109 天平の天然痘大流行

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「呪符」木簡(『平城京と木簡の世紀』より)

 新型コロナウイルスによるパンデミックは大方の日本人にとって未知の体験です。しかしこれまでの内外の歴史を見ると、人類は感染症とともに生きてきました。感染症の原因が究明され、有効な治療・予防法が生み出されてきたのは、人類の歴史から見ればつい最近のことです。そして医学の長足の進歩は、少なくとも先進国の人々が感染症の恐怖から遠ざかることを可能にしました。今回のパンデミックは、こんな我々の安穏な日常を覆し、人類の感染症との苦い「闘い」の記憶を呼びさましてくれることになりました。細菌やウイルスの存在など知るよしもなく、医学も未発達な時代、人々は如何に感染症に立ち向かい翻弄され乗り越えてきたのでしょうか。

 時代は1300年前の奈良時代にさかのぼります。

 天平元年(729)2月、時の太政官トップの左大臣正三位長屋王が国家転覆を謀ったという冤罪を着せられ、正室の吉備内親王と四人の皇子、膳夫(かしはで)王、桑田王、葛木(かずらき)王、鈎取(かぎとり)王とともに自殺させられる大事件が起きました。藤原氏による謀略でした。これ以降、権力基盤を盤石にした藤原氏を中心に律令体制の整備が図られていきますが、長くは続きませんでした。

 天平7年(735)8月12日、聖武天皇の詔(みことのり)が出ます。以下、『続日本紀』の記述を見ていきます。「この頃、大宰府管内に疫病で亡くなる者が多い。病を鎮め民を救うため、大宰府管内の天神地祇に奉幣し祈らせよ、管内の寺は金剛般若経を読め。使者を遣わせ病者に賑給(しんごう=給付)し湯薬を与えよ。長門より東の国の長官と次官は斎戒し、道饗祭(みちあえのまつり)を祀れ」。23日条には、大宰府からの嘆願があり、「管内では疫瘡が大いに流行り、百姓ことごとく臥す.今年の貢調〈特産物の貢進〉を停止させて欲しい」と申し入れて認められました。疫瘡とあり、天然痘であることがわかります。

 すでにこの年の5月の詔に「この頃、災異しきりに起こり咎めの徴が現れる。」とあり、夏には天然痘が広がっていたようです。大赦が下され、高齢者、高年で妻・夫のいない者、孤児、病人等に賑恤(しんじゅつ=給付)が行われ、税金の一部が免除されます。そして宮中、大安寺、薬師寺元興寺興福寺大般若経の転読が命じられました。

 9月には一品新田部親王、11月には知太政官事一品舎人親王が相次いで薨去しました。天然痘のせいとは記されていませんが、その可能性があります。二人は天武天皇皇親として政界の重鎮であり、長屋王の事件のさい現場に参じ王の糾問にあたりました。

 11月にも詔が出され、疫病を鎮めるために大赦と賑恤が実施されました。

 『続日本紀』はこの年を回想して、「この歳、すこぶる穀物は実らず。夏より冬に至るまで天下に豌豆瘡(わんとうそう)はやる。若くして死ぬ者が多い」と特別に記しています。

 大宰府管内から天然痘は流行を見たようなので、大陸や朝鮮半島からもたらされた可能性が高いでしょう。この年の2月には、新羅使節平城京を訪ねているので、感染源に彼らを疑う説があります。また前年の11月には遣唐使が帰国しているので、こちらも疑えるかもしれません。

 翌天平8年(736)は『続日本紀』に天然痘のことは出てこないので、一応治まったか小康状態になったのでしょうか。6月に吉野離宮への行幸が11年ぶりに実行されました。このとき随従した山辺赤人長歌反歌が残っています(巻6-1005・1006)。8万5千点の出土を見た二条大路木簡の中にこの行幸に関する木簡があり、そこに次のような文字がありました。

「南山之下有不流水其中有 一大蛇九頭一尾不食余物但 食唐鬼朝食 三千 暮食 八百 急々如律令

 渡辺晃宏氏(奈良文化財研究所)は、これを「南山の麓に流れない水があって、そこに九つの頭と一つの尻尾をもつ大蛇が棲んでいる。ほかに何を喰らうでもなく、ただ唐の鬼だけを喰らう。朝に三千匹、夕に八百匹。願いが即刻かないますように」と解釈されます。南山は吉野山であり唐鬼は天然痘を意味して、水の神である九頭龍神に疾病の調伏を祈る呪符木簡ということになります。そこで、吉野行幸の目的が天然痘の退散を祈願するものであり、この年も病の勢いは衰えていなかったというのが、渡辺氏の推測です。

 3月には、国ごとに釈迦如来仏と脇士像を作り、大般若経を写経することが指示されています。これは天平13年(741)の国分寺建立の詔の中でも言及されていて、国分寺創建の原点には天然痘平癒の願いがあったのです。

 天平9年(737)、年が改まり前年に新羅に派遣した使節が京に戻りました。しかし、大使の安倍継麻呂は対馬で卒去し、副使の大伴三中は病んで入京できませんでした。天然痘に罹患したのでしょう。なお、この時の遣新羅使一行の詠んだ歌145首が『万葉集』巻十五に収められています。

 『続日本紀』の4月17日、参議で内臣の正三位藤原房前薨去の記事が見え、これを皮切りに天然痘関連の記述が続きます。19日の詔は、大宰府管内の神社に奉幣し、全国の貧疫の家に賑恤し湯薬を与えよと命じています。

 5月19日にも詔が発せられます。「四月よりこの方、疫病と旱のため農作困難となり、山川に祈祷し天神地祇を祀ったが効果がなかった。今に至るも苦しむ。朕の不徳がこの災いをもたらした。寛大な仁の心で民の患いを救いたい。冤罪者を救済し放置された屍を埋葬し、禁酒して牛馬の殺生をやめなさい。高齢者、高年で妻・夫を亡くした者、孤児、京内の病人に賑給せよ。役人に特別の給付を与える。大赦せよ」

 6月1日の百官が集合する恒例の朝は中止になりました。病に倒れる役人が多かったためです。12日には、大宰府の次官従四位下小野老が卒去します。「あおによし奈良の都は咲く花の匂うがごとくいま盛りなり」の作者です。23日は、中納言正三位多治比県守薨去します。長屋王事件の時、兄の池守とともに藤原氏に加担して動いた人です。

 7月に入り、大倭・伊豆・若狭・伊賀・駿河長門の飢え病める百姓に賑給しています。13日には、参議兵部卿従三位藤原麻呂薨去。25日には、右大臣藤原武智麻呂薨去し、正一位左大臣追号が贈られました。

 8月になると、畿内と七道の僧侶と尼僧に清浄沐浴すること、最勝王経を読むこと、六斎日は殺生を禁ずることを命じました。5日に参議式部卿兼太宰帥の藤原宇合薨去しました。13日に詔が出ました。「朕が君主として国を治めるようになって多くの年を経た。しかしまだ善政は行き渡らず民は安息できない。毎日、眠りにつけず憂い苦悩している。春よりこの方、疾病が猛威を振るい、百姓で死ぬ者がまことに多く、百官にも倒れる者が少なくない。朕の不徳が原因でこの災いをもたらした。天を仰ぎて恥じ恐れかしこむ。百姓を回復し救済したい。全国の今年の田租と賦役、公私の出挙稲未納分を免除する。霊験のある諸神に奉幣し、神主に賜爵せよ」。また天下太平国土安寧のため宮中に僧侶7百人を招き、大般若経・最勝王経を転読させました。新たに僧侶を度すること四百人、機内・七道は五百七十八人に上りました。

 9月には、私出挙〈民間の高利貸〉禁止令、防人の停止などの民政融和策が実施されました。藤原四兄弟多治比県守が欠けた太政官の建て直しが図られ、長屋王の弟の鈴鹿王が知太政官事、従三位宿禰諸兄が大納言、正四位上多治比真人広成が中納言に昇進しました。

 注目すべきは、10月に長屋王の子弟である安宿(あすかべ)王が従四位下に昇叙、黄文(きぶみ)王が従五位下に初叙、円方(まるかた)女王・紀女王・忍海部(おしぬみべ)女王が従四位下に昇叙されたことです。長屋王事件で長屋王の責任を追及した者たち、藤原四兄弟新田部親王舎人親王多治比県守がこぞって病に倒れたことと関連していると見るべきでしょう。翌年には長屋王を密告した者がかつての長屋王の従者に斬殺される事件を『続日本紀』はわざわざ取り上げ、あれは「誣告」であると述べます。冤罪であることは藤原四兄弟存命中にすでに公然の秘密であり、彼らが亡くなって公然化されたのでしょうか。子弟の一斉の昇叙は長屋王の名誉回復の一環でしょうが、そこに聖武天皇光明皇后の贖罪意識を感じます。

 怨霊信仰が確立するのは10世紀初頭の菅原道真大宰府左遷後に頻発した災難以降ですが、すでに桓武天皇も怨霊に悩まされていました。天平天然痘大流行は、後世の怨霊観念からすれば長屋王の怨霊に原因が求められても不思議ではありません。奈良時代はまじないや呪いをかけたりすることが普通に行われていましたから、長屋王の呪いを意識することは当然あったと思います。平安初期に成立した日本最古の仏教説話集 『日本霊異記』には、長屋王のエピソードが出てきます。聖武天皇長屋王の屍を焼き捨て川に流した.骨は土佐国に流れて、その国の百姓は死ぬ者が多い。そこで百姓が官に訴えたところ、都から離れた紀伊国の島へ葬った。長屋王の祟る風評が庶民の間で広まっていたことがわかります。

 疫病の流行に当時の政府が採用した対策は、まずは神仏への祈願でした。貧窮者や病者への賑給、賑恤と呼ばれる給付、税金の免除、大赦などが幾たびも実施されました。病への対処法を示したり湯薬を与えたりもしていますが、実質的な効果はほとんどなかったでしょう。天然痘の致死率は20~50%であり、当時の人口の七分の一が亡くなったという推測があります。

 聖武天皇の詔には繰り返し「自らの不徳が災いをもたらした」という文言が出てきます。律令制を導入したばかりの時期で、「天子の徳が高ければ、天はそれを愛でて国はよく治まり富と平安が民にもたらされる」という中国の天子思想も輸入され、聖武は帝王教育でそれに感化されていたでしょう。政府が打ち出す施策は、天皇の徳を表すものとして行われました。天平9年の12月に「大倭国」が「大養徳国」と改名されたのも、このような事情からです。

 この時代の天皇は後世のようなシンボル的な存在に限定されず、実権が伴っていました。不徳を自責する裏には全能感がみなぎっています。しかし現実は、疾病が蔓延し旱や風水害・地震が多発し、民はあらゆる苦しみをなめました。これに対し天皇は無力でした。天子の資格が常に問われる状況にあったのです。全能感と無力感、さらに長屋王を罪なく抹殺した罪悪感がうずまき、日夜、安寧な心境からはほど遠かったはずです。

 いわゆるアイデンティティの危機に天皇は直面しました。この時の救いとなったのが仏教です。仏教に深く帰依することで傷ついた徳を取り戻し補強しようとしたのです。聖武天皇光明皇后はもともと仏教への篤い信仰がありましたが、天然痘の流行以後はますます傾倒するようになります。

 天平12年(740)10月、聖武天皇は東国行幸を敢行し、恭仁京を新都に定めます。聖武の胸中には大仏建立と仏教による国家経営のプラン(ロマン?)があり、それを実行すべく一歩を踏み出したのです。しかし現実の政治はこれを機に混迷を深めていきます。天平15年(743)10月、大仏建立の詔が出ました。それは聖武の自信に満ちたものでした。天皇の徳は大仏のスケールに比例して巨大となり、そこからあふれ出て国と民をうるおすはずだったからです。それは聖武の脳に宿った夢、あるいは誇大妄想であったのですが、国を挙げて大仏の建立に奉仕しました。そして1300年間、ふたつとないシンボルであり続け、奈良の歴史そのものになったのです。現代の我々も聖武の妄想に取り込まれているのではないかとふと思うことがあります。その妄想、あるいは夢を生むきっかけとなったのが天平天然痘大流行だったのです。

*文中の詔は筆者による意訳であり、省略したり概要のみにしたところがあります。

参考文献
新日本古典文学大系 続日本紀2』岩波書店
渡辺晃宏著『日本の歴史4平城京と木簡の世紀』講談社
渡辺晃宏著『平城京1300年「全検証」奈良の都を木簡から読み解く』柏書房
板橋倫行校注『日本霊異記』角川文庫