108 棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか(後編)

~明治・大正期の平城宮跡保存運動の深層~

第3章 「奈良大極殿址保存会」 1911年(明治44)~1922年(大正12)

 奠都祭の翌年に棚田は上京して司法大臣、岡部長職子爵と面会します。「宮跡の保存策が示されなければ奈良へ帰らない」と強く迫ります。岡部子爵は元岸和田藩当主です。彼は華族の中では1番、棚田を支援した人です。岡部子爵が徳川頼倫侯爵を紹介します。徳川侯爵は元紀州徳川藩の当主で貴族院議員でした。ヨーロッパに留学して史跡保存に関心を持ったということです。この頃、自ら「史蹟名勝天然紀念物保存会」という組織をつくって会長を務めていました。平城宮跡保存事業を担うにうってつけの人物でした。徳川侯爵から前向きな返事をもらいます。

 これで保存に一応の目途が立ったからでしょうか。明治45年に棚田は三条通りの交差点に石造の道標を立てます。今はJR奈良駅の広場に移されていますが、交差点の北東の角にあったのですね。正面に「平城宮大極殿跡 西乾是より二十丁」、左側面に「明治四十五年三月建之棚田嘉十郎」と刻んであります。若林県知事が揮毫しています。今では棚田の名前の方に史料的な価値があるわけですが、自分の名前を刻んだことに彼の強い自負心、そして名誉欲、自己顕示欲を感じます。

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三条通りに建つ「平城宮大極殿跡」道標 昭和30年代

 約束通り大正2年に「奈良大極殿址保存会」が正式に発足します。会長は徳川侯爵、副会長に元大蔵大臣の坂谷芳郎男爵、評議員に岡部子爵、奈良県知事、他に著名な実業家の岩崎久彌、渋沢栄一大倉喜八郎らが就きます。大正天皇即位の記念事業であることをかかげて、計画は大極殿址に記念碑を立て基壇の周囲に石標を打ち込む、それに必要な土地を購入するというものです。1万7千円の資金を募ります。

 大正3年に棚田は脳出血のため失明状態になります。過労が原因でしょうか。

 大正4年に、「保存会」は田んぼ約2町5反を1万3千円で購入します。芝地であった大極殿址や朝堂址約4反7畝は地元から寄付されます。奈良県知事の名義に変更されます。

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朝堂院址匿名篤志者保存工事施工予定図(『奈良大極殿址保存会事業経過概要』)

 保存会は約3町の土地を手に入れたのですが、朝堂院と朝集殿院の区画は民有地のままでした。この図では斜線部分です。保存会はこの区画の保存も考えていました。そのとき現れたのが「福田海(ふくでんかい)」という仏教系の新興宗教団体です。岡山に本部がありました。幹部に中西平兵衛という繊維関係の仕事で財をなした資産家がいました。彼の資産を使った匿名慈善事業を盛んに行っていて、平城宮跡の保存に必要な資金全額を匿名で負担するという申し出がありました。棚田が取り次いで保存会に持ち込まれ了承されました。「渡りに舟」だったのでしょう。

 大正7年に溝辺が亡くなっています。

 大正7年に福田海は斜線部分の土地6町3畝23歩を約4万5千円で買収します。このとき土地の名義が中西と団体の代表者の名前に変更されました。棚田はこれを知って抗議し「県知事の名前」に変えるようにと要求します。匿名という約束が破られたと思ったようです。中西は「自分たちの名前にしたのは、知事に頼まれ納税のためにこうなった」と釈明します。知事に問うと「そんなことをいった覚えはない」という返事でした。

 史料にはこれしか出てきません。真相は推測するしかないのですが、中西の言ったことは事実だと思います。こういう重要なことが福田海の一存でできたとは思えません。このあと福田海に丸投げする形で工事が行われます。工事が完了して保存会が引き取る段取りになっていたのでしょう。何年もかかるから福田海の名義にしておいた方が都合良く、また固定資産税もとれるでしょう。知事の発言は真意を公にすることをはばかってしらばくれたのでしょう。今もよく使われる「記憶にありません」ですね。

 またこのとき「匿名」について中西と棚田の間でやりとりがありました。中西は、「匿名とは石碑に名前を刻んだり寄付名簿に署名しないことだ」と説明したのに対し、棚田は「匿名とは一切名前を出さないことだ」と反論します。

 大正8年に「史蹟名勝天然紀念物保存法」が徳川侯爵らによって提案されて議会で成立します。これは文化財保護法の前身です。史蹟を文化財としてとらえ保護するという画期的な思想と方法が確立した法律です。

 大正8年から9年にかけて宮跡の工事が実施されました。これは保存会が立てたプランに沿って奈良県が監督し福田海が業者を使って行ったものです。

 この工事に対しても棚田はクレームをつけました。地鎮祭神道式ではなく仏式であったこと、地鎮祭のあとも人糞などを流して耕作していることについてです。平城神宮の設計図を引いた塚本慶尚は内務省に戻って、「保存会」の事務局も担当していました。仏式という批判に彼は「聖武天皇も喜ばれているだろう」と応じます。耕作についての批判は県の役人が「耕作は国益に適っている」と答えています。

 しかし、棚田はまったく納得しません。「匿名の約束が破られ、宮跡の神聖さを汚す工事になって、保存会の面々に顔が立たない」と嘆きます。さらに「不敬である」と言って、福田海と保存会の担当者を攻撃します。

  大正10年4月に福田海は土地の寄付と工事の辞退を保存会に申し出ています。しかし、保存会は慰留します。工事を継続することを促しています。

 この頃、新聞に福田海を攻撃する記事が盛んに出るようになります。棚田の主張をなぞるような形で「福田海は平城宮跡の乗っ取りをたくらんでいる」「福田海は淫祠邪教だ」とかセンセーショナルに書き立てます。福田海が辞退を申し出たのも、これが一因でしょう。

 この年の8月17日、棚田は大豆山町の自宅で自刃します。妻子が墓参りしている間に、切腹の作法にもとづいて短刀で喉を突き刺します。遺書には「ふはいの絶頂、諸君、義の一字守り給え」と書きつけてありました。

 自刃のあと事態は急展開します。工事は中止となり、福田海の名義になっていた土地は保存会に寄付されます。翌年には、大正8年に成立した史蹟名勝天然記念物保存法により、宮域の東半分が史跡指定を受けます。

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平城宮跡航空写真 昭和30年代

 これは昭和30年代の航空写真です。赤線で囲んだ範囲が、この時の史蹟指定範囲です。その中で白ぽい長方形の部分が国有地となり保存工事が行われました。黄色の線で囲む範囲が宮跡の全体であり、現在住宅地を除く全域が国有地となり特別史跡に指定されています。

 大正12年(1922)5月に 「奈良大極殿址保存会」は解散します。所有する土地はすべて内務省に寄付します。このとき「平城宮址保存紀念碑」が朝集殿院の正面に立てられます。碑の裏面には保存の経緯が漢文で刻まれました。このあと保存工事が再開されます。史跡公園化を意図したプランは破棄され、現状維持を旨とした工事になります。保存区域も南北に少し拡張しました。初めての発掘調査も実施されました。

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空海寺(奈良市)門前の棚田嘉十郎墓)

 写真は東大寺転害門の近くにある空海寺(奈良市司町)です。保存会の手で大正12年に嘉十郎のお墓が建てられました。「平城宮跡保存主唱者 棚田嘉十郎墓」の銘は、岡部長職子爵の揮毫です。

 

終章 棚田嘉十郎の評価

 運動の流れをたどってきました。紆余曲折してわかりにくかったかもしれません。要点をまとめておきます。

  • 明治・大正期平城宮跡保存運動を主導した動機は、皇室への崇敬・顕彰であった。
  • 平安神宮の創建に刺激され、平城神宮の建設が目指されたが、実現に必要な関心や支持は得られなかった。
  • 地元の住民、有力者、政治家、役人らの構成する運動組織が三度結成されたが、実質的な活動には至らなかった。
  • 嘉十郎の個人的な活動の大きな推進力となったのは、小松宮の拝謁であった。皇族直々の激励は、彼に不退転の決意を固めさせるとともに、賛同署名を得る上で大きな武器となった。特に社会的地位の高い相手に効果を発揮した。
  • 嘉十郎の皇室崇敬を動機とした自己犠牲的な行動は、当時の国家が推進した国民教化に応じるモデルとなった。国家の中枢にあった華族が、平民の「真心」に報いるという形で宮跡保存が進行した。
  • 嘉十郎への主な協力者、支援者。溝辺文四郎(地元住民との交渉・説得、資金面の援助)、石崎勝蔵(私生活面の援助)、土方直行(中央華族の紹介)、塚本慶尚(保存事業の実務)、岡部長職華族大臣として最大の支援)
  • 史蹟名勝天然記念物保存法が適用されることで、平城宮跡は皇室の聖地への顕彰という面に加え、歴史的文化財として保存され現在に引き継がれた。

 序章で三つの論点を挙げておきました。これまでたどってきた運動の叙述と要点でその答を示しましたが、さらに補っておきます。

 明治・大正期の平城宮跡保存の大きな動機は、皇室崇敬をもとにした宮跡の顕彰にあることは述べてきました。これは、明治の国家の形成が庶民には目に見える家父長としての天皇のイメージを植え付けることで行われたことと関係しています。天皇への崇敬が愛国心とイコールで結びつくように庶民の教化が図られたのです。それが実を結んだのは、日清戦争から日露戦争にかけてと言われます。

 平城宮跡保存が俎上に上ったのもこの時期です。棚田はこの国民教化のイデオロギーにもっとも染まった人物です。当時の国民の道徳規範となった教育勅語は、天皇に仕える臣民のあり方を説いています。そこには、「いったん有事の際は進んで奉公し、永遠不滅の皇運をたすけ護るべし」とあり、皇室に対する絶対な忠節を要求しています。棚田の行動はこの「期待される臣民像」を体現しました。あるドイツ人から宮跡のガイドを頼まれた時、「草がぼうぼうの宮跡を外国人に見せるのは日本の恥」と思い、仮病を使ってことわっています。また奈良に陸軍歩兵第38連隊の駐屯地が設けられたときには、多大な寄付をしています。愛国心天皇崇敬は結びつき、彼は私生活を犠牲にしてまで宮跡保存に奔走しました。その運動のスタイルは、皇室の藩屛たる華族や政治家に保存を訴えて回るというものでした。一介の庶民の「赤心」からの「奉公」が、皇族や華族を動かして報われたというのが、彼の行為を説明するのにもっともふさわしいでしょう。棚田には社会的に公認された絶対の正義を実践しているという陶酔感があったと思われます。棚田は最後は暴走してしまいますが、保存会はこれを封印します。「模範的な臣民」として死後も棚田を顕彰します。

 棚田の自刃は「匿名篤志家が約束を破ったことの責任を取った行為」というのが通説ですが、事実は異なります。嘉十郎が問題にした福田海の土地買収後の名義替えや仏式の地鎮祭、耕作の続行は、保存会も了承していました。福田海や保存会の立場からは、嘉十郎の批判は誤解であり、その主張は偏狭に過ぎました。保存会は、福田海が「匿名寄付」を布教手段として利用することをある程度許容しながら実を取りました。保存会の現実的な対応と、嘉十郎の主観的な「正義」、すなわち、この場合「完全な匿名性」「神道式の地鎮祭」「地鎮祭以後の耕作はしない」、はすれ違い対立しました。嘉十郎の自刃は、自らの主張に殉じる形で、自分の立場を正当化しようとしたといえます。

 なぜ棚田はそこまでして自分の主張を押し通そうとしたのでしょう。特に匿名性にこだわったことについては、宗教団体が保存事業を自らの宣伝に利用することを阻止しようとしたと言えるかも知れません。しかし福田会の寄付で本来の目的の宮跡保存が実現できるなら、一歩譲るという選択もあったはずです。彼は自分が平城宮跡保存の1番の功労者であると自負していました。福田海が匿名でなくなることは、その名誉を奪われるという嫉妬心があったのではないかと思います。

 棚田の自刃の影響について考えます。

 棚田は自刃によって結果的に自分の主張を押し通しました。福田海はこれ以降身を引き、文字通り匿名的存在に化しました。民間からの寄付金約10万円のうち8万円は福田海が負担しています。その功績を保存会は評価しましたが、一般に語られることはありません。

 当初の観光客も呼べるような公園化のプランは破棄されて、史跡の破壊が押しとどめられました。現状凍結を旨とする保存整備が図られ、後世に引き継がれました。これは棚田が意図しなかったことですが、文字通りの宮跡保存に寄与しました。

 棚田嘉十郎の偶像化に作用しました。自刃の真相は封印され、後に平城宮跡保存の大義にすべてを捧げたというドラマが生まれました。平城宮保存史の中で棚田は銅像にもなるぐらいに大きな評価をあたえられています。悲劇の主人公で「判官贔屓」の琴線に触れるものがあります。彼は戦前には「模範的な皇室崇敬者」として顕彰され、戦後は戦後の価値観で読み替えられて「文化財保存の民間の先覚者」として評価されました。

 ところであの大正期の宮跡の保存が果たして適切であったかということについて、あえて異なる視点から考えてみたいと思います。

 棚田嘉十郎の運動で平城宮跡の保存が早まりましたが、文化財保存の立場からは、時期尚早とも言えます。調査なしの史跡公園化がはかられ、溝渠掘削で史跡が破壊されました。皇居に当たる場所が農地になって牛の糞や人糞まみれになっているのはまずいということで買上られたのですが、それからの30年は草原となりほとんど忘れられた存在になります。文化財という視点からは、田んぼのままであった方が保存に叶っていたということになります。

 機が熟さない中でかなり無理をした保存が、福田海の介入と棚田の自死を招いたともいえます。

 昭和に入り考古学的な調査技術が進み、文化財の概念も成熟していきます。宮跡の破壊が現実の問題となるのは、戦後になってからです。平城宮跡の重要性はすでに早くから共通認識だけはできていたので、機運が熟し保存体制が整って着手するという選択肢もあったのではないでしょうか。

 ただすでに宮跡の中枢部が国有地として保存されていたことで、戦後の全域保存の比較的スムーズに実行できたことは確かであり、史跡保存の先駆けとしての意義は失せないでしょう。

107 棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか。(前編)

~明治・大正期平城宮跡保存運動の深層~

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平城宮跡朱雀門前の棚田嘉十郎像

序章 「文化財保存」の先覚者

 平城宮跡は、1300年前の奈良時代の宮の姿が地下に眠っています。国の特別史跡になり世界遺産にもなっています。宮の正門である朱雀門の前には棚田嘉十郎のブロンズ像がそびえています。宮跡保存に大きな功績があったということで立ちました。この像が建立されたのは1990年です。伸ばした右手は北北東を指さし、その先には第二次大極殿の基壇跡があります。左手は出土した瓦を提げます。

 像の横にプレートがあり、嘉十郎の略歴が刻まれています。

 万延元年(1860)、現在の奈良市須川町に生まれる。明治の中頃、奈良公園で植樹の仕事に携わっているとき、観光客から平城宮跡の位置を問われ、荒れ放題の宮跡に保存の意を強める。明治35年(1902)、地元での平城宮跡保存の運動が高まると嘉十郎も参加、平城神宮の建設をめざしたが、資金面で行き詰まる。

 以来、嘉十郎は、自費で平城宮跡の保存を訴え、上京を繰り返し、多くの著名人から、賛同の署名を集める。そのようななかで、地元の有志・溝辺文四郎らは、嘉十郎の運動に協力し多くの援助をおこなった。

 明治43年(1910)、平城奠都1200年祭が企画されると、嘉十郎は当時の知事に協力を得て、御下賜金300円をたまわるなどして成功に導く。その後、大正2年(1913)徳川頼倫を会長に念願の「奈良大極殿址保存会」が組織され、大極殿に標石28基を配置するとともに記念碑を建てて往時の遺構を永久に保存することを決め、嘉十郎の労が日の目を見ることとなった。

 しかし、用地買収が軌道にのりだして間もなく、嘉十郎が推薦した篤志家が約束を破ったことの責任を痛感し、大正10年(1921)8月16日自刃、嘉十郎は61歳の生涯を閉じた。

 棚田への評価をひと言で言うと、「文化財保存の民間の先覚者」ということだと思います。学者でもなく社会的な名士でもない一介の庶民が、「文化財の大切さ」にいちはやく気づいて保存に生涯を捧げた。平城宮跡保存の立役者としてばかりではなく、文化財保存の先覚者として意味づけされるようになりました。

 宮跡の国による全域保存買上げが決まったのは1960年代始めです。それまでは宮跡の約50haは史跡指定地だったのですが、指定地外に近鉄の操車場の建設が計画されました。それに反対する声が盛り上がり、国を動かして、宮跡の全域が史跡に指定され保存されることになりました。平城宮跡の保存はマスコミに報道されるところとなり、これに関連して明治の保存運動も取り上げられ、その中で棚田の存在が知られるようになりました。60年代から「開発か保存か」という問題が全国的な課題として浮かび上がり、棚田が文化財保存の先覚者としてヒーローのような存在になっていきました。

 明治・大正の保存運動について、その詳しいことはほとんど明らかになっていません。嘉十郎も有名なわりには、実際に彼が行ったことについて詳細に解説した文献はなきに等しい状態です。今回、嘉十郎の足跡をたどるために参考にした主な史料は、5つあります。いずれも奈良県立図書情報館で閲覧できます。

『追親王跡去昇天我父之経歴』(嘉十郎聞書き 大正時代 私家版)
「溝辺文四郎日記」(『明治時代平城宮跡保存運動史料集』(2011年 奈文研)
『奈良大極殿址保存会事業経過概要』(1923年 保存会)
『史蹟精査報告第二 平城宮址調査報告』(1926年 内務省
「棚田嘉十郎・平城宮関係新聞切り抜き」(明治~昭和 私家版)

 これらを調べてようやく保存運動の経過と棚田の活動について具体的な事柄が見えてきました。もちろん十分とは言えませんが、これらの資料をひもとき浮かび上がってきたのは、従来の保存運動と棚田嘉十郎のイメージと異なるものです。それは三つの論点にまとめられます。

 第一に〈当時の保存運動を推進した動機・思想は何か〉
 平城宮跡の価値というのは現在では言うまでもなく文化財ということです。しかし歴史的な文化財という考え方は、明治時代にはまだ一般の人にまで普及した概念ではありませんでした。当時の人が宮跡の保存をめざした動機は、現在の私たちが持つ価値観と必ずしも同じではありません。

 第二に〈棚田の運動が宮跡の保存に結びついたのは何故か〉
 保存運動にかかわった人は他にもいて組織も作られたのですが、それらは成功せず、結局棚田が突出するような形で行動し保存が実現しました。それは略歴にもあった通りです。何が彼を功績者に導いたかということです。

 第三に〈棚田の自刃の真相と、それがおよぼした影響〉
 棚田の自刃はショッキングな出来事です。だが、その真相に触れるような解説はどこにもありません。先ほど紹介した略歴には、「嘉十郎が推薦した篤志家が約束を破ったことの責任を痛感し自刃した」とありましたが、それ以上の説明はどこにもありません。何か触れてはいけないようなタブーとして扱われている感じがします。自刃の真相とそれが及ぼした影響について考えてみたいと思います。

 

第一章 平城神宮の夢 ~1904年(明治37)

  棚田嘉十郎は万延元年(1860)に添上郡東里村大字須川(現在の奈良市須川町)で生まれます。須川町は大柳生の北側に隣接する山地です。

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棚田嘉十郎

 木挽職に従事していたのですが、明治20年(1987)に奈良市東笹鉾町10番地に移り住み、植木商を営みます。東笹鉾町は奈良県庁の北側にある町です。いわゆるキタ(北)町として現在も奈良の町家を多く残す地区です。この頃から整備の始まった奈良公園や御陵に植樹しました。公園で仕事をしている最中に観光客から「奈良の宮の跡はどこにありますか」と聞かれることがあり、「法華寺のあたり」と答えていました。「法華寺御所」という言葉を聞くことがあったからです。

 明治29年(1896)に、知人から都跡村に「大黒の芝」と呼ばれる土壇が田んぼのなかにあり、地元ではそこが宮跡と言われていることを教えられます。実際に訪ねると、土壇は草ぼうぼうであり、牛の糞が堆積していました。それを見て「なんと畏れ多いことか」と胸が痛み涙を流します。

 明治32年(1899)に棚田は京都府笠置村の後醍醐天皇の行在所跡を見学し、地元の人たちによって保存・顕彰されているのを知ります。これに感動し、平城宮跡の保存を決意しました。

 平城宮跡は長い間忘れられていました。幕末、藤堂藩藩士の北浦定政が現地調査や古文書から平城京の条坊を復元したのが、平城京研究の先駆けとなりました。明治23年(1890)に奈良県に古社寺保存の専門家として赴任した関野貞が、定政が残した復元図を参考に宮跡について詳細な調査と研究を行います。明治33年(1900)に彼は地元の新聞に「平城宮大極殿遺址考」を発表します。これにより初めて一般の人にも平城宮跡の所在が知られるようになります。

 これが地元の保存運動のきっかけとなったのでしょうか。翌年、都跡村の有志が「平城宮址顕彰会」を結成し「大黒の芝」に標木を建てます。棚田も加わって楓などを寄付して植樹しています。このときの趣意書には平城神宮建設をめざすことが早くも表明されています。しかし「平城宮址顕彰会」はこれ以上の活動もせず解散します。

 棚田は北浦定政が描いた宮跡の地図を印刷して配布したり、宮跡から出土した瓦を買い上げ、これと思った人に献上していました。明治34年(1901)5月に奈良で赤十字総会があり、総裁の小松宮親王が来県されました。棚田は知人をとおして瓦や礎石などを献上しました。小松宮から呼び出しがあって拝謁を受けました。県知事や軍の高官が居並ぶなか旅館の菊水楼の庭に進み出た棚田は、小松宮じきじきに「保存事業は汚れのないように行え」とのお言葉を賜りました。

 皇室崇敬の念が強い棚田には皇族じきじきの拝謁と激励は、最高の栄誉だったでしょう。これにより彼の運動に賭ける信念は強固になりました。また拝謁は彼が「錦の御旗」を得たことであり、このあと貴顕貴官らにあって賛同署名をもらうときの有力な援軍になったと思います。

 棚田は運動の協力者を求めて、佐紀村出身の神戸で雑貨商を営んでいた溝辺文四郎に会い盟約を結びます。溝辺は棚田より8つ年上で歴史好きな人でした。溝辺は地元の人との交渉や説得を担当し、資金援助を行いました。

 棚田は県会議員の青木新次郎に働きかけます。棚田の訴えに共鳴した青木議員は、都跡村の有力者を集めて会の結成を呼びかけます。生駒郡郡長を会長、都跡村村長を副会長とする「平城神宮建設会」を結成します。何回も会議は持たれるのですが、しかし実際の運動までにはいたりません。会長たちが平安神宮のことを調べるために出張するのですが、それで用意した運動資金の大半を浪費するようなことがあって人心が離れ、この会もたいしたこともできず自然消滅しました。

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「平城神宮未来図」

 この絵図は、この時期に描かれたものです。佐紀池の北側に神宮の敷地をとり、一条通りから参道が伸びています。男性天皇女性天皇を別にした二つの本殿があります。大極殿と朝堂の基壇はそのまま保存するという案のようです。結局ヴィジョンだけで終わりました。

 明治36年(1903)、棚田は来県していた大久保利貞陸軍少将に賛同署名簿につける趣意書の清書をしてもらいます。それを持って、来県する華族や大臣らの社会的名士に宮跡保存の賛同署名を頼んで回ります。署名を次々と得ていきます。普通なら一介の植木職人がこんなことをやっても会ってももらえないでしょう。やはり小松宮の拝謁がモノをいったのでしょう。

 その年のうちに何回も上京して署名活動を行いました。このときは四條畷神社宮司、土方直行に紹介状を書いてもらったようです。

 当時奈良には日刊の新聞が4紙あって競い合っていました。棚田の運動は絶好のネタになりました。彼もそれに積極的に応じました。昨日は誰それの署名を得たというようなことがこと細かに報じられたのです。だから棚田の活動はよく知られるところとなりました。しかし、こういう運動スタイル、身分をわきまえない売名的とも思える活動には当然反発・反感も生じます。「詐欺師」「山師」「狂人」という悪評も立ちました。それを気にするような人ではありませんでした。

 こういうわけで棚田の署名活動は反響を呼ぶわけですが、明治37年(1904)に日露戦争が勃発し運動は中断します。

 家業を顧みず、身銭を切っての運動なので、たちまち家計は窮迫します。子供に着せる着物もなくて浴衣で冬も登校したからいじめられたとか、税務署が差し押さえに来たが差し押さえ状を貼り付ける米粒もなくて呆れられたとかのエピソードが聞き書きの中にたくさん出てきます。

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平城宮旧址紀年翼賛簿」

 これが、棚田が集めて回った署名簿です。「平城宮旧址紀年翼賛簿」と表紙にあります。発起人の棚田と溝辺の署名が最初にあります。署名した子爵岡部長挙(ながとも)、奈良県知事川路利恭、伯爵正親町(おおぎまち)の名が見えます。棚田がやったことは、高位高官に直接面会して宮跡の保存を訴えそれへの賛同の署名をもらうということに尽きます。その際、運動資金として寄付の申し出があったりしたのですが、それを断り手弁当でやったことで棚田の気持ちは純粋だという評価が上がりました。

 

第2章 平城奠都1200年祭 1905年(明治38)~1910年(明治43)

 翌年、日露戦争終結し、棚田と溝辺は運動を再開します。県庁の社寺担当の技師であった塚本慶尚が、平城神宮の設計図を引き見積もりをします。総額約21万7千円の見積もりとなりました。県議会も建設建議を可決します。

 明治39年(1906)1月、棚田らは上京して平城神宮建設の請願を帝国議会に提出します。溝辺が300円提供してロビー活動にあてました。大和新聞の記者、今武次郎がロビー活動を行っています。しかし、請願は本会議を通過せず内務省預かりとなりました。

 平城神宮建設のもくろみが失敗したことについて考えたいと思います。明治34年に都跡村の有志が自主的に結成した「平城宮址顕彰会」の目的が神宮の建設でした。宮跡の保存は顕彰と一体であり、顕彰の究極の方法は神宮を創建することだったのです。これは明治28年に京都の奠都1100年祭を記念して創建された平安神宮の成功が刺激になっていると思います。平安神宮は寄付金10万円を募ったところたちまち全国から30万円集まり、その資金で創建されました。平城神宮は地元の都跡村では歓迎されましたが、奈良県全体からすると本当にどれほどの関心と支持があったのか疑問です。当時の内務省社寺局長が棚田にアドバイスしたところでは、「組織を作って自己資金4万円を集めなさい」と言ったそうです。現状はそれからはほど遠かったのです。

 もっとも当時の国家神道にとって必要な存在だと国が判断すれば、国が主導して神宮創建されたでしょう。たとえば橿原神宮吉野神宮がそうですね。平城神宮はそういうものでもなかったということです。

 国会の請願は通らなかったのですが、宮跡の保存の必要性は認識していた県当局が動き出します。実務トップの内務部長が中心になって「平城宮址保存会」が結成されます。会員は県と市の役人、議員、地元の有力者らで棚田や溝辺も加わります。しかし、運動の目標が神宮建設から建碑に変更するに及んで、地元の人は「それでは土地が取られるばかりで村の利益にならない」ということで離れていきます。役人も転勤などで一定せず、この会も霧散消滅してしまいます。この頃が保存運動にとっては冬の時代でほとんど動きがありません。

 再び動き出すのは、明治43年(1910)に平城奠都1200年祭の行事が計画されてです。行事の一環として建碑を目的にした募金活動が行われます。これは新しい組織はつくらず、県がバックアップして棚田と溝辺が募金活動をしたのですが、社会的地位もない個人が募金活動をするというのは無理がありました。

 しかし、棚田の人脈が生きて御下賜金300円が下りるという幸運がありました。御下賜金とは、皇室から直々に下される資金ということです。これがあって県当局も前面に出てきて郡市町村に発破をかけて募金活動が進められます。

 奠都1200年祭は主会場を平城宮跡にして11月の3日間にわたって挙行されました。主催者には県知事、奈良市長、都跡村長に並んで棚田、溝辺も加わりました。

 当時はのんびりしていて、挙行が本決まりになったのは1カ月前です。それまでは準備が整わないから来年にしようという案が有力だったそうです。しかし、知事が1200年というのは今年だからということで決まったといいます。これは溝辺日記に出てきます。 

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平城宮址建碑計画趣意書」

 これは、明治43年に棚田と溝辺が建碑のための募金活動をしたとき配布した趣意書です。実は明治36年に棚田が賛同署名簿につけた趣意書、この二つは同一文で字句を少し変えたものです。陸軍中将大久保利貞記とありますが、実際に起草したのは奈良の生き字引と呼ばれ奈良女子高等師範学校教授だった水木要太郎です。だから、ここに明治の保存運動の思想がこめられていると考えても間違いはないと思います。

 内容は平城宮保存の意義を説いて、「之を荒蕪に委して空しく古を懐ふ、固より忠愛なる臣民の至情には非ず、必ずや之を顕彰し之を保存して永く以皇徳瞻仰景慕(こうとくせんぎょうけいぼ)の誠意を尽くす」と訴えます。言葉は難しいですが、「平城宮跡を荒れたままにしておくことは、皇室に忠愛なる臣民の真心にはそぐわない。保存顕彰することは、皇室の徳を仰ぎ見て慕うという臣民の誠意を尽くすことである」との意味です。この趣意書にあるように、当時の保存運動の第一の動機は、皇室への崇敬の念であったわけです。崇敬の念を形に表すことが、宮跡の保存・顕彰であったわけです。

 明治にあっては、史跡は文化財であるという観念はめばえていたでしょうが、まだ普及はしていなかったのです。

 もっともこれも建前と本音というのがあって、佐紀の住民は神宮なら歓迎するが、記念碑にはそっぽを向きました。つまり村の発展につながるかどうかというのが本音であったわけです。生活を第一に考えれば、佐紀の住民の反応にも一理あると思います。

 その点で、棚田は建前と本音の一致を生活を犠牲にすることで純粋につきつめていったと言えます。(108 棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか(後編)に続く)

106 有馬皇子自傷歌の作者は誰か

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  有馬皇子自傷歌は自作か他人の作か?

 万葉集の挽歌の部立で最初に来る歌は、有馬皇子の自傷歌である。謀反を企てた罪で、紀伊牟婁(むろ)の湯(白浜温泉)に滞在していた斉明天皇中大兄皇子のもとに護送される。その途中の岩代で詠まれた歌だ。

 有馬皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首

岩代(いはしろ)の浜松が枝を引き結び真幸(まさき)くあらばまた還り見む 巻2-141
(ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく。もし万一願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。)

家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあらば椎(しい)の葉に盛る 巻2-142
(家にいるときはいつも立派な器物に盛ってお供えする飯なのに、その飯を、今旅の身である私は椎の葉に盛る。)

 教科書にも載る有名な歌であるが、この事件の経緯と背景について簡単に見ていこう。

 有馬皇子は、第三十六代孝徳天皇を父とし、母は左大臣安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の娘、小足姫(おたらしひめ)である。乙巳の変のあと皇位に就いた孝徳天皇は、難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)に宮を移し政治を行ったが、中大兄皇子と対立し、皇子が皇極上皇や間人皇后(はしひとのおおきさき)、公卿大夫、百官を引き連れて明日香に帰るという事態となる。一人取り残された天皇は孤独の中、憤死したという。この時、有馬皇子は十五歳、暗い影を背負うことになった。

 皇極上皇重祚して斉明天皇となり、中大兄皇子は皇太子のままであった。有馬皇子は母が皇族ではなく、天皇候補としての立場は弱かったが、父の孝徳を憤死に至らしめた中大兄皇子にとっては何時復讐されるかわからない警戒すべき存在であっただろう。有馬皇子も自らの立場をよく知っていて、狂人を装い牟婁の湯に湯治した。その効果があったことを斉明天皇に告げたところ、天皇と皇太子の牟婁の湯行幸となった。658年の冬である。

 事件は天皇と皇太子が不在の明日香で起きた。留守官の蘇我赤兄(そがのあかえ)が有馬皇子に近づき天皇の失政を語った。皇子は赤兄を信頼し兵を挙げることを言った。1日おき赤兄の家で謀議している最中に皇子の脇息が折れた。不吉だとして謀議を中止し、秘密にすることを二人は誓った。その夜、赤兄が遣わした軍勢が皇子の宮を包囲し、皇子を捕らえる。そして行幸先の牟婁の湯へ護送されたのである。岩代は日高郡みなべ町、白浜に近い。街道が海辺を通り、旅人は道中の安全を祈る聖地であり、皇子の歌はここで詠まれた。

 皇子は、中大兄皇子の尋問を受けたとき「天と赤兄と知る。吾れ全(もは)ら解(し)らず」とのみ答えて黙ったという。送り返される途次の藤白坂(海南市藤白)で絞殺される。享年十九歳であった。

 有馬皇子が謀反心を抱いていたことは確かである。蘇我赤兄は策謀して皇子を陥れた。処刑に至る手際の良さから、赤兄と中大兄皇子とが示し合わせた陰謀と見るのが自然だろう。歌はこれだけでは羈旅の歌と読める。背景を知って、その平常心の歌いぶりにかえつて胸が衝かれる。歌は、犠牲者として悲劇の皇子への同情を引き出すだろう。

 ここで一抹の疑問が生じる。はたして有馬皇子の自作なのかということだ。歌の出来映えが見事であるだけに、満十八歳の青年が死を目前にしてこれだけ平静でいられるのか、後世、皇子の立場に立って作られたのではないかという思いが消えないのだ。皇子は中大兄皇子の尋問に「天と赤兄と知る。吾れ全(もは)ら解(し)らず」とのみ答えて沈黙したというから相当な人物であったと思う。「天」とは中大兄皇子を指す。だから自作歌という説も十分成り立つが、他作歌説も保留しておきたい。

    有馬皇子追悼歌に込められた政治的意図

 自傷歌に続いて、有馬皇子を追悼する後世の歌が四首載る

長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおをまろ)、結び松を見て哀咽(かな)しぶ歌二首

岩代の岸の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも 巻2-143 
(岩代の崖のほとり松の枝、この枝を結んだというそのお方は、立ち帰って再びこの松をご覧になったことであろうか)

岩代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ 巻2-144
(岩代の野中に立っている結び松よ、お前の結び目のように、私の心はふさぎ結ぼおれて、昔のことがしきりに思われる。)

  山上臣憶良が追和の歌一首

天翔りあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ 巻2-145
(皇子の御魂は天空を飛び通いながら常にご覧になっておりましょうが、人にはそれがわからない、しかし、松はちゃんと知っているのでしょう。)

  大宝元年辛丑に、紀伊の国に幸す時、結び松を見る歌一首 柿本朝臣人麻呂が歌集の中に出ず

後見むと君が結べる岩代の小松がうれをまたも見むかも 巻2-146
(のちに見ようと、皇子が痛ましくも結んでおかれたこの松の梢よ、この梢を、私は再び見ることがあろうか)

 これらの歌が詠まれたのは、大宝元年(701)9月から10月にかけての文武天皇と持統太上天皇紀伊行幸の時であったとされる。長忌寸意吉麻呂と山上憶良の歌は、持統4年(690)の持統天皇紀伊行幸で詠まれたという異説がある。どちらにしても、この四首は行幸時に詠まれており、天皇も臨席した宴席で朗唱されたのだろう。作者の個人的な思いを吐露したというよりも、時の宮廷が思いを共有した「公式」の歌である。

 どの歌も「結び松」に掛けて、「真幸くあればまた還り見む」という哀切な祈りがリフレインし、皇子の運命に満腔の涙をそそぐ。持統天皇の宮廷人が、何故かくも有馬皇子に同情したのか。一種の判官贔屓なのか。勝者の持統天皇が、敗者の有馬皇子を贔屓する理由は何なのか。それは、大海人皇子が有馬皇子と同じ運命をたどりかねない立場をくぐり抜けてきたことにある。

 天智10年(671)に天智天皇が重病の床についた時、東宮であった大海人皇子皇位を継ぐことを辞退し出家を申し出て許された。天智天皇が政敵には謀略を駆使して抹殺してきたことは周知の事実であり、危険を察知した大海人皇子は辛うじてその難から逃れたのであった。その後の壬申の乱は、客観的に見るならば、近江朝に正統に引き継がれた皇位大海人皇子が武力によって簒奪したことになる。しかし天武・持統朝は自らの正統性を主張するために舒明天皇斉明天皇の直系であることを強調するとともに天智天皇に問題があったことを記録に留める。

 蘇我赤兄は近江朝の左大臣であり、壬申の乱後は追放された。有馬皇子は、赤兄と中大兄皇子が仕組んだ謀略の犠牲となった。謀略にはまりかねなかった大海人皇子の側は有馬皇子を顕彰することで、自らの正当防衛を印象づけられる。持統朝・文武朝の紀伊行幸で公に有馬皇子を追悼する政治的な理由はここにあった。もし有馬皇子自傷歌が後世の作だとするなら、天武・持統朝においてであろう。万葉集挽歌の部冒頭に置かれたのも、万葉集原撰部が持統天皇の主導で編纂されたその影響にあったからだ。

    天武朝で改葬された有馬皇子の墓?

 和歌山県御坊市岩内にある岩内1号墳は、和歌山県唯一の終末期古墳である。1辺約19mの方墳で、墳丘は版築で叩きしめられている。両袖式の横穴石室を持ち、玄室の長さは2.48m、幅2m、羨道の長さは3.42m、幅1.45mである。7世紀前半末期に築造され、さらに7世紀後半中期に改築されたという。改築された石室床面から銀線蛭巻太刀や木棺に使用した六華葉飾金具が出土している。

 森浩一氏は、岩内1号墳は有馬皇子を埋葬した墓であると推定した。その理由は、①大化の薄葬令に対応する県内唯一の古墳で、大和、河内に引けを取らない1級の墓である。②方墳で最新の版築の技術を用いている。③出土品の銀線蛭巻太刀は、被葬者が非常に身分の高いことを示す。④漆塗りの木棺は畿内でもごくわずかしか出てこない。⑤有馬皇子側近で同時に処刑された塩屋連鯛魚は、日高郡の大豪族塩屋の出身であり、その関係で皇子はここに葬られた。⑥皇子はまず仮埋葬され、天武朝になって本格手に埋葬された。

 注目したいのは、7世紀後半中期に改築され、その時の立派な副葬品が出土するということだ。森浩一氏が指摘したように有馬皇子の墓であるなら、天武・持統朝において皇子の復権・顕彰は墓にまで及んでいたことになる。追悼歌はそれに伴うものであったのだろうか。

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岩内1号墳(御坊市ホームページ

*歌の訓み下し、現代語訳は、伊藤博校注『萬葉集釋注一』に拠る。

参考
伊藤博萬葉集釋注一』集英社文庫
坂本太郎他校注『日本書紀五』岩波文庫
青木和夫他校注『新日本古典文学大系 続日本紀一』岩波書店
小賀直樹「有馬皇子の墓はどこか」(『有馬皇子を考える』帝塚山大学考古学研究所・博物館)

105 東の野に立つのは、“けぶり”か?“かぎろひ”か?

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かぎろひの丘万葉公園(奈良県宇陀市

   東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ 巻1-48

 柿本人麻呂が、軽皇子の遊猟に従駕して詠んだ歌の一つとして有名な歌である。夜明けの太陽が現れる直前、光が射し、振り返れば、月は西空に傾いている。雄大で鮮やかなイメージが浮かんできて一読忘れられない歌となる。

 題詞には「阿騎野」という地名が記される。奈良県宇陀市大宇陀町に古代の狩場があったらしく、阿紀神社のある周辺が「かぎろひの丘万葉公園」として整備されている。ここでは毎年12月頃(旧暦11月17日)に「かぎろひを見る会」が催されて、今年で48回目となる。早朝、たき火を囲みながら日の出を待つ。かぎろひが見えるかどうかは、その日のお天気次第だという。筆者は参加したことはないが、現地でこの歌の風景を見たいという気持ちはよくわかる。万葉集にはロマンをかき立てる歌は多いが、これは最たるものだろう。

 ところがである。このロマンが揺らいでいる。2013年、岩波文庫で出た『万葉集(一)』の中で、48番歌の訓み下しが次のようになった。

   東の野らにけぶりの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

 なんと、「かぎろひ」が「けぶり(煙)」に訓み替えられた。一体どういうことなのだろう。岩波文庫には詳細な解説があるので、それを見ていこう。

 まず原文はこうである。

   東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡

 問題の箇所は「炎」である。これを「かぎろひ」と訓んだのは、賀茂真淵であった。それまでは、「けぶり」と訓まれていた。

   あずま野のけぶりの立てる所見てかえり見すれば月かたぶきぬ

 「けぶり」と訓むのは、巻3-366の「海未通女 塩焼炎」を「海人娘子 塩焼く煙(あまおとめ しおやくけぶり)」とする例がある。「かぎろひ」と訓むのも、巻6-1047の「炎乃 春尓之有者」を「かぎろひの春にしなれば」という例がある。

 「かぎろひ」は万葉集の他の用例からも判断して「陽炎(かげろう)」の意味である。真淵は、これを「ほのかな光」という意味に解釈した。というのも。この歌が詠まれたのは、長歌に「み雪降る」とあって冬であり、しかも夜明け前なので、陽炎が出現するとは思えないからである。しかし、この意味の変更は根拠に欠けるという。

 「かぎろひ」に続く動詞は、他はどれも「燃ゆる」である。したがって、「かぎろひ」と訓んで「立つ」と続けることは疑問がある。

 このような理由から、岩波文庫の校注者たちは、「炎」を真淵以前の訓み方「けぶり」に戻した。そして、この「けぶり」は、これから狩りをするため野に放った火の煙であるとする。

   安騎の野に宿る旅人うち靡き寐も寝らめやもいにしへ思ふに 巻1-46
   ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し 巻1-47
   東の野らにけぶりの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ 巻1-48
   日並の皇子の命の馬並めてみ狩り立たしし時は来向ふ 巻1-49

  四首並べて鑑賞すると、四首がそれぞれ起承転結の役割をおびて、三首目がこれから狩りに立とうとするきっかけを与えるにふさわしい内容、すなわち転換の歌であると思える。これが「かぎろひ」ではやや間延びする。しかし、一首として鑑賞するなら、その差は歴然としている。真淵の訓みと解釈は、この歌が万葉集を代表する歌へと押し出したのである。

  参考文献
 佐竹昭広他校注『万葉集(一)』岩波文庫
 小川靖彦著『万葉集と日本人』角川書店

104 万葉挽歌の大和――堀辰雄著『大和路・信濃路』

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 堀辰雄が月刊誌『婦人公論』に「大和路・信濃路」を連載したのは1943(昭和18)年であった。戦後、新潮文庫と角川文庫に『大和路・信濃路』のタイトルで他の文章も加えて刊行された。両者は編集が異なり収載された文章や配置に異同がある。大和路を直接題材にした文章は「十月」、「古墳」、「浄瑠璃寺の春」、「『死者の書』」であり、両文庫に収められた。文庫には入っていないが、「黒髪山」も大和を題材にしているため、都合これらの5編をもって堀辰雄の『大和路』として取り上げ感想を述べたい。なお現在『大和路・信濃路』は新潮文庫で入手できる。

    6回の大和旅行

 堀辰雄は1904(明治37)年に東京に生まれた。東京帝大文学部国文科卒。旧制第一高等学校の在学中から室生犀星芥川龍之介の知遇を得て文学を志す。『聖家族』、『美しい村』、『風立ちぬ』、『菜穂子』等、フランス文学の影響が濃い作品がある一方、日本の王朝文学に題材をとった『かげろふの日記』、『曠(あら)野』等がある。病身を養うため軽井沢に住まいし信濃の風土が作品ににじみでる。1953(昭和28)年死去、享年49歳。堀辰雄全集10巻(角川書店)がある。

 堀がはじめて奈良を訪ねたのは1937(昭和12)年で、このときは京都旅行も兼ねていた。2度目は、2年後に友人の作家、神西清と一緒に旅行している。このときの体験が「黒髪山」を生んだ。次は1941(昭和41)年10月、月刊誌『改造』の求めに応じ、古代小説を書く目的で一人奈良を見て回り、半月ばかり奈良ホテルに宿泊した。この間、多恵子夫人宛てにつづった手紙をもとに「十月」が著された。同年、12月には3日ばかり滞在し、山辺の道、巻向、山城恭仁京、橿原、明日香をめぐっている。J兄こと神西清に書簡を認める形で2年前の旅行を思いだしながら今回の体験を記したのが「古墳」である。1943(昭和18)年の春に多恵子夫人とともに浄瑠璃寺を訪ねた記録が「浄瑠璃寺の春」になる。同年初夏の桜井聖林寺を単独で訪ねたのが最後の大和行となった。「『死者の書』」は折口信夫の同名の書を会話体で論じたもので、一連の大和路シリーズの最後に書かれた。

    阿修羅像の眼ざし

 『大和路』は、『古寺巡礼』と『大和古寺風物詩』の二書と比べ内容と文章においてかなり異なる。まず仏像や寺院があまり取り上げられないし、登場しても他書と視点が異なる。著者は奈良の各地を訪ねてまわるが、寺と同じように沿道や村落の風景を愛おしみつつ心を遊ばせる。万葉集の挽歌の舞台である山や飛鳥にも足を伸ばしたり、古墳の石室をのぞいたりして、古代人の心を追体験する。行く先々の馬酔木の花を見比べる。奈良の風土そのものを身体で味わっているような紀行である。文章は、他の二書が思弁的な性格を持つのにたいし、本書は直接の経験から離れず具体的な描写を重ねていく小説家らしい文章である。

 著者が取り上げた仏像は、興福寺阿修羅像、秋篠寺の伎芸天女像、三月堂月光菩薩像、戒壇広目天像、法隆寺百済観音像などであり、いずれも仏像に人間性を見いだして親しみを覚えるというもので、他の二書が仏像に超越的な神性を見るのとは方向性が逆である。たとえば阿修羅像については次のように語られる。

 「ちょうど若い樹木が枝を拡げるような自然さで、六本の腕を一ぱいに拡げながら、何処か遥かなところを、何かをこらえているような表情で、一心になって見入っている阿修羅王の前に立ち止まっていた。なんというういういしい、しかも切ない目ざしだろう。こういう目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示しているのだろう。
 それが何かわれわれ人間の奥ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させていると、自分のうちにおのずから故しれぬ郷愁のようなものが生れてくる、――何かそういったノスタルジックなものさえ身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない気もちになって、やっとのことで、その彫像をうしろにした。」(新潮文庫『大和路・信濃路』101頁)

 堀が仏像について一番熱心に語ったのはこの部分である。おそらくこの感想はおおかたの同意を得ると思う。阿修羅像を人間性のレベルから共感する先駆けではないだろうか。

    三者三様の唐招提寺

 唐招提寺金堂は、『古寺巡礼』『大和古寺風物詩』『大和路』の三者三様、詳細に述べられてそれぞれの特徴が出る。和辻は金堂の屋根や柱、軒の組物などのバランスを詳しく論じてその美しさの理由を明かそうとする。ギリシャ、ローマ、ゴシック建築との比較、周囲の松林との調和まで挙げる。亀井は、金堂、講堂、舎利殿、鼓楼の伽藍配置の美しさに言及する。さらに金堂の柱について想像をめぐらす。旅人がもたれて休息し、男女が隠れて逢い引きし、子供たちがかくれんぼするにふさわしい円柱に人間くさい親しみを覚える。堀もまた彼らしい方法で金堂にかかわる。

 夕暮れの迫る金堂に来た堀は、吹き放しの円柱のかげを歩きまわる。扉にあるかなきかの仄かさで浮かび出る花紋に気づく。そして、「円柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の真んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味わおうとした。僕はそのときふとその手を休めて、じっと一つところにそれを押しつけた。僕は異様に心が躍った。そうやってみていると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部に滲み込こんだ日の光の温かみがまだ消えやらずに残っているらしい。
 僕はそれから顔をその柱にすれすれにして、それを嗅かいでみた。日なたの匂いまでもそこには幽かすかに残っていた。……」(同110頁)

 堀は、金堂の扉に発見したかすかな古代の花文と夕暮れの柱に残った日の温み・匂いをもって唐招提寺について書き表した。なんとも印象深い場面である。

    万葉挽歌への関心

 堀はそもそもなぜ奈良・大和に関心を抱いたのだろう。彼は折口信夫の講義を聴講しており、折口の『古代研究』の愛読者である。『死者の書』に感激して二上山を訪ねている。彼の関心は古代人の他界観にあった。万葉集の挽歌に強く惹かれることを述べる。それは、「一切のよき文学の底にはレクエイム的な要素がある」と信じた彼の文学観からきている。万葉挽歌への関心が堀を大和へと導いたのである。

 昭和14年に奈良を旅行したとき、はじめは古寺をめぐったが、万葉集とは結びつかなかった。そこで古寺めぐりをやめ、「ただぼんやりとそこいらの村を歩いて暮らすことにした」。

 「私は卷向山や二上山などの草深い麓をひとりでぶらぶらしながら、信州の山々を見馴れてゐる自分のやうな者にも、それ等の山そのものとしては何らの變哲もなく見える小さな山々に對して一種異樣な愛情の湧いてくるのを感じ出してゐた。いまから千年以上も前、それらの山々に愛する者を葬つた萬葉の人々が、そのとき以來それまで只ぼんやりと見過ごしてゐたその山々を急に毎日のやうに見ては歎き悲しみ、その悲歎の裡からいかにその山が他の山と異り、限りないそれ自身の美しさをもつてゐることを見出して行つたであらう事などを考へてゐると、現在の自分までが何かさういふ彼等の死者を守つてゐる悲しみを分かちながらいつかそれらの山々を眺め出してゐるのだつた。さういふこちらの氣のせゐか、大和の山々は、どんなに小さい山々にも、その奧深いところに何か哀歌的なものを潛めてゐる。」(「黒髪山」)

 「人麻呂歌集」に黒髪山という地名があることから、著者は奈良坂から黒髪山を抜けて歌姫へ出ることを試みる。しかし山へ入ると小道が多くて迷ってしまう。5月の若葉が茂る明るい山中をさ迷いながら、自分が山に葬られた万葉の死者のように感じられてくる。それは心細さと同時になにか楽しい体験であった。

 大和の地に万葉人の心情を追体験するのは、「古墳」のなかでもみられる。人麻呂が挽歌をおくった妻は「軽の村」に住まっていた。著者は飛鳥に近い軽を訪ねて、現地の風景に人麻呂とその妻が往来していた情景を浮かべる。

 「今もまだその軽の村らしいものが残っております。その名を留めている現在の村は、藪の多い、見るかげもなく小さな古びた部落になり果てていますが、それだけに一種のいい味があって、そこへいま往ってみても決して裏切られるようなことはありません。
 低い山がいくつも村の背後にあります。そういう低い山が急に村の近くで途切れてから、それがもう一ぺんあちこちで小丘になったり、森になったり、藪になったりしているような工合の村です。そういう村の地形を考えに入れながら、もう一ぺんさっきの歌を味わってみると、一層そのニュアンスが分かって来るような気がします。」(『大和路・信濃路』141頁)

    書かれなかった古代小説

 「十月」のなかで、著者は斑鳩の里を歩きながら古代小説を構想する。「日本に仏教が渡来してきて、その新しい宗教に次第に追いやられながら、遠い田舎のほうへと流浪の旅をつづけ出す、古代の小さな神々の佗しいうしろ姿を一つの物語にして描いてみたい。それらの流謫の神々にいたく同情し、彼等をなつかしみながらも、新しい信仰に目ざめてゆく若い貴族をひとり見つけてきて、それをその小説の主人公にするのだ。」(同128頁)。「古代の小さな神々」「流謫の神々」とは、万葉集に現れた信仰であろう。堀は大和の山野を彷徨しつつその雰囲気に染まりながら、小説のインスピレーションをつかもうとした。しかその小説は書かれなかった。1944年から堀は病床に伏すことが多くなった。戦後はほとんど執筆活動ができなかった。

 信濃は堀のふるさとであった。そして大和が第二のふるさとになることを望んだ。「いつの日にか大和を大和ともおもわずに、ただ何んとなくいい小さな古国にだとおもう位の云い知れぬなつかしさで一ぱいになりながら、歩けるようになりたい」(同163頁)と願ったのであるが、それも叶わなかった。

 本書の旅行が行われ執筆されたのは、ほぼ太平洋戦争の最中である。しかし戦争の影はみじんもなく、そのことに驚く。著者の強靱な精神を見るような気がする。

 主要参考文献
堀辰雄『大和路・信濃路』新潮文庫
堀辰雄『大和路・信濃路』角川文庫
堀辰雄黒髪山青空文庫

103 大和を舞台にした求道の書――亀井勝一郎著『大和古寺風物誌』

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 私がはじめて新潮文庫版『大和古寺風物誌』を読んだのはかれこれ半世紀ほど前である。著者は1966年に亡くなっていたが、有名であったし、この本が人気のあることはなんとなく知っていた。タイトルが牧歌的であるのにもひかれた。しかし甘美な詩情あふれる大和の歳時記風エッセイという予想に反して、内容は高校生の私の理解力を超えていた。だが、それにもかかわらずこの本への関心は消えず、私の中で『大和古寺風物誌』=大和路のイメージがいつのまにか生まれていた。何が私をひきつけたのか。いま考えると、本書の強い文学性であったのだと思う。美術史家の町田甲一は、『古寺巡礼』と『大和古寺風物誌』の仏像鑑賞が「主観的文学的哲学的」であり、仏像の客観的な理解ではないと批判したが、それは『大和古寺風物誌』についてより言えることであろう。でもそこが逆に私を惹きつけていた所以なのである。

    古典の地で図られた再生

 亀井勝一郎は1907年、北海道函館に生れた。東大美学科在学中「新人会」に加わり大学を中退。1928(昭和3)年、治安維持法違反の疑いで検挙される。保釈後日本プロレタリア作家同盟に所属するが転向して、1935年同人誌「日本浪曼派」を創刊。文芸評論家の道に進む。戦後は宗教的立場から文明批評を試みる。『日本人の精神史研究』で菊池寛賞受賞。1966年死去。『亀井勝一郎全集』全21巻補巻3がある。

 亀井と大和との出会いは1937年(昭和12)、30歳の時であった。20代初期のマルクス主義革命運動への参画と挫折・転向を体験し、文芸評論の道にスタートを切ったばかりである。思想的な模索と人生への探求が彼の中で渦巻いていた時期であった。大和の古寺巡りを始めた動機を彼は次のように書く。 

 「はじめて古寺を巡ろうとしていた頃の自分には、かなり明らかな目的があった。すなわち日本的教養を身につけたいという願いがあった。長いあいだ芸術上の日本を蔑ろにしていたことへの懺悔に似た気持もあって、改めて美術史をよみ、希臘(ギリシャ)・羅馬(ローマ)からルネッサンスへかけての西洋美術とどう違うかということや、仏像の様式の変化とか、そういうことに心を労していたのである。仏像は何よりもまず美術品であった。そして必ず希臘彫刻と対比され、対比することによって己の教養の量的増加をもくろんでいたのである。私においては、日本への回帰――転身のプログラムの一つに「教養」の蓄積ということが加えられていた。己の再生は、未知の、そして今まで顧みることのなかった古典の地で行われねばならなかった。古美術に関する教養は自分を救ってくれるであろうと。」(新潮文庫『大和古寺風物誌』71頁) 

 昭和12年は日中戦争が始まった年であり、国内での「愛国心」の高まりがあり、国粋主義的な思想で社会が染められていく時代だった。亀井の「日本回帰」もその風潮に棹さす一面のあったことは否定できない。だが時代の影響のみに限定することはできない。亀井は北海道に生まれ高校は山形で過ごした。日本の古典文化から離れた北国、東国の風土で育ち、当時の知的青年らしく西欧の思潮を吸収して精神を形成した。思想において人生において紆余曲折した彼の前に新たな世界として日本の古典が現れた。そういう意味では内的な必然性に促されての「古典の地」大和への旅であり、ここでの「己の再生」が希求されたのである。

 大和へ旅するまでは彼にとって仏像は親近感を覚えるものではなかった。西欧の教養で自己形成していた彼は、当然ながら西欧の古典美術に心ひかれていた。大和に向かった当時の知的青年たちのバイブルは『古寺巡礼』であったが、彼らは多かれ少なかれ西欧の学問を仕込んだ和辻と知的環境を共有し、亀井もまた変わりなかった。『大和古寺風物誌』に登場する寺院や仏像は、『古寺巡礼』と共通するところが多い。ギリシャ古典を起点とする美意識がともに深く内面化されているからである。

    仏像は仏である

 美術鑑賞の対象であったはずの仏像は、だが、亀井の前に異なる姿を現す。法隆寺百済観音の前に彼は立った。 

 「仄暗い堂内に、その白味がかった体躯が焔のように真直ぐ立っているのをみた刹那、観察よりもまず合掌したい気持になる。大地から燃えあがった永遠の焔のようであった。人間像というよりも人間塔――いのちの火の生動している塔であった。胸にも胴体にも四肢にも写実的なふくらみというものはない。筋肉もむろんない。しかしそれらのすべてを通った彼岸の、イデアリスティクな体躯、人間の最も美しい夢と云っていいか。殊に胴体から胸・顔面にかけて剥脱した白色が、光背の尖端に残った朱のくすんだ色と融けあっている状態は無比であった。全体としてやはり焔とよぶのが一番ふさわしいようだ。」(同58頁) 

 それは、「仏像は、私にとってもはや美術品でなく、礼拝の対象となった」瞬間であった。このとき亀井に宗教的な回心が起きたのである。我々としては「何故」と問いたいところであるが、おそらく「宿命」としか言いようがないだろう。起きるべくして起きたのである。かくして「仏像は拝みに行くものだ」という信念が本書を貫くテーマとなり、この書の独自性となる。『古寺巡礼』などに導かれて仏像の美術的鑑賞が当然となった時代に、この宣言は顔をはたかれたような訴求力を持つ。「仏像は信仰の対象であった」ことを改めて気づかせてくれる。読者のなかには共感を覚える方もいるだろう。しかし現代人は昔の善男善女のように仏の前に素朴にひざまずけるだろうか。ここに、ひときわ鋭い感性と高い教養をそなえた現代人がいかに宗教に目覚めて思索を深めていくかという求道の物語が生まれる。

    美を入り口にした信仰

 著者がとくに心を揺さぶられた仏像は、法隆寺百済観音、中宮寺半跏思惟観音、法輪寺虚空蔵菩薩薬師寺薬師三尊、東大寺三月堂不空羂索観音である。それぞれは「大地から燃えあがった永遠の焔(百済観音)」、「生存を歓喜しつつ大地をかけ廻った古代の娘(思惟観音)」、「光の循環のメロディがそのまま仏体の曲線でありまた仏心の動きをも示している(薬師三尊)」、「一切を黙ってひきつれてなおゆるぎなく合掌する威容は、天平のあらゆる苦悩と錯乱の地獄から立ちあらわれた姿(不空羂索観音)」などと形容される。情熱的で想像力を喚起する巧みなレトリックは、これらの仏像を強く印象づける。著者の仏に没入する様子には並々ならぬものがあり、信仰の告白のようにも思える。

 だが一方で本書は、美を入り口にした「仏像鑑賞」の書という性格ももつ。和辻哲郎は感覚と信仰を対立的にとらえたが、亀井はふたつを両立させる。「美を無視して信心のみから仏を仰ぐことは出来かねるのだ。美しくなければ私はその信仰を疑う」(170頁)。だから本書の奔放で想像力に富んだ「美術的鑑賞」は、『古寺巡礼』と好一対をなして読者に受けいれられてきた。

    歴史への関心

 著者は、仏像の様式や大陸からの伝来、異文化との交雑に触れることはほとんどない。関心が寄せられるのは、造仏された歴史的背景である。飛鳥時代から白鳳期、奈良時代にかけて『日本書紀』や『続日本紀』に記録された古代史に注目する。支配層の同族相食む凄惨な戦いはやまず、疫病、災害、飢饉に民は苦しむ。このような状況に心を痛め仏の祈りに救いを求めたのが、聖徳太子天武天皇持統天皇聖武天皇光明皇后だとする。飛鳥、白鳳、天平の仏像には、この貴人たちの祈りと願いが結実しているという。とくに聖徳太子と上宮王家の自己犠牲に菩薩行の実践を見て、太子に帰依せんとする心情がつづられる。古代史の叙述にはかなりの分量があてられた。これは大和の仏像鑑賞として歴史の知識が重要であることを教える啓蒙的な役割を果たしたことだろう。

    大和の風景への愛着

 亀井は昭和12年の秋にはじめて奈良を訪れ、それから毎年のように春秋の旅行を繰り返し、この間につづった紀行を単行本にまとめ17年に出版した。さらに敗戦後すぐに書いた文章を加えて昭和28年に新潮文庫の『大和古寺風物誌』を刊行した。数年にわたって何度も奈良を訪問したことで奈良の風土になじみ、いろいろ考えることも多かった。

 この頃の奈良の寺は多くがまだ廃仏毀釈の打撃から立ち直れず、千年の有為転変の痕を刻むかのような荒廃の雰囲気を漂わせていた。亀井はしかし荒廃と衰亡に心ひかれた。そこに歴史の生命を感じた。これに対し法隆寺が名声の故に「もったいぶって」復興する姿に嫌悪感を示し、その観光寺院化を懸念した。

 亀井は奈良の風景にやすらぎ癒やされた。とくに斑鳩の里と西ノ京への賛美を惜しまない。 

 「中宮寺界隈かいわいの小さな村落を過ぎて北へ二丁ほど歩いて行くと、広々とした田野がひらけはじめる。法隆寺の北裏に連なる丘陵を背にして、遥に三笠山の麓にいたる、古の平城京をもふくめた大和平原の一端が展望される。大和国原という言葉のもつ豊かな感じは、この辺りまで来てはじめて実感されるように思う。往時の状景はうかがうべくもないが、田野に働く農夫の姿は、古の奈良の時代とさして変ってもいないだろう。春は処々に菜の花が咲き乱れて、それが霞んだ三笠連山の麓までつづいているのが望見される。畔道に咲く紫色の菫、淡紅色の蓮華草なども美しい。おそらく飛鳥や天平の人たちも、この道を逍遥したことであろう。陽炎のたち昇る春の日に、雲雀の囀りをききつつ、私のいつも思い出すのは、「春の野に菫摘まむと来し吾ぞ野をなつかしみ一夜宿にける」という万葉の歌である。この歌の気分がここで一番しっくりあうように思う。
 しかし大和国原の豊かさを偲ぶという点では秋の方が更にふさわしい。今年はとくに豊作の故でもあったろうが、眼のとどくかぎり一面に実った稲の波である。透明な秋空の下に、寸分の隙もなく充実していて、黄金の脂肪のような濃厚な光りを放っていた。稲穂が畔道に深々と垂れさがって、それが私の足もとにふれる爽やかな音をききながら幾たびもこの辺りを徘徊した。豊作というものがこんなに見事なものとは知らなかったのである。心からの悦びが湧きあがってくる。」(同118頁) 

 「奈良近郊でも私のとくに好ましく感じたところは薬師寺附近の春であった。西の京から薬師寺唐招提寺へ行く途中の春景色にはじめて接したとき、これがほんとうの由緒正しい春というものなのかと思った。このような松の大樹や、木々の若葉や麦畑はどこにでもみられるかもしれない。しかしその一木一草には、古の奈良の都の余香がしみわたっている。人間が長きにわたって思いをこめた風景には香があるのだろう。塔と伽藍からたち昇る千二百年の幽気が、この辺りのすべてに漂っているように思えた。‥‥
 土塀といえば、私は大和をめぐってはじめてその美しさを知った。‥‥大和古寺の土塀や奈良近郊の民家の築地は、そう鮮かなものではなく、赤土のまじった、古びた地味な感じのするのが多い。よくみると繊細な技巧の跡がうかがわれる。そして崩れたままにしてあるところに、古都の余香が、或は古都のたしなみとも云うべきものが感ぜられる。」(同136頁)

 昭和初期の斑鳩と西ノ京の風景である。もはや二度と見られない風景が言葉により鮮やかに描かれ残されたことに感謝したくなる。写真家の入江泰吉は『大和古寺風物誌』を携帯して大和を巡り歩いたそうだ。この風景描写は確かに入江の写真に通じている。入江の作品の原点はここにあるかもしれない。

   主要参考文献
亀井勝一郎『大和古寺風物誌』新潮文庫
亀井勝一郎『我が精神の遍歴』日本図書センター
武田友寿『遍歴の求道者亀井勝一郎講談社
町田甲一『大和古寺巡歴』講談社学術文庫
碧海寿広『仏像と日本人』中公新書

102 仏像鑑賞の近代的幕開け――和辻哲郎著『古寺巡礼』

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 和辻哲郎の『古寺巡礼』が刊行されたのは、1919(大正8)年であった。刊行100年を迎える書物は仏像鑑賞の古典として今も書店に並ぶ。

 著者の和辻哲郎(1889~1960)は兵庫県生まれ、倫理学者、夏目漱石門下で東洋大・京大・東大教授を務めた。人間存在を間柄存在としてとらえる道徳論の展開に特色がある。風土論をはじめ文化史にも業績が多い。著作には『日本精神史研究』、『人間の学としての倫理学』、『風土―人間学的考察』、『倫理学』、『鎖国 日本の悲劇』などがあり、『和辻哲郎全集』増補版(全25巻 別巻2)が出る。文化勲章を受章している。

 『古寺巡礼』は著者30歳の著作である。1918年5月に和辻は奈良旅行を行った。その紀行文を雑誌に数回にわたって連載、それを中心に、他の雑誌にも発表した文章を加えて翌年に出版された。

 和辻は東京帝大文学部哲学科で学び、ニーチェキルケゴールの研究書を20歳代で世に出している。奈良の仏像との出会いは前年、東京帝大美術史教室の見学旅行に同伴したのが最初であり、そのとき強い感動があった。ふたたび友人等とともに訪れ、奈良ホテルを拠点に新薬師寺、奈良帝室博物館、浄瑠璃寺興福寺東大寺法華寺唐招提寺薬師寺當麻寺法隆寺中宮寺を5日間でめぐっている。人力車も利用する忙しい旅行であり、博物館や各寺院の見学では特別な待遇を受けたとはいえ、それぞれの寺院の滞在や仏像との対面は短時間の一度きりである。そんな条件で古典となるような本が書かれたことに驚く。

 本書は仏像を美術品として鑑賞するすべを定着させたと評価されている。それに間違いはないが、美術品としての仏像という見方は著者の独創ではない。時代背景として仏像や寺院が明治維新以後どのような扱いを受けてきたか見ておきたい。

    廃仏毀釈から古社寺保存法へ

 1868年の神仏分離令廃仏毀釈の動きに発展し、仏像・仏具の破壊や売却による散逸が進行した。このような現状に危機感をだいた政府は1888(明治20)年から全国の社寺を対象とする宝物調査を実施した。約10年をかけて21万点の宝物が調査された。この調査で主導的な役割を果たしたのが、フェノロサ岡倉天心である。法隆寺東院夢殿の秘仏・救世観音が彼らによって数百年のヴェールを解かれたことは有名である。

 調査の成果をもとに「古社寺保存会」が設置され、1897(明治29)年に現在の文化財保存法につながる「古社寺保存法」が公布された。そして「歴史」的にまたは「美術」的に貴重な遺物は「国宝」に指定され、文化財として保護・保存の途が図られた。

 「歴史」も「美術」も明治になって生まれた言葉であり、西欧由来の概念はしだいに社会に普及していく。岡倉天心は1890年に『日本美術史』を著し、古美術を時代別に位置づけ特徴を考察した。これ以降、学問としての古美術研究がスタートを切る。東京、京都、奈良に創設された博物館は宮内庁管轄の帝室博物館となり、多くの仏像を展示し見学者の便を図った。こうして明治の後半には仏像を美術品として鑑賞する習慣はすでに生まれていた。

    古美術鑑賞の国際的視点

 和辻はもちろん西欧から輸入された学問としての美学や美術史に通じていた。そして彼自身、ギリシャ古典を正統とする美意識になじんでいた。本書は仏像ばかりではなく仏画や建築、伎楽面、さらに風呂まで取り上げられるが、その感覚的な印象とともに東西異文化の交流・影響の視点からの考察がつねにともなう。ギリシャ、中東、インド、西域(中央アジア)、中国、朝鮮という文化の伝播ルートのなかにおいて古美術に照明が与えられる。なかでも強調されるのは、ギリシャ古典文化→ガンダーラ美術→中国→日本という流れである。このような論点は、古美術を入り口に当時の読者の視野を世界的なスケールに広げる非常に斬新なものだったと想像できる。本書は戦時中一時絶版になっている。出征する兵士からもう一度本を手にして大和をめぐりたいという要望が多くきたものの再刊できなかったのは、本書のコスモポリタン的な叙述が、当時の国粋主義に染まったムードの中で「危険思想」視されたからであろう。

    聖林寺十一面観音立像

 ギリシャ彫刻の写実性を取り入れてガンダーラで仏像が誕生した。中国に入り仏像として洗練され、日本の風土の中で独自な展開を遂げたというのが、和辻の基本的な見立てである。彼が絶賛した仏像の一つである聖林寺十一面観音立像は次のように語られる。

 かくてわが十一面観音は、幾多の経典や幾多の仏像によって培われて来た、永い、深い、そうしてまた自由な、構想力の活動の結晶なのである。そこにはインドの限りなくほしいままな神話の痕跡も認められる。……またそこには抽象的な空想のなかへ写実の美を注ぎ込んだガンダーラ人の心も認められる。……また沙海のほとりに住んで雪山の彼方に地上の楽園を望んだ中央アジアの民の、烈しい憧憬の心も認められる。……さらにまた、極東における文化の絶頂、諸文化融合の鎔炉、あらゆるものを豊満のうちに生かし切ろうとした大唐の気分は、全身を濃い雰囲気のごとくに包んでいる。……人の心を奥底から掘り返し、人の体を中核にまで突き入り、そこにつかまれた人間の存在の神秘を、一挙にして一つの形像に結晶せしめようとしたのである。  このような偉大な芸術の作家が日本人であったかどうかは記録されてはいない。しかし唐の融合文化のうちに生まれた人も、養われた人も、黄海を越えてわが風光明媚な内海にはいって来た時に、何らか心情の変移するのを感じないであろうか。……われわれは聖林寺十一面観音の前に立つとき、この像がわれわれの国土にあって幻視せられたものであることを直接に感ずる。……  きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、――すべてわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また超人を現わす特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現わされている。薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人の心と運命とを見とおす観自在の眼である。豊かに結ばれた唇には、刀刃の堅きを段々に壊(やぶ)り、風濤洪水の暴力を和やかに鎮むる無限の力強さがある。円く肉づいた頬は、肉感性の幸福を暗示するどころか、人間の淫欲を抑滅し尽くそうとするほどに気高い。これらの相好が黒漆の地に浮かんだほのかな金色に輝いているところを見ると、われわれは否応なしに感じさせられる、確かにこれは観音の顔であって、人の顔ではない。(岩波文庫『古寺巡礼』61頁)

 こういう描写が5頁にわたって続く。本書の魅力は感覚的な印象を表現する流麗な文章にあることは確かだろう。該博な知識と自在な想像力が注ぎこまれる。美術作品を見たり音楽を聴いたりしてそれを美しいと感じたり快くなる体験は珍しくないが、それがどう美しいのか、どう快いのか言葉で表現することは難しい。だからその感覚や感情が言葉で巧みに表現されたとき、われわれは自分の思いがピタリと言い当てられたような気がして、感動をさらに深める。本書が多くの熱心なファンを得たのもそのためである。

 取り上げられる仏像は数多く、現代のわれわれにもなじみのあるものばかりである。ガイドや解説書で見たり読んだりする定番の仏像なのであるが(もちろん現在有名な仏像で本書に上がっていないものも多い。たとえば阿修羅像、伎芸天など)、100年前、大和古美術の啓蒙書の嚆矢となりバイブルとなった本書に紹介されることで、はじめて一般に知られるようになったのだろう。もちろん『古寺巡礼』がなくてもこれらの仏像は高い評価を与えられていたことに間違いはないが、紹介されたことで認知度が格段に上がったのである。なじみがあると感じるのも当然なのである。

    古美術鑑賞と人格主義

 和辻がもっとも惹かれた仏像は聖林寺十一面観音をはじめ薬師寺東院堂聖観音立像、薬師寺金堂薬師如来座像、法隆寺金堂壁画中尊阿弥陀像・脇侍像、中宮寺半跏菩薩像である。徹底した写実、端正な形態、健康で理想的な美はギリシャ古典の美意識になじんだ彼の好みであるが、同時代の読者に素直に受けいれられた。

 「人体を神的な清浄と美とに高める」十一面観音像、「彼岸の願望を反映する超絶的なある者が人の姿を借りて現れた」聖観音像、「人間そのものを写して神を示現した」薬師如来像、「永遠なる命を暗示する意味深い形」の法隆寺金堂壁画、「一つの生きた貴い力強い慈愛そのものの姿」である半跏菩薩像、と言葉を尽くした最大級の賞賛は美術品の鑑賞というよりも美的感動を通して法悦に浸っている印象がある。和辻は本書で次のようにあらかじめことわっている。

  われわれが巡礼しようとするのは「美術」に対してであって、衆生救済の御仏(みほとけ)に対してではないのである。たといわれわれがある仏像の前で、心から頭を下げたい心持ちになったり、慈悲の光に打たれてしみじみと涙ぐんだりしたとしても、それは恐らく仏教の精神を生かした美術の力にまいったのであって、宗教的に仏に帰依したというものではなかろう。宗教的になり切れるほどわれわれは感覚をのり超えてはいない。(同37頁)

 和辻は自らの思想的立場を人格主義に置いていた。教養や芸術的な感動を積んでいくことで自らの人格を陶冶し高めていくという考えである。偉大な作品に感動することはそこに自分の理想を見ることである。信仰に飛びこむことはできなくても、宗教に触れることは人格の陶冶に欠かせない。彼が仏像の美術鑑賞をどうどうと宣言できたのも人格主義が根底にあったからだろう。大正教養主義あるいは大正人文主義とも呼ばれる思潮と人格主義は一体になって、当時の旧制高等学校生や大学生に浸透した。本書の読者も主にこの層であった。伝統的な信仰から切り離された近代人にとって、人格主義的な思想は仏像再発見、宗教再発見を動機づけるものとなって今も生きている。

    建築も鑑賞

 建築や伽藍境内も美的鑑賞の対象になったことは、「古寺巡礼」としての本書の価値を高めただろう。新薬師寺本堂、薬師寺東塔、唐招提寺金堂、東大寺三月堂、法隆寺西院伽藍の建物の印象が詳述される。法隆寺五重塔はいろいろな場所から眺められ、また仰ぎながら近づいたり遠ざかったりその周囲をめぐったりして塔の各部の変化自在の動きが観察される。本を手にして同じ事を試みたいと思わせる。

 法隆寺西院伽藍中門の柱の中央部が膨らむ胴張りとアテネパルテノン神殿の柱のエンタシスが似通っていることから、ギリシャ美術東漸の証拠として本書では推測された。和辻の「ギリシャ贔屓」を示す有名な箇所である。しかし二つを結びつける物的な証拠がないため専門家には不評であり、これを否定する説が今は有力である。だが否定の証拠がないことも事実であり、結局は「よくわからない」というのが、この件に関しては真相のようだ。

    大和の風景

 大和の風景にも言及される。京都を経由して奈良に到着するのだが、京都とは異なる「パアとして大っぴら」な気分が迫ってくる。「古今集」と「万葉集」の相違が、景色からも感じられたという。新薬師寺へ行く高畑では、「道がだんだん郊外の淋しい所へはいって行くと、石の多いでこぼこ道の左右に、破れかかった築泥(ついじ)が続いている。その上から盛んな若葉がのぞいているのなどを見ると、一層廃都らしいこころもちがする」。(同38頁)高畑の崩れた土塀の魅力は大和紀行の定番となったが、『古寺巡礼』ですでに登場している。「太古以来の太い杉や檜が直立しているのが目立つ。藤の花が真盛りで高い木の梢にまで紫の色が見られた」(同42頁)奈良公園を歩く。

 法華寺境内では、「若葉の茂った果樹の間から、三笠山一帯の山々や高台の上に点々と散在している寺塔の屋根が、いかにものどかに、半ば色づいた麦畑の海に浮かんで見える。その麦のなかを小さい汽車がノロノロと馳かけてゆくのも、わたくしには淡い哀愁を起こさせる」。(同112頁)平城宮跡内も通る。「遠く南の方には三輪山、多武峯、吉野連山から金剛山へと続き、薄い霞のなかに畝傍山・香久山も浮いて見える。東には三笠山の連山と春日の森、西には小高い丘陵が重なった上に生駒山。それがみな優しい姿なりに堂々として聳えている。堂々としてはいても甘い哀愁をさそうようにしおらしい。ここになら住んでみようという気も起こるはずである」。(同135頁)

 興味深い記述がある。「薬師寺の裏門から六条村へ出て、それからまっすぐに東へ、佐保川の流域である泥田の原のなかの道を、俥にゆられながら帰る。暮靄(ぼあい)につつまれた大和の山々は、さすがに古京の夕らしい哀愁をそそるが、目を落として一面の泥田をながめやると、これがかつて都のただ中であったのかと驚く。佐保川の河床が高まって、昔の高燥な地を今の湿地に変えたのかも知れない。」(同174~175頁)とある。そして、平城京のあった時代もこんな湿地であったから疫病が流行し、久邇京遷都が行われたのかもしれないと想像する。著者が奈良を訪ねたのは5月末であるから、田植えをまぢかに控えて田んぼには水が張られていたはずだ。大安寺と薬師寺をはるか東西に据えた六条村は古地図に明らかなように集落がところどころに点在する他は田んぼだった。この時期になれば盆地全体が湿地になったように、泥田が見渡す限り広がっていたのだろう。

 當麻寺へも足を運んでいる。二上山の印象は次のように書かれた。「山に人格を認めるのは、素朴な幼稚な心に限ることであろうが、そういうお伽噺めいた心持ちをさえ刺戟するほどにあの山は表情が多い。あたりの山々の、いかにも大和の山らしく朗らかで優しい姿に比べると、この黒く茂った険しい山ばかりは、何かしら特別の生気を帯びて、なにか秘密を蔵しているように見えた。当麻の寺が役行者と結びつき、中将姫奇蹟の伝説を育てて行ったのは、恐らくこの種の印象の結果であろう。

 麦の黄ばみかけている野中の一本道の突き当たりに当麻寺が見える。その景致はいかにも牧歌的で、人を千年の昔の情趣に引き入れて行かずにはいない。茂った樹の間に立っている天平の塔をながめながら、ぼんやりと心を放しておくと、濃い靄のような伝奇的な気分が、いつのまにかそれを包んでしまう。」(同206~207頁)

 法隆寺へは国鉄(現JR)の駅から歩いて行く。「法隆寺の停車場から村の方へ行く半里ばかりの野道などは、はるかに見えているあの五重塔がだんだん近くなるにつれて、何となく胸の踊り出すような、刻々と幸福の高まって行くような、愉快な心持ちであった。

 南大門の前に立つともう古寺の気分が全心を浸してしまう。門を入って白い砂をふみながら古い中門を望んだ時には、また法隆寺独特の気分が力強く心を捕える。そろそろ陶酔がはじまって、体が浮動しているような気持ちになる。」(同225頁)

 斑鳩の里の風景も描写される。「中宮寺を出てから法輪寺へまわった。途中ののどかな農村の様子や、蓴菜じゅんさい)の花の咲いた池や、小山の多いやさしい景色など、非常によかった。法輪寺の古塔、眼の大きい仏像なども美しかった。荒廃した境内の風情もおもしろかった。鐘楼には納屋がわりに藁が積んであり、本堂のうしろの木陰にはむしろを敷いて機(はた)が出してあった。」(同268~269頁)

 和辻が一番感動した場所は、浄瑠璃寺のある当尾の里である。寺へ向かう山道は砂地の里山で赤松が生えツツジが咲き乱れていた。故郷の山で遊んだ幼い思い出がよみがえる。寺は山村の一隅に「平和ないい心持ち」に納まっていた。「浅い山ではあるが、とにかく山の上に、下界と切り離されたようになって、一つの長閑な村がある。そこに自然と抱き合って、優しい小さな塔とお堂とがある。心を潤すような愛らしさが、すべての物の上に一面に漂っている。それは近代人の心にはあまりに淡きに過ぎ平凡に過ぎる光景ではあるが、しかしわれわれの心が和らぎと休息とを求めている時には、秘めやかな魅力をもってわれわれの心の底のある者を動かすのである」(同46頁)。桃源の夢想がここには表現され、それに共鳴するのは子供時代の記憶なのだと語られる。

 風土への言及は仏像や建築に比べると分量は少ないが、個人的には大いに関心があるので、詳しく引用した。100年前の奈良の今は失われた景観を知る貴重な記録だからである。素晴らしい仏像や堂塔が存在する場所への注目は、古寺のある時空間としての大和路全体を照らし出す。個々の仏像や建物の魅力とともに大和路のイメージがかくして生まれていったのである。

    『古寺巡礼』への批判

 美術史家の町田甲一は『大和古寺巡歴』のなかで『古寺巡礼』および亀井勝一郎の『大和古寺風物詩』は文学作品ではあっても仏像鑑賞の手引きにはふさわしくないと批判する。すなわち両者の鑑賞方法は「きわめて主観的文学的哲学的観照であって、正しい美的観照、古美術を正しく理解しようとする観照態度ではない。……作者の作因、美的意図を無視したり、それらを越えて、観照者のきわめて主観的に誇張された感情をもって極端な受け取り方をしている」と手厳しい。また和辻が天平一の傑作とした聖林寺十一面観音を東大寺三月堂不空羂索観音と比べ写実性において如何に劣るかも論じている。町田は十代から『古寺巡礼』を懐に仏像を見て回り美術史家になった人である。『大和古寺巡歴』は『古寺巡礼』とともにぜひ読んでおきたい著作である。

 文芸評論家の保田與重郎は、『古寺巡礼』の姿勢を「異国人の遺品を味わうように、奈良の仏像を見て回る」と評した。保田によれば、これは遠い昔から仏像の美に代々感嘆してきた「民族のくらし」から遊離した、「無国籍」な「骨董的市場的関心」にすぎないという。だから長谷寺のような民衆の深い信仰を集めてきた寺の美術は、和辻の方法では迫れない。

 これらの批判は説得力があるが、『古寺巡礼』の魅力と表裏の関係にある。「主観的文学的哲学的」な雄弁な語り口が読者の想像力に火をつけて関心を喚起した。伝統的な信仰とは無縁な旅行者がいきなり仏像と対面して鑑賞することを可能ならしめたのである。 

 『古寺巡礼』は戦後に再刊されるとき旧版に手を加え改訂版となった。著者はそのとき全面的な修正も考えたが、この本の取り柄が「若さと情熱」にあることを思いいたってそのままにしたという。生の感情が露骨に現れたり主観的すぎる箇所は削除され穏当な表現に整えられたが、「若さと情熱」は生かされ、そしてもうひとつ、この書の特徴は「明るさ」である。ギリシャ古典と天平美術に至上の価値をおく著者の向日性の性格から来るものであろう。

主要参考文献
和辻哲郎『古寺巡礼』岩波文庫ワイド版
和辻哲郎『初版古寺巡礼』ちくま学芸文庫
町田甲一『大和古寺巡歴』講談社学術文庫
保田與重郎長谷寺」『保田與重郎全集第33巻』講談社
苅部直『光の領国 和辻哲郎岩波現代文庫
碧海寿広『仏像と日本人』中公新書
井上章一法隆寺への精神史』弘文堂

101 風雅と酔い泣きの歌人・大伴旅人

――「長屋王の変」から読み解く旅人の世界ーー   

 

 大伴旅人は665年に生まれた。父は佐保大納言と呼ばれる安万侶、母は近江朝の大納言巨勢比等の娘、巨勢郎女(ごせいらつね)。和銅3年(710)正月の元明天皇の朝賀に際して、左将軍として騎兵・隼人・蝦夷らを率いて朱雀大路を行進した。和銅8年(715)に従四位上中務卿に任じられ、養老2年(718)には中納言として太政官に加わる。養老4年(720)3月に征隼人持節大将軍に任命され反乱の鎮圧にあたる。8月に右大臣・藤原不比等が亡くなったことから京に戻り、長屋王とともに不比等の邸宅で詔を述べ、太政大臣正一位を贈る使いとなる。神亀元年(724)聖武天皇の即位に伴って正三位に叙せられる。 神亀4年(727)末か翌年初めに太宰帥(だざいそち)として下向する。天平2年(730)10月、大納言に任じられ、12月に帰京。従二位に昇進。天平3年7月薨去、享年六十七歳であった。

吉野讃歌

 万葉集に載る旅人の最初の歌は、神亀元年(724)3月、即位したばかりの聖武天皇の吉野行幸に随従した際に詠んだ長歌反歌である。このとき旅人は六十歳であった。次に詠んだのは太宰府帥に赴任した神亀5年(728)、それから帰京した天平3年(731)までの3年間に約70数首の歌が集中して詠まれた。これは異例のことである。はたして六十歳以前に旅人は歌を詠まなかったのだろうか。当時は宴会に歌はつきものだったし旅人の歌のレベルの高さからいっても詠まなかったとは考えにくい。もちろん我々の目に触れる歌がない以上、詠んだか詠まなかったかという詮索にはあまり意味はない。むしろ遺された歌がなぜ遺されたのか。ひいてはなぜ詠まれたのかというところに関心を向けるべきだろう。というのも70数首のどの歌も濃い存在感を放ち、それぞれが関連しあい、旅人晩年の人生と結びつくという強い物語性をおびて我々の心をとらえるからだ。

 旅人の最初の歌は次の長歌である。 

暮春の月に吉野の離宮(とつみや)に幸(いでま)す時に、中納言大伴卿(おほともきょう)の勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて作る歌一首〔并せて短歌、いまだ奏上を経(へ)ざる歌〕

み吉野の 芳野(よしの)の宮は 山からし 貴(たふと)くあらし 水(かは)からし さやけくあらし 天地(あめつち)と 長く久しく 万代(よろづよ)に 改(かわ)らずあらむ 行幸(いでまし)の宮  ③315

(み吉野の吉野の宮は山の本性で貴くあるらしい、川の持ち前でこうも清いらしい、天地とともに長く久しくいつまでも変わらずにあろう、この吉野の離宮は)

反歌

昔見し象(きさ)の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも  ③316

(昔見た象の小川を今見るといちだんとすがすがしくなってきたことよ) 

 吉野は天武系天皇にとって聖地であり、歴代の天皇は頻繁に行幸した。壬申の乱天武天皇の側について功績のあった大伴氏にとっても吉野はめでたい場所であった。旅人は正三位に昇進したばかりで、代替わりの行幸につきそう気持ちの中に晴れやかさと期待があった。「昔見し」とあるのは、これまで何度も吉野行幸につきしたがった体験があるからだ。歌には眼前の風景をめでて素直な明るさと喜びがあふれている。こういう印象を与える彼の歌はこれ1首かぎりにして最初に置かれたことに、万葉集編纂者の意図さえ感じる。題詞には「勅を奉りて作る」が「いまだ奏上をへざる」とある。奏上を求められなかったのか、自ら奏上しなかったのか、どちらかわからない。この長歌反歌天皇讃美を目的とする吉野讃歌としては異色であり、山川の環境の素晴らしさを讃えて土地を祝福する印象が強い(注①)。吉野讃歌としてふさわしくないと思って奏上をとりやめた可能性がある。しかしここには単なる儀礼を超えた真情があった。のちにこの歌と切実にひびきあう望郷歌が詠まれるのである。

長屋王の変」前史 

 旅人が太宰府に下向した時期は正確にはわからない。『続日本紀』に旅人の動向がふたたび載るのは天平3年正月の叙位記事であり、この間の動向はもっぱら万葉集の記述からたどることになる。それによれば神亀4年(727)末から翌年始めの間と推定される。この頃、京では重要な出来事があった。しばらく万葉集からはなれて時代の政治情勢を見ていこう。「長屋王の変」の前史である。

 神亀4年閏9月29日、聖武天皇藤原光明子のあいだに待望の皇子が誕生した。天皇の喜びは尋常ではなく、大赦を行い百官に賜物し、同日に生まれた国中の者に贈り物をした。そして誕生からまだ33日しか経ていないのに皇太子に立てた。皇太子になるには成人してからという慣例が当時あったようだから、この措置がいかに異常であったか想像がつく。11月14日、大納言従二位多治比池守が百官をひきいて皇太子に拝謁した。太政官のトップは正二位左大臣長屋王であったが、なぜだか彼は登場しない。これ以後、『続日本紀』から彼の姿は消え、次に現れるのは「長屋王の変」の当日である。

 ここからは想像になるが、長屋王は異例の立太子に異議を唱えたのではないだろうか。聖武天皇が即位したとき、天皇の母の藤原宮子を「大夫人」と呼ぶという勅が出た。長屋王太政官を代表して「令の規定によれば皇太夫人とすべきではないか」と意見して、勅が撤回されたことがある。立太子について正論を主張してもおかしくない。しかしこの意見は太政官の多数派を得られず、立太子は強行された。このとき長屋王に与した旅人が政争に敗れて太宰府に左遷されたというのが描くシナリオである。

 長屋王は、天武天皇の長男高市皇子(たけちのみこ)の嫡男であり、母が天智天皇の皇女の御名部皇女元明天皇の同母姉)、生年は676年とされる。高市皇子壬申の乱で活躍し、持統天皇のもとでは太政大臣を務めるなど重きをなした。長屋王の正妻吉備内親王草壁皇子天智天皇皇女の阿閉(あべ)皇女(元明天皇)を父母とし、文武天皇元正天皇の兄弟姉妹にあたる。長屋王自身が有力な皇太子候補に擬せられた形跡があるが、吉備内親王とのあいだに3人の王子がいて皇孫待遇を受けていた。その栄華は長屋王邸発掘調査からもうかがえる。天皇を出せる家系として血筋、実力申し分なく、聖武光明子にとってまた二人を擁立する藤原氏にとって大きな脅威になっていたのである。異例の立太子長屋王に対抗する策として考えると腑に落ちる。この推理が正しければ、長屋王はこの時点から謹慎状態になった。藤原氏長屋王を孤立させ包囲する体制を着々とつくりあげていく。

 旅人が長屋王側についたのは、聖武天皇藤原氏が一体となった体制下では大伴氏の展望は開けなかったからである。また長屋王は詩宴をよく開く文人であり、旅人と嗜好が合ったのかもしれない。不比等薨去したとき、二人は勅を受けて不比等邸を訪ねている。個人的な親近感もあっただろうか。

「世の中は空しきものと」

 時間軸に沿って見ていくと、旅人が次に詠んだ歌は、「神亀五年六月二十三日」の日付が入る。 

大宰帥大伴卿(だざいのそちおおともきょう)の凶問に報(こた)ふる歌一首

禍故(くあこ)重畳(ちょうでふ)し、凶問累集(るいじふ)す。永(ひたぶる)に崩心(ほうしん)の悲しびを懐き、独(もはら)断腸の涙を流す。ただし、両君の大助に依りて、傾ける命をわづかに継げらくのみ。筆の言を尽くさぬは、古に今にも嘆くところなり。

(不幸が重なり、訃報が相次いで来ます。ただただ心も崩れんばかりの悲しみを抱き、ひたすら腸も断ち切られるばかりの嘆きの涙を流しております。それでも、ご両所のお力添えを得て、いくばくもない余命をやっとつないでいるような有様です。「筆では言わんとすることを述べ尽くすことができない」というのは、昔の人も今の人も共に憾みとするところです。)

世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり  ⑤793

(世の中は空しいものだと思い知った今こそいよいよ益々悲しくおもわれることです)

神亀五年六月二十三日 

 旅人は妻をともなって赴任したが、間もなく妻は亡くなった。さらに身内の死の知らせがあいついだようだ。その悲しみを詠むが、「世間空」は仏教思想を踏まえたもので、万葉集ではこの表現は二例しかなく(注②)もうひとつは作者不明である。(これについては後で触れる)。「世間空」は生身の悲しみを諦観へみちびく教えであるが、そう簡単には悟れない凡夫の自分を見つめているようで共感を誘う。平明でありストレートすぎるように見えるが、一読して忘れがたい旅人の代表歌として人口に膾炙(かいしゃ)する。

龍の馬の贈答歌

 この直後に詠まれた可能性のある歌と書簡がある。 

伏して来書を辱(かたじけ)なみし、つぶさに芳旨(はうし)を承はる。たちまちに漢(あまのがは)を隔つる恋を成し、また梁(はし)を抱く意(こころ)を傷(いた)ましむ。ただ羨(ねが)はくは、去留(きよりう)に恙(つつみ)なく、遂に披雲(ひうん)を待たまくのみ。

(かたじけなくもお手紙をいただき、お気持ちのほどよくわかりました。ふと天の川を隔てた牽牛・織女のようなせつない気持ちをおぼえ、また恋人を待ち疲れて死んだ尾生(びせい)と同じ心境になったのです。願わくは、離れていてもお互いに無事で、いつかお目にかかる日を待つこと、ただそればかりです。)

歌詞両首 大宰帥大伴卿

龍(たつ)の馬(ま)も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて来(こ)むため  ⑤806

(龍馬が、今もあればよいと思います。あおによし奈良の都に行ってくるため)

現(うつつ)には逢ふよしもなしぬばたまの夜の夢(いめ)にを継ぎて見えこそ  ⑤807

(現実には、逢うすべもありません。ぬばたまの夜の夢にずっと見えてください)

 前後の歌から判断して、神亀5年(728)7月21日から天平元年(729)10月7日のあいだの何時かに詠まれた。旅人が在京の誰かから書簡を受け取りそれに返す書簡と歌2首からなる。

 一見して相聞歌である。相手は不明であるが、万葉集に旅人にあてた相聞歌があり、その作者が丹生王女(にふのおおきみ)であるため彼女ではないかという説がある。 

丹生女王の太宰帥大伴卿に贈れる歌二首

雨雲のそくへの極み遠けども心し行けば恋ふるものかも 巻4(553)

(筑紫の国は雨雲のたなびく果ての遠くであってもこちらの思いさえ届けば惚れ返してくださるものでしょうか)

古人の飲(たま)へしめたる吉備の酒病まばすべなし貫簀(ぬきす)賜(たば)らむ  ④554

(尊老が送ってくださった吉備の酒も悪酔したらどうにもなりません。貫簀をいただきとうございます) 

 王女の歌は余裕たっぷりで大人の男女の相聞歌という趣である。巻5の旅人の歌「龍の馬に乗ってでも夢の中ででも会いたい」という一途さとはまったくトーンが異なる。さらに書簡にある「願わくは、離れていてもお互いに無事で、いつかお目にかかる日を待つこと、ただそればかりです」の文面からはただならぬ切迫感がつたわる。旅人はこのとき六十四歳、太宰帥の要職にあってしかも妻を亡くしたばかりである。男女間のリアルな相聞歌をこの時期に旅人が詠んだとは思えない。

浮かんでくるのは長屋王である。神亀5年は謹慎状態にあって孤立を深めていた。苦衷を吐露する手紙がはるばると旅人のもとにとどき、相聞を装った返書が認められたのではないか。宛先不明であるのも一つの傍証となる。

長屋王の変

 神亀5年は対長屋王シフトが進んだ年であった。この年の正月は例年ある官位の叙位がなかった。5月に叙位が実施されて多数の者が外従位五下に叙せられた。外階はこれまで主に地方の豪族に与えられた官位であったが、このときから中央の役人にも適用された。内階の従位五下とは待遇において格段の差はあったが、貴族の登竜門とされた五位の間口を広げる意味があった。外従位五下から精勤次第で従位五下に横滑りして出世するコースも用意された。人事を扱う式部卿は藤原宇合(うまかい)であったから、彼のもとで新たな人事システムが考案され実行されたのだろう。実際このときの複数の叙位者が長屋王の変の現場で立ち働き、直後の論功行賞でさらに官位をステップアップしている。

 4月には王や貴族が私兵を募ることを禁止する勅が出ている。8月には中衛府が設置された。これは天皇の身辺の警護にあたった授刀舎人(たちはきのとねり)を発展強化するもので、従来の五衛府にまさる地位と権力を付与された。長は藤原房前(ふささき)である。藤原氏との関係が密接でその権力基盤の一つとなった。長屋王の変では五衛府とともに中衛府の兵士が動員された。

 長屋王は5月に聖武・歴代天皇、亡父母のため大般若経書写を発願している。事態の好転を願って仏に祈願したのだろうか。

 8月に皇太子基(もとい)王は病が重くなる。造仏、写経、大赦、諸陵への奉納が行われる。しかし9月、基王は1歳に満たず薨去、那富(なほ)山に葬られる。全国が喪に服し、基王を弔うため山房の創建が命じられる。

 基王の死は長屋王の変の引きがねとなったが、その前より長屋王排除のための準備はすすんでいて、その死が利用されたのである。

 神亀6年2月10日、「長屋王はひそかに左道を学んで国家を傾けようとしている」という密告があった。ただちに東国への守りをかためる三つの関が閉鎖され、藤原宇合が率いる六衛府の兵士をもって長屋王邸が包囲された。翌日11日、知太政官舎人親王新田部親王、大納言多治比池守、中納言藤原武智麻呂らが長屋王を糾問する。12日、長屋王は自尽、吉備内親王、膳夫(かしはで)王、桑田王、葛木(かずらき)王、鈎取(かぎとり)王が自経した。鈎取王は石川夫人所生の王子であったが、他の3人は吉備内親王所生である。藤原氏出身の夫人の男子王もいたが、彼らは咎をまぬがれた。「吉備内親王は無罪である」という勅が出ているのは、彼女まで抹殺する意図はなかったということだろう。後追い自殺を想像する。「国家を傾ける」ような謀反は一族郎党縁座して重罰に処せられるのであるが、使用人とみられる9人が流刑されただけであった。この事件の真相が、聖武天皇の承認のもと長屋王家の断絶を狙って藤原氏によって仕組まれた陰惨な逆クーデターであることは明らかである。「左道を学んで国家を傾ける」とは、この時期から推測して「基王を呪い殺した」という内容であったと思う。意気消沈した天皇はたやすくそれを信じこんだ。事件直後に出た勅は、長屋王への憎悪にみちた激烈なものだった。

 3月には事件の論功行賞と見られる叙位が実施された。藤原武智麻呂が大納言に昇任している。8月に天平改元され、光明子が皇后となる。藤原四氏時代がはじまるのである。

 事件には後日談があった。藤原四氏が天然痘で相次いで亡くなった直後の天平10年(738)7月、事件の密告者の一人がかつて長屋王に仕えていた者に斬殺された。あれは誣告(ぶこく)であったと『続日本紀』は記述する。

太宰大弐多治比県守に贈る歌

 旅人は京を遙かにしてなすすべもなく事の進行を見守るしかなかった。正三位中納言議政官ナンバー3にいる彼は政権の中枢にありながら、そこで起きている大事件から遠ざけられていたのである。だが太宰府はまったく無風地帯かというと、そんなことはない。太宰府の上席次官である大弐の正四位上多治比県守が事件さなかの11日に権参議に任命された。彼は事件の首謀者の一人である大納言多治比池守の弟であった。このときは京にいて大いに働いたのだろう、3月には従三位に昇叙した。彼に宛てた旅人の歌がある。 

大宰帥大伴卿の大弐丹比県守(だいにたぢひのあがたもり)卿の民部卿(みんぶきやう)に遷任(せんにん)するに贈る歌一首

君がため醸(か)みし待酒(まちざけ)安の野にひとりや飲まむ友なしにして ④555

(君のために用意した待酒を安の野でひとり寂しく飲むのか、友もいなくて)

 詠んだ時期は明確ではないが、県守が京にあるときに作った歌であることは内容から推測できる。「ひとりや飲まむ友なしにして」は、友と離ればなれになっている寂しさをかこっているようであるが、「二人で飲まむ日を待ちかねつ」とも詠めたはず。ここでは隔たってしまったことを確認する詠唱となる。それは地理的であるよりも心理的な距離感の表明であるように感じる。

「わが盛りまたをちめやも」

 太宰府の次席次官である小野老(おののおゆ)も3月の叙位で従五位下から上へ一階昇叙した。彼にとっては10年ぶりであった。太宰府次官へのこのような待遇は偶然であろうか。長屋王派とめされた旅人を監視する、あるいは牽制する役目がこの二人、県守と老に期待されたと考えるのはうがちすぎだろうか。小野老が叙位のあと九州にもどった。その祝宴で歌が披露された。 

大宰少弐小野老朝臣(だざいのせうにをののおゆのあそみ)の歌一首

あをによし奈良の都は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり  ③328

(あをによし奈良の都は咲く花が爛漫たるように今真っ盛りでした)

防人司佑大伴四綱(さきもりのつかさのすけおほとものよつな)の歌二首

やすみししわが大君(おほきみ)の敷きませる国の中(うち)には都し思ほゆ  ③329

(やすみししわが大君が治められる国々のうちでは都がやはり懐かしいですね)

藤波の花は盛りになりにけり奈良の京(みやこ)を思ほすや君  ③330

(藤の花は今満開になりました。奈良の都を恋しく思われますか帥も)

帥大伴卿(そちおほともきょう)の歌五首

わが盛りまたをちめやもほとほとに奈良の京(みやこ)を見ずかなりなむ  ③331

(わたしの元気だった頃がまた戻ってくることがあろうか。ひょっとして奈良の都を見ずに終わるのではなかろうか)

わが命も常にもあらぬか昔見し象(さき)の小川を行きて見むため  ③332

(わたしの命はいつまでもあってくれないものか。昔見た象の小川を行って見るため)

浅茅原(あさぢはら)つばらつばらに物思へば古りにし里し思ほゆるかも  ③333

(浅茅原つくづくと物思いに沈んでいると明日香の古京が思いだされるなあ)

忘れ草わが紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため  ③334

(忘れ草をわたしの下紐に付ける。香具山の古い京を忘れるために)

わが行きは久にはあらじ夢(いめ)のわだ瀬にはならずて淵にあらぬかも  ③335

(私の筑紫暮らしももう長くはなかろう。夢のわだは瀬にならないで淵のままであってくれ) 

 小野老の歌は平城京の讃歌として代表的なものだ。しかし歌の背景を知ると冷酷なほど暢気に見えてくる。昇叙した喜びがあり、京から戻ってきたばかりで満座の羨望に満ちた好奇心があっただろう。その期待に応える歌であった。大伴四綱は老の歌にまず型とおりに唱和して、次に帥へつなぐために問いかける。「藤の盛り」とは暗に藤原氏の隆盛を指している。同じ大伴氏として含むものがあったと思う。

 旅人の歌はこの祝宴の場にまったくふさわしくなかった。高齢となってもはや都を見ることもないだろうという趣旨であるが、悲観的な内容であり事実としても大げさすぎる。流刑にあったわけではなく、任を解かれれば京に戻れるはずだ。あるいは左遷されたままこの地で朽ちてしまうかもしれないと思ったのか。真意は、「私が政治家として活躍したのは昔のことになってしまった。もう都には私の居場所はなく帰りたいとも思わない」である。座に連なった者たちは旅人の思いが手に取るようにわかっただろう。

 二首目では、吉野への憧れが歌われる。生きながら得て見たいのは、あの吉野の象の小川である。このとき念頭には5年前に詠んだ吉野賛歌があっただろう。三首、四首目で三十歳まで過ごした明日香古京への望郷の想いが歌われる。五首目でふたたび吉野へ心は馳せていく。象の小川が吉野川に流れ落ちる地点の曲(わだ)に心のレンズはしぼられ、いつまでも変わらずにあってほしいと願われる。「夢のわだ」とは夢に見るまでのわだという意味である。旅人の切ない心情がつたわる。

 平城の都をほめるとは朝廷への讃歌であって、役人が集まった祝宴ではそのような歌が期待されたのだが、旅人は意識的に平城京への言及を避け吉野と明日香への想いを吐露する。長屋王事件直後の旅人の心の内が読みとれる。

讃酒歌

 この祝宴から近い時期に詠まれたのが、讃酒歌である。 

大宰帥大伴卿の酒を讃(ほ)むる歌十三首

験(しるし)なき物を思はずは一杯(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし  ③338

(くだらない物思いをするぐらいなら一杯の濁った酒を飲むべきであろう)

酒の名を聖(ひじり)と負(おほ)せし古(いにしへ)の大き聖の言(こと)のよろしさ  ③339

(酒の名を聖と名づけた古の大聖人の言葉の見事さよ)

古の七の賢(さかし)き人どもも欲(ほ)りせしものは酒にしあるらし  ③340

(古の竹林の七賢人も欲しがったものは酒であったらしい)

賢しみと物いふよりは酒飲みて酔(ゑひ)泣きするしまさりたるらし  ③341

(偉そうに物を言うよりは酒を飲んで酔い泣きする方がましであるらしい)

言はむすべせむすべ知らず極まりて貴(たふと)きものは酒にしあるらし  ③342

(言いようもしようもないほどいみじくも貴いものは酒であるらしい)

なかなかに人とあらずは酒壺に成りにてしかも酒に染(し)みなむ  ③343

(なまじっか人間でいるよりも酒壺になってしまいたい。そして酒にどっぷり浸ろう)

あな醜(みにく)賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば猿にかも似る  ③344

(ああみっともな偉そうにして酒を飲まない人をよく見たら猿に似ているかな)

値(あたひ)なき宝といふも一杯(つき)の濁れる酒にあに益(ま)さめやも  ③345

(値段もつけられないほどの宝珠も一杯の濁った酒になんで及ぼう)

夜光る玉といふとも酒飲みて情(こころ)をやるにあにしかめやも  ③346

(夜光の玉といっても酒を飲んで憂さを晴らすのになんでまさろう)

世の中の遊びの道にかなへるは酔ひ泣きするにあるべかるらし  ③347

(世の中の遊びの道に当てはまるのは酔い泣きをすることであるらしい)

この世にし楽しくあらば来(こ)む世(よ)には虫に鳥にも我はなりなむ  ③348

(この世で楽しかったらあの世では虫にでも鳥にでもわたしはなってしまおう)

生ける者つひにも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな  ③349

(生きている者はいずれは死ぬと決まっているからこの世にある間は楽しくやろう)

黙然(もだ)をりて賢しらするは酒飲みて酔ひ泣きするになほしかずけり  ③350

(むっつりして偉そうにするのは酒を飲んで酔い泣きするのにやはり及ばぬわ) 

 単にお酒が好きでほめているというよりも、心の内に抱えこんだ懊悩を酒で必死にまぎらわせようとしている印象がつよい。中国の故事(聖、大聖人、竹林の七賢人等)を引くが、さらに仏教思想(世の中、この世、来世、生きる者つひにも死ぬる等)も見え隠れする。これについては伊藤益筑波大教授の解釈が参考になる。「仏教思想が要請する現世を無常と見切りつつそこから脱却する開悟の境位は、彼にとって人情の自然に反する心位でしかなかった。それゆえ、彼は「世間無常」の哲理の妥当性を自己の体験を媒介として把捉しつつも、それに反発せざるをえなかった。その反発が讃酒歌の表層において享楽主義を鼓吹する方向へ彼をはしらせた」(注③)。「賢しら」と「酔い泣き」が対比され、後者が称揚される。「賢しら」の代表が仏教である。彼は「世間無常」をわかってもそれに安心できず慟哭せざるをえない。

 旅人をして飲酒に溺れ酔い泣きするまでの苦しみとは何だろう。(もっとも歌として鑑賞するには読者個々の体験において共感できればいいから、作者にあった特定の理由はたいした問題にはならない)。妻や身内の者の死があげられることが多いが、それだけでこれだけの歌が詠まれるとは思えない。やはり私はここに長屋王事件を見る。妻や身内の死は挽歌にして慰藉できたが、長屋王家の無惨な最期は口外することさえタブーであった。旅人は誰にも心の内を打ち明けられず、行き場のない悲しみをただ酒にまぎらわせて嗚咽するしかなかった。

 讃酒歌のあとに沙弥満誓の「無常の歌」がおかれる。

沙弥満誓(さみまんせい)の歌一首

世間(よのなか)を何に譬(たと)へむ朝びらき漕ぎ去(い)にし船の跡なきがごと  ③351

(世間を何にたとえたらいいのだろう、朝の湊を漕ぎだした船の跡がないようなものだ) 

 満誓は当時筑紫観世音寺別当であり、旅人を中心とする筑紫歌壇の有力メンバーであった。酒杯を重ねながら互いの歌を披露することも多かっただろう。讃酒歌の悲痛な叫びにつきあったあと、仏教が揶揄されたにもかかわらず何か慰撫されるような調べがある。旅人は帰京したあとも歌をやりとりして、心を許しあう関係にあった。

膳部王を悲傷する歌

 長屋王の変で自経した膳部王を追悼する詠み人知らずの歌がある。 

膳部王(かしはでべのおほきみ)を悲傷(かなし)める歌一首。

世間(よのなか)は空しきものとあらむとそこの照る月は満ち欠けしける  ③442

(世間は空しきものだと言わんばかりにこの照る月は満ち欠けするのだな)

右の一首は、作者いまだ詳(つばひ)らかならず。  

「世間は空し」という語句は万葉集の中に二つだけ出て、もう一つは旅人の「世の中は空しきものと知るときしいよよますます悲しかりけり」である。膳部王追悼歌とスタイルも似ている。作者は旅人の可能性もある。

日本琴の歌 

旅人は天平元年10月に藤原房前に琴を贈り詩文と歌をそえた。 

大伴淡等の謹状

梧桐(ごとう)の日本琴(やまとこと)一面 対馬の結石(ゆふし)山の孫枝(ひこえ)なり

この琴夢(いめ)に娘子(をとめ)に化(な)りて曰はく「余(われ)根を遙島(えうたう)の祟(たか)き巒(みね)に託(つ)け、韓(から)を九陽(くやう)の休(よ)き光に晞(ほ)す。長く煙霞を帯びて、山川の阿(くま)に逍遙(せうえう)し、遠く風波を望みて、雁木(がんぼく)の間に出入す。唯百年の後に、空しく溝壑(こうがく)に朽ちむことを恐るるのみ。偶(たまさか)良き匠に遭ひて、剒(き)りて小琴に為られぬ。質の麁(あら)く音の少(とも)しきを顧みず、恒(つね)に君子の左琴(さきん)を希(ねが)ふ」といへり。即ち歌ひて曰はく

(桐の和琴一面、対馬の結石山のひこばえです。

この琴が、夢に娘子となって現れて言うことには、「わたしは、遠い島対馬の高山に根を下ろし、太陽の美しい光に幹を照らされていました。いつも霧や霞にとりまかれて、山や川の果てをさすらい、遙かに風や波を眺めながら、伐られそうで伐られるでもない不安定な状態にありました。ただ心配なことは、百年の後、むなしく谷底に朽ち果てるのではないか、ということだったのです。たまたま運よくも、良い大工に遭い、伐られて小琴に作られました。音質は悪く音量が乏しいのも憚らず、ずっと君子の貴君のおそばに置かれることを願っています。そこで歌って申しますには、

いかにあらむ日の時にかも音(こゑ)知らむ人の膝の上(へ)わが枕かむ  ⑤810

(いつどんなときになったらこの音を聞き知ってくださるお方の膝を枕にできましょうか)

僕(やつかれ)詩詠に報(こた)へて曰はく

言問(ことと)はぬ木にはありともうるはしき君が手馴(たな)れの琴にしあるべし  ⑤811

(ものを言わぬ木ではあっても素晴らしいお方のご寵愛を受ける琴に違いなかろう)

琴の娘子(をとめ)答へて曰はく

「敬(つつし)みて徳音(とくいん)を奉(うけたま)はりぬ。幸甚(かうじん)幸甚」といふ。片時(しまらく)ありて覚(おどろ)き、すなはち夢(いめ)の言(こと)に感(かま)け、慨然として止黙(もだ)あることを得ず。故に公使(おほやけづかひ)に付けて、いささかに進御(たてまつ)らくのみ。謹状す。不具

天平元年十月七日 使に付けて進上(たてまつ)る。

謹通 中衛高明閣下(ちうゑいかうめいかふか) 謹空

(琴の娘が答えて申しますには、「謹んでご親切なお言葉を承りました。ありがたい極みに存じます」と申しました。ふっと目が覚めて、すぐ夢の中の娘の言葉に感動したあまり黙っておれません。そこで公用の使いにことづけて、ともかくもこれを差し上げたわけです。謹んでお手紙差し上げます。不一。天平元年十月七日、使いに託してお届け申し上げます。謹んで 中衛大将閣下の御許へ 謹空) 

 天平元年10月は、改元され光明子が皇后に立てられた直後で長屋王事件の混乱も収拾された頃である。このタイミングで旅人が房前に贈り物をするというのは重要な意味があった。房前は長屋王の変をつたえる『続日本紀』に登場しないこともあって、この事件に直接関わっていないという説もあるが、彼は天皇を補佐する内臣、国政にあずかる太政官参議、天皇の親衛隊である中衛府大将という三つの役職について、全体を統括できる立場にあった。事件のシナリオを描き手配した一番の黒幕であったと思う。政権の中枢にいた旅人は事情に通じていた。だからこそ房前に手紙を送ったと考えるべきだ。

 琴が夢の中で娘に変身して生い立ちを語り歌を詠む。それを旅人が書きとめて手紙にするという趣向である。中国の『琴賦』や『遊仙窟』などの語句や構成をモデルにしているらしい。娘の媚びが艶めかしくて明らかにその効果を狙っている。

 旅人はこの贈り物によって藤原氏への恭順をアピールした。それは本意でなかったが、流れに逆らうことはできなかった。大伴氏の氏上として一族の存続を図るには、ここで旗幟を鮮明にしておく必要があった。手紙の文学的虚構は、このような政治的な意図をオブラートにつつむ働きをする。送られた相手も核心のサインを受けとめつつ、遊びを介することでむきだしの利害関係を穏やかに調整できる。房前も機知とユーモアをもって応じた。 

言問わぬ木にありとも我が背子が手馴れの御琴地(つち)に置かめやも  ⑤812

(ものを言わぬ木でありましょうともあなたのお気に入りの琴を粗略にしましょうか)

梅の歌三十二首并せて序

 天平2年(730)正月、旅人の邸宅で宴が催され、梅の花を題材にした漢詩と歌が詠まれた。 

梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序

天平二年正月十三日に、帥老(そちろう)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(の)べたり。

時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ。梅は鏡前(きやうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫らす。加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものに封(と)ぢられて林に迷(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。

ここに天を蓋(きぬがさ)にし、地(つち)を座(しきゐ)にし、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、衿(ころものくび)を煙霞の外に開く。淡然(たんぜん)に自(みづか)ら放(ゆる)し、快然に自(みづか)ら足りぬ。

もし翰苑(かんゑん)にあらずは、何を以(も)ちてか情(こころ)をのべむ。請(ねが)はくは落梅の篇を紀(しる)せ。古(いにしへ)と今とそれ何か異ならむ。園梅(えんばい)を賦(ふ)して、聊(いささ)かに短詠を成すべし。

天平二年正月十三日、太宰帥旅人卿の邸宅に集まって、宴会を開く。

折しも、初春の正月の佳い月で、気は良く風は穏やかである。梅は鏡の前の白粉のように白く咲き、蘭は匂い袋のように香っている。そればかりではない、夜明けの峰には雲がさしかかり、松はその雲のベールをまとって蓋をさしかけたように見え、夕方の山の頂には霧がかかって、鳥はその霧の薄衣に封じ込められて林の中に迷っている。庭には今年生まれた蝶が舞っており、空には去年の雁が帰って行く。

そこで天を屋根にし地を席にし、互いに膝を近づけ盃をまわす。一室のうちでは言うことばも忘れるほど楽しくなごやかであり、外の大気に向かっては心をくつろがせる。さっぱりとして各自気楽に振る舞い、愉快になって各自満ち足りた思いでいる。

もし文筆によらないでは、どうしてこの心の中を述べ尽くすことができようか。諸君よ、落梅の詩歌を所望したいが、昔も今も風流を愛することには変わりがないのだ。ここに庭の梅を題として、まずは短歌を作りたまえ)

わが園に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも  ⑤822

主人(あるじ)  

(わが園に梅の花が散る、ひさかたの天から雪が流れてくるのだろうか) 

 序の作者については山上憶良説もあるが、詩文の特徴から旅人であることが有力である。このとき参会したのは三十二人、太宰府の官人と九州の国守、観世音寺別当の沙弥満誓らである。まず主催者の旅人が漢詩を読みあげ場の雰囲気を盛り上げた。早春の自然の風景が華麗に描かれる。そして眼前の梅の花を歌にしようと呼びかける。漢詩の序は、書家・王羲之(303~361)の「蘭亭序」の影響が指摘される。353年3月3日、王羲之は名士や一族を名勝・蘭亭に招き、総勢42名で曲水の宴を開いた。その時に作られた詩の序文として王が書いたものが「蘭亭序」である。奈良時代の役人は漢籍を読みこなし漢字を使いこなすばかりではなく、その精神世界にも通じ吸収することに努めた。中国の文人たちが開いた風雅の世界を自分たちも経験しようとしたのである。新元号「令和」の出典である「初春令月、気淑風和(初春令月にして気淑く風和らぐ)も、後漢の官僚で発明家であった張衡(78~139年)の『帰田賦(きでんのふ)』の詩句「於是、仲春令月、時和気清(是において仲春令月、時は和し気は清し)」を踏まえているだろう。

 梅は中国伝来の花であり、先進文明に憧れた貴族にもっとも好まれた花だった。平城京よりも大陸に近い太宰府で梅を題材に風雅の世界に遊ぶことに、参会者たちは高揚感を覚えたことだろう。三十二人の参会者はそれぞれに梅の歌を詠んだ。万葉集中の一番多数の歌が記録された歌宴であったという。漢詩と和(やまと)歌の融合した風雅が新たに誕生したのである。旅人はよほど気に入ったらしい。宴のあとにも梅の歌を追和している。

 中国では政治に志を得られなかった者が隠士となり、世俗を離れて風雅の境に安心立命するという伝統があることを旅人は知っていた。傷心の旅人にとって、風雅は大きな救いであった。政争のただ中にある京から離れた太宰府という土地と山上憶良のような歌友の刺激がそれを可能にした。このあと「松浦河に遊ぶ歌」や「松浦佐用姫の歌」など虚構性の強い題材で集団的な創作に旅人は励む。これも彼には風雅を生きることであった。

旅人最期の歌

 天平2年9月、大納言多治比池守が薨去する。ようやく旅人は大納言のポストを与えられて帰京できることになる。12月に太宰府を出発した旅人は京に近づくにつれ、3年前九州へ向かう際に妻とともに見た鞆の浦の景色を一人見る。その悲しさをいくつもの歌にする。3年ぶりに見る京であり昇進も果たしたが、心はずむものではなかった。失ったものの大きさと向きあうことでしかなかった。

故郷(ふるさと)の家に還り入りて、即ち作れる歌三首。

人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり  ③451

(人もいない空しい家は草枕旅にもまして苦しいものだ)

妹として二人作りしわが山斎(しま)は木高く繁くなりにけるかも  ③452

(妻とともに二人で作ったわが庭は木立も高くこんもりとなった)

吾妹子(わぎもこ)が植ゑし梅の木見るごとにこころむせつつ涙し流る  ③453

(わが妻が植えた梅の木を見るたびに胸がせつなく涙は流れる) 

 京の日常に戻ると妻のいない寂しさがいっそう身にしみてきた。もちろんそれだけではない。長屋王の不在による心の空洞は埋めようがなかった。天平3年には従二位に昇位したが、それは花道のようなもので、もはや手腕を発揮できる場はなかった。太宰府にいたときのように共に歌を詠む仲間もいなかった。大伴氏の行く末も気になった。迫る老いをひしひし感じたことだろう。喪失感をかかえ失意の日々をおくったのである。旅人最期の歌が詠まれた。 

三年辛未、大納言大伴卿の寧楽の家に在りて故郷を思ふ歌二首

しましくも行きて見てしか神南備の淵は浅せにて瀬にか成るらむ  ⑥969

(少しの間でも行って見たいものだ。明日香の神南備山のそばの川の淵は今は浅くなって、瀬になってしまっているかもしれない)

指進(さしずみ)の栗栖(くるす)の小野の萩の花散らむときにし行きて手向けむ  ⑥970

(栗栖の小野の萩の花が散る頃になれば明日香へ出かけて行って神奈備の神に手向けをしよう)

 旅人は7月に薨去した。歌はそれに近い頃の作と思われる。故郷の明日香の神奈備山と飛鳥川が浮かんでは彼を慰めるのである。「指進の栗栖」が何処を指すか不明であるが、そこは彼にとってふたつとない土地であった。萩は野山に咲き乱れて当時の誰にとっても親しい花である。時は秋の7月、その花が散る頃に「行って手向けむ」という。誰に手向けるのか。奈良時代には死者に「手向ける」という慣習はなかったらしい。土地の神に供えるということか。「散らむときにし」というのが自らの死を悟るような響きがある。 

平山城児「旅人の吉野賛歌」『セミナー万葉の歌人と作品 第四巻』(参考文献参照)所収
②井野口孝「旅人の報凶問歌」  同上
③伊藤益「沙弥満誓の歌」  同上

歌の引用と現代語訳は主に『新編日本古典文学全集 萬葉集①②』に拠り、他の文献も参考にしました。

 参考文献

神野志隆光坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第四巻 大伴旅人山上憶良一』和泉書院
中島真也著『大伴旅人笠間書院
中西進編『大伴旅人―人と作品』おうふう
東京古典研究会編『令月、時は和し気は清し』ミヤオビパブリッシング
小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集 萬葉集①②』小学館
渡辺晃宏著『日本の歴史4 平城京と木簡の世紀』講談社
新日本古典文学大系13 続日本紀2』岩波書店

 

号外「奈良の歩き方講座」開催!

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915日(日)は筆者の担当です。「『大和路』の発見と創造~和辻哲郎『古寺巡礼』、堀辰雄『大和路』、亀井勝一郎『大和古寺風物誌』を読む~」というテーマでお話しする予定です。

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100 日本の元号③近代篇

    一世一元の法制化

 〈明治〉の元号は慶応4年(1968)9月8日に公布されました。改元詔書には「・・・慶応四年を改めて明治元年と為す。今より以後、旧制を革易して、一世一元、以て永式と為せ・・・」とあります。慶応4年の元旦に戻って明治元年にするということです。ここで注目したいのは、「一世一元を以て永式と為せ」です。一世一元が初めて詔書の中で打ち出されました。これを提言したのは岩倉具視です。新政府の重臣たちの賛同を得て天皇が勅可されます。

 〈明治〉に決まったのは、賢所で神楽を奏しながら天皇自らお御籤を引いて決まりました。御籤で決めたというのは後先この一回だけです。明治というのはこれまで10回も候補に挙がっていました。

 明治5年(1973)12月2日の翌日から新暦(西暦)を採用して明治6年1月1日となります。この時に神武天皇即位紀元(紀元=BC660年)いわゆる皇紀の公用を施行しました。

 私年号の「延寿」(奥州列藩同盟)「自由自治元年」(秩父困民党)「征露二年」(日露戦争)も出現しました。

 明治22年(1989)に大日本帝国憲法が公布されるとともに、同時に皇室典範も制定されました。第十二条に「践祚の後元号を建て、一世の間に再び改めざること、明治元年の定制に従ふ」という元号について明記されました。

 その20年後に制定された登極令の第二条は「天皇践祚の後は、直ちに元号を改む。元号は、枢密顧問に諮詢したる後、これを勅定す」、第三条は「元号は、詔書を以てこれを交付す」とあり、改元について具体的な細則が設けられました。枢密院は天皇の諮問機関であって、ここで元号について審議し天皇が勅定し詔書を以て公布するということです。審議には内閣の全閣僚も陪審で加わります。元号天皇が決めて交付するという形は引き継がれます。この方法で大正と昭和の改元は実施されました。

    同日改元にこだわった〈大正〉〈昭和〉

 戦前に発行された『明治天皇紀』には「明治四十五年七月三十日午前零時四十三分、明治天皇崩御」とあります。しかし最近発行された『昭和天皇紀』には「明治四十五年七月二十九日午後十時四十三分、崩御」となっています。2時間早くなっているのです。どちらが事実なのでしょうか。後者が事実です。なぜこんなことが起きたのでしょうか。登極令には「天皇践祚の後は、直ちに元号を改む。」とありました。午後10時43分に崩御したのですからもうすぐに日が変わってしまいます。いくら急いでも29日中に改元手続きを完了させるのは無理です。「直ちに元号を改める」という記述を当時の人は践祚=即位との同日改元と解釈して、崩御時間をずらすということをやったわけです。

 改元詔書には「 ・・・明治四十五年七月三十日以後を改めて大正元年と為す・・・ 」とあります。そのまま読めば、七月三十日は大正ということになるのですが、まだ崩御していない零時42分も大正なのかという疑問が出てきます。実際そういう議論が学者の間で起きました。役所は7月29日までを明治とするという通達を出しました。しかしあえて改元の時間は明確にしないというのは昭和の改元でも踏襲されました。江戸時代までなら時間までは問題にならなかったでしょうが、近代の文書行政では何時何分ということが問題になる場面が出てきます。しかし神格化されていた天皇践祚改元というのは非常にデリケートな問題で「直ちに」というアナログな言葉で表すしかなかった、「何時何分から」という表現は相応しくなかったのでしょう。

 このとき明治天皇追号が奉られました。元号を以て公式の呼称とされるようになりました。

 〈昭和〉の改元では、事前に元号名の選定基準が示されました。宮内大臣の一木喜徳郎が考案者の吉田増蔵に示した元号案の選定基準です。
 
「①元号は、本邦は固より言を俟たず、支那、朝鮮、南詔(なんしょう)、交趾(こうし)等の年号、其の帝王、后妃、人臣の諡号、名字等及宮殿、土地の名称等重複せざるもの・・・②国家の一大理想を表徴する・・・③古典に出処を有し、其の字面は雅馴にして、その意義は深長・・・④称呼上、音調諧和を要すべき・・・⑤其の字画簡明平易なるべき・・・」

 これは〈平成〉や〈令和〉の選定したときの基準につながります。

 改元詔書には「・・・元号を建て大正十五年十二月二十五日以後を改めて昭和元年と為す・・・」とあります。

    政令による元号の公布

 敗戦後は「皇室典範」から元号の条項が削除されました。戦前は「皇室典範」は「憲法」と同格の存在であり、議会で審議することさえできなかったのですが、戦後は憲法下の法律の一つとして位置づけられるようになります。新しい「皇室典範」は皇室の身分・地位に関する取り決めに限られ、元号のような国事事項は外されました。新憲法の制定とともに元号についての法律を作る動きもありましたが、GHQによって止められます。元号の法律的な根拠があいまいになり、「事実たる慣習として昭和という年号が用いられている」状態が続きました。

 国の主権者が天皇から国民へ移りました。民主主義の社会では、元号は相応しくないという意見も起きます。しかし、国民の多数が元号を使用しているという事実がありました。この事実を背景に元号法が1979年に成立します。

「1 元号は、政令で定める。
 2 元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。
 附則 ・・・昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。」

 一番短い法律です。政令で定めるという規定から、元号を定める主体が天皇ではなくて内閣であるということが法律として明確になりました。「皇位の継承があった場合に限り改める」という規定で、一世一元のルールも引き継がれたわけです。

 元号の使用は国民の義務や強制ではないということも制定の過程で強調されました。しかし、役所や公立の学校では元号を使っています。これまでの慣習により統一しなくては不便だというのが政府の見解でしたが、改めて「公文書の年表記に関する規則」が平成6年(1994)に政府から出て明文化されました。そこには「公文書の年の表記については、原則として元号を用いるものとする。ただし、西暦による表記を適当と認める場合は、西暦を併記するものとする」とあります。

 元号を決める具体的な手順が「閣議報告」(昭和54年(1979))で示されました。そこに元号選定基準があります。
「○国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること ○漢字二字であること ○書きやすいこと○読みやすいこと ○これまでに元号又は諡として用いられたものでないこと ○俗用されているものでないこと」。これは昭和の改元の際に設けられた基準を踏まえています。

 元号選定の手順も明示されました。①考案者(若干名)が各2~5案を提出 ②内閣法制局長官の意見を聴いて、官房長官が数案選定 ③有識者の「元号に関する懇談会」で意見聴取 ④衆参両院正副議長の意見聴取 ⑤全閣僚会議で協議 ⑥新元号を記した政令閣議決定 ⑦天皇陛下の署名・押印で政令公布

昭和64年(1989)17日に昭和天皇崩御されました。ただちに今上天皇は即位され新元号は公布されました。大正・昭和のケースでは「1月7日をもって平成元年とする」となるのでしょうが、今回は翌日午前零時から〈平成〉を施行しました。同日改元同日施行から同日改元翌日施行に変わりました。

 〈令和〉改元は憲政史上はじめての退位による改元です。

 出典は『万葉集巻五』梅花の歌三十二首の詞書から「初春令月、気淑風和」です。天平2年(730)正月13日、太宰府長官大友旅人の邸宅に役人や文人が集まって宴会しました。そのとき梅を題材に詠んだ32人の歌が並んでいます。その詞書きにある漢詩です。国書からの初めての出典です。実は後漢の学者、張衡(78139)の「帰田賦」(『文選』)に「於是仲春令月、時和氣清」という漢詩があり、万葉集漢詩もこれを踏まえているようです。当時の漢字文化の受容は漢籍を手本にしてそれを真似るというのが基本だからです。

 「令」という文字が初めて使われたというのも話題になりました。「和しむべし」「和に令す」とも読めて、「号令」「命令」「法令」という熟語がまず浮かんできます。実は「令」を使用した元号案が過去に一つあり、それは「令徳」で幕末の改元の候補となったのですが、「徳川に命令する」と読めることから幕府が忌避して〈元治〉(1864)になったというエピソードがあります。

 日本の元号①古代篇
 
日本の元号②中世・近世篇

参考 所功元号 年号からよみとく日本史』文藝春秋1989 所功『年号の歴史』雄山閣1988 所功『日本の年号』雄山閣1977 山本博文元号 全247総覧』悟空出版2017 鈴木洋仁『「元号」と戦後日本』青土社2017 藤井青銅元号って何だ?』小学館2019 中牧弘充『世界をよみとく「暦」の不思議』イースト・プレス2019

099 日本の元号②中世・近世篇

    一元の使用期間が短くなる鎌倉時代

 元号は権力の正統性を保証するシンボルとなります。源頼朝は、平家が擁立した安徳天皇元号〈養和〉(1181)と〈寿永〉(1182)を認めず、〈治承〉(1177)を使い続けました。平家が西国に都落ち後鳥羽天皇が即位されると寿永を使うようになります。平家が関わった元号を拒否することで平家の統治の正統性を否定するわけです。

 平安後期の院政の時代から改元は急激に増えていて、鎌倉時代はもっとも頻繁に改元された時期です。平均すれば、一号あたりの使用期間は3年余りです。一番使用期間が短かったのは〈暦仁〉(1238)です。わずか74日です。これは「人が略される、つまり消えてしまう」という不吉な意味があるからということで変更されました。貴族の日記には「改元すでに年中行事の如し」という記述もあります。律令制は崩壊し新興の勢力が力をつけていく中で、相次ぐ天災や人災に有効に対処できない朝廷や貴族のあせりが改元という一種の呪術に向かったのでしょうか。

 まだ朝廷は力と権威を保持していたのですが、権力の中心は幕府に移りました。幕府は元号の発議や元号案に不快感を表明することはありましたが、室町幕府江戸幕府に比べると関与の度合いは少ないということです。

 「百人一首」も編み、新古今集を代表する歌人藤原定家が日記に面白いことを書き留めています。「年号改むといえど乱世を改めざれば何の益かあらん」「漢字を書かざる嬰児、この座(陣定〉に交わる」「議定の間、只興じて雑言を言ふこと猿楽の如し」。さすが大教養人の定家です。辛辣です。

    二つの元号が並立した南北朝

 南北朝時代に入ると南朝北朝で二つの元号が並び建ちます。古文書や遺物に残った元号を見てどちらの味方かわかります。〈建武〉(1334)は後醍醐天皇が決めました。王莽の乱を平定し後漢を開いた光武帝が建てた元号です。中国は王朝が変わるので同一元号がいくつもありますが、建武は5回使用されました。日本で「武」の字が入る唯一の元号です。北朝の〈至徳〉(1384)、〈嘉慶〉(1387)、〈明徳〉(1390)は、足利義満が決めたということです。

    兵乱を理由にした改元が増える室町時代

 室町時代は、幕府が改元の申し入れ、日時の確定、年号の選定などに介入しました。

〈応永〉(1394)は35年続いて、日本で3番目に使用期間の長い元号です。義満が求めた年号と異なったので、それを不服として以降の改元を行わせなかったという説があります。

 ひとつの元号の使用が長くなると、適当な時期に改元していくという意識があったようです。13年経ったので厄年にあたるから改元したというケースもあります。陰陽道の理屈をもとに、改元理由は何とでもつけられたようです。災異改元の理由は、兵革が圧倒的に多いのも室町時代の特長です。

    改元を理由に追放された将軍義昭

 戦国時代は朝廷が一番貧窮した時期です。財源がないので即位式大嘗祭もできないことがありました。貴族も京都を離れて地方に居場所を求め、改元に必要な人員が揃わない事態となりました。改元費用は幕府や大名が負担します。この頃に割合長く続く元号が出てくるのはこのような事情があります。

 改元をめぐって足利義昭織田信長の反目と確執がありました。〈元亀〉(1570)は信長に擁立されて将軍に就いた義昭が改元させました。そのあとすぐに改元の話が出るのですが、義昭が反対します。信長は義昭を追放しますが、その理由の一つに改元の費用を出さず改元させなかったことが挙げられています。この後すぐに〈天正〉(1573)と改元されました。

 東国で多くの私年号が出現するのが戦国の特長です。「福徳」「弥勒」「永喜」「命禄」などです。国人侍や僧侶らがつけたようで「福」「禄」「寿」などの文字が使用され、弥勒信仰や福禄信仰がうかがわれます。長くても1,2年ぐらいしか使われず、懸仏、仏像、写経の奥書に出てきます。

    改元の主導権を握った幕府

 〈元和〉 (1615) 大坂夏の陣直後に改元されました。秀吉が決めた〈慶長〉(1596)関ヶ原合戦の後も使用されたのです。右大臣秀頼の関与を嫌ったためでしょうか。元号をめぐって統治の正統性を争う様子がこういうところからも見えてきます。

 江戸時代は、幕府が改元に大きく関わりました。「禁中並公家中諸法度」(1615)の第八条に「改元は漢朝年号の内吉例を以て相定むべし、重ねて習礼相熟すにおいては本朝先期の作法たるべき事」という項目があります。これは大坂夏の陣直後に改元された〈元和〉が、唐の憲宗の元和を転用したことを正当化したと思われます。

 朝廷と幕府双方が改元を発議し、年号案と改元日の選定は事前に幕府の了解が必要でした。将軍の前で老中が検討し、幕府儒官の林家が専門的な知識を提供するという形で関与しました。改元詔書には記入されないのですが、将軍の代始改元とされるものがあります。〈寛永〉(1624家光)、〈承応〉(1652家綱)、〈享保〉(1716吉宗)などです。

 改元江戸城で大名に披露し領国に伝達されました。城下の触れをもって領民に告知され、一般民衆が元号を知るようになりました。元号と一般民衆との距離が近づいた時代です。

 改元費用は幕府が負担しました。〈元和〉は150石、後期は200400石ほどかかりました。災異改元の理由は火災が多くを占めます。京の内裏の火災や江戸の大火です。災異改元が前の時代よりも減っているので、1元号の使用期間も平均約7.3年と伸びています。

 狂歌元号に対する庶民の反応が見られます。「年号は安く永くとかはれども諸色高くて今に明和九(迷惑)」 「天保十六でなし是からどうか弘化(こうか)よかろう」 「世の中が安き政りと成ならば嘉永そう(可哀想)なる人がたすかる」

これは元号が普及したという証拠でもありますが、冷ややかな視線も感じます。

    「一世一元」論の登場

 江戸時代も中期になってくると、災異改元や革年改元への批判が出てきます。山崎闇斎元号選定の詮索が閑論議だとあげつらい、新井白石元号によって良い悪いが生じるはずもないと批判しています。やはり近代に通じる合理的な考え方が登場し始めたということでしょうか。

 中でも一代の天皇元号は一つにするという明治以後のあり方に結びつく明確な主張をしたのが、大坂の懐徳堂学主・中井竹山と水戸彰考館・藤田幽谷です。

 中井竹山は「改元ありてさして吉もなく、改元なくてさして凶もなし。・・・明清の法に従ひ一代一号と定めたき御事なり」と天明8年(1788)に述べています。さらに元号を以て天皇追号にする、記憶しやすいという長所も挙げています。

 藤田幽谷は「建元論」で、祥瑞、災異、革年改元は妄想であり、一代一号こそが理想であると主張します。18世紀末のほぼ同時期に似た主張が出たのですが、こういう考えが知識人の間にだんだん広がり、明治を迎えます。

 日本の元号①古代篇

 日本の元号③近代篇

参考 所功元号 年号からよみとく日本史』文藝春秋2018 所功『年号の歴史』雄山閣1988 所功『日本の年号』雄山閣1977 山本博文元号 全247総覧』悟空出版2017 鈴木洋仁『「元号」と戦後日本』青土社2017 藤井青銅元号って何だ?』小学館2019 中牧弘充『世界をよみとく「暦」の不思議』イースト・プレス2019

098 日本の元号①古代篇

    元号の起源と伝播

 元号はもともと年号と言いました。元号という言葉は比較的最近に使われるようになり、「元」は始まりという意味で「号」は名前を意味します。元号は、年の数え方(紀年法)として始まりと終わりがあります。西暦はキリスト生誕の年(実は生誕はBC4年)を起点にそれを紀元とし、その前後が無限にカウントされます。始まりと終わりは強いて言えば宇宙の誕生と消滅になるでしょうか。こういうシステムは他にもイスラム暦であるヒジュラ(聖遷=マホメットがメッカからメジナへ移住した西暦622年が紀元)歴、仏歴(紀元BC544)や神武紀元(紀元BC660)などあります。他に十干十二支のような60年を単位に繰り返されるシステムがあります。

 最初の元号は、中国の前漢武帝が紀元前140年に建てた〈建元〉です。それまでは皇帝の名前で即位元年から何年という数え方をしていたようです。武帝は5O数年の統治の間に11回も改元して、はじめは1元、2元、3元、4元と呼んでいました。だが数字ではなく祥瑞、すなわち天が徳政をめでて示した事象をもって呼ぶべきであると部下から進言され、漢字二字の年号を建てるようになりました。天子は空間のみならず時間も支配するという思想が根本にあります。

 約2000年の間、正統とされる王朝で354の元号が建ちました。もっとも広大な国ですから正統ではない王朝も入れると500以上の元号があるようです。1号あたりの使用期間は数年です。明、清朝で皇帝一代につき一つの元号、つまり一世一元になります。辛亥革命1911)で清朝が倒れ、元号は廃止になりました。最後の元号は〈宣統〉です。清朝の最後の皇帝が宣統帝であり、のちに満州国皇帝になった愛新覚羅溥儀です。

 元号は中国の周辺国にも漢字とともに伝わります。冊封体制下の国は中国の元号を用いて使節を送り貿易しました。独自の年号を建てることは中国からの相対的な独立を意味します。ベトナムにあった王朝は1000年にわたって独自の元号を建てました。新羅高句麗百済も独自の年号を建てた記録が残っています。しかし新羅が唐に使節を送ったとき独自の元号を用いていることを叱責されることがあり、それからはずっと朝鮮は中国の年号を使い続けます。

 元号君主制の廃止とともに使用されなくなります。現在、元号を使い続けるのは日本だけとなりました。

    〈大化〉は偽造の元号

 日本も中国の文明を取り入れて元号を建てます。最初の元号は645年の〈大化〉というのが通説です。中大兄皇子藤原鎌足が組んで蘇我本宗家を滅ぼした乙巳の変のあと孝徳天皇が即位します。即位して元号を建てるということで、代始(だいはじめ)改元と呼ばれます。大化とは広大な徳化という意味で、「大化の改新」という用語もこれからきています。しかし「大化」は奈良時代に編まれた『日本書紀』が偽造したという説が今は有力です。

 6年後に〈白雉〉と改元されます。長門の国から「白い雉」が献上されました。これはおめでたいということで改元されました。こういう改元を「祥瑞改元」といいます。儒教の思想で「天人相関説」があり、皇帝の徳が高く善政を行うとき天は祥瑞を下し、そうでなければ災いをもたらすというものです。朝廷の進める色々な改革がうまくいっているというアピールだったのでしょうか。

 元号は、次の斉明天皇天智天皇弘文天皇のときは建ちませんでした。天武天皇の686年に赤い鳥が見つかったことにちなんで〈朱鳥〉という元号が建ちます。これも祥瑞改元になるのですが、天武天皇はこのあとすぐに崩御します。だから、実際の動機は天皇の病気平癒を願ったものではないかという説があります。

 これらは7世紀の出来事ですが、元号はあまり使われた形跡はありません。この時代の木簡や金石文は、年を表記するのに干支を使っています。

 奈良時代の詔に「白鳳以来、朱雀以前」という言葉が出てきます。雉よりも鳳の方がめでたさのグレードが高いので使われたのでしょうか。〈白雉」と〈朱鳥」の元号は建ったが使用されなかった証拠になります。学術用語の白鳳文化、白鳳美術というのはこれから採用されています。

    律令による元号の制度化

 701年に〈大宝〉という元号が建ちます。対馬より金が出土し献上されたことを祝う祥瑞改元です。もっとも金出土というのはフェイクだったのですが。この年に大宝律令を制定し、そこに「凡そ公文に年を記すべくんば皆年号を用いよ」という条項が入ります。律令という当時の法律に年号が根拠づけられ、役所の文書はもちろん民間でも年号が使用されるようになります。

 8世紀の元号の特長は祥瑞改元が多いのが特徴です。瑞雲〈景雲、神護景雲、天応〉や銅〈和銅〉、金〈天平感宝〉、白亀〈霊亀神亀宝亀〉、霊泉〈養老〉といった祥瑞の出現をきっかけにしています。それが元号の名前に反映しています。亀の背中に天平という文字があったから〈天平〉、蚕がおめでたい文字を描いたから〈天平宝字〉というような手の込んだ祥瑞もあります。代始改元と祥瑞改元がセットになるのも恒例です。

 ちなみに祥瑞を伴う改元は7,,9世紀に19回行われました。祥瑞で一番登場するのが亀で6回あります。次は鳥、鉱物、霊泉、雲がそれぞれ3回、白鹿、連理木が2回、蚕が1回です。中国では四霊と呼ばれる4つの動物がありました。龍と鳳と麒麟と亀です。もっともよく元号に使われたのが龍、次が鳳、そして麒麟、亀はわずか1回です。日本では亀だけが登場するので、こんなところに両国の違いがあります。

 また4文字元号がこの時代だけに5つ続いたというのも目立ちます。これは同時代の唐の則天武后が皇帝となったとき4文字年号が使われたことの模倣です。孝謙天皇称徳天皇の時期ですから、女性であることを彼の地のケースを真似て正当化する意識があったのかなと想像します。

    元号決定のプロセス

 元号はどのように決められたかという具体的な手順は、平安時代中期以後の記録が残っています。

 ①天皇の勅を受けて大臣が文章(もんじょう)博士や式部大輔に年号案の勘申(かんじん)を命じる。文章博士は大学寮に属する学者で史書や詩文の専門家です。式部大輔は儀式を担当する官庁の次官で漢籍に通じています。 ②勘申者は漢籍から好字を選んで「年号勘申文」を提出する。選んだ元号とその出典を書いたものが「年号勘申文」で、元号を考案する人が勘申者です。 ③原案は「陣定(じんさだめ)」と呼ばれる公卿の会議にかけられ、一つずつ難陳(なんちん)を行い2,3案に絞る。蔵人を通してそれを奏上する。難陳というのは、短所と長所を議論しあうということです。 ④天皇は一つに絞るように命じられます。 ⑤公卿は議事を再開し一案に絞り奏上します。 ⑥天皇はそれを承認し、勅書を作ることを命じられます。

 天皇が意見を述べられることもあります。時代によって実権を持つ者の意向がこれに加わるのですが、形式としてこの手順は江戸幕末まで変わりませんでした。元号天皇がお決めになる、すなわち勅定されるという原則は昭和の改元まで続きます。

 大化から令和まで日本の公元号は248元号北朝含む)あります。この間天皇は91代+北朝5代。1年号あたりの使用期間は5年余り。一代あたりの改元回数は2.6回です。
 
改元回数が多いトップは、後花園天皇が36年で(在位14281464)8回改元しました。孝明天皇は21年間で(在位18461866)6回改元しています。

 文字は中国の古典から採用されました。『書経』『易経』『文選』『後漢書』『漢書』がベスト5です。儒教の経典と歴史書に集中しています。

 使用された漢字73字。多い順に永29、元27、天27、治21、応20、正19、長19、文19、安17、延16、暦16となります。

 判明している考案者は、藤原姓80名、大江姓17名、菅原姓121名。室町時代以降は菅原氏の系統に独占されます。

    革年改元と災異改元の恒例化

 平安時代の初期は一世一元のケースが続きます。明治からはそうなっていますが、それ以前では珍しいことです。桓武天皇平城天皇嵯峨天皇淳和天皇清和天皇陽成天皇、 光孝天皇宇多天皇です。

 代始改元ではいつ改元を行うかが重要な問題になります。今は天皇の即位とほぼ同時に改元されているのですが、これも長い元号の歴史では例外です。平城天皇は即位と同日に〈大同〉(806)に改元されたのですが、このとき批判がありました。「一年のうちに元号が二つあると二人の天皇に仕えなければならないので混乱する。孝子の情に反することである」。これ以後、即位の翌年に改元する瑜年(ゆねん)改元というルールができました。中国では瑜年改元なのでその慣習に従ったと思われます。

 平安時代に入って出現したのが革年改元です。干支の辛酉と甲子にあたる年は様々な事件が起き政治が乱れるという讖緯説に基づきます。中国で生まれた思想ですが、人心を惑わす考えだということでこの説を説いた緯書は禁書になりました。この説を持ち出して改元するべきだと主張したのが、文章博士三善清行です。最初の革年改元は901年の醍醐天皇の治世の〈延喜〉です。901年というのは菅原道真太宰府に左遷された年です。陰謀の主役は左大臣藤原時平ですが、三善清行も加担して辛酉革命説をそれに利用したことがわかっています。清行の勘申文が残っています。過去の辛酉の年にはこんな事件があったという事例を並べているのですが、かなり捏造されているとのことです。甲子の年にも変事がある(甲子革令)との説から改元されました。両者は革年改元と称され恒例化して江戸幕末まで30回繰り返されました。

 京では道真左遷に関係した者に不幸が続き、道真の祟りだとして恐れられます。醍醐天皇の治世に日照りと水害、疫病を理由に最初の災異改元〈延長〉(923)がありました。

 10世紀は日本の改元の歴史の中で画期となった時期です。祥瑞改元が消え、革年改元が恒例化し災異改元が爆発的に増えます。疫病、風水害、火災、厄年、旱魃地震、兵革、彗星出現、飢餓などを理由とします。平安と鎌倉時代は疫病が一番多くて、理由となった回数は大体ここに並べた順番です。

 道真の進言で894年に遣唐使派遣が中止され、10世紀以降に国風文化が育っていくというのが定説です。元号もこの時期から「国風」化が進むのでしょうか。

 元号の決定権は、天皇が幼ければ摂政、そして実力のあった関白、上皇法皇へ移っていきます。

 日本の元号②中世・近世篇

 日本の元号③近代篇

参考 所功元号 年号からよみとく日本史』文藝春秋2018 所功『年号の歴史』雄山閣1988 所功『日本の年号』雄山閣1977 山本博文元号 全247総覧』悟空出版2017 鈴木洋仁『「元号」と戦後日本』青土社2017 藤井青銅元号って何だ?』小学館2019 中牧弘充『世界をよみとく「暦」の不思議』イースト・プレス2019

097 元号の凋落と西暦の標準化

 平成から新元号改元が迫る。退位による代替わりのため昭和の終わりの時のような自粛ムードはなく、新元号についても堂々と話題にできる。巷では新元号の予想クイズが盛況だという。ほぼたしかに予想できるのは、頭がさ行、た行、は行、ま行の読みの元号はないだろう。アルファベットのS(昭和),T(大正),H(平成),M(明治)との重なりを避けるためである。

 紀年法として日本では元号と西暦(グレゴリオ暦)が併用される。敗戦後、日本国の主権者が天皇から国民に替わったことから、権力者が時間と空間を支配するシンボルである元号への反発もあった。しかし、国民の多数が元号に愛着感を持つという事実を背景に、「元号法」が1979年(昭和54)に成立、元号に法律的な根拠が与えられるようになった。その頃の政府のアンケート調査では、国民の9割近い人々が西暦より元号を普段使用しているという数値が出たらしい。あの頃は元号使用派が圧倒的多数であったことは了解できる。昭和生まれが多数を占める中で、金魚が水槽の外に出られないように昭和という時間の中で私たちは呼吸していたのだ。

 あのアンケートを見て思うのは、時代は変わったなと言うことだ。読売新聞が1989年(平成元年)に行った調査では、〈元号を使いたい64% 西暦を使いたい28%〉という数値が出た。同じく2018年(平成30年)は、〈元号を使いたい50% 西暦を使いたい48%〉であった。今年の朝日新聞の調査では、〈新元号を使いたい40% 西暦を使いたい50%〉ということである。

 元号使用派vs西暦使用派の勢力地図は、この40年間で様替わりした。これは誰しも認める事実だろう。私自身の感想で言えば、元号使用派がまだ半数近くあることが意外でさえあった。たとえば、1995年の阪神大震災とオウム・サリン事件、2001年のアメリカ同時多発テロ事件、2011年の東日本大震災と覚えていても、これらが平成何年であったかは直ぐに浮かんでこない。年数を数えるのはもちろん、今年は何年と意識するのも西暦を使う。たまに役所の窓口で年月日を記入するときに平成という年号を意識するぐらいである。

 私が西暦派になったのはすでに昭和の終わりが見えてきたころからであるが、決定的になったのはやはり平成に替わってからである。社会も私自身の日常も昨日と今日変わりなく連続しているのに、年号が突然変わって年数がリセットされ元年から始まる。新しい年号を寿ぐような気持にはなれなかったし、一種の儀式として他人ごとのように感じた。1989年として迎えた年を1月8日から平成元年と意識変換することもなく、そのまま今日に至っていると言えばいいか。

 元号というのは時間に断絶を作る。始まりと終わりがあって、その前と後の時間とのかかわりを断つ。そのことにむしろ積極的な意味がある。気分を一新するのは悪いはずもないが、年数を数えるという用向きではまったく適さない。平成改元によって、それを身をもって体験したのである。

 平成元年が1989年であったことも都合が悪かった。昭和元年は1926年であったから西暦年との差を25として比較的変換が容易であった。さらにミレニアムをはさむことで面倒になった。逆に西暦は世紀末と新世紀を迎えるイベントで存在感を増した。

 元号の存在感の凋落は、元号最盛期であった昭和の後半から実はきざしていたように思う。昭和20年代、30年代という言葉はよく使われるが、40年代、50年代とはあまり聞かない。私は昭和27年の生まれであり、この時代を過ごしてきたのでよくわかる。昭和40年代というよりも1960年代、70年代という表現にリアリティがある。そして80年代、90年代、ゼロ年代と続く。

 高度経済成長以後、私たちの時代意識に根本的な変化が生じた。元号という日本だけで通用していた時間=空間意識は、地球上の世界にひろがったのである。日本にいても世界は情報としても物質的にも日常生活に入り込んでくるようになった。いわゆるグローバル化はこのころより始まっていた。世界との同時代性を意識せざるを得なくなったといえる。

 デジタル化の進行とともに、この流れは強まることはあっても逆戻りすることはないだろう。西暦が事実として標準となり、元号は今後役所の公文書の中で棲み続けるということになりそうだ。

096 奈良から始まった作家・森敦の放浪

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 作家、森敦(1912-1989)が亡くなって今年で30年になる。『月山』で第70回芥川賞を受賞したのが昭和49年(1974)、敦が62歳の時である。それ以後、精力的な執筆活動のほかにテレビやラジオへの出演、対談や講演などにも活躍し、時代の寵児的な存在となった。還暦を過ぎての「デビュー」ながら、おかっぱ頭で少年のような風貌、超俗然とした印象にして巧みな話術の持ち主、世間の注目を引くに十分な要素をそなえていたが、なにより強く彼を彩ったのはその経歴であった。

 森敦は明治45年(1912)、長崎市に生まれた。生家の家業の都合で植民地の朝鮮に渡り、その地で小学校と中学校の学業を修める。昭和6年に旧制第一高等学校に入学したが、翌年に退学、横光利一に師事して文学修行、22歳で大阪毎日新聞に「酩酊船」を掲載し注目された。若き日の太宰治檀一雄らと交流があり同人誌をつくる。しかし、それ以降、文壇の表舞台からは消え、日本各地を放浪して過ごした。40年間の雌伏を経た「再デビュー」であった。その数奇にしてユニークな人生に興味が向かうのも当然である。

    東大寺塔頭勧進所へ寄寓

 彼の年譜を見ていると、「昭和11年(1936)24歳、奈良、瑜伽山(ゆうがやま)の山荘で暮らす」という項目がある。瑜伽山奈良公園の荒池の南を限る小さな丘である。中世の山城が築かれた場所であり、今も樹木に覆われた頂近くには瑜伽神社や天神社が鎮座する。森敦と奈良とのつながりを見ていくことにしよう。

 彼のエッセイの中に奈良で過ごした時のことが出てくる。奈良に来るきっかけを作ったのは、兵本善矩(ひょうもとよしのり)という奈良・五條出身の文学青年であった。森が東京で同人誌仲間の壇一雄太宰治らと疾風怒濤の無頼の日々を送っていた頃、兵本の小説「靫の男」が小林秀雄の推挽で「文藝」に掲載された。誰もがその才能に目を見張ったという兵本は、奈良・高畑の志賀サロンの常連であり、奇行の持ち主であった。上京した兵本は同世代の森の仲間らとつきあいさんざん手こずらせたようだ。彼から東大寺の上司海雲が面倒を見るから奈良に来ないかという手紙が来たのである。その時、「いままでの生活をふっきる絶好の機会だ」(『わが青春わが放浪』)と思ったらしい。

 昭和10年(1935)7月、森は上司海雲の住む東大寺塔頭勧進所に寄寓する。上司はのちに東大寺の管長になり大仏殿の昭和の大修理を手がけた人である。志賀直哉を始め多くの作家、芸術家らと親交があり、彼らから慕われた。森も回想記の中で上司の「気がやさしく大らかで面倒見の良さ」を偲んでいる。上司は勧進所にいた頃を「悪質の禅坊主や不良文学青年を居候において、ご乱行と自称して破戒無慙な日夜を送っていた」とのちに書く。ここでもまた青春の彷徨する日々があった。 

 松原恭譲師の東大寺戒壇院で行われた「華厳経五教章」の講義を森は聴聞している。その講義は1時間やって1行か2行しか進まないものであった。森は自らの文学理論を華厳経の「一即一切 一切即一」を用いて説明するのが常であったが、森と東大寺の出会いに不思議な縁を感じる。森が奈良に移ったのは偶然であろうが、もともと彼には仏教への傾倒があり、それが奈良とのつながりを用意したのだろうか。

 勧進所ではもうひとつ大きな出会いがあった。生涯の伴侶となる前田暘と恋仲になった。暘は奈良女高師附属高女に通う女学生であった。亡くなった父が、上司の学んだ龍谷大学の恩師と京大で同窓であったという縁で、母親と一緒に勧進所へ遊びに行くことがあり、お互い見初めたという。

    瑜伽山の山荘へ移る

 森が勧進所にいたのは半年ほどで、上司が結婚したため、瑜伽山へ移る。瑜伽山の描写を彼のエッセイから引用する。

 「奈良公園には志賀直哉のいた高畑から、鷺池、荒池に沿って南を限りながら延びる丘陵がある。瑜伽山はそれが奈良ホテルに至って尽きようとするあたりの称で、わが山荘はしばしば方丈を偲ばすねとひやかされたりしたものの、松林におおわれ、いながらにして眼下に拡がる僅かな町家の彼方に、たたなずく青垣に抱かれた大和盆地の全円を見はるかし、眉のように引かれた大和三山を遥かに眺めることができる。」(『わが青春わが放浪』)。瑜伽とはヨガのことでこの地名も彼の関心を引いたに違いない。というのも瑜伽の意味を論じる森の文章を我々はよく読むことになるからである。

 明治39年生まれの奈良の写真家、北村信昭の著書『奈良いまは昔』に森が仮寓した家の写真が載る。おそらく瑜伽山の南の路地から撮ったものだろう。手前に路地の家の瓦屋根が写り、そう遠くない高台にガラス戸の長い縁側と切妻屋根の家が仰観できる。背の高い松がまわりに伸びる。撮影年は不明だ。少なくとも1983年(昭和58)までは、この家はあったようだ。森の養女である森富子が編んだwebの年譜に写真があって、それには家の南側の崖が崩れて縁側が浮いたようになっている様子が写る。地元の人が森敦に郵送したようで、封筒の消印は昭和58419日とあったらしい。

 現在、瑜伽山の高台に森が借りた家はもちろん他の民家も存在しない。しかし、その場所は推測できる。瑜伽神社の東に修復した跡もまだ新しい斜面が広がる。そこに彼の住んだ家があったのだろう。路地の両側には古い民家が残り、昭和の雰囲気が濃厚である。

 森が奈良をいつ引き揚げたかはわからない。エッセイでは奈良に10年過ごしたと書くが、昭和15年には東京の富岡光学機械製造所に就職しているから、奈良にいたのは長くても3,4年だろう。この間、ずっと奈良にいたのではなく、奈良を拠点にして捕鯨船などの漁船に乗ったり、樺太に渡って北方民族と生活したりしている。幼稚園を経営していた叔母・細川武子から家購入のためにと貰った大金四千円を生活費につかったようだ。

    瑜伽山時代の暮らし

 森富子の編んだ年譜に次の一節がある。

 「ここでの生活は浮世ばなれをしていて、信じがたく「嘘くさい!」を(私=森富子は)連発していた。芸妓の福造が山荘に来て髪をとかし着物の襟を整えたという。食事は手を叩くと、山荘の裾野に並ぶ家々の女性たちが、お銚子つきのお膳を持ってきたという。「お願いしたわけではない」と言い、後年訪ねる機会があって訊くと、「当番を決めてお膳を運んだ話は、親から聞いています」と応えた。嘘ではなく本当だったのだ!」

 『奈良いま昔』に奈良時代の森の暮らしをうかがえる文章がある。山荘というのは地元の人の離れ家で、当時は台所と居間の二間だったという。

 実は森の借家のほんの近くに前田暘の一家が住んでいた。「食時になると、(前田)夫人は門口に立ち、瑜伽山の頂にある一軒家を仰ぎながら、ポン、ポン、ポン、ポンと拍手するのが日課だった。その合図に応えて、二十四,五歳の青年が、その都度、瑜伽神社の石段をおりて来る」とは、北村が当時のことを知る地元の人から昭和49年に聞いたことだ。また、よく利用した書店の店主は「いつも着物をキチンと着て、折り目正しい青年だった。非常に勉強もするし、本も読む。書生っぽい人で、一面、なかなか大きな話をする人だった」と話す。

 北村自身は森とのつきあいはなかったが、共通の友人である兵本からモリ・トン(仲間からはそう呼ばれていた)のことは「耳にタコができるほど」聞かされた。「相当の毒舌家であった兵本善矩君だが、この森さんだけは非常に高く買っていた。彼がいかに横光利一門下の秀才であるかを、私も何回となく聞かされていた。………。“万巻の書を読んだ”という表現で森氏の読書家ぶりが紹介された…」

 吉野出身の詩人で夭折した池田克己も瑜伽山の森を訪ねている。彼が森について後年語った言葉が、森の『文壇意外史』の中に出てくる。池田が森を訪ねたとき詩人の北川冬彦が居合わせた。「あのときは、ほんとに驚きましたよ。ぼくとほとんどおなじとしの違わぬ森さんが、北川さんほどの人をつかまえて、『ものを書くには、頭で考えるんじゃない。頭と指の先までの距離で考えるんだ。それにはこうして和紙に毛筆で書くのが、ちょうどいい考える速度だ』なんて言って、ゆうゆう水滴をとって、硯に水を入れたりするんですからね」。森の異才ぶりを彷彿とさせるエピソードである。

 森が奈良にいたときは志賀直哉の高畑時代と重なるが、いわゆる高畑サロンとの接触はなかったようだ。しかし、直哉一家を公園で見かけたり、二月堂の茶屋で酒をご馳走になったことがあるという(『わが青春わが放浪』)。

    奈良再訪

 大和郡山へもよく遊びに行ったという。本通りにあった「こんにゃくや」という店で牛すきを食べたことを懐かしんで、芥川賞を受賞した後の奈良再訪でわざわざ訪ねている。店は残っていたが、「僅かばかりの玩具や漫画本を並べた」小店に変わっていて、店の老女と昔を語る(『わが風土記』)。

 奈良再訪の際の事実かフイックションかわからぬ瑜伽山にまつわる奇妙な話を森は書いている。荒池の横を瑜伽山に行こうとすると、釈迦十大弟子さながらの痩せた見知らぬ老人が出てきて声をかけられた。山荘は昔のままにあって老人が一人で住んでいるという。山荘へ行こうと誘われ、「奥さんはお元気ですか」とまで尋ねられる。森はこれから行くところがあるからと断ると、老人はあえて勧めず「にこやかに笑い、ひとり瑜伽山の山荘へ向かうがごとくであった」(『わが青春わが放浪』)。

 妻、暘の母の故郷は山形酒田であった。これがため、森は山形に導かれ庄内平野を取り巻く月山や鳥海山を舞台とする後の森文学が生まれた。奈良は小説の舞台とはならなかったが、奈良での出会いが森文学を準備したといえる。

   下北山村でダム建設

 森と奈良とのコンタクトはもう一回あった。1957年に電源開発株式会社に入社し和歌山県尾鷲市の連絡所に赴任する。奈良県吉野郡下北山村下池原で始まった池原ダムの建設のため下北山村に滞在したのである。森は45歳になっていた。仕事は渉外、用地買収での村人との交渉だったという。3年4か月の勤務ののち退職している。森はここでの体験をもとにした小説を書きたいと対談で話したりして、実際に執筆に着手したが完成しなかったようだ。

   森敦仮に宿りし瑜伽山大和三山眉の如しと

   公園に直哉の一家敦見き昭和初年の奈良の某日

   熊野なる屋根に石置く山村にダムを作りて敦の三年

 参考 森敦著『わが青春わが放浪』福武書店1982年 森敦著『わが風土記福武書店1982年 森敦著『文壇意外史』朝日新聞社1974年 北村信昭著『奈良いま昔』奈良新聞1983年 森敦資料館http://www.mori-atsushi.jp/

 

095 日本最大の円墳、富雄丸山古墳

富雄丸山古墳頂上
丸山古墳頂上からの眺望

 富雄丸山古墳(奈良市丸山1丁目)の奈良市埋蔵文化財センターによる発掘調査の現地説明会が1月26日にあった。古墳のそばの公園で全体説明があり、そのあと古墳の頂まで上り下りして現地を見学した。筆者はこの古墳の近くに住んでいるが、普段はフェンスがめぐらされ雑木で覆われた小山という印象である。今回、古墳の敷地に入ってその大きさと形を実際に知り、その頂から眺望するという貴重な体験ができた。

 富雄丸山古墳は1972年、周囲が住宅開発されるときに県教育委員会によって調査された。4世紀後半に築造された円墳で直径86m、三段に掘りくぼめられた粘土槨に木棺が埋葬されたこと、円筒、蓋、家形埴輪等があったことがわかっている。京都国立博物館に所蔵される丸山古墳の副葬品には、刀子、斧、ノミ、ヤリガンナなどの石製模造品、鍬形石、碧玉製合子があり、重文に指定される。また丸山古墳出土とされる舶載三角縁神獣鏡天理大学参考館に3面、地元の弥勒寺に1面保管される。

 築造時期の4世紀後半は、大型古墳群の場所が奈良盆地南東部から北部へ移った時期である。佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群の五社神古墳(神功皇后陵)や宝来山古墳(垂仁天皇陵)なども同じころに築かれ、丸山古墳はこれら大王級の古墳と近い距離にある。

 一昨年の空からのレーザー測量により、丸山古墳の直径が110mあることが新たに判明した。この数値は円墳として国内最大であり俄然注目されるようになったのである。

 昨年12月から再発掘調査が始まった。4つの発掘調査区が設けられ、古墳の規模と形状、副葬品が調べられた。古墳の裾と見られる地点が確認され、これから直径109mと復元された。なお調査は5年計画で進められるためにこの数値はまだ確定したものではない。

丸山古墳葺石
葺石

 古墳は地山の尾根を利用して三段に整形し盛り土してある。斜面の敷石は多くが崩れていたが、近くの富雄川の小石であり、他の古墳の敷石に比較するとかなり小さいらしい。一段目の平坦部の幅は約7.2m、二段目が約8.8mと、この大きさは大王級の古墳に匹敵するという。平坦部の中央からは円筒埴輪の欠けた基底部が出土した。被葬者を囲い込むように約20cm間隔で並んでいた。

富雄丸山古墳円筒埴輪
2段目平坦部の円筒埴輪

 東北部に造り出しがあった。現説資料の地図から計ると縦幅約15m、横幅約43mほどの大きさである。いわゆるホタテ貝型古墳とするには方形部が小さすぎる。円墳にしてこのような造り出しを持つものが他にあるのだろうか(追記参照)。前方後円墳の造り出しは祭祀を行った場所とされるが、この造り出しも同じ使われ方をしたのだろうか。造り出しの西側は二段となり、平坦部は幅約3.8mあった。その中央から円筒埴輪列が検出された。埴輪の間隔は約10cmである。

富雄丸山古墳造り出し
造り出しの基底石

 墳頂部の墓壙も表面が調査され、その輪郭の位置情報が確認された。今回の発掘調査では一般参加の体験学習が実施され、墳頂部の調査に延315名の市民が参加した。ここからは鍬形石、管玉、鉄器、埴輪の破片が検出されている。

 調査範囲の木は根元から刈られ草も払われている。土がむき出しになって、そのスケール感を体感できる。高さ15m、半径55mの円墳と言ってもピンとこないが、裾から見上げるといかに巨大であるかがわかる。さらにその山肌を一歩ずつ登ると親近感が湧いてくる。1600年前の人々の土木工事、山を削り均し土を盛りあげる、河原から石を運び敷きつめる、埴輪を作り並べるといった作業が目の前に浮かんでくるのだ。

 頂上からの景色は素晴らしかった。眼下北には富雄川をはさんで「道の駅」予定地の駐車場、イオンタウンの商業施設が広がる。西には第二阪奈道路の高架道が伸びる。遠景の丘陵には新興住宅地の住宅群。急速に変貌する故郷の風景である。高架道と重なるように暗(くらがり)越奈良街道が通っている。北大和と難波を結ぶ主要街道であり、古代から多くの往来があっただろう。丸山古墳は富雄川と奈良街道が交差する要衝に築かれた。この地域を支配した豪族と思われるが、古墳の規模と副葬品の豪華さから相当の勢力を誇った人物だったのだろう。

    富雄川河原の石を敷きつめて山肌覆う丸山古墳

    かたはらを第二阪奈の高架過ぐ街道沿いの古墳に立てば

    円墳の裾はこことや調査員指さす先にかすかな段差

富雄丸山古墳発掘調査区
丸山古墳発掘調査区

参考 現地説明会資料 奈良歴史漫歩No034「直径86m=最大規模の円墳、富雄丸山古墳」http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm037.html

追記 寝屋川市太秦古墳群(5世紀中葉~6世紀前半)にある太秦高塚古墳(直径37m)は造り出しを持つ。富雄丸山古墳とそっくりの形状で古墳北西部に付属する。