093 金鍾山房と香山堂

 

 神亀4年(277)閏9月、聖武天皇光明皇后の間に待望の男子、基(もとい)王が生まれた。天皇の喜びは尋常ではなく誕生から1か月あまりの赤子を皇太子に任命した。翌年の8月、基王は重い病気になったため病が癒ることを願って観音菩薩177体、観音経177巻を造り礼仏、転経することを勅した。しかしその甲斐なく翌月に基王は亡くなり、那富山(なほやま)に葬られた。さらに皇太子の菩提を弔うため、従四位下智努(ちぬ)王を造山房司長官にし智行の僧九名を選び山房に住まわせることにした。これらは、奈良時代の正史『続日本紀』に記される。

 基王の死去はのちに長屋王の変の原因となり、天皇の仏教への過大な傾倒や天平以降の頻繁な政変を引き起こす遠因になったとも推測でき、奈良時代の政治史を見ていくうえで重要な事件である。

 山房については、正倉院文書にも出てくる。天平8(736)の写経目録に、元正太上天皇の病気平癒を祈願するために皇后宮識が命じて「薬師経」を書写させ山房に納めたというものである。さらに天平11年(739)の文書には、皇后宮識が派遣した役夫の出向先が金鍾山房とある。

 平安時代後期に編纂された東大寺の記録『東大寺要録』は、東大寺の起源とおぼしい記事に「天平5年(733)聖武天皇が良弁のために羂索院を創立す。古くは金鐘寺と号す」と掲載する。

 『続日本紀』の山房、正倉院文書の金鍾山房、『東大寺要録』の金鐘寺と記される史料をつなぎ綜合して、聖武天皇光明皇后が亡き基王の菩提のために建立した山房は、金鍾山房であり、東大寺の起源である金鐘寺になったという通説ができた。

 天平17年(745)紫香楽宮を放棄して平城京に還都したあとすぐに東大寺で廬舎那大仏の造仏が再開された。天皇入魂の事業が東大寺を選んで行われたことに、山房を起点とする天皇と寺との深いつながりを想定することは説得力があって、この金種山房説は受け入れやすい。

 しかし、この通説とは別に山房について新たな説が有力になりつつある。正倉院宝物の「東大寺山堺四至図」は天平勝宝八歳(756)に東大寺の寺域を示すために描かれた絵図であり、平城京東郊の当時の地理を知るうえで貴重な史料である。絵図の南東、春日山中に香山(こうせん)堂というお堂が描かれる。新薬師寺の方から能登川沿いにたどる道が香山堂へと向かう。それに山房道と書き込まれる。基王のため建立された山房は香山堂ではないかというのが新説である。

 香山堂については『東大寺要録』に収録された『延暦僧録』逸文光明皇后の事績として登場する。

 「皇后また香山寺金堂を造る。仏事荘厳具足す。東西楼しゃ帯に影り、左右危観虚敞たり。雅麗名づけ難し。皇后また香薬寺九間仏殿を造る。七仏浄土七躯を造る。請いて殿中に在り。塔二区を造る。東西相対す。一鐘口を鋳る。住僧百余。僧房。田薗」

 光明皇后が、香山寺と香薬寺を創建したことが記され、香山寺が香山堂、香薬寺が新薬師寺とされる。香山堂の創建と景観を伝える唯一の文献である。これによれば、伽藍は整い、東西に二つの楼が聳え、この上なく美しかったという。

 昭和41年(1966)に奈良国立文化財研究所によって香山堂が現地調査された。海抜421mから442mの山麓に、平坦な六つの段がある。もっとも広い段は、東西32m、南北22m。礎石と見られる石も散在して、少なくとも相当規模の四棟以上の建物があったようだ。平城宮出土瓦と同笵の瓦も見つかっている。しかし、本格的な発掘調査は行われなかったので、詳しい伽藍配置や建物規模はわからない。

 香山堂(香山寺)についての従来の解釈は、新薬師寺の前身寺院であり、新薬師寺が創建された後はその奥の院となったという説である。天平17年(745)9月、難波宮行幸した聖武天皇は体調を崩し重体に陥る。その回復を願って講じられた策の中に、京師や畿内の諸寺および諸の名山浄処において薬師悔過を営むこと、七仏薬師像の造立があった。新薬師寺の創建は『東大寺要録』には「天平19年(747)3月、仁政皇后、天皇の不予に縁りて新薬師を立て、並びに七仏薬師像を造る」と著される。このため、天平17年の詔が新薬師寺の創建につながったとされる。この詔で最初に創建されたのは香山寺であり、ここで薬師悔過が営まれた。しかし、七体の薬師像を納める仏堂を建てるには狭隘なので、平地を選んで新薬師寺の仏堂が建てられた。新薬師寺は香山薬師寺、香薬寺とも別称されるので、両寺は深い関係にあると推測される。よって香山寺は新薬師寺の前身寺院であり、やがて奥の院的な存在になったというわけである。

 この説も説得力があるのだが、現地で採集された平城宮の瓦と同范の瓦は奈良時代初期に属し、天平17年の勅をもって創建されたという説に矛盾する。瓦の年代観からすれば、山房は神亀から天平元号が変わるころに創建されていることになり、山房説の強力な支援材料になる。

 奈良文化財研究所の渡辺晃宏氏は、山房解の表書を持つ皇后宮識にかかわる二条大路木簡3点(天平7年、天平8年、年代不明の3点)と平城宮の東院の溝から出土した山房解の木簡を紹介して山房説を主張する。二条大路木簡には「楼閣山水図」が描かれたものがあり、中国の屏風絵の模写と考えられていたが、実は山房の描写ではないかという大胆な仮説を提唱される。

 山房説の山房はのちに香山堂あるいは香山寺の名称に変更されることになる。その時点や理由は不明であるが、寺の性格の変化が想定される。元正太上后の病気平癒祈願のため薬師経を納経したことが、そのきっかけになったのだろうか。また木簡には延福という僧の署名があり、彼は東大寺大仏開眼供養会で読師を務めた。『日本紀略』康和4年(967)に、香山寺聖人正祐が東宮憲平親王の御悩のため参じたことが載る。京都清水寺が所蔵する古写経に天元5年(982)の日付と香山寺の名を残す奥書がある。10世紀末を最後として香山寺の記録は絶える。

 新薬師寺に香薬師像という国宝にして白鳳仏の傑作といわれる仏像があった。昭和18年に3度目の盗難にあい、長らく所在不明である。写真で見ると童顔の神秘で無垢な表情に魅せられる。この仏像の由来は分からないが、なぜか香山堂を連想する。香という字に注意がいき、寺の滅亡と仏の災難が結びつくせいだろうか。

 東大寺長老の森本公誠氏は、山房説に賛意を示しながら金鍾山房説との両立を図られている。『東大寺要録』は基王の早逝と山房建立の経緯を詳細に引用して、これと東大寺誕生とがかかわっているかのように示唆している。天平5年に聖武天皇は良弁のため羂索院あるいは金鍾寺を創立したが、羂索院は不空羂索観音を本尊にする法華堂(三月堂)を中心にした寺院である。最近、法華堂の須弥壇が修理され、その際の調査によれば須弥壇不空羂索観音も創建当初からのものであることが判明した。さらに年輪年代法が示すところでは、須弥壇および法華堂の木材の伐採年が730年前後になる。これにより羂索院の創立が天平5年(733)であるという記述の真実性が高まった。

 基王の病気平癒祈願のため177体の観音像の造仏が命じられたものの1か月後に親王は逝去した。このとき制作に着手された観音像を祀るために山房が計画され、中止された造仏もあっただろうが、その数の多さに山房は複数造営されたというのが森本氏の推理である。確かに羂索堂は不空羂索観音像、「山堺四至図」の羂索堂の隣に描かれる千手堂は千手観音像、二月堂は十一面観音像を本尊にする。香山堂の前身の山房も当然、観音像が祀られたことになる。そればかりか、「山堺四至図」の広大な領域が観音霊場としての補陀落山に見立てられ、基王の冥福を祈る霊場にしようとする意図が読み取れるという。スケールの大きな魅力ある構想だと思う。

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東大寺山堺四支図(模写)上の赤丸内が羂索堂、下の赤丸内が香山堂

参考 『平城京一三〇〇年「全検証」』渡辺晃宏 柏書房2010 『東大寺のなりたち』森本公誠 岩波書店2018 『日本の古寺美術16「新薬師寺稲木吉一 保育社

奈良歴史漫歩No48春日奥山の香山堂