121 女王卑弥呼は大和郡山にいたか

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 大和郡山市は毎年、「女王卑弥呼」を公募・選出し、観光PR活動に一役買ってもらっている。市の観光協会のホームページには次のようなコメントが載る。

大阪教育大学名誉教授だった故鳥越憲三郎氏が著書『大いなる邪馬台国』の中で、邪馬台国大和郡山市北西部の矢田地区にあったとの学説をもとに、大和郡山市が町おこしの一環として1982年より女王卑弥呼を選出するようになりました。卑弥呼に選ばれた方は、1年間にわたり、観光協会が関連する市の事業やキャンペーン、伝統行事のPRを行っています。」

 鳥越憲三郎氏の学説については、残念ながらこれ以上の紹介はない。そこで、氏の著書をひもとき大和郡山市矢田地区=邪馬台国説の詳細を探ってみたい。『大いなる邪馬台国』は昭和50年(1975)に刊行された。平成14年(2002)に、それを修正補強した『女王卑弥呼の国』が上梓されたので、これをもとに見ていくことにする。

     神武東征譚での物部氏長髄彦軍との戦い

 始まりは、『日本書紀神武天皇即位前紀にある記述である。神武天皇が日向の国を出発して大和の征服をめざす東征の宣言である。

「『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐船に乗ってとび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるのによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」

 大和はすでに「天降り」した饒速日命によって治められていたが、そこを征服して国の都にしようということだ。瀬戸内海を東に進み浪速に上陸。生駒山を越えて大和に入ろうとしたが、土地の豪族、長髄彦(ながすねひこ)の抵抗に遭い敗退する。「日の神の子孫であるのに太陽に向かって敵を討とうとしたのは間違っていた。太陽を背に負い敵を襲おう」と、方針を変更して熊野へ迂回し上陸、大和各地に蝟集していた敵を打ち破り、長髄彦との最終決戦に臨む。戦況が膠着したとき、金色の鵄(とび)が飛来して天皇の弓の先に止まった。このため長髄彦の軍勢は戦意を喪失する。長髄彦は使者を送って言上する。

「昔、天神の御子が、天磐船に乗って天降れました。櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)といいます。この人が我が妹の三炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って子ができました。名を可美真手命(うましまでのみこと)といいます。それで、手前は、饒速日命を君として仕えています。一体天神の子は二人おられるのですか。どうしてまた天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。手前が思うのにそれは偽物でしょう」

 天皇は、長髄彦の仕える君が天神の子である証拠を示すように命ずる。長髄彦饒速日命の天の羽羽矢と歩靫(かちゆき)を示した。天皇もまた自らの天の羽羽矢と歩靫(かちゆき)を示す。しかし長髄彦は抵抗を止めなかったため、饒速日命長髄彦を殺害し、天皇に恭順した。長髄彦が忠誠を誓い戦った当の饒速日命に殺される。なんとも納得できないストーリーであるが、神武は饒速日命の手柄と忠誠心をほめたたえた。饒速日命物部氏の先祖であると『日本書紀』は記す。

 東征譚の一つのクライマックスシーンである。長髄というのは地名であり、金の鵄の故事から「鵄の邑(むら)」と変わり、なまって「鳥見」になったと『書紀』は説明する。奈良市の「富雄」がその地名を引き継ぐという伝承から、昭和15年(1940)の紀元2600年祭に「神武天皇聖蹟鵄邑顕彰之地」の聖蹟碑がこの近くに建立された。現在、住宅開発にともなって「登美ヶ丘」や「鳥見町」という新地名が生まれたのもこの謂われによる

 物部氏の伝承をまとめた『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』は、饒速日命の天降りを次のように記載する。

饒速日尊は、天神の御祖神のご命令で、天の磐船にのり、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降られた。さらに、大倭国の鳥見の白庭山にお遷りになった。天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られた。すなわち、“虚空(そら)見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである」

 「河内国の河上の哮峯」はもちろん場所は不明であるが、強いて連想すれば生駒山になる。饒速日命はそこから「大倭国の鳥見の白庭山」へ遷った。鳥見は長髄彦の本拠であり、彼の妹の三炊屋姫を妻にして物部氏の始祖である可美真手命(宇摩志麻遅命)が生まれた。生駒市に白谷という大字があり白庭山の伝承を持つ。周辺の新興住宅地が白庭台と名づけられたのは、この伝承による。鳥見は、大和川支流の富雄川の上流と中流に沿った地域にあたる。物部氏にとって何かと縁の深い土地のようだ。

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     葛城王朝vs物部王朝

 第二代綏靖天皇から第九代開化天皇欠史八代と呼ばれて架空の存在であることが、日本古代史の定説となっている。事績に乏しいこと、和風諡号(しごう)が後世に生まれた言葉で呼ばれていることなどから大和朝廷の歴史を長く見せるための創作とされる。しかし鳥越憲三郎氏は真っ向からこれに異議を唱え、初代神武天皇から開化天皇までを葛城王朝の王であったと主張する。主張の根拠は多岐にわたるが、これらの天皇の宮と陵墓が奈良盆地の西南部に多いことも挙げられる。氏によれば、1世紀頃に九州から葛城王朝の前身にあたる氏族が奈良盆地へ紀ノ川沿いに侵入して西南部に割拠した。金剛山葛城山の麓に根拠地を置き、幾代にもわたった奈良盆地の平定事業が、神武天皇の事績としてまとめられたという。

 この頃、奈良盆地を支配していたのは物部氏であった。物部氏も北九州を拠点にしていたが、弥生時代の初期に全国へ進出、稲作文化を各地で普及させた。天の磐船に乗った饒速日命が、「虚空見つ日本の国」と叫んで天降りした伝承は、大和の最初の王が物部氏であったことを示す。饒速日命を祭神とする神社は大和には二社あり、大和郡山市の名神大社の矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社とその近くにある奈良市式内社の登彌(とみ)神社だ。鳥越氏は、物部王朝と名づけて矢田坐久志玉比古神社が所在する地を王朝の本拠地だとする。ここも富雄川中流域にあたる。そしてこの王朝が邪馬台国であったと論じる。

 氏の邪馬台国論には独自の見解が多く含まれる。卑弥呼倭国の王として共立される前の「大乱」とは、九州で覇権を握っていた奴国を各地の物部一族が連合して滅ぼしたことだとする。「共立」とは、祭事権者と政治・軍事権者を分けて二人の王を立てることだという。

 邪馬台国は南にあった狗奴国と仲が悪くて戦争状態にあったことが『魏志倭人伝』に載る。狗奴国は葛城王朝のことであり、最終的に邪馬台国=物部王朝は滅ぼされる。前述の『日本書紀』の鳥見での戦いであり、これは第八代孝元天皇のときに起きた。古代では敗者は勝者に娘を差し出すという慣わしがあり、物部氏の娘が孝元天皇の后・妃として三人献上されているからである。第九代開化天皇が都を奈良盆地北部の奈良市春日の率川宮に置いたのは、葛城王朝が大和全体を支配下に置いたことを意味する。しかし葛城王朝はここまでで、磯城の地を拠点とする大和朝廷が新たに覇権を握ることになった。

 鳥越氏の説は系譜を詳細に検討し、考古学的な発見も援用したユニークでスケールの大きなものであるが、史料を恣意的にパッチワークした印象は拭えない。欠史八代の陵墓とされるものは年代観がずれたり墓として疑わしいものがある。大和古墳群の存在も無視している。物部王朝と邪馬台国との結びつきも伝承に偏重しすぎている。纏向遺跡が脚光をあびる現在、説としての説得力は乏しいが、『日本書紀』東征譚における物部氏の謎に迫った気になる試みではある。

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*テキスト中の『日本書紀』の引用は、宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀』からによる。

参考
鳥越憲三郎『女王卑弥呼の国』中央公論社
鳥越憲三郎『神と天皇の間』朝日文庫
宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀講談社学術文庫
「天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)」http://mononobe.webcrow.jp/index.html
奈良歴史漫歩 No.039 「長髄彦の故地」http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm042.html

120 八一の唐招提寺の歌と子規の法隆寺の句

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唐招提寺金堂(写真は、「山/蝶/寺社めぐり」から転載)

 会津八一の唐招提寺金堂を読んだ歌は、『南京新唱』の中でもよく知られて人気がある。

    唐招提寺にて
 おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ

 吉野秀雄は『鹿鳴集歌解』でこの歌を「道人(会津八一)の奈良歌中でも最も名高き一つで、景も情も具足しつくしている。私は歌を評する場合、いつも一首の重みということを考えるが、この歌の重みは今人の作としては稀有に属するのではなかろうか。いかにも醇熟し、あたりを払っている感がある。」と絶賛する。金堂の横にはこの歌碑が立つ。

 八一の『渾齋(こんさい)随筆』を読んでいると、この作品が誕生した経緯が書かれていて興味深かった。八一と知人はその日、法隆寺を拝観していて夕暮れとなり月がさしのぼった。西院伽藍の回廊の円い柱が土間に斜めに影を落とした。それを見て「おほてらの‥‥まろき‥‥はしら‥‥まろきはしら」と八一がつぶやくのを同行者は聞いていたという。そのあとバスで奈良へ帰る途中で下車して唐招提寺へ向かった。宵も更けて月は高く空にあった。寺僧も出てきて、金堂の前で話したり歩いたりしたあと、またバスで奈良の宿に帰り着いた。そしてあの歌ができたという。「同じ一と晩のうちに、同じ月の下で、法隆寺で萌した感興」が、「唐招提寺に至って、始めてそれが高調し、渾熟して、一首の歌として纏め上げられた」と自ら解説する。

 ところで、「円い柱」への関心は、若き頃の八一の古代ギリシャへの熱狂的な傾倒から生まれたという。ギリシャ神殿の円柱が頭にしみこんでいて、奈良の古寺の柱に注目したのだろうと自己分析している。

 もちろん唐招提寺金堂の月影の歌はこれだけで完璧であり、作歌事情によって鑑賞に影響を与えるわけではない。一つの作品として完成した姿が読者には提示されるのだが、作者がそこに至るまでは複雑なプロセスがある。それを知りたくなるのも作品の魅力に比例して強まるだろう。

     ○

 この話を読んで浮かんだのは、正岡子規の有名な句「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」である。あの句の着想を得たのは、御所柿を食べながら奈良の宿で東大寺の鐘を聞いたことにあるという説である。すでにいろんなところで書かれているからご存じの方も多いだろう。

 明治28年(1895)、日清戦争の従軍記者として赴いた子規は持病の結核が悪化し、郷里の松山で静養する。小康状態を得て上京する途次、奈良に立ち寄り、10月26日から3泊して古寺をめぐった。宿泊したのは、奈良市今小路押上町にあった對山摟(たいざんろう)である。明治期の奈良の名物旅館で来県する要人の定宿となっていた。28日の夜、子規は好物の御所柿を所望すると、下女は大鉢に山盛りした柿を持ってきた。「梅の精」のような少女に皮をむいてもらい食べていると、鐘の音が一つ聞こえた。東大寺の大鐘が初夜を告げたという。

 この挿話は、子規の随筆「くだもの」に出てくる。「くだもの」には、この時の奈良が柿の盛りで、これまで柿の詩や歌がないことに気づき、奈良と柿を配合することを思いついたと書かれる。実際、この旅では柿の句が多数つくられた。そのひとつが「柿食えば」の句である。随筆には法隆寺の話は出てこない。その体験談からは、「柿食えば鐘が鳴るなり東大寺」となるところを「法隆寺」に差し替えたことになる。フイックションということになるが、それは句を貶めることではなく、むしろ子規の才能を示している。「東大寺」なら、今のようにこの句は人口に膾炙(かいしゃ)しなかっただろう。

 對山摟の跡地には、日本料理の天平倶楽部ができている。ここには子規が宿泊したことを記念して「子規の庭」がつくられた。明治の頃からあったという柿の木のもとに子規の句碑が立ち、「秋暮るる奈良の旅籠や柿の味」の句が刻まれる。

 内輪話となるが、つれ合いが婦人会の会食で天平倶楽部を利用したことがある。食事の前に女将が店の謂われを解説した。對山摟からの歴史を説き起こし、子規の法隆寺の句が実は‥‥という流れになり、熱弁が続いたらしく、食事の時間に食い込んだ。帰りのバスの時刻が決まっていて、最後のコーヒーが飲めなかったと話してくれた。

     ○

 『鹿鳴集』に収載されなかった歌二首が『渾齋随筆』で紹介されている。

 しかなきてかかるさびしきゆうべともしらでひともすならのまちびと

 しかなきてならはさびしとしるひともわがもふごとくしるといはめやも

 八一はこの歌について解説する。「大正十年十一月、奈良客中のある日の夕暮れを、若草山のわきから、宿(日吉館=筆者注)に帰る途中に詠んだもので‥‥(略)。鹿の声はもとより淋しい。それに私の定宿のある登大路のあたりの夜はことに淋しい。しかしそれよりも、私の気持ちの方に、もっと淋しいものがあったのであろう」。この歌を歌集に入れなかったのは「不注意のいたりであった」とまで釈明する。

 歌に表れた情緒は旅人特有の感慨とも受けとれるが、奈良の住人である私も夕暮れの公園近くの町を歩いていて、このような気持ちになることがある。帰るべき家があっても、夕暮れは人をして漂泊の思いを誘う。鹿の鳴き声がことにその思いを引きだすのも、人がそれぞれに抱えた淋しさのツボに触れるからだろう。二首目は、「鹿のなく奈良の夕暮れの淋しさを知る人も、自分が感じているようなこの淋しさを知るだろうか」の意味になる。この孤独感の表白には共感できる。二首セットになって、奈良の淋しさと孤独感の相乗する境地に導かれる歌だと思う。

参考
会津八一『渾齋随筆』中公文庫
会津八一『自註鹿鳴集』新潮文庫
吉野秀雄『鹿鳴集歌解』中公文庫
直木孝次郎「子規と法隆寺(一)・(二)」(『わたしの法隆寺塙新書

119 歴史のなかで揺らぐ天皇陵

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初代神武天皇畝傍山東北陵(奈良県橿原市大久保町)
 

 高木博志・山田邦和編『歴史のなかの天皇陵』(思文閣出版 2010年)は古代から現代までの天皇陵の実態や制度について複数の研究者による報告と討議をおさめる。本書を読むと、時代によって変遷してきた天皇陵の様々を教えられる。

     ○

 天皇陵というと巨大古墳を思い浮かべる。満々と水をたたえたお堀に常緑樹でおおわれた墳墓が影をおとす。瑞垣で囲まれ玉砂利を敷いた拝所は、松や生け垣を刈りそろえ鳥居が立つ。侵しがたい静寂と威厳があたりをつつんでいる。こんな風景が浮かぶが、天皇陵のこのようなおごそかなイメージは近代になって作られたものだという。

 天皇陵が制度化された時期は、2回ある。ひとつは明治期、もうひとつは7世紀末から8世紀にかけてである。天皇という呼称が使われる年代については複数の説があり確定できないが、律令国家として本格的なスタートを切った7世紀末には使用されていたことは間違いない。それより古い大王(おおきみ)の葬られた巨大前方後円墳は、7世紀には築造されなくなっていた。これらの古墳では代替わりの時の「首長霊祭祀」が行われても、以後まつられた形跡はないという。律令国家は天皇を頂点とする体制の国土統治を正統化するために「記紀神話」を創作し、天照大神を始祖とする皇統譜を編む。伊勢神宮祭祀、『日本書紀』の編纂と並んで、歴代天皇陵の指定と管理は、政治的な目的があった。

 持統天皇5年(691)には、天皇陵を管理する陵戸を置く命令が出ている。この頃から天皇陵の治定が始まり、30年~40年かけて治定を完了させたのではないかという。何百年もさかのぼる古墳は祭祀も絶え明確な記録もないなかで、治定は容易ではなかったと想像できる。天皇陵と皇族陵の管理にあたったのは諸陵寮である。毎年十二月に、諸国の貢ぎ物である調の初物を諸陵へ奉る「荷前使(のさきのつかい)」が派遣された。921年に編纂し終えた『延喜式』の天皇陵のリストは、ここで原型が作られたのである。

 7世紀半ばには「薄葬令」も出て巨大古墳は作られなくなっていた。持統天皇天皇として初めて火葬され、天武天皇陵に合葬される。火葬は文武天皇元明天皇元正天皇とつづく。元明天皇は「火葬した場所を墓として土を盛ることなく植樹し刻字の碑を立てよ」と遺言して、墳丘を否定した。薄葬は唐の影響で天子の徳を表したらしい。

 薄葬は平安時代の初期に究極な形に行きつく。嵯峨天皇は山中に埋葬して隠密にし供養はするなと遺言する。驚いたことに淳和天皇は山中に散骨された。このため『延喜式』には二人の陵は存在しない。

 仏教が平安時代以後、陵墓のあり方に強い影響を及ぼしていく。仁明天皇陵には嘉祥寺が建ち、寺が陵の管理や供養を行う形態が生まれる。さらに堂塔を建立し床下に天皇の骨壺をおさめる「堂塔式陵墓」が出現、後一条天皇白河天皇鳥羽天皇近衛天皇らのケースである。宮中においても神仏習合は深く浸透したのである。明治に治定された古代の天皇陵で本人であることが確かなのはわずかしかないが、平安時代から室町時代天皇陵もそれは変わらず、治定に信憑性があるのは、寺院で管理されてきたものだという。

 江戸時代になると、泉涌寺(せんにゅうじ)の一画が天皇家の墓地となり、天皇毎に石塔が立ち葬られる。宮中には「御黒戸(おくろど)」と呼ばれる位牌所があり、天智天皇を初代として光仁桓武とつづく歴代天皇の位牌がまつられる。古墳の管理は朝廷や幕府を離れ、村の入会地になったり灌漑に利用されたりする。祠が作られ、安産や豊作の神様として信仰を集めたりする。

 元禄期や享保期に天皇陵の調査が行われているが、幕末の文久年間(1862~65)の調査は修陵を伴うものであった。これは当時の政情を受けて幕府が公武一体や諸大名の結集をねらって行った。注目されるのは、このとき仏式を廃して神道式が採用されたことである。所在不明であった神武天皇陵が治定され、田んぼの中の二つの塚が柵で囲まれ鳥居が立つ。これ以後、整備を重ねて現在見るような広大な陵に変貌していく。

 文久の治定・修陵は明治に引き継がれる。藩閥政府は「万世一系天皇」というイデオロギーを国民統合のための思想的な要とする。このため様々な施策や制度を設けたが、切れ目ない天皇陵の存在は「万世一系」を視覚化する上で大きな役割を期待された。また、欧米に対して日本の古い歴史をアピールする意図もあったらしい。

 神仏分離は宮中においても徹底され位牌は排除、先皇への祭祀は皇霊殿で行われるようになる。天皇陵は聖なる場所とされ、それにふさわしく整備されて一般の立ち入りは厳しく制限される。神社に参拝するように、鳥居越しに礼拝するという形で天皇陵に接する習わしが形成されたといえる。

 慶応2年(1867)に崩御した孝明天皇は、それまでの石塔ではなく円墳を築造し土葬された。明治天皇大正天皇昭和天皇は下方上円墳に土葬されている。古代にあった墳丘が復活したのである。

 敗戦後、神聖天皇制は象徴天皇制に変わった。しかし、天皇陵の扱いは戦前と基本的に変わらぬままで来ているだろう。時代によって天皇陵のあり方は大きく変わり、それらの捉え方も揺らいでいる。天皇陵という問題は、歴史のなかの天皇を考える上で豊富な材料を提供してくれそうだ。

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文久修陵前の神武天皇畝傍山東北陵荒蕪図(『御陵画帖』)、神武陵
の所在地については現在も論争がある

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現在の神武天皇畝傍山東北陵

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第76代近衞天皇安楽寿院南陵 (京都市伏見区竹田浄菩提院町)、塔の
下に天皇の骨壺をおさめた「堂塔式陵墓」

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月輪陵(京都市東山区 泉涌寺内)、第108代後水尾天皇から第118代
桃園天皇の11代の天皇の石造九重塔がある

参考
高木博志・山田邦和編『歴史のなかの天皇陵』(思文閣出版 2010年)

118 安康天皇陵は何時から行方不明になったのか

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宝来山古墳

     安康天皇陵は中世の山城跡

 第二十代安康天皇陵は菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ=奈良県奈良市宝来4丁目)と称され、現在地に治定(じじょう)されたのは明治になってからである。第二阪奈道路の宝来ICの脇に位置するが、ここは中世の山城である宝来山城のあった場所であり、古墳につながるような遺物は出土していない。

 菅原伏見西陵から南東へ約1km離れて第十一代垂仁天皇の菅原伏見東陵(すがはらのふしみのひがしのみささぎ=奈良県奈良市尼辻西町)がある。墳長227m、前方部幅118m、後円部直径123mの広い周濠を持つ大型前方後円墳で通称は宝来山古墳、古墳時代初期中葉(4世紀中頃)の築造と見られている。宝来山は中国の伝説である東海に浮かぶ理想郷、蓬莱のことであり、水を湛えた周濠に濃い緑の影を落とす古墳は、美しい蓬莱をイメージさせる。

 宝来山古墳はいくつもの陪冢を持ち、そのひとつである直径約40m、高さ約8mの円墳である兵庫山古墳は、元禄期に安康天皇陵とされたことがある。しかし、『宋書』にも登場する「倭の五王」の大王である安康天皇の陵としてふさわしいとは思えない。

 菅原には天皇陵にふさわしい大型の前方後円墳は、宝来山古墳しかない。現状では、安康天皇陵の存在そのものが宙に浮いた状態である。

 二人の天皇陵が治定された根拠は、『延喜式』諸陵寮の記述による。

 「菅原伏見東陵 纏向珠城宮御宇垂仁天皇 在大和国添下郡 兆域東西二町・南北二町、陵戸二烟、守戸三烟」
 「菅原伏見西陵 石上穴穂宮御宇安康天皇 在大和国添下郡 兆域東西二町・南北三町、守戸三烟」

 二つの陵は近接していて、ほぼ同規模であったようだ。陵戸は陵の管理に専任してあたる者であり、守戸は他に生業を持ちながら陵を管理しその代わり税金を免除される。東陵に陵戸二烟が付くのは、それだけ大切に管理されていたということだろう。『延喜式』が完成したのは927年、少なくともこの頃は、二つの陵は実態として存在していた。宝来山古墳が菅原伏見東陵に治定されたのは、江戸時代から垂仁天皇陵とされていた経過にもとづく。そして安康天皇陵は江戸時代にはすでにその存在が不明であった。

     市庭古墳は垂仁天皇陵と見られていた

 二人の天皇陵は『古事記』にも登場する。そこには垂仁天皇陵は「菅原之御立野中(すがはらのみたちのなか)」、安康天皇陵は「菅原之伏見岡(すがはらのふしみのおか)」に在ったと記される。ふたつの天皇陵が菅原という地域にありながら、それぞれの立地条件が「野」と「丘」と異なっていたことになる。ここに着目して、今尾文昭氏は、垂仁天皇陵が平城宮造営に伴って消失した市庭古墳であったことを論証されている。

 市庭古墳は推定墳長253m、前方部幅164m、後円部直系147mの古墳時代中期中葉(5世紀前半)の大型前方後円墳であった。平城宮にかかるため前方部が削平され、後円部も周濠を池にした庭園に改造された。のちに古墳として復活したが、外観が円墳となり、幕末に平安時代初期の平城天皇陵「楊梅(やまもも)陵」に指定された。

京の造営で「墳墓が見つかったら埋め戻し、酒を注いで魂を慰めよ」という勅が『続日本紀』に見える。市庭古墳でもこのような「墓じまい」が行われたことだろう。

 『続日本紀』には「菅原の地の民90余家を移し、布と穀を支給した」という記録もある。これは、宮の地域内にあった民家を移転させたものだと考えられ、菅原という地名が平城宮の範囲にも及んでいたことになる。宮ができる前の宮内の下ツ道西側溝跡から「大野里(おおののさと)」と読める木簡が出現している。「菅原大野里」が平城宮となる前の地名であったのだろう。「大野」も「御立野中」も北側から広がる佐紀丘陵の先端の地形上の特徴にちなむ名付けであった。以上に述べたことから市庭古墳が菅原之御立野中にあった垂仁天皇陵に見なされていたというのが今尾氏の推論である。

 ここからさらに「律令国家は当初、市庭古墳を垂仁天皇陵に比定していたが、奈良時代になって秋篠川西方の同規模の前方後円墳、宝来山古墳に比定を替えた」(『天皇陵古墳を歩く』128頁)という推測が導かれる。

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     安康天皇陵と見られていた宝来山古墳

 『古事記』では、安康天皇陵は「菅原伏見丘」にあったとされる。「菅原伏見」という地名、「丘」という地形的特徴は、宝来山古墳にふさわしい。西ノ京丘陵の東端に位置するからだ。今尾氏の説では、平城遷都間もなく安康天皇陵であった宝来山古墳を垂仁天皇陵に治定替えしたということになる。しかし、『古事記』以後に編纂された『続日本紀』や『日本書紀』の記述を見ると、異なる推測も成り立つように思う。

 『続日本紀』の霊亀元年(715)4月に、「櫛見山陵(くしみのみささぎ=垂仁天皇陵)に守陵三戸を充つ。伏見山陵(=安康天皇陵)に四戸」という記録がある。守陵は守戸のことである。『古事記』が完成したのは和銅5年(712)であり、平城遷都以前の情報が記載されたと見られる。その3年後の記録として、垂仁天皇陵は「櫛見山陵」と新しい名称になり、安康天皇陵は『古事記』の「伏見」を引き継いでいる。注釈によれば、「櫛見」は「伏見」のことである。さらに5年後に完成した『日本書紀』には、垂仁天皇陵も安康天皇陵も「菅原伏見陵」と同じ名称である。

 律令国家は垂仁天皇陵である市庭古墳を破壊したから、早急に償う必要があった。遷都間もない715年に垂仁天皇陵の櫛見山陵に3守戸をあてがったという記事は、市庭古墳に代わる新たな陵を菅原伏見の地に築造したということではないだろうか。この時、安康天皇陵の宝来山古墳はそのままにして、これには4守戸を設けた。築造といっても一から築くのではなく、丘陵の地形を利用した相当規模の範囲を陵に指定して、守戸に管理させたのである。一面では偽造であり、一面では改葬である。その地は、秋篠川に近い宝来山古墳の西側にあたるだろう。

 おそらく奈良時代は二つの伏見陵はそのままに維持されていただろう。平安時代に入っていつの間にか二つの伏見陵の被葬者が入れ替わるということが起きた。すなわち『延喜式』の「伏見東陵」は垂仁天皇陵となり、「伏見西陵」は安康天皇陵となった。宝来山古墳である「伏見東陵」の堂々として美しい姿に対して、本物の古墳ではない「伏見西陵」は見劣りしただろう。『古事記』と『日本書紀』に描かれた二人の天皇の存在感には歴然たる差がある。垂仁天皇陵には宝来山古墳=伏見東陵がふさわしいという意識が生まれ定着していった。中世になれば、天皇陵の管理も行き届かず放置される。菅原伏見西陵は丘陵の自然に帰り消えていく。憶測を重ねたが、これがもう一つの説である。

 安康天皇陵は何時から行方不明になったのか。平安時代の初期にその端緒があり、近世に至るまでの長い時間をかけて「蒸発」したのである。

 もちろん本当の安康天皇陵は地上のどこかに実在している可能性はある。ただ宝来山古墳の年代観と安康天皇が存在した時代とは1世紀以上離れているので、リアルな次元ではそもそも二つは結びつかない。そういう意味では、市庭古墳と垂仁天皇も結びつかない。宝来山古墳と垂仁天皇は両者とも古墳時代初期に位置づけられるが、今のところ一致する確証はないし、垂仁天皇がはたして実在したのかさえ本当のところわかっていないのである。 

■二陵の名前の比較
 ○文献         ○垂仁天皇陵      ○ 安康天皇
古事記(712年)    菅原御立野中    菅原之伏見丘
続日本紀(715年)   櫛見山陵      伏見山陵
日本書紀(720年)   菅原伏見陵     菅原伏見陵
延喜式(927年)    菅原伏見東陵    菅原伏見西陵

参考
今尾文昭『天皇陵古墳を歩く』朝日新聞
高木博志他編『歴史のなかの天皇陵』思文閣出版
青木和夫他校注『日本思想体系 古事記岩波書店
青木和夫他校注『新日本文学大系 続日本紀一』岩波書店
坂本太郎他校注『日本書紀二・三』岩波文庫
『新訂増補國史体系 延喜式中篇』吉川弘文館

号外 「奈良をもっと楽しむ講座」11月13日(金)開催

テーマ「 棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか 」
~当時の資料から読み解く明治・大正の平城宮跡保存運動~

社会的地位や財産もない植木職人の棚田嘉十郎が、なぜ平城宮跡保存のキーマンになれたので しょうか。それは時代背景と密接に関わっています。実際の彼の行動を詳しくたどり、時代的な 視点から解き明かします。また、自決へ至る謎にも迫ります。

講師は本ブログの筆者です。

開催日時 令和2年11月13日 午前10 時~12 時

参加費(資料代含) 300 円

会 場 中部公民館 5 階ホール 奈良市上三条 23-4 (駐車場はありません)

 NPO 法人 奈良まほろばソムリエの会 講座グループ代表 福井 洋 (連絡先 : 前田康一 090-3657-5445)

新型コロナ感染対策と申込予約 http://www.stomo.jp/osirase/pdf/osirase201018.pdf

奈良歴史漫歩107「棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか(前編)」

奈良歴史漫歩108「棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか(後編)」

番外 朱雀大路延長500mの完全復元を!

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更地になった積水化学工場跡。三条通りから朱雀門まで見通せる。右側の民家は朱雀大路跡の東部分を占める。

 奈良市三条大路にあった積水化学工場は、三条通りか大宮通りを利用して車で奈良市街に出ることの多い私には、もの心ついて以来目に焼き付いた風景だった。工場ができたのは昭和32年(1957)だという。いわゆる進駐軍の施設跡の利用だった。その前は農地として1000年以上ほぼ変わらぬ風景が広がっていたのだろう。ここが平城京であったときは、右京三条一坊の南東を占めて、朱雀門に近く朱雀大路も含む京の中でも重要なエリアであった。

 現在、工場は撤去され、三条通りから大宮通りまで遮るものもなく見通せる更地である。土が剥き出しになって街中に突然出現した6haの四角形の空地は、それ自体、非日常的なシーンとして興味をそそるが、この風景も一時的なものである。奈良県は、「平城宮跡歴史公園 県営公園区域」に追加する「平城宮跡南側地区」として整備する予定であり、その基本計画(案)の意見(パブリックコメント)を募集している(10月31日まで)。

 これに応じて私も意見を応募した。

 県が作成したパンフレットには、南側地区を①朱雀大路保存エリアと②多目的エリアの二つに分ける。それぞれは、「①朱雀大路保存エリア 朱雀大路の遺構部分を将来世代に引き継ぐよう保全し、往事の平城京の広がりを体感できるエリアとします。」「②多目的エリア 景色を楽しめるような休憩施設等を整備し、広い平城宮跡歴史公園の中で比較的少ない憩いやくつろぎ空間を創出します。また、来訪者のアメニティが向上するよう、駐車場、便益施設等を併せて整備します。」とある。

 地図で見ると、更地の東端部分が30m~50mの幅で朱雀大路にかかっている。朱雀大路の幅は約90mあるから、大路の西半分が復元整備されることになる。これには大賛成である。しかし、西半分しか復元できないというのは、非常に残念だ。

 朱雀門の前に立って南を望むと、広場にしか見えない大路が約250m先まで広がる。このスケールには驚く。さらにこの道幅をもって南へ4kmまっすぐ羅城門まで伸びていたのである。奈良時代には自動車はもちろんなく、道を利用するのは人や牛馬に限られる。この道幅は実用的なものではなく、理念的なものであった。律令国家のスタートを切ったばかりの日本は、文明と同義であった唐から文明国として認知されるために、唐の諸制度を取り入れるとともに長安をモデルにした平城京を建設した。当時の日本の国力には分不相応なものであったが、為政者たちの夢と野心の賜物であった。

 現在復元された朱雀大路も壮観である。それがさらに二倍延長され、京の条坊の一坊分の大路が完全復元されれば、往事の平城京をどんな説明やVRよりも雄弁に体感できることは間違いない。それはしだれ柳と築地塀に囲まれた、ある意味で異様な「何もない」空間であるが、我々の日常的な想像力を心地よく超えて、奈良の古代史に導いてくれる新たなシンボルとなるだろう。

 奈良のシンボルを一つ増やせる千載一遇のチャンスである。もちろんその実現が容易ではないことはわかる。民家の移転には住民の理解が必要であり、それには手間と時間と費用がかかる。簡単に言えることではないが、更地になった南側地区が換地として利用できるのも良い条件になるのではないか。

 多目的エリアについては、駐車場と緑地帯にすることが望ましいと思う。平らな土地である利点を生かして芝地とし、サッカー、草野球、グランドゴルフ、児童公園など市民のスポーツ、リクレーションに供したい。災害などの非常時には避難場所にも転用できる。正倉院を復元する案もあるらしいが、正倉院風ログハウスにして、吉野の間伐材も使用した倉庫を作り、災害に備えた物品を備蓄しておくというのはどうだろう。屋根には太陽光パネルを貼る現代の正倉院である。

 県のパンフレットを見ると、観光客向けの施設や商業施設を建設することが想定されているように読める文言がある。朱雀門前の向かって左の県営エリアには天平うまし館・天平みつき館・天平みはらし館・天平つどい館があり、右の国営エリアには平城宮いざない館がある。さらに県営の歴史体験館の建設も予定されている。これだけ作ってまだやるのかというのが正直な思いである。何時行っても観光客はまばらで、維持のためにどれだけ税金が注がれるのかと思うと恐ろしくなる。今ある施設をもっと魅力的なものにすることに知恵をしぼってもらいたい。もうこれ以上のハコモノはいらない。

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<概要版>「平城宮跡歴史公園 県営公園区域 基本計画(案)」パンフレットより

 ○ 「平城宮跡歴史公園 県営公園区域 基本計画(案)」に対する意見の募集について
http://www.pref.nara.jp/item/235831.htm#moduleid53310

117 新薬師寺・香薬師像の三度の盗難と戻ってきた右手

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盗難前の香薬師像。明治21年小川一真撮影
 

     白鳳仏の傑作

 奈良市高畑町に所在する新薬師寺は、光明皇后聖武天皇の病平癒を願って創建した古刹である。七体の薬師如来像を安置した金堂を中心に七堂伽藍整う巨大な寺院であったが、相次ぐ被災を経て創建時の建物は、かつて修法を行ったと言われる現在の本堂を残すのみである。本堂には平安初期の薬師如来座像が鎮座し、その周りを奈良時代十二神将が取り囲む。いずれも名高い国宝である。寺にはもう一体、有名な仏像が存在した。白鳳時代(7世紀後半から8世紀初頭)の傑作だとされる香薬師像である。本堂の西に建つ新しい香薬師堂にまつられた像はそのレプリカである。

 香薬師像は、昭和18年(1943)3月、盗難に遭ってその行方は今もようと知れない。写真で見る像高約74センチの金銅仏は、童子のような無垢で柔和な印象を与える。この時代の仏像特有の雰囲気を一身に体現しているようで、多くの仏像ファンを魅了する。歌人・美術史家の会津八一(1881~1956)は、奈良を訪ねるたびに香薬師を拝したという。歌集『南京新唱』には、香薬師を歌った三首が収められる。その一首が境内の石碑に刻まれた。八一の最初に立った歌碑だという。

 ちかずきてあふぎみれどもみほとけのみそなはすともあらぬさびしさ
 (大意 近寄って仰ぎ見ても、み仏が自分を認めてご覧下さることもないこのうらさびしさよ)

 次に他の二首も挙げる。(大意は、吉野秀雄『鹿鳴集歌解』から引用した。)

 かうやくしわがをろがむとのきひくきひるのちまたをなずさひゆくも
 (大意 香薬師を拝もうと、軒の低い小家続きの真昼の町に心親しみつつ、新薬師寺への道をたどっていく)

 みほとけのうつらまなこにいにしへのやまとくにばらかすみてあるらし
 (大意 香薬師のうつらうつらした仏眼に、遠きいにしえの大和国原はいまも霞んでいるらしい)

 亀井勝一郎(1907~1966)は『大和古寺風物誌』の中で香薬師を絶賛した。

 「香薬師如来の古樸で麗しいみ姿には、拝する人いずれも非常な親しみを感ずるに相違ない。高さわずかに二尺四寸金堂立像の胎内仏である。ゆったりと弧をひいた眉、細長く水平に切れた半眼の目差、微笑していないが微笑しているように見える豊頬、その優しい典雅な尊貌は無比である。両肩から足もとまでゆるやかに垂れた衣の襞の単純な曲線も限りなく美しい。‥‥どこかに飛鳥の楚々たる面影を湛えて、小仏ながら崇高な威厳を保っている。」

     三度の盗難

 ところで香薬師像は昭和18年の盗難の前にも明治に二度も盗難にあっている。いずれも発見されて仏像は寺に戻ってきている。これもよく知られた事実で、いやが上にも好奇心をかき立てる。これらの事件を詳しく知りたいと前から思っていたが、最近、貴田正子氏の著書『香薬師像の右手~失われたみほとけの行方~』(講談社2016年刊)を読んで、その機会を得た。この本を元に事件をたどり、後日談にも触れてみたい。(ネタバレがあります。)Amazonにある本の要旨を紹介しておく。

 「奈良・新薬師寺の香薬師像は、旧国宝に指定され、白鳳の最高傑作といわれた美仏。しかし、昭和18年に盗難に遭い、未だに行方が分かっていない。この香薬師像を見つけ出そうと、元産経新聞の記者である著者が取材を開始。新薬師寺住職の全面的な協力を得た調査の結果、衝撃の新事実が発覚。ついに、像の一部である「右手」を発見する……。美術史的にも非常に意義のある大発見までの経緯をまとめた、渾身のノンフィクション。」

 著者が香薬師像に初めて出会ったのは、新聞記者として最初に勤務した茨城の笠間市においてだった。戦後すぐ笠間町は「国宝コピー仏像」を展示する町営の美術館を創設し、そのひとつが石膏製の香薬師像だった。美術館はすでになく倉庫に眠っていた香薬師像の愛らしさに著者は一目惚れする。それから元の仏像について、コピーが製作された経緯について取材が始まる。

 盗難事件は新薬師寺にもほとんど記録が残っていなかった。当時の新聞記事や公文書を博捜して明治の事件が明らかにされる。1回目の盗難は明治23年(1890)1月に発生した。この時は、寺の西800メートルほどの喩伽山にある天満天神社の境内に放置された状態で仏像は発見された。折られた右手がそばにあった。黄金仏とも称されていたことから純金を狙った盗みと推測された。手を切断して純金製でないことを確かめ捨てられたようだ。

 2回目の盗難は明治44年(1911)6月に起きた。仏像は本堂内の厨子に収められ鍵は掛かっていなかった。深夜、留守居の者が本堂の方で物音がするのを聞いているが見回ることはせず、翌朝も本堂入り口の鍵に異常はなかったので不審を抱かなかった。気づいたのはその翌日、厨子を開けた時だった。捜査は難航し、寺は事件解決につながる通報者に100円の懸賞金をかけた。盗難から約10日後、大阪府東成郡墨江村(大阪市住吉区)の草むらに地元の人が捨てられた仏像と右手を見つけ警察に通報し、香薬師像だとわかった。両足は足首から切られて見つからなかった。像は寺に戻り、通報者には100円が払われた。今回も純金目当ての盗難だと推測できる。

 二度の盗難に懲りて、篤志家たちの寄付で仏像を安置する香薬師堂が大正6年(1917)に建てられた。右手は銅板で継がれ、失った両足は木製で補われた。死角(四角)がないようにと五角形の厨子に収められた。

 だが、二度あることは三度あった。昭和18年3月26日の朝、お堂の錠がバールのようなもので壊され、仏像が消えていた。6年前に東大寺法華堂の本尊、国宝の不空羂索観音像の宝冠が盗まれるという事件が起き未解決だったので、奈良県警は戦時下であったが大捜査態勢を組んだようだ。その捜査にかかって時効寸前だった宝冠は見つかり犯人も逮捕されたのは幸運だったが、香薬師の行方はわからず迷宮入りとなった。

     現場に残った像の右手とレプリカ

 著者は資料を調べていたとき、奈良古美術の写真館「飛鳥園」の創設者、小川晴暘(せいよう・1894~1960)の文章に目がとまる。3回目の盗難の直後、奈良県警の捜査室で像の右手と木で補作された両足を目撃したことが記されていた。現場に残されていたものだという。新薬師寺の住職、中田定観氏はこれを知って驚愕し容易に信じられなかったという。定観氏は昭和19年(1944)に寺で生まれ育った方である。先々代の福岡隆聖(りゅうせい)師と先代の中田聖観師(1917~2010)とずっと同じ屋根の下にいて、そのことを聞いておられなかったようで無理もない。だが、犯人はなぜ現場に右手と両足を残していったのか?盗まれた像はどんな姿だったのか?新たな謎が生まれた。

 著者が香薬師に関心を持ったのは、前述したように茨城県笠間市の像のレプリカに出会ってからである。レプリカはどのように製作されたのか。実は盗難の直前、昭和17年(1942)に二人の彫刻家がそれぞれに像の石膏雌型をかたどっている。笠間の石膏レプリカはその雌型を使用したものだ。他にも銅像製や樹脂製のレプリカが出回っているが、このふたつの雌型が元になっている。

 銅製レプリカが香薬師堂に収まった経緯も明らかになった。文藝春秋社の元社長・佐佐木茂索(1894~1966)は、昭和24年(1949)に妻を亡くす。ひどく悲しんだ佐々木は、交流のあった東大寺観音院住職の上司海雲師(1906~1975)に相談して、観音院に仮寓していた水島弘一(1907~1982)が香薬師の雛形をかたどり所持していたことを知る。佐々木は全額出資して雛形から複製銅像を作り供養することを考える。文化勲章を受章した鋳金工芸家の香取秀真(かとりほつま・1874~1954)に依頼して三体製作した。一体は新薬師寺に寄贈し、一体は謝礼として上司の観音院に置かれ、一体は佐々木が所蔵した。観音院の像は、文化サークル「七人会」のメンバーの鈴木光(元三共製薬会長・鈴木万平の妻)に譲渡されたあと奈良国立博物館に寄贈された。佐々木が所蔵した像は、佐々木の死後、遺族によって鎌倉の檀家寺・東慶寺に寄贈されている。

 もうひとつの雛形は、奈良一刀彫りの第一人者の竹林薫風(1903~1984)がかたどった。これからも銅像が製作され新薬師寺に収められたが、現在この型の像は寺には存在しない。

 水島弘一の子息、水島石根(いわね・1939~)氏も彫刻家であり、雛形について新たな情報が提供された。弘一が雛形を取るとき、右手と両足、蓮華座を新たに作りつなぎあわせたという。雛形を取る前に右手だけが盗まれるという事件があり、右手を新調したついでに両足、蓮台も作ったらしい。本物の右手はその後、寺の庭で発見されたという。この証言により、盗難現場に本物の右手と補作した足が残されていた理由が判明した。盗まれた像には新調した右手と足がついていたのである。国宝のこの修理について公式な記録はない。

 小川晴暘が警察署で目撃した本物の右手は寺に返却されただろう。しかし寺にはなく、その行方の手掛かりはまったく掴めなかった。立ちはだかった厚い壁に穴があいたのは偶然のようであり、また然るべき必然性があった。平成26年(2014)11月、仏像美術史家の水野敬三郎氏(1932~)が四天王の調査で新薬師寺を訪ねたとき、定観師が「香薬師のことで何かご存じありませんか」と尋ねたら「昔、香薬師の手を見たことがある」との答が返ってきた。

 昭和37年(1962)の冬、水野氏は恩師の仏像研究家・久野健(くのたけし・1920~ 2007)とともに佐佐木茂索が所有する法隆寺の塑像の調査で佐々木宅を訪れた。佐々木は不在であったが、そのとき夫人から香薬師の右手を見せられた。二人は驚き観察した。その記録と写真を水野氏は大切に保存していた。しかし発表されることはなかった。

 著者は佐々木の遺族と連絡を取る。しかし夫人は高齢で取材に応じられず、家には右手はないという返事が返ってきた。著者の夫の貴田晞照(きしょう)師は修験道者にして「気」の世界の治療家であり、中田定観師とは信頼しあった仲である。貴田師の「右手は東慶寺にある」という意見を受けて、中田師は東慶寺に問い合わせの手紙を送る。けれども応答はない。直接に東慶寺を訪ねようとした前日、寺から連絡が入り「前向きな話をさせていただきたい」と告げられた。

 東慶寺の住職は、2年前先代が死去され後を継いだ若い井上陽司師である。手紙が他の書類に紛れ返答し損なったことを詫び、木箱が差し出された。蓋を開け取り出されたものは、台座に載った驚くほど小さくかわいい右手であった。箱書きは現代語訳すると、「新薬師寺の香薬師の御手である。わけあって昭和二十五年初夏、この箱を作り、謹んで安置する。佐佐木茂索謹んで誌す」とあった。もうひとつあり、「平成十二年十二月一日佐々木茂策氏命日に夫人泰子東慶寺奉納 禅定謹誌」とあった。禅定というのは、先々代の住職の井上禅定師のことである。

 佐佐木茂索は昭和25年に香薬師の複製銅像を新薬師寺に寄贈している。その年の初夏に像の本物の右手が寺から佐々木に渡った。当時の国宝であるから然るべき手続きが必要だと思うが、それはなかったようだ。著者はあえて明言することを控えているが、それが関係者の口を閉ざさせ、右手の行方を不明にさせたのだろう。なにしろ住職の中田定観師もまったく知らなかったことなのである。佐々木が所蔵した複製銅像が泰子夫人から東慶寺に寄贈されたのは、模索の死後26年後、右手が寄贈されたのはその8年後であった。

 平成27年(2015)10月12日、香薬師の右手は65年ぶりに新薬師寺に戻ってきた。貴田晞照師が中を取り次ぎ、東慶寺から受け取った右手を定観氏に手渡し、本尊の薬師如来座像に香薬師如来像の右手が返還されたことを報告する法要が執り行われた。水野敬三郎氏は鑑定し本物であると太鼓判をおした。右手の返還は一連の経過を含めて文化庁に報告された。

     香薬師像の行方          

 香薬師像は寺の伝承では、光明皇后の念持仏であったという。皇后が創建した香山(こうせん)寺の本尊となり、新薬師寺が創建されると丈六薬師如来の胎内仏となった。火災にあって胎内から取り出され、寺で守護されてきた。像には火を被った跡が残るが、この由緒に史料的な裏付けはないようだ。

 「白鳳三仏」と呼ばれる仏像がある。東京・深大寺の釈迦如来倚像、法隆寺の夢違観音菩薩像、香薬師如来像である。三仏には共通点が多くて、同一作者または同一工房で製作されたという説がある。香薬師像の与願印を示す左手の掌には薬壺がのる。薬壺が現れるのは平安時代になってからと言われ、後世の補作でなければ最古のケースとなる。香薬師像が戻ってくれば、これらの学術的研究も進むだろう。

 著者が香薬師に関心を抱いたのは、新聞記者として取材した平成6年(1994)であった。取材を再開したのは、平成25年(2013)に貴田夫妻の元に香薬師のレプリカ銅像が現れ購入したことがきっかけだった。それは竹村がかたどった雌型の系譜につらなり、人間国宝鋳金作家の齋藤明(1920~2013)が鋳造したものだった。著者はすでにフリーの立場であったが、香薬師との不思議な縁を感じた。単なる取材者を超えた当事者的な情熱を持って取材に邁進した。取材の経過を追っての記述はミステリー小説を読むような面白さがある。ただ夫の神秘的な能力を賛美したり、生業の治療院の宣伝とも受け取れるような部分には引いてしまったが。香薬師の右手が発見され新薬師寺に無事に戻ったのは本当に良かったと思う。それに与った著者の功績は大きい。明治の盗難は純金狙いであったが、昭和の盗難は像の骨董的価値が動機になっているだろうから、人の目を避ける何処かに秘匿されている可能性が高い。著者は「これからも私は香薬師像の行方を追う取材を続ける。香薬師の高貴でやさしい、そして霊験あらたかな“うつらまなこ”が、再び世を照らす日が来るのを強く信じて――」と本の最後に記す。

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香薬師像の右手

参考
貴田正子『香薬師像の右手~失われたみほとけの行方~』講談社
会津八一『自注鹿鳴集』新潮文庫
吉野秀雄『鹿鳴集歌解』中公文庫
亀井勝一郎『大和古寺風物誌』新潮文庫
奈良国立博物館『白鳳~花開く仏教美術~』展覧会カタログ

116 「たまきはる命は知らず」――安積親王の死

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安積親王陵墓(京都府相楽郡和束町

     遷都さなかに急死した親王

 天平16年(744)閏正月1日、恭仁宮の朝堂に百官を集め異例の諮問があった。「恭仁京難波京のどちらを都にすべきか」と意見を募ったのである。恭仁京と答えたのは、五位以上の者24人、六位以下の者157人。難波京を選んだのは、五位以上23人、六位以下130人であった。さらに市場に公卿を派遣して庶民の意見も聴取した。難波と平城と答えた各1人以外はすべて恭仁京を望んだ。専制政府の前代未聞の「アンケート」がどのような意図で行われたのかよくわからないが、為政者のこの時期の動きから見て彼ら自身非常に混乱していたことがわかる。

 閏正月11日、聖武天皇の鹵簿(ろぼ)は恭仁京から難波へ向かった。天皇の皇子、県犬養広刀自(あがたいぬかいひろとじ)夫人を母とする安積(あさか)親王も扈従(こじゅう)したが、河内の桜井頓宮(現、東大阪市六万字)で脚の病のため恭仁京へ引き返した。翌々日、薨去する。17歳であった。恭仁京の留守官は、知太政官事従二位鈴鹿王と参議民部卿従四位上藤原仲麻呂であった。

 安積親王神亀9年(728)の生まれ。この年、光明皇后所生の皇太子、基(もとい)王は満1歳に足りず病没している。病気平癒のため寺社に祈願させ殺生を禁じ、亡くなると全国が喪に服し慰霊のため山房を創建した。『続日本紀』には「天皇、はなはだ悲しむ」と記録する。しかし、安積親王の死に際しては、大市王、紀飯麻呂を葬儀采配のため派遣したことが書かれるだけである。

 聖武には光明皇后との間に阿倍内親王県犬養広刀自夫人の間に井上内親王不破内親王がいた。唯一の男子皇子の安積親王が亡くなり、皇女のみになった。阿倍内親王はすでに天平10年(738)に立太子されていて、次期天皇の座は約束されていた。しかし、その次の皇嗣が誰になるかはまったく不明であった。その中で安積親王聖武の唯一の皇子として台風の目になる可能性が高かっただろう。母の県犬養広刀自夫人は県犬養(橘)三千代の縁で輿入れしたのだろうか。光明皇后が出た藤原氏ほどの名門ではないが、天皇となる資格に根本的な問題があったとは思えない。朝廷を揺るがす出来事であったはずだが、親王の死を伝える『続日本紀』の記述は素っ気ない。

 この後に起きたことをたどる。2月に入り、恭仁宮にあった駅鈴と内外の印を難波宮に運ばせた。内外の印とは天皇太政官の印であり、駅鈴は朝廷の命令を各地に伝達する使者の身分証明にあたる。恭仁京の留守官を新たに5人命令しているが、藤原仲麻呂の名前はこの中になかった。高御座と大盾、武器類も運んだ。2月26日、勅があって、難波宮を皇都にすることが発表された。だが、この時、天皇の姿は難波にはなく紫香楽宮にあって、前年から始まった大仏造立工事に立ち会っていた。翌年(745)の正月には紫香楽宮が都となるが、5月には平城還都となり、「5年間の彷徨」は終わりを告げた。

     藤原仲麻呂の暗殺説

 親王の死は急死であった。彼は17歳と若く、特段病弱であったと書かれていない。それどころか、後で述べるように前月には野外で宴会していたと推測できる節もある。「また、桜井頓宮から難波宮までは10キロメートル少しである。なぜ、わざわざ遠い恭仁京まで引き返したのだろう。

 このような疑いから、光明皇后阿倍内親王を擁する藤原氏が安積親王を遷都騒動で混乱する時期を狙って暗殺したのではないかという説がある。この時、恭仁京の留守を預かっていた悪名高い藤原仲麻呂がその当事者として注目されることになる。横田健一氏(関西大学名誉教授=故人)は、仲麻呂恭仁京の留守官をこのあと外されたこと、内外の印や駅鈴が難波へ運ばれたことなども挙げて、暗殺説を詳述した。内外の印や駅鈴の件は、前年末で恭仁京の造営が中止され都を難波にする既定のプランの実行であっただろうから暗殺説の傍証にはならないが、仲麻呂の離任は怪しい。

     安積親王の将来に期待した大伴家持

 ところで『万葉集』には、急死の少し前に大伴家持らが安積親王と遊興した歌が残る。

安積親王、左少弁藤原八束朝臣の家にして宴する日に、内舎人大伴宿禰家持が作る歌一首
 ひさかたの 雨は降りしけ 思ふ子が やどに今夜は 明かして行かむ(1040
 (訳)雨はどんどん降り続けるがよい。いとしく思う子の家で今夜は存分夜明かしをしていこう

 詠まれたのは、天平15年(743)の秋から冬にかけて。藤原八束の邸宅で一行が宴会したとき大雨となり長居することになった。それを恋人の宿で一夜を明かすことになぞらえた歌だ。家持が親王の立場になりかわって詠んだ。

 翌年の正月に次のような歌が詠まれた。

 同じき月(正月)の十一日に活道(いくじ)の岡に登り、一株の松の下に集ひて飲む歌二首
 一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声(おと)の清きは 年深みかも(1042)
   右の一首は市原王が作
 (訳)この一本の松は幾代を経ているのだろうか。吹き抜ける風の音がいかにも清らかなのは、幾多の年輪を経ているからなのか。

 たまきはる 命は知らず 松が枝を 結ぶ心は 長くとぞ思ふ(1043)
   右の一首は大伴宿禰家持が作
 (訳)人間の寿命というものは短いものだ。われらが、こうして松の枝を結ぶ心のうちは、ただただ互いに命長かれと願ってのことだ。

 活道の岡は親王の宮あるいは別荘があったと見られ、正月に彼を囲む皇族、貴族たちが松の本に集って宴会したようだ。そこに家持もいた。市原王の歌は、松風のさやけさに松の年輪を思いその長寿を讃えるという趣だ。家持の歌は前歌を受けて、その場にいた者たちの息災長命を願ったものだが、一か月後の凶事を思うと意味深長である。「松が枝を結ぶ」という言葉から、有馬皇子の歌「岩代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む」(141)を思い起こす。どちらもその願いは叶えられなかった。正月の宴会であるから、平安無事・息災長寿を願った歌になるのは当然なのだろうが、そこに親王に迫る凶事の予感を嗅ぐのは偏見に過ぎるだろうか。

 家持は、親王の挽歌を二群作った。それぞれ長歌反歌二首からなる。二群目の挽歌を見る。

 かけまくも あやに畏(かしこ)し わが大君 皇子の命(みこと) もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)を 召し集へ 率(あとも)ひたまひ 朝猟(あさかり)に 鹿猪(しし)ふみ起し 夕猟(ゆふかり)に 鶉雉(とり)ふみ立て 大御馬(おほみま)の 口抑(おさ)へとめ 御心(みこころ)を 見(め)し明(あき)らめし 活道(いくぢ)山 木立の繁に 咲く花も うつろひにけり 世間(よのなか)は かくのみならし ますらをの 心振(こころふ)り起こし 剣刀(つるきたち) 腰に取り佩(は)き 梓(あづさ)弓 靱(ゆぎ)取り負ひて天地(あめつち)と いや遠長(とほなが)に万代(よろづよ)に かくしもがもと 頼(たの)めりし 皇子(みこ)の御門(みかど)の 五月蠅(さばへ)なす 騒く舎人(とねり)は 白栲(しろたへ)に 衣取り着て 常なりし 笑(ゑま)ひ振舞ひ いや日異(ひけ)に 変らふ見れば 悲しきろかも(478)
 (訳)心にかけて思うのもまことに恐れ多いことだ。わが大君、皇子の命が、たくさんの臣下たちを呼び集め、引き連れられて、朝の狩りには鹿や猪を追い立て、夕の狩りには鶉や雉を飛び立たせ、そしてまた御馬の手綱をひかえ、あたりを眺めて御心を晴らされた活道の山よ、ああ、皇子亡きままに、その山の木々も伸び放題に伸び、咲き匂うていた花もすっかり散り失せてしまった。世の中というものはこんなにもはかないものでしかないらしい。ますらおの雄々しい心を振り起こし、剣太刀を腰に帯び、梓弓を手に靱を背に負って、天地とともにいよいよ遠く久しく、万代までもこうしてお仕えしたいものだと、頼みにしてきたその皇子の御殿の、まるで五月蠅のように賑わしくお仕えしていた舎人たちは、今や白い喪服を身にまとうて、いつもの笑顔や振る舞いが日一日と変わり果てていくのを見ると、悲しくて悲しくてしかたがない。

 はしきかも 皇子の命の あり通ひ 見しし活道の 道は荒れにけり(479)
 (訳)ああ、わが皇子の命がいつも通われてはご覧になった活道の、その山の道は、今はもうすっかり荒れ果ててしまった。

 大伴の 名負ふ靱帯びて 万代に 頼みし心 いづくか寄せむ(480)
 (訳)靱負(ゆげい)の大伴と名の知られるその靱を身につけて、万代までもお仕えしようと頼みにしてきた心、この心を今はいったいどこに寄せたらいいのか

 家持はこの時期、天皇のそばに仕える内舎人として親王付きであったかもしれない。柿本人麻呂が確立した宮廷挽歌の伝統を踏まえながら、家持個人の真情がより強く出て切実な感がある。反歌の二首目は、家持の正直な気持ちが表現されている。大伴氏として藤原氏の影響力が少ない安積親王に頼む心は非常に強かったのだ。

     仲麻呂の背後に見える光明皇后の邪心

 暗殺説は、最近の歴史書では旗色が悪いようだ。証拠がないのに推測で説を立てる陰謀論の類いとして敬遠されるのだろう。確かに真相は永遠にわからないだろう。しかし、暗殺説を積極的に否定する論者のその論証には疑問を持つことが多い。

 渡辺晃宏氏(奈良大学教授)は、親王を暗殺する動機が薄弱だとする。「安積親王の母は県犬養広刀自夫人である。藤原宮子を母とする聖武が即位するのに、どれだけの手続きを踏まなければならなかったか。それを考えると、広刀自所生の安積親王の即位が容易に実現するとは思われない。阿倍内親王に万一のことがある時は、むしろ光明皇后の即位の方がより現実性があるかもしれない。逆に、仲麻呂が独断で暗殺に走れば、光明子にその反動が及ぶ可能性が充分あり、安積親王暗殺にはあまり実利が認められない。」(『平城京と木簡の世紀』233頁)

 家持の反歌が語るように、安積親王は反藤原、非藤原の氏族が希望を寄せる存在になりつつあった。聖武は天武系の多数の皇子を押しのけて皇位に就いたが、安積親王聖武の唯一人の直系皇子である。藤原氏にとっては大きな脅威であっただろう。渡辺氏の意見には同意しがたい。

 瀧浪貞子氏(京都女子大学名誉教授)は、仲麻呂のその後の進退に着目する。「安積親王暗殺説の難点は、その後仲麻呂の身柄が拘束された気配が全くないことである。それどころか仲麻呂は、翌天平十七年正月、紫香楽宮で行われた叙位で従四位上より一挙に二階級特進して正四位上となり、さらに同年九月には近江守に任じられている。これは他の例からしても、仲麻呂が下手人であれば有り得ないことで、親王の死は予期せざる事態であったかもしれないが、決して不自然なものではなかったと考える。」(『日本古代宮廷社会の研究』54頁)

 仲麻呂がその後処罰されず昇進しているから下手人の疑いはかからず、したがって暗殺はしていないということだ。しかし、この論理で仲麻呂=シロ説が導き出されるとは思えない。暗殺が誰にも気づかれずに成功すれば、処罰されないのは当然である。暗殺ではなかったとしても、親王を救えなかったことの不手際を責められるのが、この場面では普通ではないだろうか。むしろ二階級特進したということが疑いを深める。

 すなわち直後の異例の昇進は暗殺の報酬であったという見方も可能だ。これが可能となるのは、光明皇后の意向が働いていなければならない。暗殺は仲麻呂の独断ではなく、光明皇后の意向を汲んで仲麻呂が実行したという仮説を示したい。

 皇后がなぜ親王の抹殺を図ったのか。まず考えられるのは、阿倍内親王皇位を安定させ強固なものにするためである。しかし、いずれにしろその後の皇嗣が問題となり、安積親王が最有力者であることは間違いない。皇后はそれを望まなかった。皇后は聖武との絆を特別なものと見なしていたが、それ故に他の夫人の皇子が皇嗣となることを許せなかった。仏教に深く帰依した光明子であったが、基王が亡くなった年に生まれた安積をわが子の生まれ変わりと思うことはなかった。だからこそ、阿倍内親王立太子聖武の後を襲うという無理筋を押し通したのである。

 仲麻呂はその後目覚ましい出世を重ね、橘諸兄の地位を脅かす。その背後にはつねに光明皇后の後ろ盾があった。仲麻呂が朝廷の実権を握るのは、孝謙天皇即位、紫微中台の創設とその長官である紫微令に就任した頃だろう。仲麻呂光明皇后は二人三脚のような形で国家を動かしていく。その端緒となったのが、安積親王の事件ではなかっただろうか。

参考
横田健一「安積親王の死とその前後」『白鳳天平の世界』創元社
渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』講談社
瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版
青木和夫他校注『新日本古典文学大系 続日本紀二』岩波書店
伊藤博万葉集釋注二、三』集英社
*文中の万葉集の歌の引用と訳は、伊藤博氏の上記の著書による。

115 「いやしけ吉事」――それからの大伴家持

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陸奥国多賀城跡 家持終焉の地

 『万葉集』は、大伴家持の次の歌をもって最後を締めくくる。

 新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事 ⑳4516

 (大意)新しい年が始まる初春のおめでたい今日、さらにめでたくも雪が降っている。たくさんの良きことがありますように。

 天平宝字3年(759)正月一日、因幡の国庁であった賀宴で守(長官)の家持が詠んだ歌である。前年の6月、家持は因幡守に任じられ、因幡で迎える最初の正月だった。正月の大雪は、その年の豊作の瑞兆とされる。「新し」、「初」、「雪」、「吉」とめでたい言葉を重ねて世の平安と繁栄を願ったのである。この場と家持の立場にふさわしい歌であり、もって歌集の掉尾を飾るに考え抜かれた一首であった。

 この時、家持は42歳、『万葉集』には16歳からこの歳までの作品、470首あまりを収録する。彼はそれから26年を生きたが、後半生の歌は残っていない。あれほどの歌人であり、宴会やそこで歌を詠むことも官僚としての彼には仕事の一つであるから、詠まなかったのではなく、残らなかったと考える方が合理的であろう。しかし、何かにつけ歌によって感情と思いを表現してきた彼の突然の「沈黙」は、我々には彼が歌と別れて人生という荒波の彼方へ去ったようにも感じる。だから「いやしけ吉事」とは、別れのまたは旅立ちの挨拶のようにひびく。それからの家持がたどった足跡を追ってみたい。

 大伴家持は養老2年(718)、大伴旅人を父として生まれた。実母は不明であるが、天応元年(781)に家持が母の喪に服した記録があり、このとき家持は64歳であった。母は長寿だったことになる。旅人は晩年、太宰帥として筑紫大宰府に赴任し、家持も同行した。旅人は天平3年(731)に67歳で薨去し、このとき従二位大納言であった。彼は『万葉集』に七十首余りの歌を残したが、詠まれたのは60歳を過ぎしかも晩年の3年間に集中している。家持の享年は68で父とほぼ同年齢で亡くなったが、歌が詠まれた期間は正反対の好対照をなしている。

 家持は内舎人(うどねり)として官僚コースをスタートした。内舎人は帯刀し、宮中の宿直、天皇身辺の警護・雑事にあたる。この時期に多くの女性と相聞歌を交わしている。天平17年(745)、28歳で従五位下に昇叙した。翌年に越中国守に任官。天平勝宝元年(749)に従五位上に昇叙。天平勝宝3年(751)に少納言に遷任されるまで5年間赴任し、この間の越中での歌が150首余りにのぼる。北国の風光の中で家持がもっとも輝いていた時期である。

 京に戻った頃も、左大臣橘諸兄太政官首班として長くその地位にあったが、その力には陰りが見え、光明皇太后をバックにした藤原仲麻呂が実権を振るうようになっていた。

 天平勝宝5年(753)、この年に有名な春愁絶唱3首が詠まれた。

 春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影にうぐひす鳴くも ⑲4290

 我がやどのいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも ⑲4291

 うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思えば ⑲4292

 天平勝宝6年(754)に兵部省少補(次官)に任じられる。翌年、防人交代の業務のため難波に出向、各国より進上された防人の歌を選別し記録した。天平勝宝8年(756)、聖武上皇崩御。この年、同族の出雲守大伴古慈斐が朝廷を誹謗した廉で失脚する事件があった。衝撃を受けた家持は「族を喩す歌」を作る。武の名門として代々天皇に仕えてきた栄誉を振り返り、その名声を汚さぬように同族に呼びかけた長歌である。

 翌年、橘諸兄薨去仲麻呂の専横が目立つようになる。その状況で仲麻呂の排除を企んだ橘奈良麻呂の陰謀が露見する。これには大伴氏の有力者も加勢していた。大伴古麻呂・大伴古慈斐・大伴駿河麻呂・大伴池主・大伴兄人らが獄死や流刑に処せられた。池主は家持が越中守であったとき部下の越中掾(じょう)であり、歌のやりとりを頻繁に行った間柄である。もし家持が事件に関係していたら、『万葉集』は現在見る形と大分変わっていただろう。

 天平宝字2年(758)に因幡守に任命されたのは必ずしも左遷とは言えないが、気になる大伴氏を中央から遠ざけようという意図が見えないこともない。天平宝字6年(762)、信部大輔(中務大輔)に任じられ帰京する。だが翌年、藤原宿奈麻呂が仲麻呂の暗殺を計画したとき家持も関わっていたらしい。捕縛された宿奈麻呂は罪を一人で被ったため、家持は放免されたが、翌年、薩摩守に左遷されたのは報復人事であったと思われる。この年に恵美押勝の乱があり、仲麻呂は没落する。

 称徳天皇重祚道鏡が台頭する。しかし家持の官位は変わらず、神護景雲元年(767)に太宰少弐(次官)となる。家持の身辺が慌ただしくなるのは、称徳天皇崩御道鏡が追放され、光仁天皇が即位した宝亀元年(770)からである。民部少輔に任官、その3ヶ月後に左中弁中務大輔に遷任、さらに21年ぶりに昇叙があり正五位下となった。翌年に従四位下へ昇叙。宝亀3年(772)に式部員外大輔を兼務、これ以降の官職を見ていくと、相模守→左京大夫・上総守兼務→衛門督→伊勢守とめまぐるしく変わっていく。宝亀8年(777)には従四位上、翌年に正四位下に昇叙する。そして宝亀11年(780)に待望の参議に就いた。国政に関わり政策を審議できる役職である。右大弁も兼務する。このとき63歳であった。

 天応元年(781)には桓武天皇が即位した。それとともに右京大夫、春宮大夫を兼任した。春宮大夫は皇太子・早良親王の宮を司る組織の長である。この年には従三位に昇叙し左大弁を兼務した。光仁上皇崩御したときは、山作司(造陵長官)を指名されている。

 延暦元年氷上川継事件が起きる。宮中に兵仗を帯びて闖入した川継の資人(従者)が捕縛された。自白したところによれば、川継が味方を募って謀反を起こそうとしたという。氷上川継天武天皇の皇子・新田部親王の孫でおり、父は塩焼王、母は聖武天皇の娘の不破内親王である。天武系の血筋をひく一族は、天智系の桓武天皇には警戒すべき存在であった。このため、この謀反が事実なのかフレームアップなのか歴史学者の説もわかれる。川継は流罪となり、一族縁者が罪を着せられた。これに家持も連座して職を解かれた。しかし、4ヶ月後にはもとの官職に復任している。嫌疑をかけられたものの晴れたということだろうか。

 復任間もなく陸奥按察使(むつあぜちし)鎮守将軍に任じられた。対蝦夷政策を推進し、陸奥・出羽二国の行政と軍事を管轄する官職である。その拠点は多賀城にあった。家持は65歳であり、辺境での任務は大きな負担を意味しただろうが、武門の誇り高い彼には期するところがあったかもしれない。父・旅人も64歳で太宰帥に赴任したが、晩年での父子共通したこのような待遇に藤原氏から疎外された大伴氏の悲哀を感じる。東宮大夫は兼務している。延暦2年(783)には中納言に昇進している。翌年には持節征東将軍に任命された。天皇からじきじき節刀を授けられ蝦夷を征討する前線の任務を与えられたのである。この頃、京では長岡京遷都計画が進行していた。その中心にいたのが、従三位中納言藤原種継だった。桓武天皇に抜擢されて力を振るう種継は同じ中納言ながら家持より20歳年下で、辺境に追いやられた老人には中央政界で活躍する種継への複雑な思いが生じたかもしれない。

 延暦4年(785)の4月、家持は奏上し、陸奥国に多賀郡と階上郡の二郡を新設することを具申し許可された。同年8月28日の『続日本紀』に家持の死去を伝える記事が載る。享年68。家持は従三位であるから「薨去」となるはずであるが、そうならないのは理由があった。9月24日、長岡京造営工事を監督していた種継に矢が射かけられ、翌日亡くなった。ただちに犯人が捕らえられ数十人に上った。大伴継人、大伴竹良、大伴真麻呂、大伴湊麻呂、佐伯高成ら、大伴氏一族と東宮関係者が多く関与していた。彼らが白状したところでは、家持が大伴氏と佐伯氏に呼びかけて種継の排除を狙ったという。多くの者が斬首され流罪となった。家持はすでに亡くなっていたから除名すなわち生前の官位と官職が剥奪された。そのため死亡記事は「死去」となった。家持の長男、従五位下右京亮の永主は隠岐に流されている。累は早良親王におよび廃太子となったが、無実を訴え淡路国に配流される途中、絶食して亡くなったという。

 この事件の背景として、長岡遷都をめぐる対立、次期皇位をめぐる争いがあったと言われる。長岡遷都は桓武天皇の独断で朝廷内では反対意見が根強かったらしい。中納言太政官にありながら蚊帳の外に置かれた家持も強引な遷都は快く思えなかっただろう。また桓武天皇には安殿(あて)皇子がいたため、早良親王の皇太子としての地位は危うくなっていた。その親王東宮大夫として支えていたのが家持である。安殿皇子の母、藤原乙牟漏は種継同様、藤原宇合を先祖にする式家であり、ここでも家持と利害は対立した。

 事件の黒幕に家持がいたというのは、十分理由のあることだが、疑問もいくつかある。家持の陸奥赴任は薨去するまで3年間におよんでおり、計画にどこまで関われただろうか。また種継一人を殺害することで事態がどのように変わると思ったのだろうか。結局、最悪の結果しかもたらさなかったのであるが、これまでいくつもの危地を賢明に慎重にくぐり抜けてきた彼がこれを予想できなかったとは思えない。これは一種の暴発であるが、生涯の最後に堪忍袋の緒が切れたのだろうか。その代償は大きかった。

 大伴家持は名門貴族の御曹司に生まれ知性と才能に恵まれ、万葉集随一の歌人として名を残した。多くの女性と恋愛し、政治家としても従三位中納言の地位に上りつめ、当時としては68歳の長命をまっとうした。羨ましく輝かしい人生を送ったように思うのだが、その足跡をたどっていくと試練と緊張の連続に耐え続け、不本意でも与えられた任務をこなした生涯が見えてくる。運も彼に味方した。延暦25年(806)、桓武天皇は臨終のまぎわに詔した。「延暦四年の事に縁りて配流されし輩は已に放還(許し帰す)せり。今思うところあり。存亡(生死)を論ぜず。宜しく本位に叙すべし」(『日本後紀』)。怨霊に悩まされた天皇は、種継事件で罰せられた者すべてを許し、家持も従三位に復した。この名誉回復がなければ、『万葉集』は歴史の闇に葬られていたかもしれない。

参考
鐘江宏之『大伴家持 氏族の「伝統」を背負う貴公子の苦悩』山川出版社
藤井一二『大伴家持 波乱に満ちた万葉歌人の生涯』中公新書
小野寛編著『大伴家持大辞典』笠間書院
青木和夫他校注『新日本古典文学大系 続日本紀岩波書店
伊藤博校注『万葉集』角川文庫 
坂上康俊『日本の歴史5 律令国家の転換と「日本」』講談社

114 ⑤写真家・入江泰吉の生涯

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     画家を志望した少年時代

 入江泰吉が生まれたのは明治38年(1905)、生家は奈良市片原町にあった。片原町の町名は現在存在しないが、高畑町の大乗院庭園文化館が建つあたりである。自伝の中で、「前に川があった」「裏の大乗院の池で鯉を獲った」ことが書かれている。「前の川」とは飛鳥川のことで、今は暗渠になっている。父芳治郎は古美術鑑定と修理を営んだ。母サトとの間に七男一女がいて、泰吉は六男であった。近くの飛鳥小学校に入学している。教科の中では図工が好きであった。兄の影響を受けて水彩や油絵をよく描いた。奈良女子高等師範附属小学校高等科へ進み、講堂の舞台で全校生徒を前に即興で虎を描いたりした。16歳の時には「画家になりたい」というはっきりした希望があり、日本画家の土田麦僊の「大原女」に惹かれ弟子入りしようとしている。

 長兄は「太平洋画会」に所属し、次兄は東京美術学校鋳金工芸を学んだというように、進路先に美術を選んだ兄弟が多い。父親の資質を受け継いだのだろう。弟子入りの話は実現寸前までいったのだが、次兄からプロの画家としてやっていくことの難しさを説かれて、断念したという。有名な日本画家の弟子になろうというのだから、その才能は周囲から認められるほどのレベルにあったと思われる。将来、写真家として大成する素地はこんなところにもあった。

 写真との出会いは、これも長兄の影響である。購入したベストコダックで撮影し現像する兄を見て、写真に興味をもった。大正14年(1924)、大阪の写真機材の卸商、上田写真機店に就職した。20歳であった。技術部に配属され、アマチュア写真サークルの月例会の裏方を務める。そのときの講評会が勉強になり、自分が撮影した写真も出品するようになった。風景写真を撮りたいという気持ちが芽生えていた。

     26歳で写真家として独立、映画製作にのめり込む

 昭和6年(1930)、26歳の入江は独立、心斎橋鰻谷仲之町に「光芸社」を構える。「自分には写真の師はいない。独学です」と後に入江は書いているが、助手の経験もなくいきなり独立したのは、それだけの自信と自負があったのだろう。南海電鉄沿線の名所・旧跡写真、関西汽船のPR写真などを引き受けた。また大阪営林局管内の各地の国有林の記録写真を撮った。北アルプス連峰も踏破している。元来蒲柳の体質であったが、この時の登山経験で体力がつき足腰が鍛えられたという。

 思いがけない仕事も入ってきた。黒部第四ダムが計画され、現地を視察して映画を作ることになった。その撮影を指名されたのである。前人未踏の谷を登攀し、ロープを身に巻いて絶壁から激流を撮影する。こんなことを繰り返して完成させた映画は、営林局の巡回映画として好評を博した。続いて営林局の山火事防止のPR映画『山の惨禍』のプロデューサーを務め、これも好評を得た。これらがきっかけとなり、映画製作にのめりこんだ。一般向けの時局便乗の劇映画『洋上の爆撃機』をプロデューサーとして手がけた。出資者もいたが、予算がはるかにオーバーしてしまい、映画は期待したほど買い手がつかなかった。写真機材すべて売り、親族に借金して急場をしのいだ。漫画映画なら受けるかも知れないと思い、カッパを主人公にした『突貫第一歩』を製作した。30分の映画に1万枚近くのセルの原画を手書きし、8ヶ月かけて完成さした。しかし収支とんとんで苦労のわりには見返りがなかった。映画製作の厳しさを知り、それから写真に専念することになったという。映画は当時の最先端をゆくメディアであり芸術であった。入江は若く野心もあったのだろう。

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光藝社の前で、左から二人目が光枝夫人

     光枝との結婚、文楽との出会い

 映画に夢中になっていたころ、入江は来山光枝と見合い結婚している(昭和9年)。光枝は広島県福山市呉服商の娘であった。入江より5歳年下である。この頃は経済的に苦しい時期であって、彼女の着物がお金にかわることもあった。入江が教えることはなかったが、店に出入りする客から学んで現像、焼き付けの技術をマスターし、店の仕事をこなした。後のことになるが、専門の助手を採用するまで奈良の寺社や野外の撮影では助手を務め、ライトを持ったりしている。料理や裁縫が得意で書道も趣味でたしなんだようだ。内助の功に徹して夫婦仲は非常に良かった。プリントした写真を入江が最初に見せるのは光枝夫人であったという。

 入江が文楽と関わるようになったのは偶然であった。知人が文楽に関する本を出すことになって、挿入写真として人形の撮影を頼まれたのである。首(かしら)を見るのは初めてであった。それぞれの人形が人間くさい強烈な個性を持っていることに驚いた。それから店の近くにあった四ツ橋文楽座へ通うようになった。昭和14年(1939)から足かけ5年に及んだ。当時の文楽は名人が輩出した黄金期であり、とくに人形遣いの吉田文五郎と吉田栄男は楽屋まで出かけて数多くの写真を撮った。昭和15年全日本写真連盟が主催した「新東亜紹介・世界移動写真展」のコンテストに「春の文楽」を応募、一等賞を射止めた。副賞は大阪商船の豪華客船による世界一周であったが、日中戦争拡大のため中止になった。翌年には毎日新聞社主催の「日本写真美術展」に「文楽」を出品し、文部大臣賞を受賞した。これらの受賞は、入江にプロとしての自信を与え、世間に写真家、入江泰吉を認知させた。大阪高島屋で初の個展「文楽人形写真展」も開いている。

 入江は昭和13年(1938)から内閣情報部がつくった写真協会関西支局のメンバーに加わっている。内閣情報部が編集する国策遂行のための宣伝グラフ誌『写真週報』のため写真を撮ることが仕事だった。

     戦災、奈良へ疎開、古社寺めぐり

 第二次大戦末期になると、若い男性は戦地にとられ、40歳に近かった入江が町内の防空班長に任じられた。昭和20年(1945)3月13日、大阪市街はB29の空襲で一夜にして焦土と化した。入江はなすすべもなく店舗兼自宅が焼け落ちるのを見守るしかなかった。「わが家は焼けない」という根拠のない思いがあったため、フィルムを疎開させるということもしていなかった。ただ光枝夫人が避難するとき文楽のフィルムだけを携行したため、幸いにして貴重な写真を今も見ることができる。翌14日、入江夫妻は一日かけて近鉄大阪線回りで奈良の実家へ疎開した。

 奈良では下宿を借りて住んだ。たまたま立ち寄った古本屋で亀井勝一郎著『大和古寺風物誌』の題名に惹かれて買い求めた。読み始めるとたちまち引きこまれた。「歴史を通しての大和への思慕を痛々しいまでに熱く綴った、大和讃仰の書であった」と入江は書く。『大和古寺風物誌』は大和の仏像や風物に精神的な救済を得る「求道の書」である。その姿勢は入江が置かれた状況の中で切実な共感を誘ったのだろう。戦争はまだ終わっていなかったが、これをきっかけに大和の古寺回りを始めた。

 「季節が秋を迎える頃、斑鳩の里を訪ねようとした時のことである。近鉄の筒井駅で下車し、駅前の家並みを抜けると、黄金色に輝く稲田がひらけ、ところどころに大和特有の切妻造りの白壁と藁屋根の農家が見えてきた。庭には赤く熟れた柿が鈴なりに実って、陽光に照り映えている。そのひなびた平和な風景を見ているうちに、戦争を、被災を、すっかり忘れてしまい、心を奪われ夢心地に誘い込まれていった。
 やがてはるか彼方の集落の上に、法起寺の塔がうっすらと見えはじめ、大和ならではの風趣に溢れた景観を目にすると、思わず「国破れて山河あり」という言葉が口をつき、この言葉がしみじみと実感されるのであった。そして青松の茂る法隆寺参道を通り抜け、南大門に立って堂塔伽藍を仰ぎみた時は、「よくぞ遺った』という思いに、涙が自然にこぼれ落ちた。」(『入江泰吉自伝』より)

 昭和20年の10月頃であろうか。入江は元来風景写真を志していた。風景に対する人一倍の感受性を備えていたはずだ。このとき写真家としてではなく素手で対面した風景に「夢心地」となり、「涙がこぼれ落ちた」。異常な状況であったが、またそういう状況であったからこそ、このときの風景との出会いが魂を揺さぶるほどの決定的な刻印をしるした。いうなれば、入江は自らの拠り所を見いだしたのである。これから40年間、入江は大和路を撮り続けるが、なぜ大和のあのような風景を撮り続けたのかと思うとき、このときの体験が出発点になったと考えると納得できる。

    三月堂四天王の帰還

 この年の11月17日、入江は三月堂の近くにいた。疎開させた四天王が白布にくるまれ担架で担がれ帰ってくるのに出くわした。このとき、堂守たちの噂話を聞いた。「アメリカが戦利品として京都や奈良の仏像を持ち去るらしい」という。入江は驚き動転し、今のうちに写真に記録しておこうと決心した。闇市で大型カメラと機材をそろえて仏像撮影の行脚が始まった。戦利品云々はデマであることがわかるが、こうして入江の郷里での本格的な撮影がスタートした。このエピソードは入江自身いろんな所で書いている。時代を感じさせるしドラマチックなので、入江の大和路撮影の原点のように受けとめられている。たしかにきっかけになっただろうが、動機としては外発的であり、しかもデマであった。もちろんこれがきっかけとなり、撮影しているうちに大和や仏像への入江の視点が成熟し深化していったのだろう。しかし決定的な出会いとなり、真に内発的な動機が形成されたのは、『大和古寺風物誌』を読み、古寺を尋ね大和を徘徊した半年間にあったと思う。

     上司海雲との再会、芸術家、文化人との交際

 発表の当てのない仏像や大和の風物を撮影しながら、近鉄南海鉄道のPR写真の仕事をこなして生活できるようになっていた。46年の早々、三月堂の仏像を撮っていたとき、幼なじみの上司海雲と20数年ぶりに再会した。上司は東大寺塔頭観音院の住職となっていた。上司海雲は「非常に器の大きい、大らかな人柄であり、人を楽しませることを楽しむ」人であったから、観音院は多くの芸術家、文化人が出入りするサロンになっていた。ここで入江も多くの知己を得て大きな影響を受けた。

 入江と上司は住居が近かったから頻繁な行き来があった。上司は「壺法師」という渾名があるぐらい骨董好きであり、入江も骨董の趣味があったから、骨董の話題になると二人は時間を忘れて語り明かしたという。上司から紹介されて交際があったのは、志賀直哉広津和郎会津八一、画家の杉本健吉、須田剋多の名前を挙げることができる。志賀直哉とは家族ぐるみのつきあいがあり、熱海の志賀邸へも招かれている。志賀は入江の最初の写真集『大和路』に序文を寄せている。「言葉を通してだけではなく、直接に先生の存在そのもの、姿そのものから受けたものは強烈であり」と入江は回想する。

 とくに親しくしたのは画家で同年齢の杉本健吉だった。杉本は観音院の一画にアトリエを借りて奈良の風景を描くことに没頭していた。お互いのとっておきの眺望ポイントを教えあったという。奈良市写真美術館であった「入江、杉本、須田三人展」の出展カタログを見ると、入江と杉本はアングルが共通する作品がいくつもある。 

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入江宅の床の間で、中央が志賀直哉、左に入江夫妻、右は上司夫妻

     水門町に移転

 昭和24年(1949)には、水門町にあった家屋を購入して引っ越した。水門町は、片原町から移って少年時代を過ごした土地だった。家屋は茶室付きの離れで興福寺塔頭にあったらしく、大正時代に移築されたという。四間しかなかったが、入江夫妻は改修して部屋数を増やしていった。庭には椿などを移植し現像小屋も建てた。西の境界には吉城川が流れて、そこから林が広がる。旧東大寺境内で戒壇院に近く、東大寺を撮影した入江の数々の傑作もこの地の利に大いに助けられただろう。旧居は現在補修されて公開される。

 同年には大阪の百貨店で「大和古寺風物写真展」を開いた。2年後には同じ内容の写真展を東京の百貨店で開く。撮りためていた写真を世に問うたのである。来場者の反応は良く手応えがあり、大和の風景写真をライフワークにする決意が固まった。この展覧会で亀井勝一郎との出会いがあった。

    『大和路』の出版

 出版物や観光ポスターの仏像写真、『大和古寺風物誌』や『大和路・信濃路』の写真撮影、西村貞著『民家の庭』の庭の撮影など仕事が増えていった。昭和30年(1955)には専属の助手を採用している。32年に文芸批評家の小林秀雄白洲正子東京創元社小林茂社長を伴って入江宅を訪問、写真を見て即座に写真集の出版を勧めた。翌年、入江の初めての個人写真集『大和路』が上梓された。B4判、125枚のモノクロ写真を収める。志賀直哉が序文を寄せる豪華なものであった。当時は個人の写真集はまだ珍しかったなかで、5刷を重ねたという。

 文芸批評の大家、小林が入江の写真をどのように見ていたのか興味がある。『仏像大和路』(保育社1977年)の「感想」と題した序文を寄せている。その一部を掲載する。

 「大和路といふ、広い意味での「なげき」が、先ずよく信じられていなければ、何事も始まりはしない。敢えて言ふなら、「大和路作品集』の魅力の本質的なところは、写真に映りはしない。よく信じられた心眼の運動は、肉眼を経て、シャッターを切る指の末端で終わる、といふ言い方をしてみてもいいなら、それは、ピアニストの熟慮された楽想が、鍵盤上のタッチで、機械の発する現実の音と折り合ひがつく、それと同じ趣を言ふ事になろうか」

 「モーツアルト」の作者らしく演奏家の演奏に喩えて写真芸術が語られる。写真家の表現したいこととそれへの抵抗としてのカメラのメカニズムが折り合ったところに生まれる写真芸術。入江が表現意欲をかき立てられる「大和路」を、芸術が成立する根拠である「広い意味での『なげき』」と捉えたところに小林らしい批評を見る。

 『大和路』の好評を受けて35年に『大和路第二集』を出している。この年には、浪速短期大学写真部の教授に就任した。「教えることを通して自分も学べるのではないか」という期待があったという。10年間教壇に立った。教え子や弟子たちが集まり「水門会」をつくり、研究会や展覧会を定期的に開き、これは現在も続いている。

     カラーの時代へ

 入江がカラー写真を撮るようになったのは遅かった。「絵のようにきれいなだけで情感のない退屈な写真」に失望して、自分のスタイルを模索したのである。(参考「歴史漫歩112入江泰吉の永遠の『大和路』カラー篇」)。新たな境地が開き、その成果は『古色大和路』(昭和45年)、『萬葉大和路』(同49年)、『花大和路』(同51年)の出版に結実した。この三部作で菊池寛賞を受賞し、入江の評価は定まったのである。このとき71歳であった。年表を見ると、この前後から毎年、何冊も写真集や共著が出ている。『花大和路』にすでに花への傾倒が現れているが、1980年代に入る頃から花だけを対象にする写真が増える。しかし晩年まで大和路と仏像は撮り続けた。

     器用、こだわり、集中力

 薬師寺の管長だった高田好胤は入江を「ジキルとハイド」と評したという。普段の温和で優しい入江は、撮影となると一変して厳しく近寄りがたくなる。これは助手が語る入江像に一致する。撮影時の集中力がすごくて、妥協せず、完璧をめざした。これと思った被写体には毎年訪れて粘り強く決定的な一瞬を待ち続けた。そのため前年の三脚の穴が残っていて、同じ位置にまた三脚を据えるということもあったという。

 器用な人であった。自ら木工大工でレンズケースを作ったり、撮影現場のゴミを取り除くための釣り竿のようなものを手づくりした。ガラスに文楽の首を描いたガラス絵、檜の端材をノミで刻んだ木端仏(こっぱぶつ)の制作が趣味であり、百貨店で開いた展覧会では人気を呼んですぐに売り切れた。

 光枝夫人によれば、おしゃれであり、自分の服はもちろん夫人の服も見立てたという。夫人の手料理をなにより好み、盛り付けしたお皿が多ければ機嫌が良かった。

 入江が亡くなったのは、平成4年(1992)1月16日であった。夫妻には子どもがなく、全作品は著作権ごと奈良市に寄贈され、これをもとに入江泰吉記念奈良市写真美術館がこの年の春に開館する予定だった。その開館展の目録に手を入れながら、眠るように目を閉じたという。享年86。最後まで現役の写真家を通した人生であった。

参考
入江泰吉著『大和路遍歴』(法蔵館1981年)
入江泰吉著『入江泰吉自伝 「大和路」に魅せられて』(佼成出版社1992年)
入江光枝「回想 入江泰吉と歩んで」(『回想の大和路』集英社1994年)
奈良歴史漫歩78「入江泰吉旧居見学記」

113 ④入江泰吉の永遠の「大和路」カラー鑑賞篇

 入江泰吉は、風景写真を志す若者へのアドバイスとして次のようなことを書いた。「風景写真は、単にそこにある風景を写せばよいというものではない。映像の中に、情感や、いうにいえない気配が写っていなくては、人の心に感動を呼ぶものにはならないと思う。しかし、情感や、いうにいえない気配というものは、実際は写りはしないのである。……しかし、映像を通して見る側に、そういうイメージへいざなうような手掛かりとなる何かを設けておかなければならない……」「ことさらに作為のあとが見えすぎることも好ましくない。ともすれば作為が加わりすぎることによって、目的とする主題の訴求力が薄れる結果になりかねないからである。あくまでも、選んだ主題を観る側にいかに通じさせるかということを前提とした、つまり主題を生かすための作為であってほしい」

 これは入江自身による自作の解説でもあった。そして「若い作家に作品の批評を求められたりすると、画面構成上の優劣よりもまず何を狙っているか、という作者自身の視点についての見解を述べる」と書く。作者自身の視点がはっきりしていないと、漠然とした単なる風景写真に堕してしまうからだ。

 助手を務めた矢野建彦氏は、入江流の美学について「一言でいえば『シンプルさ』であり、『引き算のフレーミング』」と語る。入江が風景写真に求める狙い、すなわち主題が明確であるから、画面の構成も徹底的に切り詰めて明確である。余計なものが入ることはない。それが「シンプルさ」の意味だろう。理性的な分析を働かせながらも、元になるのは風景に感応する作者の感性・感情であり、そこに生まれるイメージは入江独自のものであった。

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 東大寺南大門を焦点にしながら降る雪が写しこまれる。雪は細かい粒子のようであり、大きな点となり、レンズに付いた滲みもある。雪のいろいろな形、無数のかすむ白い模様が視界の激しい動きを現す。その中に南大門は不動の存在感を持って立つ。中央の一部だけが写ることで巨大さを印象づける。柱や貫、桁の風化し褪せた色彩が雪と重なって一層まだら模様となり、経てきた歳月を感じさせる。降る雪は過去を現在へ引き寄せる。あるいは現在を過去へ引き戻す。平家の焼き討ちに遭い一山焼失した東大寺は、重源らの勧進により復興する。そんな歴史の興亡が、雪の激しく舞う南大門の画面の奥に見え隠れする。「降る雪や亡びし者の鬨の声」

 

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 勝間田池(大池)越しに薬師寺東塔を望む。入江は独自のアングルを見いだしては、それが大和路の定番となったものが多い。このアングルの写真も大和路を代表するものになった。入江は池越しの東塔の風景を好み、モノクロ時代から四季を通じて撮影に通った。

 真夏の強い日差しと草いきれが匂うような場面である。植物の緑と水と空の青、入道雲の白が画面を区画する。目のくらむような真夏の雰囲気は十分伝わるが、抑制した落ち着きのある色で、この色調は入江作品に共通した独特の深みをもたらす。画面の中央やや左寄りに東塔が樹木に隠れて立つ。相輪と三層目の屋根、塔身しか見えないというのが、偶然だろうが絶妙である。画面の半分を占める空のまた大半が入道雲で、雲の頂上から視線を下ろすと真下に相輪がある。塔の真下に目を移すと、真菰(まこも)または葦(?)が画面の左隅から一番手前で茂っている。ここに中軸ができて、画面の左側に重心があり、右側にやや空白を作る。非対称的な画面構成が心地良い。池の水面も影が写りさざ波がたって、複雑なグラデーションの模様ができる。

 自然が圧倒的に横溢する中で人工物は塔だけであり、黒ずんだ塔は自然に同化しているようだ。古代の都として栄えた奈良も長い歳月のうちに滅ぶものは滅び、残るものは自然へ帰り行く。大きな風景の中で「滅びの美」を捉えた傑作だ。復興された金堂や西塔も入った入江の作品もあるが、私にはグロテスクに見える。千年後には落ち着くかも知れない。

 

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 ススキが風に激しくなびいて、遠くに法起寺の塔が見える。左にたわんでなびく穂の白い輝きと枯れた茎、葉の陰影の対照が鮮やかである。この写真を見ると胸騒ぎする。椿事の予感が告げられているようで。643年12月20日蘇我入鹿山背大兄王を討ち取るべく兵を派遣する。生駒山に逃げた大兄王は戦いを避けて、上宮一族もろとも自害して果てる。この大事件が脳裏にあるからだろう。法隆寺斑鳩には古代史の光と影がつきまとう。それはいろいろなきっかけを得ては物語を生む。ススキの群落が強風になびいて左右に分かれ、そこに出現した古代の塔、さながら舞台の幕が上がったばかりのようだ。

 助手だった矢野建彦氏がこの写真を撮ったときのことを語っている。「あの撮影の日は大変寒かった。あの時もずいぶんと風を待ちましたね。あまりの寒さに手がかじかんで、先生がシャッターを押せなくなってしまった。それで、二人でススキの下にもぐり込んで風の当たらない所で、身体の中に手を入れて暖をとって手のかじかみがなくなってから撮った写真があの作品です」

 

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 飛鳥大原の早春。入江は飛鳥の農村の鄙びた風景を好んで撮ったが、今はもうこんな写真は飛鳥であっても撮るのは無理だろう。私は1952年生まれで、今も住む奈良市西郊は幼年期にはこのような田園が広がり、そこが遊び場だった。だから、これは私の「ふるさと」の原風景である。今も田は残るが、これほどの幅の道は農道として舗装され、水路はU字溝となった。藁塚もなくなった。春めくと、幼い私たちは川の土手や田んぼの畦に出て土筆を探した。なずな、ふぐり、たんぽぽ、れんげ、クローバー、スイバなどが次から次へ咲き地面を埋め尽くす。地道には轍が刻まれて、そこだけはいつも土の色を残す。小川には水草が揺らめき、メダカやフナの影が走ると必死になって網ですくった。

 この風景には幼い私ばかりではなく、千年の何十もの世代の人の気配がある。土地を耕し収穫し暮らしてきた人々の営みが、この風景を作ったのだ。すべてを人力に頼り、役牛の助けも借りながら繰り返されてきた営みが、ほぼ千年の間この風景を変えずに保たせ続けてきたのである。

 

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 長谷寺本堂の外廊下に吊り下げられた提灯。暖かな赤みがかった色に点る。廊下の角にて巨木の枝が背後に伸びる。山が迫ってもうもうと茂る樹木の濃い緑が視界を遮る。廊下の床板、欄干、擬宝珠、本堂の柱、長押、板壁は歳月を経て黒ずみ磨り減り、無骨ながら堂々とした風格がある。圧倒的な自然の力に対抗する自然の樹木からできた人工物、緑と黒を基調とする視界の中で、提灯の明かりの色が柔らかな雰囲気をもたらす。そこに人の気配を感じる。少し前に明かりをともした人であり、何百年とこのお堂を守り続けてきた人々の優しい気配である。

*文中の引用は、入江泰吉入江泰吉自伝』(佼正出版社)より。

112 ③入江泰吉の永遠の「大和路」カラー篇

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東大寺塔頭跡『古色大和路』より

 入江泰吉が「大和路」の写真家として評価を確立した三部作『古色大和路』、『萬葉大和路』、『花大和路』は、1970年から76年にかけて上梓された。高名な作家、評論家、俳人歌人、随筆家、学者がエッセイを寄せ、詳細な解説も付く超豪華な大型の写真集である。入江は生涯で数え切れないほどの受賞、表彰歴を持つが、「古都奈良の社寺と自然を見事な写真芸術に仕上げた色彩美」を理由に三部作に与えられた菊池寛賞は、戦前の作品「文楽」に対する「新東亜紹介・世界移動写真展一等賞」と「文部大臣賞」とともに写真家人生に大きく影響した栄誉だった。

 特に『古色大和路』と『萬葉大和路』に収められた写真は入江の代表作となり、以後、あらゆるメディアで繰り返し紹介されて、「大和路」の決定的なイメージを作ることになった。

 これらの写真の特長を挙げると、まず人物が消えている。現代を感じさせる人工物が写らない。人物、自動車や舗装道路、ビル、現代風の民家、コンクリートの電柱……、現代の風俗が徹底的に排除されている。被写体の主役となるのは自然である。自然そのものではなく歴史と一体になった自然だ。風雪に耐えた古代の寺社仏閣はもちろん、朽ちかけた遺物が好んで取り上げられる。石垣のみ残った東大寺境内の塔頭、松林の中に礎石が整列する東大寺講堂跡、高畑の今にも崩れそうな土塀、落ち葉に埋まった頭塔の石仏、平城宮跡大極殿基壇の一本松。

 入江の写真を指して「滅びの美」とはよく言われる言葉である。人が作り上げたあらゆるものは長い歳月の中で滅び消えていく。そして自然に帰っていく。自然に帰ったもの、帰ろうとするもの、帰る予感にあるものは、自然の美で荘厳される。モノクロ写真でも「滅びの姿」は捉えられていたが、それは「自然との調和」に収まるものだった。現代が捨象され自然が色彩を持って表現されることで「滅びの美」が見いだされたのである。滅んでいくものはなぜ美しいのか。それは本来の姿に帰るからだ。現代の風俗はなぜ美しくないのか。それは突き詰めればもともと自然には存在しなかった素材で出来上がっているからだ。滅んでも自然に帰るには途方もない紆余曲折がある。自然を美しいと感じる感性は、生命の歴史に根ざしている。現代を享受しながら感性的な居心地の悪さから逃れられない我々に、入江の大和路の写真はオアシスのような存在となる。

 入江が本格的にカラーで撮影するようになったのは、1963年からであった。最初「絵のようにきれいなだけで情感がない」カラーに違和感を持った。自分が表現したいカラーを求めて、「色を殺し」渋くて深みのある「古色」に行き着いた。『大和路第二集』の巻頭に載る大和三山を遠望したカラー写真と『古色大和路』の写真を比較すれば相違は明らかである。筆者は写真の技術的なことにはまったく無知だから、この違いがどこから来るのかわからない。フィルムやカメラ、出版印刷技術の進歩はもちろんあるだろう。しかし写真は基本的に機械の反応なので、写真家の思い通りの色を出すことは難しい。写真家が風景写真で選べるのは構図とともにシャッターチャンスである。刻々と移り変わる気象条件や季節や時間の変化による光の状態を計算・判断して決定的な瞬間を捉える。風景は静止しているから何時でも撮影できるように思うが、そうではない。何日も通い同一場所に三脚を立てその度に何時間も待ちつつけ、風が吹いた瞬間や雲間から日が射した瞬間を狙う。この時、写真家の脳裏には意図したイメージがある。構図とともに色の効果も計算されているのだろう。

 現代の風俗を画面に混入させないため、入江はいろいろ工夫した。初期には、遠くから奈良盆地の広い風景を撮って現代の人工物が定かに写らないようにした。遠くから超望遠レンズで捉えて目標物の周辺を視野から外す方法もある。よく使われるのが、霧や霞で遠くの風景が隠れることである。これは余計なものが写らなくするとともに、画面に余情をもたらした。昼間の晴れた風景はあまりなく、朝か夕暮れか、煙霧がかかっているシーンが多用され、小雨や雪のシーンが加わる。「入江調」「入江節」とも呼ばれる湿度感の高い情緒ある風景だ。

 60年代はすさまじい勢いで景観の破壊が進行していたが、このような工夫をして、まだ辛うじて残っていた斑鳩、西ノ京、飛鳥の昔ながらの農村風景を撮影できたのは幸いだった。70年代に入ると、いよいよアングルは限られてくる。狭い限定されたアングルであっても色彩に中心をおいて意図した表現は可能だった。奈良の現実の風景が壊れていく中でも撮影が続行できたのは、色彩をもって滅びの美を表現するテーマのおかげだったといえる。しかし時とともに被写体は固定化していくのは否めなかった。

 入江の写真は平易で美しく、大和路の理想化されたイメージとして受け取られ易い。確かに出版物に載る写真からは表面の美しさの奥にある余情を十分味わうのは難しいかも知れない。私も写真が秘める複雑な情感を味得したのは、奈良市写真美術館でパネルにプリントされた大型の画面からだった。出版物の印刷では絶対表せない色彩の美しさに触れて、そこに湛えられた情感に浸った。一つ一つの作品に癒やされるようだった。

 現実の奈良大和は「滅びの美」も滅ぶ時代となって、ただただ荒廃があるのみだ。その中で、入江の大和路は一つの夢のようにも思える。いつ撮影されたかはどうでもよくなって、「滅びの美」を湛えたイメージが自立してそこにある。「歴史が自然に回収される」ことが「真理」であり、また「信仰」だとすると、そのイメージが永遠性を帯びるのも当然だろう。

 入江は万葉集に歌われた花への関心から花そのものを被写体として、晩年には精力的に撮影した。撮影できる景観の減少や体力の衰えも理由だろうが、美の原点に自然があった彼には必然的な成り行きだった。「ピントグラスのなかに花を生ける思いで撮る」と述懐している。カメラをとおした自然への帰依と言えば言い過ぎだろうか。

参考
『古色大和路』(保育社1970年)
『萬葉大和路』(保育社1974年)
『花大和路』(保育社1976年)
『古色大和路』(光村推古書院2012年)
『回顧入江泰吉の仕事』(光村推古書院2015年)
『大和路遍歴』(法蔵館1981年)
入江泰吉自伝 「大和路」に魅せられて』(佼成出版社1992年)

111 ②入江泰吉の郷愁の「大和路」モノクロ鑑賞篇

 司馬遼太郎は、『街道をゆく』の中の「竹内街道」で次のように書き記している。「言霊ということばはわれわれにとってなるほどいまも妖しく、『大和は国のまほろば』などと仮にでもつぶやけば、私の脳裏にこの盆地の霞がかった色調景色が三景ばかり浮かびあがり、それらのネガはいずれも少年のころに焼きあがったらしく、いまの現実の奈良県の景色とはずいぶんちがっている。いまの現実の、この日本でももっとも汚らしい県の一つになってしまった風景は、ここ十年来大阪あたりから出てきたおでこのピカピカ光った連中がつくりあげたものである。……」。「おでこのピカピカ光った連中」とは、宅地開発のデベロッパーを指す。書かれたのは、『街道を行く』の連載が始まったばかりの70年代の初めであった。あれから半世紀。司馬が脳裏に浮かべた盆地の「まほろば」の景色は、入江のモノクロの写真に偲ぶことができる。現在、その景色はどのように激変しただろうか。googleストリートビューで尋ねてみることにした。二つの景色の間に横たわるのは、60~70年の歳月。この間の盆地が体験した有史以来の変貌が見て取れるだろう。

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 喜光寺奈良市菅原町)の前から東方向を望む。左奥の大きな屋根は西蓮寺、現在も同位置にある。彼方に若草山が見える。昭和20年代後半の撮影。画面の中心を占めるのは、地道である。左手前から右斜め方向に伸びて左に曲がる。地道の白さと緩やかなカーブが強い印象を与える。道に沿って咲く花のかたまりは菜の花だろうか。早春の田園風景、二人が遠去かっていく。見るだけで、こんな道を歩く心地良さが伝わってくる。

 (下)Googleストリートビューでほぼ同じ視点から画面を切り取った。ただし比較のためにグレースケールに置き換えた。喜光寺の南門が復元され、西蓮寺は隠れてしまった。画面の右は国道385号線が通り、その高架バイパスが視界を遮る。中央の道がかつての地道であったと思える。喜光寺はかつて荒れ寺で、会津八一は「ひとりきてかなしむてらのしらかべにきしやのひびきはゆきかえりつつ」と詠んだ。現在立派に復興したが、歌の情緒はもはやない。まことに味気ない現代的な光景である。

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 秋篠川極楽橋から薬師寺東塔を望む。季節は夏のようで、両岸は深い草で覆われている。人や荷車がやっと通れるほどの木橋が懐かしい。空が画面の三分の二を占めて、地上の緑の濃さと雲の白さが対照をなす。その中で東塔の直立した相輪が力強く、塔の存在を印象づける。入江は東塔を遠くに配した風景をいろいろな地点から撮影している。西ノ京は斑鳩と並ぶもっとも大和らしい景観の宝庫であった。しかし70年代に入ると、両地域ともにほとんど撮影されなくなる。

 (下)秋篠川は護岸工事が行われ、コンクリートの堤防と舗装した遊歩道で固められてしまった。その人工的で直線のラインが寒々しい。2019年の撮影で、東塔はまだ覆いの中に隠れる。

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 法隆寺東大門を出てすぐのところに北へ向かう細い道がある。高い土塀が続いて法輪寺法起寺への斑鳩散策ルートにあたる。突き当たりに天満池があり、堤防に沿う道を東へ進む。その堤防から南東方向を見た昭和20年代の風景。見渡す限り田んぼが広がる。その中を白い地道が半円の弧を描き、田の間を縫って伸びていく。農夫が二人向きあっているのも想像を誘う。一人ではなく二人、しかもこの位置であることは画面構成上動かない。演出でなければ、人がここに来ることを待ち続けたのだろうか。入江はこの半円状にカーブする道を気に入ったらしく、ここを歩く人をいろいろな角度から撮影している。

 昭和初期までの法隆寺参拝を綴った文章によく出てくるのは、最寄りの駅から寺へ向かう道のりの素晴らしさである。砂利道の日光の反射に眼を細めながら松並木の間を歩いて行く、あるいは黄金の稲穂が垂れて四方を埋め尽くす中に塔が見えてだんだん近づいてくる。そのときの胸の高鳴りは、その経験がない私にもよくわかる。今の斑鳩にそんな風情はない。寺だけが街の美術館となった。

 (下)堤防に沿った道と半円状の道の分岐点から撮った景色である。堤防の上から見下ろしていないので、わかりにくいが、かつての地道は車がすれ違えるぐらいに拡幅され、倉庫や民家、事務所が建つ。田んぼも残るが、建物が非常に増えた。

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 大和棟の屋根や漆喰の白壁が美しい集落に鯉のぼりが泳ぐ。背後の森は耳成山の裾であり、遠景に二上山がかすんでいる。手前の田の作物は麦である。昭和34年の撮影。奈良盆地は隅々まで耕作され、海の中に小島が散らばるように小さな集落が点在していた。そして大和棟と白壁の家が独特の集落景観を作った。小津安二郎監督の映画『麦秋』(1951年)のラストシーンにこの風景が登場する。小津映画には珍しい移動撮影が用いられて、スクリーンいっぱいに波打つ麦の穂越しに耳成山が映し出される。

 (下)デベロッパーによる新興住宅が耳成山を包囲して裾野まで押し寄せる。住宅街の中に取り残されたように山が見える。

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 明日香村川原寺付近の風景。昭和30年代前半。左後方に見えるのが川原寺、収穫した田にはワラススキと呼ばれる藁塚が立ち、道も地道。背丈が似た庚申塚と女子生徒が並んで立つのも微笑ましい。明日香に観光ブームが押し寄せる前の鄙びた感じがいい。

 (下)寺の南側の田に発掘調査が入り、一塔二金堂の伽藍様式であることがわかった。その基壇跡や柱跡が復元されている。庚申塚は残されて、その前は広い道幅の県道となった。道の角には自販機が並ぶ。入江は、明日香で進む「保存」という名の自然破壊に異を唱えた。「飛鳥古京の現状は、千三百余年の時の流れのままに、遺るものは遺り、滅びるものは滅びて今日に至ったものであり、いわば成り行きにまかせられてきたのだが、五年前ごろからは、そうではなくなってしまった。(この文章の執筆は昭和50年=筆者注)……何気ないひなびた農山村の辺りに立って、その今日的な風物のうちに宿るかつての飛鳥の歴史、あるいは万葉人の歌心などを、フィルターを通して眺めるとき、さまざまなイメージが際限なくひろまってゆく。私は飛鳥の、そういう心象的な滅びの美を捉えたい。コンクリートや人造石などでは、どうにもイメージは湧いてこないのである。」(『大和路遍歴』より)

 川原寺の伽藍跡をコンクリートや人造石を使用して復元されたことに強い失望感を表明する。入江の作品にはいわゆる考古学的復元物が入ることはなかった。

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 *入江のモノクロ写真は『昭和の奈良大和路』(光村推古書院)から

参考
司馬遼太郎街道をゆく1』(朝日文庫
会津八一『自注鹿鳴集』(新潮文庫
入江泰吉『大和路遍歴』(法蔵館

110 ①入江泰吉の郷愁の「大和路」モノクロ篇

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勝間田池の堤防から薬師寺東塔を望む 昭和30年代前半『昭和の奈良大和路』から

 入江泰吉(1905~1992年)の最初の写真集『大和路』(東京創元社)が出版されたのは、1958年(昭和33年)であった。その前年、文芸批評家の小林秀雄が、東京創元社の社長、小林茂を伴って水門町の入江宅を訪れ、写真を見てその場で即座に出版を勧めたということだ。

 入江は1945年(昭和20年)の3月、空襲で営んでいた大阪の写真店が焼かれ、着の身着のままで生まれ故郷の奈良に疎開した。40歳であった。その年の末から、機材を闇市でそろえ、奈良の仏像や風景を撮影するようになっていた。その成果は、大阪や東京の百貨店で個展「大和古寺風物写真展」を開いたり、亀井勝一郎の『大和古寺風物詩』や堀辰雄の『大和路・信濃路』の挿入写真に採用されたから、入江の写真は世間に知られるようになってきたといえる。

 文芸批評のすでに高名な大家であった小林秀雄がわざわざ足を運んで、写真集出版を慫慂したことに驚く。小林はどこかで入江の写真を見て、一流の芸術を感得したのだろう。B4判、125枚のモノクロ写真を収める。小説の神様志賀直哉が序文を寄せる豪華なものであった。当時は個人の写真集はまだ珍しかったなかで、5刷を重ねたという。

 入江の大和路の写真はカラーのものが知られていて、今はモノクロの写真はあまり知られることはないが、大和路の写真家として出発し評価を得たのはモノクロ時代においてであった。

 『大和路』の好評を受けて、1960年(昭和35年)に『大和路 第二集』が上梓された。この頃にはすでにプロの世界ではカラー時代に入っていた。入江はモノクロ表現へのこだわりがあり、新たなカラーの扱い方をめぐって長い試行錯誤があったようだ。カラーで本格的に撮影するようになったのは63年頃からで、それは70年の『古色大和路』、74年の『萬葉大和路』、76年の『花大和路』の三部作に結実する。菊池寛賞を受賞した三部作により入江は評価を確立し、以後多くの写真集やポスターなどで入江調と呼ばれる「大和路」は流布し浸透していくのである。

 モノクロの写真が「発掘」されたのは、1992年(平成4年)1月から翌年の6月まで朝日新聞奈良県版に連載された「うつろいの大和」がきっかけであったように思う。入江が主に50年代に撮影した大和の各地の風景を同じ地点から撮った今の風景と比較するという企画だった。実は私もこの連載を毎回、興味を持って読み、カラー写真しか知らなかった入江の過去の仕事に関心を抱くようになった。入江は92年1月に亡くなっているが、この企画には非常に乗り気になってネガフィルムを提供したという。

 1994年に集英社から『回想の大和路 入江泰吉写真集』が出た。A4判、182枚のモノクロ写真は主に大和の風景写真である。これには衝撃といっていい感動を覚えた。入江のモノクロ写真を鑑賞するに今のところ最良の写真集である。

 奈良市写真美術館は入江の全作品が著作権ごと寄贈されて92年4月に開館した。常時、入江の作品展が開かれているが、モノクロ写真のテーマ展示もときおりある。2005年(平成17年)の「古都の暮らし・人 昭和20年から昭和30年代」は、奈良市内の風俗写真とでもいうべき人物が多数写った作品が集まり、入江の意外な一面が知られる。そのカタログが発行されている。

 写真美術館が編集した『入江泰吉の原風景 昭和の大和路 昭和20~30年代』(光村推古書院 2011年)は小型版であるが、220枚ほどの多彩なモノクロ写真が収められ見飽きない。現在、入手できる写真集としては、写真美術館編集の『回顧 入江泰吉の仕事』(光村推古書院 2015年)があり、時系列で紹介される作品の中にモノクロも含まれる。

 カラーとモノクロ写真、どちらも一貫した入江の「眼」を感じるが、同時に色の有無を超えた相違とカラーにはない魅力がモノクロの写真にはある。モノクロの風景や風俗の写真を見て感じるのは。まず懐かしさである。そして美しいことである。農村や町の広角の風景がそのままに捉えられ、そこには余計な物が一切なく、白と黒の階調が完璧な調和を果たしているように見える。入江はモノクロ写真を撮るときは「色のある現実世界を一旦自分の目の中でモノクロに置き換えたうえで、いわば心的作用に基づいてトーンを整え、画面構成を図る」と語っている。シャッターを押す前に、写真家の頭の中にはプリントされて出来上がったイメージが見えている。田んぼ、道、川、池、民家、人物、樹木、草花、寺社、山、空、雲、……。それぞれが黒と白のグラデーションの中で強調されるばかりでなく、これらの存在そのものがコスモス(秩序)をなして、見る者に安らぎを与える。入江は「飛鳥路早春」(「毎日新聞」1954年3月15日 『回顧 大和路』に採録)の中で次のように書き記す。

 「…(雷丘へ)登っていくと、西側の岡の真下の民家の庭いっぱいに梅の花が咲いていて、その花ごしに豊浦の里がつづき、はるか西には、すんなりとした稜線の畝傍山が見られた。…のどかというよりすべてのものが眠っているような静けさであった。人の気配すら感じられなかった。しばらく見入っていたが、ふと旅愁のような不思議な気持ちに襲われて、じっと落ち着いていられなくなり、もとの豊浦に出て、そこからすぐの神南備山(甘樫丘)へ登った。ここから西北に見下ろせる大和国原のながめは、おそらく一番よく飛鳥路にふさわしい面影を残しているのではないだろうか。画面の中央に飛鳥川が深く弧を描いて、その左に畝傍、右に耳成、香具の三山が配置よく浮かんでいるし目のとどくかぎり開けたたんぼの黄土と麦の緑との美しいしま模様やそのところどころに白壁の村落や森が点在しているのも美しかった。なに一つとして不調和なものも色もなく実に美しく自然と生活がとけあっていた。

 甘樫丘から展望する大和三山を入れた「なに一つとして不調和なものも色もなく実に美しく自然と生活がとけあっていた」パノラマは、先に挙げた写真集で見ることができる。このような大和の風景が、戦争ですべてを失い明日の行方分からぬ戦後の混迷のただ中にあった入江の心を救ったのであった。国破れて大和の山河があったのだ。

 大正から昭和にかけて知識人の間で一種の大和ブームとでも称すべき現象があった。和辻哲郎『古寺巡礼』、亀井勝一郎『大和古寺風物詩』、堀辰雄『大和路・信濃路』、会津八一『南京新唱』などが発行され、志賀直哉が高畑に移り住み、彼を慕う作家や美術家が集まった。彼らの関心は主に仏像、古美術にあったが、奈良の風物、風景も賛美する。志賀は奈良の印象を「名画の残欠」と表現した。入江のモノクロの風景写真を見ると、作家たちが大和に惹きつけられたことが納得できる。

 写真を見ていると、いろいろなことに気づく。画面の中でもっとも白く輝いているのは、漆喰の白壁である。民家や寺院の白壁は目をひき、アクセントになる。人物のシャツや割烹着、手ぬぐいの白も引き立つ。雲や石は白ぽい灰色、道は地道でこれも白ぽい。道は画面構成の上で大きな意味を持つ。画面の手前から入り奥へと伸びて、奥行きをもたらす。時に道はカーブして快いリズムを生む。道を行くのは人、荷車、リヤカー、牛、自転車であり、車はわずかにボンネットバスを見かけるぐらいだ。人工物といえども素材は自然のもので、プラスチックなどまだ出回る前の時代である。

 横軸、縦軸、斜めの軸が巧みに組み合わされハーモニーを生む。田んぼや畑の畦や畝、屋根の棟や瓦の葺き筋、橋の欄干や川の井堰、樹木の幹や電柱、盆地を囲む青垣山の稜線などあらゆる被写体がラインと黒白濃度の面を意識して構成される。ここにはモノクロ写真の特性が極限まで発揮されている。おそらく実際の風景よりも美しいイメージが表現されているのだろう。大和の風景はモノクロ写真で捉えるのに適していたが、もちろん入江の才能があってそれが実現したのである。

 入江はスナップ写真も撮っていて躍動感ある人物が写る。子供が写った写真は秀逸である。仏像写真は文楽写真や肖像写真と共通したものがあって、これにも入江は才能を発揮したが、これは他の機会で述べたい。

 風景写真の中の人物は風景に溶け込んでいて、風景にライブ感が生じるようだ。後のカラーの風景写真とは対照的にモノクロの風景には時間が流れている。それはまさしく撮影された時点の風景なのだ。郷愁を覚えるのもそのリアリティから来ている。それゆえこれらの風景も失われていく宿命にあった。『大和路 第二集』の序文で入江はこのように書き記した。

 「近ごろ、大和路を歩きながら淋しく感じることがある。それは、いわゆる大和路の名の、なつかしいひびきを伝える古寺や、遺跡の周辺の、ひなびた情緒が、徐々に失われつつあることである。……社寺建築や佛象彫刻、あるいは史跡、天然記念物などは、一応、国で護られているから、心配しなくてもいいだろうが、それらを中心に、大和路を形づくっている自然の美しさの壊れてゆくのは、いかにもさびしい。すこし飛躍しすぎる考え方かもしれないが、何十年かさきには、大和路のよさは亡びて、古社寺はさながら街の美術館的存在とならないともかぎらない。

 1960年に洩らした懸念は、まさにその通りになってしまった。「大和路のよさは亡びて、古社寺はさながら街の美術館的存在」となってしまったのである。大和の景観は、千年、二千年にわたる人の営みの上に成り立っていた。自然に依存し働きかけ折り合いながら暮らしてきた証の一つ一つが、その景観に刻まれていたのである。大和の自然と調和した風景の美しさの拠ってきたる所以であり、昭和の初期までこの伝統は存続し、作家たちはここに「大和路の美」を発見した。だが高度経済成長は自然との調和を終焉させ、奈良のみならず全国の景観は一変することになった。

 「大和路の美」を追究してきた入江は、日々破壊されていく風景を前にして難しい立場に立たされた。そしてもう一つ、時代がカラー写真を要請する中で入江もそれに応じざるをえず、カラーでもって大和路をどう表現するかという課題に直面したのである。

 参考
『大和路』(東京創元社1958年)
『大和路 第二集』(東京創元社1960年)
『うつろいの大和』(かもがわ出版1994年)
『回想の大和路 入江泰吉写真集』(集英社1994年)
『古都の暮らし・人 昭和20年から昭和30年代』(奈良市写真美術館2005年)
入江泰吉の原風景 昭和の大和路 昭和20~30年代』(光村推古書院2011年)
『回顧 入江泰吉の仕事』(光村推古書院2015年)
『大和路遍歴』(法蔵館1981年)
入江泰吉自伝 「大和路」に魅せられて』(佼成出版社1992年)

号外 検察庁法改正案に反対する松尾邦弘・元検事総長ら検察OBの意見書

https://digital.asahi.com/articles/ASN5H4RTHN5HUTIL027.html?iref=comtop_8_01

 検察庁法改正に反対する松尾邦弘・元検事総長(77)ら検察OBが15日、法務省に意見書を提出した。ここには、改正法案の問題点が詳細に述べられている。そして司法の三権分立の大原則が壊されることへの強い危機感があふれる。

 「正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない。黒川検事長の定年延長閣議決定、今回の検察庁法改正案提出と続く一連の動きは、検察の組織を弱体化して時の政権の意のままに動く組織に改変させようとする動きであり、ロッキード世代として看過し得ないものである。関係者がこの検察庁法改正の問題を賢察され、内閣が潔くこの改正法案中、検察幹部の定年延長を認める規定は撤回することを期待し、あくまで維持するというのであれば、与党野党の境界を超えて多くの国会議員と法曹人、そして心ある国民すべてがこの検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出ることを期待してやまない。」

 最後にこのように結ばれて、国民へのメッセージが発せられている。デジタル.asahi.comから全文を引用する。

 東京高検検事長の定年延長についての元検察官有志による意見書

 1 東京高検検事長黒川弘務氏は、本年2月8日に定年の63歳に達し退官の予定であったが、直前の1月31日、その定年を8月7日まで半年間延長する閣議決定が行われ、同氏は定年を過ぎて今なお現職に止(とど)まっている。

 検察庁法によれば、定年は検事総長が65歳、その他の検察官は63歳とされており(同法22条)、定年延長を可能とする規定はない。従って検察官の定年を延長するためには検察庁法を改正するしかない。しかるに内閣は同法改正の手続きを経ずに閣議決定のみで黒川氏の定年延長を決定した。これは内閣が現検事総長稲田伸夫氏の後任として黒川氏を予定しており、そのために稲田氏を遅くとも総長の通例の在職期間である2年が終了する8月初旬までに勇退させてその後任に黒川氏を充てるための措置だというのがもっぱらの観測である。一説によると、本年4月20日に京都で開催される予定であった国連犯罪防止刑事司法会議で開催国を代表して稲田氏が開会の演説を行うことを花道として稲田氏が勇退し黒川氏が引き継ぐという筋書きであったが、新型コロナウイルスの流行を理由に会議が中止されたためにこの筋書きは消えたとも言われている。

 いずれにせよ、この閣議決定による黒川氏の定年延長は検察庁法に基づかないものであり、黒川氏の留任には法的根拠はない。この点については、日弁連会長以下全国35を超える弁護士会の会長が反対声明を出したが、内閣はこの閣議決定を撤回せず、黒川氏の定年を超えての留任という異常な状態が現在も続いている。

 2 一般の国家公務員については、一定の要件の下に定年延長が認められており(国家公務員法81条の3)、内閣はこれを根拠に黒川氏の定年延長を閣議決定したものであるが、検察庁法は国家公務員に対する通則である国家公務員法に対して特別法の関係にある。従って「特別法は一般法に優先する」との法理に従い、検察庁法に規定がないものについては通則としての国家公務員法が適用されるが、検察庁法に規定があるものについては同法が優先適用される。定年に関しては検察庁法に規定があるので、国家公務員法の定年関係規定は検察官には適用されない。これは従来の政府の見解でもあった。例えば昭和56年(1981年)4月28日、衆議院内閣委員会において所管の人事院事務総局斧任用局長は、「検察官には国家公務員法の定年延長規定は適用されない」旨明言しており、これに反する運用はこれまで1回も行われて来なかった。すなわちこの解釈と運用が定着している。

 検察官は起訴不起訴の決定権すなわち公訴権を独占し、併せて捜査権も有する。捜査権の範囲は広く、政財界の不正事犯も当然捜査の対象となる。捜査権をもつ公訴官としてその責任は広く重い。時の政権の圧力によって起訴に値する事件が不起訴とされたり、起訴に値しないような事件が起訴されるような事態が発生するようなことがあれば日本の刑事司法は適正公平という基本理念を失って崩壊することになりかねない。検察官の責務は極めて重大であり、検察官は自ら捜査によって収集した証拠等の資料に基づいて起訴すべき事件か否かを判定する役割を担っている。その意味で検察官は準司法官とも言われ、司法の前衛たる役割を担っていると言える。

 こうした検察官の責任の特殊性、重大性から一般の国家公務員を対象とした国家公務員法とは別に検察庁法という特別法を制定し、例えば検察官は検察官適格審査会によらなければその意に反して罷免(ひめん)されない(検察庁法23条)などの身分保障規定を設けている。検察官も一般の国家公務員であるから国家公務員法が適用されるというような皮相的な解釈は成り立たないのである。

 3 本年2月13日衆議院本会議で、安倍総理大臣は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる「朕(ちん)は国家である」との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)とさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。

 時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「統治二論」(加藤節訳、岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。

 ところで仮に安倍総理の解釈のように国家公務員法による定年延長規定が検察官にも適用されると解釈しても、同法81条の3に規定する「その職員の職務の特殊性またはその職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずると認められる十分の理由があるとき」という定年延長の要件に該当しないことは明らかである。

 加えて人事院規則11―8第7条には「勤務延長は、職員が定年退職をすべきこととなる場合において、次の各号の1に該当するときに行うことができる」として、①職務が高度の専門的な知識、熟練した技能または豊富な経験を必要とするものであるため後任を容易に得ることができないとき、②勤務環境その他の勤務条件に特殊性があるため、その職員の退職により生ずる欠員を容易に補充することができず、業務の遂行に重大な障害が生ずるとき、③業務の性質上、その職員の退職による担当者の交替が当該業務の継続的遂行に重大な障害を生ずるとき、という場合を定年延長の要件に挙げている。

 これは要するに、余人をもって代えがたいということであって、現在であれば新型コロナウイルスの流行を収束させるために必死に調査研究を続けている専門家チームのリーダーで後継者がすぐには見付からないというような場合が想定される。

 現在、検察には黒川氏でなければ対応できないというほどの事案が係属しているのかどうか。引き合いに出されるゴーン被告逃亡事件についても黒川氏でなければ、言い換えれば後任の検事長では解決できないという特別な理由があるのであろうか。法律によって厳然と決められている役職定年を延長してまで検事長に留任させるべき法律上の要件に合致する理由は認め難い。

 4 4月16日、国家公務員の定年を60歳から65歳に段階的に引き上げる国家公務員法改正案と抱き合わせる形で検察官の定年も63歳から65歳に引き上げる検察庁法改正案が衆議院本会議で審議入りした。野党側が前記閣議決定の撤回を求めたのに対し菅義偉官房長官は必要なしと突っぱねて既に閣議決定した黒川氏の定年延長を維持する方針を示した。こうして同氏の定年延長問題の決着が着かないまま検察庁法改正案の審議が開始されたのである。

 この改正案中重要な問題点は、検事長を含む上級検察官の役職定年延長に関する改正についてである。すなわち同改正案には「内閣は(中略)年齢が63年に達した次長検事または検事長について、当該次長検事または検事長の職務の遂行上の特別の事情を勘案して、当該次長検事または検事長を検事に任命することにより公務の運営に著しい支障が生ずると認められる事由として内閣が定める事由があると認められるときは、当該次長検事または検事長が年齢63年に達した日の翌日から起算して1年を超えない範囲内で期限を定め、引き続き当該次長検事または検事長が年齢63年に達した日において占めていた官及び職を占めたまま勤務をさせることができる(後略)」と記載されている。

 難解な条文であるが、要するに次長検事および検事長は63歳の職務定年に達しても内閣が必要と認める一定の理由があれば1年以内の範囲で定年延長ができるということである。

 注意すべきは、この規定は内閣の裁量で次長検事および検事長の定年延長が可能とする内容であり、前記の閣僚会議によって黒川検事長の定年延長を決定した違法な決議を後追いで容認しようとするものである。これまで政界と検察との両者間には検察官の人事に政治は介入しないという確立した慣例があり、その慣例がきちんと守られてきた。これは「検察を政治の影響から切りはなすための知恵」とされている(元検事総長伊藤栄樹著「だまされる検事」)。検察庁法は、組織の長に事故があるときまたは欠けたときに備えて臨時職務代行の制度(同法13条)を設けており、定年延長によって対応することは毫(ごう)も想定していなかったし、これからも同様であろうと思われる。

 今回の法改正は、検察の人事に政治権力が介入することを正当化し、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め、検察の力を殺(そ)ぐことを意図していると考えられる。

 5 かつてロッキード世代と呼ばれる世代があったように思われる。ロッキード事件の捜査、公判に関与した検察官や検察事務官ばかりでなく、捜査、公判の推移に一喜一憂しつつ見守っていた多くの関係者、広くは国民大多数であった。

 振り返ると、昭和51年(1976年)2月5日、某紙夕刊1面トップに「ロッキード社がワイロ商法 エアバスにからみ48億円 児玉誉士夫氏に21億円 日本政府にも流れる」との記事が掲載され、翌日から新聞もテレビもロッキード関連の報道一色に塗りつぶされて日本列島は興奮の渦に巻き込まれた。

 当時特捜部にいた若手検事の間では、この降って湧いたような事件に対して、特捜部として必ず捜査に着手するという積極派や、着手すると言っても贈賄の被疑者は国外在住のロッキード社の幹部が中心だし、証拠もほとんど海外にある、いくら特捜部でも手が届かないのではないかという懐疑派、苦労して捜査しても造船疑獄事件のように指揮権発動でおしまいだという悲観派が入り乱れていた。

 事件の第一報が掲載されてから13日後の2月18日検察首脳会議が開かれ、席上、東京高検検事長の神谷尚男氏が「いまこの事件の疑惑解明に着手しなければ検察は今後20年間国民の信頼を失う」と発言したことが報道されるやロッキード世代は歓喜した。後日談だが事件終了後しばらくして若手検事何名かで神谷氏のご自宅にお邪魔したときにこの発言をされた時の神谷氏の心境を聞いた。「(八方塞がりの中で)進むも地獄、退くも地獄なら、進むしかないではないか」という答えであった。

 この神谷検事長の国民信頼発言でロッキード事件の方針が決定し、あとは田中角栄氏ら政財界の大物逮捕に至るご存じの展開となった。時の検事総長は布施健氏、法務大臣は稲葉修氏、法務事務次官塩野宜慶(やすよし)(後に最高裁判事)、内閣総理大臣三木武夫氏であった。

 特捜部が造船疑獄事件の時のように指揮権発動に怯(おび)えることなくのびのびと事件の解明に全力を傾注できたのは検察上層部の不退転の姿勢、それに国民の熱い支持と、捜査への政治的介入に抑制な政治家たちの存在であった。

 国会で捜査の進展状況や疑惑を持たれている政治家の名前を明らかにせよと迫る国会議員に対して捜査の秘密を楯(たて)に断固拒否し続けた安原美穂刑事局長の姿が思い出される。

 しかし検察の歴史には、捜査幹部が押収資料を改ざんするという天を仰ぎたくなるような恥ずべき事件もあった。後輩たちがこの事件がトラウマとなって弱体化し、きちんと育っていないのではないかという思いもある。それが今回のように政治権力につけ込まれる隙を与えてしまったのではないかとの懸念もある。検察は強い権力を持つ組織としてあくまで謙虚でなくてはならない。

 しかしながら、検察が萎縮して人事権まで政権側に握られ、起訴・不起訴の決定など公訴権の行使にまで掣肘(せいちゅう)を受けるようになったら検察は国民の信託に応えられない。

 正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない。

 黒川検事長の定年延長閣議決定、今回の検察庁法改正案提出と続く一連の動きは、検察の組織を弱体化して時の政権の意のままに動く組織に改変させようとする動きであり、ロッキード世代として看過し得ないものである。関係者がこの検察庁法改正の問題を賢察され、内閣が潔くこの改正法案中、検察幹部の定年延長を認める規定は撤回することを期待し、あくまで維持するというのであれば、与党野党の境界を超えて多くの国会議員と法曹人、そして心ある国民すべてがこの検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出ることを期待してやまない。

 【追記】この意見書は、本来は広く心ある元検察官多数に呼びかけて協議を重ねてまとめ上げるべきところ、既に問題の検察庁法一部改正法案が国会に提出され審議が開始されるという差し迫った状況下にあり、意見のとりまとめに当たる私(清水勇男)は既に85歳の高齢に加えて疾病により身体の自由を大きく失っている事情にあることから思うに任せず、やむなくごく少数の親しい先輩知友のみに呼びかけて起案したものであり、更に広く呼びかければ賛同者も多く参集し連名者も多岐に上るものと確実に予想されるので、残念の極みであるが、上記のような事情を了とせられ、意のあるところをなにとぞお酌み取り頂きたい。

 令和2年5月15日

 元仙台高検検事長・平田胤明(たねあき)

 元法務省官房長・堀田力

 元東京高検検事長・村山弘義

 元大阪高検検事長・杉原弘泰

 元最高検検事・土屋守

 同・清水勇男

 同・久保裕

 同・五十嵐紀男

 元検事総長松尾邦弘

 元最高検公判部長・本江威憙(ほんごうたけよし)

 元最高検検事・町田幸雄

 同・池田茂穂

 同・加藤康栄

 同・吉田博視

 (本意見書とりまとめ担当・文責)清水勇男

 法務大臣 森まさこ殿