108 棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか(後編)

~明治・大正期の平城宮跡保存運動の深層~

第3章 「奈良大極殿址保存会」 1911年(明治44)~1922年(大正12)

 奠都祭の翌年に棚田は上京して司法大臣、岡部長職子爵と面会します。「宮跡の保存策が示されなければ奈良へ帰らない」と強く迫ります。岡部子爵は元岸和田藩当主です。彼は華族の中では1番、棚田を支援した人です。岡部子爵が徳川頼倫侯爵を紹介します。徳川侯爵は元紀州徳川藩の当主で貴族院議員でした。ヨーロッパに留学して史跡保存に関心を持ったということです。この頃、自ら「史蹟名勝天然紀念物保存会」という組織をつくって会長を務めていました。平城宮跡保存事業を担うにうってつけの人物でした。徳川侯爵から前向きな返事をもらいます。

 これで保存に一応の目途が立ったからでしょうか。明治45年に棚田は三条通りの交差点に石造の道標を立てます。今はJR奈良駅の広場に移されていますが、交差点の北東の角にあったのですね。正面に「平城宮大極殿跡 西乾是より二十丁」、左側面に「明治四十五年三月建之棚田嘉十郎」と刻んであります。若林県知事が揮毫しています。今では棚田の名前の方に史料的な価値があるわけですが、自分の名前を刻んだことに彼の強い自負心、そして名誉欲、自己顕示欲を感じます。

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三条通りに建つ「平城宮大極殿跡」道標 昭和30年代

 約束通り大正2年に「奈良大極殿址保存会」が正式に発足します。会長は徳川侯爵、副会長に元大蔵大臣の坂谷芳郎男爵、評議員に岡部子爵、奈良県知事、他に著名な実業家の岩崎久彌、渋沢栄一大倉喜八郎らが就きます。大正天皇即位の記念事業であることをかかげて、計画は大極殿址に記念碑を立て基壇の周囲に石標を打ち込む、それに必要な土地を購入するというものです。1万7千円の資金を募ります。

 大正3年に棚田は脳出血のため失明状態になります。過労が原因でしょうか。

 大正4年に、「保存会」は田んぼ約2町5反を1万3千円で購入します。芝地であった大極殿址や朝堂址約4反7畝は地元から寄付されます。奈良県知事の名義に変更されます。

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朝堂院址匿名篤志者保存工事施工予定図(『奈良大極殿址保存会事業経過概要』)

 保存会は約3町の土地を手に入れたのですが、朝堂院と朝集殿院の区画は民有地のままでした。この図では斜線部分です。保存会はこの区画の保存も考えていました。そのとき現れたのが「福田海(ふくでんかい)」という仏教系の新興宗教団体です。岡山に本部がありました。幹部に中西平兵衛という繊維関係の仕事で財をなした資産家がいました。彼の資産を使った匿名慈善事業を盛んに行っていて、平城宮跡の保存に必要な資金全額を匿名で負担するという申し出がありました。棚田が取り次いで保存会に持ち込まれ了承されました。「渡りに舟」だったのでしょう。

 大正7年に溝辺が亡くなっています。

 大正7年に福田海は斜線部分の土地6町3畝23歩を約4万5千円で買収します。このとき土地の名義が中西と団体の代表者の名前に変更されました。棚田はこれを知って抗議し「県知事の名前」に変えるようにと要求します。匿名という約束が破られたと思ったようです。中西は「自分たちの名前にしたのは、知事に頼まれ納税のためにこうなった」と釈明します。知事に問うと「そんなことをいった覚えはない」という返事でした。

 史料にはこれしか出てきません。真相は推測するしかないのですが、中西の言ったことは事実だと思います。こういう重要なことが福田海の一存でできたとは思えません。このあと福田海に丸投げする形で工事が行われます。工事が完了して保存会が引き取る段取りになっていたのでしょう。何年もかかるから福田海の名義にしておいた方が都合良く、また固定資産税もとれるでしょう。知事の発言は真意を公にすることをはばかってしらばくれたのでしょう。今もよく使われる「記憶にありません」ですね。

 またこのとき「匿名」について中西と棚田の間でやりとりがありました。中西は、「匿名とは石碑に名前を刻んだり寄付名簿に署名しないことだ」と説明したのに対し、棚田は「匿名とは一切名前を出さないことだ」と反論します。

 大正8年に「史蹟名勝天然紀念物保存法」が徳川侯爵らによって提案されて議会で成立します。これは文化財保護法の前身です。史蹟を文化財としてとらえ保護するという画期的な思想と方法が確立した法律です。

 大正8年から9年にかけて宮跡の工事が実施されました。これは保存会が立てたプランに沿って奈良県が監督し福田海が業者を使って行ったものです。

 この工事に対しても棚田はクレームをつけました。地鎮祭神道式ではなく仏式であったこと、地鎮祭のあとも人糞などを流して耕作していることについてです。平城神宮の設計図を引いた塚本慶尚は内務省に戻って、「保存会」の事務局も担当していました。仏式という批判に彼は「聖武天皇も喜ばれているだろう」と応じます。耕作についての批判は県の役人が「耕作は国益に適っている」と答えています。

 しかし、棚田はまったく納得しません。「匿名の約束が破られ、宮跡の神聖さを汚す工事になって、保存会の面々に顔が立たない」と嘆きます。さらに「不敬である」と言って、福田海と保存会の担当者を攻撃します。

  大正10年4月に福田海は土地の寄付と工事の辞退を保存会に申し出ています。しかし、保存会は慰留します。工事を継続することを促しています。

 この頃、新聞に福田海を攻撃する記事が盛んに出るようになります。棚田の主張をなぞるような形で「福田海は平城宮跡の乗っ取りをたくらんでいる」「福田海は淫祠邪教だ」とかセンセーショナルに書き立てます。福田海が辞退を申し出たのも、これが一因でしょう。

 この年の8月17日、棚田は大豆山町の自宅で自刃します。妻子が墓参りしている間に、切腹の作法にもとづいて短刀で喉を突き刺します。遺書には「ふはいの絶頂、諸君、義の一字守り給え」と書きつけてありました。

 自刃のあと事態は急展開します。工事は中止となり、福田海の名義になっていた土地は保存会に寄付されます。翌年には、大正8年に成立した史蹟名勝天然記念物保存法により、宮域の東半分が史跡指定を受けます。

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平城宮跡航空写真 昭和30年代

 これは昭和30年代の航空写真です。赤線で囲んだ範囲が、この時の史蹟指定範囲です。その中で白ぽい長方形の部分が国有地となり保存工事が行われました。黄色の線で囲む範囲が宮跡の全体であり、現在住宅地を除く全域が国有地となり特別史跡に指定されています。

 大正12年(1922)5月に 「奈良大極殿址保存会」は解散します。所有する土地はすべて内務省に寄付します。このとき「平城宮址保存紀念碑」が朝集殿院の正面に立てられます。碑の裏面には保存の経緯が漢文で刻まれました。このあと保存工事が再開されます。史跡公園化を意図したプランは破棄され、現状維持を旨とした工事になります。保存区域も南北に少し拡張しました。初めての発掘調査も実施されました。

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空海寺(奈良市)門前の棚田嘉十郎墓)

 写真は東大寺転害門の近くにある空海寺(奈良市司町)です。保存会の手で大正12年に嘉十郎のお墓が建てられました。「平城宮跡保存主唱者 棚田嘉十郎墓」の銘は、岡部長職子爵の揮毫です。

 

終章 棚田嘉十郎の評価

 運動の流れをたどってきました。紆余曲折してわかりにくかったかもしれません。要点をまとめておきます。

  • 明治・大正期平城宮跡保存運動を主導した動機は、皇室への崇敬・顕彰であった。
  • 平安神宮の創建に刺激され、平城神宮の建設が目指されたが、実現に必要な関心や支持は得られなかった。
  • 地元の住民、有力者、政治家、役人らの構成する運動組織が三度結成されたが、実質的な活動には至らなかった。
  • 嘉十郎の個人的な活動の大きな推進力となったのは、小松宮の拝謁であった。皇族直々の激励は、彼に不退転の決意を固めさせるとともに、賛同署名を得る上で大きな武器となった。特に社会的地位の高い相手に効果を発揮した。
  • 嘉十郎の皇室崇敬を動機とした自己犠牲的な行動は、当時の国家が推進した国民教化に応じるモデルとなった。国家の中枢にあった華族が、平民の「真心」に報いるという形で宮跡保存が進行した。
  • 嘉十郎への主な協力者、支援者。溝辺文四郎(地元住民との交渉・説得、資金面の援助)、石崎勝蔵(私生活面の援助)、土方直行(中央華族の紹介)、塚本慶尚(保存事業の実務)、岡部長職華族大臣として最大の支援)
  • 史蹟名勝天然記念物保存法が適用されることで、平城宮跡は皇室の聖地への顕彰という面に加え、歴史的文化財として保存され現在に引き継がれた。

 序章で三つの論点を挙げておきました。これまでたどってきた運動の叙述と要点でその答を示しましたが、さらに補っておきます。

 明治・大正期の平城宮跡保存の大きな動機は、皇室崇敬をもとにした宮跡の顕彰にあることは述べてきました。これは、明治の国家の形成が庶民には目に見える家父長としての天皇のイメージを植え付けることで行われたことと関係しています。天皇への崇敬が愛国心とイコールで結びつくように庶民の教化が図られたのです。それが実を結んだのは、日清戦争から日露戦争にかけてと言われます。

 平城宮跡保存が俎上に上ったのもこの時期です。棚田はこの国民教化のイデオロギーにもっとも染まった人物です。当時の国民の道徳規範となった教育勅語は、天皇に仕える臣民のあり方を説いています。そこには、「いったん有事の際は進んで奉公し、永遠不滅の皇運をたすけ護るべし」とあり、皇室に対する絶対な忠節を要求しています。棚田の行動はこの「期待される臣民像」を体現しました。あるドイツ人から宮跡のガイドを頼まれた時、「草がぼうぼうの宮跡を外国人に見せるのは日本の恥」と思い、仮病を使ってことわっています。また奈良に陸軍歩兵第38連隊の駐屯地が設けられたときには、多大な寄付をしています。愛国心天皇崇敬は結びつき、彼は私生活を犠牲にしてまで宮跡保存に奔走しました。その運動のスタイルは、皇室の藩屛たる華族や政治家に保存を訴えて回るというものでした。一介の庶民の「赤心」からの「奉公」が、皇族や華族を動かして報われたというのが、彼の行為を説明するのにもっともふさわしいでしょう。棚田には社会的に公認された絶対の正義を実践しているという陶酔感があったと思われます。棚田は最後は暴走してしまいますが、保存会はこれを封印します。「模範的な臣民」として死後も棚田を顕彰します。

 棚田の自刃は「匿名篤志家が約束を破ったことの責任を取った行為」というのが通説ですが、事実は異なります。嘉十郎が問題にした福田海の土地買収後の名義替えや仏式の地鎮祭、耕作の続行は、保存会も了承していました。福田海や保存会の立場からは、嘉十郎の批判は誤解であり、その主張は偏狭に過ぎました。保存会は、福田海が「匿名寄付」を布教手段として利用することをある程度許容しながら実を取りました。保存会の現実的な対応と、嘉十郎の主観的な「正義」、すなわち、この場合「完全な匿名性」「神道式の地鎮祭」「地鎮祭以後の耕作はしない」、はすれ違い対立しました。嘉十郎の自刃は、自らの主張に殉じる形で、自分の立場を正当化しようとしたといえます。

 なぜ棚田はそこまでして自分の主張を押し通そうとしたのでしょう。特に匿名性にこだわったことについては、宗教団体が保存事業を自らの宣伝に利用することを阻止しようとしたと言えるかも知れません。しかし福田会の寄付で本来の目的の宮跡保存が実現できるなら、一歩譲るという選択もあったはずです。彼は自分が平城宮跡保存の1番の功労者であると自負していました。福田海が匿名でなくなることは、その名誉を奪われるという嫉妬心があったのではないかと思います。

 棚田の自刃の影響について考えます。

 棚田は自刃によって結果的に自分の主張を押し通しました。福田海はこれ以降身を引き、文字通り匿名的存在に化しました。民間からの寄付金約10万円のうち8万円は福田海が負担しています。その功績を保存会は評価しましたが、一般に語られることはありません。

 当初の観光客も呼べるような公園化のプランは破棄されて、史跡の破壊が押しとどめられました。現状凍結を旨とする保存整備が図られ、後世に引き継がれました。これは棚田が意図しなかったことですが、文字通りの宮跡保存に寄与しました。

 棚田嘉十郎の偶像化に作用しました。自刃の真相は封印され、後に平城宮跡保存の大義にすべてを捧げたというドラマが生まれました。平城宮保存史の中で棚田は銅像にもなるぐらいに大きな評価をあたえられています。悲劇の主人公で「判官贔屓」の琴線に触れるものがあります。彼は戦前には「模範的な皇室崇敬者」として顕彰され、戦後は戦後の価値観で読み替えられて「文化財保存の民間の先覚者」として評価されました。

 ところであの大正期の宮跡の保存が果たして適切であったかということについて、あえて異なる視点から考えてみたいと思います。

 棚田嘉十郎の運動で平城宮跡の保存が早まりましたが、文化財保存の立場からは、時期尚早とも言えます。調査なしの史跡公園化がはかられ、溝渠掘削で史跡が破壊されました。皇居に当たる場所が農地になって牛の糞や人糞まみれになっているのはまずいということで買上られたのですが、それからの30年は草原となりほとんど忘れられた存在になります。文化財という視点からは、田んぼのままであった方が保存に叶っていたということになります。

 機が熟さない中でかなり無理をした保存が、福田海の介入と棚田の自死を招いたともいえます。

 昭和に入り考古学的な調査技術が進み、文化財の概念も成熟していきます。宮跡の破壊が現実の問題となるのは、戦後になってからです。平城宮跡の重要性はすでに早くから共通認識だけはできていたので、機運が熟し保存体制が整って着手するという選択肢もあったのではないでしょうか。

 ただすでに宮跡の中枢部が国有地として保存されていたことで、戦後の全域保存の比較的スムーズに実行できたことは確かであり、史跡保存の先駆けとしての意義は失せないでしょう。