082 興福院旧跡の記憶

 

 奈良市北部の佐保丘陵の裾にある名刹、興福院(こんぷいん)は、一般にはあまり知られていないが、観光・史跡ガイドにはほぼ常連で掲載されている。予約すれば拝観できるというが、最近はなぜか断られることが多いという。実は私もまだ拝観していない。ガイドやネットの写真を参考に簡単に紹介しておこう。50m程の参道を歩くと四脚門の大門に迎えられる。石畳、石階、植え込み、生け垣が美しくて落ち着いた境内に茅葺きの客殿が目立っている。正面の高所に建つ本堂(重文)は、寄棟造、本瓦葺きで、屋根は中程に段差を設けて瓦を葺く錣葺(しころぶき)である。いずれも江戸時代初期の寛永年間の建立である。本尊は木芯乾漆阿弥陀如来像(重文)で奈良時代の作だ。
 創建は寺伝では奈良時代にさかのぼるとされるが、近世までの歴史は不明である。現在は浄土宗の尼寺であり、大和大納言の郡山城城主豊臣秀長が200石を寄進したことをもって再興された。秀長の未亡人が2世住職になっている。その頃の寺地は奈良市の西の京、近鉄橿原線尼ヶ辻駅の近くにあった。徳川の天下となって3代将軍家光が寺領を安堵、現在の本堂、客殿、大門はこの時期に造営されている。1665年に現在地に移転した。

 尼辻(あまがつじ)という地名の起原はふたつの説があって、鑑真和上が唐招提寺を創建するにあたって土を舐めたら甘かったので良い場所だと喜ばれたことから、「甘壌」が「尼辻」になったという説と、興福院があったからだという説である。両説の真偽はともかくとして、私はかねて尼辻に興福院があったということに関心を抱いていた。かつて存在したが、今は失われた廃墟、廃寺、史跡に私はとりわけ興味をかきたてられる。
 だから、尼ケ辻に興福院の旧跡、墓地と井戸があると地元の方から教えられたときは、歓喜した。所在地を詳しく聞き出してすぐに出かけた。墓地は地元では「おふじさんのお墓」で通っているらしく、「おふじさん」とは秀長公夫人のことで、秀長公が一目惚れして城へ連れ帰ったという。
 尼辻中町の路地は軽自動車がやっと通れるぐらいの道幅しかなく、しかも直角に曲がる箇所も多いから、車は途中までしか行けない。ただ旧跡見たさに杖を引いて細い路地を行ったり来たりした。築地塀が続いて入母屋造りの大きな木造民家が軒を接する集落である。墓地は家並みが途切れる一角にあった。周囲に雑木が茂り雑草で覆われ一見して荒れ地である。陰鬱な雰囲気に踏み込むのはためらったが、もちろん引き返すわけにはいかない。
 古い墓石が間隔を開けて整列する。小さな舟形の墓石が多い。次に宝篋印塔が目立って、五輪塔は少ない。無縫塔もある。割れたり欠けたり傾いだものもあって、全体として朽ちた印象が強い。どの墓石の前にも茶色の陶器の花立てがひとつ突き立てられて、枯れ切った花がところどころに残る。敷地の広さの割には墓石は少ない。墓石のまわりは除草されているが、外れると夏草が茂り放題である。荒寥感と不気味さがつきまとう。
 墓石に刻まれた文字を見てゆく。読めるものは少ないが、その中に「施主 東大寺大勧進上人 龍松院 公慶 元禄五年壬申八月十日」というのがあった。公慶(1648~1705)は元禄の大仏殿再建に功績のあった高僧である。敷地のほぼ中央にあって比較的大きな自然石の墓石だった。誰のお墓か分からなかったが、元禄5年は1692年であるから、すでに興福院が移転した後だ。歴史上に名高い人物の名前を認めて興奮した。おそらく戦国時代から江戸時代初期の興福院関係者の墓地なのだろう。居るほどに不気味さが募っていく。蚊にも刺されるので、写真を撮るとすぐに墓地を出た。
 井戸は墓地から南東へ200mほど離れた一段低い町角にあった。直径1mほどの丸い井戸をフェンスが囲っている。その上から覗くと、中は雑草にさえぎられてよく分からない。腕を伸ばして撮った写真には、雑草越しに暗い影が見えて穴なのだろう。まだ埋まらずに井戸の形を保っているようだ。すぐそばに新しい祠があり、その前は広場になりきれいに整備されている。祠には座像の石仏が安置され「都大師 大正十四年」と印されてあった。
 この後に地元の郷土史家の著書(松川利吉著『平城旧跡の村』)を読む機会があった。そこには、墓地は興福院の本堂があった場所であり、その南にあるドロマ池は「堂前の池」が訛ったとある。井戸もかつて村人が利用していたという。
 『角川日本地名大辞典奈良県』は、江戸時代から使われていた興福院村が明治21年から尼辻村になると記す。しかし、興福院は小字名として残り、今も地元の人にはそう呼ばれているようだ。
 墓地も井戸も標識や説明のボードはない。最近、史跡の表示や説明ボードの設置に力を入れる市町村が増えているような気がするが、やはり限りがあるだろう。すべての土地は来歴を持つ。それぞれは当事者の記憶に留まるが、同時に当事者とともに消え去っていくだろう。だが、中には多くの人々の記憶に残り語り継がれるものがある。興福院旧跡もそのようなものであった。多くの人といっても限られた人であり、明確な記録はないので記憶は変容し伝説に近づいていく。このような伝説に不意に出会うことは、この上のない喜びである。(2017/8/15記)

興福院墓地
興福院旧跡墓地

興福院井戸
興福院旧跡井戸

080 旧山田寺仏頭の数奇な運命

 興福寺国宝館には天平鎌倉時代の仏像が綺羅星のごとく鎮座するが、なかでも人気があるのはともに国宝の阿修羅像と旧山田寺仏頭だろう。私も例に漏れず一目でこの2体には魅了された口である。二つに共通するのは、いわゆる仏像らしくないということだ。阿修羅像については言うまでもない。仏頭は如来像にはちがいないが、首から下の全体が失われ、まみえるのは頭部だけであるということで仏像としてのくびきを脱しているような感がある。
 仏頭は685年という制作年のわかる丈六金銅仏として白鳳様式の基準を示す貴重な作である。直線的で長い鼻筋から伸びやかな弧を描く眉、杏仁型の切れ長の目、若々しく張りつめた丸顔の輪郭、引き締まった口元。美しく整って力強い造形には、仏像ファンでなくても心惹かれるだろう。 
 仏頭と対面するときかならず思い浮かぶのは、この仏像が秘める数奇な歴史のドラマである。
 旧山田寺は桜井方面から明日香に入る玄関ともいうべき場所に位置する。蘇我家の傍流である蘇我倉山田石川麻呂が641年に氏寺として発願、寺の建設工事が始まった。石川麻呂は、645年の乙巳の変中大兄皇子の側につき重要な役割を果たした。変のあとは右大臣の位につく。しかし、陰謀の疑いがかけられ、金堂が完成したばかりの山田寺で自害し一族郎党もそのあとをおう。中大兄がしかけた謀略の匂いがつよい。
 鸕野讚良(うののさらら)皇后(のちの持統天皇)は、石川麻呂の孫娘であり、天智天皇の娘である。天武天皇の世となり、中断していた山田寺の工事が再開される。丈六金銅仏が開眼したのが685年、その年に天皇は寺へ行幸している。その影には、冤罪で果てた祖父の無念をひきついだ皇后の強い思いがあったのだろう。
 旧山田寺跡は特別史跡となり、境内からは瓦や塑像、回廊の建材が多量に出土した。明日香資料館には特別展示コーナーがあり、寺のかつての壮麗さを偲ぶことができる。1023年に山田寺を参拝した藤原道長は「堂中は奇偉荘厳を以て言語云うを默し心眼及ばず」と感嘆した記録が残る。
 1180年、平重衡の南都焼き打ちによって興福寺は全山焼亡する。東金堂は5年後には再建されたが、本尊の新鋳は難航し、業を煮やした東金堂衆は山田寺に押しかけ仏像を奪うという挙にでる。こうして山田寺講堂にあった丈六薬師三尊像は興福寺東金堂の本尊になったのである。(近年、山田寺金堂像であったという異説が発表されたらしい。)
 しかし、1411年の火災で脇侍像は運び出されたものの薬師像は被災、頭部のみとなった。そして、新鋳された薬師如来像の台座に納められ、いつの間にかそのことも忘れられてしまった。仏頭がふたたび世に現れたのは、1937年(昭和12年)東金堂の修理の際であった。
 このような波瀾万丈のドラマを知ると、はちきれんばかりの若々しいお顔に秘めた底知れない闇に思いいたすことになる。日本経済新聞の中沢義則編集委員の言葉は、仏頭の印象を余すことなく伝えるように思う。

 私は仏頭の眼差しに哀しみと慈しみを見る。遠くを見ているような視線は自らの数奇な運命を振り返って、深い悲哀を宿しているかのようだ。だが、波乱の運命を静かに受け入れ、慈愛の心を失わずに毅然とたたずんでいる。高貴な仏頭は、そういう強さを秘めている。

 仏頭の印象はもちろん全体から伝わるものであるが、とくに強い眼差しが拝観者をしてとりこにする。切れ長の上下の瞼は明瞭な線で縁取られてすがすがしく、強固な意志を感じる。その視線は遠くに投げかけられている。仏像の視線は拝観者を見つめるようにやや下向きであることが多い。だが仏頭の前に立てば、その視線は対面者の背後の彼方を指すように感じる。
 写真で見れば、仏頭の視線は水平である。そのようにセットされたということだ。これが普通の仏像とは異なる「遠くを見ている」ような眼差しを与えた。拝観する位置によっては見上げているように見えることもあって、さらに「遠くを見ている」印象を強くする。仏頭のある意味で仏像らしくない新鮮な印象は、この彼方への眼差しから来ている要素が大きいと思う。                 (2015/09/03記)

旧山田寺仏頭右横顔

興福寺仏頭 写真は「仏頭タイムス」から転載

●参考 奈良歴史漫歩No3「底なしの闇を見据える旧山田寺仏頭」

079 薬師寺の西塔心礎移動説

 奈良県橿原市特別史跡、本(もと)薬師寺跡は晩夏の日差しを浴びて紫色の花の絨毯が広がる。周囲の休耕田に植えたホテイアオイの花が盛りを迎えているのだ。新たな名所づくりを試みた橿原市の狙いは当たり、多くの見学者が訪れる。
 本薬師寺跡には金堂や東西両塔の礎石が残る。規則だって並ぶ巨石は、古代寺院のスケールをまざまざと実感させる。東西両塔の心柱を受ける心礎も幸いに現存するのであるが、注意深い見学者は東西の心礎の形が異なっていることに気づかれるだろう。
 東塔跡には四天柱と側柱の礎石も残る。花崗岩の心礎は中央に同心円状に3つの孔(あな)をうがつ。上段は心柱を受けるもの、中断は石蓋をはめこむ孔、下段は舎利孔である。西塔の心礎は、中央にデベソのような半球型のホゾが造りだしてある。心柱の底をくりぬいてはめこんだようだ。この形から西塔には舎利は納められなかったと言える。
 奈良市にある薬師寺は、藤原京から平城京への遷都にともなって他の大寺とともに移転したものだ。移転した後も藤原京薬師寺は残って本薬師寺と呼ばれ、11世紀中頃までは存続したことが文献から推定できる。
 現在の平城薬師寺には、1300年前の心礎の上に西塔が再建されている。この心礎は本薬師寺東塔のそれと同じ形式をもち、孔の寸法もほぼ変わらない。ただ上段の孔の周囲に溝をめぐらせ、水抜きの細い孔が設けられていることが異なる。
 「凍れる音楽」と称される東塔は現在解体修理中で5年後の2020年に落慶する予定だ。今年の2月28日、「保存修理現場見学会」が実施され、東塔の基壇が公開された。そこで心礎の形状が明らかになった。花崗岩で上面は最大幅約2.1mのやや菱形をなして中央に1m四方の浅いくぼみがある。くぼみは、江戸時代の修理で心柱に根継ぎ石を継いだ際に安定させるため削ったということである。したがって出ホゾがあったかどうかは確認できないが、予想された通り東塔の心礎には舎利孔はなかった。
 本薬師寺東西塔と平城薬師寺東西塔の心礎は逆転する形で同じ形式を持っていた。これは非常に興味深い事実だといえよう。本薬師寺と平城薬師寺は伽藍と堂塔の設計において強い相似性を持つ。このことから、本堂薬師三尊の移座や東塔が移建されたかどうかという薬師寺論争が長年戦わされてきた。本薬師寺の存続が確証されたことから全面的な移建は否定されたが、本尊の移座は最近また有力視されるようになったし、平城薬師寺から本薬師寺の創建瓦が出土するため堂塔の部分的な移建の可能性も残る。
 すでに仏教美術史の石田茂作氏は、舎利孔を持つ心礎が白鳳時代のものであり、出ホゾ式の心礎が奈良時代以降に流行したという歴史観から、本薬師寺の創建西塔が平城薬師寺に移建され、そのあとに再建されたという説を70年前に発表されている。
 本薬師寺の発掘調査から西塔の不思議な事実がいくつも明らかになっている。創建瓦が2種類あって、白鳳時代のものと奈良時代のものが等量に出土すること。基壇の下半分は堅い版築を施しながら上半分は柔らかい土盛りであること。足場跡が1時期のものしか残っていないこと。考古学の花谷浩氏は、これらの事実と平城薬師寺の西塔跡から出土する本薬師寺の創建瓦が少量であることをもって西塔移建説を否定し、本薬師寺の西塔が奈良時代に入って完成したことを唱えられた。
 しかし『続日本記』の文武2年(698)に「薬師寺の構作ほぼおわる。詔して衆僧を寺に住まわしむ」とある。主要建物である西塔を未完成のままにして「構作ほぼおわる」というのは解せない。西塔の完成がこの記事のあと20年も先になる理由もわからない。
 花谷氏の説に納得できない私はおこがましくも素人の推理として、西塔の心礎・舎利移動の可能性を考えた。以下は『奈良歴史漫歩』No68「本薬師寺の心礎」からの引用である。

 西塔舎利・心礎移動説を新たに提案したい。奈良時代になって本薬師寺西塔を解体して舎利を心礎ごと取り出し平城薬師寺西塔に据えたあと、新しい心礎をもって本薬師寺西塔を再び組み立てたというものだ。移したのは舎利と心礎だけであるが、解体の際に瓦が多量に壊れたために奈良時代の瓦で補修した。西塔跡から新旧ふたつの瓦群が半々に出るのもそのためである。
 平城薬師寺の塔には、釈迦在世時の重要な出来事を示す「釈迦八相」の塑像が安置されていたことが『薬師寺縁起』に記録されている。東塔には釈迦前半生を表す因相、西塔には釈迦後半生を表す果相とわかれていたが、果相は釈迦の遺骨を分ける「分舎利」を含む。このため舎利は西塔にのみ納められた。
 移すことになった3孔式心礎はそのとき手を加えて排水溝を刻んだ。新調の心礎は舎利をもはや収納する必要はなく、奈良時代になって登場した出ほぞ式が採用された。
 1時期の足場跡しか検出できなかったことは次のように考えられる。西塔基壇も発掘調査されたが、基壇版築土の下半と上半3分の1はよく締まっていたが、その上はかなり軟弱であった。これは心礎を移すときに基壇の表面が掘り返されたからではないだろうか。ふたたび版築で固めるという手間が省かれたのだろう。このとき創建時と解体時の足場跡も消えてしまい、再建する時の足場跡のみ残った。

 難点は、心礎・舎利のみの移動がその労役で得られる意義をどこに見いだせるかということだろう。西塔を心礎ごと移建したと考える方が確かに合理的である。新たな考古学的な事実は、石田茂作氏の西塔移建説の再評価を促しているように思う。

                              (2015/08/31記)
 
20150831141851450.jpg薬師寺東塔跡 水が溜まる中央の石が心礎

 

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薬師寺西塔心礎

f:id:awonitan:20170830175241p:plain平城薬師寺西塔心礎レプリカ

20150831134823192.jpg平城薬師寺東塔心礎

●参考  花谷浩「本薬師寺の発掘調査」1997(『仏教芸術』235号 毎日新聞社) 石田茂作「出土古瓦より見た薬師寺伽藍の造営」1948(『伽藍論攷』養徳社) 大橋一章『薬師寺』1986 保育社 「国宝薬師寺東塔の発掘調査 第4回保存修理現場見学会」配布資料2015

075 黄檗宗海龍山王龍寺

 奈良市にある海龍山王龍寺は、元禄2年(1689)に大和郡山藩主の本多下野守忠平が、黄檗宗開祖隠元禅師の孫弟子、梅谷和尚を招いて菩提寺として開山、再興した古刹である。山門や本堂には禅寺らしいたたずまいがあって、奈良の古代寺院を見慣れた目には、ちょっとしたエキゾチシズムを覚える。

 「不許酒葷入山門」の大きな石碑が門の前に立つ。山門には、「門開八字森々松檜壮禅林」の書があり、「門は八の字に開き、森々として松檜禅林に壮んなり」と読むらしい。門を一歩入ると、まさにこの書の世界が広がっていた。鬱蒼と茂る樹林で空も覆われている。ひと一人が歩ける坂道が細い谷川の流れに沿って続く。石畳みを残して、苔が道を埋め尽くしていた。鋭い鳥の声が近くで響いてぎょっとした。途中に滝の行場があり、東屋が建つ。ここからは急な階段となっている。
 階段を登りきると唐風の本堂に向き合う。山を開いた狭小な平坦地で、建物はそれだけである。この寺は、南北朝期に彫られた磨崖仏で有名だ。高さ2.1mの十一面観音立像で、「建武三年(1336)の銘を持つ。寺の縁起によれば、南朝方の勢力と深いつながりがあったようで、珍しい南朝の年号がそれを伝えている。表戸を覗くと、奥の帳をあげたなかに蝋燭が揺らめいて、観音様が浮かび上がる。ガイドには「優雅な美しさは、大和の石仏のなかでも随一」とあるが、視力の弱い私には遠すぎてはっきりとは見えなかった。視力1.5を誇る連れが、記憶をもとにスケッチしてくれたので、それを載せる。
 裏門の脇には、樹齢300年というヤマモモが茂る。樹幹の基部5m、目通り2.7m、高さ11m。空洞になった樹幹から八方に新たな幹が伸びて堂々とした風格がある。
 再び、坂を下り参道をもどる。途中誰にも会わなかった。森厳な別世界、俗界に対する聖なる清浄界、そんな言葉が頭にちらついた。誰にも教えたくない場所である。なぜ都市近郊にこんな環境がまだ残っているのだろうと考えていて、気づいた。お寺のまわりがゴルフ場で囲まれているのである。奈良市西郊のなだらかな丘陵は、住宅地としてほぼ開発しつくされている。そのなかにゴルフ場がまとまった緑地帯としてかろうじて残る。王龍寺はゴルフ場が緩衝帯となり、境内の森厳な雰囲気が保たれているのだ。
 ゴルフをしない私は、ゴルフ場には批判的であっても擁護する気持ちはまったくなかったが、はじめてゴルフ場が結果的に果たしているプラスの機能に思い至った。そこまで時代は世知辛く索漠としたものになったということであろうか。
●参考 『奈良県の歴史散歩 上 奈良北部』2008年 山川出版社 

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(目撃者談)
 右手のひらを見せ伸ばしており、左手は胸の辺に甲を見せ添えるように曲げている。右腕は体のわりに長く感じた。下腹部に衣装のドレープ、胸には首飾りか衣装かわからないドレープがあり、額中央に丸い飾りのようなものがある。浅く彫られており、輪郭はぼやけているが、影で形が浮き上がっている。目は閉じているか半眼、優しく微笑んでいるようです。
                              (2015/05/09記)