129 薬師寺薬師如来坐像は白鳳仏か天平仏か

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 奈良市西ノ京の薬師寺本尊薬師如来坐像はブロンズ像として世界の最高峰という位置づけが定着している。写実に基づく美の完成された姿として評価する言葉は枚挙にいとまがない。和辻哲郎は『古寺巡礼』のなかで「あの豊麗な体躯は、蒼空のごとく清らかに深い胸といい、力強い肩から胸と腕を伝って下腹部へ流れる微妙に柔らかな衣といい、この上体を静寂な調和のうちに安置する大らかな結跏の形といい、すべての面と線から滾々(こんこん)としてつきない美の泉を湧き出させているように思われる。」(岩波文庫版158頁)と最大級の賛辞を送る。和辻の仏像の捉え方が文学的すぎると批判した美術史家の町田甲一氏も「その(薬師如来坐像)写実的な表現は、上半身に纏った法衣についてもみられ、中に包まれた肉体の形姿に応じて的確な線を描き、薄衣の柔らかい質感をよくあらわしているばかりでなく、豊かな生気ある肉体をも薄衣を通じてリアルに表現している。ことに左胸の部分や、左上膊部から左肩先へかけて衣文のきえてゆくあたりには、生きた人間の体温や触感まで実感させるような、迫真的な表現が認められる。」(『奈良六大寺大観 薬師寺』44頁)と言葉を尽くしてその特徴を微細に表現している。シャープで繊細な感受性の持ち主たちの解説には教えられることが多い。

 薬師如来像は脇侍の日光・月光菩薩像とともにぬめるような輝きを放っていて、ときにその光の反射は鑑賞を妨げられるように感じることがあるほどだ。一説によれば、あの独特の輝きは火災をくぐり抜けた金属の化学反応だという(『大和古寺巡歴』149頁)。それが一層仏像の「神々しさ」を増幅しているのかもしれない。

    本尊移座を記す『薬師寺縁起』

 これほどの仏像だから製作年代への関心は高い。しかし今なお白鳳説と天平説が対立したままで決着をみていない。いわゆる本尊移座論争――藤原京の本薬師寺薬師如来像が平城薬師寺へ移座されたかどうか――と直結する問題であるから、その帰趨は容易ではないだろう。しかし論争の中身を知ることで、仏像と寺の歴史への理解が深まることは確かである。

 長和4年(1015)に成った『薬師寺縁起』は、薬師三尊像が持統天皇の造像であり本薬師寺から7日かけて運ばれたと記す。薬師寺はこの記述を公式見解とし、薬師如来像が白鳳仏であるという説の最大の根拠もこの『縁起』にある。ちなみに美術史上の白鳳文化乙巳の変(645年)から平城遷都(210年)の時期を指し、天平文化は平城遷都以後の奈良時代を指す。

 本薬師寺の造営のプロセスは、『日本書紀』と『続日本紀』の記述からいくつかの節目がある。本尊との関わりから注目されるのは、持統2年(688)に薬師寺で無遮大会が行われたことである。686年に崩御した天武天皇の葬送儀礼の一つとして重要な儀式が行えるほどに寺の造営は進捗し、金堂と本尊はこの時は完成していたと見なすのである。

 持統11年(697)6月に「公卿百寮、天皇の病気平癒のために仏像を発願」という記事が『書紀』にある。その1ヶ月後に「公卿百寮、薬師寺にて開眼供養をおこない」、2日後に持統天皇文武天皇に譲位している。この記事を以て本尊薬師如来像の完成という見方もある。しかし丈六ブロンズ像を製作するのに1ヶ月は短すぎる。また天武天皇が発願した寺院であるのに本尊が公卿百寮の発願となるのはおかしいという批判がある。天平仏派は本尊の持統2年完成とする者が多く、白鳳仏派は持統11年完成と見る者が多いようだ。

 『薬師寺縁起』は平城薬師寺が造営された約300年後に著された。奈良時代に作られた『薬師寺流記資財張』を直接引用する形式で書き進められるが、薬師三尊像を含む金堂条は間接引用であり、天皇の名も他が和風諡号であるのにここでは持統天皇という漢風諡号が用いられる。そのためこの部分の記述は『縁起』の作者の作文として「本尊移座」を疑う意見がある。一方、間接引用も和風諡号も問題ないという反論もある。

 長和4年時点で、本尊は本薬師寺から移座されたと思われていたことは確かである。他に手掛かりにできる有力な文字資料はないので、『縁起』だけから考えると、本尊移座=白鳳仏説の優位性は動かないようである。

     様式から見た薬師如来坐像 

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薬師如来坐像頭部

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山田寺仏頭

 昭和12年(1937)に興福寺東金堂から青銅丈六像の頭部が発見された。『上宮聖徳法王帝説』裏書から、天武天皇14年(685)に開眼供養が行われた旧山田寺講堂本尊薬師如来像の頭部とみられる。現在国宝館に安置された「仏頭」である。製作年代のわかる白鳳仏の出現は、仏像の様式研究を一気に進展させた。町田甲一氏は、仏頭と薬師寺薬師如来像の様式的な相違を次のように述べる。長文になるが引用する。

 「飛鳥仏に比べると、白鳳の仏像は、顔も肉体も丸く、柔らかな肉付けになっている。衣の襞も飛鳥のものに比べて、はるかに柔らかくリアルになっており、衣と肉体の関係も、かなり有機的にリアルになっている。(略)

 しかし、その点も.天平時代のものに比べればまだ十分でない感じがある。天平時代の仏像の衣は、全く本物のように、塑形されており、肉体の表現も完璧である。さらに細かい点についていえば、白鳳の仏では、眼は上瞼の線が弧を描き、下瞼の線はほぼ直線をなしているが、天平の仏像では、むしろ上瞼の方が直線に近く、下瞼の線がゆるく大きく波打っている。また白鳳仏では、鼻の外側がかたい面をなし、これが頬の面と接するところに、強い線をあらわしており。鼻筋の線も強い直線をなして眉の線につながっているが、天平時代のものでは、すべてが柔らかく.丸味をもってあらわされている。

 鼻も白鳳仏では、小鼻が幅せまく、上下に長く、鼻の孔のある面が多くの場合かたい平面をなしている。その点でも天平仏は柔らかく豊かな鼻であり、また白鳳仏は、顔の感じも童顔で、身体比例も小児的であったり、あるいはそうでなくとも身体つきの感じが小児の身体を思わせるようなものを示しているが、天平仏は、顔も身体も全く完成された成人の相好を示している。」(『大和古寺巡歴』153頁)

 これだけの様式の相違がある二仏がわずか3年の時間差で製作されるとは思えず、相当の期間を経て、すなわち薬師如来坐像は移転後の平城京において製作された天平仏であるということになる。

 様式の相違は白鳳仏派も認める。この時代の日本の仏像が唐の仏像の影響を受けて製作されたことは美術史の共通理解となっているが、唐から移入された新旧の様式が同時に並行して、一方は山田寺講堂の薬師如来像、もう一方は薬師寺薬師如来像になったというのが、本尊移座説の白鳳仏派の基本的な考え方である。様式の新旧が製作年代の差異に必ずしも現れないというのである。美術史家の杉山二郎氏は、「唐長安在住の一流の仏師、鋳造工」の手により「唐朝中期・盛期に結実したグローバルな造形表現、様式そのものがこれらの彫像に具現した」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』145・148頁)という。これなら新様式を理解吸収する時間も省けるだろう。

 しかし様式と製作年代とを切り離す説は、他の仏像を含む全体に当てはめることは困難に思える。飛鳥、白鳳、天平の仏像の様式は工法とともに年代と相関して変化していったと捉える方が整合的である。この点で薬師如来像=天平仏は説得力がある。

     長和4年の伝承

 本薬師寺は平城薬師寺ができたあとも存在し続けた。廃絶したのがいつ頃になるかは正確には不明だ。万寿2年(1025)に源経頼は本薬師寺に宿泊したことを『左経記』に記しているから、寺として存在していたことは確かである。しかしその70年後の嘉保2年(1095)には、本薬師寺の塔跡から舎利が発見され平城薬師寺へ移された(『中右記』『七大寺日記』)ことから、この頃までは完全に廃絶していたようだ。

 長和4年(1015)の『縁起』が書かれたころは、堂塔がどこまで残っていたかはわからない。『縁起』の金堂条が間接引用であり漢風諡号が使用されることを問題視する議論を先に紹介した。「已上持統天皇奉造請坐者 已上流記文今略抄之」と小文字で記されたあと、「古老傳云 件佛像従本寺七日奉迎云々」と続く。「以上(薬師三尊像)は持統天皇がお造りになり安置せられた 以上流記から抄略して記す 古老の伝えるところでは、件の仏像は本薬師寺から七日かけて迎えられた」という大意であろうか。この部分は『縁起』の作者が書き加えたもので、『流記」にあったものではない。そのため内容の真偽性に疑問の余地が生じるわけだ。確実に言えるのは、長和4年の時点で本尊は移座されたという伝承があったことのみである。

 このような伝承が生じたのは、本薬師寺の金堂が本尊仏像とともに廃絶して久しかったからではないだろうか。もし本尊移座が事実だとすれば、金堂は空となり新たに本尊を造るか空のままかのどちらかになる。古代史家の東野治之氏は、平城薬師寺が本薬師寺の宗教機能を吸収したため本尊不在であったとしても問題はないと述べておられるが、寺の中枢が不在のまま300年間維持されたというのは理解を超える。本尊を新たに造るというのも不自然であり手間を要する。やはり新旧の寺にはそれぞれに本尊が安置されていたが、本薬師寺の金堂と本尊が失われ幾世代を経る間に伝説が生まれたのではないか。その背景には見事な仏像を本願の天武・持統天皇へ結びつける思いがあったように思う。

参考
和辻哲郎著『古寺巡礼』岩波書店
『奈良六大寺大観三 薬師寺岩波書店
町田甲一著『大和古寺巡歴』講談社
東野治之「文献史料からみた薬師寺」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』冨山房インターナショナル)
杉山二郎「薬師寺金堂薬師如来三尊考」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』冨山房インターナショナル)
久野健著『白鳳の美術』六興出版
林南壽「金堂薬師三尊像」(『薬師寺千三百年の精華~美術史研究のあゆみ』里文出版)
大橋一章著『日本の古寺美術4 薬師寺保育社

128 薬師寺西塔心礎移動・本薬師寺西塔白鳳時代建立説

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復興された薬師寺西塔

 天武天皇が鸕野讃良(うののさらら)皇后の病平癒を祈願し創建した薬師寺は、天武亡きあと持統天皇文武天皇に引きつがれ、藤原京の地に698年にほぼ完成をみた。平城京遷都とともに薬師寺もその右京六条二坊に移され、南都七大寺の一つとして権勢と寺観を誇った。

 藤原京に残った本薬師寺平城京薬師寺との関係について、建物を移建したのかどうか、本尊を移座したのかどうかという論争が明治以来続いて今もなお決着がついていない。

 建物の移建については、本薬師寺が奈良・平安時代も存続し、また中門や回廊の構造が二つの寺で異なっていることから、伽藍がそっくり移るようなことは否定されている。しかし、本薬師寺で使用された瓦が平城薬師寺からも出土する事実から、一部の建物、たとえば僧坊などが移建された可能性も消えていない。

     薬師寺西塔新移建説の登場

 現在注目されるのが、西塔をめぐる問題である。平城薬師寺西塔の心礎には舎利孔があるが、本薬師寺西塔の心礎は舎利孔はなく出枘(でほぞ)がある。舎利孔のある心礎は白鳳時代より前のものであり、出枘の心礎は奈良時代以降に製作されたという年代観から、石田茂作氏は本薬師寺の西塔は平城京に移したあと再建されたという説を唱えた(1948年)。90年代に本薬師寺の発掘調査が進んで西塔跡から奈良時代の瓦が大量に出土した。この事実を受けて西塔の建立は奈良時代へ下るという説が有力となった。これを踏まえて鈴木嘉吉氏は、新たな「西塔移建説」を提唱されている(2006年)。以下、この新説を検討する。筆者はかねて「西塔心礎移動説」を提起しているが(奈良歴史漫歩68、奈良歴史漫歩79)、最後に西塔移建説に対置する新たな傍証を示して再説したい。

     本薬師寺塔の裳階は吹き抜けか

 本薬師寺と平城薬師寺の東西四塔を比較する。

 

基壇長

心礎

側柱礎石

裳階柱礎石

地覆石

薬師寺東塔

約14.2m

舎利孔あり

各等間

約240cm

地覆座あり

不明

凝灰岩?

〃西塔

約13.5m

出枘あり

柱間240cm

不明

花崗岩

平城薬師寺東塔

約13.3m

根継石を据えた窪みあり

各等間

約240cm

地覆座なし

地覆座あり

凝灰岩ほか

〃西塔

約13.65m

舎利孔あり

各等間

約240cm

地覆座なし

地覆座あり

花崗岩

 四塔は基壇規模や初層平面規模がほぼ一致する。本薬師寺東西塔の裳階柱礎石は見つかっていないが、裳階の屋根に葺かれたと推定できる小型の瓦が出土している上、さらに基壇規模からも判断して裳階のあったことは確実視される。ただ本薬師寺東塔の側柱の礎石には、柱間の壁を受ける地覆座があることから、裳階は吹き抜けであった可能性が高い。平城薬師寺の壁や連子窓のある裳階は、地覆座が側柱礎石ではなく裳階柱礎石につくことと一体であるから、二つの寺の塔の外観はかなり異なっていただろう。吹き抜けの裳階が二層と三層にあったかも疑問である。

 平城薬師寺の高さは34mあり、三重の塔としては他の塔の平均からして10mほどは高い。各層に裳階がついての高さである。初層の平面規模は裳階を入れて11m四方になり、この高さがあってバランスがとれることになる。裳階がなければ、ずいぶん間延びした印象になるし、他の三重塔並の高さならバランスを欠く。五重の塔であるなら、バランスの点からは合理的だろう。しかし堂塔の平面サイズや伽藍配置を踏襲することにこだわった寺院が、塔の外観を大きく変えるというのも解せない。

     本薬師寺西塔の奈良時代建立説

 本薬師寺西塔は基壇の四分の一の東南部が調査された。基壇には心礎しか残っていないが、四天柱と側柱の礎石据え付け穴4個が検出された。同時に出土した瓦の製作時期は、大きく二つに区分される。一つは本薬師寺創建期の白鳳時代、もう一つは奈良時代である。報告書からそれぞれの時期の出土数を見る。

 

本体軒丸瓦

本体軒平瓦

裳階軒丸瓦

裳階軒平瓦

白鳳時代

55

58

58

25

奈良時代

27

38

34

 出土瓦を分析した花谷浩氏は、この結果から本薬師寺西塔は「残っていた創建の瓦に新相の瓦を混ぜて、奈良時代の屋根を葺き上げた」という「西塔非移建・奈良時代建立説」を打ち出した。建築足場が一時期しかなかったことも傍証となる。

 鈴木嘉吉氏は、この花谷氏の本薬師寺西塔奈良時代建立説に同意する。その一方、平城薬師寺において他の堂の基壇がすべて凝灰岩でできているのに対し、西塔の基壇の一番底にある地覆石が花崗岩であることに着目する。これは飛鳥寺金堂・塔、山田寺金堂・塔、川原寺金堂・塔、本薬師寺金堂にも共通して、飛鳥・白鳳期の大寺の正統的手法だという。ここから次のような推測が導かれる。

 「藤原薬師寺で西塔の造営に着手するころ寺の移転が決まり、準備した材料をそのまま運んで平城で組み立てた。そして平城薬師寺がほぼ完成したころ、改めて旧寺に西塔を建立して伽藍の姿を整えた。」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』26頁)

 準備した材料には、舎利孔を刻んだ心礎がもちろん含まれる。「西塔材料移建・奈良時代建立説」とでも名づけられよう。これは本薬師寺と平城薬師寺の塔が規模はもちろん形もほぼ同じであるという推測が前提になっている。

     薬師寺西塔基壇の攪乱抗と版築の乱れ

 本薬師寺西塔基壇の調査報告では、心礎周辺の土の攪乱が記録されている。「心礎周辺と下面は大きく攪乱され、攪乱抗には瓦片が投棄されている。この攪乱は西塔心礎の上面が現状で水平ではなく、若干傾いていることとも関連するようである」(『奈文研年報1977-Ⅱ』27頁)。西塔基壇南北断面図を見ると、心礎の南側が大きく掘り返されたような跡がある。心礎据え付け穴とは明らかに異なる。さらに基壇版築について「基壇築成土は、底面から約1.5mの高さまで残る。築成土は上半部と下半部とでは状況が異なり、下半部(約1m)では、一層の厚さが約3~8cmと比較的細かく版築するのに対して、上半部(約0.5m)は、一層の厚さが約10~15cmと分厚い」(同27頁)。

 この事実から導かれる仮説は、心礎の移動があり攪乱抗や上半部の版築の粗雑さはその痕跡であるということだ。本薬師寺東塔と平城薬師寺西塔の心礎の舎利孔はうり二つと言っていいほど似ている。しかし後者には、前者にはない柱座底面周縁の溝があり湿気抜きの細穴が穿たれている。これは二つの心礎は同時期に製作されながら、後者があとで改良されたと推測できる。

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薬師寺西塔基壇調査遺構図(一部)

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薬師寺西塔基壇南北断面図

 すなわち次のようなストーリーが描ける。本薬師寺東西塔は藤原京においてすでに竣工されていたが、平城薬師寺を建立するにあって西塔の舎利を心礎ごと移すことになった。そのため心礎の周囲が大きく掘り返され、基壇の一部も削られ運び出された。そのあとに出枘のある心礎が運び込まれ、土が埋め戻された。そのときの工事が雑であったため、心礎がのちに傾くことになった。平城薬師寺へ運ばれた心礎は、湿気対策のための溝と細穴が刻まれて西塔に据え付けられた。

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薬師寺薬師寺の心礎舎利孔

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薬師寺西塔心礎

 心礎を移すために塔を解体する必要はない。心柱は本体の建物とは独立して立っているからである。ただ心礎から心柱を切り離すために、心柱を建物に固定するという作業が加わる。平城薬師寺東塔では、心柱に短い貫を通して両脇から支えるという細工が施されていたが、これは心柱の修理にともなって行われたのだろう。

 奈良時代の瓦が出土したのは、心礎を入れ替える工事の際に振動や衝突があって瓦が落下破損し、補充したからではないだろうか。本体建物の瓦数を比較すると、奈良時代白鳳時代の半数ぐらいであることが、それを物語る。裳階の軒丸瓦は報告書では時期の区別がつかないが、その総数において本体瓦と匹敵しているのは注目される。裳階が各層にあったという有力な証拠になる。

 従来の「西塔心礎移動説」には修正を加えたが、「薬師寺西塔心礎移動・本薬師寺西塔白鳳時代建立説」を再度提起したい。本薬師寺の構作がほぼ終わると記されたのが698年、平城京薬師寺が移ったのが718年、この間20年あるが、本薬師寺の西塔がまだ完成していなかったというのは考えにくい。天武と持統の思いのこもった寺院の造営は当時の政権にとって最優先すべき課題だったはずだ。西塔の完成が遅れた例として大官大寺がよく引用されるが、工事途中で焼失した超巨大な寺院に西塔の痕跡がなかったことが良い比較材料なるとは思えない。

参考
鈴木嘉吉「薬師寺新移建論―西塔は移建だった」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』冨山房インターナショナル)
「本薬師寺の調査―1995-1・2・3次、1996-1次 本薬師寺出土の瓦」(『奈文研年報1977-Ⅱ』)
花谷浩「本薬師寺の発掘調査」(『仏教芸術』235号 毎日新聞社
石田茂作「出土古瓦より見た薬師寺伽藍の造営」(『伽藍論攷』養徳社)

127 薬師寺東塔の解体修理

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 2009年7月から本格的な解体修理を行ってきた薬師寺東塔は修理を終え、今年の3月からその一新した華麗な姿をふたたび参観者の前に現した。コロナ禍のため正式な落慶法要は延期されているが、初層内部を基壇から拝観でき、また地上に降ろされた創建期の水煙なども間近に見学できる。

 「一新した」と書いたが、一見したところ、東塔は修理前の姿となんら変わっていないように見える。しかし注意深く観察すれば、変化に気づく。土に埋まって70cmの高さだった基壇がかさ上げされて130cmとなった。壇正積みだった基壇外装は創建期の切石積みにもどされ、これらの改修により他の堂塔と揃うことになった。前は西階段しかなかったが、西塔と同じように東西南北に階段が設けられた。

 復興した白鳳伽藍のなかで東塔は異質感が際立っていたが、今はなんとなく前よりも伽藍全体が落ちついた印象を与えるのは、このような改修のせいだろうか。かさ上げのせいで、東西両塔の高低のアンバランスが緩和され、東塔が威厳を取り戻したようにも感じる。

 天平2年(730)に建立されたという東塔は、1300年の風雪に奇跡的に耐えぬき現在に及ぶが、この間数々の災害に遭い修理を繰り返してきた。しかし満身創痍とも言える状態にあり、抜本的な修理が急務とされた。解体修理は塔を構成する部材のすべてを解体して、修復不能な部材は新調しふたたび組み立てる。東塔が建って以来の大修理であり、修理と平行してあらゆる方面からの調査も実施された。修理と調査の両面からこの平成の大事業をレポートしたい。

     元の基壇を保存して新基壇で覆う

 解体の最終段階である基壇の発掘調査から見ていく。心柱を取り除いた基壇は一辺が14.6~14.7m、明治の修理で壇正積みの外装にされていた。それを除くと内側に近世の基壇外装の跡が現れた。西側は切石積み、東側と南側は乱石積みである。さらにその内側に創建期の凝灰岩の地覆石が東西南北の四辺に残り、北西角には羽目石だけがあったことから一辺13.3~13.4m、高さ1.3mの切石積みの外装と判明した。その周囲に犬走りと雨落溝がめぐっていた。修理のたびに基壇は外側に拡張されたため、変遷の跡が残された。

 心礎や四天柱と側柱の礎石は創建期に据え付けられたままの位置を保ち、裳階柱の礎石は明治の修理で据え付け直されていた。西塔の心礎には舎利孔が穿たれていたが、東塔の心礎に舎利孔は存在しないと予想されていた。予想どおり舎利孔はなかった。

 基壇は版築で一層あたり2.5~6cmの厚さに突き固められて約30層あった。その下に掘り込み地業が行われていた。基壇より広い一辺15.7mの方形の範囲を40~70cm掘り下げて、粘土と灰白色の砂を入れ地質を改良した。

 版築の基壇と掘り込み地業で足もとを固めたものの、不均等に沈む不同沈下は避けられなかった。西側が東側よりも13~20cm低くなったのである。創建期の建物工事が始まる前から沈下したらしく、柱を切り詰めて水平になるような加工がされていた。

 東塔の周辺は地下水が流れて地盤が軟弱らしい。かつては大雨があれば周辺は水浸しになり、調査中も湧き水が絶えなかった。

 心礎近くの掘り込み地業の底から和同開珎4個が出土した。他のふたつの礎石の据え付け穴からもそれぞれ和同開珎が1個ずつ見つかっている。地鎮供養と見られる。

 塔を修理組み立てるにあたって元の基壇遺構はそのまま保存され、その上に新たな基壇と模造礎石が築かれることになった。新基壇は鉄筋の空箱を伏せたような形で元の基壇を覆い、24本の鋼管の杭(直径40~60cm、長さ12~13m)によって支えられる。これにより95cmかさ上げされた。柱は模造礎石の上に据えられたが、心柱は新基壇を抜けて元の心礎に据え付けられた。

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東塔基壇、東から

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創建期の基壇外装,北西角。羽目石の一部、地覆石、犬走りが見える

     心柱の空洞を埋木する

 檜材の心柱(最大直径約90cm)は根元から初重天井に達する大きな空洞ができていた。空洞はずいぶん前からできていたようで、正保2年(1645)の修理では根元を長さ1.06m切断し、代わりに根継ぎ石を補い心礎に据えていた。東塔の初重には釈迦の一生を表した釈迦八相の前半の四場面が、法隆寺の塔本塑像のように安置されていたが、この時の修理のために塑像は撤去され、その後に根継ぎ石を隠すために須弥壇が築かれた。

 空洞を埋めるため新しい檜を高さ50cmごとに段をつけ、上から下へ直径が大きくなる円筒を重ねるような5段にして埋木した。さらに基壇のかさ上げの高さを継ぎ足した。

 心柱は3重目で上方に杉材(最大直径53cm)を継いであった。康安元年(1361)に大地震があり塔が傾いたという記録があり、この後の修理で継がれたらしい。放射性炭素年代測定法では、杉材は1339~66年の測定値が出ていて、この推測を裏づける。下方の檜材は年輪年代法で719年の下限が示され、730年の創建と矛盾しない。二つの材は仕口ではなく添え木をあて明治の修理のボルトとナットで留めてあった。新たなボルトとナットと和釘を使用して継ぎ目を補強した。

 心柱の頂部を切り欠いて舎利容器が安置されていた。元来東塔には舎利が納められていなかったが、享禄元年(1528)に舎利を安置した西塔が兵火にあい焼失したため、明治の修理の際に玄奘ゆかりという舎利を江戸時代の舎利容器に納めて心柱に埋めたと見られる。今回の修理では舎利容器が新調された。

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正保の修理で心柱の根元を切り取り据えられた根継ぎ石

     相輪の宝珠、龍車、水煙などを新調

 相輪は高さ約10mあり、各部材は創建期に製作したものである。数多く修理された跡はあるが、1300年間、風雨にさらされて残ったのは驚きである。しかし劣化は進んでいたため多くの部材が新調された。上から順番に挙げると、宝珠、龍車、水煙、これらが据えられていた擦管、一番上の九輪、一番下の擦名が刻まれた擦管である。また二つの擦管が修理された。

 相輪の材質は最新の機械と方法で調べられて、復元には当時と同じ材料を用意した。型はレーザーによる3D計測をもとに作られた。製作にあたったのは、富山県の伝統工芸高岡銅器振興協同組合である。古色仕上げのため、前と変わらぬ相輪の姿である。歌にも詠まれた名高い水煙の飛天は、西僧坊に展示され間近に見学できる。

 薬師寺の塔の特徴である二重と三重の裳階は、柱下の腰組でその重量を支えている。腰組への負担を軽減するために裳階の四隅に金属板をあてがい、それらを金属棒で柱につなぐという補強がされた。

 初重内部の天井と初重裳階の垂木の裏板には彩色があり宝相華文が描かれる。その剥落止めが行われるとともに、復元された極彩色の文様の天井板が、当初材の失われた箇所にはめこまれた。

 木材の部材の総数は1万3千点、新材に取り替えられたのは1千5百点、まったく補修の必要がなかったのは9千点であった。

 丸瓦は約8千枚のうち約5千枚、平瓦は約1万7千のうち約1万枚が新品に替えられた。

 西塔の裳階は鮮やかな緑と朱の連子窓になっている。東塔は漆喰である。今回の調査では、初重の中央は扉、両脇は窓、端は壁であり、二重と三重は中央扉、両脇は窓のあったことが判明した。しかし窓の形式や寸法は不明だという。

 このレポートは、『よみがえる白鳳の美-国宝薬師寺東塔解体大修理全記録』(朝日新聞出版2021年)を参考にした。

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笛を吹く水煙の飛天

参考
『よみがえる白鳳の美-国宝薬師寺東塔解体大修理全記録』(朝日新聞出版)
薬師寺第127号』(薬師寺
大橋一章著『薬師寺 日本の古寺美術4』(保育社

126 郡山城天守台の石垣

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修理された天守台。左が北面、右が西面
 

 近世城郭で何より目立つのは石垣である。膨大な数の石を積み上げて構築した石垣は二つとして同じものはなく、視覚的な圧倒感と審美感に訴えかける。そして石という自然の素材は、土や木と同じような人への親和感がある。

 石垣を見ると、機械などない時代にどうやってこれらの重い石を収集運搬し、どのように築造したのかと想像せずにはいられない。郡山城天守台の整備事業は天守台石垣の修理を主目的にした。その報告は、この疑問の一端に答えてくれる。

     石垣の孕みの原因を探る

 天守台北面の石垣には顕著な孕(はら)みがあった。孕みとは、石が押し出されて突きだす現象である。石垣が崩れる前兆であり、最大50cmも突きだしていた。解決策は、解体して新たに積み直すしかなく、2015年9月から翌年1月まで解体修理工事が行われた。

 解体されたのは北西隅部と南面の一部、約106㎡、天守台石垣の全体の約13%、約290個の築石である。石垣は表面に積み上げられた石を築石または平石と呼ぶ。築石と背後の盛り土との間に裏込め石と称する小さな栗石(くりいし)が厚い層をつくる。これは排水を良くし、また揺れを吸収するなど緩衝効果をもたらす。裏込め石には転用石が多量に見つかるとともに、川石が利用されたせいか円い小石が目立つのが郡山城の特長だという。しかし裏込め石としては角張った石が噛みあって良いらしい。

 郡山城天守台は自然石(野面石)を細工せず「乱積み」にする。目地に一見規則性がなく、築石間の隙間は広い。石を荒削りに細工して積む「打ち込みハギ」、精緻に細工して隙間なく積む「切り込みハギ」より以前の近世城郭が誕生した時期の積み方である。

 築石の積み方は、上の石の荷重が下の石一個にかからないように分散させることが原則だ。石の破損や変形を避けるためである。これに反する「団子積み」が当該範囲にいくつも見られた。実際、割れたりヒビが入ったりした築石が多かった。

 築石の表面に対して奥行き(控え)が長いほど石は安定する。しかし孕んだ箇所の石は控えが非常に短かった。しかも築石の周囲に配置して支える介石(飼石)のないものが多かった。なかには逆石といって築石のお尻部分が跳ね上がった形状のまま据えられたものもあった。これらは石が前のめりになる原因となる。

 築石の隙間には間詰め石が充填される。しかし郡山城天守台の間詰め石はほとんど抜け落ちていたという。築石が動いて押し出されたのだろうか。これは石垣の不安定要因をさらに強める。

 ところで築石に使用された石の種類は、花崗岩安山岩が中心である。『多門院日記』には、水谷川から石を運んだことが記されている。カナンボ石と言われる御笠山の安山岩である。花崗岩天理市奈良市の境の南椿尾、大和郡山の矢田から運ばれたようだ。

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修理前の天守台北面、赤丸印は団子積みの石、間詰め石が抜け落ちて隙間が見える

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逆石、石の尻が上向きになる

     修復を受けてなかった石垣

 石垣の角は石垣の要であり、ひときわ大きな角石を長辺と短辺を交互にして積む算木積みである。これにより角の稜線が通る。上から4番目と5番目の角石は、もとは一つの石を中央で切断し二つにしたものであった。矢穴の残った切断面がピタリと重なった。

 算木積みの「完成度」が、近世城郭の編年基準の一つの指標になっている。北垣聰一郞氏は本丸石垣は増田長盛が城主の時期(1595~1600年)という説を唱える(『石垣普請』)。堀口健弐氏は天守台は慶長2~3年(1597~98)に比定できる順天(スンチョン)倭城(韓国全羅南道順天市)がイメージ的に近いとする(「大和郡山城の石垣」)。郡山城天守閣は豊臣系城主によって建てられたことが確定している。また解体修復工事により、少なくとも当該部分の修復の跡はなく、天守閣が建造された時の石垣のままであることが判明した。近世城郭史に貴重なデータが加わった。

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石垣を解体した天守台。赤丸で囲ったところは、裏込め石と盛り土の境がジグザグになる。築石→裏込め石→盛り土→築石→裏込め石→盛り土の順序で積み上げていったことがわかる。盛り土が層をなしている

     文化財として石垣を保存

 郡山城天守台の孕みは、石の形や積み方の弱点が重なったことが原因である。修理は従って弱点を取り除く形で行えば良いわけであるが、歴史的な文化財としての城郭は築城時のままに保存することが大原則である。割れた石は接着剤やボルトでつなぎ、どうしても使えないものは新たな花崗岩を元の石の形に整形して差し替えた。団子積みや逆石はそのままにして介石や間詰め石で補強した。解体工事した範囲外の天守台石垣も間詰め石と接着剤を補充して強化している。

 大和郡山市教育委員会が公開したyou tubeの動画では、解体修理の一部始終が見られる。現代の機械・道具や技術を駆使しながらも、一つ一つの石を手作業で積み上げていく伝統的な工法は変わらない。しかしクレーンなどのなかった時代、何トンもの石を少し動かすだけでもどれほどの労力を要しただろう。あらためて感慨がわいてくる。

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石垣概念図(文化庁『石垣整備のてびき』)

参考
北垣聰一郞『石垣普請』法政大学出版局
堀口健弐「大和郡山城の石垣」(城郭懇話会『大和郡山城』)
帝塚山大学考古学研究所・附属博物館『きらめく瓦かがやく城 : 金箔瓦と豊臣郡山城 シンポジウム報告書』
大和郡山教育委員会郡山城天守台 石垣解体新書』
郡山城天守台展望施設整備事業 紹介動画

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125 郡山城天守閣の変転

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郡山城天守台、画面左端は柳沢神社

 奈良県大和郡山市郡山城天守台が整備され、その上に展望施設が設けられたのは、2017年の春からであった。天守台石垣が崩落のおそれがありその修理とともに周辺が整備されて、市民に開放されたのである。この事業の一環として発掘調査が行われ数々の知見がもたらされた。なかでも大きな発見は、天守閣の存在が明らかになったことである。江戸時代の郡山城を描いたどの絵図にも天守閣はなく、その存在を疑問視する説もあった論争に決着がついたのである。しかしすべてが解明されたのではなく、不明な部分も多く残る。

     郡山城の歴史

 郡山城の起源は天正8年(1580)の筒井順慶の築城にさかのぼる。しかしその規模や場所はよくわかっていない。筒井氏が伊賀に転封されたあと、天正13年(1885)、豊臣秀吉の弟、豊臣秀長が大和、和泉、紀伊百万石の領主として郡山へ入部する。西ノ京丘陵南端の地形を生かし、百万石の城主にふさわしい大規模な平山城の建設が始まった。秀長亡きあとは子の秀保が、秀保亡きあとは豊臣政権五奉行の一人、増田(ましだ)長盛が城主となって建設を引き継ぎ、現在にいたる基本的な城郭が完成したと見られている。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦のあと城主は不在となるが、大坂の陣豊臣氏が滅んだ元和元年(1615)に徳川方譜代の水野勝成が入城する。それ以後、松平氏、本多氏らが入れ替わり、享保9年(1724)に柳沢吉里が郡山十五万石の領主となる。柳沢氏は六代、約150年にわたって郡山藩を治め明治維新を迎える。

 江戸時代に入ると歴代の藩主は、現在、奈良県立郡山高校がある二の丸に住まいし、藩の政治も主にここで行われた。平和が続き、幕府の厳しい築城規制があった時代であるから、天守閣はないままにおかれたのだろう。

     豊臣氏が建造した天守

 天守台の上はほぼ全面が調査された。明治初年に廃城になったとき、運び込んで敷いた瓦のおびただしい破片が一番上にあった。その下に小さな礫石が層をなしていた。礫石の用途は不明ということだが、江戸時代の空地となった天守台をこれで整地したのではないだろうか。礫層を除去すると、東西に並ぶ三列の礎石が出てきた。礎石の形は不揃いで抜かれている所もあった。南北に並ぶ礎石は出てこなかったが、礎石を支えた根石の集積が二列残っていた。これから木材を東西に3本、南北に2本、井桁に組んで土台を作り、その上に建物を建てたと推測された。土台は南北が高くなって交差する。

 平面規模は身舎(もや)が東西3間(約6.4m)、南北4間(約8.5m)で、その周囲を2間の廊下のような武者走りが囲んでいた。全体で東西7間(約16m)、南北8間(約18m)となり、これは天守台上面の面積である。

 礎石の上に堆積した土の中から瓦が出土した。巴紋の軒丸瓦は秀吉が築城した大坂城の瓦と同じ型を使用した同范瓦であり、鯱(しゃちほこ)は聚楽第の鯱と同范であった。この層には江戸時代の瓦はなかったことから、天守閣は豊臣系三代の15年間に建設されたことは明らかである。

 天守台の石垣の高さは約8mある。天守台の南に付け櫓台があり、ゆるやかな階段が付櫓台をへて天守台に通じている。このルートができたのは明治になってからであり、元のルートの解明も調査の課題だった。絵図には天守台の南端と付櫓台の南端に入り口らしいものが描かれている。該当部を発掘すると、天守台からは転用石を置いた幅3.2mの入り口跡が見つかった。付櫓台では表面から2.2mの深さに基底石が東西3.2mの幅をおいて見つかり、地階の存在が推定された。本丸から付櫓台の地階にまず入り、そこから天守台に上るルートが確認された。

 付櫓台は天守台に匹敵する広さである。ここにも建物があったと推測されるが、これ以上の調査がされていないのでまったく不明である。なぜ調査されなかったのかわからないが、非常に残念なことである。

 付櫓台の地階からは貴重な発見があった。金箔瓦が見つかったのである。大棟の飾瓦である菊丸瓦にわずかな金箔と接着に用いた漆が残っていた。金箔瓦は主だった豊臣系の大名の城に広く使用された。天守閣が豊臣政権下で建築されたことのダメ押しの証明だ。

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発掘調査中の天守台と付櫓台

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天守閣の礎石、東西に3列、南北には根石が2列並ぶ

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天守台模式図、現地説明会資料より

     二条城さらに淀城へ移築された天守

 この時期に築造された城には共通の特長がある。望楼型天守と呼ばれて、入母屋屋根の櫓の上に物見台のような小さな望楼部がのる。壁面は黒漆の下見板張りがめぐらされる。郡山城が何重であったかはわからないが、人質を3重目にかくまったと記録する古文書(『渡辺水庵覚書』)から少なくとも3重以上であると言える。また付櫓台があることから、天守閣と付櫓が一体化した複合式天守であった。金箔瓦と鯱が輝いていたであろう。

 天守閣はその後二条城へ移築されたことを『愚子見記』と『中井家文書』は伝える。二条城天守閣は慶長11年(1606)に完成した。『洛中洛外図屏風』舟木本には、望楼型天守を持つ二条城が描かれる。さらに寛永元年(1624)に淀城へ移された。淀城は宝暦6年(1756)の落雷により天守や建物の大半が焼失したという。

 郡山城天守台からは火災の跡は見つかっていない。考古学的な知見と古文書、絵図などの記録と矛盾することはなく、天守の移築の信憑性は高い。郡山城天守閣があった期間は10年か長くても15年を越えることはないようだ。その後、改築されただろうが、約150年、他の城の天守として役目を果たしたのである。

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松江城天守閣。複合式望楼型の天守付櫓から登楼する。下見板張り。
郡山城と共通する

     石垣の膨大な転用石

 郡山城の石垣は転用石が多いことで知られる。天守台には「逆さ地蔵」や羅城門礎石と伝わる築石が見学者の目をひく。表面を観察して700個ほどの転用石が確認されていたが、今回の石垣の解体修理で驚くべき数になることが判明した。天守台石垣の約1割が解体修理されたが、転用石は約600個に上ったのである。築石と盛り土の間に詰める裏込め石から多量に発見された。単純に計算すれば、天守台全体ではこの10倍、城全体ではどれだけの量になるだろう。何万、何十万という転用石が使われているのだろうか。

 転用石は五輪塔、石仏、礎石、地覆石、石臼など手当たり次第の感がある。『多門院日記』には、「当山(興福寺)内の大小の石がことごとく車で郡山へ運ばれた」「秀長が奈良中の家々に五郎太石(小石)を20個ずつ提出するように求めたところ騒動となり、あちこちで石の取り合いとなった」という記述がある。秀長は巨大な城を建設するために奈良の住民を総動員し資材も集めさせた。奈良は良い石材が少なく、身近に使われている石が多量に転用されたのである。礼拝の対象である五輪塔や石仏を石垣の石にするのは、従来の価値観の真っ向からの否定であり、当時の人々にどれほどの衝撃を与えただろうか。中世的な権威が失墜し世の中が変わったことを身をもって知らされただろう。文字通りの人海戦術で作られた郡山城の堀や石垣、戦国の世の人々の声が一つ一つの石から聞こえてくるような気がする。

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解体した石垣の転用石

参考
『きらめく瓦かがやく城 : 金箔瓦と豊臣郡山城 シンポジウム報告書』帝塚山大学考古学研究所・附属博物館
『よみがえる郡山城天守台 : 郡山城天守台展望施設整備事業竣工記念こおりやま歴史フォーラム資料』大和郡山市, 大和郡山市教育委員会
『ならら : 大和路, 2017.3月号, よみがえる天守台 : 郡山城の謎に迫る』地域情報ネットワーク
『柳沢文庫歴史シリーズ1 郡山城郡山城史跡・柳沢文庫保存会
郡山城天守台展望施設整備事業 紹介動画

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124 志賀直哉旧居の見学②

  ~食堂・サンルーム・子ども部屋など~ 

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志賀直哉旧居平面図(『志賀直哉旧居の復元」から転載)

 志賀直哉旧居の南棟プライベート空間を見ていく。

 玄関から廊下を南へ向かうと右手にまず四畳半の書庫がある。現在ここには、直哉の初版本や関係パネルが展示してある。直哉は遺稿や遺品を展示することを遺言で禁じたため、旧居には他には当時の写真のパネルが展示してあるだけだが、邸宅の保存はなにものにも代えがたい人間直哉と彼の生きた時代を偲べる手がかりになる。もっとも直哉自身は住居の保存を望まなかったらしい。

 書庫のとなりが浴室、洗面所、脱衣室とならぶ。ここは「飛火野荘」時代に大改造されていた。解体して現れた柱や鴨居・敷居跡、昔の写真や証言、時代考証などを重ねて復元された。水回りの各室に平行して西側に通し土間があり倉庫も設けられた。

 台所も大きく改造されていた。北側に四畳半の女中部屋のあったことがわかり復元された。白タイルの大きな流し、都市ガスのコンロ、食堂との境に窓越しに料理を手渡せるハッチ、背丈以上もある作りつけの氷冷式冷蔵庫が広い空間に配置される。6人の子どもと毎日迎える客の胃袋を満たした台所である。

    「高畑サロン」の舞台となった食堂、サンルーム

 食堂とサンルームは、見学者にもっとも感銘を与える部屋だろう。食堂は二〇畳あってその広さに驚く。中央に置かれた縦長のテーブルと椅子が復元されている。天井は漆喰で中央に円枠球面のくぼみがあり、そこから行灯型障子張りの照明器具がつるされる。これは納戸で見つかった当時のものだ。作りつけの牛革張りのソファがあり、サンルームとの間には出窓とカウンターがこしらえられる。

 十五畳のサンルームは異彩を放っている。床は瓦敷、天井は網代あじろ)、ガラス張りの天窓があり光が入りこむ。復元されたテーブルと籐の肘かけ椅子が置かれる。隅には石造の井形に組んだ手洗いがある。夫人の部屋の縁側とは躙り口でつながる。台所ともつながり、裏庭からも出入りできる。

 食堂とサンルームは一体となり、洋風、和風、中華風のしつらえが融合する。家族と客がわけへだてなく食事し娯楽に興じる空間である。直哉はここで毎日毎晩のように友人、知人、客と語り合い、麻雀、将棋、花札などを楽しんだ。「高畑サロン」のまさに舞台であった。「奈良上高畑家の家にも世田谷新町の家にも客間はあったが、客が来ても其所に通さず、直ぐに自分のゐる居間兼食堂に通していた。その方が自分にも落ちつきがいいし、客の方も落ちつくらしい」と直哉は記している。

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20畳ある食堂

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瓦敷き、天窓のあるサンルーム

     南向きの広縁のある夫人部屋と子ども部屋

 夫人の部屋は六畳和室、数寄屋風のしつらえが随所にある。床の間の竹の縁、赤松の床柱、棚の天井は葦張りなど雰囲気が優しい。直哉は無宗教で仏壇や神棚は設けなかったが、夫人は押し入れのなかに小さな仏壇をまつっていたという。南向きで広縁があり、一部畳が敷かれる。広縁とサンルームは躙り戸でつながる。食堂のとなりであるが、廊下から出入りするので独立性と機能性が保たれていた。

 子ども勉強部屋は八畳、床はコルク張り、漆喰の壁は腰板があり、格天井である。活動的な子どもたちにふさわしい造りだ。南側の広縁は遊びのスペースでもある。ここから裏庭へ降りられた。部屋の北壁には格子付きの腰窓があり、高さ50センチの障子が入っていた。三畳の踏み込みとの境でその北側には直哉の居間があった。子どもたちだけの部屋を与えながら、家族の気配をたがいに感じられるような配慮である。

 長男の直吉の部屋と長女の留女子の部屋はそれぞれ四畳半、勉強部屋から出入りする。床は板張り、壁は漆喰で一部腰板があり、棚を作りつける。二つの部屋の境の壁には高窓があり障子が入る。部屋をへだてる壁にあえて窓を開け障子を入れる。隔てるとともに結びつけるような機能は、勉強部屋の腰窓にも見られた。直哉の人間観、教育観がうかがえるようで興味深い。

 子どもたちの寝室(八畳)と直哉の居間(六畳)は襖でとなりあっている。直哉は子どもたちの様子をそれとなく知ることができただろう。子ども部屋と寝室との動線は、三畳の踏み込みがあってそこを通れた。

 直哉の居間には雪見障子があり、中庭を眺めたり庭へ降りたりできた。中庭は四方を囲まれて、北は茶室、西は廊下のガラス窓、南は廊下の全面ガラス戸、直哉の居間から眺められる。東側は漆喰の塀がめぐり、躙り口から入ると待合がある。槇、南天、もみじ、青木、皐、馬酔木、椿、モチノキなどが植えられ、飛び石、庭石を残して苔が覆う。目の保養とともに採光と通気の用をなす。

 裏庭は広い空き地があって子どもたちの遊び場となった。小さなプールまで作られている。

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手前が直哉の居間、その向こうが踏み込みで子ども部屋との間に腰窓がつく、左側の部屋は子どもたちの寝室

     家づくりは「ほんとに必要なことだけを上手にやる」

 直哉は住宅観を披露している。「家の建て方は必要なことだけを上手にやってゐれば感心するけれど、この家は面白いとか面白くないとか云ふことは、必要さはそれほどでなくて、ただ遊びになる場合がよくある。折角面白く作っても、必然さのないものは、本統の意味の面白さがない。(中略)昔の農家や民家で今でも感心するのはやはり長い経験で、ほんとに必要なものが何か美しい形で遺ってゐるので感心させられるのだと思ふ。いろんな面白いこと、種々やってゐても、ほんとに必要だといふことが第一条件だ。」(「住宅について」)。

 旧居の規模・質は庶民の住宅のレベルを上回ることは確かだが、華美・贅沢という感じはしない。この住居からはなによりも直哉の生活観が伝わってきて、彼が「ほんとに必要としたもの」が理想的に実現されているように思う。書斎、茶室、客間などのハレの空間と夫人部屋、子ども部屋、直哉の居間などのケの空間は区分され、両者が混合し時に祝祭的な様相を出現させる空間として食堂とサンルームがあった。数寄屋造りを基調とした意匠は自然の要素を多く取り入れて、何気ない心地良さを生み出している。これは現代のライフスタイルからしても違和感のない機能性と審美性を兼ね備えた住まいである。

 平成21年(2009)の補修工事では、壁や天井のシミや破損が修復され、畳も新調された。改造された建具、家具は当時に近いものが復元され、蛍光灯を残らず白熱灯に入れ替えるほど徹底したものであった。旧居が建てられて90年、新たによみがえったとも言えるが、もちろん大部分がそのままであり、古寺がそうであるように歳月にみがかれた風格が醸されている。昭和の良き面影がここにはある。志賀直哉の数々の小説とともに、旧居はもうひとつの名作であることは間違いない。

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直哉居間から中庭を見る。向かいは茶室

参考
呉谷充利監修 山本規子編集・図面作成『志賀直哉旧居復元工事記録』奈良学園
呉谷充利編著『志賀直哉旧居の復元』奈良学園
ホームページ「奈良学園セミナーハウス 志賀直哉旧居」

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123 志賀直哉旧居の見学①

  ~書斎・茶室・客間など~

 

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 志賀直哉奈良市幸町の借家から高畑町の住居に移ったのは、昭和4年(1929)4月のことである。生涯で23回転居を繰り返した直哉は、46歳から55歳までの比較的長期の9年間をここで過ごした。幼い6人の子どもを育て、社交、文筆の仕事と充実した日々であった。自ら設計した邸宅には彼の生活理念や美意識がこめられている。奈良を離れたあと、建物は他人の手に渡り改造されてきたが、平成21年(2009)に補修とともに直哉が居住した当時の姿に戻す復元工事が行われた。現在、旧居の内外をつぶさに見学できる。

     直哉の「設計」をもとに数寄屋大工が建築

 旧居が建つ場所は上高畑の裏大道という道に接している。奈良公園の飛火野が目前であり、いわゆる「ささやきの道」の起点にもあたる。高畑は春日社の社家が建ちならんでいた地であったが、明治以後、売りに出されることが多くなった。直哉が取得した土地も前住者は神官であり、1.437平方メートル(435坪)の面積がある。借家があった幸町と高畑町は隣りあっていて、交際のあった画家や作家が多く住んでいた。すでに3年奈良住まいしていた直哉には見知った場所であり、描いていた理想の立地条件にかなっていたのだろう。実際ここを尋ねると、すばらしい場所であることが納得できる。

 大工は京都の数寄屋造りの下島松之助であった。下高畑に住んでいた画家、浜田葆光の茶室を建てた大工であり、この縁で依頼したようだ。直哉は平面図を描いて、あとは大工に任せたという。全体のプランや部屋の配置が直哉の意向であり、数寄屋の意匠は下島大工が腕を奮ったということは理解できる。この住居を特徴づける多くの工夫のどこまでが直哉の発想であるかは非常に興味のあるところだが、家の細部を見ていくと、直哉のこだわりというものがたしかに見えてくる。

     洋間書斎と広い茶室    

 表門は敷地の北西に開く。敷地を囲む土塀と一体になり、寄棟造りの屋根がのる。風格があって軽やかである。塀の復元工事では漆喰を落として土塀にもどされた。西側の塀のところどころに濃い茶色の土が見えるのは、もとの土である。勝手口が西側に設けられ、台所の土間と直結する。「高畑サロン」の常連は勝手口から出入りし、中門をぬけて裏庭へ回りサンルームに入った。

 門を入り植え込みが左右につづく石畳を歩むと玄関である。左手にある表庭は土塀で隔てられ、中門がつく。ガラスの引き戸の玄関をあがると踏み込みを経て廊下と階段が三方にわかれる。東方向の廊下の先には書斎と茶室、北方向の階段をあがると客間、南方向への廊下の行き先は食堂や家族の居室がある。巧みな動線であり、書斎と客間のある棟とプライベートな生活空間の棟とをわけ廊下でつないでいる。

 書斎は床張りで地袋がつき、天井は葦張りである。手斧で削ったような梁は半割の松材であるが、梁にみせかけた意匠であり凝ったしつらえだ。北と東に窓が開いて表庭の池と樹木が視界を占める。「若い頃は書斎は北向きが好きだった。明る過ぎると、気が散るので、机の上だけ明るく、ほかは薄暗いやうな窓の小さい部屋が好きで」と書くように、落ち着いた雰囲気である。しかし冬場は寒くて二階の南向きの和室に移ったという。デスクと椅子は当時のものではなく、写真や証言から近似品をそろえた。書斎の西隣には納戸があり、現在は事務所に使用されている。

 茶室は六畳の広さがある。袖壁がつく大きめの貴人口が中庭に開く。天井は低く一画を筵張りにし、床、付け書院、下地窓、炉、水屋をそなえる。数寄屋大工、下島松之助が腕を奮った部屋であろう。白樺をところどころ使うのも隠れた工夫だ。しかし直哉はあまりここを使わず、子どもと夫人が茶や生け花のお稽古に使用したようだ。

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北向きの書斎、表庭に面している

     南向きの和室書斎と眺望のきく客間

 階段を上ると板の間のような広い廊下がある。中央が高くなった船底天井で、窓には平安時代の建物にあるような上げ下げする蔀(しとみ)戸がつく。表門を入って見上げると目立つ。外観を意識し、また客を迎えて楽しませる仕掛けだろう。廊下とならぶ南側の六畳の部屋には客を泊めたようだが、冬は直哉の書斎となった。昭和12年3月、中断していた「暗夜行路」をここで書き上げた。小さな二月堂机が置いてある。

 廊下の突き当たりが八畳客間である。北と東に窓があり、春日山若草山が指呼の距離に望める。この眺望を意識した部屋の配置だ。若草山山焼きには知人を呼んで見学会を開いたという。プロレタリア文学小林多喜二が昭和6年11月に尋ねてきて一泊しているが、おそらくこの部屋に泊まったのだろう。床の間に弘仁仏の観音像が安置されていた。実は谷崎潤一郎から譲り受けたもので、直哉は補修してあった両手を取り除いて据え置いたという。観音像は現在、早稲田大学会津八一記念館に収まっている。

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表庭から見上げた客間、階下は書斎。二階廊下には蔀戸がつく

参考
呉谷充利監修 山本規子編集・図面作成『志賀直哉旧居復元工事記録』奈良学園
呉谷充利編著『志賀直哉旧居の復元』奈良学園
「奈良学園セミナーハウス 志賀直哉旧居」ホームページ

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122 志賀直哉旧居の保存運動

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奈良学園による旧志賀直哉邸買収を報道する新聞記事

 奈良市高畑町に所在する志賀直哉旧居は、所有する奈良学園セミナーハウスとして利用されるとともに一般公開され、志賀直哉とここに集った文化人の足跡をつたえる。また奈良公園に隣あった高畑の文化風土を形成する「近代遺産」として、古都奈良の重要な観光資源でもある。しかし旧居はかつて取り壊しの危機に直面したことがある。それを救ったのは、地元の人たちを中心にした保存運動だった。

    「旧志賀邸保存を考える会」を結成

 志賀直哉はみずから設計した数寄屋風の近代的な住居に、昭和4年(1929)から13年まで住んだ。この後、奈良の資産家の所有となり、戦後は米軍に接収され将官が住まいした。昭和28年に国有となり厚生年金保養施設「飛火野荘」として使用されたが、昭和50年(1975)頃から建物の老巧化などのため改築計画が立てられた。

 旧居の東隣に住む画家の中村一雄氏がそれを知ったのは、昭和50年6月のことで友人が飛火野荘に宿泊し管理人から改築計画を聞いて中村氏に話したことによる。中村氏の父、義夫氏も画家で「高畑サロン」の常連として直哉と濃厚な交際があった。昭和10年生まれの一雄氏は、東京に移住した直哉がのちのちも義夫氏とつきあいがあり、会えば「大きくなったね」とかわいがられた記憶がある。「隣に住んでいた志賀さんの邸は、何が何でも保存しなければと思った。最初起ち上がったときは、私独りでもこれをやろうと決心した。」中村氏は著書『奈良高畑の志賀直哉旧居―保存のための草の根運動』のなかで、保存運動を決意したときの強い気持ちをこう表現されている。

 知り合いの新聞記者に話し、毎日新聞に第一報が出たのは9月だった。旧志賀邸が保養施設として改築の予定があり、それに対して保存を願う声もあるという内容だった。旧志賀邸の説明と意義を説く識者の話も載る。

 中村氏をはじめ地元の人たちが中心になって「旧志賀邸保存を考える会」が12月に結成された。年が改まり1月、飛火野荘を管理する奈良県民生部保健課を尋ね話し合う。保健課課長の話は「建物が老巧化しているので改築したい。こちらで保存する考えはない。もし代替地があれば譲ってもいい。7千万円ほどの価格になる」ということだった。旧志賀邸の東隣の住人から住居として購入したいと申し出があった。個人の所有になれば保存が保証されないから「考える会」は、この申し出をことわった。「文学資料館」や「文化センター」のようなものとして生かされないかと構想した。

    県や市は「保存」する価値を認めず

 3月にふたたび保健課と話し合った。「旧志賀邸は直哉の生誕地ではない。昭和の建物で保存する価値はない。現在地は狭いので代替地を探している。登記簿の簿価から1億2、3千万円で売りたい」と聞かされた。5月には鍵田忠三郎奈良市長と面会した。「奈良市は財政が悪化している。直哉の生誕地ではないし、遺品や遺稿があるわけでもない」と、市長は市として保存に乗り出す考えはなかった。

 9月に初めての市民集会を高円公民館で開催した。参加者60人。「高畑サロン」に出入りしかつて高畑に住んだ作曲家の菅原明郎氏と志賀邸を建てた大工の一人、鹿野能市氏の講演があった。ここで会の名称は「旧志賀邸を保存する会」に変更された。中村邸の門前に置いた署名簿には500名の署名が集まっていた。さらに署名とカンパを呼びかけて街頭に立った。この頃には奈良大学の日本文学が専門の浅田隆講師(当時)も活動に加わり、学生たちとともに「志賀直哉と奈良」のテーマでパネル展を興福寺境内で行った。校区の飛鳥小学校の父兄を対象に旧志賀邸見学会を実施し150人の参加があった。このような活動は全国紙で報道され、各地から共感の便りやカンパが届けられた。

 10月に奥田良三奈良県知事に保存を陳情している。しかし知事は「旧居の北側の茶室と書斎は残すが、南側の食堂やサロンはその必要はない。すぐに腐ってしまうから県費は出せない」と県議会で答弁、全面保存を願っていた会の面々を失望させた。県議会の「文化財保存対策特別委員会」にも保存を請願したが、結論は出ず継続審議になった。

    自分たちで買い取りを

 このような経過から「保存する会」は、財団法人を成立して自分たちで旧邸を買い取るという考えを持つにいたった。昭和52年に入り、それを実行すべく会長に唐招提寺の森本孝順長老の就任の内諾を得て、直哉ゆかりの作家や出版社への働きかけなどの準備を進めた。この間(1月)上京して社会保険庁に1万8千人の署名を提出し保存を陳情しているが、担当者や長官の態度は素っ気なかった。

 3月になり事態は急に動き出した。東京の吉井画廊吉井長三氏から購入の申し出があった。白樺派作家ゆかりの美術館にしたいという構想だった。また日本画家の東山魁夷氏の邸宅にするという案も持っていたらしい。このあと奈良学園理事長の伊瀬敏郎氏からも購入したいという申し出が来た。「全面保存して奈良文化女子短大のセミナーハウスにしたい。志賀文学の資料を集め一般にも公開したい」という案だった。財団をつくる難しさをわかっていた「保存する会」は、自分たちの考えに近くさらに地元奈良の大学ということもあり伊瀬氏の申し出を受けいれた。

    奈良学園による買収とセミナーハウスへ

 伊瀬氏は奈良県に購入を申し出て民生部と交渉する。価格や代替地をめぐってやりとりがあったようで、合意ができるまで半年かかった。10月に県の民生部長と伊瀬理事長と「保存する会」代表の中村氏がならんで記者会見した。価格は約1億円ほど、代替地は200mほど西の旧法務局跡になったことなどが発表された。新聞紙上に中村氏の談話として「2年半にわたる保存運動が実をむすんでうれしい。‥‥今後は宝の持ち腐れとならないよう有意義な保存に向けて努力と協力を惜しまない」と載る。

 価格交渉はこの後も続いていて最終的には5千8百万円となった。簿価より大幅に安くなったのは、教育・福祉・公共団体は減額措置を受けられる国有財産特別措置法第三条の適用があったからである。超党派の県選出国会議員や県会議員の協力を得たことが、『奈良学園二十年のあゆみ』に記載されている。

 昭和53年(1978)11月に半年間の旧邸補修・修復工事をへて一般公開されることになった。このとき人数を制限して庭から見学するという条件が課せられたため、「保存する会」は「○内部の見学○茶室での茶の湯○志賀さんが恒例にしていた二階客間からの若草山々焼きの鑑賞会○セミナーハウスを市民にも開放」してほしいという要望を出した。内部の一部公開は実現したが、4年後、見学者が多くて建物が傷むという理由で、入室できるのは庭からサンルームだけということになった。中村氏が『奈良高畑の志賀直哉旧居―保存のための草の根運動』を刊行したのはその翌年の昭和58年(1983)である。旧邸が保存されながらも十分活用されていないことへの不満が、この記録を残す一つの動機となったようだ。

 同書には保存運動に終始尽力した同志として、志賀さんお気に入りのタクシー運転手を務めた帝産タクシー社長の高田恵次氏、主婦で4千人の署名を集められた木村宥子さん、飛鳥小学校の父兄に説明会を開催し会計を担当された主婦の林節子さん、奈良大学の浅田隆氏の名前があげられている。

    旧居の復元と完全公開の実現

 奈良学園は平成21年(2009)に、旧志賀邸の全面的な補強工事を実施、あわせて直哉が住んでいた当時の状態に邸宅の内外を復元した。直哉は記念碑や記念館をつくることは遺言で禁じたため当初意図されたような資料館にはならなかったが、遺族から奈良時代の写真120枚のコピーが寄贈された。これが復元に役立った。現在は旧居の隅々を見学できて昭和初年の志賀家の日常を偲ぶことができる。さらに市民を対象にした講座も邸内で開催されている。復元を記念した冊子に中村氏は「夢がかなった」と喜びのメッセージを寄せられている。

参考
中村一雄『奈良高畑の志賀直哉旧居―保存のための草の根運動』谿声出版
学校法人奈良学園奈良学園二十年のあゆみ』
学校法人奈良学園志賀直哉旧居の復元』

★日々のよしなしごとを綴ります 橋川紀夫「他生の縁・今生の縁」もよろしく

121 女王卑弥呼は大和郡山にいたか

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 大和郡山市は毎年、「女王卑弥呼」を公募・選出し、観光PR活動に一役買ってもらっている。市の観光協会のホームページには次のようなコメントが載る。

大阪教育大学名誉教授だった故鳥越憲三郎氏が著書『大いなる邪馬台国』の中で、邪馬台国大和郡山市北西部の矢田地区にあったとの学説をもとに、大和郡山市が町おこしの一環として1982年より女王卑弥呼を選出するようになりました。卑弥呼に選ばれた方は、1年間にわたり、観光協会が関連する市の事業やキャンペーン、伝統行事のPRを行っています。」

 鳥越憲三郎氏の学説については、残念ながらこれ以上の紹介はない。そこで、氏の著書をひもとき大和郡山市矢田地区=邪馬台国説の詳細を探ってみたい。『大いなる邪馬台国』は昭和50年(1975)に刊行された。平成14年(2002)に、それを修正補強した『女王卑弥呼の国』が上梓されたので、これをもとに見ていくことにする。

     神武東征譚での物部氏長髄彦軍との戦い

 始まりは、『日本書紀神武天皇即位前紀にある記述である。神武天皇が日向の国を出発して大和の征服をめざす東征の宣言である。

「『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐船に乗ってとび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるのによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」

 大和はすでに「天降り」した饒速日命によって治められていたが、そこを征服して国の都にしようということだ。瀬戸内海を東に進み浪速に上陸。生駒山を越えて大和に入ろうとしたが、土地の豪族、長髄彦(ながすねひこ)の抵抗に遭い敗退する。「日の神の子孫であるのに太陽に向かって敵を討とうとしたのは間違っていた。太陽を背に負い敵を襲おう」と、方針を変更して熊野へ迂回し上陸、大和各地に蝟集していた敵を打ち破り、長髄彦との最終決戦に臨む。戦況が膠着したとき、金色の鵄(とび)が飛来して天皇の弓の先に止まった。このため長髄彦の軍勢は戦意を喪失する。長髄彦は使者を送って言上する。

「昔、天神の御子が、天磐船に乗って天降れました。櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)といいます。この人が我が妹の三炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って子ができました。名を可美真手命(うましまでのみこと)といいます。それで、手前は、饒速日命を君として仕えています。一体天神の子は二人おられるのですか。どうしてまた天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。手前が思うのにそれは偽物でしょう」

 天皇は、長髄彦の仕える君が天神の子である証拠を示すように命ずる。長髄彦饒速日命の天の羽羽矢と歩靫(かちゆき)を示した。天皇もまた自らの天の羽羽矢と歩靫(かちゆき)を示す。しかし長髄彦は抵抗を止めなかったため、饒速日命長髄彦を殺害し、天皇に恭順した。長髄彦が忠誠を誓い戦った当の饒速日命に殺される。なんとも納得できないストーリーであるが、神武は饒速日命の手柄と忠誠心をほめたたえた。饒速日命物部氏の先祖であると『日本書紀』は記す。

 東征譚の一つのクライマックスシーンである。長髄というのは地名であり、金の鵄の故事から「鵄の邑(むら)」と変わり、なまって「鳥見」になったと『書紀』は説明する。奈良市の「富雄」がその地名を引き継ぐという伝承から、昭和15年(1940)の紀元2600年祭に「神武天皇聖蹟鵄邑顕彰之地」の聖蹟碑がこの近くに建立された。現在、住宅開発にともなって「登美ヶ丘」や「鳥見町」という新地名が生まれたのもこの謂われによる

 物部氏の伝承をまとめた『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』は、饒速日命の天降りを次のように記載する。

饒速日尊は、天神の御祖神のご命令で、天の磐船にのり、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降られた。さらに、大倭国の鳥見の白庭山にお遷りになった。天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られた。すなわち、“虚空(そら)見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである」

 「河内国の河上の哮峯」はもちろん場所は不明であるが、強いて連想すれば生駒山になる。饒速日命はそこから「大倭国の鳥見の白庭山」へ遷った。鳥見は長髄彦の本拠であり、彼の妹の三炊屋姫を妻にして物部氏の始祖である可美真手命(宇摩志麻遅命)が生まれた。生駒市に白谷という大字があり白庭山の伝承を持つ。周辺の新興住宅地が白庭台と名づけられたのは、この伝承による。鳥見は、大和川支流の富雄川の上流と中流に沿った地域にあたる。物部氏にとって何かと縁の深い土地のようだ。

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     葛城王朝vs物部王朝

 第二代綏靖天皇から第九代開化天皇欠史八代と呼ばれて架空の存在であることが、日本古代史の定説となっている。事績に乏しいこと、和風諡号(しごう)が後世に生まれた言葉で呼ばれていることなどから大和朝廷の歴史を長く見せるための創作とされる。しかし鳥越憲三郎氏は真っ向からこれに異議を唱え、初代神武天皇から開化天皇までを葛城王朝の王であったと主張する。主張の根拠は多岐にわたるが、これらの天皇の宮と陵墓が奈良盆地の西南部に多いことも挙げられる。氏によれば、1世紀頃に九州から葛城王朝の前身にあたる氏族が奈良盆地へ紀ノ川沿いに侵入して西南部に割拠した。金剛山葛城山の麓に根拠地を置き、幾代にもわたった奈良盆地の平定事業が、神武天皇の事績としてまとめられたという。

 この頃、奈良盆地を支配していたのは物部氏であった。物部氏も北九州を拠点にしていたが、弥生時代の初期に全国へ進出、稲作文化を各地で普及させた。天の磐船に乗った饒速日命が、「虚空見つ日本の国」と叫んで天降りした伝承は、大和の最初の王が物部氏であったことを示す。饒速日命を祭神とする神社は大和には二社あり、大和郡山市の名神大社の矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社とその近くにある奈良市式内社の登彌(とみ)神社だ。鳥越氏は、物部王朝と名づけて矢田坐久志玉比古神社が所在する地を王朝の本拠地だとする。ここも富雄川中流域にあたる。そしてこの王朝が邪馬台国であったと論じる。

 氏の邪馬台国論には独自の見解が多く含まれる。卑弥呼倭国の王として共立される前の「大乱」とは、九州で覇権を握っていた奴国を各地の物部一族が連合して滅ぼしたことだとする。「共立」とは、祭事権者と政治・軍事権者を分けて二人の王を立てることだという。

 邪馬台国は南にあった狗奴国と仲が悪くて戦争状態にあったことが『魏志倭人伝』に載る。狗奴国は葛城王朝のことであり、最終的に邪馬台国=物部王朝は滅ぼされる。前述の『日本書紀』の鳥見での戦いであり、これは第八代孝元天皇のときに起きた。古代では敗者は勝者に娘を差し出すという慣わしがあり、物部氏の娘が孝元天皇の后・妃として三人献上されているからである。第九代開化天皇が都を奈良盆地北部の奈良市春日の率川宮に置いたのは、葛城王朝が大和全体を支配下に置いたことを意味する。しかし葛城王朝はここまでで、磯城の地を拠点とする大和朝廷が新たに覇権を握ることになった。

 鳥越氏の説は系譜を詳細に検討し、考古学的な発見も援用したユニークでスケールの大きなものであるが、史料を恣意的にパッチワークした印象は拭えない。欠史八代の陵墓とされるものは年代観がずれたり墓として疑わしいものがある。大和古墳群の存在も無視している。物部王朝と邪馬台国との結びつきも伝承に偏重しすぎている。纏向遺跡が脚光をあびる現在、説としての説得力は乏しいが、『日本書紀』東征譚における物部氏の謎に迫った気になる試みではある。

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*テキスト中の『日本書紀』の引用は、宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀』からによる。

参考
鳥越憲三郎『女王卑弥呼の国』中央公論社
鳥越憲三郎『神と天皇の間』朝日文庫
宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀講談社学術文庫
「天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)」http://mononobe.webcrow.jp/index.html
奈良歴史漫歩 No.039 「長髄彦の故地」http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm042.html

120 八一の唐招提寺の歌と子規の法隆寺の句

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唐招提寺金堂(写真は、「山/蝶/寺社めぐり」から転載)

 会津八一の唐招提寺金堂を読んだ歌は、『南京新唱』の中でもよく知られて人気がある。

    唐招提寺にて
 おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ

 吉野秀雄は『鹿鳴集歌解』でこの歌を「道人(会津八一)の奈良歌中でも最も名高き一つで、景も情も具足しつくしている。私は歌を評する場合、いつも一首の重みということを考えるが、この歌の重みは今人の作としては稀有に属するのではなかろうか。いかにも醇熟し、あたりを払っている感がある。」と絶賛する。金堂の横にはこの歌碑が立つ。

 八一の『渾齋(こんさい)随筆』を読んでいると、この作品が誕生した経緯が書かれていて興味深かった。八一と知人はその日、法隆寺を拝観していて夕暮れとなり月がさしのぼった。西院伽藍の回廊の円い柱が土間に斜めに影を落とした。それを見て「おほてらの‥‥まろき‥‥はしら‥‥まろきはしら」と八一がつぶやくのを同行者は聞いていたという。そのあとバスで奈良へ帰る途中で下車して唐招提寺へ向かった。宵も更けて月は高く空にあった。寺僧も出てきて、金堂の前で話したり歩いたりしたあと、またバスで奈良の宿に帰り着いた。そしてあの歌ができたという。「同じ一と晩のうちに、同じ月の下で、法隆寺で萌した感興」が、「唐招提寺に至って、始めてそれが高調し、渾熟して、一首の歌として纏め上げられた」と自ら解説する。

 ところで、「円い柱」への関心は、若き頃の八一の古代ギリシャへの熱狂的な傾倒から生まれたという。ギリシャ神殿の円柱が頭にしみこんでいて、奈良の古寺の柱に注目したのだろうと自己分析している。

 もちろん唐招提寺金堂の月影の歌はこれだけで完璧であり、作歌事情によって鑑賞に影響を与えるわけではない。一つの作品として完成した姿が読者には提示されるのだが、作者がそこに至るまでは複雑なプロセスがある。それを知りたくなるのも作品の魅力に比例して強まるだろう。

     ○

 この話を読んで浮かんだのは、正岡子規の有名な句「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」である。あの句の着想を得たのは、御所柿を食べながら奈良の宿で東大寺の鐘を聞いたことにあるという説である。すでにいろんなところで書かれているからご存じの方も多いだろう。

 明治28年(1895)、日清戦争の従軍記者として赴いた子規は持病の結核が悪化し、郷里の松山で静養する。小康状態を得て上京する途次、奈良に立ち寄り、10月26日から3泊して古寺をめぐった。宿泊したのは、奈良市今小路押上町にあった對山摟(たいざんろう)である。明治期の奈良の名物旅館で来県する要人の定宿となっていた。28日の夜、子規は好物の御所柿を所望すると、下女は大鉢に山盛りした柿を持ってきた。「梅の精」のような少女に皮をむいてもらい食べていると、鐘の音が一つ聞こえた。東大寺の大鐘が初夜を告げたという。

 この挿話は、子規の随筆「くだもの」に出てくる。「くだもの」には、この時の奈良が柿の盛りで、これまで柿の詩や歌がないことに気づき、奈良と柿を配合することを思いついたと書かれる。実際、この旅では柿の句が多数つくられた。そのひとつが「柿食えば」の句である。随筆には法隆寺の話は出てこない。その体験談からは、「柿食えば鐘が鳴るなり東大寺」となるところを「法隆寺」に差し替えたことになる。フイックションということになるが、それは句を貶めることではなく、むしろ子規の才能を示している。「東大寺」なら、今のようにこの句は人口に膾炙(かいしゃ)しなかっただろう。

 對山摟の跡地には、日本料理の天平倶楽部ができている。ここには子規が宿泊したことを記念して「子規の庭」がつくられた。明治の頃からあったという柿の木のもとに子規の句碑が立ち、「秋暮るる奈良の旅籠や柿の味」の句が刻まれる。

 内輪話となるが、つれ合いが婦人会の会食で天平倶楽部を利用したことがある。食事の前に女将が店の謂われを解説した。對山摟からの歴史を説き起こし、子規の法隆寺の句が実は‥‥という流れになり、熱弁が続いたらしく、食事の時間に食い込んだ。帰りのバスの時刻が決まっていて、最後のコーヒーが飲めなかったと話してくれた。

     ○

 『鹿鳴集』に収載されなかった歌二首が『渾齋随筆』で紹介されている。

 しかなきてかかるさびしきゆうべともしらでひともすならのまちびと

 しかなきてならはさびしとしるひともわがもふごとくしるといはめやも

 八一はこの歌について解説する。「大正十年十一月、奈良客中のある日の夕暮れを、若草山のわきから、宿(日吉館=筆者注)に帰る途中に詠んだもので‥‥(略)。鹿の声はもとより淋しい。それに私の定宿のある登大路のあたりの夜はことに淋しい。しかしそれよりも、私の気持ちの方に、もっと淋しいものがあったのであろう」。この歌を歌集に入れなかったのは「不注意のいたりであった」とまで釈明する。

 歌に表れた情緒は旅人特有の感慨とも受けとれるが、奈良の住人である私も夕暮れの公園近くの町を歩いていて、このような気持ちになることがある。帰るべき家があっても、夕暮れは人をして漂泊の思いを誘う。鹿の鳴き声がことにその思いを引きだすのも、人がそれぞれに抱えた淋しさのツボに触れるからだろう。二首目は、「鹿のなく奈良の夕暮れの淋しさを知る人も、自分が感じているようなこの淋しさを知るだろうか」の意味になる。この孤独感の表白には共感できる。二首セットになって、奈良の淋しさと孤独感の相乗する境地に導かれる歌だと思う。

参考
会津八一『渾齋随筆』中公文庫
会津八一『自註鹿鳴集』新潮文庫
吉野秀雄『鹿鳴集歌解』中公文庫
直木孝次郎「子規と法隆寺(一)・(二)」(『わたしの法隆寺塙新書

119 歴史のなかで揺らぐ天皇陵

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初代神武天皇畝傍山東北陵(奈良県橿原市大久保町)
 

 高木博志・山田邦和編『歴史のなかの天皇陵』(思文閣出版 2010年)は古代から現代までの天皇陵の実態や制度について複数の研究者による報告と討議をおさめる。本書を読むと、時代によって変遷してきた天皇陵の様々を教えられる。

     ○

 天皇陵というと巨大古墳を思い浮かべる。満々と水をたたえたお堀に常緑樹でおおわれた墳墓が影をおとす。瑞垣で囲まれ玉砂利を敷いた拝所は、松や生け垣を刈りそろえ鳥居が立つ。侵しがたい静寂と威厳があたりをつつんでいる。こんな風景が浮かぶが、天皇陵のこのようなおごそかなイメージは近代になって作られたものだという。

 天皇陵が制度化された時期は、2回ある。ひとつは明治期、もうひとつは7世紀末から8世紀にかけてである。天皇という呼称が使われる年代については複数の説があり確定できないが、律令国家として本格的なスタートを切った7世紀末には使用されていたことは間違いない。それより古い大王(おおきみ)の葬られた巨大前方後円墳は、7世紀には築造されなくなっていた。これらの古墳では代替わりの時の「首長霊祭祀」が行われても、以後まつられた形跡はないという。律令国家は天皇を頂点とする体制の国土統治を正統化するために「記紀神話」を創作し、天照大神を始祖とする皇統譜を編む。伊勢神宮祭祀、『日本書紀』の編纂と並んで、歴代天皇陵の指定と管理は、政治的な目的があった。

 持統天皇5年(691)には、天皇陵を管理する陵戸を置く命令が出ている。この頃から天皇陵の治定が始まり、30年~40年かけて治定を完了させたのではないかという。何百年もさかのぼる古墳は祭祀も絶え明確な記録もないなかで、治定は容易ではなかったと想像できる。天皇陵と皇族陵の管理にあたったのは諸陵寮である。毎年十二月に、諸国の貢ぎ物である調の初物を諸陵へ奉る「荷前使(のさきのつかい)」が派遣された。921年に編纂し終えた『延喜式』の天皇陵のリストは、ここで原型が作られたのである。

 7世紀半ばには「薄葬令」も出て巨大古墳は作られなくなっていた。持統天皇天皇として初めて火葬され、天武天皇陵に合葬される。火葬は文武天皇元明天皇元正天皇とつづく。元明天皇は「火葬した場所を墓として土を盛ることなく植樹し刻字の碑を立てよ」と遺言して、墳丘を否定した。薄葬は唐の影響で天子の徳を表したらしい。

 薄葬は平安時代の初期に究極な形に行きつく。嵯峨天皇は山中に埋葬して隠密にし供養はするなと遺言する。驚いたことに淳和天皇は山中に散骨された。このため『延喜式』には二人の陵は存在しない。

 仏教が平安時代以後、陵墓のあり方に強い影響を及ぼしていく。仁明天皇陵には嘉祥寺が建ち、寺が陵の管理や供養を行う形態が生まれる。さらに堂塔を建立し床下に天皇の骨壺をおさめる「堂塔式陵墓」が出現、後一条天皇白河天皇鳥羽天皇近衛天皇らのケースである。宮中においても神仏習合は深く浸透したのである。明治に治定された古代の天皇陵で本人であることが確かなのはわずかしかないが、平安時代から室町時代天皇陵もそれは変わらず、治定に信憑性があるのは、寺院で管理されてきたものだという。

 江戸時代になると、泉涌寺(せんにゅうじ)の一画が天皇家の墓地となり、天皇毎に石塔が立ち葬られる。宮中には「御黒戸(おくろど)」と呼ばれる位牌所があり、天智天皇を初代として光仁桓武とつづく歴代天皇の位牌がまつられる。古墳の管理は朝廷や幕府を離れ、村の入会地になったり灌漑に利用されたりする。祠が作られ、安産や豊作の神様として信仰を集めたりする。

 元禄期や享保期に天皇陵の調査が行われているが、幕末の文久年間(1862~65)の調査は修陵を伴うものであった。これは当時の政情を受けて幕府が公武一体や諸大名の結集をねらって行った。注目されるのは、このとき仏式を廃して神道式が採用されたことである。所在不明であった神武天皇陵が治定され、田んぼの中の二つの塚が柵で囲まれ鳥居が立つ。これ以後、整備を重ねて現在見るような広大な陵に変貌していく。

 文久の治定・修陵は明治に引き継がれる。藩閥政府は「万世一系天皇」というイデオロギーを国民統合のための思想的な要とする。このため様々な施策や制度を設けたが、切れ目ない天皇陵の存在は「万世一系」を視覚化する上で大きな役割を期待された。また、欧米に対して日本の古い歴史をアピールする意図もあったらしい。

 神仏分離は宮中においても徹底され位牌は排除、先皇への祭祀は皇霊殿で行われるようになる。天皇陵は聖なる場所とされ、それにふさわしく整備されて一般の立ち入りは厳しく制限される。神社に参拝するように、鳥居越しに礼拝するという形で天皇陵に接する習わしが形成されたといえる。

 慶応2年(1867)に崩御した孝明天皇は、それまでの石塔ではなく円墳を築造し土葬された。明治天皇大正天皇昭和天皇は下方上円墳に土葬されている。古代にあった墳丘が復活したのである。

 敗戦後、神聖天皇制は象徴天皇制に変わった。しかし、天皇陵の扱いは戦前と基本的に変わらぬままで来ているだろう。時代によって天皇陵のあり方は大きく変わり、それらの捉え方も揺らいでいる。天皇陵という問題は、歴史のなかの天皇を考える上で豊富な材料を提供してくれそうだ。

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文久修陵前の神武天皇畝傍山東北陵荒蕪図(『御陵画帖』)、神武陵
の所在地については現在も論争がある

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現在の神武天皇畝傍山東北陵

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第76代近衞天皇安楽寿院南陵 (京都市伏見区竹田浄菩提院町)、塔の
下に天皇の骨壺をおさめた「堂塔式陵墓」

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月輪陵(京都市東山区 泉涌寺内)、第108代後水尾天皇から第118代
桃園天皇の11代の天皇の石造九重塔がある

参考
高木博志・山田邦和編『歴史のなかの天皇陵』(思文閣出版 2010年)

118 安康天皇陵は何時から行方不明になったのか

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宝来山古墳

     安康天皇陵は中世の山城跡

 第二十代安康天皇陵は菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ=奈良県奈良市宝来4丁目)と称され、現在地に治定(じじょう)されたのは明治になってからである。第二阪奈道路の宝来ICの脇に位置するが、ここは中世の山城である宝来山城のあった場所であり、古墳につながるような遺物は出土していない。

 菅原伏見西陵から南東へ約1km離れて第十一代垂仁天皇の菅原伏見東陵(すがはらのふしみのひがしのみささぎ=奈良県奈良市尼辻西町)がある。墳長227m、前方部幅118m、後円部直径123mの広い周濠を持つ大型前方後円墳で通称は宝来山古墳、古墳時代初期中葉(4世紀中頃)の築造と見られている。宝来山は中国の伝説である東海に浮かぶ理想郷、蓬莱のことであり、水を湛えた周濠に濃い緑の影を落とす古墳は、美しい蓬莱をイメージさせる。

 宝来山古墳はいくつもの陪冢を持ち、そのひとつである直径約40m、高さ約8mの円墳である兵庫山古墳は、元禄期に安康天皇陵とされたことがある。しかし、『宋書』にも登場する「倭の五王」の大王である安康天皇の陵としてふさわしいとは思えない。

 菅原には天皇陵にふさわしい大型の前方後円墳は、宝来山古墳しかない。現状では、安康天皇陵の存在そのものが宙に浮いた状態である。

 二人の天皇陵が治定された根拠は、『延喜式』諸陵寮の記述による。

 「菅原伏見東陵 纏向珠城宮御宇垂仁天皇 在大和国添下郡 兆域東西二町・南北二町、陵戸二烟、守戸三烟」
 「菅原伏見西陵 石上穴穂宮御宇安康天皇 在大和国添下郡 兆域東西二町・南北三町、守戸三烟」

 二つの陵は近接していて、ほぼ同規模であったようだ。陵戸は陵の管理に専任してあたる者であり、守戸は他に生業を持ちながら陵を管理しその代わり税金を免除される。東陵に陵戸二烟が付くのは、それだけ大切に管理されていたということだろう。『延喜式』が完成したのは927年、少なくともこの頃は、二つの陵は実態として存在していた。宝来山古墳が菅原伏見東陵に治定されたのは、江戸時代から垂仁天皇陵とされていた経過にもとづく。そして安康天皇陵は江戸時代にはすでにその存在が不明であった。

     市庭古墳は垂仁天皇陵と見られていた

 二人の天皇陵は『古事記』にも登場する。そこには垂仁天皇陵は「菅原之御立野中(すがはらのみたちのなか)」、安康天皇陵は「菅原之伏見岡(すがはらのふしみのおか)」に在ったと記される。ふたつの天皇陵が菅原という地域にありながら、それぞれの立地条件が「野」と「丘」と異なっていたことになる。ここに着目して、今尾文昭氏は、垂仁天皇陵が平城宮造営に伴って消失した市庭古墳であったことを論証されている。

 市庭古墳は推定墳長253m、前方部幅164m、後円部直系147mの古墳時代中期中葉(5世紀前半)の大型前方後円墳であった。平城宮にかかるため前方部が削平され、後円部も周濠を池にした庭園に改造された。のちに古墳として復活したが、外観が円墳となり、幕末に平安時代初期の平城天皇陵「楊梅(やまもも)陵」に指定された。

京の造営で「墳墓が見つかったら埋め戻し、酒を注いで魂を慰めよ」という勅が『続日本紀』に見える。市庭古墳でもこのような「墓じまい」が行われたことだろう。

 『続日本紀』には「菅原の地の民90余家を移し、布と穀を支給した」という記録もある。これは、宮の地域内にあった民家を移転させたものだと考えられ、菅原という地名が平城宮の範囲にも及んでいたことになる。宮ができる前の宮内の下ツ道西側溝跡から「大野里(おおののさと)」と読める木簡が出現している。「菅原大野里」が平城宮となる前の地名であったのだろう。「大野」も「御立野中」も北側から広がる佐紀丘陵の先端の地形上の特徴にちなむ名付けであった。以上に述べたことから市庭古墳が菅原之御立野中にあった垂仁天皇陵に見なされていたというのが今尾氏の推論である。

 ここからさらに「律令国家は当初、市庭古墳を垂仁天皇陵に比定していたが、奈良時代になって秋篠川西方の同規模の前方後円墳、宝来山古墳に比定を替えた」(『天皇陵古墳を歩く』128頁)という推測が導かれる。

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     安康天皇陵と見られていた宝来山古墳

 『古事記』では、安康天皇陵は「菅原伏見丘」にあったとされる。「菅原伏見」という地名、「丘」という地形的特徴は、宝来山古墳にふさわしい。西ノ京丘陵の東端に位置するからだ。今尾氏の説では、平城遷都間もなく安康天皇陵であった宝来山古墳を垂仁天皇陵に治定替えしたということになる。しかし、『古事記』以後に編纂された『続日本紀』や『日本書紀』の記述を見ると、異なる推測も成り立つように思う。

 『続日本紀』の霊亀元年(715)4月に、「櫛見山陵(くしみのみささぎ=垂仁天皇陵)に守陵三戸を充つ。伏見山陵(=安康天皇陵)に四戸」という記録がある。守陵は守戸のことである。『古事記』が完成したのは和銅5年(712)であり、平城遷都以前の情報が記載されたと見られる。その3年後の記録として、垂仁天皇陵は「櫛見山陵」と新しい名称になり、安康天皇陵は『古事記』の「伏見」を引き継いでいる。注釈によれば、「櫛見」は「伏見」のことである。さらに5年後に完成した『日本書紀』には、垂仁天皇陵も安康天皇陵も「菅原伏見陵」と同じ名称である。

 律令国家は垂仁天皇陵である市庭古墳を破壊したから、早急に償う必要があった。遷都間もない715年に垂仁天皇陵の櫛見山陵に3守戸をあてがったという記事は、市庭古墳に代わる新たな陵を菅原伏見の地に築造したということではないだろうか。この時、安康天皇陵の宝来山古墳はそのままにして、これには4守戸を設けた。築造といっても一から築くのではなく、丘陵の地形を利用した相当規模の範囲を陵に指定して、守戸に管理させたのである。一面では偽造であり、一面では改葬である。その地は、秋篠川に近い宝来山古墳の西側にあたるだろう。

 おそらく奈良時代は二つの伏見陵はそのままに維持されていただろう。平安時代に入っていつの間にか二つの伏見陵の被葬者が入れ替わるということが起きた。すなわち『延喜式』の「伏見東陵」は垂仁天皇陵となり、「伏見西陵」は安康天皇陵となった。宝来山古墳である「伏見東陵」の堂々として美しい姿に対して、本物の古墳ではない「伏見西陵」は見劣りしただろう。『古事記』と『日本書紀』に描かれた二人の天皇の存在感には歴然たる差がある。垂仁天皇陵には宝来山古墳=伏見東陵がふさわしいという意識が生まれ定着していった。中世になれば、天皇陵の管理も行き届かず放置される。菅原伏見西陵は丘陵の自然に帰り消えていく。憶測を重ねたが、これがもう一つの説である。

 安康天皇陵は何時から行方不明になったのか。平安時代の初期にその端緒があり、近世に至るまでの長い時間をかけて「蒸発」したのである。

 もちろん本当の安康天皇陵は地上のどこかに実在している可能性はある。ただ宝来山古墳の年代観と安康天皇が存在した時代とは1世紀以上離れているので、リアルな次元ではそもそも二つは結びつかない。そういう意味では、市庭古墳と垂仁天皇も結びつかない。宝来山古墳と垂仁天皇は両者とも古墳時代初期に位置づけられるが、今のところ一致する確証はないし、垂仁天皇がはたして実在したのかさえ本当のところわかっていないのである。 

■二陵の名前の比較
 ○文献         ○垂仁天皇陵      ○ 安康天皇
古事記(712年)    菅原御立野中    菅原之伏見丘
続日本紀(715年)   櫛見山陵      伏見山陵
日本書紀(720年)   菅原伏見陵     菅原伏見陵
延喜式(927年)    菅原伏見東陵    菅原伏見西陵

参考
今尾文昭『天皇陵古墳を歩く』朝日新聞
高木博志他編『歴史のなかの天皇陵』思文閣出版
青木和夫他校注『日本思想体系 古事記岩波書店
青木和夫他校注『新日本文学大系 続日本紀一』岩波書店
坂本太郎他校注『日本書紀二・三』岩波文庫
『新訂増補國史体系 延喜式中篇』吉川弘文館

号外 「奈良をもっと楽しむ講座」11月13日(金)開催

テーマ「 棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか 」
~当時の資料から読み解く明治・大正の平城宮跡保存運動~

社会的地位や財産もない植木職人の棚田嘉十郎が、なぜ平城宮跡保存のキーマンになれたので しょうか。それは時代背景と密接に関わっています。実際の彼の行動を詳しくたどり、時代的な 視点から解き明かします。また、自決へ至る謎にも迫ります。

講師は本ブログの筆者です。

開催日時 令和2年11月13日 午前10 時~12 時

参加費(資料代含) 300 円

会 場 中部公民館 5 階ホール 奈良市上三条 23-4 (駐車場はありません)

 NPO 法人 奈良まほろばソムリエの会 講座グループ代表 福井 洋 (連絡先 : 前田康一 090-3657-5445)

新型コロナ感染対策と申込予約 http://www.stomo.jp/osirase/pdf/osirase201018.pdf

奈良歴史漫歩107「棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか(前編)」

奈良歴史漫歩108「棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか(後編)」

番外 朱雀大路延長500mの完全復元を!

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更地になった積水化学工場跡。三条通りから朱雀門まで見通せる。右側の民家は朱雀大路跡の東部分を占める。

 奈良市三条大路にあった積水化学工場は、三条通りか大宮通りを利用して車で奈良市街に出ることの多い私には、もの心ついて以来目に焼き付いた風景だった。工場ができたのは昭和32年(1957)だという。いわゆる進駐軍の施設跡の利用だった。その前は農地として1000年以上ほぼ変わらぬ風景が広がっていたのだろう。ここが平城京であったときは、右京三条一坊の南東を占めて、朱雀門に近く朱雀大路も含む京の中でも重要なエリアであった。

 現在、工場は撤去され、三条通りから大宮通りまで遮るものもなく見通せる更地である。土が剥き出しになって街中に突然出現した6haの四角形の空地は、それ自体、非日常的なシーンとして興味をそそるが、この風景も一時的なものである。奈良県は、「平城宮跡歴史公園 県営公園区域」に追加する「平城宮跡南側地区」として整備する予定であり、その基本計画(案)の意見(パブリックコメント)を募集している(10月31日まで)。

 これに応じて私も意見を応募した。

 県が作成したパンフレットには、南側地区を①朱雀大路保存エリアと②多目的エリアの二つに分ける。それぞれは、「①朱雀大路保存エリア 朱雀大路の遺構部分を将来世代に引き継ぐよう保全し、往事の平城京の広がりを体感できるエリアとします。」「②多目的エリア 景色を楽しめるような休憩施設等を整備し、広い平城宮跡歴史公園の中で比較的少ない憩いやくつろぎ空間を創出します。また、来訪者のアメニティが向上するよう、駐車場、便益施設等を併せて整備します。」とある。

 地図で見ると、更地の東端部分が30m~50mの幅で朱雀大路にかかっている。朱雀大路の幅は約90mあるから、大路の西半分が復元整備されることになる。これには大賛成である。しかし、西半分しか復元できないというのは、非常に残念だ。

 朱雀門の前に立って南を望むと、広場にしか見えない大路が約250m先まで広がる。このスケールには驚く。さらにこの道幅をもって南へ4kmまっすぐ羅城門まで伸びていたのである。奈良時代には自動車はもちろんなく、道を利用するのは人や牛馬に限られる。この道幅は実用的なものではなく、理念的なものであった。律令国家のスタートを切ったばかりの日本は、文明と同義であった唐から文明国として認知されるために、唐の諸制度を取り入れるとともに長安をモデルにした平城京を建設した。当時の日本の国力には分不相応なものであったが、為政者たちの夢と野心の賜物であった。

 現在復元された朱雀大路も壮観である。それがさらに二倍延長され、京の条坊の一坊分の大路が完全復元されれば、往事の平城京をどんな説明やVRよりも雄弁に体感できることは間違いない。それはしだれ柳と築地塀に囲まれた、ある意味で異様な「何もない」空間であるが、我々の日常的な想像力を心地よく超えて、奈良の古代史に導いてくれる新たなシンボルとなるだろう。

 奈良のシンボルを一つ増やせる千載一遇のチャンスである。もちろんその実現が容易ではないことはわかる。民家の移転には住民の理解が必要であり、それには手間と時間と費用がかかる。簡単に言えることではないが、更地になった南側地区が換地として利用できるのも良い条件になるのではないか。

 多目的エリアについては、駐車場と緑地帯にすることが望ましいと思う。平らな土地である利点を生かして芝地とし、サッカー、草野球、グランドゴルフ、児童公園など市民のスポーツ、リクレーションに供したい。災害などの非常時には避難場所にも転用できる。正倉院を復元する案もあるらしいが、正倉院風ログハウスにして、吉野の間伐材も使用した倉庫を作り、災害に備えた物品を備蓄しておくというのはどうだろう。屋根には太陽光パネルを貼る現代の正倉院である。

 県のパンフレットを見ると、観光客向けの施設や商業施設を建設することが想定されているように読める文言がある。朱雀門前の向かって左の県営エリアには天平うまし館・天平みつき館・天平みはらし館・天平つどい館があり、右の国営エリアには平城宮いざない館がある。さらに県営の歴史体験館の建設も予定されている。これだけ作ってまだやるのかというのが正直な思いである。何時行っても観光客はまばらで、維持のためにどれだけ税金が注がれるのかと思うと恐ろしくなる。今ある施設をもっと魅力的なものにすることに知恵をしぼってもらいたい。もうこれ以上のハコモノはいらない。

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<概要版>「平城宮跡歴史公園 県営公園区域 基本計画(案)」パンフレットより

 ○ 「平城宮跡歴史公園 県営公園区域 基本計画(案)」に対する意見の募集について
http://www.pref.nara.jp/item/235831.htm#moduleid53310

117 新薬師寺・香薬師像の三度の盗難と戻ってきた右手

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盗難前の香薬師像。明治21年小川一真撮影
 

     白鳳仏の傑作

 奈良市高畑町に所在する新薬師寺は、光明皇后聖武天皇の病平癒を願って創建した古刹である。七体の薬師如来像を安置した金堂を中心に七堂伽藍整う巨大な寺院であったが、相次ぐ被災を経て創建時の建物は、かつて修法を行ったと言われる現在の本堂を残すのみである。本堂には平安初期の薬師如来座像が鎮座し、その周りを奈良時代十二神将が取り囲む。いずれも名高い国宝である。寺にはもう一体、有名な仏像が存在した。白鳳時代(7世紀後半から8世紀初頭)の傑作だとされる香薬師像である。本堂の西に建つ新しい香薬師堂にまつられた像はそのレプリカである。

 香薬師像は、昭和18年(1943)3月、盗難に遭ってその行方は今もようと知れない。写真で見る像高約74センチの金銅仏は、童子のような無垢で柔和な印象を与える。この時代の仏像特有の雰囲気を一身に体現しているようで、多くの仏像ファンを魅了する。歌人・美術史家の会津八一(1881~1956)は、奈良を訪ねるたびに香薬師を拝したという。歌集『南京新唱』には、香薬師を歌った三首が収められる。その一首が境内の石碑に刻まれた。八一の最初に立った歌碑だという。

 ちかずきてあふぎみれどもみほとけのみそなはすともあらぬさびしさ
 (大意 近寄って仰ぎ見ても、み仏が自分を認めてご覧下さることもないこのうらさびしさよ)

 次に他の二首も挙げる。(大意は、吉野秀雄『鹿鳴集歌解』から引用した。)

 かうやくしわがをろがむとのきひくきひるのちまたをなずさひゆくも
 (大意 香薬師を拝もうと、軒の低い小家続きの真昼の町に心親しみつつ、新薬師寺への道をたどっていく)

 みほとけのうつらまなこにいにしへのやまとくにばらかすみてあるらし
 (大意 香薬師のうつらうつらした仏眼に、遠きいにしえの大和国原はいまも霞んでいるらしい)

 亀井勝一郎(1907~1966)は『大和古寺風物誌』の中で香薬師を絶賛した。

 「香薬師如来の古樸で麗しいみ姿には、拝する人いずれも非常な親しみを感ずるに相違ない。高さわずかに二尺四寸金堂立像の胎内仏である。ゆったりと弧をひいた眉、細長く水平に切れた半眼の目差、微笑していないが微笑しているように見える豊頬、その優しい典雅な尊貌は無比である。両肩から足もとまでゆるやかに垂れた衣の襞の単純な曲線も限りなく美しい。‥‥どこかに飛鳥の楚々たる面影を湛えて、小仏ながら崇高な威厳を保っている。」

     三度の盗難

 ところで香薬師像は昭和18年の盗難の前にも明治に二度も盗難にあっている。いずれも発見されて仏像は寺に戻ってきている。これもよく知られた事実で、いやが上にも好奇心をかき立てる。これらの事件を詳しく知りたいと前から思っていたが、最近、貴田正子氏の著書『香薬師像の右手~失われたみほとけの行方~』(講談社2016年刊)を読んで、その機会を得た。この本を元に事件をたどり、後日談にも触れてみたい。(ネタバレがあります。)Amazonにある本の要旨を紹介しておく。

 「奈良・新薬師寺の香薬師像は、旧国宝に指定され、白鳳の最高傑作といわれた美仏。しかし、昭和18年に盗難に遭い、未だに行方が分かっていない。この香薬師像を見つけ出そうと、元産経新聞の記者である著者が取材を開始。新薬師寺住職の全面的な協力を得た調査の結果、衝撃の新事実が発覚。ついに、像の一部である「右手」を発見する……。美術史的にも非常に意義のある大発見までの経緯をまとめた、渾身のノンフィクション。」

 著者が香薬師像に初めて出会ったのは、新聞記者として最初に勤務した茨城の笠間市においてだった。戦後すぐ笠間町は「国宝コピー仏像」を展示する町営の美術館を創設し、そのひとつが石膏製の香薬師像だった。美術館はすでになく倉庫に眠っていた香薬師像の愛らしさに著者は一目惚れする。それから元の仏像について、コピーが製作された経緯について取材が始まる。

 盗難事件は新薬師寺にもほとんど記録が残っていなかった。当時の新聞記事や公文書を博捜して明治の事件が明らかにされる。1回目の盗難は明治23年(1890)1月に発生した。この時は、寺の西800メートルほどの喩伽山にある天満天神社の境内に放置された状態で仏像は発見された。折られた右手がそばにあった。黄金仏とも称されていたことから純金を狙った盗みと推測された。手を切断して純金製でないことを確かめ捨てられたようだ。

 2回目の盗難は明治44年(1911)6月に起きた。仏像は本堂内の厨子に収められ鍵は掛かっていなかった。深夜、留守居の者が本堂の方で物音がするのを聞いているが見回ることはせず、翌朝も本堂入り口の鍵に異常はなかったので不審を抱かなかった。気づいたのはその翌日、厨子を開けた時だった。捜査は難航し、寺は事件解決につながる通報者に100円の懸賞金をかけた。盗難から約10日後、大阪府東成郡墨江村(大阪市住吉区)の草むらに地元の人が捨てられた仏像と右手を見つけ警察に通報し、香薬師像だとわかった。両足は足首から切られて見つからなかった。像は寺に戻り、通報者には100円が払われた。今回も純金目当ての盗難だと推測できる。

 二度の盗難に懲りて、篤志家たちの寄付で仏像を安置する香薬師堂が大正6年(1917)に建てられた。右手は銅板で継がれ、失った両足は木製で補われた。死角(四角)がないようにと五角形の厨子に収められた。

 だが、二度あることは三度あった。昭和18年3月26日の朝、お堂の錠がバールのようなもので壊され、仏像が消えていた。6年前に東大寺法華堂の本尊、国宝の不空羂索観音像の宝冠が盗まれるという事件が起き未解決だったので、奈良県警は戦時下であったが大捜査態勢を組んだようだ。その捜査にかかって時効寸前だった宝冠は見つかり犯人も逮捕されたのは幸運だったが、香薬師の行方はわからず迷宮入りとなった。

     現場に残った像の右手とレプリカ

 著者は資料を調べていたとき、奈良古美術の写真館「飛鳥園」の創設者、小川晴暘(せいよう・1894~1960)の文章に目がとまる。3回目の盗難の直後、奈良県警の捜査室で像の右手と木で補作された両足を目撃したことが記されていた。現場に残されていたものだという。新薬師寺の住職、中田定観氏はこれを知って驚愕し容易に信じられなかったという。定観氏は昭和19年(1944)に寺で生まれ育った方である。先々代の福岡隆聖(りゅうせい)師と先代の中田聖観師(1917~2010)とずっと同じ屋根の下にいて、そのことを聞いておられなかったようで無理もない。だが、犯人はなぜ現場に右手と両足を残していったのか?盗まれた像はどんな姿だったのか?新たな謎が生まれた。

 著者が香薬師に関心を持ったのは、前述したように茨城県笠間市の像のレプリカに出会ってからである。レプリカはどのように製作されたのか。実は盗難の直前、昭和17年(1942)に二人の彫刻家がそれぞれに像の石膏雌型をかたどっている。笠間の石膏レプリカはその雌型を使用したものだ。他にも銅像製や樹脂製のレプリカが出回っているが、このふたつの雌型が元になっている。

 銅製レプリカが香薬師堂に収まった経緯も明らかになった。文藝春秋社の元社長・佐佐木茂索(1894~1966)は、昭和24年(1949)に妻を亡くす。ひどく悲しんだ佐々木は、交流のあった東大寺観音院住職の上司海雲師(1906~1975)に相談して、観音院に仮寓していた水島弘一(1907~1982)が香薬師の雛形をかたどり所持していたことを知る。佐々木は全額出資して雛形から複製銅像を作り供養することを考える。文化勲章を受章した鋳金工芸家の香取秀真(かとりほつま・1874~1954)に依頼して三体製作した。一体は新薬師寺に寄贈し、一体は謝礼として上司の観音院に置かれ、一体は佐々木が所蔵した。観音院の像は、文化サークル「七人会」のメンバーの鈴木光(元三共製薬会長・鈴木万平の妻)に譲渡されたあと奈良国立博物館に寄贈された。佐々木が所蔵した像は、佐々木の死後、遺族によって鎌倉の檀家寺・東慶寺に寄贈されている。

 もうひとつの雛形は、奈良一刀彫りの第一人者の竹林薫風(1903~1984)がかたどった。これからも銅像が製作され新薬師寺に収められたが、現在この型の像は寺には存在しない。

 水島弘一の子息、水島石根(いわね・1939~)氏も彫刻家であり、雛形について新たな情報が提供された。弘一が雛形を取るとき、右手と両足、蓮華座を新たに作りつなぎあわせたという。雛形を取る前に右手だけが盗まれるという事件があり、右手を新調したついでに両足、蓮台も作ったらしい。本物の右手はその後、寺の庭で発見されたという。この証言により、盗難現場に本物の右手と補作した足が残されていた理由が判明した。盗まれた像には新調した右手と足がついていたのである。国宝のこの修理について公式な記録はない。

 小川晴暘が警察署で目撃した本物の右手は寺に返却されただろう。しかし寺にはなく、その行方の手掛かりはまったく掴めなかった。立ちはだかった厚い壁に穴があいたのは偶然のようであり、また然るべき必然性があった。平成26年(2014)11月、仏像美術史家の水野敬三郎氏(1932~)が四天王の調査で新薬師寺を訪ねたとき、定観師が「香薬師のことで何かご存じありませんか」と尋ねたら「昔、香薬師の手を見たことがある」との答が返ってきた。

 昭和37年(1962)の冬、水野氏は恩師の仏像研究家・久野健(くのたけし・1920~ 2007)とともに佐佐木茂索が所有する法隆寺の塑像の調査で佐々木宅を訪れた。佐々木は不在であったが、そのとき夫人から香薬師の右手を見せられた。二人は驚き観察した。その記録と写真を水野氏は大切に保存していた。しかし発表されることはなかった。

 著者は佐々木の遺族と連絡を取る。しかし夫人は高齢で取材に応じられず、家には右手はないという返事が返ってきた。著者の夫の貴田晞照(きしょう)師は修験道者にして「気」の世界の治療家であり、中田定観師とは信頼しあった仲である。貴田師の「右手は東慶寺にある」という意見を受けて、中田師は東慶寺に問い合わせの手紙を送る。けれども応答はない。直接に東慶寺を訪ねようとした前日、寺から連絡が入り「前向きな話をさせていただきたい」と告げられた。

 東慶寺の住職は、2年前先代が死去され後を継いだ若い井上陽司師である。手紙が他の書類に紛れ返答し損なったことを詫び、木箱が差し出された。蓋を開け取り出されたものは、台座に載った驚くほど小さくかわいい右手であった。箱書きは現代語訳すると、「新薬師寺の香薬師の御手である。わけあって昭和二十五年初夏、この箱を作り、謹んで安置する。佐佐木茂索謹んで誌す」とあった。もうひとつあり、「平成十二年十二月一日佐々木茂策氏命日に夫人泰子東慶寺奉納 禅定謹誌」とあった。禅定というのは、先々代の住職の井上禅定師のことである。

 佐佐木茂索は昭和25年に香薬師の複製銅像を新薬師寺に寄贈している。その年の初夏に像の本物の右手が寺から佐々木に渡った。当時の国宝であるから然るべき手続きが必要だと思うが、それはなかったようだ。著者はあえて明言することを控えているが、それが関係者の口を閉ざさせ、右手の行方を不明にさせたのだろう。なにしろ住職の中田定観師もまったく知らなかったことなのである。佐々木が所蔵した複製銅像が泰子夫人から東慶寺に寄贈されたのは、模索の死後26年後、右手が寄贈されたのはその8年後であった。

 平成27年(2015)10月12日、香薬師の右手は65年ぶりに新薬師寺に戻ってきた。貴田晞照師が中を取り次ぎ、東慶寺から受け取った右手を定観氏に手渡し、本尊の薬師如来座像に香薬師如来像の右手が返還されたことを報告する法要が執り行われた。水野敬三郎氏は鑑定し本物であると太鼓判をおした。右手の返還は一連の経過を含めて文化庁に報告された。

     香薬師像の行方          

 香薬師像は寺の伝承では、光明皇后の念持仏であったという。皇后が創建した香山(こうせん)寺の本尊となり、新薬師寺が創建されると丈六薬師如来の胎内仏となった。火災にあって胎内から取り出され、寺で守護されてきた。像には火を被った跡が残るが、この由緒に史料的な裏付けはないようだ。

 「白鳳三仏」と呼ばれる仏像がある。東京・深大寺の釈迦如来倚像、法隆寺の夢違観音菩薩像、香薬師如来像である。三仏には共通点が多くて、同一作者または同一工房で製作されたという説がある。香薬師像の与願印を示す左手の掌には薬壺がのる。薬壺が現れるのは平安時代になってからと言われ、後世の補作でなければ最古のケースとなる。香薬師像が戻ってくれば、これらの学術的研究も進むだろう。

 著者が香薬師に関心を抱いたのは、新聞記者として取材した平成6年(1994)であった。取材を再開したのは、平成25年(2013)に貴田夫妻の元に香薬師のレプリカ銅像が現れ購入したことがきっかけだった。それは竹村がかたどった雌型の系譜につらなり、人間国宝鋳金作家の齋藤明(1920~2013)が鋳造したものだった。著者はすでにフリーの立場であったが、香薬師との不思議な縁を感じた。単なる取材者を超えた当事者的な情熱を持って取材に邁進した。取材の経過を追っての記述はミステリー小説を読むような面白さがある。ただ夫の神秘的な能力を賛美したり、生業の治療院の宣伝とも受け取れるような部分には引いてしまったが。香薬師の右手が発見され新薬師寺に無事に戻ったのは本当に良かったと思う。それに与った著者の功績は大きい。明治の盗難は純金狙いであったが、昭和の盗難は像の骨董的価値が動機になっているだろうから、人の目を避ける何処かに秘匿されている可能性が高い。著者は「これからも私は香薬師像の行方を追う取材を続ける。香薬師の高貴でやさしい、そして霊験あらたかな“うつらまなこ”が、再び世を照らす日が来るのを強く信じて――」と本の最後に記す。

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香薬師像の右手

参考
貴田正子『香薬師像の右手~失われたみほとけの行方~』講談社
会津八一『自注鹿鳴集』新潮文庫
吉野秀雄『鹿鳴集歌解』中公文庫
亀井勝一郎『大和古寺風物誌』新潮文庫
奈良国立博物館『白鳳~花開く仏教美術~』展覧会カタログ