099 日本の元号②中世・近世篇

    一元の使用期間が短くなる鎌倉時代

 元号は権力の正統性を保証するシンボルとなります。源頼朝は、平家が擁立した安徳天皇元号〈養和〉(1181)と〈寿永〉(1182)を認めず、〈治承〉(1177)を使い続けました。平家が西国に都落ち後鳥羽天皇が即位されると寿永を使うようになります。平家が関わった元号を拒否することで平家の統治の正統性を否定するわけです。

 平安後期の院政の時代から改元は急激に増えていて、鎌倉時代はもっとも頻繁に改元された時期です。平均すれば、一号あたりの使用期間は3年余りです。一番使用期間が短かったのは〈暦仁〉(1238)です。わずか74日です。これは「人が略される、つまり消えてしまう」という不吉な意味があるからということで変更されました。貴族の日記には「改元すでに年中行事の如し」という記述もあります。律令制は崩壊し新興の勢力が力をつけていく中で、相次ぐ天災や人災に有効に対処できない朝廷や貴族のあせりが改元という一種の呪術に向かったのでしょうか。

 まだ朝廷は力と権威を保持していたのですが、権力の中心は幕府に移りました。幕府は元号の発議や元号案に不快感を表明することはありましたが、室町幕府江戸幕府に比べると関与の度合いは少ないということです。

 「百人一首」も編み、新古今集を代表する歌人藤原定家が日記に面白いことを書き留めています。「年号改むといえど乱世を改めざれば何の益かあらん」「漢字を書かざる嬰児、この座(陣定〉に交わる」「議定の間、只興じて雑言を言ふこと猿楽の如し」。さすが大教養人の定家です。辛辣です。

    二つの元号が並立した南北朝

 南北朝時代に入ると南朝北朝で二つの元号が並び建ちます。古文書や遺物に残った元号を見てどちらの味方かわかります。〈建武〉(1334)は後醍醐天皇が決めました。王莽の乱を平定し後漢を開いた光武帝が建てた元号です。中国は王朝が変わるので同一元号がいくつもありますが、建武は5回使用されました。日本で「武」の字が入る唯一の元号です。北朝の〈至徳〉(1384)、〈嘉慶〉(1387)、〈明徳〉(1390)は、足利義満が決めたということです。

    兵乱を理由にした改元が増える室町時代

 室町時代は、幕府が改元の申し入れ、日時の確定、年号の選定などに介入しました。

〈応永〉(1394)は35年続いて、日本で3番目に使用期間の長い元号です。義満が求めた年号と異なったので、それを不服として以降の改元を行わせなかったという説があります。

 ひとつの元号の使用が長くなると、適当な時期に改元していくという意識があったようです。13年経ったので厄年にあたるから改元したというケースもあります。陰陽道の理屈をもとに、改元理由は何とでもつけられたようです。災異改元の理由は、兵革が圧倒的に多いのも室町時代の特長です。

    改元を理由に追放された将軍義昭

 戦国時代は朝廷が一番貧窮した時期です。財源がないので即位式大嘗祭もできないことがありました。貴族も京都を離れて地方に居場所を求め、改元に必要な人員が揃わない事態となりました。改元費用は幕府や大名が負担します。この頃に割合長く続く元号が出てくるのはこのような事情があります。

 改元をめぐって足利義昭織田信長の反目と確執がありました。〈元亀〉(1570)は信長に擁立されて将軍に就いた義昭が改元させました。そのあとすぐに改元の話が出るのですが、義昭が反対します。信長は義昭を追放しますが、その理由の一つに改元の費用を出さず改元させなかったことが挙げられています。この後すぐに〈天正〉(1573)と改元されました。

 東国で多くの私年号が出現するのが戦国の特長です。「福徳」「弥勒」「永喜」「命禄」などです。国人侍や僧侶らがつけたようで「福」「禄」「寿」などの文字が使用され、弥勒信仰や福禄信仰がうかがわれます。長くても1,2年ぐらいしか使われず、懸仏、仏像、写経の奥書に出てきます。

    改元の主導権を握った幕府

 〈元和〉 (1615) 大坂夏の陣直後に改元されました。秀吉が決めた〈慶長〉(1596)関ヶ原合戦の後も使用されたのです。右大臣秀頼の関与を嫌ったためでしょうか。元号をめぐって統治の正統性を争う様子がこういうところからも見えてきます。

 江戸時代は、幕府が改元に大きく関わりました。「禁中並公家中諸法度」(1615)の第八条に「改元は漢朝年号の内吉例を以て相定むべし、重ねて習礼相熟すにおいては本朝先期の作法たるべき事」という項目があります。これは大坂夏の陣直後に改元された〈元和〉が、唐の憲宗の元和を転用したことを正当化したと思われます。

 朝廷と幕府双方が改元を発議し、年号案と改元日の選定は事前に幕府の了解が必要でした。将軍の前で老中が検討し、幕府儒官の林家が専門的な知識を提供するという形で関与しました。改元詔書には記入されないのですが、将軍の代始改元とされるものがあります。〈寛永〉(1624家光)、〈承応〉(1652家綱)、〈享保〉(1716吉宗)などです。

 改元江戸城で大名に披露し領国に伝達されました。城下の触れをもって領民に告知され、一般民衆が元号を知るようになりました。元号と一般民衆との距離が近づいた時代です。

 改元費用は幕府が負担しました。〈元和〉は150石、後期は200400石ほどかかりました。災異改元の理由は火災が多くを占めます。京の内裏の火災や江戸の大火です。災異改元が前の時代よりも減っているので、1元号の使用期間も平均約7.3年と伸びています。

 狂歌元号に対する庶民の反応が見られます。「年号は安く永くとかはれども諸色高くて今に明和九(迷惑)」 「天保十六でなし是からどうか弘化(こうか)よかろう」 「世の中が安き政りと成ならば嘉永そう(可哀想)なる人がたすかる」

これは元号が普及したという証拠でもありますが、冷ややかな視線も感じます。

    「一世一元」論の登場

 江戸時代も中期になってくると、災異改元や革年改元への批判が出てきます。山崎闇斎元号選定の詮索が閑論議だとあげつらい、新井白石元号によって良い悪いが生じるはずもないと批判しています。やはり近代に通じる合理的な考え方が登場し始めたということでしょうか。

 中でも一代の天皇元号は一つにするという明治以後のあり方に結びつく明確な主張をしたのが、大坂の懐徳堂学主・中井竹山と水戸彰考館・藤田幽谷です。

 中井竹山は「改元ありてさして吉もなく、改元なくてさして凶もなし。・・・明清の法に従ひ一代一号と定めたき御事なり」と天明8年(1788)に述べています。さらに元号を以て天皇追号にする、記憶しやすいという長所も挙げています。

 藤田幽谷は「建元論」で、祥瑞、災異、革年改元は妄想であり、一代一号こそが理想であると主張します。18世紀末のほぼ同時期に似た主張が出たのですが、こういう考えが知識人の間にだんだん広がり、明治を迎えます。

 日本の元号①古代篇

 日本の元号③近代篇

参考 所功元号 年号からよみとく日本史』文藝春秋2018 所功『年号の歴史』雄山閣1988 所功『日本の年号』雄山閣1977 山本博文元号 全247総覧』悟空出版2017 鈴木洋仁『「元号」と戦後日本』青土社2017 藤井青銅元号って何だ?』小学館2019 中牧弘充『世界をよみとく「暦」の不思議』イースト・プレス2019