116 「たまきはる命は知らず」――安積親王の死
遷都さなかに急死した親王
天平16年(744)閏正月1日、恭仁宮の朝堂に百官を集め異例の諮問があった。「恭仁京と難波京のどちらを都にすべきか」と意見を募ったのである。恭仁京と答えたのは、五位以上の者24人、六位以下の者157人。難波京を選んだのは、五位以上23人、六位以下130人であった。さらに市場に公卿を派遣して庶民の意見も聴取した。難波と平城と答えた各1人以外はすべて恭仁京を望んだ。専制政府の前代未聞の「アンケート」がどのような意図で行われたのかよくわからないが、為政者のこの時期の動きから見て彼ら自身非常に混乱していたことがわかる。
閏正月11日、聖武天皇の鹵簿(ろぼ)は恭仁京から難波へ向かった。天皇の皇子、県犬養広刀自(あがたいぬかいひろとじ)夫人を母とする安積(あさか)親王も扈従(こじゅう)したが、河内の桜井頓宮(現、東大阪市六万字)で脚の病のため恭仁京へ引き返した。翌々日、薨去する。17歳であった。恭仁京の留守官は、知太政官事従二位鈴鹿王と参議民部卿従四位上藤原仲麻呂であった。
安積親王は神亀9年(728)の生まれ。この年、光明皇后所生の皇太子、基(もとい)王は満1歳に足りず病没している。病気平癒のため寺社に祈願させ殺生を禁じ、亡くなると全国が喪に服し慰霊のため山房を創建した。『続日本紀』には「天皇、はなはだ悲しむ」と記録する。しかし、安積親王の死に際しては、大市王、紀飯麻呂を葬儀采配のため派遣したことが書かれるだけである。
聖武には光明皇后との間に阿倍内親王、県犬養広刀自夫人の間に井上内親王と不破内親王がいた。唯一の男子皇子の安積親王が亡くなり、皇女のみになった。阿倍内親王はすでに天平10年(738)に立太子されていて、次期天皇の座は約束されていた。しかし、その次の皇嗣が誰になるかはまったく不明であった。その中で安積親王は聖武の唯一の皇子として台風の目になる可能性が高かっただろう。母の県犬養広刀自夫人は県犬養(橘)三千代の縁で輿入れしたのだろうか。光明皇后が出た藤原氏ほどの名門ではないが、天皇となる資格に根本的な問題があったとは思えない。朝廷を揺るがす出来事であったはずだが、親王の死を伝える『続日本紀』の記述は素っ気ない。
この後に起きたことをたどる。2月に入り、恭仁宮にあった駅鈴と内外の印を難波宮に運ばせた。内外の印とは天皇と太政官の印であり、駅鈴は朝廷の命令を各地に伝達する使者の身分証明にあたる。恭仁京の留守官を新たに5人命令しているが、藤原仲麻呂の名前はこの中になかった。高御座と大盾、武器類も運んだ。2月26日、勅があって、難波宮を皇都にすることが発表された。だが、この時、天皇の姿は難波にはなく紫香楽宮にあって、前年から始まった大仏造立工事に立ち会っていた。翌年(745)の正月には紫香楽宮が都となるが、5月には平城還都となり、「5年間の彷徨」は終わりを告げた。
藤原仲麻呂の暗殺説
親王の死は急死であった。彼は17歳と若く、特段病弱であったと書かれていない。それどころか、後で述べるように前月には野外で宴会していたと推測できる節もある。「また、桜井頓宮から難波宮までは10キロメートル少しである。なぜ、わざわざ遠い恭仁京まで引き返したのだろう。
このような疑いから、光明皇后と阿倍内親王を擁する藤原氏が安積親王を遷都騒動で混乱する時期を狙って暗殺したのではないかという説がある。この時、恭仁京の留守を預かっていた悪名高い藤原仲麻呂がその当事者として注目されることになる。横田健一氏(関西大学名誉教授=故人)は、仲麻呂が恭仁京の留守官をこのあと外されたこと、内外の印や駅鈴が難波へ運ばれたことなども挙げて、暗殺説を詳述した。内外の印や駅鈴の件は、前年末で恭仁京の造営が中止され都を難波にする既定のプランの実行であっただろうから暗殺説の傍証にはならないが、仲麻呂の離任は怪しい。
ところで『万葉集』には、急死の少し前に大伴家持らが安積親王と遊興した歌が残る。
安積親王、左少弁藤原八束朝臣の家にして宴する日に、内舎人大伴宿禰家持が作る歌一首
ひさかたの 雨は降りしけ 思ふ子が やどに今夜は 明かして行かむ(1040
(訳)雨はどんどん降り続けるがよい。いとしく思う子の家で今夜は存分夜明かしをしていこう
詠まれたのは、天平15年(743)の秋から冬にかけて。藤原八束の邸宅で一行が宴会したとき大雨となり長居することになった。それを恋人の宿で一夜を明かすことになぞらえた歌だ。家持が親王の立場になりかわって詠んだ。
翌年の正月に次のような歌が詠まれた。
同じき月(正月)の十一日に活道(いくじ)の岡に登り、一株の松の下に集ひて飲む歌二首
一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声(おと)の清きは 年深みかも(1042)
右の一首は市原王が作
(訳)この一本の松は幾代を経ているのだろうか。吹き抜ける風の音がいかにも清らかなのは、幾多の年輪を経ているからなのか。
たまきはる 命は知らず 松が枝を 結ぶ心は 長くとぞ思ふ(1043)
右の一首は大伴宿禰家持が作
(訳)人間の寿命というものは短いものだ。われらが、こうして松の枝を結ぶ心のうちは、ただただ互いに命長かれと願ってのことだ。
活道の岡は親王の宮あるいは別荘があったと見られ、正月に彼を囲む皇族、貴族たちが松の本に集って宴会したようだ。そこに家持もいた。市原王の歌は、松風のさやけさに松の年輪を思いその長寿を讃えるという趣だ。家持の歌は前歌を受けて、その場にいた者たちの息災長命を願ったものだが、一か月後の凶事を思うと意味深長である。「松が枝を結ぶ」という言葉から、有馬皇子の歌「岩代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む」(141)を思い起こす。どちらもその願いは叶えられなかった。正月の宴会であるから、平安無事・息災長寿を願った歌になるのは当然なのだろうが、そこに親王に迫る凶事の予感を嗅ぐのは偏見に過ぎるだろうか。
家持は、親王の挽歌を二群作った。それぞれ長歌と反歌二首からなる。二群目の挽歌を見る。
かけまくも あやに畏(かしこ)し わが大君 皇子の命(みこと) もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)を 召し集へ 率(あとも)ひたまひ 朝猟(あさかり)に 鹿猪(しし)ふみ起し 夕猟(ゆふかり)に 鶉雉(とり)ふみ立て 大御馬(おほみま)の 口抑(おさ)へとめ 御心(みこころ)を 見(め)し明(あき)らめし 活道(いくぢ)山 木立の繁に 咲く花も うつろひにけり 世間(よのなか)は かくのみならし ますらをの 心振(こころふ)り起こし 剣刀(つるきたち) 腰に取り佩(は)き 梓(あづさ)弓 靱(ゆぎ)取り負ひて天地(あめつち)と いや遠長(とほなが)に万代(よろづよ)に かくしもがもと 頼(たの)めりし 皇子(みこ)の御門(みかど)の 五月蠅(さばへ)なす 騒く舎人(とねり)は 白栲(しろたへ)に 衣取り着て 常なりし 笑(ゑま)ひ振舞ひ いや日異(ひけ)に 変らふ見れば 悲しきろかも(478)
(訳)心にかけて思うのもまことに恐れ多いことだ。わが大君、皇子の命が、たくさんの臣下たちを呼び集め、引き連れられて、朝の狩りには鹿や猪を追い立て、夕の狩りには鶉や雉を飛び立たせ、そしてまた御馬の手綱をひかえ、あたりを眺めて御心を晴らされた活道の山よ、ああ、皇子亡きままに、その山の木々も伸び放題に伸び、咲き匂うていた花もすっかり散り失せてしまった。世の中というものはこんなにもはかないものでしかないらしい。ますらおの雄々しい心を振り起こし、剣太刀を腰に帯び、梓弓を手に靱を背に負って、天地とともにいよいよ遠く久しく、万代までもこうしてお仕えしたいものだと、頼みにしてきたその皇子の御殿の、まるで五月蠅のように賑わしくお仕えしていた舎人たちは、今や白い喪服を身にまとうて、いつもの笑顔や振る舞いが日一日と変わり果てていくのを見ると、悲しくて悲しくてしかたがない。
はしきかも 皇子の命の あり通ひ 見しし活道の 道は荒れにけり(479)
(訳)ああ、わが皇子の命がいつも通われてはご覧になった活道の、その山の道は、今はもうすっかり荒れ果ててしまった。
大伴の 名負ふ靱帯びて 万代に 頼みし心 いづくか寄せむ(480)
(訳)靱負(ゆげい)の大伴と名の知られるその靱を身につけて、万代までもお仕えしようと頼みにしてきた心、この心を今はいったいどこに寄せたらいいのか
家持はこの時期、天皇のそばに仕える内舎人として親王付きであったかもしれない。柿本人麻呂が確立した宮廷挽歌の伝統を踏まえながら、家持個人の真情がより強く出て切実な感がある。反歌の二首目は、家持の正直な気持ちが表現されている。大伴氏として藤原氏の影響力が少ない安積親王に頼む心は非常に強かったのだ。
暗殺説は、最近の歴史書では旗色が悪いようだ。証拠がないのに推測で説を立てる陰謀論の類いとして敬遠されるのだろう。確かに真相は永遠にわからないだろう。しかし、暗殺説を積極的に否定する論者のその論証には疑問を持つことが多い。
渡辺晃宏氏(奈良大学教授)は、親王を暗殺する動機が薄弱だとする。「安積親王の母は県犬養広刀自夫人である。藤原宮子を母とする聖武が即位するのに、どれだけの手続きを踏まなければならなかったか。それを考えると、広刀自所生の安積親王の即位が容易に実現するとは思われない。阿倍内親王に万一のことがある時は、むしろ光明皇后の即位の方がより現実性があるかもしれない。逆に、仲麻呂が独断で暗殺に走れば、光明子にその反動が及ぶ可能性が充分あり、安積親王暗殺にはあまり実利が認められない。」(『平城京と木簡の世紀』233頁)
家持の反歌が語るように、安積親王は反藤原、非藤原の氏族が希望を寄せる存在になりつつあった。聖武は天武系の多数の皇子を押しのけて皇位に就いたが、安積親王は聖武の唯一人の直系皇子である。藤原氏にとっては大きな脅威であっただろう。渡辺氏の意見には同意しがたい。
瀧浪貞子氏(京都女子大学名誉教授)は、仲麻呂のその後の進退に着目する。「安積親王暗殺説の難点は、その後仲麻呂の身柄が拘束された気配が全くないことである。それどころか仲麻呂は、翌天平十七年正月、紫香楽宮で行われた叙位で従四位上より一挙に二階級特進して正四位上となり、さらに同年九月には近江守に任じられている。これは他の例からしても、仲麻呂が下手人であれば有り得ないことで、親王の死は予期せざる事態であったかもしれないが、決して不自然なものではなかったと考える。」(『日本古代宮廷社会の研究』54頁)
仲麻呂がその後処罰されず昇進しているから下手人の疑いはかからず、したがって暗殺はしていないということだ。しかし、この論理で仲麻呂=シロ説が導き出されるとは思えない。暗殺が誰にも気づかれずに成功すれば、処罰されないのは当然である。暗殺ではなかったとしても、親王を救えなかったことの不手際を責められるのが、この場面では普通ではないだろうか。むしろ二階級特進したということが疑いを深める。
すなわち直後の異例の昇進は暗殺の報酬であったという見方も可能だ。これが可能となるのは、光明皇后の意向が働いていなければならない。暗殺は仲麻呂の独断ではなく、光明皇后の意向を汲んで仲麻呂が実行したという仮説を示したい。
皇后がなぜ親王の抹殺を図ったのか。まず考えられるのは、阿倍内親王の皇位を安定させ強固なものにするためである。しかし、いずれにしろその後の皇嗣が問題となり、安積親王が最有力者であることは間違いない。皇后はそれを望まなかった。皇后は聖武との絆を特別なものと見なしていたが、それ故に他の夫人の皇子が皇嗣となることを許せなかった。仏教に深く帰依した光明子であったが、基王が亡くなった年に生まれた安積をわが子の生まれ変わりと思うことはなかった。だからこそ、阿倍内親王を立太子し聖武の後を襲うという無理筋を押し通したのである。
仲麻呂はその後目覚ましい出世を重ね、橘諸兄の地位を脅かす。その背後にはつねに光明皇后の後ろ盾があった。仲麻呂が朝廷の実権を握るのは、孝謙天皇即位、紫微中台の創設とその長官である紫微令に就任した頃だろう。仲麻呂と光明皇后は二人三脚のような形で国家を動かしていく。その端緒となったのが、安積親王の事件ではなかっただろうか。
参考
横田健一「安積親王の死とその前後」『白鳳天平の世界』創元社
渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』講談社
瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版
青木和夫他校注『新日本古典文学大系 続日本紀二』岩波書店
伊藤博『万葉集釋注二、三』集英社
*文中の万葉集の歌の引用と訳は、伊藤博氏の上記の著書による。