100 日本の元号③近代篇

    一世一元の法制化

 〈明治〉の元号は慶応4年(1968)9月8日に公布されました。改元詔書には「・・・慶応四年を改めて明治元年と為す。今より以後、旧制を革易して、一世一元、以て永式と為せ・・・」とあります。慶応4年の元旦に戻って明治元年にするということです。ここで注目したいのは、「一世一元を以て永式と為せ」です。一世一元が初めて詔書の中で打ち出されました。これを提言したのは岩倉具視です。新政府の重臣たちの賛同を得て天皇が勅可されます。

 〈明治〉に決まったのは、賢所で神楽を奏しながら天皇自らお御籤を引いて決まりました。御籤で決めたというのは後先この一回だけです。明治というのはこれまで10回も候補に挙がっていました。

 明治5年(1973)12月2日の翌日から新暦(西暦)を採用して明治6年1月1日となります。この時に神武天皇即位紀元(紀元=BC660年)いわゆる皇紀の公用を施行しました。

 私年号の「延寿」(奥州列藩同盟)「自由自治元年」(秩父困民党)「征露二年」(日露戦争)も出現しました。

 明治22年(1989)に大日本帝国憲法が公布されるとともに、同時に皇室典範も制定されました。第十二条に「践祚の後元号を建て、一世の間に再び改めざること、明治元年の定制に従ふ」という元号について明記されました。

 その20年後に制定された登極令の第二条は「天皇践祚の後は、直ちに元号を改む。元号は、枢密顧問に諮詢したる後、これを勅定す」、第三条は「元号は、詔書を以てこれを交付す」とあり、改元について具体的な細則が設けられました。枢密院は天皇の諮問機関であって、ここで元号について審議し天皇が勅定し詔書を以て公布するということです。審議には内閣の全閣僚も陪審で加わります。元号天皇が決めて交付するという形は引き継がれます。この方法で大正と昭和の改元は実施されました。

    同日改元にこだわった〈大正〉〈昭和〉

 戦前に発行された『明治天皇紀』には「明治四十五年七月三十日午前零時四十三分、明治天皇崩御」とあります。しかし最近発行された『昭和天皇紀』には「明治四十五年七月二十九日午後十時四十三分、崩御」となっています。2時間早くなっているのです。どちらが事実なのでしょうか。後者が事実です。なぜこんなことが起きたのでしょうか。登極令には「天皇践祚の後は、直ちに元号を改む。」とありました。午後10時43分に崩御したのですからもうすぐに日が変わってしまいます。いくら急いでも29日中に改元手続きを完了させるのは無理です。「直ちに元号を改める」という記述を当時の人は践祚=即位との同日改元と解釈して、崩御時間をずらすということをやったわけです。

 改元詔書には「 ・・・明治四十五年七月三十日以後を改めて大正元年と為す・・・ 」とあります。そのまま読めば、七月三十日は大正ということになるのですが、まだ崩御していない零時42分も大正なのかという疑問が出てきます。実際そういう議論が学者の間で起きました。役所は7月29日までを明治とするという通達を出しました。しかしあえて改元の時間は明確にしないというのは昭和の改元でも踏襲されました。江戸時代までなら時間までは問題にならなかったでしょうが、近代の文書行政では何時何分ということが問題になる場面が出てきます。しかし神格化されていた天皇践祚改元というのは非常にデリケートな問題で「直ちに」というアナログな言葉で表すしかなかった、「何時何分から」という表現は相応しくなかったのでしょう。

 このとき明治天皇追号が奉られました。元号を以て公式の呼称とされるようになりました。

 〈昭和〉の改元では、事前に元号名の選定基準が示されました。宮内大臣の一木喜徳郎が考案者の吉田増蔵に示した元号案の選定基準です。
 
「①元号は、本邦は固より言を俟たず、支那、朝鮮、南詔(なんしょう)、交趾(こうし)等の年号、其の帝王、后妃、人臣の諡号、名字等及宮殿、土地の名称等重複せざるもの・・・②国家の一大理想を表徴する・・・③古典に出処を有し、其の字面は雅馴にして、その意義は深長・・・④称呼上、音調諧和を要すべき・・・⑤其の字画簡明平易なるべき・・・」

 これは〈平成〉や〈令和〉の選定したときの基準につながります。

 改元詔書には「・・・元号を建て大正十五年十二月二十五日以後を改めて昭和元年と為す・・・」とあります。

    政令による元号の公布

 敗戦後は「皇室典範」から元号の条項が削除されました。戦前は「皇室典範」は「憲法」と同格の存在であり、議会で審議することさえできなかったのですが、戦後は憲法下の法律の一つとして位置づけられるようになります。新しい「皇室典範」は皇室の身分・地位に関する取り決めに限られ、元号のような国事事項は外されました。新憲法の制定とともに元号についての法律を作る動きもありましたが、GHQによって止められます。元号の法律的な根拠があいまいになり、「事実たる慣習として昭和という年号が用いられている」状態が続きました。

 国の主権者が天皇から国民へ移りました。民主主義の社会では、元号は相応しくないという意見も起きます。しかし、国民の多数が元号を使用しているという事実がありました。この事実を背景に元号法が1979年に成立します。

「1 元号は、政令で定める。
 2 元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。
 附則 ・・・昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。」

 一番短い法律です。政令で定めるという規定から、元号を定める主体が天皇ではなくて内閣であるということが法律として明確になりました。「皇位の継承があった場合に限り改める」という規定で、一世一元のルールも引き継がれたわけです。

 元号の使用は国民の義務や強制ではないということも制定の過程で強調されました。しかし、役所や公立の学校では元号を使っています。これまでの慣習により統一しなくては不便だというのが政府の見解でしたが、改めて「公文書の年表記に関する規則」が平成6年(1994)に政府から出て明文化されました。そこには「公文書の年の表記については、原則として元号を用いるものとする。ただし、西暦による表記を適当と認める場合は、西暦を併記するものとする」とあります。

 元号を決める具体的な手順が「閣議報告」(昭和54年(1979))で示されました。そこに元号選定基準があります。
「○国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること ○漢字二字であること ○書きやすいこと○読みやすいこと ○これまでに元号又は諡として用いられたものでないこと ○俗用されているものでないこと」。これは昭和の改元の際に設けられた基準を踏まえています。

 元号選定の手順も明示されました。①考案者(若干名)が各2~5案を提出 ②内閣法制局長官の意見を聴いて、官房長官が数案選定 ③有識者の「元号に関する懇談会」で意見聴取 ④衆参両院正副議長の意見聴取 ⑤全閣僚会議で協議 ⑥新元号を記した政令閣議決定 ⑦天皇陛下の署名・押印で政令公布

昭和64年(1989)17日に昭和天皇崩御されました。ただちに今上天皇は即位され新元号は公布されました。大正・昭和のケースでは「1月7日をもって平成元年とする」となるのでしょうが、今回は翌日午前零時から〈平成〉を施行しました。同日改元同日施行から同日改元翌日施行に変わりました。

 〈令和〉改元は憲政史上はじめての退位による改元です。

 出典は『万葉集巻五』梅花の歌三十二首の詞書から「初春令月、気淑風和」です。天平2年(730)正月13日、太宰府長官大友旅人の邸宅に役人や文人が集まって宴会しました。そのとき梅を題材に詠んだ32人の歌が並んでいます。その詞書きにある漢詩です。国書からの初めての出典です。実は後漢の学者、張衡(78139)の「帰田賦」(『文選』)に「於是仲春令月、時和氣清」という漢詩があり、万葉集漢詩もこれを踏まえているようです。当時の漢字文化の受容は漢籍を手本にしてそれを真似るというのが基本だからです。

 「令」という文字が初めて使われたというのも話題になりました。「和しむべし」「和に令す」とも読めて、「号令」「命令」「法令」という熟語がまず浮かんできます。実は「令」を使用した元号案が過去に一つあり、それは「令徳」で幕末の改元の候補となったのですが、「徳川に命令する」と読めることから幕府が忌避して〈元治〉(1864)になったというエピソードがあります。

 日本の元号①古代篇
 
日本の元号②中世・近世篇

参考 所功元号 年号からよみとく日本史』文藝春秋1989 所功『年号の歴史』雄山閣1988 所功『日本の年号』雄山閣1977 山本博文元号 全247総覧』悟空出版2017 鈴木洋仁『「元号」と戦後日本』青土社2017 藤井青銅元号って何だ?』小学館2019 中牧弘充『世界をよみとく「暦」の不思議』イースト・プレス2019