110 ①入江泰吉の郷愁の「大和路」モノクロ篇

f:id:awonitan:20200601192039j:plain
勝間田池の堤防から薬師寺東塔を望む 昭和30年代前半『昭和の奈良大和路』から

 入江泰吉(1905~1992年)の最初の写真集『大和路』(東京創元社)が出版されたのは、1958年(昭和33年)であった。その前年、文芸批評家の小林秀雄が、東京創元社の社長、小林茂を伴って水門町の入江宅を訪れ、写真を見てその場で即座に出版を勧めたということだ。

 入江は1945年(昭和20年)の3月、空襲で営んでいた大阪の写真店が焼かれ、着の身着のままで生まれ故郷の奈良に疎開した。40歳であった。その年の末から、機材を闇市でそろえ、奈良の仏像や風景を撮影するようになっていた。その成果は、大阪や東京の百貨店で個展「大和古寺風物写真展」を開いたり、亀井勝一郎の『大和古寺風物詩』や堀辰雄の『大和路・信濃路』の挿入写真に採用されたから、入江の写真は世間に知られるようになってきたといえる。

 文芸批評のすでに高名な大家であった小林秀雄がわざわざ足を運んで、写真集出版を慫慂したことに驚く。小林はどこかで入江の写真を見て、一流の芸術を感得したのだろう。B4判、125枚のモノクロ写真を収める。小説の神様志賀直哉が序文を寄せる豪華なものであった。当時は個人の写真集はまだ珍しかったなかで、5刷を重ねたという。

 入江の大和路の写真はカラーのものが知られていて、今はモノクロの写真はあまり知られることはないが、大和路の写真家として出発し評価を得たのはモノクロ時代においてであった。

 『大和路』の好評を受けて、1960年(昭和35年)に『大和路 第二集』が上梓された。この頃にはすでにプロの世界ではカラー時代に入っていた。入江はモノクロ表現へのこだわりがあり、新たなカラーの扱い方をめぐって長い試行錯誤があったようだ。カラーで本格的に撮影するようになったのは63年頃からで、それは70年の『古色大和路』、74年の『萬葉大和路』、76年の『花大和路』の三部作に結実する。菊池寛賞を受賞した三部作により入江は評価を確立し、以後多くの写真集やポスターなどで入江調と呼ばれる「大和路」は流布し浸透していくのである。

 モノクロの写真が「発掘」されたのは、1992年(平成4年)1月から翌年の6月まで朝日新聞奈良県版に連載された「うつろいの大和」がきっかけであったように思う。入江が主に50年代に撮影した大和の各地の風景を同じ地点から撮った今の風景と比較するという企画だった。実は私もこの連載を毎回、興味を持って読み、カラー写真しか知らなかった入江の過去の仕事に関心を抱くようになった。入江は92年1月に亡くなっているが、この企画には非常に乗り気になってネガフィルムを提供したという。

 1994年に集英社から『回想の大和路 入江泰吉写真集』が出た。A4判、182枚のモノクロ写真は主に大和の風景写真である。これには衝撃といっていい感動を覚えた。入江のモノクロ写真を鑑賞するに今のところ最良の写真集である。

 奈良市写真美術館は入江の全作品が著作権ごと寄贈されて92年4月に開館した。常時、入江の作品展が開かれているが、モノクロ写真のテーマ展示もときおりある。2005年(平成17年)の「古都の暮らし・人 昭和20年から昭和30年代」は、奈良市内の風俗写真とでもいうべき人物が多数写った作品が集まり、入江の意外な一面が知られる。そのカタログが発行されている。

 写真美術館が編集した『入江泰吉の原風景 昭和の大和路 昭和20~30年代』(光村推古書院 2011年)は小型版であるが、220枚ほどの多彩なモノクロ写真が収められ見飽きない。現在、入手できる写真集としては、写真美術館編集の『回顧 入江泰吉の仕事』(光村推古書院 2015年)があり、時系列で紹介される作品の中にモノクロも含まれる。

 カラーとモノクロ写真、どちらも一貫した入江の「眼」を感じるが、同時に色の有無を超えた相違とカラーにはない魅力がモノクロの写真にはある。モノクロの風景や風俗の写真を見て感じるのは。まず懐かしさである。そして美しいことである。農村や町の広角の風景がそのままに捉えられ、そこには余計な物が一切なく、白と黒の階調が完璧な調和を果たしているように見える。入江はモノクロ写真を撮るときは「色のある現実世界を一旦自分の目の中でモノクロに置き換えたうえで、いわば心的作用に基づいてトーンを整え、画面構成を図る」と語っている。シャッターを押す前に、写真家の頭の中にはプリントされて出来上がったイメージが見えている。田んぼ、道、川、池、民家、人物、樹木、草花、寺社、山、空、雲、……。それぞれが黒と白のグラデーションの中で強調されるばかりでなく、これらの存在そのものがコスモス(秩序)をなして、見る者に安らぎを与える。入江は「飛鳥路早春」(「毎日新聞」1954年3月15日 『回顧 大和路』に採録)の中で次のように書き記す。

 「…(雷丘へ)登っていくと、西側の岡の真下の民家の庭いっぱいに梅の花が咲いていて、その花ごしに豊浦の里がつづき、はるか西には、すんなりとした稜線の畝傍山が見られた。…のどかというよりすべてのものが眠っているような静けさであった。人の気配すら感じられなかった。しばらく見入っていたが、ふと旅愁のような不思議な気持ちに襲われて、じっと落ち着いていられなくなり、もとの豊浦に出て、そこからすぐの神南備山(甘樫丘)へ登った。ここから西北に見下ろせる大和国原のながめは、おそらく一番よく飛鳥路にふさわしい面影を残しているのではないだろうか。画面の中央に飛鳥川が深く弧を描いて、その左に畝傍、右に耳成、香具の三山が配置よく浮かんでいるし目のとどくかぎり開けたたんぼの黄土と麦の緑との美しいしま模様やそのところどころに白壁の村落や森が点在しているのも美しかった。なに一つとして不調和なものも色もなく実に美しく自然と生活がとけあっていた。

 甘樫丘から展望する大和三山を入れた「なに一つとして不調和なものも色もなく実に美しく自然と生活がとけあっていた」パノラマは、先に挙げた写真集で見ることができる。このような大和の風景が、戦争ですべてを失い明日の行方分からぬ戦後の混迷のただ中にあった入江の心を救ったのであった。国破れて大和の山河があったのだ。

 大正から昭和にかけて知識人の間で一種の大和ブームとでも称すべき現象があった。和辻哲郎『古寺巡礼』、亀井勝一郎『大和古寺風物詩』、堀辰雄『大和路・信濃路』、会津八一『南京新唱』などが発行され、志賀直哉が高畑に移り住み、彼を慕う作家や美術家が集まった。彼らの関心は主に仏像、古美術にあったが、奈良の風物、風景も賛美する。志賀は奈良の印象を「名画の残欠」と表現した。入江のモノクロの風景写真を見ると、作家たちが大和に惹きつけられたことが納得できる。

 写真を見ていると、いろいろなことに気づく。画面の中でもっとも白く輝いているのは、漆喰の白壁である。民家や寺院の白壁は目をひき、アクセントになる。人物のシャツや割烹着、手ぬぐいの白も引き立つ。雲や石は白ぽい灰色、道は地道でこれも白ぽい。道は画面構成の上で大きな意味を持つ。画面の手前から入り奥へと伸びて、奥行きをもたらす。時に道はカーブして快いリズムを生む。道を行くのは人、荷車、リヤカー、牛、自転車であり、車はわずかにボンネットバスを見かけるぐらいだ。人工物といえども素材は自然のもので、プラスチックなどまだ出回る前の時代である。

 横軸、縦軸、斜めの軸が巧みに組み合わされハーモニーを生む。田んぼや畑の畦や畝、屋根の棟や瓦の葺き筋、橋の欄干や川の井堰、樹木の幹や電柱、盆地を囲む青垣山の稜線などあらゆる被写体がラインと黒白濃度の面を意識して構成される。ここにはモノクロ写真の特性が極限まで発揮されている。おそらく実際の風景よりも美しいイメージが表現されているのだろう。大和の風景はモノクロ写真で捉えるのに適していたが、もちろん入江の才能があってそれが実現したのである。

 入江はスナップ写真も撮っていて躍動感ある人物が写る。子供が写った写真は秀逸である。仏像写真は文楽写真や肖像写真と共通したものがあって、これにも入江は才能を発揮したが、これは他の機会で述べたい。

 風景写真の中の人物は風景に溶け込んでいて、風景にライブ感が生じるようだ。後のカラーの風景写真とは対照的にモノクロの風景には時間が流れている。それはまさしく撮影された時点の風景なのだ。郷愁を覚えるのもそのリアリティから来ている。それゆえこれらの風景も失われていく宿命にあった。『大和路 第二集』の序文で入江はこのように書き記した。

 「近ごろ、大和路を歩きながら淋しく感じることがある。それは、いわゆる大和路の名の、なつかしいひびきを伝える古寺や、遺跡の周辺の、ひなびた情緒が、徐々に失われつつあることである。……社寺建築や佛象彫刻、あるいは史跡、天然記念物などは、一応、国で護られているから、心配しなくてもいいだろうが、それらを中心に、大和路を形づくっている自然の美しさの壊れてゆくのは、いかにもさびしい。すこし飛躍しすぎる考え方かもしれないが、何十年かさきには、大和路のよさは亡びて、古社寺はさながら街の美術館的存在とならないともかぎらない。

 1960年に洩らした懸念は、まさにその通りになってしまった。「大和路のよさは亡びて、古社寺はさながら街の美術館的存在」となってしまったのである。大和の景観は、千年、二千年にわたる人の営みの上に成り立っていた。自然に依存し働きかけ折り合いながら暮らしてきた証の一つ一つが、その景観に刻まれていたのである。大和の自然と調和した風景の美しさの拠ってきたる所以であり、昭和の初期までこの伝統は存続し、作家たちはここに「大和路の美」を発見した。だが高度経済成長は自然との調和を終焉させ、奈良のみならず全国の景観は一変することになった。

 「大和路の美」を追究してきた入江は、日々破壊されていく風景を前にして難しい立場に立たされた。そしてもう一つ、時代がカラー写真を要請する中で入江もそれに応じざるをえず、カラーでもって大和路をどう表現するかという課題に直面したのである。

 参考
『大和路』(東京創元社1958年)
『大和路 第二集』(東京創元社1960年)
『うつろいの大和』(かもがわ出版1994年)
『回想の大和路 入江泰吉写真集』(集英社1994年)
『古都の暮らし・人 昭和20年から昭和30年代』(奈良市写真美術館2005年)
入江泰吉の原風景 昭和の大和路 昭和20~30年代』(光村推古書院2011年)
『回顧 入江泰吉の仕事』(光村推古書院2015年)
『大和路遍歴』(法蔵館1981年)
入江泰吉自伝 「大和路」に魅せられて』(佼成出版社1992年)