111 ②入江泰吉の郷愁の「大和路」モノクロ鑑賞篇

 司馬遼太郎は、『街道をゆく』の中の「竹内街道」で次のように書き記している。「言霊ということばはわれわれにとってなるほどいまも妖しく、『大和は国のまほろば』などと仮にでもつぶやけば、私の脳裏にこの盆地の霞がかった色調景色が三景ばかり浮かびあがり、それらのネガはいずれも少年のころに焼きあがったらしく、いまの現実の奈良県の景色とはずいぶんちがっている。いまの現実の、この日本でももっとも汚らしい県の一つになってしまった風景は、ここ十年来大阪あたりから出てきたおでこのピカピカ光った連中がつくりあげたものである。……」。「おでこのピカピカ光った連中」とは、宅地開発のデベロッパーを指す。書かれたのは、『街道を行く』の連載が始まったばかりの70年代の初めであった。あれから半世紀。司馬が脳裏に浮かべた盆地の「まほろば」の景色は、入江のモノクロの写真に偲ぶことができる。現在、その景色はどのように激変しただろうか。googleストリートビューで尋ねてみることにした。二つの景色の間に横たわるのは、60~70年の歳月。この間の盆地が体験した有史以来の変貌が見て取れるだろう。

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 喜光寺奈良市菅原町)の前から東方向を望む。左奥の大きな屋根は西蓮寺、現在も同位置にある。彼方に若草山が見える。昭和20年代後半の撮影。画面の中心を占めるのは、地道である。左手前から右斜め方向に伸びて左に曲がる。地道の白さと緩やかなカーブが強い印象を与える。道に沿って咲く花のかたまりは菜の花だろうか。早春の田園風景、二人が遠去かっていく。見るだけで、こんな道を歩く心地良さが伝わってくる。

 (下)Googleストリートビューでほぼ同じ視点から画面を切り取った。ただし比較のためにグレースケールに置き換えた。喜光寺の南門が復元され、西蓮寺は隠れてしまった。画面の右は国道385号線が通り、その高架バイパスが視界を遮る。中央の道がかつての地道であったと思える。喜光寺はかつて荒れ寺で、会津八一は「ひとりきてかなしむてらのしらかべにきしやのひびきはゆきかえりつつ」と詠んだ。現在立派に復興したが、歌の情緒はもはやない。まことに味気ない現代的な光景である。

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 秋篠川極楽橋から薬師寺東塔を望む。季節は夏のようで、両岸は深い草で覆われている。人や荷車がやっと通れるほどの木橋が懐かしい。空が画面の三分の二を占めて、地上の緑の濃さと雲の白さが対照をなす。その中で東塔の直立した相輪が力強く、塔の存在を印象づける。入江は東塔を遠くに配した風景をいろいろな地点から撮影している。西ノ京は斑鳩と並ぶもっとも大和らしい景観の宝庫であった。しかし70年代に入ると、両地域ともにほとんど撮影されなくなる。

 (下)秋篠川は護岸工事が行われ、コンクリートの堤防と舗装した遊歩道で固められてしまった。その人工的で直線のラインが寒々しい。2019年の撮影で、東塔はまだ覆いの中に隠れる。

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 法隆寺東大門を出てすぐのところに北へ向かう細い道がある。高い土塀が続いて法輪寺法起寺への斑鳩散策ルートにあたる。突き当たりに天満池があり、堤防に沿う道を東へ進む。その堤防から南東方向を見た昭和20年代の風景。見渡す限り田んぼが広がる。その中を白い地道が半円の弧を描き、田の間を縫って伸びていく。農夫が二人向きあっているのも想像を誘う。一人ではなく二人、しかもこの位置であることは画面構成上動かない。演出でなければ、人がここに来ることを待ち続けたのだろうか。入江はこの半円状にカーブする道を気に入ったらしく、ここを歩く人をいろいろな角度から撮影している。

 昭和初期までの法隆寺参拝を綴った文章によく出てくるのは、最寄りの駅から寺へ向かう道のりの素晴らしさである。砂利道の日光の反射に眼を細めながら松並木の間を歩いて行く、あるいは黄金の稲穂が垂れて四方を埋め尽くす中に塔が見えてだんだん近づいてくる。そのときの胸の高鳴りは、その経験がない私にもよくわかる。今の斑鳩にそんな風情はない。寺だけが街の美術館となった。

 (下)堤防に沿った道と半円状の道の分岐点から撮った景色である。堤防の上から見下ろしていないので、わかりにくいが、かつての地道は車がすれ違えるぐらいに拡幅され、倉庫や民家、事務所が建つ。田んぼも残るが、建物が非常に増えた。

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 大和棟の屋根や漆喰の白壁が美しい集落に鯉のぼりが泳ぐ。背後の森は耳成山の裾であり、遠景に二上山がかすんでいる。手前の田の作物は麦である。昭和34年の撮影。奈良盆地は隅々まで耕作され、海の中に小島が散らばるように小さな集落が点在していた。そして大和棟と白壁の家が独特の集落景観を作った。小津安二郎監督の映画『麦秋』(1951年)のラストシーンにこの風景が登場する。小津映画には珍しい移動撮影が用いられて、スクリーンいっぱいに波打つ麦の穂越しに耳成山が映し出される。

 (下)デベロッパーによる新興住宅が耳成山を包囲して裾野まで押し寄せる。住宅街の中に取り残されたように山が見える。

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 明日香村川原寺付近の風景。昭和30年代前半。左後方に見えるのが川原寺、収穫した田にはワラススキと呼ばれる藁塚が立ち、道も地道。背丈が似た庚申塚と女子生徒が並んで立つのも微笑ましい。明日香に観光ブームが押し寄せる前の鄙びた感じがいい。

 (下)寺の南側の田に発掘調査が入り、一塔二金堂の伽藍様式であることがわかった。その基壇跡や柱跡が復元されている。庚申塚は残されて、その前は広い道幅の県道となった。道の角には自販機が並ぶ。入江は、明日香で進む「保存」という名の自然破壊に異を唱えた。「飛鳥古京の現状は、千三百余年の時の流れのままに、遺るものは遺り、滅びるものは滅びて今日に至ったものであり、いわば成り行きにまかせられてきたのだが、五年前ごろからは、そうではなくなってしまった。(この文章の執筆は昭和50年=筆者注)……何気ないひなびた農山村の辺りに立って、その今日的な風物のうちに宿るかつての飛鳥の歴史、あるいは万葉人の歌心などを、フィルターを通して眺めるとき、さまざまなイメージが際限なくひろまってゆく。私は飛鳥の、そういう心象的な滅びの美を捉えたい。コンクリートや人造石などでは、どうにもイメージは湧いてこないのである。」(『大和路遍歴』より)

 川原寺の伽藍跡をコンクリートや人造石を使用して復元されたことに強い失望感を表明する。入江の作品にはいわゆる考古学的復元物が入ることはなかった。

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 *入江のモノクロ写真は『昭和の奈良大和路』(光村推古書院)から

参考
司馬遼太郎街道をゆく1』(朝日文庫
会津八一『自注鹿鳴集』(新潮文庫
入江泰吉『大和路遍歴』(法蔵館