080 旧山田寺仏頭の数奇な運命
興福寺国宝館には天平と鎌倉時代の仏像が綺羅星のごとく鎮座するが、なかでも人気があるのはともに国宝の阿修羅像と旧山田寺仏頭だろう。私も例に漏れず一目でこの2体には魅了された口である。二つに共通するのは、いわゆる仏像らしくないということだ。阿修羅像については言うまでもない。仏頭は如来像にはちがいないが、首から下の全体が失われ、まみえるのは頭部だけであるということで仏像としてのくびきを脱しているような感がある。
仏頭は685年という制作年のわかる丈六金銅仏として白鳳様式の基準を示す貴重な作である。直線的で長い鼻筋から伸びやかな弧を描く眉、杏仁型の切れ長の目、若々しく張りつめた丸顔の輪郭、引き締まった口元。美しく整って力強い造形には、仏像ファンでなくても心惹かれるだろう。
仏頭と対面するときかならず思い浮かぶのは、この仏像が秘める数奇な歴史のドラマである。
旧山田寺は桜井方面から明日香に入る玄関ともいうべき場所に位置する。蘇我家の傍流である蘇我倉山田石川麻呂が641年に氏寺として発願、寺の建設工事が始まった。石川麻呂は、645年の乙巳の変で中大兄皇子の側につき重要な役割を果たした。変のあとは右大臣の位につく。しかし、陰謀の疑いがかけられ、金堂が完成したばかりの山田寺で自害し一族郎党もそのあとをおう。中大兄がしかけた謀略の匂いがつよい。
鸕野讚良(うののさらら)皇后(のちの持統天皇)は、石川麻呂の孫娘であり、天智天皇の娘である。天武天皇の世となり、中断していた山田寺の工事が再開される。丈六金銅仏が開眼したのが685年、その年に天皇は寺へ行幸している。その影には、冤罪で果てた祖父の無念をひきついだ皇后の強い思いがあったのだろう。
旧山田寺跡は特別史跡となり、境内からは瓦や塑像、回廊の建材が多量に出土した。明日香資料館には特別展示コーナーがあり、寺のかつての壮麗さを偲ぶことができる。1023年に山田寺を参拝した藤原道長は「堂中は奇偉荘厳を以て言語云うを默し心眼及ばず」と感嘆した記録が残る。
1180年、平重衡の南都焼き打ちによって興福寺は全山焼亡する。東金堂は5年後には再建されたが、本尊の新鋳は難航し、業を煮やした東金堂衆は山田寺に押しかけ仏像を奪うという挙にでる。こうして山田寺講堂にあった丈六薬師三尊像は興福寺東金堂の本尊になったのである。(近年、山田寺金堂像であったという異説が発表されたらしい。)
しかし、1411年の火災で脇侍像は運び出されたものの薬師像は被災、頭部のみとなった。そして、新鋳された薬師如来像の台座に納められ、いつの間にかそのことも忘れられてしまった。仏頭がふたたび世に現れたのは、1937年(昭和12年)東金堂の修理の際であった。
このような波瀾万丈のドラマを知ると、はちきれんばかりの若々しいお顔に秘めた底知れない闇に思いいたすことになる。日本経済新聞の中沢義則編集委員の言葉は、仏頭の印象を余すことなく伝えるように思う。
私は仏頭の眼差しに哀しみと慈しみを見る。遠くを見ているような視線は自らの数奇な運命を振り返って、深い悲哀を宿しているかのようだ。だが、波乱の運命を静かに受け入れ、慈愛の心を失わずに毅然とたたずんでいる。高貴な仏頭は、そういう強さを秘めている。
仏頭の印象はもちろん全体から伝わるものであるが、とくに強い眼差しが拝観者をしてとりこにする。切れ長の上下の瞼は明瞭な線で縁取られてすがすがしく、強固な意志を感じる。その視線は遠くに投げかけられている。仏像の視線は拝観者を見つめるようにやや下向きであることが多い。だが仏頭の前に立てば、その視線は対面者の背後の彼方を指すように感じる。
写真で見れば、仏頭の視線は水平である。そのようにセットされたということだ。これが普通の仏像とは異なる「遠くを見ている」ような眼差しを与えた。拝観する位置によっては見上げているように見えることもあって、さらに「遠くを見ている」印象を強くする。仏頭のある意味で仏像らしくない新鮮な印象は、この彼方への眼差しから来ている要素が大きいと思う。 (2015/09/03記)
写真は「仏頭タイムス」から転載
●参考 奈良歴史漫歩No3「底なしの闇を見据える旧山田寺仏頭」