104 万葉挽歌の大和――堀辰雄著『大和路・信濃路』
堀辰雄が月刊誌『婦人公論』に「大和路・信濃路」を連載したのは1943(昭和18)年であった。戦後、新潮文庫と角川文庫に『大和路・信濃路』のタイトルで他の文章も加えて刊行された。両者は編集が異なり収載された文章や配置に異同がある。大和路を直接題材にした文章は「十月」、「古墳」、「浄瑠璃寺の春」、「『死者の書』」であり、両文庫に収められた。文庫には入っていないが、「黒髪山」も大和を題材にしているため、都合これらの5編をもって堀辰雄の『大和路』として取り上げ感想を述べたい。なお現在『大和路・信濃路』は新潮文庫で入手できる。
6回の大和旅行
堀辰雄は1904(明治37)年に東京に生まれた。東京帝大文学部国文科卒。旧制第一高等学校の在学中から室生犀星と芥川龍之介の知遇を得て文学を志す。『聖家族』、『美しい村』、『風立ちぬ』、『菜穂子』等、フランス文学の影響が濃い作品がある一方、日本の王朝文学に題材をとった『かげろふの日記』、『曠(あら)野』等がある。病身を養うため軽井沢に住まいし信濃の風土が作品ににじみでる。1953(昭和28)年死去、享年49歳。堀辰雄全集10巻(角川書店)がある。
堀がはじめて奈良を訪ねたのは1937(昭和12)年で、このときは京都旅行も兼ねていた。2度目は、2年後に友人の作家、神西清と一緒に旅行している。このときの体験が「黒髪山」を生んだ。次は1941(昭和41)年10月、月刊誌『改造』の求めに応じ、古代小説を書く目的で一人奈良を見て回り、半月ばかり奈良ホテルに宿泊した。この間、多恵子夫人宛てにつづった手紙をもとに「十月」が著された。同年、12月には3日ばかり滞在し、山辺の道、巻向、山城恭仁京、橿原、明日香をめぐっている。J兄こと神西清に書簡を認める形で2年前の旅行を思いだしながら今回の体験を記したのが「古墳」である。1943(昭和18)年の春に多恵子夫人とともに浄瑠璃寺を訪ねた記録が「浄瑠璃寺の春」になる。同年初夏の桜井聖林寺を単独で訪ねたのが最後の大和行となった。「『死者の書』」は折口信夫の同名の書を会話体で論じたもので、一連の大和路シリーズの最後に書かれた。
阿修羅像の眼ざし
『大和路』は、『古寺巡礼』と『大和古寺風物詩』の二書と比べ内容と文章においてかなり異なる。まず仏像や寺院があまり取り上げられないし、登場しても他書と視点が異なる。著者は奈良の各地を訪ねてまわるが、寺と同じように沿道や村落の風景を愛おしみつつ心を遊ばせる。万葉集の挽歌の舞台である山や飛鳥にも足を伸ばしたり、古墳の石室をのぞいたりして、古代人の心を追体験する。行く先々の馬酔木の花を見比べる。奈良の風土そのものを身体で味わっているような紀行である。文章は、他の二書が思弁的な性格を持つのにたいし、本書は直接の経験から離れず具体的な描写を重ねていく小説家らしい文章である。
著者が取り上げた仏像は、興福寺阿修羅像、秋篠寺の伎芸天女像、三月堂月光菩薩像、戒壇院広目天像、法隆寺百済観音像などであり、いずれも仏像に人間性を見いだして親しみを覚えるというもので、他の二書が仏像に超越的な神性を見るのとは方向性が逆である。たとえば阿修羅像については次のように語られる。
「ちょうど若い樹木が枝を拡げるような自然さで、六本の腕を一ぱいに拡げながら、何処か遥かなところを、何かをこらえているような表情で、一心になって見入っている阿修羅王の前に立ち止まっていた。なんというういういしい、しかも切ない目ざしだろう。こういう目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示しているのだろう。
それが何かわれわれ人間の奥ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させていると、自分のうちにおのずから故しれぬ郷愁のようなものが生れてくる、――何かそういったノスタルジックなものさえ身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない気もちになって、やっとのことで、その彫像をうしろにした。」(新潮文庫『大和路・信濃路』101頁)
堀が仏像について一番熱心に語ったのはこの部分である。おそらくこの感想はおおかたの同意を得ると思う。阿修羅像を人間性のレベルから共感する先駆けではないだろうか。
唐招提寺金堂は、『古寺巡礼』『大和古寺風物詩』『大和路』の三者三様、詳細に述べられてそれぞれの特徴が出る。和辻は金堂の屋根や柱、軒の組物などのバランスを詳しく論じてその美しさの理由を明かそうとする。ギリシャ、ローマ、ゴシック建築との比較、周囲の松林との調和まで挙げる。亀井は、金堂、講堂、舎利殿、鼓楼の伽藍配置の美しさに言及する。さらに金堂の柱について想像をめぐらす。旅人がもたれて休息し、男女が隠れて逢い引きし、子供たちがかくれんぼするにふさわしい円柱に人間くさい親しみを覚える。堀もまた彼らしい方法で金堂にかかわる。
夕暮れの迫る金堂に来た堀は、吹き放しの円柱のかげを歩きまわる。扉にあるかなきかの仄かさで浮かび出る花紋に気づく。そして、「円柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の真んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味わおうとした。僕はそのときふとその手を休めて、じっと一つところにそれを押しつけた。僕は異様に心が躍った。そうやってみていると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部に滲み込こんだ日の光の温かみがまだ消えやらずに残っているらしい。
僕はそれから顔をその柱にすれすれにして、それを嗅かいでみた。日なたの匂いまでもそこには幽かすかに残っていた。……」(同110頁)
堀は、金堂の扉に発見したかすかな古代の花文と夕暮れの柱に残った日の温み・匂いをもって唐招提寺について書き表した。なんとも印象深い場面である。
万葉挽歌への関心
堀はそもそもなぜ奈良・大和に関心を抱いたのだろう。彼は折口信夫の講義を聴講しており、折口の『古代研究』の愛読者である。『死者の書』に感激して二上山を訪ねている。彼の関心は古代人の他界観にあった。万葉集の挽歌に強く惹かれることを述べる。それは、「一切のよき文学の底にはレクエイム的な要素がある」と信じた彼の文学観からきている。万葉挽歌への関心が堀を大和へと導いたのである。
昭和14年に奈良を旅行したとき、はじめは古寺をめぐったが、万葉集とは結びつかなかった。そこで古寺めぐりをやめ、「ただぼんやりとそこいらの村を歩いて暮らすことにした」。
「私は卷向山や二上山などの草深い麓をひとりでぶらぶらしながら、信州の山々を見馴れてゐる自分のやうな者にも、それ等の山そのものとしては何らの變哲もなく見える小さな山々に對して一種異樣な愛情の湧いてくるのを感じ出してゐた。いまから千年以上も前、それらの山々に愛する者を葬つた萬葉の人々が、そのとき以來それまで只ぼんやりと見過ごしてゐたその山々を急に毎日のやうに見ては歎き悲しみ、その悲歎の裡からいかにその山が他の山と異り、限りないそれ自身の美しさをもつてゐることを見出して行つたであらう事などを考へてゐると、現在の自分までが何かさういふ彼等の死者を守つてゐる悲しみを分かちながらいつかそれらの山々を眺め出してゐるのだつた。さういふこちらの氣のせゐか、大和の山々は、どんなに小さい山々にも、その奧深いところに何か哀歌的なものを潛めてゐる。」(「黒髪山」)
「人麻呂歌集」に黒髪山という地名があることから、著者は奈良坂から黒髪山を抜けて歌姫へ出ることを試みる。しかし山へ入ると小道が多くて迷ってしまう。5月の若葉が茂る明るい山中をさ迷いながら、自分が山に葬られた万葉の死者のように感じられてくる。それは心細さと同時になにか楽しい体験であった。
大和の地に万葉人の心情を追体験するのは、「古墳」のなかでもみられる。人麻呂が挽歌をおくった妻は「軽の村」に住まっていた。著者は飛鳥に近い軽を訪ねて、現地の風景に人麻呂とその妻が往来していた情景を浮かべる。
「今もまだその軽の村らしいものが残っております。その名を留めている現在の村は、藪の多い、見るかげもなく小さな古びた部落になり果てていますが、それだけに一種のいい味があって、そこへいま往ってみても決して裏切られるようなことはありません。
低い山がいくつも村の背後にあります。そういう低い山が急に村の近くで途切れてから、それがもう一ぺんあちこちで小丘になったり、森になったり、藪になったりしているような工合の村です。そういう村の地形を考えに入れながら、もう一ぺんさっきの歌を味わってみると、一層そのニュアンスが分かって来るような気がします。」(『大和路・信濃路』141頁)
書かれなかった古代小説
「十月」のなかで、著者は斑鳩の里を歩きながら古代小説を構想する。「日本に仏教が渡来してきて、その新しい宗教に次第に追いやられながら、遠い田舎のほうへと流浪の旅をつづけ出す、古代の小さな神々の佗しいうしろ姿を一つの物語にして描いてみたい。それらの流謫の神々にいたく同情し、彼等をなつかしみながらも、新しい信仰に目ざめてゆく若い貴族をひとり見つけてきて、それをその小説の主人公にするのだ。」(同128頁)。「古代の小さな神々」「流謫の神々」とは、万葉集に現れた信仰であろう。堀は大和の山野を彷徨しつつその雰囲気に染まりながら、小説のインスピレーションをつかもうとした。しかその小説は書かれなかった。1944年から堀は病床に伏すことが多くなった。戦後はほとんど執筆活動ができなかった。
信濃は堀のふるさとであった。そして大和が第二のふるさとになることを望んだ。「いつの日にか大和を大和ともおもわずに、ただ何んとなくいい小さな古国にだとおもう位の云い知れぬなつかしさで一ぱいになりながら、歩けるようになりたい」(同163頁)と願ったのであるが、それも叶わなかった。
本書の旅行が行われ執筆されたのは、ほぼ太平洋戦争の最中である。しかし戦争の影はみじんもなく、そのことに驚く。著者の強靱な精神を見るような気がする。