とは、英国の歴史家、E.H.カーの名言です。歴史への…

109 天平の天然痘大流行

「呪符」木簡(『平城京と木簡の世紀』より) 新型コロナウイルスによるパンデミックは大方の日本人にとって未知の体験です。しかしこれまでの内外の歴史を見ると、人類は感染症とともに生きてきました。感染症の原因が究明され、有効な治療・予防法が生み出…

108 棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか(後編)

~明治・大正期の平城宮跡保存運動の深層~ 第3章 「奈良大極殿址保存会」 1911年(明治44)~1922年(大正12) 奠都祭の翌年に棚田は上京して司法大臣、岡部長職子爵と面会します。「宮跡の保存策が示されなければ奈良へ帰らない」と強く迫ります。岡部子…

107 棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか。(前編)

~明治・大正期平城宮跡保存運動の深層~ 平城宮跡朱雀門前の棚田嘉十郎像 序章 「文化財保存」の先覚者 平城宮跡は、1300年前の奈良時代の宮の姿が地下に眠っています。国の特別史跡になり世界遺産にもなっています。宮の正門である朱雀門の前には棚田嘉…

106 有馬皇子自傷歌の作者は誰か

有馬皇子自傷歌は自作か他人の作か? 万葉集の挽歌の部立で最初に来る歌は、有馬皇子の自傷歌である。謀反を企てた罪で、紀伊の牟婁(むろ)の湯(白浜温泉)に滞在していた斉明天皇と中大兄皇子のもとに護送される。その途中の岩代で詠まれた歌だ。 有馬皇…

105 東の野に立つのは、“けぶり”か?“かぎろひ”か?

かぎろひの丘万葉公園(奈良県宇陀市) 東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ 巻1-48 柿本人麻呂が、軽皇子の遊猟に従駕して詠んだ歌の一つとして有名な歌である。夜明けの太陽が現れる直前、光が射し、振り返れば、月は西空…

104 万葉挽歌の大和――堀辰雄著『大和路・信濃路』

堀辰雄が月刊誌『婦人公論』に「大和路・信濃路」を連載したのは1943(昭和18)年であった。戦後、新潮文庫と角川文庫に『大和路・信濃路』のタイトルで他の文章も加えて刊行された。両者は編集が異なり収載された文章や配置に異同がある。大和路を直接…

103 大和を舞台にした求道の書――亀井勝一郎著『大和古寺風物誌』

私がはじめて新潮文庫版『大和古寺風物誌』を読んだのはかれこれ半世紀ほど前である。著者は1966年に亡くなっていたが、有名であったし、この本が人気のあることはなんとなく知っていた。タイトルが牧歌的であるのにもひかれた。しかし甘美な詩情あふれ…

102 仏像鑑賞の近代的幕開け――和辻哲郎著『古寺巡礼』

和辻哲郎の『古寺巡礼』が刊行されたのは、1919(大正8)年であった。刊行100年を迎える書物は仏像鑑賞の古典として今も書店に並ぶ。 著者の和辻哲郎(1889~1960)は兵庫県生まれ、倫理学者、夏目漱石門下で東洋大・京大・東大教授を務めた…

101 風雅と酔い泣きの歌人・大伴旅人

――「長屋王の変」から読み解く旅人の世界ーー 大伴旅人は665年に生まれた。父は佐保大納言と呼ばれる安万侶、母は近江朝の大納言巨勢比等の娘、巨勢郎女(ごせいらつね)。和銅3年(710)正月の元明天皇の朝賀に際して、左将軍として騎兵・隼人・蝦夷…

号外「奈良の歩き方講座」開催!

NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」と公益社団法人「奈良市観光協会」がタイアップして開催する奈良を学び楽しむための講座です。 〈開催日時〉毎月第3日曜日13:30~15:00〈会場〉奈良市観光センター NARANICLE体験スペース(奈良市上三条町23-4)〈参加…

100 日本の元号③近代篇

一世一元の法制化 〈明治〉の元号は慶応4年(1968)9月8日に公布されました。改元詔書には「・・・慶応四年を改めて明治元年と為す。今より以後、旧制を革易して、一世一元、以て永式と為せ・・・」とあります。慶応4年の元旦に戻って明治元年にするという…

099 日本の元号②中世・近世篇

一元の使用期間が短くなる鎌倉時代 元号は権力の正統性を保証するシンボルとなります。源頼朝は、平家が擁立した安徳天皇の元号〈養和〉(1181)と〈寿永〉(1182)を認めず、〈治承〉(1177)を使い続けました。平家が西国に都落ちし後鳥羽天皇が即位される…

098 日本の元号①古代篇

元号の起源と伝播 元号はもともと年号と言いました。元号という言葉は比較的最近に使われるようになり、「元」は始まりという意味で「号」は名前を意味します。元号は、年の数え方(紀年法)として始まりと終わりがあります。西暦はキリスト生誕の年(実は生…

097 元号の凋落と西暦の標準化

平成から新元号へ改元が迫る。退位による代替わりのため昭和の終わりの時のような自粛ムードはなく、新元号についても堂々と話題にできる。巷では新元号の予想クイズが盛況だという。ほぼたしかに予想できるのは、頭がさ行、た行、は行、ま行の読みの元号は…

096 奈良から始まった作家・森敦の放浪

作家、森敦(1912-1989)が亡くなって今年で30年になる。『月山』で第70回芥川賞を受賞したのが昭和49年(1974)、敦が62歳の時である。それ以後、精力的な執筆活動のほかにテレビやラジオへの出演、対談や講演などにも活躍し、時代の…

095 日本最大の円墳、富雄丸山古墳

丸山古墳頂上からの眺望 富雄丸山古墳(奈良市丸山1丁目)の奈良市埋蔵文化財センターによる発掘調査の現地説明会が1月26日にあった。古墳のそばの公園で全体説明があり、そのあと古墳の頂まで上り下りして現地を見学した。筆者はこの古墳の近くに住んで…

094 春日信仰の二層構造

「東大寺山堺四至図」の「神地」 「東大寺山堺四至図」を見てまず誰もが注目するのは、画面ほぼ中央に四角に囲んだ枠内に「神地」と書き込まれた箇所である。「御嵩山」と記入する円錐型の山の西側ふもとに位置する。「神地」も「御嵩山」も東を上に西を下に…

093 金鍾山房と香山堂

神亀4年(277)閏9月、聖武天皇と光明皇后の間に待望の男子、基(もとい)王が生まれた。天皇の喜びは尋常ではなく誕生から1か月あまりの赤子を皇太子に任命した。翌年の8月、基王は重い病気になったため病が癒ることを願って観音菩薩177体、観音…

092 元興寺五重小塔は国分寺の塔のひな形か?(元興寺⑤)

元興寺の五重小塔は奈良時代後期に製作され、この時期の建築様式を伝える貴重な建造物であり、国宝に指定される。しかし、謎に満ちた塔であり、文献での記録がなく、元はどこにあったのか、何を目的に製作されたのか不明である。 現在は総合収蔵庫の法輪館に…

091 世界遺産の元興寺 (元興寺④)

元興寺(極楽坊)の本堂(国宝)と禅室(国宝)は、東室僧房南階大房をもとにして鎌倉時代に大きく改築された。本堂(極楽堂)は東を正面として、桁行き、梁間ともに6間、正面に1間の通庇がつく本瓦葺きの建物。寄棟造妻入りである。東が正面なのは極楽浄…

090 元興寺の中世庶民信仰資料 (元興寺③)

元興寺(極楽坊)からは、昭和の本堂解体修理や境内の防災工事で中世の庶民信仰資料が多量に発見された。そのうち65395点が重要有形民俗文化財に指定されている。これらからは鎌倉時代から江戸時代初期までの元興寺(極楽坊)の信仰の様相が生々しく伝…