098 日本の元号①古代篇

    元号の起源と伝播

 元号はもともと年号と言いました。元号という言葉は比較的最近に使われるようになり、「元」は始まりという意味で「号」は名前を意味します。元号は、年の数え方(紀年法)として始まりと終わりがあります。西暦はキリスト生誕の年(実は生誕はBC4年)を起点にそれを紀元とし、その前後が無限にカウントされます。始まりと終わりは強いて言えば宇宙の誕生と消滅になるでしょうか。こういうシステムは他にもイスラム暦であるヒジュラ(聖遷=マホメットがメッカからメジナへ移住した西暦622年が紀元)歴、仏歴(紀元BC544)や神武紀元(紀元BC660)などあります。他に十干十二支のような60年を単位に繰り返されるシステムがあります。

 最初の元号は、中国の前漢武帝が紀元前140年に建てた〈建元〉です。それまでは皇帝の名前で即位元年から何年という数え方をしていたようです。武帝は5O数年の統治の間に11回も改元して、はじめは1元、2元、3元、4元と呼んでいました。だが数字ではなく祥瑞、すなわち天が徳政をめでて示した事象をもって呼ぶべきであると部下から進言され、漢字二字の年号を建てるようになりました。天子は空間のみならず時間も支配するという思想が根本にあります。

 約2000年の間、正統とされる王朝で354の元号が建ちました。もっとも広大な国ですから正統ではない王朝も入れると500以上の元号があるようです。1号あたりの使用期間は数年です。明、清朝で皇帝一代につき一つの元号、つまり一世一元になります。辛亥革命1911)で清朝が倒れ、元号は廃止になりました。最後の元号は〈宣統〉です。清朝の最後の皇帝が宣統帝であり、のちに満州国皇帝になった愛新覚羅溥儀です。

 元号は中国の周辺国にも漢字とともに伝わります。冊封体制下の国は中国の元号を用いて使節を送り貿易しました。独自の年号を建てることは中国からの相対的な独立を意味します。ベトナムにあった王朝は1000年にわたって独自の元号を建てました。新羅高句麗百済も独自の年号を建てた記録が残っています。しかし新羅が唐に使節を送ったとき独自の元号を用いていることを叱責されることがあり、それからはずっと朝鮮は中国の年号を使い続けます。

 元号君主制の廃止とともに使用されなくなります。現在、元号を使い続けるのは日本だけとなりました。

    〈大化〉は偽造の元号

 日本も中国の文明を取り入れて元号を建てます。最初の元号は645年の〈大化〉というのが通説です。中大兄皇子藤原鎌足が組んで蘇我本宗家を滅ぼした乙巳の変のあと孝徳天皇が即位します。即位して元号を建てるということで、代始(だいはじめ)改元と呼ばれます。大化とは広大な徳化という意味で、「大化の改新」という用語もこれからきています。しかし「大化」は奈良時代に編まれた『日本書紀』が偽造したという説が今は有力です。

 6年後に〈白雉〉と改元されます。長門の国から「白い雉」が献上されました。これはおめでたいということで改元されました。こういう改元を「祥瑞改元」といいます。儒教の思想で「天人相関説」があり、皇帝の徳が高く善政を行うとき天は祥瑞を下し、そうでなければ災いをもたらすというものです。朝廷の進める色々な改革がうまくいっているというアピールだったのでしょうか。

 元号は、次の斉明天皇天智天皇弘文天皇のときは建ちませんでした。天武天皇の686年に赤い鳥が見つかったことにちなんで〈朱鳥〉という元号が建ちます。これも祥瑞改元になるのですが、天武天皇はこのあとすぐに崩御します。だから、実際の動機は天皇の病気平癒を願ったものではないかという説があります。

 これらは7世紀の出来事ですが、元号はあまり使われた形跡はありません。この時代の木簡や金石文は、年を表記するのに干支を使っています。

 奈良時代の詔に「白鳳以来、朱雀以前」という言葉が出てきます。雉よりも鳳の方がめでたさのグレードが高いので使われたのでしょうか。〈白雉」と〈朱鳥」の元号は建ったが使用されなかった証拠になります。学術用語の白鳳文化、白鳳美術というのはこれから採用されています。

    律令による元号の制度化

 701年に〈大宝〉という元号が建ちます。対馬より金が出土し献上されたことを祝う祥瑞改元です。もっとも金出土というのはフェイクだったのですが。この年に大宝律令を制定し、そこに「凡そ公文に年を記すべくんば皆年号を用いよ」という条項が入ります。律令という当時の法律に年号が根拠づけられ、役所の文書はもちろん民間でも年号が使用されるようになります。

 8世紀の元号の特長は祥瑞改元が多いのが特徴です。瑞雲〈景雲、神護景雲、天応〉や銅〈和銅〉、金〈天平感宝〉、白亀〈霊亀神亀宝亀〉、霊泉〈養老〉といった祥瑞の出現をきっかけにしています。それが元号の名前に反映しています。亀の背中に天平という文字があったから〈天平〉、蚕がおめでたい文字を描いたから〈天平宝字〉というような手の込んだ祥瑞もあります。代始改元と祥瑞改元がセットになるのも恒例です。

 ちなみに祥瑞を伴う改元は7,,9世紀に19回行われました。祥瑞で一番登場するのが亀で6回あります。次は鳥、鉱物、霊泉、雲がそれぞれ3回、白鹿、連理木が2回、蚕が1回です。中国では四霊と呼ばれる4つの動物がありました。龍と鳳と麒麟と亀です。もっともよく元号に使われたのが龍、次が鳳、そして麒麟、亀はわずか1回です。日本では亀だけが登場するので、こんなところに両国の違いがあります。

 また4文字元号がこの時代だけに5つ続いたというのも目立ちます。これは同時代の唐の則天武后が皇帝となったとき4文字年号が使われたことの模倣です。孝謙天皇称徳天皇の時期ですから、女性であることを彼の地のケースを真似て正当化する意識があったのかなと想像します。

    元号決定のプロセス

 元号はどのように決められたかという具体的な手順は、平安時代中期以後の記録が残っています。

 ①天皇の勅を受けて大臣が文章(もんじょう)博士や式部大輔に年号案の勘申(かんじん)を命じる。文章博士は大学寮に属する学者で史書や詩文の専門家です。式部大輔は儀式を担当する官庁の次官で漢籍に通じています。 ②勘申者は漢籍から好字を選んで「年号勘申文」を提出する。選んだ元号とその出典を書いたものが「年号勘申文」で、元号を考案する人が勘申者です。 ③原案は「陣定(じんさだめ)」と呼ばれる公卿の会議にかけられ、一つずつ難陳(なんちん)を行い2,3案に絞る。蔵人を通してそれを奏上する。難陳というのは、短所と長所を議論しあうということです。 ④天皇は一つに絞るように命じられます。 ⑤公卿は議事を再開し一案に絞り奏上します。 ⑥天皇はそれを承認し、勅書を作ることを命じられます。

 天皇が意見を述べられることもあります。時代によって実権を持つ者の意向がこれに加わるのですが、形式としてこの手順は江戸幕末まで変わりませんでした。元号天皇がお決めになる、すなわち勅定されるという原則は昭和の改元まで続きます。

 大化から令和まで日本の公元号は248元号北朝含む)あります。この間天皇は91代+北朝5代。1年号あたりの使用期間は5年余り。一代あたりの改元回数は2.6回です。
 
改元回数が多いトップは、後花園天皇が36年で(在位14281464)8回改元しました。孝明天皇は21年間で(在位18461866)6回改元しています。

 文字は中国の古典から採用されました。『書経』『易経』『文選』『後漢書』『漢書』がベスト5です。儒教の経典と歴史書に集中しています。

 使用された漢字73字。多い順に永29、元27、天27、治21、応20、正19、長19、文19、安17、延16、暦16となります。

 判明している考案者は、藤原姓80名、大江姓17名、菅原姓121名。室町時代以降は菅原氏の系統に独占されます。

    革年改元と災異改元の恒例化

 平安時代の初期は一世一元のケースが続きます。明治からはそうなっていますが、それ以前では珍しいことです。桓武天皇平城天皇嵯峨天皇淳和天皇清和天皇陽成天皇、 光孝天皇宇多天皇です。

 代始改元ではいつ改元を行うかが重要な問題になります。今は天皇の即位とほぼ同時に改元されているのですが、これも長い元号の歴史では例外です。平城天皇は即位と同日に〈大同〉(806)に改元されたのですが、このとき批判がありました。「一年のうちに元号が二つあると二人の天皇に仕えなければならないので混乱する。孝子の情に反することである」。これ以後、即位の翌年に改元する瑜年(ゆねん)改元というルールができました。中国では瑜年改元なのでその慣習に従ったと思われます。

 平安時代に入って出現したのが革年改元です。干支の辛酉と甲子にあたる年は様々な事件が起き政治が乱れるという讖緯説に基づきます。中国で生まれた思想ですが、人心を惑わす考えだということでこの説を説いた緯書は禁書になりました。この説を持ち出して改元するべきだと主張したのが、文章博士三善清行です。最初の革年改元は901年の醍醐天皇の治世の〈延喜〉です。901年というのは菅原道真太宰府に左遷された年です。陰謀の主役は左大臣藤原時平ですが、三善清行も加担して辛酉革命説をそれに利用したことがわかっています。清行の勘申文が残っています。過去の辛酉の年にはこんな事件があったという事例を並べているのですが、かなり捏造されているとのことです。甲子の年にも変事がある(甲子革令)との説から改元されました。両者は革年改元と称され恒例化して江戸幕末まで30回繰り返されました。

 京では道真左遷に関係した者に不幸が続き、道真の祟りだとして恐れられます。醍醐天皇の治世に日照りと水害、疫病を理由に最初の災異改元〈延長〉(923)がありました。

 10世紀は日本の改元の歴史の中で画期となった時期です。祥瑞改元が消え、革年改元が恒例化し災異改元が爆発的に増えます。疫病、風水害、火災、厄年、旱魃地震、兵革、彗星出現、飢餓などを理由とします。平安と鎌倉時代は疫病が一番多くて、理由となった回数は大体ここに並べた順番です。

 道真の進言で894年に遣唐使派遣が中止され、10世紀以降に国風文化が育っていくというのが定説です。元号もこの時期から「国風」化が進むのでしょうか。

 元号の決定権は、天皇が幼ければ摂政、そして実力のあった関白、上皇法皇へ移っていきます。

 日本の元号②中世・近世篇

 日本の元号③近代篇

参考 所功元号 年号からよみとく日本史』文藝春秋2018 所功『年号の歴史』雄山閣1988 所功『日本の年号』雄山閣1977 山本博文元号 全247総覧』悟空出版2017 鈴木洋仁『「元号」と戦後日本』青土社2017 藤井青銅元号って何だ?』小学館2019 中牧弘充『世界をよみとく「暦」の不思議』イースト・プレス2019