入江泰吉旧居を見学に訪れた日は、コーディネーターの倉橋みどりさんによる旧居ガイドと、建物を改修した徳矢住建の徳矢誠三氏の講話が予定されていた。
旧居が公開されるに至った経過を簡単にたどってみたい。入江夫妻がこの場所に移り住んだのは昭和24年(1949)、入江44歳の時である。亡くなったのは平成4年(1992)、86歳であった。全作品が奈良市に寄贈されて奈良市写真美術館がその年にオープン。夫妻には子供がなく、妻ミツヱは平成12年(2000)に自宅を奈良市に寄贈した。市は市民を含むワーキンググループを立ち上げ活用方法を検討、その方針に基づき旧居を保存改修し公開に至ったのである。
倉橋さんは編集者でワーキンググループの一員でもある。倉橋さんのガイドは、部屋を巡回して部屋の使われ方、調度品、夫妻の日常、入江の交友、趣味などに触れていく。茶室は茶の間として使われテレビが置かれていたという。その隣に雁行型に建て増しした四間がある。妻ミツヱさんの専用の部屋、茶の間からは元茶室らしいアーチ型のくぐり戸から出入りする。その縁側に使い込んだ木製の小さなテーブルと椅子2脚が置いてあった。茶の間の庭に面した廊下にもともとはあったらしく、夫妻は庭を眺めながらそこで朝食をとったという。コーヒーとフランスパンが好物だったらしい。
並びは寝室だった。改修によりフローリングがされソファ、テーブルを置いた見学者用の休憩室になっていた。その隣が書斎とアトリエである。壁一面が作り付けの書棚となり、天井は中央が高くて左右に傾斜する。小さな座卓と座椅子が片隅にある。入江は普段はここに籠もっていたらしくて、ミツヱさんとの連絡用の電話、専用のトイレも設けていた。まさに俗世間とは隔絶された隠れ家である。
書斎の奥にアトリエがある。そこは立ち入り禁止であったが、二面が全面ガラス戸の森に浮かぶサンルームのようである。ここで、入江は趣味のガラス絵、木っ端仏の制作に没頭したという。ロッキングチェアが置かれていた。チェアに腰掛け思案する入江の姿が目に浮かぶようであった。
徳矢住建の徳矢誠三さんはまだ32歳と若い。パワーポイントを使って改修工事の入札から施工、竣工の全行程を説明された。専門的な話もあって全部理解できたわけではなく、あくまで私なりに理解して印象に残ったことを述べよう。
旧居の核となった茶室が移建されたのが大正時代、建て増しされたのが戦後間もなくである。奈良市に寄贈されて無住となった期間も10年を超えていた。建物の朽ち具合はひどかったが、正確なところはわからない。しかも耐震基準などない時代の民家である。公開するとなれば、民家でありながら公共施設として現在の基準をクリアしなければならない。大半の業者が尻込みする中で、若き徳矢さんは勇敢にも困難な課題に挑戦したのであった。
現場に面した道路は狭く、敷地は広い割には傾斜地が多く、工事スペースを確保するのに苦労した。そのため、庭のケヤキやクスノキの大木を伐採した。改修した旧居への私の第一印象が邸宅とも見える意外な豪壮さであることは前述した。改修前の旧居を覆い隠していた庭の樹木が取り払われて、建物が露わになったということもこの印象の一因のようだ。
解体修理ではなく、建物は建ったままで補強するという方法だった。しかし、新築に等しいほどの補強が必要でしかも元の建物を生かさなければならず、その兼ね合いで手間と知恵が余計にかかっただろう。基礎は全面に鉄筋コンクリートが施され、その上に新たな土台が伏せられた。屋根は解体され腐朽した隅木、垂木は新調した。パネルや金具を用い、壁を新設して耐震構造を高めた。
面白かったのは、改修前と改修後の同一箇所が写真で比較して見せられたことだ。元の住まいの雰囲気をできるだけ忠実に残すといっても、朽ちかけた家とリフォーム後では見違えるほど内外美しくなっている。生前の入江泰吉を偲ぶためにも、Before&Afterのアルバムはぜひ旧居に備えて見学者の閲覧に供して欲しい。また工事の過程が詳しくわかるアルバムもあればいい。できれば、PDF化してホームページにUPしてもらえばいうことはない。
改修にかかった費用は6800万円。入江泰吉は滅び行く大和路の最後の輝きをこの上なき美しい作品に記録した。時間がたつほどに価値は増すだろう。旧居が保存され公開されたのは、入江を偲ぶまたとない手段を手にしたことだ。関係者の苦労と努力に感謝したい。庭にはもみじが多いという。客間のソファに座って四季それぞれの窓からの眺めを楽しみたいと思う。そして、あの神秘で深い森の借景がいつまでも変わらないことを祈ろう。 (2015/08/06記)
アトリエと書斎