094 春日信仰の二層構造
「東大寺山堺四至図」の「神地」
「東大寺山堺四至図」を見てまず誰もが注目するのは、画面ほぼ中央に四角に囲んだ枠内に「神地」と書き込まれた箇所である。「御嵩山」と記入する円錐型の山の西側ふもとに位置する。「神地」も「御嵩山」も東を上に西を下にして記入される。「神地」は今の春日大社本社が存在する場所と見ていい。
春日大社の創建は社伝によれば768年、常陸国鹿島神宮の武甕槌命、下総国香取神宮の経津主命、河内国枚岡神社の天児屋根命と比売神が勧請され、この地に四殿が建ったことをもってする。それより12年前の同一の場所は「神地」と称されて、建物もなく祭祀を行う広場があったように想像できる。現在の本殿は南向きだが、当時は御嵩山を東向きに礼拝するような形であったようだ。
実際に御嵩山のふもとで行われた祭祀が『続日本紀』に記録される。718年(養老元年)に「遣唐使、神祇を御嵩山の南に祀る」とある。航海の安全と目的の成就が祈られたのだろう。遣唐使の派遣は当時の国家の大事業であり、御嵩山の神地は国家レベルの祭祀が行われた地であり、国家が管理していたと思える。
このようになったのは、もちろん710年の平城遷都以降であろう。平城遷都の詔に「平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮をなす」とある。平城京が当時の風水思想を意識して選地されたことがこれによりわかるが、東の青龍たる春日山および御蓋山が京の条坊割りを決める基準点となったのではないだろうか。古代の三条大路を踏襲する奈良のメインストリート三条通りの延長上に春日大社と御蓋山がくる。三条通りは西の京外で南西方向に曲がり暗(くらがり)峠越え奈良街道に通じて難波へ向かう。すなわち西の白虎たる生駒山と東の御蓋山が一本の大路で結ばれる。御嵩山は平城京のグランドデザインの要であったともいえる。
春日奥山は佐保川、水谷川、能登川の源流だ。秀麗な円錐をなす御嵩山は水の神様として遷都以前からも住民の信仰を集めていただろう。三輪山の大神神社が元来、水神を祀るといわれるように、土地の人々にとって切なる願いの対象はまず農事にかかわることであった。
春日社創建以前の春日信仰
768年の春日大社創建以前の信仰を伝える境内の形跡や伝承を探ってみたい。
春日大社境内の遺跡で注目されるのは、築地遺構である。ちょうど神地をコの字型に囲むように設けられていた。北は万葉植物園、西は鹿苑、南は率川上流の菩提川まで総延長約1kmにおよぶ。
2カ所で発掘調査が行われた。基底部の幅は2.45m~2.9m、版築地業が施され、小石を詰めた暗渠や瓦が多量に出土した。奈良時代初期の築造と見られる。また奈良時代の土馬が出土して、水に関する祭祀が行われていたことも明らかになった。平城宮を囲む築地に匹敵する大構築物である。
御蓋山の南麓に摂社の紀伊神社がある。その東隣に石が多量に堆積し山腹を這い上っていく。石敷きの幅は最大37mで一定しないが、段を整えて両縁は石を組み、その間に人頭大の石を全面に敷く。石敷きは山頂の東側を通り、北に向かって下りていく。この遺構は磐境(いわさか)、すなわち聖域を区画する目印という意見が有力だ。奈良時代以前に作られたという説もある。
境内には磐座が多数鎮座する。本社楼門門前には「赤童子出現石」がある。本殿床下や水谷神社本殿床下には漆喰で塗り込められた岩石群があり、大社創建以前の祭祀の一端がうかがえる。
「つんぼ春日に土地三尺借りる」と呼ばれる地主神の榎本神社にまつわる説話がある。
武甕槌命は、地主である榎本の神に「この土地を地下三尺だけ譲ってほしい」と言った。榎本の神は耳が遠かったために「地下」という言葉が聞き取れず、「三尺くらいなら」と承諾してしまった。そのため春日野一帯の広大な神地が武甕槌命のものになった。しかし約束通り境内の樹木は地下三尺より下へは延びないという。
榎本社は本社回廊内の南西に回廊を占拠するような形で鎮座する。本社参拝前にはかならず参るべきとされる。武甕槌命の強欲さを茶化したような説話である。しかし、また別の意味にも受け取れる。春日明神がおられるのは地上から三尺までの範囲で、それより深い地は土地の神様の領分ということかもしれない。
春日大社に参拝して不思議に思うのは、あれだけの格の高い神社でありながら、本社の境内が狭隘で社殿も全体に小ぶりであるということだ。これは本社の敷地が御嵩山の斜面が立ち上がる際にあって地形上、大きな建物が建てられないということによるだろう。神地を踏襲することにこだわったわけだ。さらに社殿を建てやすいように整地するのではなく、土地の形状をそのままにしたからでもある。
たとえば本殿は第一殿から第四殿まで土地の高低に即してわずかな段差ながら階段状に建つ。実はこれを教えられたのが、「ブラタモリ」を見ているときだった。この指摘に目から鱗が落ちたような気になった。元の神地の形状を変えないために微妙な段差ができたのだった。
社殿の春日造りも、敷き土台の上に柱が建つ。掘っ建て柱は土地を傷つけるから、それを回避するために春日造りがあみ出されたのではないだろうか。
これは春日社の一貫した鉄則であって、時代が下っても土地を改変するような試みは厳しく制限された。春日山が禁足地になったこともこの方針の延長上にあるだろう。
春日四神は他所から勧請された神である。もともとこの地には地に根差す神がおられて祭祀が行われていた。後から来たよそ者の神は社殿に祀られているが、元からおられる神に遠慮する、或いは尊ぶ精神が、春日大社の形に現れているように思える。これを指して、春日信仰の二層構造と呼びたい。
若宮様の誕生――春日信仰古層の復活
春日の祭神は公式には本社四殿に祀られる武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神であるが、その基層には土地固有の神様が根をおろす。それが表面に現れ明確な形になるのは、若宮の誕生とおん祭りの創始であった。長保5年(1003)、本社四殿の板敷にところてん状のものが落ちてきて、その中から五寸ほどの蛇が現れ四殿の中へ入っていったと社伝は記す。蛇の形をとった神様は、三殿と二殿の間の獅子の間に祀られていたが、長承4年(1135)に現在地に本殿が創建され移座した。翌年、若宮の例祭のおん祭りが始まる。
若宮神社の祭神は若宮様と親しみをこめて呼びならわされるが、公式的には天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)である。この神名は江戸時代からのもので、それまでは五所王子(ごしょのみこ)と称された。本社の春日四神に対して五番目の神様という意味らしく、四神と同格の神様として明治維新までは扱われた。若宮様は謎の多い神とされる。しかし出現の姿が蛇であったことは、水にかかわり土地に根差す神であったことを示唆する。若宮の社殿が西面するのは、御嵩山を仰ぐ東大寺山堺四至図の神地の礼拝を彷彿させる。おん祭りは大和侍の興福寺衆徒が主催する。興福寺が関われなかった勅祭の春日祭に対抗するかのように大和一国を挙げての祭である。
大和の住人は、藤原氏の氏神で朝廷からも厚遇される権威と権力を利用して自己の利益を守ったのだろう。そして春日神社は興福寺と一体化して大和の住人を結集させ奉仕させたのだろう。信仰の二層構造は補完しあって春日信仰をより強固にしていったのである。