079 薬師寺の西塔心礎移動説
奈良県橿原市の特別史跡、本(もと)薬師寺跡は晩夏の日差しを浴びて紫色の花の絨毯が広がる。周囲の休耕田に植えたホテイアオイの花が盛りを迎えているのだ。新たな名所づくりを試みた橿原市の狙いは当たり、多くの見学者が訪れる。
本薬師寺跡には金堂や東西両塔の礎石が残る。規則だって並ぶ巨石は、古代寺院のスケールをまざまざと実感させる。東西両塔の心柱を受ける心礎も幸いに現存するのであるが、注意深い見学者は東西の心礎の形が異なっていることに気づかれるだろう。
東塔跡には四天柱と側柱の礎石も残る。花崗岩の心礎は中央に同心円状に3つの孔(あな)をうがつ。上段は心柱を受けるもの、中断は石蓋をはめこむ孔、下段は舎利孔である。西塔の心礎は、中央にデベソのような半球型のホゾが造りだしてある。心柱の底をくりぬいてはめこんだようだ。この形から西塔には舎利は納められなかったと言える。
奈良市にある薬師寺は、藤原京から平城京への遷都にともなって他の大寺とともに移転したものだ。移転した後も藤原京の薬師寺は残って本薬師寺と呼ばれ、11世紀中頃までは存続したことが文献から推定できる。
現在の平城薬師寺には、1300年前の心礎の上に西塔が再建されている。この心礎は本薬師寺東塔のそれと同じ形式をもち、孔の寸法もほぼ変わらない。ただ上段の孔の周囲に溝をめぐらせ、水抜きの細い孔が設けられていることが異なる。
「凍れる音楽」と称される東塔は現在解体修理中で5年後の2020年に落慶する予定だ。今年の2月28日、「保存修理現場見学会」が実施され、東塔の基壇が公開された。そこで心礎の形状が明らかになった。花崗岩で上面は最大幅約2.1mのやや菱形をなして中央に1m四方の浅いくぼみがある。くぼみは、江戸時代の修理で心柱に根継ぎ石を継いだ際に安定させるため削ったということである。したがって出ホゾがあったかどうかは確認できないが、予想された通り東塔の心礎には舎利孔はなかった。
本薬師寺東西塔と平城薬師寺東西塔の心礎は逆転する形で同じ形式を持っていた。これは非常に興味深い事実だといえよう。本薬師寺と平城薬師寺は伽藍と堂塔の設計において強い相似性を持つ。このことから、本堂薬師三尊の移座や東塔が移建されたかどうかという薬師寺論争が長年戦わされてきた。本薬師寺の存続が確証されたことから全面的な移建は否定されたが、本尊の移座は最近また有力視されるようになったし、平城薬師寺から本薬師寺の創建瓦が出土するため堂塔の部分的な移建の可能性も残る。
すでに仏教美術史の石田茂作氏は、舎利孔を持つ心礎が白鳳時代のものであり、出ホゾ式の心礎が奈良時代以降に流行したという歴史観から、本薬師寺の創建西塔が平城薬師寺に移建され、そのあとに再建されたという説を70年前に発表されている。
本薬師寺の発掘調査から西塔の不思議な事実がいくつも明らかになっている。創建瓦が2種類あって、白鳳時代のものと奈良時代のものが等量に出土すること。基壇の下半分は堅い版築を施しながら上半分は柔らかい土盛りであること。足場跡が1時期のものしか残っていないこと。考古学の花谷浩氏は、これらの事実と平城薬師寺の西塔跡から出土する本薬師寺の創建瓦が少量であることをもって西塔移建説を否定し、本薬師寺の西塔が奈良時代に入って完成したことを唱えられた。
しかし『続日本記』の文武2年(698)に「薬師寺の構作ほぼおわる。詔して衆僧を寺に住まわしむ」とある。主要建物である西塔を未完成のままにして「構作ほぼおわる」というのは解せない。西塔の完成がこの記事のあと20年も先になる理由もわからない。
花谷氏の説に納得できない私はおこがましくも素人の推理として、西塔の心礎・舎利移動の可能性を考えた。以下は『奈良歴史漫歩』No68「本薬師寺の心礎」からの引用である。
西塔舎利・心礎移動説を新たに提案したい。奈良時代になって本薬師寺西塔を解体して舎利を心礎ごと取り出し平城薬師寺西塔に据えたあと、新しい心礎をもって本薬師寺西塔を再び組み立てたというものだ。移したのは舎利と心礎だけであるが、解体の際に瓦が多量に壊れたために奈良時代の瓦で補修した。西塔跡から新旧ふたつの瓦群が半々に出るのもそのためである。
平城薬師寺の塔には、釈迦在世時の重要な出来事を示す「釈迦八相」の塑像が安置されていたことが『薬師寺縁起』に記録されている。東塔には釈迦前半生を表す因相、西塔には釈迦後半生を表す果相とわかれていたが、果相は釈迦の遺骨を分ける「分舎利」を含む。このため舎利は西塔にのみ納められた。
移すことになった3孔式心礎はそのとき手を加えて排水溝を刻んだ。新調の心礎は舎利をもはや収納する必要はなく、奈良時代になって登場した出ほぞ式が採用された。
1時期の足場跡しか検出できなかったことは次のように考えられる。西塔基壇も発掘調査されたが、基壇版築土の下半と上半3分の1はよく締まっていたが、その上はかなり軟弱であった。これは心礎を移すときに基壇の表面が掘り返されたからではないだろうか。ふたたび版築で固めるという手間が省かれたのだろう。このとき創建時と解体時の足場跡も消えてしまい、再建する時の足場跡のみ残った。
難点は、心礎・舎利のみの移動がその労役で得られる意義をどこに見いだせるかということだろう。西塔を心礎ごと移建したと考える方が確かに合理的である。新たな考古学的な事実は、石田茂作氏の西塔移建説の再評価を促しているように思う。
(2015/08/31記)
本薬師寺東塔跡 水が溜まる中央の石が心礎
本薬師寺西塔心礎
平城薬師寺西塔心礎レプリカ
平城薬師寺東塔心礎
●参考 花谷浩「本薬師寺の発掘調査」1997(『仏教芸術』235号 毎日新聞社) 石田茂作「出土古瓦より見た薬師寺伽藍の造営」1948(『伽藍論攷』養徳社) 大橋一章『薬師寺』1986 保育社 「国宝薬師寺東塔の発掘調査 第4回保存修理現場見学会」配布資料2015