084 初期ヤマト政権の宮都、纒向遺跡
纒向遺跡は大和の甘南備、三輪山の麓に東西約2km、南北約1.5kmの範囲に広がる。3世紀の初頭、それまでまったく集落のなかった場所に出現し4世紀前半まで存続した大型集落である。同時代の他の集落とは異なる特徴と大きな規模を持ち、都市ととらえる見方もある。『日本書紀』では、第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきみつかきのみや)、第11代垂仁天皇の纒向珠城宮(まきむくたまきのみや)、第12代景行天皇の纒向日代宮(まきむくひしろのみや)がこの付近に指定される。初期ヤマト政権発祥の遺跡というのが定説となる。
さらに『魏志倭人伝』に記された倭国の女王卑弥呼が活躍した時代が3世紀前半であり、同時代の他の遺跡で纒向遺跡に匹敵するような場所はないことから、卑弥呼が所在した邪馬台国をこの地に求める説が有力視されるようになった。
これまでの調査で明らかになった纒向遺跡の特徴ある遺構と遺物を見てゆく。
●2009年、大型建物の発見
2009年11月の現地説明会
纒向遺跡への一般的な注目が一気に高まったのは、2009年11月、辻地区の大型建物の発見以後である。3世紀初めの国内最大級の建物は、推定で南北約19.2m×東西約12.4m、床面積約238.08㎡と復元された。この建物の東西中心軸の延長上に中心軸を同一にする建物が他に3棟並んでいた。これらを囲む柵か塀と想定される柱列も検出されている。4棟が東西軸に整然と並ぶのは、ほかに例を見ない。太陽信仰との関わりがあるとも言われる。東西を軸にした建物配置は大神神社の拝殿や鳥居もそうだ。後世の宮殿は南北を軸にした配置となる。これは「天子南面」という中国の思想の影響である。それ以前の世界観がうかがわれて注目される。建物のスケールと配置形式から、普通の住居や倉庫ではなく有力者の居館のようなものと想像された。
遺跡はそれまで出土した遺構や遺物から、祭祀が活発に行われた政治的な中枢都市と見られてきたが、この宮殿と目される建物の出現でさらに証拠づけられるようになった。
大型建物のそばに土坑があり、祭祀用の土器に混じって多種類の動物と植物の遺存体が出土した。中でも桃の種は2769個を数えた。「記紀」には桃が聖性を帯びた果実として登場する。桃は祭祀に使用されたのだろう。
建物は3世紀初期から中期にかけて存続したということだ。
黒田龍二神戸大学教授(建築学)が、4棟の復元案を発表されている。
- 調査開始と孤文を刻む土器
纒向遺跡は戦前にすでに太田遺跡として知られていた。遺跡の本格的な発掘調査のきっかけとなったのは、1971年、アパート建設の事前調査で辻地区に古代の川跡が見つかったことだった。翌年には、埴輪のルーツといわれる特殊器台特有の文様を刻んだ土器破片が見つかった。特殊器台は岡山の楯築墳丘墓や箸墓古墳から出て注目されており、それと共通した文様の出現に遺跡の重要性が気づかれるようになった。この文様は曲線と直線を組み合わせた孤文であり、さらに板や石に刻まれたものが後に発見されている。
- 纒向大溝
遺跡の規模と計画性を気づかせたのは、大溝の発見である。東田地区の纒向小学校の建設時に2本の大溝が合流した状態で見つかった。幅約5m、深さ約1.2mの直線状で、北溝は纒向川の旧河道、南溝は箸墓古墳の周濠または現纒向川を取水源とする。合流地点には流量を調節する井関があり、舟をつなぎとめるに使ったような杭が残り、南溝の護岸には矢板が打ち込まれていた。出土したのは200mであったが、延長すると2600mにもおよび、行く先は大和川に通じ運河として利用されていたことが推定できる。
2世紀末に開削され4世紀初期に埋没したと想定されるから、纒向遺跡の発端から終末まで機能したことになる。集落を作るとき、まず計画的に大溝を掘削したのだ。
- 外来系土器
纒向遺跡から出土する遺跡は外来系土器が多い。210年頃から290年頃にかけて年代が下るにつれて増える。15%から30%の割合である。高い割合と共にその範囲がほぼ全国にわたるというのが特徴である。中でも突出して多いのは東海地方でありほぼ半分を占める。次に山陰・北陸地方、河内、吉備、関東、近江、西部瀬戸内、播磨と続く。九州からももたらされているが、これは少ない。
外来系土器には2種類あり、各地域で製作され運ばれたものと材料の土は大和産であるが様式がそれぞれの地域特有の特徴を示しているものだ。前者は各地の人が携えてきたか交易品かであり、後者は各地から来て纒向に住み着いた人か子孫が製作したことになる。各地から多数の人が集まった都市的な様相が浮かんでくる。
- ベニバナ花粉
太田季田地区から大量のベニバナ花粉が見つかった。ベニバナは日本には自生しておらず、大陸から運ばれたらしく、染料か薬用かに使用されたのか。また、日本にはないバジルの花粉も出土する。これは薬用として利用されたと見られる。このような貴重なものを取得できたのは相当な有力者が居住した証でもある。3世紀前半
鍛冶工房と見られる跡も10カ所ほど見つかっており、鉄製品、鉄片、鉄滓、送風管(フイゴ羽口)などが出ている。送風管には北九州に多いタイプのものがあって北九州との交流が想定される。3世紀後半から4世紀初頭。
韓式系土器や断面が丸や三角となる半島と共通した木製鏃も出土する。半島との交流もあったようだ。
逆に見つかっていないものがある。掘立柱建物はあっても竪穴住居は見つかっていない。この時代の遺跡としては非常に珍しい。また水田跡も出ていない。農具類も非常に少なく、工具は土木工事に利用するタイプのもの、鋤が中心だ。
階層の高い住人が集まった都市的な様相がここからも想像できる。
- 祭祀遺構と遺物
辻地区の土坑からは、祭祀を行った跡と見られる遺構と遺物が出土している。尾張、伊勢からの外来系のものが混じる土器、大量の籾殻、直径50cmほどの赤と黒の漆で花柄模様を描いた大型高坏、機織具、鳥船型木製品などがまとめて放棄されていた。『延喜式』新嘗祭条の用具と共通していることが指摘されている。石野博信氏は、ここで直会のような共食儀礼がともなう神まつりが行われていたと推測する。
「司祭者はまずカミの衣を織り、大きな穴を掘って清らかな水を汲み、新しい米を脱穀して、ご飯をたき、カミにささげる。さまざまなカミ祭を行ったあと、祭に使用した用具を穴におさめる。」という流れだ。その中にはお供えした食物を下げて共食するという場面もあったのだろう。このような儀式は今も伝わる。
土坑のそばには一間四方の建物跡が見つかっている。祭祀に使用されたのだろうか。
同じような遺構は唐古・鍵遺跡にも存在するという。唐古・鍵遺跡は纏向の集落が出現する2世紀末から土器の出土が激減し異変のあったことが推定できる。しかし、それ以降も村は存続したと見られる。二つの集落の関係に興味あるが、あまりわかっていないようだ。
- 導水施設
巻野内家ツラ地区には導水施設跡が見つかっている。中央に幅63㎝、長さ190㎝の木槽を据え、北、東、南から木樋を通して水を注ぎ入れ西へ排出する。石敷きもあり、2間×1間の掘立柱建物がそばに建つ。木剣、木刀、弧文板などの祭祀用具が出土する。浄水を使う祭が行われていたと見られる。しかし、木樋の中から多量の寄生虫卵が見つかっており、「トイレ説」も浮上している。3世紀後半から4世紀初頭にかけて存在したと推定される。
- 木製仮面と巾着状絹製品
特筆すべき出土品として太田メクリ地区の木製仮面がある。アカガシの広鍬を転用したもので、長さ26㎝、幅21.5㎝。柄孔はそのまま口になり、両目は新たに細く穿ち眉毛は線刻し鼻は削り残して作る。赤色顔料がわずかに付着していた。ヒモをつけた形跡はないので、手で持って使用したのだろう。木製仮面としては国内最古の事例である。3世紀前半。
巻野内尾崎半花地区の巾着状絹製品は高さ3.4cm、厚み2.4cm、平織りの絹で包み、植物性繊維のヒモで口を結ぶ。絹は日本産の山繭である。3世紀後半。
- 纒向型前方後円墳
纒向に集落があった時期に集落内に最初期の古墳が多数築かれた。主な古墳を見ていく。
纒向石塚古墳は全長約96m、後円部径64m、前方部長32mの規模である。全長、後円部径、前方部長の比率が3:2:1となる古墳は寺沢薫氏が纒向型前方後円墳と名づけたが、その典型である。埴輪や葺石は出土せず、幅約20mの周濠から多数の土器群、鋤・鍬・建築部材などの木製品、赤く塗られた鶏型木製品や孤文円板が出土した。築造時期は3世紀前半と中葉とする2説がある。
纒向矢塚古墳は全長約96m、後円部径64m、前方部長32mに復元される纒向型古墳である。幅約17mから約23mの周濠が確認された。築造時期は3世紀中頃までとされる。
ホケノ山古墳は全長約80m、後円部径55m、前方部長25mを測る。葺石を有し周濠が部分的に確認されている。後円部の埋葬施設は「石囲い木郭」と呼ばれる木材でつくられた郭の周囲に河原石を積み上げて石囲いにするという二重構造を持つ。このような構造は吉備や讃岐、阿波、播磨で散見されるので、東部瀬戸内地域の影響が想定される。出土遺物は二重口縁壺や小型丸底鉢、同向式画文帶神獣鏡、内行花文鏡の破片、鉄製刀剣類、鉄製農耕具、多量の銅鏃・鉄鏃など豊富な副葬品がある。築造時期は3世紀中頃と想定されている。
纒向石塚古墳、墳丘頂部は戦中、高射砲陣地となり削平された。
- 定型化前方後円墳
定型化前方後円墳の始まりとされる箸墓古墳は全長約280m、後円部径155m、前方部長125mのスケールを持ち、纒向型前方後円墳よりも前方部の比率が増す。後円部は5段、前方部は4段の段築で構成され葺石を有する。幅が内濠約10m、周堤約15m、外濠約100mの二重周濠が想定される。後円部墳頂で特殊器台や特殊器台型埴輪、特殊壺が採集された。出土土器から3世紀後半の築造とされるが、国立歴史博物館館は箸墓古墳やその周辺で出土した土器の付着物の放射性炭素14年代を測定し、3世紀中頃を築造時期とする異論もある。また、4世紀初めの木製鐙が内濠から見つかっている。倭迹迹日百襲姫命大市墓として陵墓指定される。
纒向勝山古墳は全長約115m、後円部径70m、前方部長45m、幅約20mの周濠が確認される。墳丘くびれ部から多量の朱塗りされた板材が出土した。築造時期は3世紀前半とも後半とも想定できて不明である。
東田大塚古墳は全長約120m、後円部径70m、前方部長50m、幅約21mの周濠が見つかる。築造は3世紀後半と推定される。
- 庄内式と布留式
纒向遺跡の解説で頻出する用語に、「庄内式」と「布留式」がある。土器の様式を表す用語で、庄内式は弥生時代から古墳時代に移行する段階の土器、布留式は古墳時代初期の土器を指す。庄内式は大阪府豊中市庄内で出土した土器をもとに編年されたので奈文研の田中琢によって名づけられた。布留式は奈良県天理市布留から出土した土器をもとに編年され、京大の小林行雄が名づけた。
庄内式の甕は器壁が1.5~2mm、弥生式の4~5mmに比べて非常に薄く熱効率が良い。内壁を削って薄くするという手法が使われた。3世紀初頭から後半ぐらいに普及し、1~3期と編年される。0期を置く考え方もある。表面にタタキの跡が残る。
布留式は庄内式と同じように壁が薄く、表面がはつられて滑らかである。より精製されて飾りが少なく、全国から出土して均整である。3世紀後半から5世紀後半ぐらいに普及し、0~4期に編年される。
纒向遺跡の遺構や遺物の年代は基本的に共伴する出土土器によって推定される。遺跡は大きく前期と後期にわけられるが、これは庄内式と布留式の区分が指標となる。
庄内式期の遺構・遺物が集中するのは、大型建物があった辻地区や木製仮面が出土した太田地区など遺跡の中心に近い東西南北1kmほどの範囲である。布留式期の遺構が出るのは、その周囲である。とくに導水施設が見つかった巻野内地区は後半期の中枢施設があったと推定されている。
庄内式甕
纒向遺跡エリア、内側の線で囲んだ範囲に庄内式の遺構が集中する。その周囲に布留式期遺構が出土する。
参考 石野博信著『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』新泉社2008 『大和・纒向遺跡』学生社2011 『纒向へ行こう!』桜井埋蔵文化財センター2011 桜井市纒向学研究センター 他