113 ④入江泰吉の永遠の「大和路」カラー鑑賞篇

 入江泰吉は、風景写真を志す若者へのアドバイスとして次のようなことを書いた。「風景写真は、単にそこにある風景を写せばよいというものではない。映像の中に、情感や、いうにいえない気配が写っていなくては、人の心に感動を呼ぶものにはならないと思う。しかし、情感や、いうにいえない気配というものは、実際は写りはしないのである。……しかし、映像を通して見る側に、そういうイメージへいざなうような手掛かりとなる何かを設けておかなければならない……」「ことさらに作為のあとが見えすぎることも好ましくない。ともすれば作為が加わりすぎることによって、目的とする主題の訴求力が薄れる結果になりかねないからである。あくまでも、選んだ主題を観る側にいかに通じさせるかということを前提とした、つまり主題を生かすための作為であってほしい」

 これは入江自身による自作の解説でもあった。そして「若い作家に作品の批評を求められたりすると、画面構成上の優劣よりもまず何を狙っているか、という作者自身の視点についての見解を述べる」と書く。作者自身の視点がはっきりしていないと、漠然とした単なる風景写真に堕してしまうからだ。

 助手を務めた矢野建彦氏は、入江流の美学について「一言でいえば『シンプルさ』であり、『引き算のフレーミング』」と語る。入江が風景写真に求める狙い、すなわち主題が明確であるから、画面の構成も徹底的に切り詰めて明確である。余計なものが入ることはない。それが「シンプルさ」の意味だろう。理性的な分析を働かせながらも、元になるのは風景に感応する作者の感性・感情であり、そこに生まれるイメージは入江独自のものであった。

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 東大寺南大門を焦点にしながら降る雪が写しこまれる。雪は細かい粒子のようであり、大きな点となり、レンズに付いた滲みもある。雪のいろいろな形、無数のかすむ白い模様が視界の激しい動きを現す。その中に南大門は不動の存在感を持って立つ。中央の一部だけが写ることで巨大さを印象づける。柱や貫、桁の風化し褪せた色彩が雪と重なって一層まだら模様となり、経てきた歳月を感じさせる。降る雪は過去を現在へ引き寄せる。あるいは現在を過去へ引き戻す。平家の焼き討ちに遭い一山焼失した東大寺は、重源らの勧進により復興する。そんな歴史の興亡が、雪の激しく舞う南大門の画面の奥に見え隠れする。「降る雪や亡びし者の鬨の声」

 

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 勝間田池(大池)越しに薬師寺東塔を望む。入江は独自のアングルを見いだしては、それが大和路の定番となったものが多い。このアングルの写真も大和路を代表するものになった。入江は池越しの東塔の風景を好み、モノクロ時代から四季を通じて撮影に通った。

 真夏の強い日差しと草いきれが匂うような場面である。植物の緑と水と空の青、入道雲の白が画面を区画する。目のくらむような真夏の雰囲気は十分伝わるが、抑制した落ち着きのある色で、この色調は入江作品に共通した独特の深みをもたらす。画面の中央やや左寄りに東塔が樹木に隠れて立つ。相輪と三層目の屋根、塔身しか見えないというのが、偶然だろうが絶妙である。画面の半分を占める空のまた大半が入道雲で、雲の頂上から視線を下ろすと真下に相輪がある。塔の真下に目を移すと、真菰(まこも)または葦(?)が画面の左隅から一番手前で茂っている。ここに中軸ができて、画面の左側に重心があり、右側にやや空白を作る。非対称的な画面構成が心地良い。池の水面も影が写りさざ波がたって、複雑なグラデーションの模様ができる。

 自然が圧倒的に横溢する中で人工物は塔だけであり、黒ずんだ塔は自然に同化しているようだ。古代の都として栄えた奈良も長い歳月のうちに滅ぶものは滅び、残るものは自然へ帰り行く。大きな風景の中で「滅びの美」を捉えた傑作だ。復興された金堂や西塔も入った入江の作品もあるが、私にはグロテスクに見える。千年後には落ち着くかも知れない。

 

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 ススキが風に激しくなびいて、遠くに法起寺の塔が見える。左にたわんでなびく穂の白い輝きと枯れた茎、葉の陰影の対照が鮮やかである。この写真を見ると胸騒ぎする。椿事の予感が告げられているようで。643年12月20日蘇我入鹿山背大兄王を討ち取るべく兵を派遣する。生駒山に逃げた大兄王は戦いを避けて、上宮一族もろとも自害して果てる。この大事件が脳裏にあるからだろう。法隆寺斑鳩には古代史の光と影がつきまとう。それはいろいろなきっかけを得ては物語を生む。ススキの群落が強風になびいて左右に分かれ、そこに出現した古代の塔、さながら舞台の幕が上がったばかりのようだ。

 助手だった矢野建彦氏がこの写真を撮ったときのことを語っている。「あの撮影の日は大変寒かった。あの時もずいぶんと風を待ちましたね。あまりの寒さに手がかじかんで、先生がシャッターを押せなくなってしまった。それで、二人でススキの下にもぐり込んで風の当たらない所で、身体の中に手を入れて暖をとって手のかじかみがなくなってから撮った写真があの作品です」

 

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 飛鳥大原の早春。入江は飛鳥の農村の鄙びた風景を好んで撮ったが、今はもうこんな写真は飛鳥であっても撮るのは無理だろう。私は1952年生まれで、今も住む奈良市西郊は幼年期にはこのような田園が広がり、そこが遊び場だった。だから、これは私の「ふるさと」の原風景である。今も田は残るが、これほどの幅の道は農道として舗装され、水路はU字溝となった。藁塚もなくなった。春めくと、幼い私たちは川の土手や田んぼの畦に出て土筆を探した。なずな、ふぐり、たんぽぽ、れんげ、クローバー、スイバなどが次から次へ咲き地面を埋め尽くす。地道には轍が刻まれて、そこだけはいつも土の色を残す。小川には水草が揺らめき、メダカやフナの影が走ると必死になって網ですくった。

 この風景には幼い私ばかりではなく、千年の何十もの世代の人の気配がある。土地を耕し収穫し暮らしてきた人々の営みが、この風景を作ったのだ。すべてを人力に頼り、役牛の助けも借りながら繰り返されてきた営みが、ほぼ千年の間この風景を変えずに保たせ続けてきたのである。

 

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 長谷寺本堂の外廊下に吊り下げられた提灯。暖かな赤みがかった色に点る。廊下の角にて巨木の枝が背後に伸びる。山が迫ってもうもうと茂る樹木の濃い緑が視界を遮る。廊下の床板、欄干、擬宝珠、本堂の柱、長押、板壁は歳月を経て黒ずみ磨り減り、無骨ながら堂々とした風格がある。圧倒的な自然の力に対抗する自然の樹木からできた人工物、緑と黒を基調とする視界の中で、提灯の明かりの色が柔らかな雰囲気をもたらす。そこに人の気配を感じる。少し前に明かりをともした人であり、何百年とこのお堂を守り続けてきた人々の優しい気配である。

*文中の引用は、入江泰吉入江泰吉自伝』(佼正出版社)より。