砂茶屋から富雄川上流を見る、橋は暗越大坂街道の下鳥見橋、田圃に分水するために堰き止めている、2009年撮影
志賀直哉が奈良の上高畑に住居を新築し移り住んだのが昭和4年(1929)4月、東京へ転居したのが昭和13年4月であった。昭和12年3月に長編「暗夜行路」を完成さしているが、高畑在住の9年間、創作活動は活発だったとは言いがたい。数少ない創作のなかに昭和8年12月に書かれた「日曜日」がある。小説とも随筆ともつかぬ小品にして、奈良住まいの或る日の家族そろって外出し遊んだ体験が描かれる。直哉に師事した阿川弘之の評伝『志賀直哉』に、「品のいいユーモアがあり一種典雅な趣があり、好き嫌ひは別だが、満50歳に達した作者の初老期らしい穏やかな心境と家庭環境の和やかさとを反映した私小説」(『志賀直哉上』439頁)という評がある。この評に加えるべき言葉は浮かばないが、作品の舞台となった場所には筆者の個人的な思い入れがある。その場所とは奈良市西郊を南北に流れる富雄川であり、直哉一家が約90年前に遊んだ川沿いに私の在所がある。
直哉の昭和8年の日記に次のような記述がある。「五月十四日(日)午後から家内一同自動車にて法蓮の方へ行き魚とり、目高三,四疋に小海老、夕方かへる……」(『志賀直哉全集第14巻』29頁)「五月二十八日(日)……三時頃から散歩、白毫寺から鹿野苑の方へ行く、直吉泥鰌、田鶴子蛙、大人は竜胆、吾亦紅その他の植物をとってかへる、面白し……」(同31頁)「六月四日(日)うち中にて富雄川に魚とりに行く、魚とれずスッポンをとる 大満足……」(同32頁)
直哉は康子夫人との間に8人の子どもをもうけた。2人は早逝して、奈良住まいでは6人のまだ幼い子どもたちの育児・教育に心を砕いている。高畑に初めて自分の広い家を建てたのは、子育てに落ち着いた環境を欲したということもあっただろう。昭和8年の子どもたちの年齢は、留女子(るめこ)16歳、寿々子13歳、万亀子11歳、直吉8歳、田鶴子4歳、貴美子1歳であった。
「日曜日」は、日記にあった三日間の体験をほぼ事実に沿い書いている。たった一人の男の子の直吉が魚取りをしたいと言い張ったため、法蓮町にある池へ行く。そこは釣りをする人たちで占められていて、池から流れ出る溝をさらったが、はかばかしいものは獲れなかった。日を置いて、家の近くの白毫寺から鹿野苑を散歩する。いろいろな植物の苗は採集できたが、魚は獲れず泥鰌と蛙をつかまえた。一週間後、弁当を持ち富雄川へ出かける。その日は晴れて、前かきという網を持参した。直哉夫婦と子供たち6人、まだ赤ちゃんの一番下の子を負ぶった女中も伴い総勢9人。当時は近鉄ではなく大軌(大阪電気軌道)といった私鉄の富雄駅に降りる。
「電車を降り、線路について片側人家のだらだら坂を下りきると、直角に、それが富雄川だ。幅、四五間の川床で、水は砂地を残し、もっと狭い幅で流れてゐる。岸から、一寸した草原があり、其所に枝のよく広がった桜が一列に並んでゐる。赤いのや、もう黒く熟した桜ン坊が沢山ついてゐた。桜並木と往来との間に上流で分水した小さな流れが下の川よりもなみなみと勢いよく流れてゐる。」(『志賀直哉全集第6巻』139頁)
直哉の文章の特徴と言われる観察眼の正確さ、それを無駄のない簡潔な文で表現することがここでも発揮されている。現在の富雄駅も富雄川も直哉の時代のその景観とは大きく異なっているが、私の60年前の記憶は直哉の見聞とそう変わらないはずで、小説の描写からありありと昔の光景が浮かんでくる。
富雄駅は1970年頃に高架駅となり、駅南側は区画整備されロータリ-ができビルも建つ。だが北側は開発されず、線路に沿って「片側人家のだらだら坂」が続いている。今の富雄川は両岸がコンクリートブロックで固められ、川底も深く浚渫されて容易に近づけなくなっている。それまでは川岸は草で覆われ、水田に水を引くための堰が数多くあり、そこから分水した細い流れが本流にそっていた。直哉が富雄に来たのは6月4日、田植えの時期であり、「下の川よりもなみなみと勢いよく流れて」いただろう。岸の桜並木は戦中に皆伐されたらしく私の記憶にはないが、比較的最近になって植樹された桜が川沿いのいたるところで育っている。
一家は下流に向かって歩いていく。堰のあるところに来て、堰の下が砂地に囲まれた池のようになり鮠の姿がいくつか見えた。前かきの網で獲ろうとするが逃げられる。堰から分水した流れの幅いっぱいに前かきを張って魚を追い込もうとするが一匹もかからない。「間口の広い造り酒屋」があり、そこの婆さんと会う。
「『何も居りまへんぜ』その流れに洗いものに来た酒屋の婆さんが笑ってゐた。そして、家内から赤児、女中まで一緒の悠長な川狩りを可笑しく思うらしく、皆の顔やなりを見廻しながら、何所から来たかとか、その網ならば屹度捕れるが褌一つになってやらなければなどと云った。少時、立話をして別れた。」(同141頁)
造り酒屋は駅から南へ700mほど行ったところ、川に沿う往来(現在の県道7号枚方大和郡山線)に面してあった。『富雄町史』から、大正9年に創業された生駒酒造株式会社とわかる。木造の黒ぽい工場のあったことが子供のころの記憶として残っている。30年ほど前に跡地に「業務スーパー」と酒類小売店「OK」ができて繁盛していたが、半年ほど前に閉店した。
好奇心旺盛で気さくな「お婆さん」の姿が目に浮かぶ。赤の他人同士であってもこのような打ち解けたやりとりはこの時代はもちろん、昭和30年から40年ぐらいまでは珍しくなかったように思う。堰から分水した流れは、日常の洗い場としても重宝されていたようだ。まだ上水道は一般的ではなく、井戸が使用されていたころである。
岸の土止めの竹柵に「鼠のようなもの」がいると、11歳の万亀子が告げに来る。直哉は仔細に観察して「すっぽんじゃないか」と思う。叉手(さで)2本を使って捕まえるとやはりすっぽんだった。野生のすっぽんは珍しく、直哉は満足し皆も上機嫌になる。さらに下流へ歩いて開けたところで弁当にする。
「十二三軒人家のかたまった所を通りぬけると、真直ぐな一本道に出た。左は田圃、右は川で、遠く、大きな榎が四辻におひかぶさってゐる砂茶屋といふ所まで、それが続いてゐる。此辺の川には綺麗な洲があり、葭が生え、何となく親み易い景色だった。路から一間ほど下り、草原の木陰で持って来た物をひらいた。すっぽんを入れた魚籠は桜の枝に吊るした。桜の幹にも楊の枝にも同じ高さで、藁くずやごみがひつ懸つてゐた。これは水が出た時、水がここまで来た跡だ。」
砂茶屋は暗峠越大坂街道の宿場町であり、大軌の奈良線が大正3年(1914)に開通するまでは行き交う人で賑わっただろう。富雄川に沿う往来と大阪街道が交差する四辻、交通の要所であり、私の子供のころは駐在所、郵便局や酒屋、魚屋、米穀店、鍛冶屋、建具屋、自転車屋などが集中して農村地帯のなかのちょっとした商店街を形成した。今もその片鱗はあるが、御多分にもれずずいぶん寂れてしまった。近くにイオンタウンができて量販店が進出し、道の駅「中町クロスウェイ」まで出現した。富雄丸山古墳はここから直線にして500mと離れていない。
富雄川は北から南へ流れているが、真言宗の古刹、鼻高山霊山寺のあるあたりで大きく蛇行して東へと向きを変え、ふたたび砂茶屋のあたりで90度蛇行して南流する。そのため水流の勢いが削がれて上流から運ばれた土砂が川底に堆積する。粒子の細かい土は流れていくが、大きな砂はたまる。「綺麗な洲」とはこのことであり、「砂茶屋」の「砂」もこれに由来しているようだ。砂はかつて「磨き砂」として刃物を研ぐために使われ、地元の人たちもここの砂を利用していた。ユンボとトラックが来て大量に採取することもある。
富雄駅から砂茶屋まではおよそ3キロメートルの距離である。矢田丘陵と西ノ京丘陵が川の左右から迫った地形は、砂茶屋あたりで開けて田圃が広がる。「桜の幹にも楊の枝にも同じ高さで、藁くずやごみがひつ懸つてゐた。これは水が出た時、水がここまで来た跡だ。」
直哉は目敏く観察する。川は多くの堰のため底が浅くなり、天井川に近くなっていた。大雨が来ると堤防でもある道の路面近くまで水かさが増すのを何度も見たことがある。私は目撃していないが、昔は砂茶屋あたりで決壊することもあっただろう。現在は川底は深く、堰はゴム風船のようなものが普段は収縮しているため土砂が溜まることもなくなった。
私の住まいは砂茶屋の近くであり、ここは散歩のコースであり、もっともお気に入りの場所である。だから「此辺の川には綺麗な洲があり、葭が生え、何となく親み易い景色だった。」との言及は、直哉も同じように感じていたのだなと思えてとても嬉しい。しかし非常に残念なことに、今は川岸にガードレールができて、近くを横切る高架の第二阪奈道路が眺望を遮ってしまった。
帰り道で直哉は酒屋によって婆さんにすっぽんを見せている。亀はいるがすっぽんは珍しいと婆さんは喜ぶ。だが、見に来た男から「かみに養殖をしてゐる人がありま。其処から逃げた奴だっしゃろ」と言われて少し興ざめする。
「すっぽんは逃げなければ今も自家の池にゐる筈だ。殖えたもろこやたなごが段々減るところをみると、すっぽんは居るらしい。」と小説は締めくくられる。
後日の「続創作余談」のなかで直哉は「奈良生活の憶ひ出として愛着を持ってゐる」と「日曜日」のことを評し、そしてすっぽんのその後の様子を記しているから、よほどすっぽんが気に入ったのだろう。もっとも直哉は動物や昆虫好きでよく小説の題材になっているから、すっぽんにも独自の関心が向かっているのかもしれない。
「日曜日」は筆者の在所が舞台になり、しかも川遊びという私の少年時の体験と重なることで特別の思いが催される作品である。今は失われたことで愛着がいや増す風景の描写が個人的なアルバムのなかの貴重な一枚のように愛おしい。文豪は多けれどまして彼らの作品は膨大なれど、このような一作が存在することは奇蹟に近い。
ところで、直哉一家はなぜ富雄川へ来たのだろう。6月4日の川遊びの1週間後の11日(日)の日記に次の記述がある。「入梅なれど快晴、留女、寿々、万キ、直吉、田鶴、大富 自分にて自動車で尼ヶ辻の先まで行き五条山赤膚カマに行く、五条山よし …砂茶屋 霊山寺で魚とり 今西の陶器展覧会に行く…」(『志賀直哉全集第14巻』33頁)日記に「富雄」という地名が出てくる箇所を他に拾うと「昭和9年4月8日(日)子供等の休み今日まで故、皆を連れて、富雄今西訪問、ツクシ取り魚とり…」(同93頁)「昭和10年1月27日(日)…午後子供等若山 不二木 小川と富尾(雄)。写真をとる、夜今西宅にてジンギスカン料理…」(同163頁)
どの日の記述にも「今西」という名前が出てくる。今西は今西洋のことで陶芸家であり、当時は五条山赤膚に窯があったようだ。赤膚焼きはこの地の土を用いた奈良の焼き物として有名であるが、今西洋は富本憲吉や柳宗悦とも親交があり、高畑サロンにも出入りしたらしい。後に秋篠に移って窯を開き、今は子息が秋篠焼を営んでおられる。
五条山赤膚は富雄川に近くて、今西の窯を尋ねたついでに富雄川に遊び、あるいはその逆があったのだろう。日記には記されていないが、高畑サロンの常連6人が富雄川の丸太橋に並んで写る写真が、尾崎一雄の『あの日この日』(『尾崎一雄全集第13巻』)に載る。キャプションには、志賀直哉撮影とある。富雄川は直哉の奈良住まいにあってお気に入りの場所のひとつであったことは確かなようだ。
富雄川 奈良県最北部に位置する生駒市高山町の高山溜池に発し、南へ向かって矢田丘陵に沿うようにして流れ、奈良市、大和郡山市を通り、生駒郡斑鳩町と安堵町の境界で大和川に合流する。全長22km、1級河川。
参考
『志賀直哉全集第6巻』『志賀直哉全集第14巻』『阿川弘之全集第14巻』『尾崎一雄全集第13巻』玄巻克二「「志賀直哉と奈良に住んだ人々」(『志賀直哉旧居の復元』)