091 世界遺産の元興寺 (元興寺④)

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 元興寺(極楽坊)の本堂(国宝)と禅室(国宝)は、東室僧房南階大房をもとにして鎌倉時代に大きく改築された。本堂(極楽堂)は東を正面として、桁行き、梁間ともに6間、正面に1間の通庇がつく本瓦葺きの建物。寄棟造妻入りである。東が正面なのは極楽浄土が西方にあり東から望むという形をとるためだ。寛元2年(1244)に東室僧房南階大房の東端3房分を切り離し現在の形になった。

 堂内中央は内陣となり須弥壇が置かれ、本尊の智光曼荼羅を納める厨子を安置する。この場こそ智光が居住した一房であるとされる。この周囲を広い外陣がとりまき、念仏講の参加者が集った。床下には僧房時代の礎石が並ぶ。

 禅室は僧房の姿を伝える。桁行4間、梁間4間で平屋の切妻造、本瓦葺き。鎌倉時代初期に改築され、大仏樣様式が取り入れられた建物になった。飛鳥時代奈良時代の部材も一部利用されている。東室僧房南階大房は12坊あったが、禅室は4房分の大きさである。現状は東側3房分を開け放たれた大きな部屋にしているが、僧房時代は1房毎に間仕切りを設けて僧侶の居住に使用した。その時は、一房の中央に板扉が開き左右は連子窓となる。床は板敷きで、室内は南・中・北と大きく3室に区切られ、北側はさらに3室に区分されたと考えられる。禅室北西隅のスペースに僧房室内の一部が復元されている。

 禅室屋根の南側東寄りと本堂屋根の西側の瓦は、赤みがかったり濃淡のある灰色であったりし、丸瓦は行基葺きとなる。これは、丸瓦の重なる部分がへこんでいないため瓦の厚みが段として見える葺き方である。飛鳥時代創建期や奈良時代移建期の葺き方だという。ちなみに行基とはとくに関係ない。赤い瓦が飛鳥時代の瓦といわれる。

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行基葺きの丸瓦

 東門(重文)は元興寺(極楽坊)の正門、1間1戸の四脚門、本瓦葺き。応永年間(1394~1428)に東大寺西南院から移築した。

 小子房はもと僧房東室南階小子房であった建物を改造し移築した。学僧の居住施設が大房であるのに対し小子房はその従弟が居住した施設だといわれる。庫裏として江戸時代に使用された。現在地には昭和40年(1965)に移築された。

 五重小塔(国宝)は総合収蔵庫に保管される。高さ5.5mを測り、組み物や瓦、欄干、内部構造まで精密に表現された奈良時代末の製作である。本堂外陣南側に床を破って安置されていたという。しかし本来はどこにあったか不明である。小塔院にあったことが有力視されるが、その証拠はないらしい。元興寺五重大塔のひな形と考えられたが、礎石から計測した柱間間隔や江戸時代の図面から五重小塔とはまったく異なることがわかった。

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五重小塔

 元興寺の仏像の主なものを紹介する。これらは総合収蔵庫の1階に安置される。

 阿弥陀如来座像は高さ157.3cmで半丈六のサイズ、かつては本堂の本尊として厨子に納まっていた。しかしもとは禅定院(後に大乗院となる)多宝塔の本尊であり、文明15年(1483)に多宝塔が火災に遭って極楽堂へ移された。頭と体をケヤキ一木から作り、膝から前の部分は別材からつくり接ぎ合わせる。全体的にどっしりした風格を醸す。衣のひだや体のしわは木彫の素地に塑土と呼ばれる土を盛りつける。両手は来迎印を結ぶ。平安時代中頃(10世紀末)の製作と推定される。

 法興寺聖徳太子が創建に関わったという伝承があり、元興寺には強い聖徳太子信仰があった。室町時代の初めには太子堂が建てられた。太子堂は早くに退転したが、南無仏聖徳太子像(県指定文化財)と聖徳太子十六歳孝養像(重文)が伝わる。南無仏像は太子が2歳の時、東に向かって合掌し「南無仏」と唱えたという伝説を木像にしたものだ。X線CT検査で像の内部にある五輪塔の中にも紙束や数粒の舎利が詰めこまれていることがわかった。

 十六歳孝養像は、十六歳の太子が父用明天皇の病気回復を薬師如来に祈る姿を刻む。解体修理の際に胎内から多数の納入品が見つかった。文永5年(1268)に眼清という僧侶がこの像を造る代表になったことを記した『眼清願文(がんせいがんもん)』、この像を造った仏師や画師の名前を記した『木仏所画所等列名(きぶつしょえどころとうれつめい)』、像を寄付した人々の名前を記した『結縁人名帳』、太子の姿を版画にした『聖徳太子摺物』、寄付した人に配られた『太子千杯供養札(たいしせんぱいくようふだ)』などである。これらの資料から、この像を造るにあたって5000人に及ぶ人々が協力したことがわかった。

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聖徳太子十六歳孝養像

 弘法大師座像(重文)は寄来造で、大師450年忌にあたる弘安7年(1284)頃に造られた。像内から多くの納入品が見つかり、五色の舎利、愛染明王印仏、康永4年(1345)の年号を持つ『結縁交名状(けつえんきょうみょうじょう)』などであるが、これらは後の修理で入れられた可能性が高いという。

 永正12年(1515)の「極楽坊記」には、元興寺禅室にある「春日影向の間」に毎日春日明神が鹿に乗ってあらわれ、智光曼荼羅と舎利を護ったので、弘法大師が明神を勧請して春日曼荼羅を描き、あわせて自らの像を造ったと記される。春日信仰と弘法太子信仰も元興寺に息づいていたことがわかる。

 

 元興寺極楽坊は南都浄土教の中心となるとともに聖徳太子信仰や弘法大師信仰、地蔵信仰、春日信仰、陰陽道などさまざまな庶民信仰が流れ込む。また鎌倉時代の大和の仏教に大きな影響を与えた西大寺叡尊の布教活動は極楽坊にも及んだ。叡尊の流れを汲む僧侶たちが入寺して戒律を重視する律院としての面目を整えていく。元興寺(極楽坊)が現在、真言律宗であるのはこういう事情による。

 庶民信仰の聖地として極楽坊がもっとも栄えたのは15、6世紀であった。江戸時代に入って極楽坊は庶民の寺としての活気を失う。納骨容器は寛永年間(1624~44)を境に姿を消し、境内の石塔は享保年間(1716~36)以後は急減する。徳川幕府から100石の領地を与えられる御朱印寺となり、経済的には一定の安定を得たが、庶民との直接の接点がなくなったのである。地域の民衆も寺壇制度が整備されるにしたがって元興寺周辺の寺院と結びつくようになる。

 明治維新となり、元興寺は寺領を失う。経済的に立ちゆかなくなった寺は無住となり、西大寺の預かりとなる。明治初年に境内に小学校が創設され本堂と禅室は校舎に変わる。駐車場に「飛鳥小学校発祥の地」の石碑が立つのは、これを指す。この後、真宗大谷派の説教所として貸し出され、一時は女学校も開校した。

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境内にある「飛鳥小学校発祥の地」碑

 50年間の賃貸契約が終了した時、「狐狸の住み処」と呼ばれるほど、寺は荒れ果て建物は崩壊寸前だった。昭和18年(1943)に住職に就任した辻村泰園師は、禅室の解体修理に取りかかる。敗戦の混乱期の中断をはさんで昭和26年に終了、続いて本堂、東門の解体修理、境内の整備・防災工事も行われる。この時の修理や工事で発見された多量の信仰資料を整理・調査するため、昭和42年(1967)に元興寺仏教民族資料研究所が設立された。のちに財団法人元興寺文化財研究所と改称され、人文、考古学、保存科学にまたがる総合的な文化財の研究機関として発展していく。

 この間、寺の年中行事も復興され、活発な宗教活動は庶民信仰の聖地であった伝統を取り戻しつつある。平成10年(1998)には「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録された。奈良町のランドマークとしてシンボルとしてその存在感はますます増している。

参考 岩城隆利『元興寺の歴史』吉川弘文館 野口武彦・辻村泰範『古寺巡礼奈良 元興寺淡交社 太田博太郎他『大和古寺大観3巻』岩波書店 元興寺編『わかる!元興寺』ナカニシヤ出版 元興寺ホームページ