077 天誅組の生き残り、北畠治房旧邸「布穀園」

 奈良県斑鳩町の法隆寺近くにある和カフェ「布穀薗」を訪ねた。北畠治房の旧居にできたカフェであると知って、わざわざ出かけたのである。北畠治房といっても知っておられ方はまずおられないだろう。私も知ったのは偶然だった。奈良県の近代史、特に明治時代の事跡を調べていると、彼がときどき出てくるのである。そのうちに彼が天誅組の反乱に参加した生き残りであることを知って関心を抱くようになった。
 北畠治房、旧名、平岡武夫または鳩平は天保4年(1833)に大和斑鳩村に生まれ、大正10年(1922)に亡くなっている。Wikipediaに簡潔な紹介がある。私が下手な要約をするより、そのまま掲載したほうが分かりやすいだろう。

 法隆寺附近の商家の次男として誕生。伴林光平に師事して国学を学び、過激な尊王攘夷思想に傾倒、天誅組の変が起こると師の伴林に随伴してこれに参加するが、天誅組は鎮圧され、師である伴林も処刑される。鳩平は追手を逃れて潜伏し、京都や大坂を転転とする。やがて旧知であった水戸藩士大庭一心斎らに誘われ天狗党に参加するも、早期に離脱。戊辰戦争では尊攘派の浪士達を糾合して有栖川宮熾仁親王の軍勢に加わる。明治維新後は司法官となり、横浜、京都、東京裁判所長、大阪控訴院長を歴任。任期中起こった小野組転籍事件の裁定に辣腕を振るい、槇村正直と舌戦を繰り広げた。明治十四年の政変で失脚し、立憲改進党に参加。東京専門学校(現在の早稲田大学)の議員も務めた。男爵に叙任され、法隆寺近郊で余生を過ごした。


 これを読んでどのように思われただろうか。天誅組、天狗党、戊辰戦争、維新政府の高官、立憲改進党、男爵、90年近い生涯をまさに劇的という言葉にふさわしい生き方をした人であろう。特に、天誅組に参加した志士たちは大方が戦死、処刑の憂き目に遭ったが、生き延びた上におそらくその功績もあずかってだろう新政府に奉職して出世を遂げ、爵位の栄誉まで浴びる。維新後に、彼は南朝の忠臣、北畠親房の末裔を自称して改名しているのも、勤王の志士として輝かしい経歴を誇るところがあったのだろう。
 だが、彼は毀誉褒貶の強い人であった。彼が伴林光平に師事して、天誅組の決起にも同伴したことは、引用した略歴にあったとおりである。伴林光平は国学者であり、歌人として有名であった。このとき光平は51歳、鳩平20歳である。光平は逃走の途次に捕縛され処刑されているが、獄中で決起の経過をつづった手記『南山踏雲録』を著した。ここに鳩平のことが出てくる。
 「平岡鳩平、勇壯辨才、能く人を面折す。但し劇烈にすぎて、人和を得ざる失なきにあらず」。
 「面折」とは、面と向かって人を叱咤することをいう。向こう意気の強い激しい気性の性格であった。明治時代の彼のかずかずのエピソードには確かにこの性格がつきまとっているようだ。
 脚気を患い疲労困憊した光平を鳩平は助けて、二人は安堵村額田部まで逃げてくる。二人の住まいがあった斑鳩の近くである。ここで鳩平は行き先の様子を探るため光平に別れて単独行動をとる。迎えにくるという鳩平の言葉を頼りにして三日待ったが音沙汰なく、しびれを切らした光平は斑鳩の鳩平の縁者をたずねて問う。鳩平は別れたその日に京都に向かって去ったという。それならばそうと知らせてくれれば自分もすぐに京へ立ったのにと、光平は恨み言を書くのである。
 勤王倒幕の志士、北畠治房の経歴を傷つける内容である。『南山踏雲録』が発行されたのは明治27年、後に奈良県知事となる土佐の志士、古澤滋が奈良県政に介入しようとする北畠治房を牽制することが目的だったとされる。
 鳩平にも言い分があっただろう。しか大正4年の『古蹟辯妄』で、彼は光平が当時精神錯乱していたと主張するに及び決定的に信用を落としてしまった。
 
 北畠治房邸は斑鳩町の所有となり結婚式場に使用されていたらしい。最近、民間の所有に移り、長屋門を利用した和カフェがオープンした。母屋は明治20年の建築で、大工は法隆寺宮大工棟梁で有名な西岡常一の祖父である西岡常吉が棟梁を務めたという。巨大な屋根は斜面途中が盛り上がった起(むく)り屋根である。向かって右に大きな唐破風をもつ玄関は貴人が出入りし、左側に通用の玄関がある。全体が黒い中で二階中央の白い漆喰の窓格子が目立つ。カフェのオーナーの住居となっているので、遠くからしか眺められないが、威厳と優美さを兼ね備えた秀逸なデザインである。
 長屋門は威風堂々とした重厚な作りで、いかにも治房好みだと思わせる。淀城から移築したと言い伝えられる。
 長屋門を入っての緩やかな坂は、階段と人力車も通れるような斜面が平行している。

 「布穀薗」とは治房の号「布穀」から名付けられた屋敷の愛称であり、有栖川宮殿下直筆の「布穀薗」と書かれた額が母屋にあるという。カフェは赤膚焼の食器や吉野産の一本杉をくりぬいた椅子などインテリアも凝る。スィーツは甘さを抑えた上品な味で申し分なかった。法隆寺がすぐそばで、また寄ってみたい斑鳩のスポットがひとつ増えた。

北畠邸母屋
北畠邸母屋

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北畠邸長屋門 向かって左のスペースにカフェがある
                            (2015/07/11記) 

076 『奈良歴史漫歩』Kindle版発行

 自著の『奈良歴史漫歩』を電子書籍にしました。「奈良歴史漫歩」は2001年から約8年間の間、メールマガジンとホームページを使って発表した史跡探訪エッセイです。舞台は奈良と周辺地域で古代史の話題が多いが、現代も扱います。読者は多いときで約700人の方に購読していただきました。そのすべてはホームページに掲載しています。そこから10編選んで和装本にしたのは6年前です。AmazonKindleは私も読書で使用していますが、今回は著者の立場で利用させてもらうことにしました。電子書籍化するに際して新たに「まえがき」を加えました。なお『奈良歴史漫歩』Kindle版の定価は300円。Kindle端末がなくても、PCやスマホにアプリを無料ダウンロードすれば読めます。Amazonプレミアム会員は端末があれば無料で読めます。


   『奈良歴史漫歩』Kindle版まえがき
 「趣味は何」と問われると、「発掘調査現地説明会へ行くこと」と答える。大概の方は怪訝な表情を浮かべる。無理もないだろう。開発ブームが国土を席巻した一時に比べれば、実施される現地説明会の数は減ったが、どの会場でも高齢者男性を中心に多数の人々が遠近から集まる。私の二十年間の経験からでも参加者は確実に増えている印象がある。しかし、いくら増えたと言っても世間からすれば少数派であることは間違いないだろう。
 現地説明会が病みつきになるほど面白いのは何故なのか考えてみた。まずは発見があること。その意義の大小は異なっていても、新しい情報を得る瞬間に立ち会うことのスリリングな喜びがある。
 現地説明会では、考古学、または古い建物の解体修理では建築学の専門家の説明を受ける。目前にあるのは、地中の凸凹やなかば腐った木材、石、土器や金属器の破片、瓦などだ。これらは史料であり、専門家の判定・解釈・推理によって歴史的な意味を持つ情報へ変換される。単なるモノから歴史的情報が引き出されるプロセスの目撃者となるばかりでなく、見学者の知識次第でそのプロセスに参加も可能なのだ。
 現地説明会は一回限りの生の体験である。調査が終われば、埋め戻されるか開発のため破壊されるかだ。まれには現地保存されて見学に供せられることもあるが、エンバーミングのような不自然さは否めない。長大な時間を経てきて今この瞬間も変容するモノの様相が日の目を見る。奇跡としか言いようのない出来事が起こっているのだ。すべては滅び無に帰していく。何百年、何千年前の人間の営みの欠片を瞬きほどに可視化して、ふたたび滅びの過程に戻してやることで、この真理に触れる。
 現地説明会は、歴史を体験する最良の機会である。ここで羽ばたいた想像力は私の史跡めぐりの導きとなる。きらびやかに復興された寺院にあっても廃墟の礎石を求めることが、私の歴史漫歩なのである。
                     二〇一五年六月二〇日   橋川紀夫

   目次
夢いまだ幻の高安城
石で固めた天下の山城、大和高取城
平城宮東朝集殿を移築した唐招提寺講堂
春日山の水神信仰
春日若宮おん祭の歴史  
若草山山焼きの起源  
都祁の氷室  
春日烽と飛火野伝説  
三輪山祭祀の謎
薬師寺の心礎


奈良歴史漫歩

075 黄檗宗海龍山王龍寺

 奈良市にある海龍山王龍寺は、元禄2年(1689)に大和郡山藩主の本多下野守忠平が、黄檗宗開祖隠元禅師の孫弟子、梅谷和尚を招いて菩提寺として開山、再興した古刹である。山門や本堂には禅寺らしいたたずまいがあって、奈良の古代寺院を見慣れた目には、ちょっとしたエキゾチシズムを覚える。

 「不許酒葷入山門」の大きな石碑が門の前に立つ。山門には、「門開八字森々松檜壮禅林」の書があり、「門は八の字に開き、森々として松檜禅林に壮んなり」と読むらしい。門を一歩入ると、まさにこの書の世界が広がっていた。鬱蒼と茂る樹林で空も覆われている。ひと一人が歩ける坂道が細い谷川の流れに沿って続く。石畳みを残して、苔が道を埋め尽くしていた。鋭い鳥の声が近くで響いてぎょっとした。途中に滝の行場があり、東屋が建つ。ここからは急な階段となっている。
 階段を登りきると唐風の本堂に向き合う。山を開いた狭小な平坦地で、建物はそれだけである。この寺は、南北朝期に彫られた磨崖仏で有名だ。高さ2.1mの十一面観音立像で、「建武三年(1336)の銘を持つ。寺の縁起によれば、南朝方の勢力と深いつながりがあったようで、珍しい南朝の年号がそれを伝えている。表戸を覗くと、奥の帳をあげたなかに蝋燭が揺らめいて、観音様が浮かび上がる。ガイドには「優雅な美しさは、大和の石仏のなかでも随一」とあるが、視力の弱い私には遠すぎてはっきりとは見えなかった。視力1.5を誇る連れが、記憶をもとにスケッチしてくれたので、それを載せる。
 裏門の脇には、樹齢300年というヤマモモが茂る。樹幹の基部5m、目通り2.7m、高さ11m。空洞になった樹幹から八方に新たな幹が伸びて堂々とした風格がある。
 再び、坂を下り参道をもどる。途中誰にも会わなかった。森厳な別世界、俗界に対する聖なる清浄界、そんな言葉が頭にちらついた。誰にも教えたくない場所である。なぜ都市近郊にこんな環境がまだ残っているのだろうと考えていて、気づいた。お寺のまわりがゴルフ場で囲まれているのである。奈良市西郊のなだらかな丘陵は、住宅地としてほぼ開発しつくされている。そのなかにゴルフ場がまとまった緑地帯としてかろうじて残る。王龍寺はゴルフ場が緩衝帯となり、境内の森厳な雰囲気が保たれているのだ。
 ゴルフをしない私は、ゴルフ場には批判的であっても擁護する気持ちはまったくなかったが、はじめてゴルフ場が結果的に果たしているプラスの機能に思い至った。そこまで時代は世知辛く索漠としたものになったということであろうか。
●参考 『奈良県の歴史散歩 上 奈良北部』2008年 山川出版社 

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(目撃者談)
 右手のひらを見せ伸ばしており、左手は胸の辺に甲を見せ添えるように曲げている。右腕は体のわりに長く感じた。下腹部に衣装のドレープ、胸には首飾りか衣装かわからないドレープがあり、額中央に丸い飾りのようなものがある。浅く彫られており、輪郭はぼやけているが、影で形が浮き上がっている。目は閉じているか半眼、優しく微笑んでいるようです。
                              (2015/05/09記)