083 超弩級七重塔が聳えた東大寺東塔院

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北東から見る東塔基壇、27m四方、高さ1.7m以上。周囲には石が敷き詰められていた。2015/11/21の現地説明会

    東塔院南門と回廊

 東大寺東塔院跡の発掘調査現地説明会が10月7日に実施された。一昨年と昨年に続く3回目の説明会である。今回は、東塔院南門と南回廊、東門と西門が主な調査対象である。

 鎌倉時代に再建された南門の礎石抜き取り穴が検出され、桁行き柱間3間、梁行き柱間2間の八脚門であることが確認された。建物規模は桁行き43尺(約12.9m)、中央間15尺、脇間14尺、梁行き24尺(約7.2m)、12尺等間と推定される。これを同じく八脚門の手害門と比較すると、手害門が桁行き56尺であるから、少しは大きさがイメージできるだろう。南門の中央間(約4.5m)から南へ伸びる参道が両端にある石敷とともに特定された。

 回廊は複廊であることが確かめられた。梁行き20尺(約6m)、等間10尺で、中央の柱筋にはおそらく連子窓などのある壁が設けられ、内外ふたつの廊下があった。古代寺院中枢部の複廊は珍しくないが、塔院の複廊が発掘調査で明らかになったのは初めてだという。雨落ち溝が南門基壇の南東部と北東部と回廊に沿って見つかっている。鎌倉時代の瓦の破片が多量に見つかり、「東大寺」、「七」、「嘉禄三年作之」などの銘が刻まれたものもあった。焼け落ちた時の炭化した木材灰や変色した壁の欠片、かすがいや釘の錆びた金属片も出土した。

 礎石建物の門や回廊の基壇は石の外装が施されるのが普通であるが、今回の調査ではまったく見つかっていない。礎石が持ち去らされたのと同じように剥がされたのか。その場合も少しぐらいは残ると思うのだが、新たな謎であるというのが調査担当者の説明である。

 東門と西門も調査されたが、今回は試掘調査であった。東門基壇の遺存状況が良好なこと、西門基壇の瓦溜まりや石敷が確認された。塔基壇の西面の一部も調べられた。鎌倉時代の西面階段の盛り土、踏み石、延べ石とその抜き取り穴、奈良時代の版築、階段の盛り土、西面の石敷が確認されている。

 塔東院の規模についてはまだ確認されていない。だが、おおよそのことはわかる。現地説明会の資料に載った地図から測ると、最大幅で南北90m、東西75mほどになる。

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南門東北端と回廊の雨落溝、鎌倉時代の瓦片が堆積し土が黒ずんでいる。

   東塔の歴史

 東大寺東塔の歴史を振り返っておこう。東塔は764年(天平宝字8)頃に創建された七重の塔で西塔とともに高さ100mとも70mとも伝えられる。西塔は964年に雷火で焼失し再建されることはなかった。東塔もたびたび火災に見舞われ修理されている。1180年には平重衡の南都焼き打ちに遭い焼失したが、1227年に再建された。しかし、1362年に落雷のため焼亡し、三度の再建はかなわなかった。

 江戸時代初期の絵図「東大寺寺中寺外惣絵図并山林」は両塔院跡を描いている。礎石から判断するに西塔は5間四方、東塔は3間四方の塔であった。これは奈良時代創建の塔が5間であり、鎌倉時代に東塔が3間で再建されたことを表す。東塔院の南北東西門は桁行き3間、回廊は複廊の礎石配置となっていて、今回の調査で部分的に確認されたことになる。

   東塔基壇

 これまでの発掘調査で判明したことをまとめておこう。鎌倉時代再建の塔は、奈良時代創建の基壇の上と周囲に盛り土して建てられた。盛り土には焼け土や奈良時代の瓦の破片が混じり、平重衡の焼き打ちの痕跡を伝える。基壇の規模は約27m四方、高さは1.7m以上と推定される。心礎や礎石は明治時代に抜き取られていたが、抜き取り穴の配置から塔は3間四方、中央間の寸法は20尺(約6m)、両脇間18尺(約5.4m)合計56尺となる。礎石を置いた場所には、環状に石を置いて地盤を強固にしていた。

 基壇の東面、北面では、階段最下部の延べ石が残り、基壇中央に階段のつくこと、その外側に敷き詰められた石が確認された。北面の階段からは鎌倉時代再建期の参道が伸びていた。

 奈良時代の階段の外装が東面と南面で出土していて、その位置から鎌倉時代の階段よりも幅が広かったと想定される。これは塔の柱間数が二つの時代では異なっていて江戸時代の絵図にあったように西塔と同じ柱間5間の塔であったことを示唆する。奈良時代の基壇規模は24mに復元でき、これは西塔基壇の23.8mとほぼ一致する。

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東塔基壇東面の鎌倉時代の階段跡、延べ石と石敷が残る。
左上に縦長に白く見えるのは奈良時代の階段の羽目石

   東塔の復元

 塔の高さが100mか70mとふたつの数値がならぶのは、史料の『東大寺要録』には「高23丈8寸(約69.24m)」とあり、一方『朝野群載』は「33丈8尺7寸(約101.61m)」、『扶桑略記』は「33丈8寸(約99.24m)」とわかれるからである。大仏殿に安置された創建期東大寺伽藍の模型にある七重塔は建築史家の天沼俊一が高31丈余と想定して復元した。

 模型であっても群を抜く巨大さは感じられる。しかし、奈良文化財研究所の箱崎和久氏は復元七重塔を検討して現実には復元案は成立しないことを論証した。再建期東塔の初重総柱間寸法は56尺であり、これは手害門の桁行き寸法と同じである。ちなみに現存する五重の塔で一番高い東寺の塔は31.3尺、発掘調査で確認された一番大きな初重平面を持つ大安寺西塔は40尺だ。日本の仏塔は塔身幅に匹敵する深い軒の出を持つことに特長があり、七重塔復元案も25尺以上の軒の出が設定された。これには継ぎ手のない長大な垂木、隅木が必要になってくるが、実際に入手するのは難しいという。

 箱崎氏は元興寺小塔をモデルにして10倍しさらに二重を足す、そして軒の出を抑えるという方法で創建期の七重塔を復元している。これによれば高さは約70mとなる。しかし、高さ100mについての建築学的な検討はなく、100mが現実的な数値なのかということについては言及されていないから、70mか100mかという問題はいぜん残る。

 発掘調査はまだまだ続くらしい。七重塔の高さが判明する手がかりが見つかることを期待したい。(2017/10/12記)

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奈良時代創建期東大寺の模型、手前が東塔。

参考 奈良歴史漫歩No.60「東大寺西塔の復元」
箱崎和久「東大寺七重塔考」
東大寺東塔院跡発掘調査現地説明会資料