086 第1次平城宮に似た恭仁宮の中枢部

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 木津川市加茂町瓶原の地にあった恭仁宮は、昭和48年(1973)から毎年、発掘調査が実施され、その姿が少しずつ明らかになっている。今年の調査では、大極殿院と朝堂院の境界を確定する手がかりが得られた。12月9日にあった現地説明会の報告である。

  • これまでの調査成果

恭仁宮は、天平12年(740)から16年まで聖武天皇の宮が置かれた。この間、近江の甲賀郡紫香楽宮盧舎那仏の建立が始まり、天皇は恭仁宮に席を温めることもなく、宮廷は難波宮をふくむ三都を右往左往する事態となる。結局、天平17年(745)、平城京に還都して恭仁宮は放棄されることになった。平城宮から移築された大極殿山城国分寺の金堂に転用される。

 これまでに明らかになった恭仁宮を概観してみよう。

 宮は東西約560m、南北約750mの大きさで設計され、四周は築地塀で囲まれていた。ちなみに平城宮は東西約1250m、南北約1000mの規模である。

 宮の中央北寄りにある大極殿は高さ約1mの土壇の上に建ち、東西が約45m、南北が約20mを測る。礎石の一部は今に残り、北西と南西の隅の礎石は動いていないことが確認された。大極殿を囲む回廊は中央に築地を築き、その両側を通路にした複廊であった。奈良時代の正史『続日本紀』は、平城宮の第1次大極殿と回廊を恭仁宮へ移したことが記される。発掘調査からも平城宮と恭仁宮のそれらの柱跡の間隔は一致しており、移建は裏付けられた。

大極殿院の北側からは、内裏と見られる地区が二つ東西にわかれてあった。内裏東地区は、北側が掘っ立て柱塀、東西、南側が築地塀で囲まれ、東西約109m、南北約139mの大きさである。内裏西地区は、四周すべてが掘っ立て柱塀であり、東西約98m、南北約128mの大きさで、東地区とはそのスケールと造りにおいて少し格差がある。聖武天皇元明上皇の住まいであろうが、どちらに誰が住まわれたかはわからない。

 大極殿院の南に接続する朝堂院、朝集院はこれらを囲む掘っ立て柱塀の一部が確認されている。瓦が出ていないので、塀の屋根は板であったと推定される。役人が集合する朝集院は、東西約134m、南北約125mのスケールで、朝集院南門が見つかる。朝集堂に相当する建物はまだ見つかっていない。

役人が政務を執る朝堂院は、朝集院よりもやや東西幅が狭く約115mで、柱が一列に並ぶ「棟門」の朝堂院南門(三間=中央扉間約6m、東西脇間各約4.5m)と朝堂と推測される建物が一棟見つかっている。また重要な儀式に伴う宝幢(ほうどう)を2回立てた遺構が朝堂院南門のすぐ北側で見つかる。『続日本紀』の記載から天平13年と14年の元旦朝賀の際に立ったと見られる。

  • 平成29年度(第97次)の調査成果

 今年度の調査は大極殿院の南限を明らかにすることが目的だった。南限想定案は二つあり、1案は大極殿跡に隣接する恭仁小学校の正門付近、2案は1案よりも南に位置して大極殿院南面回廊跡の可能性がある遺構が出たラインである。

 三つの場所で調査が行われた。第1トレンチは2案の回廊跡を確認する狙いがあり、想定位置から遺構が検出されたが、埋め土が上層の中世の遺物包含層に似ることから、恭仁宮の遺構である可能性は低いと判断された。第2トレンチからは顕著な遺構は検出されなかった。

 第3トレンチでは、朝堂院の東面掘っ立て柱塀の柱穴が南北一列に6カ所検出された。一番北の柱穴よりさらに北にトレンチを延長して調べられたが、遺構は出てこなかった。そのためここが朝堂院の北限であり、大極殿院の南面回廊はここで接していた可能性が高くなった。回廊は礎石建物であるため、遺構が浅くて礎石が持ち去られると跡が残らないことが往々にしてある。しかし、有力な第3案が今回の調査で浮上した。今後、このラインで回廊跡が検出されれば、確定することになる。確定すると、朝堂院の南北規模は約103m、大極殿院は東西約145m、南北約215mとなる。

 恭仁小学校正門付近の南北高低差は、大極殿院にあった高低差を反映しているとすれば、平城宮第1次大極殿院にあった龍尾壇が恭仁宮にも設けられていたと推定できる。

 恭仁宮の中枢部は、第1次平城宮の中枢部を小規模にしながら構造的に似た形で造営されていたことがわかる。

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恭仁宮跡全体図およびトレンチ配置図(現説資料)

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大極殿院の復元3案と第97次調査の3つのトレンチ配置図(現説資料)

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恭仁宮大極殿院(第3案)と平城宮大極殿院(第一・二次)の比較(現説資料)

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第3トレンチを南から見る。トレンチ北端あたりに朝堂院と大極殿院の境界があったのか?

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恭仁小学校正門付近の段差、龍尾壇の跡か?

参考 恭仁宮跡の発掘調査