089 元興寺極楽坊の智光曼荼羅 (元興寺②)

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 2月3日、元興寺極楽坊の節分会、柴燈大護摩供(さいとうおおごまく)を行じる境内は大勢の拝観者、見学者で埋まっていた。風の向きが変わると真っ白な煙が押し寄せる。思わず背をひるがえし伏せて目をつぶる。風の方向は直ぐに変わり喚声があがる。そんなことを繰り返して、護摩木の杉の葉からもうもうと湧く煙は、周りを囲む群衆を満遍なくいぶしていく。煙たさにもしだいに慣れていき、生木の焼かれる匂いのみずみずしさで身体が満たされていく。護摩を焚く熱気と興奮が入り混じって寒さも忘れている。注連縄を巡らした結界の中では頭襟、結袈裟姿の山伏が立ち働く。町中では滅多に見られない屋外の大護摩焚きは、怪しい炎が原始の感覚を呼び起こしてくれるようだ。この後、煙がくすぶる護摩木の上を裸足で歩き渡る「火渡りの行」があり、一般の者もそれぞれの願いを胸に参加できる。節分会はさらに豆まきと続く。

 元興寺と言えば、私はこの節分会がすぐに浮かび、数ある行事の中でも一番惹かれる。やはり春を待ち焦がれる気持ちにぴったり応えてくれるからか。夏は8月23日の地蔵会もよく知られる。境内の塔婆がおびただしい灯明に浮かぶ万灯供養は奈良町の風物詩として人気が高い。

 飛鳥の法興寺の法統を引き継ぐ元興寺世界文化遺産であり、南都七大寺として威勢を誇った歴史を持つ。そのような格式や由緒がある一方、町にとけこんだ庶民的な雰囲気をまとう。誰もが気軽に参加できる節分会や地蔵会はまさに現代の元興寺を象徴するものだろう。どちらも戦後になって創始された行事である。しかし元興寺の長い歴史を見ると、これもまた甦った伝統のように思えてくる。

 

 古代の元興寺の伽藍については「奈良町に刻まれた元興寺の記憶」で詳述した。現在、寺の歴史は世界遺産元興寺(極楽坊)と塔跡の残る元興寺(観音堂)と小塔院がそれぞれ独立して引き継ぐ。この三寺院が残ったのは理由がある。今回は、元興寺(極楽坊)に絞ってその起伏激しい歴史をひもときたい。

 元興寺(極楽坊)のある場所は東室僧房の南階大房があった。この一室に奈良時代の学僧、智光が住んだという。智光については、9世紀始めに成立した『日本霊異記』に次のような説話がある。行基が菩薩と崇められ大僧正の位にまで上ったことを嫉妬した智光は、「我には学問はあるが、行基は無学である」と批判する。病で没した彼は灼熱地獄に堕ちる。苦しみを味わうこと9日間、行基を誹謗したため地獄に落とされたと教えられ、この世に戻される。智光は悔いて行基のもとに赴き前非を詫びると、行基は笑って迎えた。行基の偉大さを讃えるために、智光が不名誉な狂言回しになったような話である。彼は南都六宗のひとつである三論宗の高名な学僧であり、さらに浄土教にも造詣が深かった。万葉集巻六に「白玉は人に知らえず知らずともよし知らずとも我れし知れらば知らずともよし(1023)」という歌がある。前書きに「元興寺の僧が自ら嘆く歌」とあって、智光の心情を吐露したものではないかとの指摘がある。

 10世紀の末に成立した『日本往生極楽記』にも智光に関する説話が載る。智光と頼光は同室で修学していたが、ある時から頼光は喋らなくなりその理由も話さず入滅した。智光は頼光の行く先を知りたく祈り続けたところ、夢の中で頼光に会った。そこは極楽浄土であった。頼光は修行のできていない智光が来るところではないと言ったが、智光は泣いて極楽往生の道を問うた。仏の前に連れて行かれた智光は、仏から仏の相好と浄土の荘厳さを観想せよと教えられ、掌に浄土の相を示された。夢から覚めた智光は、画工にその浄土の相を描かせて観想し往生した。

 東室僧房南階大房の一室に浄土曼荼羅が安置されていたらしく、その由来が智光と結びつけて語られる。10世紀の後半から末法思想の普及と共に浄土教への関心が貴族層から庶民の間にまで広がる。人々は極楽往生することに救いを求めるようになり、元興寺の僧房にあった浄土曼荼羅が一躍脚光を浴びるようになったのである。この曼荼羅は智光曼荼羅と呼ばれて、當麻寺の当麻曼荼羅、旧超昇寺の青海曼荼羅とともに三大浄土曼荼羅として信仰を集めるようになる。

 律令体制の動揺とともに国家の保護を失った元興寺は、興福寺東大寺の僧侶が別当になりその支配下に入る。それと共に独自の宗教的資産を活かして存在意義を見いだしていく。中門に祀られた丈六観音菩薩立像を取りこんだのは東塔院で、観音信仰の高まりによって聖地となる。元興寺(観音堂)が残った理由であるが、観音菩薩像は五重の塔とともに安政6年(1859)の大火で焼失した。小塔院には吉祥天画像が祀られ信仰を集めたが、画像は今は伝わらない。

 智光曼荼羅が安置された僧房は極楽坊あるいは曼荼羅堂とも称され、百日念仏講が催行される。故人の極楽往生や自分の功徳のために100日間、念仏を唱えた。その記録が本堂内陣の柱に刻まれている。百日念仏のために財宝を寄進したことが施主名と年月日とともに記され、嘉応3年(1171)から天福元年(1233)までの6通が見える。文永2年(1265)のものがもう1通あるが、これには「七昼夜念仏」とある。

 百日念仏の施主には興福寺の僧が多く、多額の費用が掛かる。庶民も参加しやすいように七日念仏に短縮されたと考えられる。寛元2年(1244)に極楽堂は大改造されて今あるような本堂になった。念仏講への参加者が増えて大きな堂が必要になったのだろう。この頃から七日念仏が主流となる。

 智光曼荼羅は30cm四方の大きさであったという。しかし宝徳3年(1451)の火災で焼けてしまう。この原本をもとにした幾種もの智光曼荼羅が伝わる。2m四方の板地著色曼荼羅鎌倉時代初期に描かれ、本堂内陣須弥壇厨子の背面を荘厳していた。現在、板絵曼荼羅は重文の指定を受け収蔵庫に収められている。その図柄は「上段の中央および左右に回廊を連ねた三宇の楼閣があり、その前庭には阿弥陀三尊と十余体の諸聖衆が結跏趺坐している。(略)下段には、中央に二歌舞菩薩が舞う舞楽壇と左右に各二音声菩薩が奏する奏楽壇があり、それらをめぐる蓮池の上には、お互いを結ぶ橋が架かり、その上に左右各一人ずつの比丘形が坐している」(『古寺奈良巡礼6元興寺淡交社)。なお、比丘形は智光、頼光を表したのだろう。

 明応7年(1498)頃には、絹本著色板張りの曼荼羅(重文)が描かれ春日厨子に収められた。今は禅室の春日明神影向の間に安置される。室町時代に成立したという縦約2m、横約1.5mの絹本著色の曼荼羅は軸裝されて、仏事の際に内陣に吊されたという。元禄14年(1701)には住持の尊覚が縦約60cm、横約50cmの開版本の曼荼羅を製作し頒布した。

f:id:awonitan:20180226194750j:plain明応7年(1498)頃、描かれた絹本著色板張りの智光曼荼羅(重文)

参考 岩城隆利『元興寺の歴史』吉川弘文館 野口武彦・辻村泰範『古寺巡礼奈良 元興寺淡交社 太田博太郎他『大和古寺大観3巻』岩波書店 元興寺編『わかる!元興寺』ナカニシヤ出版 元興寺ホームページ