106 有馬皇子自傷歌の作者は誰か
有馬皇子自傷歌は自作か他人の作か?
万葉集の挽歌の部立で最初に来る歌は、有馬皇子の自傷歌である。謀反を企てた罪で、紀伊の牟婁(むろ)の湯(白浜温泉)に滞在していた斉明天皇と中大兄皇子のもとに護送される。その途中の岩代で詠まれた歌だ。
有馬皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
岩代(いはしろ)の浜松が枝を引き結び真幸(まさき)くあらばまた還り見む 巻2-141
(ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく。もし万一願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。)
家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあらば椎(しい)の葉に盛る 巻2-142
(家にいるときはいつも立派な器物に盛ってお供えする飯なのに、その飯を、今旅の身である私は椎の葉に盛る。)
教科書にも載る有名な歌であるが、この事件の経緯と背景について簡単に見ていこう。
有馬皇子は、第三十六代孝徳天皇を父とし、母は左大臣安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の娘、小足姫(おたらしひめ)である。乙巳の変のあと皇位に就いた孝徳天皇は、難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)に宮を移し政治を行ったが、中大兄皇子と対立し、皇子が皇極上皇や間人皇后(はしひとのおおきさき)、公卿大夫、百官を引き連れて明日香に帰るという事態となる。一人取り残された天皇は孤独の中、憤死したという。この時、有馬皇子は十五歳、暗い影を背負うことになった。
皇極上皇が重祚して斉明天皇となり、中大兄皇子は皇太子のままであった。有馬皇子は母が皇族ではなく、天皇候補としての立場は弱かったが、父の孝徳を憤死に至らしめた中大兄皇子にとっては何時復讐されるかわからない警戒すべき存在であっただろう。有馬皇子も自らの立場をよく知っていて、狂人を装い牟婁の湯に湯治した。その効果があったことを斉明天皇に告げたところ、天皇と皇太子の牟婁の湯行幸となった。658年の冬である。
事件は天皇と皇太子が不在の明日香で起きた。留守官の蘇我赤兄(そがのあかえ)が有馬皇子に近づき天皇の失政を語った。皇子は赤兄を信頼し兵を挙げることを言った。1日おき赤兄の家で謀議している最中に皇子の脇息が折れた。不吉だとして謀議を中止し、秘密にすることを二人は誓った。その夜、赤兄が遣わした軍勢が皇子の宮を包囲し、皇子を捕らえる。そして行幸先の牟婁の湯へ護送されたのである。岩代は日高郡みなべ町、白浜に近い。街道が海辺を通り、旅人は道中の安全を祈る聖地であり、皇子の歌はここで詠まれた。
皇子は、中大兄皇子の尋問を受けたとき「天と赤兄と知る。吾れ全(もは)ら解(し)らず」とのみ答えて黙ったという。送り返される途次の藤白坂(海南市藤白)で絞殺される。享年十九歳であった。
有馬皇子が謀反心を抱いていたことは確かである。蘇我赤兄は策謀して皇子を陥れた。処刑に至る手際の良さから、赤兄と中大兄皇子とが示し合わせた陰謀と見るのが自然だろう。歌はこれだけでは羈旅の歌と読める。背景を知って、その平常心の歌いぶりにかえつて胸が衝かれる。歌は、犠牲者として悲劇の皇子への同情を引き出すだろう。
ここで一抹の疑問が生じる。はたして有馬皇子の自作なのかということだ。歌の出来映えが見事であるだけに、満十八歳の青年が死を目前にしてこれだけ平静でいられるのか、後世、皇子の立場に立って作られたのではないかという思いが消えないのだ。皇子は中大兄皇子の尋問に「天と赤兄と知る。吾れ全(もは)ら解(し)らず」とのみ答えて沈黙したというから相当な人物であったと思う。「天」とは中大兄皇子を指す。だから自作歌という説も十分成り立つが、他作歌説も保留しておきたい。
有馬皇子追悼歌に込められた政治的意図
自傷歌に続いて、有馬皇子を追悼する後世の歌が四首載る
長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおをまろ)、結び松を見て哀咽(かな)しぶ歌二首
岩代の岸の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも 巻2-143
(岩代の崖のほとり松の枝、この枝を結んだというそのお方は、立ち帰って再びこの松をご覧になったことであろうか)
岩代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ 巻2-144
(岩代の野中に立っている結び松よ、お前の結び目のように、私の心はふさぎ結ぼおれて、昔のことがしきりに思われる。)
山上臣憶良が追和の歌一首
天翔りあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ 巻2-145
(皇子の御魂は天空を飛び通いながら常にご覧になっておりましょうが、人にはそれがわからない、しかし、松はちゃんと知っているのでしょう。)
大宝元年辛丑に、紀伊の国に幸す時、結び松を見る歌一首 柿本朝臣人麻呂が歌集の中に出ず
後見むと君が結べる岩代の小松がうれをまたも見むかも 巻2-146
(のちに見ようと、皇子が痛ましくも結んでおかれたこの松の梢よ、この梢を、私は再び見ることがあろうか)
これらの歌が詠まれたのは、大宝元年(701)9月から10月にかけての文武天皇と持統太上天皇の紀伊行幸の時であったとされる。長忌寸意吉麻呂と山上憶良の歌は、持統4年(690)の持統天皇の紀伊行幸で詠まれたという異説がある。どちらにしても、この四首は行幸時に詠まれており、天皇も臨席した宴席で朗唱されたのだろう。作者の個人的な思いを吐露したというよりも、時の宮廷が思いを共有した「公式」の歌である。
どの歌も「結び松」に掛けて、「真幸くあればまた還り見む」という哀切な祈りがリフレインし、皇子の運命に満腔の涙をそそぐ。持統天皇の宮廷人が、何故かくも有馬皇子に同情したのか。一種の判官贔屓なのか。勝者の持統天皇が、敗者の有馬皇子を贔屓する理由は何なのか。それは、大海人皇子が有馬皇子と同じ運命をたどりかねない立場をくぐり抜けてきたことにある。
天智10年(671)に天智天皇が重病の床についた時、東宮であった大海人皇子は皇位を継ぐことを辞退し出家を申し出て許された。天智天皇が政敵には謀略を駆使して抹殺してきたことは周知の事実であり、危険を察知した大海人皇子は辛うじてその難から逃れたのであった。その後の壬申の乱は、客観的に見るならば、近江朝に正統に引き継がれた皇位を大海人皇子が武力によって簒奪したことになる。しかし天武・持統朝は自らの正統性を主張するために舒明天皇と斉明天皇の直系であることを強調するとともに天智天皇に問題があったことを記録に留める。
蘇我赤兄は近江朝の左大臣であり、壬申の乱後は追放された。有馬皇子は、赤兄と中大兄皇子が仕組んだ謀略の犠牲となった。謀略にはまりかねなかった大海人皇子の側は有馬皇子を顕彰することで、自らの正当防衛を印象づけられる。持統朝・文武朝の紀伊行幸で公に有馬皇子を追悼する政治的な理由はここにあった。もし有馬皇子自傷歌が後世の作だとするなら、天武・持統朝においてであろう。万葉集挽歌の部冒頭に置かれたのも、万葉集原撰部が持統天皇の主導で編纂されたその影響にあったからだ。
天武朝で改葬された有馬皇子の墓?
和歌山県御坊市岩内にある岩内1号墳は、和歌山県唯一の終末期古墳である。1辺約19mの方墳で、墳丘は版築で叩きしめられている。両袖式の横穴石室を持ち、玄室の長さは2.48m、幅2m、羨道の長さは3.42m、幅1.45mである。7世紀前半末期に築造され、さらに7世紀後半中期に改築されたという。改築された石室床面から銀線蛭巻太刀や木棺に使用した六華葉飾金具が出土している。
森浩一氏は、岩内1号墳は有馬皇子を埋葬した墓であると推定した。その理由は、①大化の薄葬令に対応する県内唯一の古墳で、大和、河内に引けを取らない1級の墓である。②方墳で最新の版築の技術を用いている。③出土品の銀線蛭巻太刀は、被葬者が非常に身分の高いことを示す。④漆塗りの木棺は畿内でもごくわずかしか出てこない。⑤有馬皇子側近で同時に処刑された塩屋連鯛魚は、日高郡の大豪族塩屋の出身であり、その関係で皇子はここに葬られた。⑥皇子はまず仮埋葬され、天武朝になって本格手に埋葬された。
注目したいのは、7世紀後半中期に改築され、その時の立派な副葬品が出土するということだ。森浩一氏が指摘したように有馬皇子の墓であるなら、天武・持統朝において皇子の復権・顕彰は墓にまで及んでいたことになる。追悼歌はそれに伴うものであったのだろうか。
岩内1号墳(御坊市ホームページ)
*歌の訓み下し、現代語訳は、伊藤博校注『萬葉集釋注一』に拠る。
参考
伊藤博『萬葉集釋注一』集英社文庫
坂本太郎他校注『日本書紀五』岩波文庫
青木和夫他校注『新日本古典文学大系 続日本紀一』岩波書店
小賀直樹「有馬皇子の墓はどこか」(『有馬皇子を考える』帝塚山大学考古学研究所・博物館)